百合子の著作権収入考 |
(最新見直し2005.5.18日)
宮地氏が「共産党、社会主義問題を考える」の「プロレタリア・ヒューマニズムとは何か−宮本顕治氏の所説について−労働者文学会議 志保田行」、「不実の文学 −宮本顕治氏の文学について 志保田行」で貴重な観点を披瀝している。これを検証する。 百合子が、戦後、党本部に初めて詣でた時に、岩田英一氏を訪ね暫く会談しているとのことである。百合子と岩田氏が会ったこととその会談の中身を知れば、これはかなり貴重情報である。 百合子がわざわざ会った岩田英一氏の党史的意味は次のことにある。 戦後党運動が始発した時、事務所は府中刑務所の付属施設であった国分寺の自立会に置かれていた。徳球が刑務所長を脅して分捕ったものであったが何しろ手狭であった。この時、岩田氏が登場し、所有していた渋谷区千駄ヶ谷の電気溶接学校(現在の党本部所在地)の約500坪、建物250坪を徳球個人に寄贈するという形で提供し合わせて入党した。時価数十億円は下るまいとされている。岩田氏がそれほど徳球に惚れ、為した義挙であった。徳球も、岩田氏の功績を称え、党中央委員候補として待遇していく。 徳球はこのことを気にかけており、「50年分裂」の煽りで中国へ密航するに当たり、「岩田君には世話になった。土地建物は岩田君名義に返しておくように」と言い残したと伝えられいる。しかし、この手続きはとられなかった。55年の六全協で、反徳球系最筆頭の宮顕が指導部を掌握した。当然のことながら、宮顕と岩田氏の間がしっくり行くことはなかった。そういう事情もあって、岩田氏は、1961年、第29回総選挙の総括をめぐる意見の相違を直接の契機として除名された。時の宮顕書記長ら党指導部は岩田氏に何の補償も行わず、無一物で追放している。岩田氏は、結局党外の人となってその生を終えている。 百合子は、戦後、党本部に初めて詣でた時に、そういう履歴をもつ岩田氏をわざわざ訪ねているように思われる。この時、次のような会話をしたことを岩田氏自身が明らかにしている。
岩田氏は、百合子が「全集の著作権は党本部に寄付するつもりです」と述べた時の気持ちについて、次のように忖度している。
岩田氏のこの証言は貴重だ。「岩田証言」の真偽は確かめようがないが、これを事実とすると、百合子ははっきり「全集の著作権は党本部に寄付するつもりです」といっていることになる。しかし、実際にはどうなっているのか。 獄中結婚までして宮顕に差し入れし続け、その他諸々戦時中ひたすら待ち耐えた百合子に対して、釈放後の宮顕の投げた言葉が「後家の踏ん張り染みた」であった。百合子容態急変から臨終時に百合子の秘書と一夜を過ごしていた宮顕、百合子の訃報を伝えるラジオ放送数時間後に姿を現し、「当初診断書の急性紫斑病の死因書き換え」までしている御仁が、百合子の著作権を独占的に継承相続している。 百合子の意訳概要「私も、岩田さんが土地建物を無償提供したように全集の著作権を党本部に寄付するつもりです」が史実だとすれば、宮顕は故人の意思を汲み、せめて収入の相当部を党に納めるべきであろう。が、それが公開されていない。外聞されていないところを見れば、恐らく独り占めしているのだろう。 というよりも、宮顕という御仁は、自分の著作ならともかくも百合子の著作の印税収入で懐を肥やし、良からぬ派閥活動に費やしていた形跡が認められる。しかも、自分の著作の売上げよりも百合子全集の方がよく売れるとみたのか、百合子全集出版を党の機関紙赤旗への広告を繰り返し載せ、提灯記事を付けて販売促進してきた史実を見せている。その際の広告費支払い明細も公開されていない。にも拘らず、その著作権収入を全権独占管理していたとしたら不義が過ぎるのではなかろうか。 ましてや、本サイトで検証したように「百合子と宮顕の感情齟齬」が認められ、それらが遠因となっての「百合子不審死」まで考えられ、しかも「百合子秘書との不義密通」で家を空け、百合子の臨終の際に立ち会っていないというのに。しかもこたび明らかにされた岩田証言によれば、意訳概要「私の著書の著作権収入は党に寄付するつもり」との故人の意思が伝えられているのに、かような御仁に百合子著作の印税収入が全面的に委ねられるというのはむしろイカガワシイ行為というべきではなかろうか。 とにかく、このようなイカサマ御仁を永らく党中央の最高席に居続けさせたということに対して、党員はもとより人民大衆的歴史責任というものを考えてみる必要さえあるのではなかろうか。れんだいこはそう思う。 補足しておけば、徳球は、「獄中十年」の回想記出版で得た印税を党本部の連中と「飲めや食え」で散財したと伝えられている。この陽気さに比して宮顕の為すことの阿漕さを認めるのはれんだいこだけだろうか。 2005.5.5日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)