1928年検事調書(予審訊問調書)」考

 (最新見直し2009.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ1)


 2002.10.26日、2009.5.19日再編集 れんだいこ拝


「故野坂参三氏の1928年検事調書(予審訊問調書)」考 れんだいこ 2002/05/30
 2002.5.30日れんぱるの「人生学院」掲示板への飯田橋学生さん投稿により、『野坂参三予審訊問調書──ある政治的人間の闘争と妥協の記録』(五月書房)(井上敏夫編)が出版され、「加藤哲郎のネチズンカレッジ」で、加藤教授が書評しているとのお知らせが入った。これを読んで以下のように咀嚼して見る。

 2002.4.3日少し前外務省外交史料館で、「故野坂参三氏の1928年検事調書(予審訊問調書)」が「発見」された。この「発見」がなぜ重要なのか。それは、野坂が日本共産党指導者然としてふるまった歴史の総括において、実は野坂が当局のスパイであったことは今日揺ぎ無い真実として、その始発をいつの頃に定めるのか、その「転落」の因果関係を解明するのに「故野坂参三氏の1928年検事調書」が非常に重要な資料となっているからである。よくぞ発見されたという思いが募る。

 付言すれば、宮顕の「小畑中央委員査問致死事件」の当事者の検事調書(予審訊問調書)はまだ一部しか漏洩されていない。逸見、秋笹、木島らのそれは一部であり、熊沢、小俣のそれらは全く公開されていない。宮顕の調書についてはあるのかないのかさえ判明していない。途中、合同公判期日が迫った頃に決まって重病に陥ったとされているが、その時どこに収監されていたのか、その時の担当医師の所見なぞ全てがヴェールに包まれている。

 さて、「故野坂参三氏の1928年検事調書(予審訊問調書)」には、野坂氏がこの時の取調べ時において、当時の日本共産党が要のような方針としていた「君主制廃止スローガンに対する反対」を供述しているとのことである。加藤哲郎教授の書評に拠れば、和田春樹さんや高橋彦博さんはそうした野坂の見解を先見の明として逆に評価しているとのことである。これに対して加藤教授の立場は、野坂式「天皇制共存社会主義論」に対して、「現代日本の民主主義にとってもなお重要な『戦後民主主義のトゲ』」であり、「野坂は早い時期から政治主義的策略を弄した『民主主義の永久革命』(丸山真男)の『裏切り者』」とみなしている。

 れんだいこは思う。この両見解のどちらが正しいのかを廻って争うよりも、野坂が左翼党の指導者としてはあるまじき背信の立場で活動した履歴をこそ責め、史的に総括すべきではなかろうか。その野坂を、少なくとも「1928年検事調書(予審訊問調書)」以降当局のスパイとして活躍し最高指導部まで上り詰めさせたこと、この闇が外部から指摘されるまで日共党内では切開できなかったこと、このことを史的に総括すべきではなかろうか。

 ところで、野坂は、スパイであることを拒否しようと思えばいつでも降りることが出来た筈である。「1928年検事調書(予審訊問調書)」後から戦後までの期間に雪崩を打った転向派に同調すれば容易であったはずである。その機会に背を向け、野坂は自ら望んで日共は云うに及ばず国際共産主義運動に対する情報取りに向かったのではなかろうか。それを支えた野坂の信念に興趣を覚えるがそれはまた別の論考としたい。

 なお、宮顕系指導部の査問好き体質にあって、野坂の闇がなぜ見逃され不問にされてきたのか、このことを史的に解明すべきではなかろうか。更に云えば、その野坂と二人三脚行脚してきた宮顕その人はどうなのか。れんだいこ史観に拠れば、この御仁もまたれっきとして胡散臭すぎる。となると、1955年の「六全協」で野坂―宮顕執行部が確立され、その後宮顕―袴田執行部へと移行し、その後宮顕―不破執行部へと移行し、今日不破―志位執行部として連続しているこの指導部の胡散臭さをもまた史的に解明されるべきではなかろうか、ということになる。

 このように論を立てることが、「故野坂参三氏の1928年検事調書(予審訊問調書)発見」の重みの為せるところのものとなる。実に恐ろしきは、現下日本共産党指導部とは、多方面の指揮系統で複層されたスパイ人士の巣窟なのではなかろうか、という疑惑が発生することである。れんだいこはなぜこのことに拘るのか。一歩間違えば、かようなとんでも組織に身をおいたであろうからである。青年の純真な社会改革の情熱をものの見事に食い物にするこの党の腐敗を如何にせんか、安穏に済まして良いことでは無かろう。

 さて、野坂の疑惑を数え上げれば思いだすだけでも次のようなことが列挙できる。山本懸蔵のモスクワ粛清関与疑惑、その妻に対する仕打ち、「アメ亡組」粛清疑惑、戦前日共の最後的解体期に登場した宮顕―袴田執行部に叛旗を翻した「多数派」に対するコミンテルンの指示を装っての懐柔疑惑、延安時代の親米疑惑、戦後凱旋時早々の「愛される共産党」への路線転換疑惑、GHQとの通謀疑惑、「50年問題」時の変調行動疑惑、徳球密航後中国へ渡っての動静監視疑惑、徳球没後の伊藤律幽閉疑惑、「六全協」での宮顕とのコンビ疑惑、その後の春日(庄)ら構造改革派の追放執心疑惑、志賀ら親ソ派追放執心疑惑等々数え上げれば限が無い。

 従って結論はこうなる。このような疑惑の人の党活動の功績の上に成り立つ現日共指導部の潔白さなど信じられ得るであろうか。付言すれば、不破の「人民的議会主義」の実態は、野坂が延安より凱旋して以降コミンテルン時代の権威で持って党内に敷いた「平和革命路線」の観点及び理論構造と瓜二つである。どなたか一度比較検証してみれば面白かろう。そういう「のど仏のトゲ」問題として野坂問題があると云えるのではなかろうか。

 (2002.5.30日 れんだいこ拝 )

『野坂参三予審訊問調書』 飯田橋学生
 書評を発見しました。野坂資料に入れておいて下さい。

 http://member.nifty.ne.jp/katote/noyoshin.html
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 私のインターネットホームページは、先日18万アクセスを記録した。日本の学術系サイトとしては最大級で、毎日数百人が訪れ、ヤフー・ジャパンの「オススメサイト」にも入っている。そこに、4月のトップページ更新で、井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書』(五月書房)をとりあげ、紹介した。以下の如くである。

 <4月3日の共同通信配信記事やJapan Timesで、私が2年前の本HP「現代史の尋ね人」で「テルコ・ビリチ=松田照子」を探求したさい、外務省外交史料館でみつけた副産物、故野坂参三1928年検事調書の「発見」が、大きく報道されています。20世紀日本の共産主義運動の「顔」であった野坂参三が、いわゆる3・15事件検挙直後に、自分は共産党の「君主制廃止」方針に反対だと供述していたという内容。詳しくは、発売されたばかりの井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書──ある政治的人間の闘争と妥協の記録』(五月書房)参照。……過ぎ去ったばかりの20世紀には、まだまだ「記憶」に残すべき無数の史実が、うごめいています。>

 ところが、ホームページの「尋ね人」には、電子メールでさまざまな情報提供があったのに、野坂参三については、反応がない。5月には、アメリカ西海岸日系移民労働運動指導者で「第二の片山潜」といわれた「健物貞一」の遺児アランがロシアでみつかり、野坂参三・山本懸蔵がモスクワで指導した「アメ亡組」のリーダーとして1938年に逮捕され、42年にラーゲリで粛清されたKGB記録が送られてきて、ホームページを通じて情報提供をよびかけ、岡山のご遺族がみつかった。

 しかし、野坂参三については、井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書』の刊行が報じられ、和田春樹さんによる野坂参三の山本懸蔵「密告」1年半前にコミンテルン東洋部のミフが山懸を告発していた文書発見も新聞報道されたのに(『毎日新聞』5月29日)、話題にならない。どうやら野坂は「過去の人」となり、日本官憲やアメリカ占領軍とのつながりが発見されても、日本共産党関係者でさえ驚かない、「闇の男」のダーティ・イメージが定着したようだ。

 しかしなお、現代史研究者にとっては、野坂参三探求は未完である。野坂の検事調書や予審調書の「君主制廃止スローガン反対」の供述は、和田春樹さんや高橋彦博さんのように、敗戦後野坂の天皇制論を歴史的に評価する人にとっては、野坂の独自性・政治的一貫性を示すもので、自説を補強する根拠となる。私のように、象徴天皇制・君主制残存の問題を、現代日本の民主主義にとってもなお重要な「戦後民主主義のトゲ」と考えるものにとっては、野坂は早い時期から政治主義的策略を弄した「民主主義の永久革命」(丸山真男)の「裏切り者」となる。

 アメリカでは、一昨年のジョン・ダワー、昨年のハーバード・ビクスと、現代天皇制を探求する日本史研究者の書物が、続けてピューリツアー賞を受賞した。『野坂参三予審訊問調書』の刊行は、二〇世紀世界史の中に日本を位置づけるうえで、不可欠の資料発掘なのである。

 (徳田球一記念の会会報、第72号、2001年8月、掲載文の草稿)

【井上 敏夫(著)「野坂参三予審訊問調書」】

 井上 敏夫(著)「野坂参三予審訊問調書」(五月書房、2001.4.8日初版)が出版されている。その内容は次の通り。

 目次

1、最初の逮捕時の法廷闘争の様子
2、「3.15事件」逮捕時の法廷闘争の様子
3、外国行きの背景について
4、ソ連邦での活動の様子と山本懸蔵密告投獄運動の様子
5、延安活動時の様子
6、戦後、凱旋以来の党活動に与えた影響
7、徳球書記長との従順と確執、そのスパイ活動
8、「50年分裂」時の処世の仕方について
9、軍事路線導入の草稿者責任について
10、「六全協」以来の不死身の返り咲き
11、宮顕との協調共同路線
12.次から次へと悪事露見される
13、除名
14、その後





(私論.私見)