経歴3 | 戦後中半・党中央簒奪から中共派排除まで |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
見よ!この宮顕の変態長征の歴史を。まだまだ十分でなく、取り込めなかったり整理しきれてないが、これを読んで宮顕をまだ弁護する左派人士がいたとしたら、れんだいこはそういう者とは意思疎通をしたくない。白黒付けねばならないところと、つけてはならないところと、つけるに及ばないところとの仕分けが肝心だ。ここは、白黒つけるところであるからして十分に精読して思案して欲しい。 但し、このサイトでは極力簡略にし、通史としてひと目で追えるよう心掛けた。やや詳しくは、別サイトのそれぞれの項を参照されたし。掲載しているのは氷山の一角で、まだまだ漏れているところがあるのですが纏めきれない。参考情報及び資料のご紹介をお願いいたします。 2006.5.30日再編集 れんだいこ拝 |
【全学連「代々木事件」又は「6.1事件」発生】 |
1958(昭和33).6.1日、「全学連第11回定期全国大会代議員グループ会議」が代々木の党本部で開かれところ、学生党員らの党中央批判が噴出し、党中央委員全員の罷免要求を決議するという異常事態となった。全学連指導部の公然たる党に対する反乱であった。宮顕は直ちに処分に乗り出し、香山健一全学連委員長.島成郎.森田実ら3人を党規約違反として除名。13人を党員権制限の厳格処分に附した。いわゆる「代々木事件」又は「6.1事件」と呼ばれる。年末までに72名が処分された。 |
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徳球時代には学生運動急進主義派を利用した挙句、党中央簒奪後は切り捨て、以降「跳ね上がりのトロツキスト」と罵倒し続けていくことになる。学生運動急進派追放が党内反宮顕派清掃第3弾となる。 |
【第七回党大会開催で「宮顕-袴田体制」が確立】 |
7.21日より第七回党大会が開催された。この時宮顕の指揮する党中央は会期中各代議員を分宿させて缶詰状態におき、横の連絡を不能にした。始めの2日間は、中央主催の予備会議として、あらかじめ大会の運営と役員についての腹案が練られた。大会の日程から議題の討議の方法までも事前に決められるという手法がここに確立されることになった。 大会で、「宮顕-袴田体制」が確立された。「六全協」時の徳田系とのバランスが一方的に崩れ去り、旧国際派勝利の大会となった。宮顕系の主流派閥化の形成と官僚主義に道を開いたが、春日(庄)・内藤グループとの確執が残った。この時 「5つの教訓」が定式化されている。要約すると、「党のとくに中央委員会の統一と団結」、②.「民主集中制と集団指導の原則」、③.「地方組織の党中央への服従」、④.「党の内部問題の党外持ち出しの禁止 」、⑤.「党の政治的、理論的水準を向上させることにより党中央の指導に服すること」という今日に牢として確立されている党中央絶対権力理論を確立している。 |
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第7回党大会で「宮顕-袴田体制」が確立された。この時より、いわゆる宮顕式党運営が定式される。但し、この時点では、春日(庄)グループが最大抵抗勢力として立ち向かう。 |
【第七回党大会開催で綱領論争に決着付かず】 |
「党章草案」の綱領部分に対して春日(庄)グループが反対意見を述べ続け決着がつかなかった。 国家の独立規定と当面の革命の性格方針をめぐって、宮顕らの「従属」規定と、「民族の完全独立と民主主義擁護の為の人民民主主義革命」論に対し、春日(庄)らは「自立」規定と、「構造改革のコースを通ずる社会主義革命」を主張した。論争は本会議で決着がつかず、綱領小委員会をもうけて検討された。ここでもまとまらず、綱領部分の採決はしないことにして、「引き続き討議すべき草案」として承認するにとどめて、その最終的決定は次の大会に持ち越した。 |
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要するに、宮顕派の綱領は右翼的なもので、それを強引に押し付けようとするところに問題が発生していた。 |
【戦前の元中央委員会委員長・山本正美、野田弥三郎の都委員資格を剥奪】 |
9.21、「第4回東京都党会議」で、都委員会に自己批判を迫り、突然、野田弥三郎と山本正美の2委員の都委員資格を剥奪した。 |
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山本正美は戦前の元中央委員会委員長である貴重な人士であったが、そのような配慮は微塵もないことが分かる。旧国際派の野田弥三郎、山本正美追放が党内反宮顕派清掃第4弾となった。 |
【宮顕体制への地固め、反対派の排除進む】 |
10.4日アカハタは2ページを費やして、武井.野田.片山らの規律違反なるものを攻撃する宮顕の長大論文を載せた(「党建設の問題に寄せて」)。春日(正)が都委員長に天下り統制を強めていくこととなった。 10月、東京都党会議の後、「第11回大阪府党会議」が開かれた。宮顕の意向を受けた松島が乗り込み、「独立闘争の」意義を協調して府委員会の報告草案を批判した。第10回神奈川県党会議でも、「独立の課題の過小評価」を指摘して、反対派分子を牽制した。京都府党会議では、府委員大屋史朗(西京司)に対する罷免カンパニアが組織され、旧所感派の河田賢治が後がまに座った。大屋はその後、革命的共産主義者同盟関西派の中心となった。千葉県党会議でも同じ様な反対派排除が行われた。並行的に年末にかけて学生党員の除名が進められた。 |
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【宮顕式党勢拡大、党建設方式の確定】 |
11.20日より「第3中総」を開いた。この会議で、党中央は、「党生活の確立と党勢拡大の運動」の決議を行い、一般の党員に対して、「①.細胞会議を定期的に開く、②.全党員がアカハタを読む、③.党費と党機関誌代を完納する」という三つの目標を掲げた。 |
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宮顕は、読売新聞の新聞拡張しごき教室と通底する「自己目的的な党勢拡大と中央への盲従の道」を定式化させた。「宮顕独特の党建設方式」が、この第3中総において確定された。 |
【ブント結成に対する粉砕決議】 |
12.10日、先に除名された全学連指導部の学生党員たち(全学連主流派)が「日本共産主義者同盟」(ブント)を結成した。その学生組織として「社会主義学生同盟」(「社学同」)が結成された。直後の12.25日、党は、幹部会声明で、「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と、全学連指導部の極左主義とトロツキズムに攻撃を加えた。こうして、党は、ブント「社学同」を排撃し、「民青同学生班」を強化していくこととなった。 |
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この「無慈悲さと『左』との闘争に最も戦闘的になる」のが宮顕の特徴である。 |
【党中央宮顕派と春日(庄)派の対立沸点化と統制の強化】 |
1959(昭和34).6.29日、「6中総」で、宮顕派と春日(庄)派が対立した。選挙総括、安保改定の評価、綱領問題、第8回大会の問題等々を廻って論争となった。「宮顕系党中央の徳球時代にまさる官僚主義的な党運営のやり方」に対する批判の声が挙がった。しかし、春日(庄)は、前衛8月号で選挙闘争総括論文において党の自己批判の必要を指摘したことに対する「全文取り消しを強要」され、7.9日付けアカハタ紙上に発表手続きの誤りについての自己批判と論文の取り消しとを発表させられている。 |
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これ以後、春日(庄)の論文は形式的な追悼文などのほかには党の機関誌から姿を消すことになった。 |
【雑誌「現代の理論」廃刊強制】 | |
「6中総」で、大月書店刊行の雑誌「現代の理論」を規律違反として摘発した。4月に刊行されたばかりのこの雑誌は、「現マル派」といわれる構造改革派系の党員理論家たちが結集しており、進歩的な党外の思想や非マルクス主義者との相互討論によってマルクス主義の創造的発展をはかろうとしていた。これに対して、宮顕は、「6中総」決議として、次のように述べ弾圧を指示している。
8.17日アカハタ主張において、「このような性質の刊行物を党員が出したり、又党員がこれに参加すること」を「即座に中止すべきである」との指示により、「現代の理論は9月第5号を最後に廃刊となった。 |
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雑誌「現代の理論」廃刊は、党中央の露骨不当な言論.出版抑圧であった。この履歴を持つ宮顕党中央が、後年公明党の出版圧迫を大きく取り上げていくことになる。事情通からすれば何をか況やではなかろうか。このマヌーバーが何とも宮顕らしいところとも云える。「現代の理論」派追放が党内反宮顕派清掃第5弾。 |
【狂気の「手紙カンパニア運動」始まる】 |
第8回大会を前にして、「党を拡大強化するために全党の同志に送る手紙」を採択し、これが大衆的前衛党を目指す党勢拡大運動の歴史的出発点になった。こうして保険の勧誘まがいの手紙カンパニアが組織された。春日(庄).内藤らはこの方針に反対した。まじめな批判的党員が嫌気がさして機関を離れたり、無活動に陥っていくものが増えていった。党勢倍加運動は、反対派勢力の排除と抑圧、新しい支持層をつくることによる党内基盤の強化に役だった。 |
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いずれにせよ、中央の権威を統制強化と絶対服従と無条件忠誠の強要によって確保しようとする強権統制主義が敷設されていった。 |
【在日朝鮮人の帰国事業に宮顕が加勢】 |
在日北朝鮮人の帰国事業が1959(昭和34)年より始まった。9万人余りの在日朝鮮人が、日本から朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ渡ることになるが、今日から見てその背景はイカガワシイ。元々、在日朝鮮人の帰国は日本政府の意図していたところであり、これと金日成政権が呼応し、朝鮮総連(議長・韓徳銖)の指揮の下で全国津々浦々で帰国協力運動が巻き起った。 この時宮顕は、この帰国事業を極めて熱心に煽っている。凡そ帰国事業が一段落するまで金日成政権を誉めそやし、その後は手のひらを返して口を拭っている。 |
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在日朝鮮人の帰国事業に関しても、宮顕は当局の意向を挺して立ち働いている。 |
【港地区問題勃発】 |
中央に制圧された都委員会の中にあって港地区代議員が反対派を結集していた。この港地区には、国鉄品川.全電通.その他の公労協や民間大企業の拠点経営細胞が多く、9月下旬の第4回港地区党会議において、中央批判組が新地区委員会と都党会議代議員の多数を制した。都委員会は、地区党会議の無効と山崎.田川.冬木の3地区委員の資格剥奪を決定し、別に地区委員長を定めた。この渦中で浜武司が「功績」を挙げた。 |
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港地区党委員会弾圧は、権力的手法そのもので行われたことを確認する必要がある。港地区党委員会追放が党内反宮顕派清掃第6弾。 |
【全学連に対する「トロツキスト集団」非難強める】 |
11. 27日、第8次統一行動の国会デモで、全学連学生らによる「国会乱入事件」が発生している。党中央は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、これを専ら反共・極左冒険のトロツキストの挑発行動とみなして、ただちに事件を非難する声明を発した。常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。こうして連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。 この声明に対して、共産党港地区委員会は中央に抗議声明を発し、27日の全学連デモを支持した。都議員団はじめ多くの党組織から全学連事務所に激励のメッセージが寄せられた。 |
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以降、対権力闘争には幅広整然穏和運動を志向させ、極左・トロツキストに対しては戦闘的に粉砕せよと呼号する変調運動が満展開されていくことになる。 |
【岸首相渡米阻止闘争に対する敵対】 | |
1960(昭和35).1.16日、岸首相の渡米阻止の為の大衆運動計画が立てられるや、党中央はこれに猛然と反対を唱え、全都委員.地区委員を動員して、組合の切り崩しをはかった。この時、党中央は、次のような妙ちくりんな言辞を弄している。
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アカハタのこの言辞は何ぞ。「人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」と如何にも闘うようなポーズを示すが、何のことは無い「代表団を秩序整然と羽田空港に送り」と方が本音で、要するに平穏見送り論でしかない。宮顕にはこういう論法が多い。 |
【「トロツキスト集団全学連」の非難更に強める】 |
全学連が独自行動にでて、約700人が羽田空港ロビーを占拠するという羽田事件がおこるや、再びトロツキストの挑発行動として大々的に非難した。知識人によって羽田事件の犠牲者の救援運動が始められるや、当中央は発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかった。関根.竹内.大西.山田.渋谷などの人々が発揮人をとりさげざるを得なくされた。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となった。 |
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当然の救援運動にかくも水さす指導をしている。これが万事宮顕流である。 |
【「小畑査問致死事件に対する検閲姿勢】 |
6.19日、安保改定阻止闘争の最中、平野謙が手塚英孝(宮顕の入党時の推薦人であるという同郷昵懇の文芸作家)と会った時のエピソードが伝えられている。手塚が「査問事件」に関する作品発表をなそうとしていた事に関して、平野が「進んでいるか」と尋ねたところ、大要「実は宮本の検閲に引っかかりましてね。作品発表を見合わせました」(「リンチ共産党事件の思い出」68P)という返事がなされたことを明らかにしている。従って、手塚の5年後の発表作品「予審秘密通報」(文化評論.昭和40年12月号)は、宮顕の検閲を通過した作品であることが逆に知れることになる。 してみれば、袴田の著作「党とともに歩んで」のこの部分の記述も、当然検閲通過させられていることが想像されることになる。ということは、いわずもがなではあるが、「党ととも に歩んで」中の「査問事件」の記述もこのセンテンスで読まねばならないということだ。袴田が後日党と袂を分かったことを見てこれを正確視する向きもあるが随分曖昧化されていることを知っておくべきであろう。 |
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宮顕が査問事件に対する解明を妨害している史実が浮き上がってくる。 |
【安保闘争に対する右翼的方針指導】 |
4月から波状的な国会請願デモが開始された安保闘争が昂揚していくことになるが、この時期の宮顕の指導は、安保闘争全体を民族闘争の枠に限定付け、岸政府打倒闘争を避ける方向へリードしている。しかも、その闘争戦術の基準をできるだけ広範な人民層の参加という幅広主義と、諸勢力との調整の必要という点から最低次元の統一行動に規制していこうとする整然方式にすえ何とかして穏和化へ戻そうとさえしている。 |
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党の国会請願デモに対して、全学連指導部により葬式デモの痛罵が浴びせられることになった。 |
【樺美智子事件発生と余波】 |
6.15日、全国580万人の参加で第二次全国ストが遂行された。東京では、15万人の国会デモがかけられ、ブント.社学同の学生たちを中心に数千人の国会突入が為された。この最中に樺美智子が死亡する事件が起こった。樺美智子事件の衝撃でアイク米大統領らの訪日は中止となり、国会デモはその後更に33万という史上最大の動員数を示した。この時党は、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は全学連主流派の冒険主義にも責任がある」と声明して怒りを買っている。6.23日、樺美智子追悼葬の夜、全学連主流派学生250人が憤激して、党本部に抗議デモをかけた。 |
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党は、この一連の経過で、戦闘化した大衆から前衛失格.前衛不在の罵声を浴びることになった。安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となったが、日共は「乗り越えられた前衛」と評され、この言葉は革新ジャーナリズムの流行語となった。但し、スパイに則られた党中央という認識までには至らず、その分宮顕の悪事を許すことになる。 |
【民青同盟6回大会に対する穏和化干渉】 |
安保闘争終息後の6.27日、民青同盟第6回全国大会が開かれ、同盟の新しい性格と任務を決定した。宮顕は、民青同の右派化を策していたが、同盟6回大会で、宮顕の修正個所が批判を浴びて、当初同盟中央が決定したように「労働者階級の立場に立って、人民の民主主義的課題のために闘う」と明確に改めた。宮顕は、同盟中央が作成したよびかけ、規約を自身の筆入れによる穏和路線へ再修正させた。 |
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宮顕は、何のために青年運動にかくまで目を光らすのだろうか。「宮顕スパイ論」を媒介せずば解けず、媒介させれば容易に解ける。 |
【「81カ国共産党会議」に独断代表派遣】 |
12.7日、モスクワにおける「81カ国共産党.労働者党会議の声明」が発表された。宮顕と袴田が参加していた。モスクワ会議への代表派遣という重大問題について中委総会にはからず、単に全員でない幹部会をもっただけで勝手に決めている。結局自分らの派閥だけで代表を決定した。 |
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宮顕の規約重視がいかにご都合論理であるかが見て取れる。 |
【「宮本綱領」の採択】 |
1961(昭和36).3.1日より「第16中総」が開かれた。この「第16中総」に「綱領草案」が提出されたが大激論を生み結局満場一致とならず、中央役員44名中、4分の1に近い10名が反対又は保留した。2年半の討議を経てもなお難産であったということになる。この時、大会議案に反対と保留の中央委員は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはならず、400字詰原稿用紙25枚以内にまとめた意見書を、希望によって党報に発表することが出来る、と決められたが、この最低限とも云える約束さえ反故にされた。以後中央主流による綱領反対派に対する統制.抑制.官僚的圧迫が強化されることになり、予備工作が進行した。 |
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「宮顕綱領」の本質は、無茶苦茶な右派綱領というところに本質がある。それを無理矢理採択させたところに政治的意味がある。凡庸な者はそこが見抜けず、綱領を絶対視させられてしまった。 |
【「新日本文学会」系の第一次弾圧】 |
4.12日アカハタは、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分をページ全面に発表した。続いて4.17日アカハタはこのアピールに賛成して中央の説得に従わなかった数名の同志が、規律違反の処分を受けた顛末を報じた。数名の同志とは、主に「新日本文学会」に属する小林勝.柾木.岡本.大西.小林祥らの作家.評論家たちであった。 |
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関根弘、武井昭夫処分が党内反宮顕派清掃第7弾。 |
【長谷川浩除名】 |
この頃伊藤律と最も親しい党歴を持っていた徳球系残存指導幹部であった長谷川浩が除名されている。除名された長谷川はその後「労働運動研究」誌に拠り、清貧のうちに晩節を全うした。 |
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徳球系残存指導幹部の長谷川浩処分が党内反宮顕派清掃第8弾。 |
【「第8回党大会」に向けての強権発動】 | |
5.6日より都道府県委員長会議が開かれ、中央から綱領討議に対する厳重な規制が指示された。以後7月にかけての都道県党会議において、党内反対派への抑圧を強化し、排除が強行されて行った。6.12日アカハタは、次のような語るにおちる党官僚の放言を掲載した。
「宮顕秘書グループが暗躍」し、反対分子の多いと見られる地方組織に主流派幹部を派遣して、党会議を統制し、締め付けをはかった。草案反対者は機関として推薦できないとして、あらかじめ代議員候補のリストからはずすといった規約蹂躙の工作が全国的に展開されていくこととなった。野坂.宮顕.袴田.志賀.松島.聴濤.土岐.川上らが手分けして各県の党会議に乗り込んで反対意見を封殺していった。 この間、先の16中総の申し合わせで春日(庄)以下10名から提出された意見書の内容は党報へ掲載される権利が留保されていたが、「16中総」の決定をゆがめて伝える恐れがあるという理由で、党報への掲載が中止されることとなった。大会直前に発効された前衛8月号には、志賀.袴田.松島.米原らの草案支持の論文をずらり揃えた上で、内藤.内野(壮).波多の反対意見書を投稿扱いで載せた。 府県から地区に至る党会議や委員会総会は、すべて草案を踏み絵として党員を点検する「検察の場」と化し、大会代議員の選出は、選考委員会によって推薦名簿の段階で厳重にふるいにかけられ、批判意見を持つ代議員候補者は、ほとんど故意に落とされた。「中央は絶対に正しい」、「中央に忠実な機関は又正しい」とする組織体質が定着化していった。この結果、7月上旬までに全国にわたってほぼ終了した大会代議員の選出では、綱領反対派又は反中央分子とみられるものは、完全に近く排除されていた。 |
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党中央による露骨な規約蹂躙、これが民主集中制の本質であることが分かる。 |
【春日(庄)グループ除名、離党】 | |
春日(庄)を「反党分子」として除名した。これにより春日(庄)ら構造改革派グループが集団離党した。7.8日、中央統制監査委員会議長春日(庄)は離党届けを出し、同日夜記者団に次のように声明した。党大会を前にして現職の党幹部が離党し、公然と中央批判したことは前代未聞であった。
山田.西川.亀山.内藤.内野.原の中央少数派が連名で、「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。これに対し、党中央は、春日.山田六左衛門等7名を除名にし、この前後多数の地方機関役員その他を処分し反対派への大々的カンパニアを展開した。「反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義等々の大々的非難か攻撃キャンペーン」を開始した。 7.20日、「第18中総」で、党中央は春日等7名の除名を規約を無視して決定した。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。7.24日、武井、9.2日、大西、9.6日、針生.安部らを除名。党大会までに発表された被告処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名.中央部員2名.元都委員8名.県委員1名.理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。 |
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春日(庄)派処分が党内反宮顕派清掃第9弾。 |
【「新日本文学会」グループ除名、離党】 |
春日(庄)派の反乱に続いて「新日本文学会」の党員作家.評論家グループが、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、大会を延期せよ」とする意見書を提出した。有力会員14名が連名していた。中野は意見書を勧めながら、連名しなかった。続いて、7.22日、「新日本文学会」の党員グループ21名連署で党の内外に宮本派指導部非難のアピールを重ねて発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本.袴田.松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。その後、除名ないし自ら離党していくことになる。 |
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「新日本文学会」グループ処分が党内反宮顕派清掃第10弾。 |
【旧東京都委員会グループ除名、離党】 |
7.23日、野田.増田.山本.芝.西尾.武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。7.24日、増田.片山等が連署で離党声明を公表した。こうして、各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。 |
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旧東京都委員会グループ処分が党内反宮顕派清掃第11弾。 |
【第八回党大会で、宮顕-袴田体制継続】 |
7.25日より第八回党大会が開かれた。 大会の眼目は新綱領の採択にあったが、反対派がことごとく排除されていた為議案は全てしゃんしゃんの全員一致で採択された。万一綱領反対者が発言しないかと恐れた中央は、大会運営の厳重な統制をはかり、大会発言者には全て事前に発言の要旨を文書で提出させ、綿密に審査した後大会幹部団の指名によって発言を許可するということにした。大会討議においては反対意見は姿を消し、綱領草案についてもこれの実践的検証を誓う没理論的発言か、草案反対派との闘争を手柄話にする「お茶坊主発言」が相次いだ。神山.中野.波多らは綱領草案支持を表明し、かって反独占社会主義革命を主張した中西.鈴木らも、自己批判して草案支持を明らかにした。志賀は、会期中発言らしい発言を一度もしなかった。「春日庄次郎一派の反党的、反階級的裏切り行為の粉砕にかんする決議」を全員一致で採択した。 この時の人事で引き続き宮顕-袴田体制が継続された。野坂.志賀は実質上棚上げされた。宮顕.袴田という戦前の党の最終中央コンビが磐石の態勢で指導権を握った。 |
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【第八回党大会で、規約改悪】 |
この時規約改正が行われたが反動的に改悪された。党大会の召集の延期、下級組織の委員の移動と配置、 地方における中委の代表機関の設置、党員の多い工場や経営の危機に対する中委指導に必要な措置等々これら全てが新たに中央委員会で出来るようになった。中央の権限強化だけでなく、幹部会は必要な場合常任幹部会を置くことが出来、幹部会は中央統制監査委員会 に出席することが出来るようになって、今や中委-幹部会-常任幹部会と、少数独裁制への移行の保証が与えられるに至った。他方、規律違反で審議中の者は6ヶ月の枠で党員権利を停止されることとなった。 |
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限りない右派路線へのひた走りと規約改悪こそが宮顕系党史の流れである。 |
【民青同のベルト化指導】 |
党は、この頃民青同盟を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置に替えた。 |
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【春日(庄)派系学生グループ「青学革新会議」)の結成とそれへの攻撃】 |
党8回大会前後春日(庄)派が離党したが、これに呼応した民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心として9月青年学生運動革新会議(「青学革新会議」)が結成されたが、宮顕は、アカハタ紙上で執拗にその攻撃を指示し続けた。 |
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【「4つの旗」の定式化による宮顕路線の党内徹底】 |
1962(昭和37).7.13日、「第3中総」で、「日本共産党創立40周年にあたって」を採択。「4つの旗」を定めた。「4つの旗」とは、 ①.反帝反独占の人民の民主主義革命の旗、 ②.祖国の真の独立と人民の勝利の保障である民族民主統一戦線の旗、 ③.政治的思想的組織的に強固な強大な日本共産党の建設の旗、 ④.アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際統一戦線の旗として定式化し、「宮顕式綱領路線の普及と徹底化」をはかっている。 |
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【機関紙中心の党活動の定式化による宮顕路線の党内徹底】 |
10.5日、「第4中総」。機関紙活動の重要性について、党の総路線-4つの旗を実現する活動全体を結びつける党の動脈であると強調。機関紙中心の党活動を定式化、正しい党風を呼びかけた。 この時党の労働組合政策の基本方向を明らかにし、総評依存主義の誤りを指摘。報告と決議で社会党.総評を「社民」と規定し、強硬路線を打ち出す。綱領路線を基準とする民族民主統一戦線を押し出し、総評依存主義からの脱皮と独自の組合=大衆活動を志向する。 |
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以後あらゆる大衆運動に「二つの敵論」を持ち込む。 |
【波多然とそのグループが脱党声明発表】 | |
1963(昭和38).3.8日、佐賀県の前中央委員波多然とそのグループが次のような脱党声明を発表した。
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波多然とそのグループ処分が党内反宮顕派清掃第12弾。 |
【「自主独立の立場」登場】 |
9.23日、宮顕は、NHK教育テレビで初めて「自主独立の立場」の言葉を使う。 |
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「自主独立の立場」そのものは結構な立場であり、宮顕の唯一の功績である。しかし、これを語るなら党史上初めて「自主独立の立場」に立った徳球党中央を国際派の観点から批判していた過去について自己批判せねばなるまい。そのことには何ら触れないご都合主義でしかなかった。且つ、国際主義的共同の在り方について貧弱すぎる観点を見せているので、実践的には有害な役割しか果たさなかった。胡散臭い連中は何をやらせても胡散臭いものになるという好例である。 |
【野坂疑惑の隠蔽】(有田HP.投稿者:志賀義雄.投稿日2000.11.14日より) | |
野坂スパイ説は一部でではあるが既にこの頃指摘されていた。後に袴田が唱えるより早く、高谷覚蔵氏(戦前のソ連クトーベ帰りの人)の「革命は一夜にしてなった」(昭和38年)の110頁に以下の記載がある。
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つまり、この当時においても山本懸蔵夫妻の所在を求める声が党内から挙がっていたことになり、その真実究明を時の党中央幹部たちが恐れていたことになる。 |
【「4.17ゼネスト」をめぐって】 |
1964(昭和39)年、この年の春闘で総評.公労協が大ゼネストを企画していたところ、この時党は、突如「4.8声明」を発布し、単に日本共産党の名義のままの幹部会でも中央委員会名でもない声明文で、4.17ゼネスト消極論を主張した。この奇怪な党指導の経路と経過は今日まだ解明し得ていない謎である。何らかの強力な指示と圧力があって、幹部会全体を無視し乗り越えていったことだけが確かである。この中央指示の誤りを批判し拒否した数少ない動きに山口県党、名古屋の中郵細胞があったが、いずれも制裁を受けている。 公労協を始めとする総評は、党に対し「組合破壊分子」.「スト破り」という一斉攻撃を浴びせ、「4.8声明は政治主義にたった誤りであり、特にスト直前に統一を乱したことは間違いである。党の決定を優先させ、組合機関の決定に従わない組合員は厳重に統制処分する。共産党が右のような態度を続ける限り、総評は重大決意をもって対決する」という方針を確認した。こうして「共産党員労働者が労働組合から処分されていくという事態となった。党の権威は大きく失墜し、組合運動.大衆運動への影響力を大幅に後退させる結果となった」。 この時党の最高幹部がどう対応したか。宮顕と袴田はこの時中国にいた。宮顕は帰国して、まず聴濤を統制違反で処分し、「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走によるもの」と公労協に詫びを入れ一件落着にしている。 |
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「4.17ゼネスト敵対」は、宮顕系党中央の政治的役割を露呈した。「中央の決定は絶対正しい。その無条件実行は又正しい」 という中央盲従、服従ぶり、下部機関.一般党員のあやつり人形ぶりが露呈した。党の独善的な一枚岩的組織体質、上意下達運営方式の官僚主義を定着させた。 |
【志賀義雄造反、除名】 |
「部分核停条約問題」で、志賀が党の決定に背いて賛成票を投じ造反した。本会議解散後、志賀は、報道陣を前に「みなさんに訴える」の声明文を配り、記者会見した。鈴木市蔵、中野重治がこれに同調した。これに対し、党中央は、袴田主導で志賀の党所属国会議員としての権利を停止する処分を発表した。同時に「志賀義雄同志の党に反対する行動について」を決定
した。中国で療養中の宮本は、志賀問題の知らせを聞くや予定を切り上げて帰国し、「第8中総」で志賀.鈴木を党規約破壊.裏切り者と罵った。出席中央委員57名中53名の賛成で、二人を最高処分である除名を決定した。秋に予定される
第9回大会で正式決定にすることにした。神山は態度を保留した。 この日志賀義雄著「マルクス・エンゲルス・レーニン・日本論」が絶版にされた。宮顕が幹部会も開かず、中央委員会にも諮らずに書記局の専断で決定した。「宮顕版焚書」と言える。 この間「党内での自由な論議が一切禁止」され、党員が外部は勿論党機関紙誌においても賛否の意見を発表することは許されなかった。党内の反対意見や少数意見は、それ自体が分派的だと決めつけられる根拠となり理由となった。「分派は人民の敵であるから、これを殲滅するにはどんな手段をとってもよい」とするスターリン的論理が堂々とまかり通った。志賀問題は波及し、朝倉.出.国分一太郎.佐多稲子.佐藤.野間宏.本郷.丸木位里.俊子夫妻.宮島.山田.渡部らが造反した。 |
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親ソ共派志賀グループ処分が党内反宮顕派清掃第13弾。獄中18年の指導者同志志賀は一夜にして党と人民への裏切り者と化 した。「政治的意見の対立の処理に限度を越えた糾弾と抹殺方式が採用」され、語るに落ちる党の到達段階を示していた。 |
【神山.中野問題発生する】 | |
「8中総」のあと、神山は、日朝協会.原水協.平和委員会などの役職を次々とはずされた。7.7日、神山は中委あてに意見書を提出した。そこで彼は、「8中総」前後の中央の決議.決定の発表方法や内容についての意見を述べ次のように批判している。
7.13-15日、「第9中総」が開かれ、会議の冒頭で、宮顕書記長から、動議でも提案でも意見でもない奇妙な形式の報告が為された。長野県における神山グループの分派的行動と、新日本文学大会、その他での中野の規律違反が言及された。袴田.川上.金子.多田などから神山.中野への攻撃的発言が為された。野坂からも、幹部会.中委総会.大会などの秘密が公安調査庁に筒抜けになっていて、「8中総」の議事も80パーセントまで公安情報に出ていると報告があり、これを受けて西沢隆二らから、二人がいては秘密をばらす恐れがある、二人を加えておいて党の秘密が保てるのかなど、攻撃が浴びせられ神山と中野は、これら一連に抗議した。 |
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【党が「4.17スト対応」自己批判する】 |
党は、この総会で「4.17スト」反対への誤りを認め自己批判した。この時党の最高幹部がどう対応したか。宮顕と袴田はこの時中国にいた。宮顕は帰国して、まず直接の指導責任者であった聴濤を統制違反で処分し幹部会員から解任した。竹内七郎を書記局員.労働組合部長から解任した。「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走による者」と公労協に詫びを入れ一件落着にしている。聴濤は、4.17スト中止指令は党の最高幹部による合議であっただけにショックを受け、翌日から党に出てこなくなり、翌年怪死を遂げている。死因は急性心機能不全と記録されている。 |
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竹内七郎.聴濤処分が党内反宮顕派清掃第14弾。 |
【神山.中野除名される】 |
8.23-27日「第10中総」で神山.中野の党員権を停止。神山等中央批判の文書を出し、党中央と論争する。原潜寄港問題で決議採択。党勢拡大月間を決定。9.25日-30日「第11中総」で神山.中野を除名する。 |
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神山.中野グループ処分が党内反宮顕派清掃第15弾。 |
【第9回党大会】 |
11.24日より第9回大会が開かれた。既に確立された宮顕体制の追認大会となった。 ソ連共産党の大国主義と現代修正主義批判、教条主義批判を新たに押しだし、自主独立論を中共路線上に名目的に確立する。党員15万人に達し、中央役員で宮顕体制を一層強化する。人事は引き続き宮顕-袴田体制の継続が確認された。中央委員候補に上田耕一郎.不破哲三.工藤晃が登場していることが注目される。上田・不破兄弟の登用が次第に袴田と確執していくことになる。 |
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上田耕一郎.不破哲三の登用がやがて宮顕-袴田体制を突き崩すことになる。 |
【中共との蜜月で病気療養】 |
1965(昭和40).1.18~3.7日、宮顕は中共詣で病気療養をしている。しかし、この時伊藤律が幽閉されていたにも関わらず折衝が為されていない。 |
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宮顕が、伊藤律幽閉を知らなかったならば許されようが、そういうことは経緯から観て有り得ない。 |
【ソ連共産党との論争】 |
この頃ソ連共産党との論争が為された。この時イデオローグとして活躍したのが不破哲三であった。 |
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【中国共産党との論争】 |
1966(昭和41).1.1日、宮顕は新春インタビューで「新しい年の展望と日本人民の責務」をアカハタに発表。自主独立路線の志向を明確にさせた。2.9-4.4日、宮本党代表団は中国.北ベトナム.北朝鮮の訪問を終えて帰国した。この時中国共産党毛沢東指導部と反帝統一戦線問題及び日本革命の進め方をめぐって大きく対立し、以降抜き差しなら無い反目を深めていくことになった。 |
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ソ共に続いて中共との対立に向ったが、問題は、どういう理論及び論法で自主独立化し得たからである。 |
【山口県党(中国派)の除名相次ぐ】 |
8月、原水爆禁止大会以後中共の日共路線への批判が強まり、山口県党は中共路線の立場から中央を批判する。これに対し、党中央は、西沢隆二、党山口県委員会の福田正義ら5名、原田長司、日中友好協会の大塚らを除名する。被処分者は100名を越えた。福田ら被除名組は「山口県委員会革命的左派」を結成し、機関紙「革命戦士」を発刊する。 |
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親中共派グループ処分が党内反宮顕派清掃第16弾。この中共派弾圧でもって理論闘争的面を含んだ党内反対派追討を終える。これ以降は弾圧ないしは闘う団体に対する敵対の面が強まるのでパラノイア反革命所業と受け止め、「パラノイア反革命」として記すことにする。 |
(私論.私見)