野坂の中共七全大会報告
最後に、毛沢東が天皇に言及した岡野進宛手紙を紹介する。これも年号はなかったが、毛筆の筆跡は確かに毛沢東だった。年号確定の鍵は、手紙文中の「去年出版された白労徳同志の『テヘラン』」の箇所である。「白労徳」とは、当時のアメリカ共産党書記長アール・ブラウダーの中国語表記である。ブラウダーが四三年一一月末のチャーチル、ルーズベルト、スターリンによるテヘラン会談を手放しで賞賛し、米国共産党の解散を導いたEarl
Browder, Teheran: Our Path in War and Peace, New York, International Publishers,
1944は、四四年四月に『徳黒蘭――我們在戦争与和平中的道路[テヘラン――われわれは戦争と平和の岐路にいる]』として、中国語に訳されていた。
その翌年は四五年、冒頭「この文章」とは、五月二一日岡野進名での中国共産党第七回大会(七全大会)報告「民主的日本の建設」(邦訳『野坂参三選集 戦時編』)である。手紙は、野坂の七全大会報告中国語原稿への毛沢東のコメントと判断できた。米国共産党内でのブラウダー失脚の直前である。
資料四 毛沢東の岡野進宛手紙(一九四五年五月二八日)
岡野進[野坂参三]同志 この文章[岡野進「民主的日本の建設」]を読みましたが、なかなかいい文章でした。私はこれを通じて、日本共産党の具体的な綱領がわかるようになりました。独占資本(国民の生計を操縦するもの)の没収に関する条項の確定は、なにより正しいものと思われます。この条項は、イギリス、フランスの共産党も取り入れているし、中国の党もそうです。今は日本の党も同様になりました。ただアメリカ共産主義者だけがまだこの条項を設けていないのです。そちらの状況が特殊であるかも知れません。彼らがこの点について提起しないことには彼らなりの理由があるでしょう。しかし、私はかなりの疑問を感じます。彼らは出口を探し出せなかったと思われます。この点は、研究を待たなければなりません。あなたの意見を提供してほしいです。去年出版された白労徳同志[米国共産党書記長アール・ブラウダー]の『テヘラン』という本を、あなたは見ましたか。読んでほしいです。いずれ一緒に議論しましょう。この他、いくつかの細かい点について、以下に列挙します。
一五頁、二行目、「新兵と老兵が比較的多い」は、「新兵は老兵に比べて多い」という意味でしょうか。もしそうであれば、直したほうがいいと思います。
三一頁、五行目、「上下級指揮官」の上下級の三文字は削除したほうがいいと思います。同じ頁の九行目、「大小政治家」の大小の二文字は「反動」の二文字に改めたほうがいいと思います。同じ頁、一〇行目、「下層ファシスト分子」の下層の二文字は削除したほうがいいと思います。同じ頁、一一行目、「思想検事等」の次に「なかの積極分子」などの文字を加えたほうがいいと思います。現在、この問題は宣伝の時期にあるので、広範囲に波及させることは不適切です。将来実行する時期に、大衆の発動の程度によって、その時に柔軟に対応するのが有利だと思います。三七頁、一〇行目、「儘速由一般人民」の儘速の二文字は削除できると思われます。この投票問題ですが、そのときになって、いったい早くするのが有利か、あるいは遅くするのが有利かは、状況を見てから決定すべきものであります。私は、日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期のうちにできるものではないと推測しています。
以上、斟酌してください、そして博古[ボーク、『解放日報』編集長]に送って発表し、ラジオでも放送してください。 同志の敬礼を! 毛沢東 [一九四五年]五月二八日
天皇論・戦犯範囲論での毛沢東の検閲
二〇〇四年二月一二日に東京新聞など共同通信から「天皇制早期廃止に消極的 野坂氏に毛主席が書簡」と配信され、二月一八日に朝日新聞で「毛沢東の直筆手紙発見 天皇制なくせぬ、野坂参三氏あて」と報道され、「ジャパン・タイムズ」や「中文導報」等でも大きく報じられた、筆者らによる新資料発見のニュースは、この手紙末尾の「私は、日本人民が天皇を不要にすることは、おそらく短期のうちにできるものではないと推測しています」という一文に、焦点を当てたものである。それは、「『儘速由一般人民』の儘速の二文字は削除できると思われます」という七全大会野坂演説の添削――中国語で発表のための検閲――を説明するため、補足的に述べられた。事実、五月二一日の演説が、毛沢東コメントの翌二九日『解放日報』に発表されるさいには「儘速」の二文字が削除されている。確かに、毛沢東による日本敗戦後の天皇への明示的言及はほとんどないから、重要なものである。
だが筆者は、天皇問題は毛沢東書簡の本筋ではない一部であり、この手紙の歴史的価値は、他にあると考えている。そのポイントは、野坂参三と「白労徳」=スターリン時代のアメリカ共産党書記長アール・ブラウダーとの、一九三〇年代の緊密な関係である。
ブラウダーは、もともとコミンテルン・アジア工作の中枢機関、汎太平洋労働組合(一九二七年創立)の初代書記長だった。旧ソ連崩壊で明るみに出た米国共産党秘密文書集『アメリカ共産党とコミンテルン』(五月書房)には、ブラウダーと共に、幾度か野坂の名前が出てくる。その一つ「文書二〇 ブラウダーからディミトロフへの手紙 一九三五年九月二日」では、アメリカ共産党書記長ブラウダーが、当時のコミンテルン書記長ディミトロフに対して、リヒアルト・ゾルゲの盟友ゲアハルト・アイスラーのアメリカ派遣と、日本共産党野坂参三のアメリカでの活動、上海の作家アグネス・スメドレーへの支援計画を、一括提案していた。三〇年代野坂の後見人は、米国共産党ブラウダーであった。
そのブラウダーは、四三年コミンテルン解散とテヘラン会談による連合国ヨーロッパ攻勢を受けて、四四年一月七日に「テヘラン・テーゼ」を発表し、一一日にはアメリカ共産党を「共産主義政治協会」に改組する提案を行い、五月に実際に、白人中心の政治協会に改めた。連合軍と民主党ニューディール政権に全面的に協力して、ルーズベルトとスターリンの連携の接着剤を自負し、資本主義と社会主義の「平和共存」を謳歌して、アメリカ資本主義は「テヘラン連合」のもとで「帝国主義」ではなくなったと述べた。
ところが、この四五年五月毛沢東書簡の直前、フランス共産党機関誌『カイエ・デュ・コミュニズム』四月号誌上で、ジャック・デュクロ書記による名指しの「ブラウダー修正主義」批判が、突如始まった。著書『テヘラン』が直接の対象だった。それは、当時の共産党世界では、ソ連のスターリンがブラウダーを用済みにし、見放したことを意味する。米国共産党出身で当時0SS(米国戦略情報局)に所属し対日「ブラック・プロパガンダ」に従事していた日本人芳賀武は、この頃のことを、以下のようにいう。
ブラウダーによる「日和見主義」的な路線の逸脱は、CPA[共産主義政治協会、四四年五月にブラウダー路線で共産党を解消して結成]内部における反ブラウダー派の台頭を促した。アメリカ内外の情勢は、ブラウダー理論の破綻を立証していた。そうしたブラウダー批判のたかまりを決定的にしたのが、フランス共産党書記ジャック・デュクロの論文である。この論文はフランスの雑誌『カイエ・デュ・コミュニズム(共産主義評論)』の一九四五年四月号に載ったもので、ブラウダーの政策を真っ向から攻撃していた。CPAは五月二〇日にこの論文の写しを受け取り、ただちにアーノルド・ジョンソンも参加した政治委員会で討議された。その結果、ブラウダーを除く全員がデュクロの考え方を支持し、ブラウダーを批判した。しかし、ブラウダーはいささかも自己批判せず、自説に固執した。……そのため数日後、ブラウダーは書記長をやめさせられ、ウィリアム・フォスター、ユージン・デニス、ジョン・ウィリアムソンの三人からなる書記局が構成された。デュクロの論文も五月二五日に『デイリー・ワーカー』に公表された。そして、六月一八日から三日間全国委員会が開かれ、満場一致でブラウダー路線からの訣別を決め、さらに七月二七、二八日の「党大会」も政治委員会・全国委員会がとった措置を承認した。これによってCPAは解体され、「党」が再建された(芳賀武『紐育ラプソディ:ある日本人米共産党員の回想』朝日新聞社、一九八五年、三二九ー三三〇頁)。
延安での野坂の後見人毛沢東は、おそらくこうした国際共産主義運動内部での「冷戦開始」を察知し、ブラウダーと親しくブラウダー路線に近い野坂に、何かを伝えようとしている。そして、この毛沢東書簡直後の四五年六月、アメリカ共産党からブラウダーは追放される。この体験は、野坂にとっては一九五〇年コミンフォルムによる野坂理論批判の際の教訓となるだろう。だが、この視点からの解読は、別の機会に譲ろう。
今日でも流布している『野坂参三選集 戦時編』所収の「民主的日本の建設」冒頭には、「本書は、一九四五年(昭和二十年)四月に延安で開かれた中国共産党第七回全国大会で、毛沢東主席の政治報告『連合政府論』と朱徳総司令の軍事報告に次いで、私が、日本共産党を代表して、岡野進の仮名をもって、行った演説草稿である」という「序文」がある。あたかも中国共産党七全大会で、毛沢東・朱徳報告に匹敵する重要演説として扱われたかのように読める。
しかし、野坂のこの七全大会演説は、「四五年四月」ではなく「五月」である。「水野資料」中の野坂「民主的日本の建設」手書き版には「一九四五年五月、延安」とあり、四五年一二月人民社版、四九年永美書房版も同様である。
当時延安在住で、四月二三日の開会から六月九日の新指導部選出まで全日程を傍聴したソ連タス通信記者ピョートル・ウラジミロフ『延安日記』(サイマル出版会)は、確かに岡野進=野坂参三が四月二三日開幕日に任弼時の開会演説、毛沢東、朱徳に続いて、劉少奇、周恩来らより前に演説したと記録している。しかしそれは、外国党を代表しての短い儀礼的挨拶で、日本の戦後構想や天皇制の将来にふれるようなものではなかった(『解放日報』中国語訳は五月一日掲載、扱いは劉少奇、周恩来、林伯渠演説に続く末尾である)。
実際の七全大会は、五月五日から併行して開かれた蒋介石の中国国民党第六回大会の動向を睨み、五月八日にドイツの無条件降伏の報が延安に届き、『解放日報』で米国批判が始まった後も、毛沢東「連合政府論」をめぐる中国共産党内部の討論が延々と続いた。
毛沢東の党内指導権が確立し、重慶の国民党大会が終了した五月二一日に初めて、日本共産党野坂参三の「民主的日本の建設」、モンゴル族の中国共産党中央委員であるウランフー、それに朝鮮独立同盟代表の朴一禹(当時延安の朝鮮革命軍政学校副校長)が演説したが、それは、せいぜい外国人ゲスト、意地悪くいうと、亡命少数民族扱いの報告だった。その野坂演説は日本語で、おそらく中国語同時通訳でなされたと思われるが、中国共産党側がその内容をチェックするのは、中国語文が作られ、『解放日報』に掲載される時である。
今回発見された毛沢東の岡野進宛手紙は、五月二八日付けであり、『解放日報』の「日本共産党代表岡野進(野坂鉄)建設民主的日本、一九四五年五月在中国共産党第七次大会上的演説」は、翌二九日付けである。そして問題の毛沢東の天皇についての発言は、「三七頁、一〇行目、『儘速由一般人民』の儘速の二文字は削除できると思われます。この投票問題ですが、そのときになって、いったい早くするのが有利か、あるいは遅くするのが有利かは、状況を見てから決定すべきものであります」という部分で、翌日の『解放日報』の「第二 建設民主的日本、四 天皇與天皇制」には、確かに「儘速」の語はなく「在戦後由一般人民的投票来決定」となっている。
ここで添削=検閲された野坂報告「民主的日本の建設」は、四六年一月帰国の前後に、幾度か日本語訳でも発表されている。問題の中国語原稿「三七頁、一〇行目」は、定本となっている『野坂参三選集 戦時編』の以下の箇所である。
「わが共産党は、天皇制も天皇もない徹底した民主共和国を要望し、そのための宣伝教育を人民大衆にむけて行っている。しかしわれわれの要望は人民大多数の意見に反しては実現されるものではない。人民大多数が天皇の存続を熱烈に要求するならば、これに対してわれわれは譲歩しなければならぬ。それゆえに、天皇存廃の問題は、戦後、一般人民投票によって決定されるべきことを、私は一個の提案として提出するものである。投票の結果、たとえ天皇の存続が決定されても、その場合における天皇は、専制権をもたぬ天皇でなければならぬ。」
つまり、野坂の元原稿は、「天皇存廃の問題は、戦後儘速に、一般人民投票によって決定される」という提案だったことが分かる。日本語版は修正後のもので、野坂の戦時天皇論の到達点である。
また、野坂演説は、天皇の半宗教的役割と天皇制とを区別し、専制機構としての天皇制は直ちに撤廃するが天皇存廃は人民投票に委ねるという方式を提案したが、彼がイタリア・ファシズム崩壊過程から学んだ「天皇退位論」は語っていない。前年四四年に延安米軍視察団(ディキシー・ミッション)のジョン・サーヴィスやジョン・エマーソン。コージ有吉らには「三段階戦略」の第一段階として「現天皇の退位を求める」と述べていたから、野坂の四五年段階の選択肢には入っていたはずであるが、この七全大会演説では、草案にも入れなかったと考えられる。「天皇退位論」は、米国リベラル派には提示できたが、延安での後見人である毛沢東には言えなかったのだろうか。
この野坂報告は、天皇制と天皇の半宗教的役割を区別し、専制機構としての天皇制は直ちに撤廃するが、天皇存廃は人民投票に委ねる方式を提案した。
いずれにせよ毛沢東は、野坂の五月二一日演説を『解放日報』二九日付けに公表するさい、他の細かい表現と共に、原稿中の「人民投票」の「儘速」を削るよう求め、野坂は、それに忠実に従った。筆者が「検閲」という所以である。したがって後段の「日本人民が天皇を不要にすることは、恐らく短期のうちにできるものではない」という発言のみから、毛沢東発言を「天皇制容認論」とは即断できない。むしろ、蒋介石と同じく「日本人民の自由意志を尊重」する主旨だろう。
文脈からすれば、毛沢東は、当時の中国民衆の気分や国際世論の動向を知り、即刻天皇制廃止が望ましいが、考え得る戦後日本の状況と日本共産党の貧弱な組織力からして、「儘速」に「人民投票」を行うと天皇存続が多数になる可能性が高いので「儘速」は削り時機を見よという、戦術的助言である可能性が強い。
検閲は、もう一つの問題でもなされた。日本語版では「戦争犯罪人の厳罰」の項である。野坂が「上下級指揮官」「大小政治家」「下層ファシスト分子」をすべて戦犯に含めようとしたのに対し、毛沢東は「上下級」「大小」「下層」をはずすようチェックし、「政治警察(特別高等)、思想検事等」さえ「なかの積極分子」のみに限定するよう勧めていた。
つまり、後の「愛される共産党」の野坂よりも、当時国民党との「連合政府論」を唱えていた革命家毛沢東の方が、下級軍人・官吏や小政治家まで戦犯扱いする必要はない、「この問題は宣伝の時期にあるため、広範囲に波及させることは不適切です」と鷹揚に構え、大局的に見ている。
事実、『解放日報』五月二九日の中国語版は、毛沢東の指示通りに修正された。四六年に日本に戻った野坂は、「指揮官」「反動政治家」「ファシスト」は修正して発表したが、なぜか「政治警察(特別高等)、思想検事等」の部分は「積極分子」に限定せずに、日本語にした。日本語原稿の修正忘れか、野坂の政治判断かは不明だが、唯一、毛沢東修正が元原稿に戻された箇所である。
以上は、筆者による仮の解読にすぎない。まだポツダム宣言は出ていない局面である。中国革命史や毛沢東研究者に資料を公開し、学術的に検討してもらおうと考えた所以である。
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