北一輝との関係考

 (最新見直し2006.1.9日)

【北一輝と大杉栄の親疎関係考】

 「北一輝と大杉栄の親疎関係」に着目し、「北一輝と大杉栄についての考察」なる名文がある。こけを転載しておく。

 大杉栄もまた著者にとっては興味をひいてやまない人物であるが、彼は幸徳秋水の門下であり、幸徳亡き後は日本における無政府主義者の第一人者である。北一輝が支那革命に深入りしていくなかで、所謂翻訳的社会主義者(堺利彦や山川均など)たちと北一輝の間が疎遠になっていく中で大杉栄だけが北一輝の話に耳を傾けたといってもよい。

 大杉が北の思想に理解を示したかどうかは定かではないが、少なくとも北の行動に興味をもったことは確かである。まぁ、どちらも社会主義界のアウトロー、一匹狼として牽制し合いながらも惹かれるなにかがあったというべきであろう。

 友情とまではいかないが、一目置く存在であることは意識していた。北一輝と大杉栄の交流を示す資料はきわめて少ないが、はっきりしていることは北一輝が大杉栄の惨殺事件(大杉栄と妻の伊藤野枝が関東大震災のどさくさで憲兵隊の甘粕大尉に惨殺された事件)に対して深い悲しみと怒りをもったということである。

 北一輝と大杉栄の人間関係面はこの辺にして本論に入っていこう。

 一般論見方として北一輝と大杉栄の国家観については次のようになる。北一輝にとっての社会主義革命=第二維新とは個人主義の徹底化にほかならず、王政復古派の絶対権力を打破することの帰結として「国家」の否定があった。しかし北一輝が無政府主義に至ったのではない。北が否定すべき国家とは封建社会を形成する「前近代的国家」であり、目指すべきものは「個人の主体的自由」を実現する「近代国家」であった。

 北一輝と大杉栄の共通点は封建的現体制の否定である。しかし相違点は「個人の主体的自由」を北は近代国家の成立に託したのに対し、大杉は国家そのものの死滅を目指したのである。北にとっては悪しきは国家ではなく、国家権力を牛耳る支配階級であるのに対し、大杉にとって悪しきは国家そのものであった。

 両者は封建制国家を打倒するための共同戦線を組むことはできても、打倒後の新たなる新体制においては必然的に権力闘争を繰り広げなければならぬのである。だから両者にとっては・・・・・・・・・・・・・・・・。

  このような北一輝と大杉栄の国家観の相違点は解りきったことであり、このことを強調するためにわざわざ一つの章を設けたわけではない。著者がこだわるのは何か?それはつまり・・・・、いや簡単な説明よりもまずは以下の文章を読んでいただきたい。

北一輝  「マルクスとクロポトキンとを墨守する者は革命論に於いて羅馬法王を奉載せんとする自己矛盾なり」
大杉栄  「いかに自由主義をふりまわしたところで、その自由主義そのものが、他人から借りて来たものであれば、その人はマルクスの、あるいはクロポトキンの思想上の奴隷である」

  両者の思考性に共通するのは自らの思考・考察・探求が根本にあり、外的影響・出会いによって思索行為を始めたのではないということである。別に真に他からの影響を一切否定したオリジナルなものを主張しているのではなく、他からの影響も自らの思想を強化するための手段にしかすぎないのである。自らの思索行為こそが根本であり、その大前提があってこその他からの影響なのである。他人の思想はあくまでも他人の思想であり、自らの思想ではない。それが欧米のものであればなおさらである。他からの影響が自らに必要なのはあくまで基礎固めの段階であり、基礎が固まってから先は己の独創性の勝負である。これらの基本的大前提があってこそ初めて主体性の強化、思想の自立性を主張することができるのである。

 この姿勢なくして「・・・曰く」という翻訳的姿勢に終始しているうちは自らの内なる封建制の殻を破ることなどできないのである。日本において個人主義に根ざした近代化を目指すのであれば、その思考スタイルを「私はこう思う・・・、こう考える・・・、」と一人称から始まらないうちは封建制の打破などできないのだ!という両者の確信である。

 つまり変革者を自認する者は自らの思考スタイルの封建制を打破することが先決であり、この思考スタイルの変革=「文化革命」なくして社会革命を論じるなど言語同断であるということである。北一輝と大杉栄にとっての主体性の強化・思想の自立性とはこの文化革命の必要性を説いていると解釈すべきであり、そう読みぬかねばならないである。  
 
 ここでも著者は所謂北一輝論においての北一輝と大杉栄に関しての記述に批判を加えずにはおれないのである。 
 

 「北一輝と大杉栄の発言(先に著者が上げたものを指す)共通性は、自己を絶対とし、その自我生命の充足を求めて思想構築せんとした二人の思想家の等質性によるのである。」などと両者のカタルシス的姿勢を強調して唯我独尊的資質を北一輝と大杉栄の共通点であると短絡的に括られては死んだ二人も報われないであろう。彼ら両者はただ、「一般化した理屈をだれにでも当てはめようとするとかなり乖離したものになる。これはおれとは違う。」という単純な認識が自己において明確に解っていただけである。 
 

 以上が北一輝と大杉栄の思考性に関しての著者の考察である。  
 

 最後に大杉栄のことばを紹介してこの章を終えることにしよう。

 「個人的思索を欲しない輩は、いわゆる衆愚である、永遠の奴隷である。歴史を創ることなくして、歴史に引きずられてゆく、有象無象である。僕らとはまったくの他人である」。




(私論.私見)