除名考

 (最新見直し2009.5.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ1)
 今日、野坂参三の名声は地に堕ちている。しかし、未だ真相が誤解されている。宮顕―不破系党中央はそのようにミスリードし続けている。れんだいこがここで正確に注釈しておく。野坂は、スターリン主義に染まったソ連共産党のエージェントであったが故に断罪されたのでは無い。それは一部の事実であり、真相は、戦前の特高当局奥の院との内通性によって弾劾されている。野坂の全活動の軌跡がこれを証明している。且つ、野坂には「国際」性が有り、中共の投降主義者とも米帝の諜報機関とも融通無碍なる関係が有った、そのことが判明する故にこれを知る者より唾棄されている。「野坂スパイ問題」はこのレベルで為されねばならない。「野坂はかってスターリン粛清時代に同志を売った咎で名誉議長職が剥奪された。現在では解決済みである」などとして一件落着させるなんてことは、何も考察していないに等しい。これが正確な理解の仕方となるべきだろう。

 2002.10.26日、2004.7.27日再編集 れんだいこ拝


 1992年、生誕100年ということで、黒柳徹子との親交から「徹子の部屋」にも出演したり、NHK教育テレビジョンで特集が組まれた。その直後、『週刊文春』9-11月の連載がソ連のスパイだったとする記事を掲載した。調査の結果、事実だったとしてして日本共産党名誉議長を解任され、その後中央委員会総会において除名処分が決定された(名誉議長解任時は高齢であることを配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた)。その際、野坂は「残念ながら事実なので処分を認めざるを得ない」と述べた以外は、この件について公に語ることがなかった。

 これはソ連崩壊後、公文書が公開され、野坂が戦中にアメリカからコミンテルンディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895-1939年)ら数名をNKVDに讒言密告し、山本はスターリン大粛清の犠牲となったことが判明した。

 「★阿修羅♪ > リバイバル3」のBRIAN ENO氏の013 年 10 月 11 日付投稿「日本共産党と野坂参三」を転載しておく。

 日本共産党と野坂参三 ■
 ◎ 日本共産党を手玉にとった野坂参三 ◎

 【社会革命思想の実践より祖国日本の皇室を守った国際的4重スパイ:野坂参三】

 @ 近現代史研究会編著『実録 野坂参三』1997年

 1) 国際4重スパイ:野坂参三
 本ブログは,「2009.7.3」「■日本共産党とオバマ政権■」「◎代々木とワシントンとの異例な交流◎」および「2009.1.31」「■日本共産党を除名された人の話■」「◎21世紀日本経済社会と日本共産党◎」で,日本共産党の問題を議論した。

 筆者は最近,袴田里見『昨日の同志 宮本顕治』(新潮社,昭和50年)と近現代史研究会編著『実録 野坂参三』(マルジュ社,1997年)を読む機会があった。−−前著『昨日の同志 宮本顕治』は,日本共産党内の内輪もめを描いた著作であり,こうした現象は日本国の支配体制側からみれば,たいへん好ましい反体制派野党での御家騒動である。それゆえ,共産党はそのようなケンカを自滅に向かって大いに励んでくれといわれてしまうたぐいの,党内の主導権争い=「痴話喧嘩」にも映る。 それに対して,後著『実録 野坂参三』は,野坂参三が100歳にもなって日本共産党を除名された事由,つまり「旧ソ連の保管資料」の入手にもとづいて暴露された,野坂の何重ものスパイ行為,その複雑怪奇で下劣・醜悪な人生遍歴を,史実に即して究明している。

 野坂は以前までは,戦前において非合法政党であった日本共産党に入党,ソ連・アメリカなどに亡命者として出没し,戦時中はとくに,中国に亡命しながら活発に運動してきた〈偉大な闘士〉とみなされていた。
出所)右側の新聞記事(一部分)は『沖縄タイムス』
    1994年8月28日に報道されたアメリカでの野坂参三の活動。
    ジェームス・小田『スパイ野坂参三追跡』(彩流社,1995年)
    の口絵から。

 2) 日本共産党の獅子身中の虫:野坂参三
 ところが,野坂は実は,旧日本帝国と日本の皇室を守るために,旧治安維持法に真っ向から違反する政治結社:日本共産党に幹部としてもぐりこみ,それこそ「獅子身中の虫」となって,社会主義思想革命の実践活動を内部から瓦解させる役目を忠実に果たしてきた。野坂参三に隠された基本的な任務は,本当はこちらにあったのである。 『実録 野坂参三』が関連する論点を究明する方法は,折りこまれた野坂参三の家系図にその鍵がある。野坂の姻戚関係をたぐると,まず佐野 学(さの まなぶ,1892年−1953年)がみつかる。この佐野は昭和初期,日本共産党委員長のとき当局につかまると,同志の鍋山貞親(なべやま さだちか,1901年−1979年)とともに,獄中から「転向声明」を発表,これを契機に大量の転向者を産む契機を提供した人物である。なお,佐野はその後,裁判にかけられ,控訴審では懲役15年に減刑され,1943年に出獄している。

 佐野学は,戦前の偉大な政治家後藤新平の隠し子で,のちに養子として向かい入れられた静子と〈義理の従姉弟〉の関係にあった。この佐野はさらに,野坂との姻戚関係を有してもいた。ここで『実録 野坂参三』に折りこまれた関連の系譜図,その左側の一部分だけを紹介する。これには映っていないがまず,右上の最初のところに後藤新平の氏名が出ているのである。

 佐野も実際のところは,体制側の隠密的な役割を担いながら,模範的に日本共産党委員長から「転向」するという行為を記録した。この佐野や野坂のせいで,戦前の日本帝国という掌(たなごころ:てのひら)の舞台にあっては,日本共産党の思想に純粋に共鳴し,革命実践の運動に一生懸命従事したそのほか多くの党員や協力者(シンパ)が,いい加減にあしらわれ,いいようにもてあそばれてもきた歴史が記録されたのである。

 野坂参三はなかでも,日本共産党の内部に巣くう最大の悪害虫であった。この党が特定の活動をするたびに,あるいはソ連で教育した党員を日本に送りこむたびに,間違いなく繰りかえしていつも,その関係者がまとめてごっそり検挙されていた。そうした検挙を確実にさせるために必要な情報を,参三は日本帝国当局側に提供しつづけきた。彼はそのように汚ない「忍者のような役目」を忠実に遂行してきた。上掲の家系図に出ている人物のうち,政府の高官・重職を歴任していた次田大三郎は,野坂の義兄である。

 100歳にもなったときの野坂を除名した日本共産党のおめでたさは,ことばには形容できないほどである。だが,そのことよりも,日本帝国がわがこのような人物を育て,共産党のなかに静かに扶植しておき,この党の活動をずっと監視する装置としてあれこれ利用してもきた歴史に,われわれは注目すべきである。

 A 思想よりも家系のしがらみのなかの野坂参三

 1) 日本帝国の手先だった野坂参三
 問題の焦点は,敗戦直後に日本の天皇制を護持する機能を客観的に発揮してきた人物が,なんと,つい最近まで天皇・天皇制を完全に否定してきた日本共産党の最高幹部:野坂参三であったところに向けられる。

 日本共産党の政治目標(綱領)は,2004年に開催した党大会以前までは「天皇・天皇制を絶対に認めない」という社会主義変革・革命思想にしたがい,樹立・決定されていた。ところが,この党の最高幹部を務めてきた人間が,すでに戦前から,それとはまったく逆方向の考えを秘かに抱きながら,しかも同時に,この党を絶えず破壊すべく「国家のためのスパイ活動」にも従事してきたのである。この歴史的な事実は,「〈国家悪〉の手先」を超絶的な次元で演じていた野坂が〈大した役者〉であったことを物語っている。

 しかし,なぜ野坂参三はそのような役割をあえて担ってきたのか? 『実録 野坂参三』はその背景として家族関係を中心に,これまではまったく解明されていなかった問題領域を,いいかえれば,野坂の謀略活動をつうじて日本の「共産主義運動」の秘密を再検討したのである。

 野坂が日本の天皇制国家機関・アメリカ・ソ連・中国共産党の4重スパイであったことは間違いない,と『実録 野坂参三』は断定する。しかも,天皇制は,地球次元で私物化を図る国際謀略機関によって守られている。野坂はこの国際謀略機関の代理人(エージェント)の一員であったと考えるべきである。これが結論である(以上2つの段落は,同書,16頁参照)。

 −−それにしても,このような人物を党の幹部・党首に長く戴いてきた日本共産党は,ずいぶん長い期間,なにもしらずに「いい面の皮」状態に置かれてきた。野坂参三を除名すればそれで済まされる,というような問題=党史の展開ではない,深刻で重大な「過去の現実」が連綿と続いてきたのである。

 『実録 野坂参三』において興味ある見解は,大約すれば,こういうものである。

 −−戦前体制のなかでは,「日本共産党」という反体制・非合法政党に向けてあらゆる反体制派の人びとを引き寄せ,ここに集合させておく。そして,その過程においては政治的な操作・組織的な謀略・社会的な陰謀などを使いながら,反体制の思想・立場に立つ人びとを,この共産党を寄場として一網打尽にしていく,というものである。野坂はそのためにこそ,「旧日本帝国のために働いた」人間であったのである。

 野坂はあたかも,イカ釣り漁船に乗り,集魚灯を操って,イカをおびき寄せ,このイカを釣りあげる「船長:漁撈長のような役割」を果たしてきたわけである。帰る港で水揚げを納める網元は,もちろん旧日本帝国治安当局であった。戦前〔あるいは戦後も〕において,日本共産党員の個人的情報は漏れなく,野坂の手を介して治安当局にわたっていたことになる。

 日本共産党が敗戦後,天皇・天皇制を当面存続させる意見を披露したが,これももっぱら野坂の主張に依拠していた。東京裁判に昭和天皇が出廷しないで済むように野坂は努力した。野坂は生きているあいだ,天皇・天皇制の支持者であった。野坂が大正前期に学んだ慶応義塾理財科では,小泉信三に卒業論文〔社会主義思想に関する〕を提出していた。
出所)http://www.ora.keio.ac.jp/koizumikoza/koizumi_profile.html

 小泉信三が日本の天皇家とどのくらい親しくも忠実な間柄にあったかは,平成天皇に現在の配偶者を引き合わせる〈任務〉を成就したことからも明らかである。小泉が欧米〔英米〕諸国の特定筋と一定の関係を保持していたことも推定される。信三は,皇太子時代における明仁の師父としてその養育を担当した人物である。

 野坂はこの小泉のもとで,「敵をよくしるために」社会主義の勉強をし,卒業論文も書いたのである。けっして,社会主義革命を達成しようと慶応義塾で勉学に励んだのではない。

 2) 家や家族制度にもとづく経済・社会研究の必要性
 『実録 野坂参三』「あとがき」は,「日本の社会で生活していくには,人間関係が大切であり,とくに長子相続制の支配していた明治・大正・昭和の時代には,家系は重要な要素であり,人間活動を研究対象にする社会科学において家系図の研究は,あくまでも研究対象に成り得るものである」という。そうしてこそ「野坂参三が一生涯謀略活動を行い得た背景を知る」ことができ,「また,天皇制支配国家体制およぼ国際謀略機関のエージェントの一員として謀略活動に従事してきた野坂参三の人生を見直してみること」もできる,と主張している(457頁)。

 日本のみならず世界の次元でも実は,家系的な要因を重視する政治・経済の研究が重要である。経営学の分野でも「ファミリー・ビジネス(同族企業)」の現実的な重要性が再確認されつつあるが,ましては政治・経済の世界において家族・家系の関連を無視したら,当該の政治・経済の研究は画竜点睛を欠く結果となりやすい。

 本ブログもすでになんどか,世界政治経済次元における当該問題〔誰が本当はこの地球全体を支配をしているかという論点〕の再考のためには,ロスチャイルド家の歴史を念頭において議論する必要を強調している。関連の記述をおこなった,本ブログの日付(※)のみ,以下に列挙しておく。 「2009.6.30」,「2009.4.26」,「2009.2.19」,「2009.1.30」,「2008.12.13」,「2008.10.9」,「2008.9.23」 など。

 −−大森 実『戦後秘史3 祖国革命工作』(講談社,昭和50年)は,野坂参三をかなりくわしくとりあげ,野坂への「直撃インタービュー」も,50頁以上の分量でおこなっている。だが,隔靴掻痒どころか,大森はみごとに野坂に騙されていた。時期的に判断すればいたしかたない要素もある。しかし,『実録 野坂参三』は,野坂も大森も一刀両断,同じ「筋者」であると括っている(361頁)。

 野坂は「スターリンの粛清に協力した張本人である」。「アメリカより強制退去させられた日系アメリカ人の銃殺に関係した」。ソ連で「山本懸蔵を密告し」ただけでなく,その「妻・関マツ」を「狂死に近い悲惨な末期に追いやった」。「アメリカで日本の公安警察のスパイであったジョー・小出を使っていた」(『実録 野坂参三』360−361頁)。大森はこれらの事実を,野坂からさぐり出せなかった。

 日本・ソ連・中国・アメリカの各国間を動きまわり,八面六臂の大活躍とでも形容すべきスパイ活動をしてきた野坂参三であった。それにしても,野坂がそのように世界を股にかけて縦横無尽に活動できた背景事情,いいかえれば,それを可能にする国際横断的な協力組織が控えていたことに気づくべきである。くわしくはさらに,上掲の(※)を参照されたい。

 http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2295216


 最近古本屋で「暗黒の代々木王国」(辻泰介・渇シ面社)を手に入れた。1970.3.10日の初版発行である。野坂参三論、袴田里見論、宮本顕治論の三部作から構成されており、野坂参三論を読む限り的確無比であることに驚かされている。既にこの時点で、野坂の胡散臭さの要所が指摘されている。全文掲載したいところであるが、骨が折れるのでエッセンスを抜書きしたい。

 久保田政男氏著「フリーメーソン」(徳間書店、1984.5.31日初版、P132)には次のように書かれている。
 「野坂参三は延安から米軍機で凱旋した。この野坂参三はフリーメーソンの線で動かされていた人物であり、アメリカへ渡ってはルーズベルトの朋友ゴンパース辺りの傘下にあり、延安に飛んでは中共軍とともに抗日戦を指揮していた。この野坂参三が、日本共産党とアメリカ占領軍フリーメーソン派とのパイプ役を果たすことはいともたやすいことではないか」。

 これを思えば、早くよりこのように指摘されていたにも関わらず、ソ連邦崩壊後に学者によって発掘された資料によって証明されるまで党内最高指導者としてもてなされて来た経過が暗愚過ぎよう。れんだいこ観点からすれば、宮顕然り、野坂然りで、この党はスパイ集団によって完全に占拠されているということが判明する。にも関わらず、未だこの党に依拠し現代サヨ・ソフィスト論を撒き散らす党員各位の頑迷さにあきれるばかりであるということになる。

 早く、新党を結成せねばならない。あるいは党中央の奪権に向かわねばならない。その際には、現下党中央を徹底検証しておくことが二度とこうした事態に見舞われない保証になると思われる。ここまでの経過はあまりにもお粗末が過ぎるであろう。


 補足すれば、野坂参三の著書「風雪のあゆみ」全八巻(新日本出版社)は赤旗連載記事の単行本であり、このことでも分かるように野坂は「愛される共産党の顔」として長らく名誉議長席に祀られていた。しかし、伊藤律は、戦後の党活動を共にする過程で野坂を「笑面鬼心」と評し、早くより胡散臭さを見抜いていた形跡がある。その伊藤律の方がスパイの汚名を着せられ続けているとは!

 しかし、これだけの論及が為されているにも関わらず「野坂に関してはスパイとも密告者とも想っておりません」論もある。漬ける薬が無いとはこのことか。日本左派運動において本家的存在である日共党中央に野坂と宮顕を君臨させてきたことの非を早急に確認せねばならないときに、検証抜きに「そうは思わない」論が如何に有害であることか。そういう手合いが如何に饒舌を凝らそうとも、反面教師以外には何の意味も無かろう。

 2002.10.13日 れんだいこ拝

「故野坂参三氏の1928年検事調書(予審訊問調書)」考 れんだいこ 2002/05/30
 2002.5.30日れんぱるの「人生学院」掲示板への飯田橋学生さん投稿により、『野坂参三予審訊問調書─ある政治的人間の闘争と妥協の記録』(五月書房)(井上敏夫編)が出版され、「加藤哲郎のネチズンカレッジ」で、加藤教授が書評しているとのお知らせが入った。これを読んで以下のように咀嚼して見る。

 2002.4.3日少し前外務省外交史料館で、「故野坂参三氏の1928年検事調書(予審訊問調書)」が「発見」された。この「発見」がなぜ重要なのか。それは、野坂が日本共産党指導者然としてふるまった歴史の総括において、実は野坂が当局のスパイであったことは今日揺ぎない真実として、その始発をいつの頃に定めるのか、その「転落」の因果関係を解明するのに「故野坂参三氏の1928年検事調書」が非常に重要な資料となっているからである。よくぞ発見されたという思いが募る。

 付言すれば、宮顕の「小畑中央委員査問致死事件」の当事者の検事調書(予審訊問調書)はまだ一部しか漏洩されていない。逸見、秋笹、木島らのそれは一部であり、熊沢、小俣のそれらは全く公開されていない。宮顕の調書についてはあるのかないのかさえ判明していない。途中、合同公判期日が迫った頃に決まって重病に陥ったとされているが、その時どこに収監されていたのか、その時の担当医師の所見なぞ全てがヴェールに包まれている。

 さて、「故野坂参三氏の1928年検事調書(予審訊問調書)」には、野坂氏がこの時の取調べ時において、当時の日本共産党が要のような方針としていた「君主制廃止スローガンに対する反対」を供述しているとのことである。加藤哲郎教授の書評に拠れば、和田春樹さんや高橋彦博さんはそうした野坂の見解を先見の明として逆に評価しているとのことである。これに対して加藤教授の立場は、野坂式「天皇制共存社会主義論」に対して、「現代日本の民主主義にとってもなお重要な『戦後民主主義のトゲ』」であり、「野坂は早い時期から政治主義的策略を弄した『民主主義の永久革命』(丸山真男)の『裏切り者』」とみなしている。

 れんだいこは思う。この両見解のどちらが正しいのかを廻って争うよりも、野坂が左翼党の指導者としてはあるまじき背信の立場で活動した履歴をこそ責め、史的に総括すべきではなかろうか。その野坂を、少なくとも「1928年検事調書(予審訊問調書)」以降当局のスパイとして活躍し最高指導部まで上り詰めさせたこと、この闇が外部から指摘されるまで日共党内では切開できなかったこと、このことを史的に総括すべきではなかろうか。

 ところで、野坂は、スパイであることを拒否しようと思えばいつでも降りることができた筈である。「1928年検事調書(予審訊問調書)」後から戦後までの期間に雪崩を打った転向派に同調すれば容易であったはずである。その機会に背を向け、野坂は自ら望んで日共は云うに及ばず国際共産主義運動に対する情報取りに向かったのではなかろうか。それを支えた野坂の信念に興趣を覚えるがそれはまた別の論考としたい。

 なお、宮顕系指導部の査問好き体質にあって、野坂の闇がなぜ見逃され不問にされてきたのか、このことを史的に解明すべきではなかろうか。更に云えば、その野坂と二人三脚行脚してきた宮顕その人はどうなのか。れんだいこ史観によれば、この御仁もまたれっきとして胡散臭すぎる。となると、1955年の「六全協」で野坂―宮顕執行部が確立され、その後宮顕―袴田執行部へと移行し、その後宮顕―不破執行部へと移行し、今日不破―志位執行部として連続しているこの指導部の胡散臭さをもまた史的に解明されるべきではなかろうか、ということになる。

 このように論を立てることが、「故野坂参三氏の1928年検事調書(予審訊問調書)発見」の重みの為せるところのものとなる。実に恐ろしきは、現下日本共産党指導部とは、多方面の指揮系統で複層されたスパイ人士の巣窟なのではなかろうか、という疑惑が発生することである。れんだいこはなぜこのことに拘るのか。一歩間違えば、かようなとんでも組織に身をおいたであろうからである。青年の純真な社会改革の情熱をものの見事に食い物にするこの党の腐敗を如何にせんか、安穏に済まして良いことではなかろう。

 さて、野坂の疑惑を数え上げれば思いだすだけでも次のようなことが列挙できる。山本懸蔵のモスクワ粛清関与疑惑、その妻に対する仕打ち、「アメ亡組」粛清疑惑、戦前日共の最後的解体期に登場した宮顕―袴田執行部に叛旗を翻した「多数派」に対するコミンテルンの指示を装っての懐柔疑惑、延安時代の親米疑惑、戦後凱旋時早々の「愛される共産党」への路線転換疑惑、GHQとの通謀疑惑、「50年問題」時の変調行動疑惑、徳球密航後中国へ渡っての動静監視疑惑、徳球没後の伊藤律幽閉疑惑、「六全協」での宮顕とのコンビ疑惑、その後の春日(庄)ら構造改革派の追放執心疑惑、志賀ら親ソ派追放執心疑惑等々数え上げれば限がない。

 従って結論はこうなる。このような疑惑の人の党活動の功績の上に成り立つ現日共指導部の潔白さなど信じられ得るであろうか。付言すれば、不破の「人民的議会主義」の実態は、野坂が延安より凱旋して以降コミンテルン時代の権威で持って党内に敷いた「平和革命路線」の観点及び理論構造と瓜二つである。どなたか一度比較検証してみれば面白かろう。そういう「のど仏のトゲ」問題として野坂問題があると云えるのではなかろうか。

 (2002.5.30日 れんだいこ拝 )

『野坂参三予審訊問調書──ある政治的人間の闘の書評争と妥協の記録』飯田橋学生 2002/05/30
 書評を発見しました。野坂資料に入れておいて下さい。
 http://member.nifty.ne.jp/katote/noyoshin.html
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 私のインターネットホームページは、先日18万アクセスを記録した。日本の学術系サイトとしては最大級で、毎日数百人が訪れ、ヤフー・ジャパンの「オススメサイト」にも入っている。そこに、4月のトップページ更新で、井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書』(五月書房)をとりあげ、紹介した。以下の如くである。

 <4月3日の共同通信配信記事やJapan Timesで、私が2年前の本HP「現代史の尋ね人」で「テルコ・ビリチ=松田照子」を探求したさい、外務省外交史料館でみつけた副産物、故野坂参三1928年検事調書の「発見」が、大きく報道されています。20世紀日本の共産主義運動の「顔」であった野坂参三が、いわゆる3・15事件検挙直後に、自分は共産党の「君主制廃止」方針に反対だと供述していたという内容。詳しくは、発売されたばかりの井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書──ある政治的人間の闘争と妥協の記録』(五月書房)参照。……過ぎ去ったばかりの20世紀には、まだまだ「記憶」に残すべき無数の史実が、うごめいています。>

 ところが、ホームページの「尋ね人」には、電子メールでさまざまな情報提供があったのに、野坂参三については、反応がない。5月には、アメリカ西海岸日系移民労働運動指導者で「第二の片山潜」といわれた「健物貞一」の遺児アランがロシアでみつかり、野坂参三・山本懸蔵がモスクワで指導した「アメ亡組」のリーダーとして1938年に逮捕され、42年にラーゲリで粛清されたKGB記録が送られてきて、ホームページを通じて情報提供をよびかけ、岡山のご遺族がみつかった。

 しかし、野坂参三については、井上敏夫編『野坂参三予審訊問調書』の刊行が報じられ、和田春樹さんによる野坂参三の山本懸蔵「密告」1年半前にコミンテルン東洋部のミフが山懸を告発していた文書発見も新聞報道されたのに(『毎日新聞』5月29日)、話題にならない。どうやら野坂は「過去の人」となり、日本官憲やアメリカ占領軍とのつながりが発見されても、日本共産党関係者でさえ驚かない、「闇の男」のダーティ・イメージが定着したようだ。

 しかしなお、現代史研究者にとっては、野坂参三探求は未完である。野坂の検事調書や予審調書の「君主制廃止スローガン反対」の供述は、和田春樹さんや高橋彦博さんのように、敗戦後野坂の天皇制論を歴史的に評価する人にとっては、野坂の独自性・政治的一貫性を示すもので、自説を補強する根拠となる。私のように、象徴天皇制・君主制残存の問題を、現代日本の民主主義にとってもなお重要な「戦後民主主義のトゲ」と考えるものにとっては、野坂は早い時期から政治主義的策略を弄した「民主主義の永久革命」(丸山真男)の「裏切り者」となる。

 アメリカでは、一昨年のジョン・ダワー、昨年のハーバード・ビクスと、現代天皇制を探求する日本史研究者の書物が、続けてピューリツアー賞を受賞した。『野坂参三予審訊問調書』の刊行は、二〇世紀世界史の中に日本を位置づけるうえで、不可欠の資料発掘なのである。

 (徳田球一記念の会会報、第72号、2001年8月、掲載文の草稿)

 井上 敏夫(著)「野坂参三予審訊問調書」(五月書房、2001.4.8日初版)が出版されている。その内容は次の通り。

 目次

1、最初の逮捕時の法廷闘争の様子
2、「3.15事件」逮捕時の法廷闘争の様子
3、外国行きの背景について
4、ソ連邦での活動の様子と山本懸蔵密告投獄運動の様子
5、延安活動時の様子
6、戦後、凱旋以来の党活動に与えた影響
7、徳球書記長との従順と確執、そのスパイ活動
8、「50年分裂」時の処世の仕方について
9、軍事路線導入の草稿者責任について
10、「六全協」以来の不死身の返り咲き
11、宮顕との協調共同路線
12.次から次へと悪事露見される
13、除名
14、その後


【野坂の履歴】
 1917(大正5)年ロシア2月革命の真っ只中に慶応大学理財科を卒業、鈴木文治氏の友愛会(総同盟の前身)の書記となり、同8年渡英、1920年イギリス共産党に入党。英国追放後にソ連に入り、同10年のイルクーツク極東会議に出席。翌11年帰国して母校慶応の講師となる。

 この間の思想遍歴として、1929.3.29日の「第一回野坂予審訊問調書」には次のように記されている。「商業学校当時は人道主義的並びに国家主義的思想を持ちましたが、商業学校卒業前頃より当時の社会情勢の影響により自由主義的思想を持つに至り、その後慶應義塾大学卒業の頃友愛会に入会するに及び社会主義的思想を持つに至りましたが、大学卒業当時は『サンジカリズム』的思想を抱くにいたり、外国留学出発後漸次共産主義的思想を帯び英国に行ってから当地における共産主義的思想の影響を受け当地の共産主義者と交友し現在に至りました」。

 1922年の日共の創立に参加。1928年の3.15事件の大弾圧で検挙されるまでの野坂は、友愛会書記、総同盟調査部、慶応大学臨時講師、産業労働調査所所長などの道を歩き、合法面での活動に従事していて、党の中枢部にはいなかった。だが、党創立時の指導部たる佐野学、鍋山貞親などの転向、堺利彦、山川均などの脱落、市川正一などの獄死によって、1922.7月の結党参加者のうち、戦後の再建日共にとどまっていたのは、徳球を除けば野坂一人となった。

 3.15で検挙されたが、1930.3月眼疾手術と称する一種の偽装転向をもって出獄、翌1931(昭和6)年、コミンテルン日本代表として夫人と共に日本を脱出入ソ、以後40年までコミンテルンに常駐し、モスクワ、米国、中国において共産主義運動に活躍した。

 この経緯につき、戦前日共委員長・山本正美氏は「激動の時代に生きて」(98−99頁)の中で次のように述べている。「彼については、彼が27年テーゼに『君主制打倒』のスローガンを盛り込むことに反対したという理由で、彼のような有名な人物でありながら、治安維持法違反による検挙者としては異常な措置として、保釈が許されたことは知っていた。そのことをめぐって、一部の同志たちの間に、彼に対するスパイの疑惑が深まっていたことも知っていた。しかし、彼にモスクワで接触して得た感触では、おとなしい人だなあとは感じていたものの、スパイ説は信じられなかった。いまもそうである。

 ところが、戦後のことであるが、彼が実は正式の日本代表として入ソしたのではなく、夫妻で勉強するために、党からモスクワへ送られたのだということを知った。そういえば今思い出すと、山本懸蔵はこのことをすでに知っていたようである。何かの拍子に山本懸蔵は、いささか軽蔑の念を込めて私にそのことをちらっと洩らしたことがある」。

 ちなみに、山本懸蔵の履歴は次の通り。当時のプロフィンテルン日本代表であり、ウラジオストクにあった汎太平洋労働組合会議の書記局に長いこと出張していた。労働者出身の労働運動の指導者であり、高く評価されるべき人士である。しかし、概要「経験を十分に系統化し、理論化する能力に欠け、残念ながら経験主義的境地から十分に脱却しきれなかった」などと逆評価されている。

 山本正美氏の「激動の時代に生きて」に、山本懸蔵が粛清される経緯が次のように記されている。概要「彼がウラジオストク滞在中に一方ならぬ面倒を見た海員の間から脱走者、スパイ、裏切者が出たことが、彼の運命に大きな影響を与え、その後スターリンの粛清によって悲惨な最期を遂げた」(62−63頁)、
「プロフィンテルンの日本代表山本懸蔵と、コミンテルンの日本代表野坂参三との間柄は、私の感触では、あまりすっきりしていなかったようだ」、「山懸はプロフィンテルンの城に、野坂はコミンテルンの城にそれぞれ閉じこもっていた」(62頁)。

 
「プロフィンテルン東洋部の関係では、プロフィンテルン第五回大会に通訳として出席した蔵原惟人と、ウラジオストックで山本懸蔵の指導下で活動していた細木榛三(党名カワタ)も、スパイの嫌疑を受けていた」(62頁)。

 
「モスクワー上海ー東京のルートが、ヌーラン事件で断たれたとしても、他のルート、たとえばモスクワーベルリンー東京ルートがなかったわけではない」が、この国崎定洞を中心としたベルリン・ルートの「信頼性にモスクワは確信をもてなかったし、またヌーラン事件以降日本の党の内部事情について、全幅の信頼をおいていなかった」(115、102−103頁)。

 1935(昭和10)年の第7回コミンテルン大会に参加。以降アメリカ西海岸に潜伏4年間。1935年のには故片山潜に代わって執行委員に選ばれた。

 1943年(昭和18)モスクワから中国の延安へと移り、日本工農学校を組織(最終的に250名に達していた)し、日本軍捕虜の思想教育に携わり、日本人反戦同盟、日本人解放連盟を組織し、戦争反対、民主主義日本の建設をスローガンに掲げて活動していた。

 1946.1.12日、戦後党運動にあっては徳球と並ぶ日共内の最古参幹部党員の一人であるということと海外活動での国際的権威を被せて凱旋してきた。

【野坂の天皇制論】
 中国のOSSを率いたジョン・エマーソンの「回想録」は、野坂と延安で出会った際の、野坂の天皇制論について次のように記している。
 「コミンテルンのテーゼは、共産主義者の綱領の大前提として、天皇制の廃止を要求したが、野坂派その立場を修正して、もし、日本人民が望むならば、天皇の存在を認めることにした。彼は、日本人の大部分が天皇に対して、簡単に消えない愛情と尊敬を抱いていると考えていた。そこで彼は天皇制打倒という戦前の共産党のスローガンを慎重に避けて、平和回復後の皇室に関する決定に就いては、用心深く取り組む道を選んだ。しかし、同時に天皇は戦争責任を負って退位すべきであると主張した」(ジョン・エマーソン、「嵐の中の外交」、「エマーソン回想録」、宮地健次郎訳、1979年)。
 概要「天皇の封建的専制的独裁政治機構の首長としての天皇と、もう一つの天皇、即ち『現人神』、宗教的な役割を演じてきた天皇とに分けた。人民大衆が天皇の存在を要求するならば、これに対して、我々は譲歩しなければならぬ。それ故に、天皇制存続は、戦後、一般人民投票によって決定されるべきことを私は一個の要求として提出するものである」。
(私論.私見) 野坂の「天皇制残置知論」について
 野坂の「天皇制残置知論」は、ジョン・エマーソンの意向を挺したものか、野坂のオリジナルなものかは分からない。云える事は、野坂が表明した「天皇制残置知論」をエマーソン下敷きにして「延安報告」を記し、これがОSS提案として国務省内の政策決定機関である極東小委員会で検討され、親委員会の極東委員会(SWNCC)に於いて若干修正されたうえで正式の政策となった。この政策がマッカーサー率いるGHQに送られ、象徴天皇制が生み出されることになった、ということである。

 野坂の「天皇制残置知論」の是非論議に興味があるが、ここでは問わない。問うのは、野坂がОSS要員ないしは協力者であったのではないのか、ということである。れんだいこは然りと推定している。ちなみに、エマーソンの「日本軍国主義者に対する心理作戦」は次のように記している。これは国務省に提出されたものである。
 概要「日本では、法と秩序を立て直すためには、全ての勢力が協力することが重要である。我々は戦後出現するであろう占領協力者、ないし『穏健派』のみに依存すべきではない。共産主義者野坂参三を戦後改革に協力させるべきである」。

 2006.10.5日 れんだいこ拝


【不破の野坂に対する友好的理解】
 2002.10.14日付け赤旗に、「北京の五日間(中央委員会議長 不破哲三 李鉄映さんとの三時間」に興味深い記事が載っている。これを抜粋、要約する。
 延安の「日本人反戦同盟」のこと

 会食に入って間もなく、李鉄映(りてつえい)さんが、「先日、延安に行ってきました」と話しはじめた。延安は、抗日戦争当時の中国共産党の根拠地であると同時に、李鉄映さんの誕生の地のはずである。「延安には、『日本人反戦同盟』の活動家たちを記念する碑があります。その指導者が岡野進、つまり野坂参三さんでした」。

 これは、侵略戦争に反対する闘争での二つの党の連帯の歴史の象徴として、語りはじめた話である。しかも、食事の席で、客をもてなす好意をこめての話だが、野坂問題での誤解をそのままにしておくわけにはゆかない。考えてみると、野坂参三の除名の決定は一九九二年十二月、中国の党とは関係が断絶していた時期のことで、関係を回復して以後の四年間にこの問題を説明したことは、一度もなかった。

 野坂除名問題のいきさつを率直に話す

 私は、「みなさんの食欲を刺激する話ではないのですが」と前置きし、「いま話のあった『日本人反戦同盟』の活動はたいへん重要な意義をもつものでした。その多くの活動家は、帰国後、日本共産党に入って、すぐれた党活動家になりました。しかし、その指導者だった野坂参三には、重大な問題がありました」と、ソ連解体後に明らかになった事実の経過を、歴史的に簡潔に話した。

 ―ソ連解体後、表に出はじめた秘密文書を、日本の週刊誌がモスクワで買い込んできて、野坂がコミンテルンで活動していた当時、保身のため、同志を日本の警察のスパイだとする偽りの告発をおこない、死にいたらしめたという資料を発表したこと。

 ―私たちは、モスクワに人を派遣して関係資料を入手するなど独自の調査をするとともに、野坂当人にも確かめ、野坂自身、偽りの告発という事実を認めたので、中央委員会総会(一九九二年十二月)で、除名を決定したこと。

 ―その後、さらに、延安から日本への帰国の途中、野坂は、秘密にモスクワに呼ばれ、赤軍情報総局に直結する工作員という任務をもって、日本に帰国した事実が明らかになったこと。この事実も、野坂が認めたこと。

 私は、この話を、他国の共産党にたいするソ連の密室的な支配の陰謀と性格づけて語った。そのなかで、ヒトラー政権下の法廷闘争でナチの告発者たちを論破して世界に名をはせ、コミンテルンの書記長となったディミトロフが、コミンテルンの解散(一九四三年)とともに、一部長(国際情報部長)としてソ連共産党の組織に組みこまれ、ソ連のために秘密工作者を選定する役目を引き受けていたこと、野坂がソ連の赤軍情報部門につながる工作者となったのも、このディミトロフが人選してスターリンに推薦した結果であったことなどの、生々しい話は、李鉄映さんをはじめ、中連部の人たちにも衝撃的なニュースとして聞こえたようだった。もっとも、若い人たちには、ディミトロフといっても、まったく耳にしたこともない人物だったらしい。

 不破(当時、幹部会委員長)は、2000.7.20日、日共創立78周年記念講話日本共産党の歴史と綱領を語る 戦後の党の歴史から―1950年代のソ連・中国の干渉と『軍事方針』」全文へで次のように述べている。

 「野坂参三という人は、戦前海外で活動していて、最後は中国共産党の根拠地であった延安でずっと活動していました。そこから戦後日本に帰ったということになっているのですけれども、実は、日本に帰る途中にスターリンから呼び出されて、秘密裏にモスクワに行き、そこでソ連の情報機関につながる秘密の工作者になることを約束して日本に帰ってくるのです。ソ連の秘密文書を読みますと、日本への帰国後もずっとソ連大使館などと特別の連絡をとりながらやっている状況が出てきます。その秘密の工作者だった野坂に、新しい方針はこうなんだということをきわめて端的なかたちで伝える、こういう役割をもった「批判」だったということも、読みとれるわけであります」。

(私論.私見)「不破の野坂批判の空疎性について」

 不破は、上述の如く、野坂除名理由を、@・スターリンの粛清下での山本懸蔵その他同志の密告、A・戦後の帰国に当たっての赤軍情報総局工作員の二点において説明している。しかし、野坂のスパイ性は、@・戦前の特高警察スパイ性、A・米国特務機関と関わりを持つスパイ性、B・フリーメーソン容疑、C・モスクワ赤軍情報総局工作員等々の観点から詮索されねばならない。このうちのC・モスクワ赤軍情報総局工作員としての野坂のスパイ性にのみ論うとは全く馬鹿げていよう。

 不破は、重要な史実について頬かむりしている。袴田除名騒動の一連の過程で、袴田は、A・米国特務機関と関わりを持つスパイとして野坂のスパイ性を指摘していた。この時、宮顕−不破党中央は、「野坂スパイ説をデッチ挙げ、党の団結と規律に正面から挑戦し、許すことの出来ない党破壊行為を行った」として袴田を断罪したのではなかったか。不破は、これにつき釈明せずにC・モスクワ赤軍情報総局工作員としての野坂のスパイ性に関わる野坂批判で事を済ましている。これも全く馬鹿げていよう。

 野坂は晩年の自伝『風雪のあゆみ』で、満州事変勃発に際して片山・山本懸蔵・野坂の三人の連名で『インプレコール』に発表された「日本帝国主義に反対する日本プロレタリアート」という論文は、「原案はわたしが起草し、これに片山、山本、さらにウォルクやマジャール、クーシネンなどの意見を加えて」作成した「新たな路線への転換を示唆するもの」としているが(四九頁)、野坂参三の除名のきっかけとなった山本懸蔵を告発する一九三九年のディミトロフ宛手紙で、山本懸蔵がウラジオストックからモスクワに戻るのは「一九三一年末」と書いているから、病後復帰した片山潜はともかく、ウラジオストックの山本懸蔵の関与は、ほとんど考えられない。電報で名前を借りると伝えられた程度であろう。また野坂参三の原案執筆も疑わしい。コミンテルン東洋部員の作文に、「トロイカ」三人の名前が使われただけであった可能性が高い。


【野坂除名】
 野坂のネオシオニストとしての決定的証拠は、コミンテルン時代の同志売りが一例である。これにより、山本懸蔵その他同志が処刑された。これは、1991.12.25日のソ連解体に伴い、ソ連時代の公文書が公開されたことによる。1992(平成4)年、100歳の時、週刊文春は9−11月号の連載で、野坂がスターリンの粛清時代に米国からソ連共産党のディミトロフに送った手紙が明らかになったことによる。野坂はソ連にいた日本人同志の山本懸蔵(1895-1939年)ら数名を内務人民委員部(NKVD)に密告していた。これにより山本らがスターリンの大粛清の犠牲となったことが明らかになった。週刊文春記事は、1993年、小林峻一、加藤昭共著「闇の男  野坂参三の百年」(文藝春秋)として出版された。

 日本共産党は調査団をモスクワに急遽派遣し追跡調査した。その結果、党中央はこれに抗弁できず、ソ連のスパイだったとして日本共産党名誉議長を解任され、その後除名処分になった。名誉議長解任時は高齢であることを配慮して党からの年金支給が続けられたが、除名処分に伴い打ち切られた。

 ちなみに、山本懸蔵の内妻・関マツは、芸者上がりで女傑肌の女性で、死刑を免れたが、その後は流浪を余儀なくされ、シベリアの食堂の皿洗いなどをして生き延びた。日本への帰国を訴え続けていたが受け容れられず、1960年代の半ばに死んだとされている。

 これについて補足しておく。「田中真人著『1930年代日本共産党史論』(三一書房、1994年)」その他を参照する。1933年、片山潜が亡くなった後、山本懸蔵と野坂参三の二人が、日本共産党の公式のコミンテルンへの派遣員としてモスクワに滞在する。1936年、二人は連名で「日本共産主義者への手紙」という著名な文書を公表し、翌年に山本だけが逮捕され銃殺される。銃殺されたこと自体も、戦後長い間は知られず、獄死をしたとか病死をしたとかされてきた。銃殺されたことが日本共産党にロシア当局から伝えられ、日本共産党が公式に犠牲者として追悼したのは1992.5.18日であり、この時に山本の銃殺刑の執行は1939.3.10日と確定された(1992.5.19日付け赤旗)。

 山本がこうした運命をたどり、野坂が生き延びたことへの疑問は、かねてから指摘されてきたものである。下日本共産党財政部長の亀山幸三は日本共産党を離党した後の1962年に発表した文書のなかで次のような指摘をしている。

 「野坂がソ連に亡命中、ともに亡命していた故山本懸蔵同志がソ連官憲によって捕らえられ、獄死しているが、野坂はこのことに関して手を貸したのではないかと疑われる節がある。」「いかにスターリン時代のソ連官憲が判らず屋であっても、これほどの人物を、野坂の意見を聞くこともなく、死に至らしめることはありえないはずである。しかも、山本は獄中で死去したもので(処刑ではない)当然のことながら捕えられて獄死するまでには、相当の時間はあったはずである。」「これらの事を整理してみると、山本は明白にスターリンの疑心暗鬼に触れたようであるが、その際、野坂は山本のために何らの証言もせず、山本を救済できる立場にあるにもかかわらず、それを行なわなかった事は明白である」。
 「野坂がこの問題に対して、みずから何らかの疚しい所がないならば、彼が日本に帰国した時に、ただちに彼の自らの口から山本の生涯について何らかの発言があってしかるべきであろう。自分ら二人が日本共産党の代表としてモスコーにいる以上、他の同志の一身上の重大危機にはっきりとその釈明に立つくらいは共産主義者としての最低、最小の義務である。野坂は明らかに自らそれに手を貸したか、又はそれに近い態度であったことは明白といわねばならない。野坂は戦後一九六二年まで(この文書を発表した現在まで=引用者)、故山本懸蔵同志については一言もしゃべらなかった。われわれは、そこによからぬ最大の暗黒面をのぞきみる思いがする」。




(私論.私見)