「百合子死亡事件不審考」(百合子死亡時の宮顕の挙動不審考) |
(最新見直し2005.5.8日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
1951(昭和26).1.21日、宮本百合子が死去した(享年51歳)。しかし、1・この時の百合子の死因の不審、2・この時の宮顕の所在不審、3・診断書書き換え不審、4・百合子葬儀不審が認められるという数々の疑惑が残されている。以下、これを検証する。 れんだいこは概略考察していたが、ネット畏兄・宮地健一氏が「共産党、社会主義問題を考える」の「プロレタリア・ヒューマニズムとは何か−宮本顕治氏の所説について−労働者文学会議 志保田行」、「不実の文学 −宮本顕治氏の文学について 志保田行」で更に精緻に記述しているので、これを参照しながら「百合子死亡事件不審考」として把握し、大幅に書き換えることにする。 2005.5.5日 れんだいこ拝 |
【百合子死亡事件不審1、百合子の死因の不審】 | ||||||||||
「百合子の死因の不審」を考察する。百合子の死因の不審につき、不自然さと且つ又不自然な病名変更が為されている。宮顕は、「百合子追悼」で次のように述べている。
これによれば、喪主・宮顕は、百合子が「風邪と過労に加えての急性敗血症併発」で死亡したことを明らかにしている。且つ、その死を悼むよりは、「日常の科学的用意の不足を反省」することをもって百合子の死を偶しているように見える。これが「後家の踏ん張り」に続く宮顕式愛情表現なのだろう。しかし、「百合子の死」を宮顕の如くに「風邪と過労に加えての急性敗血症併発による死亡」と片付けるには不審な経緯が見られるのでこれを確認しておく。 百合子は、死亡前々夜に当たる1.19日は夜更けまで書斎で平常に仕事をしていたとのことである。それが20日午前1時ごろから、急に寒気がするといいだし、午前11時には39度8分の高熱、午後4時になると肝臓部に痛みを訴え、胸部.下肢にも紫斑が現れたと伝えられている。 百合子が苦しみだした時、宮本家にいたのは百合子の他に誰であったかはっきりしない。「宮顕と百合子の秘書大森寿恵子(当時30才、百合子の内弟子として秘書兼お手伝いとして同居)の二人だけだった(この二人はその後結婚し大森は宮顕夫人となる)」とあるが、この記述は訂正を要するようである。なぜなら、「この二人は他所で密会していた」との証言が為されているからである。この件については、「百合子死亡事件不審2、この時の宮顕の所在不審」で検証する。しかしそうなると、誰と誰が居たのかということになるが、はっきりしない。 それから苦しみのため転々とする場面があって、宮本家からの急報で、主治医の佐藤俊次医師が駆けつけて来たのが20日午後7時過ぎであった。21日午前1時55分に息が絶えたことになっている。これにつき、百合子死亡に立ち会った医師・佐藤俊次氏の証言「終焉の記録」(百合子氏追悼集「宮本百合子(岩崎書店、1951年)」所収)が克明な記録を残している。宮地氏は「終焉の記録」として項目を立てている。「終焉の記録」は、次のように記している。
補足すれば、 主知医佐藤俊次医師は、「終焉の記録−宮本百合子さん臨終に付添って」(50.3月、雑誌名不明)も残している。それらを検討すれば次のように整理することができる。 1.20日午前1時頃、急に寒気がするといい云う。午前11時には39度8分の高熱。同3時頃、肺炎錠服用。同4時頃、小西先生の来診。この頃、肝臓部に痛みを訴え、胸部、下肢に紫斑が現れ始めた。午後6時頃、主治医の佐藤医師宅へ往診以来の電話有り(誰による電話かは不明)。午後7時半頃、佐藤医師が駆けつける。8時頃、嘔吐有り。8時半頃、ペニシリン注射。この時、「痛みますか?」の問いに「いいえ」の応答有り。10時半頃、嘔吐有り。9時半頃、四肢の末端が冷たくなり始め、左頬部から耳殻の紫斑がますます廣がり、四肢の紫斑も不正形に大きくなる。9時40分頃、林(順圭)先生に輸血を依頼。午後10時半頃、脈摶132、呼吸促迫、殆んど無表情となる。1.21日午前1時40分頃、藤森(正雄)先生来診。1時55分、永眠。 以上により、百合子死亡時の直前に枕辺に揃っていた居たのは、1・知人の小西医師、2・主治医の佐藤医師、3・近所の林医師、4・林先生の息子で泉橋病院の外科部長藤森正雄医師の4名ということになる。それらの医師によって書かれた死亡診断書は「急性紫斑病」となっている。この経過に関するその証言は確かとされている。 |
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れんだいこは、「急性紫斑病」なる病名につき知識を持たないが、何やら不自然な死ということになるのではなかろうか。本来なら、4名の医師の責任に於いて下した死因病名であるのだからそのまま受け入れれば良かろうに、宮顕は不審な挙動を見せ診断書が書き換えられていくことになる。何の必要があってそのような行為に及ぶのか、余計に詮索を呼ぶであろう。隠蔽できているうちは都合良くても、明らかとなれば不審を強めることになるだろう。 2005.5.5日 れんだいこ拝 |
【「百合子死亡事件不審2、この時の宮顕の所在不審」】 | ||||||
佐藤医師の記録には、家人の姿はあっても宮顕の姿はない。既述したが、百合子が苦しみだした時、宮本家にいたのは百合子の他に「宮顕と百合子の秘書大森寿恵子」とされているが、「この二人は他所で密会していたことにより不在」との証言が為されている。これにつき、それを認めたうえで、「その不在は統一委員会の運動のため」とする見方がある。しかし、統一委員会側の記録にはこれを裏付ける資料は何もない。こうなると、「大森秘書(現婦人)と一緒に居たとの証言」に耳を傾けてみるべきだろう。 「臨終の場に宮顕がいなかったこと」につき、宮顕初代秘書の寺尾五郎氏(取材時75歳)は次のように証言している。「百合子死亡時の宮顕の所在不審問題」に関係の強いところのみ抜粋引用する。
「百合子死亡時の宮顕の所在不審問題」に関して、党本部敷地無償提供者にして古くからの党幹部の一人・岩田英一氏(取材時90歳)の次のような証言も為されている。
愛知人権連合事務局長の藤本功氏(取材時78歳)の次のような証言も為されている。
「宮本顕治の半世紀譜」(新日本出版社、1983年刊)を見ると、この1月19、20日は空白で、21日に「百合子突然の死去」とだけある。「この前後には、全国統一委員会活動が逐一記されているから、もしその仕事で目黒の事務所にその夜を過していれば、記録されているはずだ。行く先が書けないとすれば、大森寿恵子氏のところにいた確率は極めて高い」とある。 宮顕は、「百合子追想」の最後に「何が彼女をこの世から奪い去った根底的条件をなしているかを考えざるをえなかった」と問い、「この刑務所に象徴された日本の野蛮な軍国主義と専制主義が百合子の死を早めた」と書いている。これに対し、志保田氏は次のように疑問を呈している。
この時点での宮顕と百合子との不仲、宮顕と百合子秘書との親密関係については、別サイト「死去前の百合子と宮顕との不仲考」で言及する。 |
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百合子死亡時に宮顕不在であったとしたら、宮顕はその理由を開示すべきである。とにかくこの御仁には不審が至る所で垣間見られる。判明することは、宮顕は、自分の妻の死の時にさえ居所不明となり、臨終の時間さえ正確に伝えていないということである。これが共産党トップを永らく務めた者の生態であるとしたら、我々はこれをどう合点すべきだろうか。 このことは、志保田行・氏の執念の取材によって明らかにされたわけだが、これらの証言によれば、宮顕は、百合子が苦しみ始めた時点はもとより、臨終の場に於いても、更に他の同志が百合子の死を聞きつけ弔問に来始めた際にも「不在」で、漸く駆けつけてきたのはその日の正午を大分過ぎた頃ということになる。しかも正午過ぎにはラジオで百合子氏の死亡が報ぜられていたというのに。これらは全て、宮顕の人間性を疑わしめるに余りあろう。だがしかし事は別の面での重大性をも晒している。当時、当中央は「50年分裂」し、主流派の徳球系は厳しい地下活動を余儀なくされていた。この時、反徳球系の国際派最高幹部が「緊急時に連絡の取れない態勢」にあったことになる。このことは国際派のそもそものエエカゲンさをも露出させていよう。 2005.5.5日 れんだいこ拝 |
【「百合子死亡事件不審3、診断書書き換え不審」】 | ||||||
その後、1.22日の午後になって、百合子の遺体は東大伝染病研究所で病理解剖に付されている。執刀に当たったのは草野信男教授という党員教授であった。解剖の結果、概要「最急性脳脊髄膜炎菌敗血症であることがほぼ確実となった」ということで、先の4名の非党員医師が臨終に立ち会ってつけた病名を変更している。「日本共産党の60年」には、「『最急性脳脊髄膜炎菌敗血症』のため急逝した。51才であった」と書かれており、草野診断書の立場から記述している。 推測するしかないが、「診断書書き換え」は何故必要であったのだろうか。れんだいこならずとも、宮顕にとって「急性紫斑病」診断書が好ましからぬものであったと推理するしかなかろう。宮顕にはこういう小細工が多すぎ、終生付いて回っている。ちなみに、この草野教授は後に原水協の内紛時に宮顕党中央に反抗している。いわば「診断書仲間」の教授が宮顕に立ち向かったことになるが余程がまんできない事情があったのであろう。それはそれで良いとしても、草野教授はこの時の「診断書書き換え事情」を明らかにする歴史的義務がある。何かコメントを残しておられるのだろうか。 宮顕は、百合子氏逝去から10日ばかりあとの1.30日に「百合子追悼」を書き上げ、百合子臨終の様子を次のように記している。「一万三〇〇〇字以上にのぼるその長い文章のなかで、臨終前後の描写はわずか一行半」とある。臨終の描写はない。
宮顕のこの「一行半下り」の「この短い記述が全部違っている」として、「宮地サイト」は次のように指摘している。
更に、この「一行半下りの不正確記述」には宮顕の邪な意図が隠されているとして、「宮地サイト」は次のように指摘している。
「宮本顕治文芸評論選集」(第二巻)に「百合子追想」がある。これは百合子氏死去の一〇日後に発表された宮顕自身の手になる貴重な説明である。次のように始まっている。
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宮顕は、「百合子追想」の文中で、東大伝染病研究所で病理解剖に付した理由につき、「百合子は生前から、死んだら解剖してほしいといっていたし、ことに私も今度の急病死についてもっとはっきり科学的にたしかめたい思い」に拠ったと述べている。 これがウソだとまでは確かめようがないが、その結果、何の必要あってか判然としないが、宮顕は、死因因診断書を「急性紫斑病」から「最急性脳脊髄膜炎菌敗血症」に書き換えさせている。病理解剖に付した理由まで書くのなら、死亡診断書の死因が変更されたことに言及すべきだろうに、当然というべきか触れていない。「戦前の党中央委員小畑氏の査問致死事件」でも、当初の鑑定にいちゃもんをつけ書き換えさせている。してみれば、宮顕にはこの種のことはお手のものではあるのだろう。 2005.5.5日 れんだいこ拝 |
【「百合子死亡事件不審4、百合子葬儀不審」】 | ||
5.23日、「宮本百合子葬」が東京の共立講堂で開かれた。その葬儀は公然盛大に執り行われた。公然盛大であろうがなかろうが葬儀自体には何ら責任はなかろうが、当時の非合法下で、宮顕派による公然盛大葬儀が挙行為しえた事には不審が残る。つまり、徳球系党中央の集会が禁止されている中、宮顕系で取り仕切られた宮本百合子葬は公然と認可されていたということになる。治安当局は何故に宮顕系には大甘なりえたのか、これを疑問とすべきだろう。
この時、徳球系党中央寄りの「人民文学」が3月号で、「宮本百合子について」特集を組んでいる。新人の宍戸弥生、玉城素、大場進の寄稿を採用したが、三編とも「追悼ではなく強い批判」であったため、宮顕と新日本文学会中央グループから激しい怒りを買った。その後、宮顕天下の時代になった時、江馬は責任を取らされ、次第に閉職に追いやられていくことになる。 |
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百合子文学の評価及びその死に対する追悼にはそれはそれとしての待遇が必要であろうが、確かにこの情勢下での「公然盛大葬儀執行」は詮議される必要があるように思われる。我々はどう理解すべきだろうか。ちなみに、「江馬は責任を取らされ、次第に閉職に追いやられていくことになる」も宮顕の常套手法であり許し難い。 2005.5.5日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)