野阪理論、論文考

 (最新見直し2009.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ1)


 2002.10.26日、2009.5.19日再編集 れんだいこ拝


【野坂の天皇制論】
 中国のOSSを率いたジョン・エマーソンの「回想録」は、野坂と延安で出会った際の、野坂の天皇制論について次のように記している。
 「コミンテルンのテーゼは、共産主義者の綱領の大前提として、天皇制の廃止を要求したが、野坂派その立場を修正して、もし、日本人民が望むならば、天皇の存在を認めることにした。彼は、日本人の大部分が天皇に対して、簡単に消えない愛情と尊敬を抱いていると考えていた。そこで彼は天皇制打倒という戦前の共産党のスローガンを慎重に避けて、平和回復後の皇室に関する決定に就いては、用心深く取り組む道を選んだ。しかし、同時に天皇は戦争責任を負って退位すべきであると主張した」(ジョン・エマーソン、「嵐の中の外交」、「エマーソン回想録」、宮地健次郎訳、1979年)。
 概要「天皇の封建的専制的独裁政治機構の首長としての天皇と、もう一つの天皇、即ち『現人神』、宗教的な役割を演じてきた天皇とに分けた。人民大衆が天皇の存在を要求するならば、これに対して、我々は譲歩しなければならぬ。それ故に、天皇制存続は、戦後、一般人民投票によって決定されるべきことを私は一個の要求として提出するものである」。
(私論.私見) 野坂の「天皇制残置知論」について


 野坂の「天皇制残置知論」は、ジョン・エマーソンの意向を挺したものか、野坂のオリジナルなものかは分からない。云える事は、野坂が表明した「天皇制残置知論」をエマーソン下敷きにして「延安報告」を記し、これがОSS提案として国務省内の政策決定機関である極東小委員会で検討され、親委員会の極東委員会(SWNCC)に於いて若干修正されたうえで正式の政策となった。この政策がマッカーサー率いるGHQに送られ、象徴天皇制が生み出されることになった、ということである。

 野坂の「天皇制残置知論」の是非論議に興味があるが、ここでは問わない。問うのは、野坂がОSS要員ないしは協力者であったのではないのか、ということである。れんだいこは然りと推定している。ちなみに、エマーソンの「日本軍国主義者に対する心理作戦」は次のように記している。これは国務省に提出されたものである。

 概要「日本では、法と秩序を立て直すためには、全ての勢力が協力することが重要である。我々は戦後出現するであろう占領協力者、ないし『穏健派』のみに依存すべきではない。共産主義者野坂参三を戦後改革に協力させるべきである」。

 2006.10.5日 れんだいこ拝





(私論.私見)