経歴(5) 5、戦後終盤・最後の国策奉仕から引退まで

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 見よ!この宮顕の変態長征の歴史を。まだまだ十分でなく、取り込めなかったり整理しきれてないが、これを読んで宮顕をまだ弁護する左派人士がいたとしたら、れんだいこはそういう者とは意思疎通をしたくない。白黒付けねばならないところと、つけてはならないところと、つけるに及ばないところとの仕分けが肝心だ。ここは、白黒つけるところであるからして十分に精読して思案して欲しい。

 但し、このサイトでは極力簡略にし、通史としてひと目で追えるよう心掛けた。やや詳しくは、別サイトのそれぞれの項を参照されたし。掲載しているのは氷山の一角で、まだまだ漏れているところがあるのですが纏めきれない。参考情報及び資料のご紹介をお願いいたします。

 2006.5.30日再編集 れんだいこ拝


【田中角栄の政界追放に最も戦闘的に乗り出す】
 7.27日、田中が為替法違反、受託収賄罪で東京地検特捜部に逮捕された。この経過でいつになく最も戦闘的に角栄批判運動を指導したのが宮顕であった。
(私論.私見)
 この時の宮顕の出張り方は尋常でなかった。今日、角栄失脚謀略説も流布されてきつつあるが、この絡みはどうなるのであろう。

【第14回党大会】
 1977(昭和52)年、上田副委員長。  
(私論.私見)

【「犬は吠えても歴史は進む」立花批判キャンペーン】
 8.8日、「犬は吠えても歴史は進む」の立花隆批判の大キャンペーンに乗り出すこととなった。ところが、内容はといえば宮顕論理の丸写しであり、真相解明そっちのけで政治主義的な乗り切りを策したものでしかなかった。
(私論.私見)

【袴田里美除名】
 10月、第14回党大会で袴田の政治的殺人儀式が執り行われた。この大会で宮顕は、袴田の副委員長、常任幹部会員、中央委員という党内の一切の役職を党大会役員人事“非推薦”という形で剥奪した。その“非推薦”理由について党大会で何の報告もなく、一つの質問も出なかった。「日本共産党の六十五年」は、「袴田が中央委員として不適格であることが明確なので、彼を中央委員に選出しなかった」とある。袴田は、それまでの経過とこの政治的殺人儀式に反逆して、マスコミに公表し、1978.1月に除名された。
(私論.私見)
 袴田失脚追い込みが党内弾圧第3弾。パラノイア反革命第15弾。

【宮地氏「専従解任不当」の民事裁判を提訴し、除名される】
 第14回党大会で宮地氏の「上訴」が出されていたが、採決なしの30秒で却下された。上田耕一郎党大会議長は、採決を取ろうともせず、「異議ありませんか」と問いかけ、約1000人の党大会代議員が「異議なーし!」と唱和し、上田氏の「それでは統制委員会の報告は承認されたものと確認いたします」で片付けられた。「党大会で発言させよ」という宮地氏の要望は無視された。

 宮地氏は、泣き寝入りすることを拒否して、名古屋地方裁判所に「専従解任不当」の民事裁判を提訴した。直ちに除名されている。裁判提訴後の共産党による連日の、一ヶ月間にわたる尾行、張り込みが為された。いわゆる『愛知県五月問題』の経過とその後の展開に宮顕じきじきの関与が為されている。その詳細は同氏のホームページに詳述されている。2月20日、民事裁判仮処分申請の第1回審訊冒頭で、裁判長を前にして、「共産党員が共産党中央を提訴するなど、国際共産主義運動史上一度もない! 前代未聞のこと! すぐ却下せよ!」と、門前払いを大声で叫んで怒り狂ったことが明かされている。
(私論.私見)
 かくて、党中央は、党員によって告発されるという痴態を招いた。宮地氏除名がパラノイア反革命第16弾。

【ネオマルクス主義系党員学者の排除】
 1978(昭和53)年、国際共産主義運動内に台頭してきたユーロコミュニズムの影響を受けて、学者党員たちの間に、スターリン問題研究、ユーロコミュニズ研究の共同作業が活発になった。田口富久治名古屋大学教授、藤井一行富山大学教授、中野徹三札幌学院大学教授、水田洋名古屋大学教授その他多くのマルクス主義者が、雑誌「現代と思想」等での共同研究に参加し、論文、著書を発表した。党中央内でも、上田耕一郎が先進国革命路線のあり方、新しい党組織論について、論文、著書を発表した。党中央機関内にも、多元的社会主義論、民主主義的中央集権制の見直し論などの影響が大きく現われてきた。それらの著書のいくつかは、当時、大月書店勤務の加藤哲郎が、編集・出版を担当していた。

 宮顕は、双葉の芽を摘むべく「宮本秘書団」を手駒にして圧殺に掛かった。「民主集中制の規律の強調」をし始め、不破が多元的社会主義を提唱する「田口富久治理論批判大キャンペーン」を開始した。
(私論.私見) 
 ユーロコミュニズムに対する宮顕の対応を見よ。「いつでも、どこでも査問と排斥」である。田口富久治、藤井一行、中野徹三、水田洋、加藤哲郎ら日共系党員学者の排除がパラノイア反革命第17弾。

【「日本共産党への手紙」(有田芳生編集)の弾圧】
 1990.6月、「日本共産党への手紙」が教育史料出版会から出版され、大きな反響を呼んだ。宮顕は、掲載された中で加藤哲郎論文と藤井一行論文に激怒して報復をしていく。編集を担当した有田芳生を査問し、除籍した。党員である出版社社長・橋本氏を査問し、除籍した。事件との絡みは分からないがこの頃、同社の編集者であった「後の党中央委員・元衆議院議員・石井郁子」の夫が査問され、除名処分を受けている。
(私論.私見)
 有田氏除名がパラノイア反革命第18弾。

徳球記念碑建立への敵対
 59歳で北京で死去した徳田球一の遺骨や遺品類が徳球の故郷である名護市に遺贈されることになった。1980年初頭、名護市は市公報で、「郷土の英雄」、「国際的政治家」として、北京の追悼集会の写真など徳田球一特集号を出した。社会党の戸口市長が徳球記念碑をつくることを発案(三鷹事件の喜屋武由放の働きかけもあって)したが、自民、公明、社会党などは賛成したが共産党議員は賛成も反対もせず(客観的には反対を意味する)の対応を採った。岸本市長の時に完成した記念式典では、市の長老党員が他の人々とともにあいさつしたが、共産党の市委員会の代表はしなかった。
(私論.私見)
 この冷えた対応が、宮顕の意向を反映していたことは疑いない。徳球記念碑建立への敵対がパラノイア反革命第19弾。 

【党名誉議長就任】
 1982(昭和57)年、党名誉議長就任。
(私論.私見) 

【「民主主義文学同盟」粛清】
 1983(昭和58)年、宮顕は、「民主文学四月号問題」でも対民主主義文学同盟クーデターを発動した。文学運動とまるで関係のなかった元宮本国会秘書・宇野三郎常任幹部会員を粛清担当につけた。その発端は、小田実寄稿文であった。「野間宏を団長として、中国訪問した」記述が“3行半”あり、編集後記に中野健二編集長の寄稿謝辞が“一言”あった。党中央5人が、民主主義文学同盟常幹グループ会議を招集し、自己批判を迫った。批判趣旨は、中国共産党批判の基本方針から逸脱し、思想を風化させた、編集長は個人責任をとれ、とするものであった。明白な「文学運動に対する党の優位性論」の押し付けであった。

 1983.5月、民主主義文学同盟第10回大会が開かれた。常幹の一定の自己批判報告をめぐって、大会では、党中央側常幹発言内容への反発、批判意見も噴出し、報告は採択されなかった。それに対して、宇野・宮顕は、赤旗で「自己批判報告を大会は採択した」と故意に虚偽報道させた。常幹は22人いた。宇野・宮顕は、大会後も、中野編集長の個人責任を追及し、更迭を強要した。それをあくまで押し通すために、グループ会議だけでなく、常幹一人一人に「宮顕方針」を飲むように、説得工作を執拗に展開した。常幹22人中、「宮顕・宇野」忠誠派と異論派メンバーの色分けを炙り出し、異論派メンバーに対して陰湿な精神的拷問システムが採られた。

 その拷問システムの結果、常幹22人中、12人は屈服した。「宮顕・宇野方針」は誤っている、受け入れられないとして、霜多正次議長、中野健二編集長、山根献事務局長ら10人が辞任した。“常幹辞任を強要”された10人は、いずれも、当時、『民主文学』『文化評論』『赤旗』で活躍し、民主主義文学同盟の中心的活動家だった。そのうち、かなりが除籍になった。10人粛清後の、“残存した”現民主主義文学同盟は、見事なほどに「スターリン式・政治の優位性」を認める、従順な文学組織に変質させられた。

 宮顕は、宇野三郎・元宮顕参議院議員国会秘書が、10人を放逐した手腕にいたく満足した。そこで、宇野・元秘書を常任幹部会員に抜擢するだけでなく、「社会科学研究所所長」「党史資料室責任者」にも大抜擢した。宇野・宮顕コンビは、1988年「日本共産党の六十五年」、1994年「日本共産党の七十年」で、“宮顕賛美を文学的に粉飾、改ざん”するための緊密なチームプレイを発揮した。宇野・元秘書は、宮顕側近グループの一人として、“文学作品「宮本史観党史」を創作”する上で大いに貢献した。
(私論.私見)
 「民主主義文学同盟」粛清がパラノイア反革命第20弾。

【原水協古参幹部粛清事件】(参考文献)「原水協で何がおこったか」(長崎肇.日中出版)
 1984(昭和59)年、原水協に大鉈が振るわれ、幹部が大粛清された。代表幹事吉田嘉清.草野信男追放。江口朴郎.小笠原英三郎.古在由重ら党歴30数年の学者党員たちを「党中央の指示に従わぬ」という理由で、除名されるという「原水協事件」 が発生している。この経過は、党より為す大衆団体への人事に対する公然たる介入であり、ここでも宮顕の号令一下の音頭取りが見られ、胡散臭さが付き纏っている。
(私論.私見)
 吉田嘉清氏は戦後初期の学生運動の闘士であり、共産党学生党員として早稲田大学細胞のキャップであった。1955(昭和30)年に原水協が設立されると同時にこれに取り組み、以来代表理事として平和運動の先頭で精力的に戦ってきていた。このたびその座を解任されるという事件が起こったが、70年代初頭の新日和見主義事件同様に戦闘的大衆団体としての「双葉の芽」を持っていたが故に、摘まれた事件であったのではなかろうか。原水協幹部大粛清がパラノイア反革命第21弾。

【出版妨害事件とその余波】
 8.9日、日中出版社が「原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る」を緊急出版した。金子・宮顕らは、その出版を阻止しようと、様々な出版妨害活動を展開した。しかしその工作は、妨害事実を日中出版社柳瀬宣久社長が、マスコミに公表したことにより、失敗した。党中央は、その出版は反党行為であると断定し、1985年、柳瀬社長と社員3人を査問し、全員を除名した。9月26日、吉田嘉清が反党行為をしたとして、査問し、除名した。10月、金子・宮顕らは、古在由重が提出した「離党届」の受け取りを拒否した。その上で、彼が「厳密にいえば分派活動」の規律違反を犯したとして、査問し、除籍した。
(私論.私見)
 創価学会の言論・出版妨害事件とまったく同じ性質の出版妨害を、日本共産党が行なったことになる。日中出版社弾圧がパラノイア反革命第22弾。

【雑誌『葦牙(あしかび)』批判キャンペーン】
 民主主義文学同盟辞任メンバーは雑誌「葦牙(あしかび)」を創刊して抵抗した。宮顕私的分派・側近グループは、1985.4月以降、徹底した「葦牙(あしかび)」批判キャンペーンを民主文学.文化評論.赤旗で行った。霜多正次は、「ちゅらかさ―民主主義文学運動と私」を発行し、そこで「4月号問題」とその経過を克明に分析、発表した。中里喜昭は、「葦牙(あしかび)」誌上で反論・批判文を書いた。武藤功は、キャンペーンへの反論文だけでなく、宮本顕治論を発行し、そこで宮顕の「あとがき」内容を詳細に分析、批判した。山根献は、「葦牙(あしかび)」の「丸山真男追悼集」で、「政治の優位性」論への批判を、丸山の見解と対比しつつ、緻密に展開している。
(私論.私見)
 民主主義文学同盟辞任メンバーその後の「葦牙(あしかび)」グループ弾圧がパラノイア反革命第23弾。

 【東大院生支部の『宮本解任決議案』問題発生】
 1985(昭和60)年、東大院生支部の「宮顕解任決議」騒動が発生している。支部指導部が、11月開催の第17回大会に向けて「宮顕解任決議案」を東京都委員会に提出した。宮顕解任理由は、党中央委員会、とくに宮顕議長は、1977年第14回大会後から誤りを犯し、国政選挙10年来停滞の指導責任がある、敗北主義・分散主義等党員にたいする様々な「思想批判大キャンペーン」をする誤りの責任があること等を問うものであった。その根底には、第14回大会以降の「民主集中制の規律強化」.「自由主義、分散主義との全党的闘争」を推し進め、ユーロコミュニズム・先進国革命とは逆方向に向かう宮顕路線への、東大以外も含めた学者党員、学生党員の党中央批判の感情、意見が反映されていた。

 9月、党中央は、支部にたいして、「1・大会議案は提出できる、2.提案は支部でなく、代議員個人」と正式回答した。10月、東大大学院全学支部総会が開かれた。都党会議の代議員枠2人に対して4人が立候補した。結果は、宮顕勇退推進派1人、党中央派1人で、党中央の勇退推進派落選工作は失敗した。投票内容は、宮顕勇退推進派23票、伊里一智13票の60%獲得にたいして、中央支持派は17票と7票で40%しかなかった。先に党中央は、「個人なら、規約上提案できる」と回答していたので、選出された都党会議の代議員Y氏は「代議員個人」として、まず都党会議で「宮顕解任決議案」を出す雲行きとなった。

 非常事態を迎え宮顕がこれに如何に対処したか。宮顕はこの動きを断じて認めなかった。宮顕は、かなる卑劣な「規約違反」手段を採ろうとも、Yの「代議員権」を剥奪することを決意し指令した。東京都常任委員会は、11月5日、「決議案は、当初5人の連名である。それは多数派工作によるものであり、分派活動である」とでっちあげ、直ちにその5人を査問し、権利停止6カ月処分にした。さらに、査問中、権利停止中であることを理由として、Y氏の「代議員権」を剥奪した。11.11日、都党会議が開かれた。上田が党中央を代表して、「Yと伊里一智一派の分派活動なるもの」を40分間にわたって批判する大演説をした。上田は宮顕忠誠派の本質を曝け出し、以後“上耕人気”は急速に低落することとなった。
(私論.私見)
 東大院生支部弾圧がパラノイア反革命第24弾。

【志位.河邑の大活躍と大抜擢】
 この粛清で、志位和夫と河邑重光幹部会委員・赤旗記者が大活躍した。この時志位は、5人の査問.権利停止処分と、Y氏の代議員権剥奪を直接担当し、粛清の先頭に立った。宮顕との直通ルートでひんぱんに連絡し、指示を受けた。そして、宮顕勇退勧告派の動きを、「分派の自由を要求する解党主義、田口富久治理論のむしかえし」と決め付けた。

 河邑は、伊里一智批判の大キャンペーンで、「負け犬」、「ビラまき男」とする“宮顕が大喜びする”ようなレッテルを彼に貼った。宮顕直伝手法により、伊里一智の思想的・人格的低劣さをねつ造する記事を“大量生産”して一躍名を挙げた。宮顕は、志位を論功行賞で、次回の第18回大会で「最年少の准中央委員(33歳)」にした。さらに、第19回大会では「中央委員、新書記局長(35歳)」に“超・超・大抜擢”した。志位は、宮顕から、宮顕擁護とあらば、いかなる卑劣なでっちあげも平然と行い、それに基く粛清をも手がけ、「汚れた手」になるのも、いとわない、最も党派性(=自分への盲従性)の高いヤングマンとの「お墨付き」を頂戴した。第20回大会では、河邑が「常任幹部会委員」に抜擢された。
(私論.私見)
 これが「宮顕―不破―志位の重層的指導体制」誕生秘話である。戦前のリンチ仲間宮顕-袴田コンビのそれに劣らない。

【「伊里一智」事件発生】
 11.19日、第17回大会会場入口で、伊里一智は、東大院生支部の「宮本解任決議案」問題の経過を書いたビラを配った。1986.1月、党中央は、伊里一智を査問し除名した。

 「伊里一智」に対し党中央側のキャンペーンを河邑記者が行った。河邑は、それらのキャンペーン記事によって、東大全学60%における宮顕逆路線批判共同意志問題を隠蔽し、伊里一智一人だけの、気狂いじみた「ビラまき男」問題に矮小化させた。1977年第14回大会以来の宮顕逆路線を批判する、最初の組織行動という、この問題の性格は、志位と河邑の宮顕直接指令を受けた大奮闘によって、「負け犬の、ビラまき男による党大会会場入口事件」にすり替えられ、一人の気狂い党員の行動として、葬り去られた。東大大学院支部粛清の“葬送カルテット”の騒音に怒って、多数の党員が離党した。
(私論.私見)
 伊里一智氏除名がパラノイア反革命第25弾。

【「新日和見主義事件関係者15年ぶりの集いの会」弾圧】
 1987(昭和62).4月上旬、「新日和見事件」 から15年後のこの日、元民青同中央常任委員・小山晃は、同事件の被処分者にあて、「5.30日、15年ぶりの会」と銘打って再会の呼びかけを発した。党中央は直ちに全国的な調査を開始した。「とにかく党員は『会』に行くべ きでないというのが党の見解です」と言いながら、何とかして会を中止させようと介入した。査問された小山は、次のように述べた後離党した。
 「誰かの指示かだと? どうしてあんたがたはそう言う風にしか人間を考えられないのか。自分の書いた手紙の通り、かっての友人達と15年ぶりの再開を果たしたいのだ、それ以上でも以下でもない」。

 当日、党の妨害を乗り越えて「15年ぶりの会」が開催された。党中央は、この会を認めず、会終了後判明した参加者に対して、下部組織を使って「参加者の氏名や会の模様を文書で報告せよ、党事務所に出頭せよ」などと執拗に要求してきた。それは不参加者や元中央委員でない者にまで及んだ。追求はこの年いっぱい続いた。
(私論.私見)
 無茶苦茶ではないか。新日和見主義事件関係者に対する最終弾圧がパラノイア反革命第26弾。

【兵本達吉「宮本独裁30年」事件】
 事件当時、共産党の国会議員の秘書であった兵本達吉氏が、1990年の信頼のおける友人3人への年賀状に「宮本独裁30年」と書いた。これが密告され、共産党本部の書記局から呼び出しがあり、「兵本氏は一連の東欧の社会主義の崩壊を目撃して非常にショックを受けたために、年賀状を書いた時は精神が動揺して精神的にも不安定だった」とされ、共産党系病院の総本山である代々木病院の精神科での診察、精神鑑定を強要された云々。
(私論.私見)
 ごく当り前の「宮本独裁30年」と書いただけの年賀状を問題化させ、「代々木病院の精神科での診察、精神鑑定を強要」するとは。パラノイア反革命第27弾。

「自由と民主主義の宣言」に関し、ルーマニア共産党が提灯声明を発表
 1990(平成2).2.14日、総選挙戦のさなかに出したアピールのなかで、共産党が1979年に発表した「自由と民主主義の宣言」に関し、ルーマニア共産党機関紙「スクンテイア」の後継紙「アデバル」の幹部が、概要「現在の東欧諸国の直面する諸問題を基本的に解明したもので、先駆的意義をもつ」と語ったことを材料に、「わが党はこの『宣言』を日本での展望として発表したもので、世界のモデルとしたものではないが、東欧の人々がこれを、そのように受け取っていることは興味ぶかい」と、例によって「先見性」、「先駆性」を自画自賛する為に利用していた。ここで、「興味深い」のは、このアピールの載った同じ15日付「赤旗」外信面に、ブカレスト13日発特派員電で「先駆的意義をもつ『自由と民主主義の宣言』ルーマニア紙副編集長語る」という記事が同時掲載されていることである。宮顕は、これをアピールの裏づけとしたつもりだろうが、世間では、こういうのは「やらせ」としかいわない。
(私論.私見)

【古在由重の死去報道せず黙殺する】
 3月、古在由重の死去で、「赤旗」は完全黙殺した。それへの党内外からの批判が高まり、共産党本部や「赤旗」編集局に抗議が殺到し、かなりの人が「赤旗」購読をやめた。すると、金子・宮顕らは、5.23日付「赤旗」で、「古在由重氏の死亡の報道に関して――金子書記局長の報告の要点」を掲載した。わざわざ「原水禁運動をめぐっての1984.10月の除籍にいたる日本共産党との関係」に触れ、「厳密にいえば分派活動規律違反行為」を指摘し、“死者に鞭打った”。
(私論.私見)
 古在由重氏逝去無報道がパラノイア反革命第28弾。

【「ルーマニア問題」での宮顕の対応】
 「赤旗」ハノイ特派員、外信部副部長、ブカレスト特派員などを勤めてきた厳名康得(いわなやすのり)氏は、1984年7月15日、離党届を提出。1985年1月25日、除籍されている。その厳名氏 が、1989.12月のチャウシェスク政権崩壊に見せた「ルーマニア問題」での宮顕の対応を非難し、「サンデー毎日(1990.3.4号)」に手記を寄せ、「宮本顕治議長よ、誤りを認めよ」を発表した。手記は、この間チャウシェスク政権との蜜月時代を謳歌し、同政権崩壊後その責任をとろうとしない宮顕共産党の姿勢に対して、党員、国民を愚弄していないかと、「歴史に立ち遅れた日本共産党を徹底批判する」論調で批判した。
 概要「宮本氏の強いイニシアチブと責任で行われたものであるのに、ルーマニア問題での『当事者の一人』というのは、一種の意図的な責任のがれ、すり替えではないか。問題は、あくまで白を黒といいくるめ宮本顕治無謬論、日本共産党無謬論を押しとおそうとするところにある云々」。

 これに対し、宮顕は、緒方靖夫氏(国際部長)の署名記事で、赤旗2.27日付の「変節した『元特派員』の日本共産党攻撃」を書かせ反撃したが、いつもの人格攻撃を異様なまでに加えたレッテルを貼り、社会的に批判を封殺するという伝統的習慣をここでも見せた。
(私論.私見)
 「赤旗」ハノイ特派員、外信部副部長、ブカレスト特派員などを勤めてきた厳名康得(いわなやすのり)氏が「ルーマニア問題」で事実を発信したことに対する除籍と赤旗での批判がパラノイア反革命第29弾。

【「ルーマニア問題」に対する木村愛二氏の意見書封殺】
 いわな氏の告発に対して、党中央を代表して緒方靖夫氏(国際部長)が反論し、更にこれをいわな氏が反論するというなりゆきをみせていた。この一連の経過に対して、党員ジャーナリスト・木村愛二氏(その後離党)が参戦する。双方の主張を聞き分けてみていわな氏の方に分があるので、要旨「党中央は早めに反省謝罪文を発表すべき」意見書を提出した。

 ところが、この「木村意見書」は封殺され、逆にこの意見書を提出したことにより木村氏は中央委員会から代々木の本部への出頭を求められた。「そこで経験したのは、それ以前の私の想像を上回る官僚主義の壁の厚さであった」と木村氏は伝えている。(関連サイト「ルーマニア問題考」
(私論.私見)
 党員ジャーナリスト・木村愛二氏の「ルーマニア問題に関する木村意見書」封殺がパラノイア反革命第30弾。

「古在由重先生を偲ぶつどい会」運動弾圧
 9.14日、川上徹が、藤田省三らとともに、「古在由重先生を偲ぶつどい」の企画、事務局側の一人となった。呼びかけ人には、家永三郎、久野収、加藤周一、遠山茂樹、川本信正らが名を連ねた。川上徹は、1400人の参加者のまえで「つどいの経過報告」をした。党中央は、それを、“除籍した者を偲んだ”規律違反として、川上徹を査問し、除籍した。
(私論.私見)
 日共系全学連初代委員長の履歴を持つ川上徹・氏の査問、除籍がパラノイア反革命第31弾。

各都道府県平和委員会・原水協役員党員数十人の役員解任、党除籍
 この間、各都道府県レベルの平和委員会・原水協役員である党員数十人の役員解任をし、党から除籍をした。これらの反核平和運動内党員活動家にたいする金子・宮本式大粛清に怒って、草野信男代表委員をはじめ、多くの平和運動活動家が離党した。
(私論.私見)
 金子・宮顕は、これら大粛清シリーズによって、「原水爆禁止運動の本流としての原水協」の私物化を完成させた。宮顕の出向くところ「いつでも、どこでも」粛清の剣が振り降ろされる。各都道府県レベルの平和委員会・原水協役員である党員数十人の役員解任、党除籍がパラノイア反革命第32弾。

【野坂名誉議長解任時の杜撰】
 1992(平成4)年、ソ連崩壊1年後、ソ連共産党・コミンテルン秘密資料や、「野坂ファイル」を発掘・分析した小林俊一・加藤昭らにより野坂のスパイ性や山本懸蔵同志を密告(=銃殺)していたことが判明した。翌93年、「闇の男・野坂参三の百年」(文芸春秋社)が出版されている。こうした動かぬ事実が突きつけられるに及び、9.17日党創立70周年の式典が終わってまもなく、党中央委員会は野坂氏の名誉議長解任を決定、12.27日、除名処分を決議した。

 ここで容易に問題となることは、先の袴田査問の過程で、「野坂議長をスパイとしておとしいれる陰謀を、1970年から7年間にわたって、日系米人ジェームズ・小田なるあやしげな人物(元米軍情報部員)と組んですすめてきた事実」を指摘し、規律違反容疑に挙げていたことである。結局袴田の指摘が正しかったことになるが、これに対する責任については口拭いしたままである。

 12.27日付の「野坂参三にかんする調査結果と措置について」という第8回中央委員会総会決議では次のように断罪している。
 概要「山本懸蔵を根拠なく告発することで、長年の同志であった山本懸蔵を裏切り、スターリンの大量弾圧に加担した。これは共産主義者として許されない行為であることはもちろん、人間的にも恥ずべき行為といわなければならない」。
 概要「アメリカにあった野坂がスターリンの粛清指針に積極的に呼応するために問題の書簡を送ったことが、野坂に対する党の調査で明らかになった。スターリンの不当な弾圧に積極的に加担する立場に身をおき、これを実行した。このような行為はけっして許されるものではない」。
(私論.私見)
 野坂を除名処分にしたが、野坂の胡散臭さはこの程度のものではなかろう。「総括ならぬ総括」に過ぎない。野坂の過去の指導理論や政治的立場が与えた影響又は役割、宮顕との連携プレーに関する宮顕の責任問題等々についての解明を行なっていない。この方面に対する総括無しに除名で済ましている現状は大いに問題が有るというべきであろう。野坂名誉議長に対する遅すぎる解任と真相隠蔽がパラノイア反革命第33弾。

【細川連立政権に対する敵対】
 1993(平成5)年、衆院選挙前、自民党の羽田.小沢派の43名が離脱、新生党を結成。竹村正義ら10名も自民党を離党して新党さきがけを旗揚げ。8月細川連立政権が成立したが、この新政権崩壊に向けて語調を強めている。
(私論.私見)
 細川政権に対する敵対がパラノイア反革命第34弾。

【丸山眞男批判】
 1994(平成6)年、新春インタビュー赤旗1.1日号、赤旗(日曜版)1.16日号で、東大政治学教授丸山眞男批判論文が掲載され、「丸山理論」への本格的批判キャンペーンが始まった。政治学研究の第一人者として著名な丸山氏は、戦前日本共産党の党活動が封殺された負の側面も含め真摯に総括することの必要性をコメントしていたが、赤旗はこれに噛み付いた。同氏の論調を捻じ曲げ、批判しやすいように歪曲し、「丸山眞男氏の『戦争責任』論の論理とその陥穽」論文で批判した。以降、丸山眞男批判論文が相次いだ。

 これに対し、宮地氏の批判は次の通り。
 概要「宮本氏による歪曲のひどさとして、共産党戦犯論と政党の政治責任としての戦争責任論とでは、その意味がまるで異なる。 宮本氏は、丸山氏の『共産党の政治責任としての戦争責任』論を、丸山氏の『共産党戦犯』論とする、ひどい歪曲をしているのです」。
 「宮本氏は、コミンテルン日本支部にとって、1922年結成から1935年壊滅までの13年間、戦争に一貫して反対し、闘ったことが『絶対的免責事由』なのであり、政治責任、結果責任としての戦争責任を問われるいわれは一切ないという立場に立っています。それに対して、丸山氏は、果たしてそう言い切れるのか、天皇の戦争責任と共産党のそれを先験的に除外するという『大多数の国民的通念』は正しいのかという疑問を提起したのです」。
 「宮本氏の歪曲的規定の根拠となる丸山氏の文献は存在するのかとして、丸山氏の『共産党戦犯』論」(新春インタビュー)という宮本氏の断定的規定はどの文献を根拠としているのでしょうか。私の調査、検索では、丸山氏によるその用語使用、それを類推させるような言い回し使用は一切ありません。 もしそれが丸山氏のどこかの文献に存在するのであれば、(注)で述べた私の意見は撤回します。その存在をご存知の方は、メールで教えていただけないでしょうか。もしそれがないのであれば、宮本氏および共産党は、『学問の世界での日本共産党の働き』などと『学問』を語る資格はありません」。
(私論.私見)
 丸山眞男批判キャンペーンがパラノイア反革命第35弾。

 【「ネオ・マルクス主義学者粛清」】
 高橋彦博法政大学教授が「左翼知識人の理論責任」を出版したのにたいして、「その内容には、党への誹謗中傷が数箇所ある」といいがかりをつけて、1994.5月、査問し、除籍した。それ以外にも、ネオ・マルクス主義学者らの研究・出版活動に圧力をかけ、または除籍した。党中央・県役員2人が、自宅に乗り込んで詰問し、恫喝している。

 これらの経過が一般に「ネオ・マル粛清」と呼ばれているものであるが、現下党中央の常幹メンバー総ぐるみで為されていることと、こうした宮顕式脅迫に遭ってかなりの学者党員があまり抵抗せずに、“党中央の思惑どおり”異論発表を止めるか、あるいは黙って離党したことに特徴がある。高橋彦博のように、自分の除籍経緯を公表するなどは、異例である。
(私論.私見)
 高橋彦博法政大学教授ら「ネオ・マル粛清」がパラノイア反革命第36弾。

 【自社連合復権に口先批判だけで見過ごす】
 6月、村山内閣成立。7.20日、村山首相が衆院本会議で自衛隊は合憲と答弁。この流れに対して、細川新政権に激しく対決した様子からはトーンの低いおざなり批判に終始した。この落差を凝視せねばならない。
(私論.私見)

【下里赤旗記者査問、除名と作家森村誠一氏の日本共産党との絶縁事件】
 10月、「日本の暗黒」赤旗連載の突然中止をめぐって下里赤旗記者他2名の査問、除名、作家森村誠一氏の日本共産党との絶縁が発生した。下里氏は赤旗記者を解雇され。この経過を公表し除名処分になった。

 「日本の暗黒」赤旗連載の企画は、もともと国会での浜田幸一議員の「小畑査問死事件」に対する質問をテレビで見た作家・森村誠一氏が、「この問題を徹底的に明らかにしたらどうか」と赤旗編集局に進言し、それがきっかけで連載企画が進行したものであった。党の内部で集団的に長時間をかけて検討し、何度もの会議と決済文書を積み重ね、「日本の暗黒」の第一の柱として「スパイ査問事件」を取り上げることが決まり、これを元に、党外作家と赤旗編集局長の合意が成立し、1989年に連載が始まった。 上級の集団的チェックを受けた原稿によって、多くの読者を獲得して進んでいたものが、いよいよ同事件に筆が進みそうになった直前の1991.6月の時点で、突然中断となった。何の問題もなく、万事順調に進んでいた連載が、なぜ突然中断になったのか。この背後には、宮顕のこの事件に対する徹底した隠蔽体質があるとしか考えられない。
(私論.私見)
 下里赤旗記者他2名の査問、除名がパラノイア反革命第37弾。

【引退】 
 1997(平成9).9月の第21回党大会で宮顕議長が引退。名実ともに「不破―志位」体制が固まる。「21世紀の早い時期」に民主連合政府の樹立をめざす政権構想を打ち出す。連立相手について不破は「修正資本主義論の立場にたつ勢力でも」と語る。
(私論.私見)




(私論.私見)