トラック部隊考(「Reトラック部隊考」(歴史学院の戦後史に格納)



 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本共産党の戦後史に於けるトラック部隊に対する考察が欠落している。一部では考証されているようであるが正史には出てこない。れんだいこは、トラック部隊活動が宮顕派の財源になり且つ日本左派運動の信用毀損の為に意図的故意に講じられた悪質な犯罪にして戦前党活動上のスパイM指揮する銀行ギャング事件と通低しているのではないかと思っている。これを確認しておく。戦後入党し、1950年分裂以前に党の財政部長をつとめていた中央委員・亀山幸三の「戦後日本共産党の二重帳簿」(現代評論社、1978.1月初版)が詳しく採り上げており、これをベースにその他の記述を参照することにする。1957(昭和32).11月に朋文社から出されている小林一郎の「トラック部隊」という本もあるとのことである。

 2011.5.14日 れんだいこ拝


【トラック部隊】
 トラック部隊とは、1950年分裂時代の特殊財政であり、当時も1955年の六全協以降も党内では「極秘事項」、「永久秘密事項」となっており全貌は今も分からない。というより資料も含めて意図的に抹殺されている闇の党史である。「トラック部隊」に関する情報はほぼ遮断されており今日も判明しない。それを「当時の日本、ソ連、中国の各共産党が緊密な連携作戦の下に日本の革命工作をしていたことの貴重な史実」の観点からのみ見るのは方手落ちのような気がする。れんだいこの臭いとして、戦前の風間執行部下での「スパイM」による資金調達手法と酷似している気がしてならない。基本的に左派戦線に打撃を与える結果になる方向での悪事として画策されたのではないのか。後で触れようと思うが、これに宮顕が深く関わっているという隠蔽された史実が刻まれている。

 一説によると西沢隆二が最高責任者であると云う。とすれば、西沢隆二も又何かと胡散臭い人物であるからして端から臭いことになる。1950年秋口頃、人民艦隊の1隻の第三高浜丸が中国から元文化部長にしてトラック部隊長となる大村栄之助を連れ帰っている。大村栄之助とは松岡洋右の次の満鉄総裁大村卓一の次男で風采も人当たりも良かった。朝鮮戦争が勃発し、共産軍が破竹の勢いで米韓軍を釜山橋頭堡に追い詰めた時期、党員達は本気で革命近しと信じ、「もう直ぐ中国解放軍が日本解放の為朝鮮海峡を渡ってくる」、「北海道にソ連軍の降下部隊が降りてくる」といった話が呟かれていた。トラック部隊の動きはこうした状勢に連動していた。最初のキャップ大村は、昭和26年頃、駐日ソ連代表部のシバエフMVD(ソ連内務省)大佐らから、日共の活動資金を受取っていた暗号名「ロン」と呼ばれる人物だったとされている。これにより「トラック部隊は当時の日本、ソ連、中国の各共産党が緊密な連携作戦の下に日本の革命工作をしていたことの貴重な史実となっている」と評されているが、大村栄之助がトラック部隊事件にどれほど関わっているのかも含めて真相は定かではない。これらのストーリーは、宮顕派の影と悪事を消す為のお得意のすり替えかもしれない。

 トラック部隊の正規の名称は「特殊財政部」である。火炎瓶闘争期、日本共産党の特殊財政部と称するグループが企業グループ常任指導機関(中央、関西、北海道に特殊財政部指導機関)をつくり、企業を設立して拠点とし、中小企業を相手に組織的、計画的に資金を強奪、詐欺、横領、特別背任、外為法違反等の不法手段による組織的計画的な企業の乗取り、計画倒産等を行う等、"資金収奪を目的"とする党の裏の財政活動であった。

 1951(昭和26)年以降、当時の時価で数億円(勿論)を収奪している。このうち、警視庁公安部で処理したものは犯罪件数309件、検挙人員25人、被害総額3億9937万円、証拠品7千点、取り調べを受けた者2091人に及んでいる。その実態は今日でも解明されていない。この事件の捜査過程で、元駐日ソ連代表部員のラストボロフが大村英之助の手を通じて、日本共産党に対して巨額の資金援助をしていたことも明らかになっている。

 この資金が志田系に流れており、後に花柳界での遊行費問題として「お竹事件」の下地をつくっていくことになる。ちなみに、六全協後に「志田の神楽坂の料亭お竹放蕩事件」を伝えた雑誌「真相」(佐和慶太郎)記事が次のように記している。
記者 「じゃぁ、随分来てたんだね」。
芸者 「そう5年くらい前からよ。始めは月に一回か二回だったけど」。
記者 「去年は随分来ていたな」。
芸子 「そうね。しよっ中来るようになったのは2年くらい前からね。---いつも来ると二、三日は居続けしてたわ」。

 これをその通りとすれば、志田は50.6月の地下潜行の割合早い時機から料亭お竹に通っていたことになる。この時誰と何を謀議していたのか、肝心のこの辺りは伏せられたまま、やがてこの事件が志田失脚に利用されていくことになる。しかし、真相は宮顕派の暗躍事件だったと思われる。志田は、宮顕派に籠絡されたのであり、六全協後の「志田の神楽坂の料亭お竹放蕩事件」記事発表は志田用済みの狼煙(のろし)だったのではなかろうか。  

 日本共産党の戦後史に詳しい増山太助の著書「戦後期左翼人士群像」(つげ書房新社、2000年初版)によれば、「トラック部隊」の名称の由来は、佐世保鎮守府関連の施設にトラックで乗り付けて、戦後不要になった大量の軍需品を運び出して売りさばく窃盗団だったことによる。党の財政部長をつとめていた中央委員・亀山幸三は、「戦後日本共産党の二重帳簿」(現代評論社、1978.1月初版)の中でトラック部隊への移行過程を証言している。それによると、当初は党の財政活動の一環として活動し、「トラック部隊の各企業は独占企業に打撃を与え、その最大利潤を奪取する。これを革命の為の資金に転化する任務を要する。これによって各企業は資本主義機構の中の一企業たるところから転化して前社会主義的企業に転化する」を大義名分にしていた。

 理論的には「トラック部隊の各企業は独占企業に打撃を与え、その最大利潤を奪取する。これを革命の為の資金に転化する任務を要する。これによって各企業は資本主義機構の中の一企業たるところから転化して、前社会主義的企業に転化する」を大義名分にしていた。ところが、次第に「革命」のためと称して中小企業の乗っ取りや取り込み詐欺、計画倒産などで莫大な資金調達事件を引き起こしていくようになる。ゼントルマン.グループを形成して暗躍させ、後は野となれ山となれ式の悪稼ぎをしている。党に協力した中小企業者が尻の毛までむしりとられた。関連して倒産した会社も多数あり明らかに反社会的行為・犯罪になっている。亀山幸三は、「六全協以降もトラックは形態を変えて現在の党へと引き継がれている」と指摘している。

 1953.4月、太陽鋼管の踏み倒し倒産事件。これは、トラック部隊所属の大江直一を社長とする太陽鋼管をつくり、本社を東京・中央区に置き、最初は支払い面で信用させた上で、尼崎精鋼所から大量の鋼材を引き入れ、これを系列会社である並木鋼材、帝国金属ほか数社を通じて、元値をきって叩き売り、現金に替え、その一部を上納するという方法で、数億円の取り込み詐欺をはかっている。いくつかの系列会社にトラック部隊所属の党員が乗り込み、融通手形を切りあい拠点を増やしていった挙句の53.10月に倒産し、関連した拠点企業も連鎖倒産したり傾いた事件のことを云う。資本金400万円、本社東京、営業所大阪.広島.札幌、尼崎製鋼の指定問屋、日本特殊鋼管代理店で、大江が社長兼営業部長、引揚者コミュニスト.グループの一員であった鈴木を営業次長に取り込み事件を企画した。太陽鋼管はそのため、尼崎精鋼は労働争議もからんで倒産している。

 54年、葛飾ガスの金銭収奪。
 55.2月、丸栄商事乗っ取り(鈴木勝朗被害者)。
 同年7月、ドローイング倒産。

 56.1月、1950年にレッドハージを受けた全労連幹事で全逓役員の「M」が社長を務めていた会社「株式会社繊研事業部」の繊維研究事業部倒産(土肥ら従業員7、8名)。この事件は水上勉の「霧と影」に「繊研事業部事件」として採り上げられている。54.8月設立され、56.1月、計画倒産による取り込み詐欺を働いた事件である。5月、警視庁捜査二課と東京久松署が取込み詐欺容疑事件を捜査し発覚した。文芸評論家の佐々木基一らが出席した中央公論(1957年1月号)の座談会「若き日共党員の悩み」のなかで、武井昭夫がこの問題を追及した。 1957年8月22日の「トラック部隊」一斉捜索・摘発の際にも「繊研事業部事件」との関連が報道された。1956.9月、東芝産業デッチアゲようとして失敗、北海鋼業乗っ取り、合併問屋三社の主導権掌握騒動の失敗。代々木の関与した最悪の犯罪。

 1957.8.22日、一斉捜索・摘発があげられる。新聞記事は捜索が行われる当日の朝刊に予告記事として掲載された。当時の国会でも「トラック部隊事件」については多少触れられているが自民党もこの問題について積極的に議論した形跡は見当たらず、警備公安当局も「現在捜査中」と国会に報告したのみで終わっている。

 1957.11.14日、参議院地方行政委員会で、当時の山口喜雄警察庁警備部長が警察行政の報告のなかで、「いわゆる日本共産党関係のトラック部隊の検挙というものが現在行われておる」、「この事件は、中小企業から資金を収奪をしてそれを党の活動に回したのではないかという容疑をもって、現在捜査中」と報告した。これが「トラック部隊事件」が国会に報告された最初に事例である。それについての質疑は与党側からも行われなかった。

 1958.4.25日、衆議院法務委員会で、日本共産党の志賀義雄が「トラック部隊事件」の他に「官庁スパイ事件」、「人民艦隊事件」などをあげて、「選挙前にこういうばかげた検挙をやって共産党にけちをつける」と批判している。

 1960.2.5日、後に黒い霧事件で失脚した自由民主党の田中彰治代議士が第34回国会の衆議院決委員会で、「あるガス会社」に関して、共産党のトラック部隊と関係があるかのような発言をしている。但し、具体的な資料などの提示もなく政府側とのその後の質疑でも継続したやり取りに至っていない。(「日本共産党特殊財政部」参照)
(私論.私見)
 この「トラック部隊」 につき次のように記述されている。
 「1950(昭和25)年のレッドパージによって、膨大な数にのぼる職場党員が根こそぎ追放された日本共産党は、党の組織と財政に致命的な大打撃を受けた。加えて同年6月6日には、GHQの指令により日本共産党の中央委員24名が公職から追放された。このような背景のもとに日本共産党は表裏に分かれた二重組織となり、指導部は地下に潜った(非公然化)。そして、徳田球一、野坂参三、志田重男、西沢隆二らが地下組織の責任者となり、元文化部長大村英之助を隊長とする資金収奪を目的とする「トラック部隊」を創設したのである」

 この記述の胡散臭いところは、「トラック部隊」 が、「徳田球一、野坂参三、志田重男、西沢隆二らが地下組織の責任者となり、元文化部長大村英之助を隊長とする資金収奪を目的とする「トラック部隊」を創設した」としているところである。真相は、徳球指導部と鋭角的に対立していた宮顕系の影がちらついているというのに。

 「トラック部隊の中心人物は地下ビュウロー最高責任者志田重男であり、隊長の大村英之助は直接活動の指揮に当たっていたもので、全国的にたくさん企業グループがあった」とあるが、志田は割合と早くに宮顕系に篭絡されており、伊藤律ならともかくも志田の行状で徳球系の犯罪とするには読みが足りないとするべきだろう。


【水上勉・氏の「霧と影」に於ける「トラック部隊」記述考】
 水上勉が「フライパンの歌」の次に書いた本が繊維経済研究所時代の経験を基に書いた「霧と影」で、「トラック部隊」を題材にして書かれている。この作品は直木賞候補になっており、水上氏が作家として自立するきっかけとなった。水上氏自身が「文壇放浪」の中で次のように記している。
 「…はじめこの作品は「箱の中」という題名で、川上さんと坂本一亀さんに読んでもらったのだった。川上さんはおもしろいといってくれたが、坂本さんは先ず、題名に首をかしげられ、題材はおもしろいけれど文章がダメだといわれた。私はさっそく松戸へ帰って、書き直しにかかった。ニケ月ほどで、八百枚を書き直し、題名も「霧と影」とあらためて、河出書房に坂本さんをたずねた。いつも坂本さんは駿河台の喫茶店で待つよう指定された。 四回書き直した「霧と影」を持って河出書房をたずねた時も、文章のたるんだところを坂本一亀さんに指摘された。坂本さんが関心をもって下さった内容は、繊維界で見聞した共産党のトラック部隊事件が下敷きになっている。…」。

 その中での「冬日の道」で次のように書かれている。
 「…トラック部隊事件が起きたのは、昭和三十一年の五月だったか。広告取りの私には、上層部の中で、どんなことが行なわれていたか知らない。目にうつったのは、研究所の一課長が、新会社を起こして、社長におさまったことぐらいである。私に、くわしい事情はわかるはずもなかったか、そのころ、この研究所の一室で、江崎誠到氏と会っている。…」。

 直木賞作家の江崎誠到が「繊維経済研究所での出会い」というタイトルで水上勉との繊維経済研究所での出会いを次のように書いている。
 「水上勉の文学的自叙伝、『冬日の道』のなかに、ちらりと私のことが出ている。中央区蛎殻町の繊維経済研究所の一室で私に会ったことがあるというくだりである。私の記憶では、昭和二十八年の暮か二十九年はじめころのことである。一度ではなく、何度か顔を合わせている。実を言えば、私はそのとき繊研の編集室で会った人物が水上勉であったことに永く気づかなかった。それは、彼が直木賞を受賞したあともしばらくつづいている。おかしな話だが、それでいて繊研で会った水上勉のことほかなり正解に覚えているのである。当時私は共産党員であり、潜行幹部の財政をまかなう通称トラック部隊の一員であった。繊研はその部隊の一拠点であり、私は繊研の社員でほないが、一時そこの細胞に所属していた。そんな関係で、繊研の雑誌の編集部に就職した水上勉と顔を合わせる機会があったわけである。…」。

 1957(昭和32).8.22日の朝日新聞朝刊が、「日共の地下資金工作、『トラック部隊』手入れ、けさ東京・大阪十数カ所」のタイトルで一面に大きく掲載している。次のような記事になっている。
 「当局の捜査によれば日共内の暗号で「トラック部隊」と呼ばれているこの資金調達工作は、去る二十五年六月、日共幹部が第一次追放をうけ、地下活動が行われるようになってから「日米反動資本家からの収奪と政府の官金収奪は階級闘争である」との行動綱領のもとに活発になり、あらゆる手段で資金の獲得が行われたという。この一例として昨年五月、警視庁捜査二課と東京久松署の手で摘発された株式会社「繊研事件」は、逮捕された元全逓中央委員村井繁が社長となり、去る二十九年八月同社を設立、業界新聞を発行するなどで一年半の間に中小企業者から紙類や繊維品を買い込み、それを投売りし一億数千万円の取込み詐欺をした…」。

  「日本共産党の過去の武装闘争時代」。

 

白鳥事件(1952年1月)

札幌警察署警備課長の白鳥一雄警部が、札幌市内での勤務を終えて自転車で帰宅の途中、市内南六条西十七丁目路上で、背後から何者かによって拳銃で狙撃され、即死する事件が起こった。

この事件は、日本共産党札幌地区委員会が、地区での党活動の取り締まりの急先鋒であった白鳥警備課長を、権力機関との対決の対象として選び、殺害を計画し、実行したものである。

事件の数日前、札幌市内で、「ああ、血も涙もない、高田市長、白鳥課長、塩谷検事らを札幌から葬れ」というビラがまかれ、これらの人たちの官舎には、石が投げつけられた。事件発生の二日後には、「見よ天誅遂に下る、自由の凶敵、白鳥市警課長の醜い末路こそ全ファシスト官憲どもの落ちゆく運命である。日本共産党札幌委員会」という、いわゆる「天誅ビラ」が市内で配られた。






(私論.私見)