経歴2 | 戦後前半・戦後直後から「六全協」まで |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.25日
(れんだいこのショートメッセージ) |
2006.5.30日再編集 れんだいこ拝 |
【敗戦後の一日早い出獄日の疑惑】 |
1945年.10.9日午後4時、網走刑務所を出所した。 |
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この一日早い9日出所も謎である。政治犯の一斉釈放は10.10日であり、宮顕の場合は袴田同様に治安維持法は撤廃されたけども、一般刑事犯罪との併合で起訴されているので、その取り扱いが微妙であったにも関わらず他の被告より一足早い出所をしているということになる。 |
【敗戦後の出獄事由申し立て疑惑】 |
宮顕や袴田らは併合罪であり、GHQ指令による政治犯釈放には該当しなかった。宮顕らの取り扱いに関して『併合罪があるので出せない』という通達が司法省から出されていた。これを生命危篤を理由として出所している。 |
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宮顕が緊急事由で釈放された不自然さは今も解明されていない。 |
【出獄後の足取りの変調さ、GHQの調査を受けていない変調さ】 |
百合子は「9ヒデタソチラヘカエルケンジ」という電報を受け取った。釈放後東京の宮本百合子宅に戻ったのは10.19日。 |
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この十日間の宮顕の消息も闇に包まれている。同時期にあちこちの刑務所から解放された徳球、志賀ら指導者の面々は例外なく幾度にもわたってGHQの調査を受けているが、宮顕にはその痕跡さえ明かされていない。これも不思議なことである。 |
2、戦後前半・戦後直後から「六全協」まで(「経歴(2)」) |
【戦後党指導部の主導権争いに見せた態度】 |
1945(昭和20).12.1日から開かれた「第4回党大会」は、戦後最初の記念すべき党大会となった。この大会での新執行部の選出の際に当然のごとく徳球と志賀義雄がその地位に就こうとしていたが、これに宮顕-袴田ラインは異を唱えている節が有る。 |
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宮顕の変調活動は戦前も戦後も終始一貫しており、尋常では無い。何とかして党中央を簒奪せんとしていることが見えてくる。 |
【査問事件当事者の逸見旧中央委員を排斥する】 |
宮顕は「戦前の査問仲間逸見の排斥を策動」している。査問仲間の逸見は、宮顕の強硬な異議によって釈放後の党運動から排除された。 |
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宮顕の述べるような急性ポックリ死因によって小畑が死亡したのであれば、貴重な事件関係者に対するこのような対応が果たして自然であろうか。よしんば逸見が宮顕の関与をあからさまに語り宮顕を不利な立場に立たせたにせよ、身に覚えのないことであれば堂々と対応すれば良いではないか。少なくとも、後に党最高指導者となる人物の器量ではなかろう。 |
【徳球執行部に対するあからさまな内部撹乱活動にいそしみ続ける】 |
宮顕は、徳球執行部時代に於いては主流から外され、文芸部門と学生運動部門を管掌することになった。その後の党の歩みにおいて「徳球グループと宮顕グループは陰から次第に陽へとあからさまに対立を見せていく」ことになる。 |
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緊迫する社会情勢と党の歴史的任務達成課題そっちのけで最終的に非妥協的な抗争へと発展していくことになる。結果的に徳球グループが解体され、宮顕グループが党内を制圧していくことになった。これが現執行部の系譜である点も踏まえておく必要がある。 |
【当時の民主戦線結成の動きに対するポンプ運動】 |
1946(昭和21)年、野坂の歓迎集会が社共両党及び労働組合を含めた「左翼統一戦線」式で行われ、その機運を高めていた時期、宮顕は、社会党が呑めない「天皇制撤廃基準の堅持」を強硬に主張することで左派ぶった。 |
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戦後最初の左翼統一戦線の動きに冷や水を浴びせ続けた行状が認められる。急進主義的青年は、宮顕の左派ぶりに幻惑され、「唯一非転向タフガイ神話」と相まって宮顕に篭絡されていった。 |
【「第5回党大会」での伊藤律登用に対する異議の申し立て】 |
2.24日より第5回党大会が開催されたが、新執行部に新たに伊藤律.水谷孝らの若手が登用された。これは、徳球書記長による戦後型の新有能幹部の登用方針によってもたらされたものであったが、宮顕.袴田.神山らは幹部採用に厳重な審査を要求しこれに抵抗した。徳球.志賀らは新進気鋭幹部の登用は執行部権限であるとして取り合わなかったと伝えられている。 |
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伊藤律の登用以降、伊藤律ないしそのグループと宮顕派が非和解的に覇を争っていくことになる。 |
【「ナベツネ問題」に関する態度の曖昧さ、黒幕性】 |
1948(昭和23)年、渡辺恒雄(ナベツネ、後の読売新聞社長)は、46.10月入党し、2.1ゼネスト後の民主化同盟の動きと歩調を合わせるかのように右派系運動を手がけようとしていた。青年共産同盟(現在の民主青年同盟の前身)の強化を呼びかける共産党中央の方針に反対し、47.9月以降、東大新人会の「再建」を始めた。 |
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この頃よりナベツネと宮顕が裏でつながっている節が有る。この当時宮顕は文化運動と学生運動を担当する中央委員であり、渡辺ら「新人会再建」運動を知らなかったとは考えにくい。その後のこととして、宮顕が「六全協」以降党中央に君臨するようになるや、出版、記事、スクープ等で陰に陽にナベツネとの親密さが表に出てきていることを考えると、この時の黒幕として宮顕がいたことの方が濃い線となる。 |
【 「コミンフォルム論評」に飛びつき、徳球党中央攻撃に奮戦する】 |
1950(昭和25).1.11日、「コミンフォルム論評」が出るや否や宮顕.志賀がいち早くこれを支持した。党内は大きく混乱を見せ、以降分裂していくことになる。1.18日、急遽「第十八回拡大中央委員会」が開かれたが、会議は激しく紛糾し、戦後党史上最大級の党内対立となった。以降宮顕は「六全協」で宮廷革命に成功する日まで国際派の頭目として頑強に徳球系と公然抗争していくことになる。 |
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宮顕は後に自主独立路線を主張していくことになるが、この時自主独立的であったのは徳球系の党中央であり、宮顕は典型的な事大主義を見せている。 |
【党内分裂時における国際派頭目として暗躍】 |
「50年分裂」と云われるこの頃、反党中央を標榜する分派組織が公然と名乗りを挙げた。その中でも宮顕が指揮する「全国統一委員会」が最大反党グループとなり、「中央委員会の解体および一切の解党主義反対」などを掲げ、「朝鮮動乱.講和問題等重要案件が政治日程化している最中に最も頑強に分裂を策動し続けている」。 |
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この経過に対して、臨中派は、「統一委員会スパイと結び党破壊のために行った策動の全てが永久に闇に葬られることはさせない」としており、つまり「臨中派は宮顕グループをスパイ視していることが伺える」。 |
【党統一後すぐに別の分派組織「全国統一会議」を旗上し執拗に党の分裂を策動する】 |
10.30日、「全国統一委員会」は、「党の統一促進のためにわれわれは進んで原則に返る-全国統一委員会の解消に際して-」声明を発し、「統一委員会」を解消した。「こうして党の団結が回復され統一委員会は結成後2ヶ月に満たない歴史となったが、その直後から宮顕は新たな分派グループの立ち上げを画策していったという史実がある」。宮顕らの国際派は今度は「全国統一会議」を結成し、再び公然と党中央に反旗を翻すこととなった。 |
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宮顕派のこの執拗な反徳球運動を見よ。 |
【「全国統一会議」の潤沢な資金についての疑惑】 |
1951(昭和26).宮顕を頭目とする「全国統一会議」は、この年1.1日付けで「解放戦線」第1号、1.20日付けで「党活動」第1号を発刊している。それぞれ党中央側の「内外評論」、「党活動指針」に対応していた。宮顕の手になるものと思われる綱領的文書「新しい情勢と日本共産党の任務」が「解放戦線」第1号に掲載された。3.1日理論機関誌「理論戦線」が発刊された。ここに独自の指導機関.機関誌.綱領的方針をもつれっきとした分派組織が生まれた。 |
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この時の潤沢な資金の出所について詮索されていないが奇妙なことである。 |
【宮本百合子死去における疑惑】 |
1.21日、宮本百合子が死去した(享年51才)。 |
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この時百合子の死因に不自然さと不自然な病名変更が為されており、疑惑が残されている。当初の死亡診断書には急性紫斑病であるとされていたと伝えられている。この時かっての無二の親友湯浅女史が駆けつけてきたが、死に顔を見させなかったという非情さを見せている。 |
【宮本百合子葬儀における疑惑】 |
この頃党の公然活動は厳しく禁止されていたが、百合子葬はかなり盛大に為されている。 |
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かなり盛大な百合子葬は、徳球党中央系の文化運動団体の催しが全面禁止されている中で、異常に寛容であったことになる。つまり、徳球系党中央の集会が禁止されている中、宮顕系で取り仕切られた宮本百合子葬は公然と認可されていたということになるが、宮顕にはこういう当局側の優遇策が講じられるケースが多い。 |
【「四全協」で党中央が宮顕グループをスパイ集団と論難】 |
2.23日より「四全協」が開催され、大会は、党結党以来初めて軍事方針を打ち出した。この時の「分派主義者に関する決議」では、国際派らの反対派をスパイ.挑発者.売国奴.民族の敵として「スパイ分派の粉砕」を強調している。 |
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詳細は不明であるが、ここに明確に宮顕グループらの国際派をスパイグループ呼ばわりしていることが注目される。単に反対派に対する罵詈雑言であるのか、一定の根拠を持っていたのかが詮索を要するところと思われる。 |
【「二つの共産党」による選挙戦】 |
4.23日、第2回一斉地方選挙が行われた。党は、この選挙戦で分裂選挙を余儀なくされた。徳球系執行部は社会党の候補を一方的に社共の「統一候補」として推薦するという選挙方針をとり、東京都知事に加藤勘十を、大阪府知事に杉山元治郎を推した。これに対し、宮顕が指導する「統一会議」派は、独自候補として東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させた。 こうして戦前戦後通じて初めて「二つの共産党」が別々の選挙戦を戦うという珍事態が現出した。特に宮顕系の「統一会議」派は、党中央「臨中」派の地方選挙方針を激しく批判しつつ、独自候補運動の正当化を喧伝した。選挙戦を通じて、大衆の面前で党中央「臨中」派と「統一会議」派とが抗争を展開し、相互悪罵戦の泥仕合を演じている。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かった。投票結果はそれぞれ惨敗となった。 |
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党を愛する者の所業ではなかろう。後に宮顕派が党中央を掌握した時の党規約では、かような分派活動が容認されるのだろうか。 |
【主流派内の「自己批判」騒動に対する頑強な態度】 |
3月から5月にかけて徳球党中央側の相次ぐ自己批判声明が発生した。これが党統一の絶好機会となり、反主流派各グループもこれに呼応し、何とかして不正常な党の分裂事態を解消しようとしたが、宮顕派は、党中央のこうした自己批判をまやかしであり、徳球派が呑めない条件に拘泥しあくまで「統一会議」派こそ正統であると主張し続け、「党の分裂固定化を更に煽った」。 |
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宮顕派のこの執拗な反徳球運動を見よ。 |
【宮顕と春日(庄)派の対立発生】 | |
それまで宮顕派と行動を共にしてきた「統一会議」派の春日(庄)派は、宮顕派の分裂志向に辟易し党の再統一を目指したが、宮顕派は自己批判の仕方が足りないとして執拗に分裂化を策動させた。ここに春日(庄)派と宮顕派の対立が発生し、両派は深刻な様相を見せていくことになった。 この時の春日(庄)の宮顕非難が注目される。宮顕派の態度を「形式的正統主義」と激しく非難し、前年来の宮顕の「セクト的策謀」ぶりを暴露しつつ次のように述べている。
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春日(庄)の宮顕非難はよほどまっとうなものである。 |
【スターリン裁定で、批判される】 |
8.12日、前後日本共産党の分裂問題について『スターリン裁定』が為され、「統一会議」派が分派と断定批判された。「統一会議」派は、この「論評」を契機として総崩れとなり組織を解体した。足掛け9ヶ月で党内二党並立時代に終止符が打たれた。こうして、宮顕を頭目とする分派活動は封じられた。 |
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この経過で最大の問題点は、この時期朝鮮戦争の勃発から講和会議の準備に至る戦後史の重大な転換期であり、こうした際に党が党内闘争に明け暮れたことにある。これが偶然なのか宮顕を頭目とするグループによる意識的策動なのかが詮索されねばならない。 |
【「五全協」開催、但し現行党史で抹殺】 | |
10.16日より「五全協」が開かれ、51年綱領とこれに基づく武装闘争方針を採択。暴力革命を盛り込んだ「新綱領」を採択している。ところが、現在の党史では、「徳田らは(四全協につづいて)10月には五全協を開いた。この会議も四全協と同じく党の分裂状態のもとでの会議であり、統一した党の正規の会議ではなかった」と総括されている。 これについて神山茂夫は次のように云っている。
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「五全協」の史実抹殺なぞ有り得て良いことだろうか。 |
【「国際派東大細胞内の査問・リンチ事件」に見せた宮顕らしからぬ曖昧な態度】 |
1952(昭和27)年、国際派東大細胞内に査問・リンチ事件が発生した。指導的メンバーであった戸塚・不破・高沢(都学連委員長)の3名がスパイ容疑で2ヶ月間にわたって監禁査問されるという事件であったが、宮顕が奇妙な救出に動いている。この事例は、これより先の1948年時の東大新人会運動の顛末で、宮顕が後の読売新聞社長渡辺恒雄を頭目とするナベツネグループを規律違反処分する際に見せた寛容さと類似している。 |
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果たして戸塚・不破・高沢がスパイであったのか無かったのか、全員怪しかったのか例えば戸塚例えば不破が怪しかったのか、このような査問形式が適切であったのかどうか、その後の不破の登用は如何なる因果関係なのか、重要なこれらのことについて何ら解明されていない。 |
【トラック部隊の暗躍と宮顕派の影】 |
1953年前後、党の財政活動の一環として、「トラック部隊の各企業は独占企業に打撃を与え、その最大利潤を奪取する。これを革命の為の資金に転化する任務を要する。これによって各企業は資本主義機構の中の一企業たるところから転化して前社会主義的企業に転化する」なる「革命大義」のためと称して中小企業の乗っ取りや取り込み詐欺、計画倒産などで後は野となれ山となれ式の悪稼ぎによる莫大な資金調達事件を引き起こしている。亀山幸三は、「六全協以降もトラックは形態を変えて現在の党へと引き継がれている」と指摘している。詳細は「トラック部隊考」に記す。この問題の重大性は、「トラック部隊の暗躍」の解明が為されていないので詳細は分からないが、宮顕系と重なることにある。 |
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「トラック部隊の暗躍」を指揮していたのが宮顕系だったとしたらどうなるのか。お笑いでは済まされまい。 |
【伊藤律幽閉とその黒幕宮顕】 |
1953(昭和28).9.15日、伊藤律が除名された。伊藤律は裏切り者=特高のスパイと断定された上で除名処分されていた。今日では野坂の暗躍で進行したことが確認されている。この時徳球書記長は回復見込みの無い病状を呈しており、知る由もなかった。国内の同志に対して、徳球も参加の上での査問結果であるかのように偽装されていた。10.14日、徳球書記長が客死した(59才)。後ろ盾を失った伊藤律は、野坂と西沢の巧妙な画策に拠り、異国の監獄に放り込まれた(39歳)。 |
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伊藤律をスパイとして糾弾しぬいた宮顕が本物のスパイであったとしたらどうなるか。お笑いではあるがお笑いでは済まされない悲劇である。 |
【新日本文学界編集長花田清輝の更迭事件の黒幕】 | |
1954(昭和29).7月中旬、第7回大会を10月に予定していた新日本文学界は、2年三ヶ月勤めていた花田清輝の編集長を更迭した。後釜に中島健蔵が据わった。この時賛否が真っ二つに分かれ、大騒動となった。この時の事を井上光晴は次のように伝えている。
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つまり、「新日本文学界の主導権をめぐって宮顕が陰に陽に介入した」ということである。その結果どうなったかというと、花田編集長の更迭と共に新日本文学はその溌剌清新な批判精神を失い、すっかり追随的、時代主義的になった。この経過は、徳球時代が終焉したこの時点より宮顕が公然と台頭してきたことを証左する事件として貴重である。 |
【 「六全協」開催で宮顕復権する】 | |
1955(昭和30).7.27日より「六全協」が開催され、50年以来の党分裂に対し党の再統一が為し遂げられる歴史的大会となった。 この大会人事で野坂-宮顕体制が確立された。現在の党史では、「党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎を築いた」とされているが、以降「野坂-宮顕体制は宮顕を機軸としながら党内純化を遂げていくことになる」。 「日本共産党の65年」は、この過程を次のように記述している。
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実際に行われたことは徳球系党員に対する無慈悲なまでの排斥であった。しかし、反徳球で共同戦線してきた各派は、これに沈黙した。 |
【 宮顕式現状規定論で『対米従属』論を踏襲し、更に右傾理論化させる】 | |||
「六全協」声明において認識された情勢分析は次のようなものであった。
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かくて、講和後にも関わらず国家の「従属」規定が採用された。この認識がその後の党の闘争戦略の骨格を形成したという意味で、今日においても罪深いものとなっている。 |
3、戦後中半・党中央簒奪から宮顕独裁完了まで(「経歴(3)」) |
【志田重男.椎野悦郎旧指導部責任追及される】 |
1955(昭和30)年、六全協以降の動きは、党の再統一が為されたのではなくて、宮顕系による党中央簒奪劇の発端に過ぎないことが明らかとなる。志田のお詫び行脚が始まり、旧指導部を代表して頭を下げてまわされる役目を負わされた。そうこうしているうち、「六全協」で中央委員の一員として選出されていた志田重男と椎野悦郎らに集中した旧指導部のスキャンダルが暴露された。党分裂の地下生活時代の党生活の上で幹部としてあるまじき堕落行為を行っていたことが明るみにされた。財政上の疑い、女性関係におけるスキャンダルや待合い生活による頽廃が暴露された。 |
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この「スキャンダル暴露による政敵追放」も宮顕の常套手段である。 |
【志田重男が突然失踪】 |
1956(昭和31).1.日、中央常任幹部会員で書記局員でもある志田重男が突然失踪した。党中央は、「常任幹部会と書記局の一員たる任務から解任」した。公表は6.6日付けの常任幹部会の「志田重男君同志についての発表」なる文書で公にされた。 |
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志田も胡散臭い人物であるが、用済みにされたということになる。志田追放が党内反宮顕派清掃第1弾となる。 |
【徳球書記長が客死、以降黒幕宮顕の公然台頭が進む】 | |
55年の「六全協」後、袴田が再査問で伊藤律を幽閉先に訪ねている。この時、袴田は次のように述べたことが、伊藤律によって明らかにされている。
伊藤律は、「この取引を私は即座に拒否した」と証言している。 |
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この文言から、黒幕としての宮顕の存在を引き出すことはさほど難しいことではないであろう。 |
【スターリン批判とこの時の宮顕の対応】 |
2.14日より「ソ連共産党第20回大会」が開催され、「スターリン批判」が為された。この時宮顕党中央は、わが国では「六全協」で「解決済みであるとして安心立命的に居直り」さえした。そればかりか、「スターリン批判」究明の動きを「自由主義」・「清算主義」・「規律違反」等の名目で押さえていき、引き続き「徳球時代のそれよりはるかにひどい狂気の自己批判運動」を展開させていった。 |
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ここに統制主義者としての本質を曝け出している。 |
【「白鳥事件」関係者の強制密航指示】 | ||
1956.3月、1952.1月に札幌で現職警部が殺害された「白鳥事件」当時の日本共産党北海道委員会の軍事部門幹部だった川口孝夫(かわぐち・よしお)氏が、党中央の命令で中国へ密出国させられている。
中国に着いた川口氏を待ち受けていたのは党の査問であった。 後に川口氏はこの時の経過を告発することになる。宮顕は、北京機関や「自由放送」などについては「党が分裂していた時期のことであり、徳球派のやったことで我々には関係がない」、と言って逃げていたが、川口氏は、川口氏を偽りの口上で中国に追放したのは、六全協で党が統一を回復したのち(56.3月)の出来事であり、「少なくとも私の追放については関係がないとは言わせない」と厳しく責任を追及している。次のように批判している。
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宮顕の悪事は止まらない。 |
【椎野罷免処分される】 |
志田追放に続いて、かっての「臨中」議長で徳球派最高幹部の一人であった椎野が除名された。こうして志田重男と椎野悦郎が相次いで失脚させられた。志田の離党も確認された。11.20日付け「常任幹部会」の「椎野問題に対する経過」という文書で椎野の罷免が発表された。 |
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椎野追放が党内反宮顕派清掃第2弾となった。ここに、50年分裂後の徳球系主流派の最高指導部にあった三人の幹部伊藤.志田.椎野という全党に威力をふるった指導分子が揃いも揃って失脚させられたことになる。 |
【「第2回東京都党会議」開催、紛糾する 】 |
1957(昭和32)3.9日より「第2回東京都党会議」が開かれた。「六全協」以後の党中央=野坂-宮顕体制の党指導に対する批判と追求の場に転じた。この時党中央を代表して出席していた野坂.宮顕.春日(正)らは壇上で立ち往生させられた。この時の都委員会選挙で宮顕の強引な介入が為されたが、これを排して反宮顕に転じていた武井昭夫を始め批判派が執行部を制し、決議案も党指導部への批判や官僚主義への反対を強く打ち出した。ところが、この時宮顕は、「中央の認めない決議は無効だ」として以降強力に人事介入していくことになる。 |
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「中央の認めない決議は無効だ」なる論法に注目せよ。 |
【「宮顕起草党章草案」反対派駆逐 】 |
10月、東京都委員会は、発表された「党章草案」に対し噛みついた。これをきっかけに全党に「党章草案」をめぐる論争が展開された。反対派の牙城になりつつあった東京都委員会に弾圧が見舞われた。 |
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宮顕が党中央を簒奪して以来、党中央専制政治が始まった。しかし、徳球時代にあれほど家父長制政治を批判したのに比べ、宮顕専制に対しては意外にも沈黙させられている。 |
【「50年問題について」発表され、採択される】 |
11.5日、「50年問題」についての総括文書「50年問題について」が発表された。「党の分裂問題」に対して、その責任を「徳田前書記長の家父長的指導とその派閥的指導体制にあった」と宣告し、「徳球のこの問題における誤りは大きく、決定的である」と断定した。他方で、従来分派として扱われてきた旧反対派(国際派.国際派以外の中委少数派.その他)の方こそ正統であったという逆転裁定が為され、分派の汚名を旧主流派に返上し「名誉回復」が行われた。特に宮顕派が一貫して原則的且つ正統の立場であったという改竄が為された。こうして「勝てば官軍論理の見本で『50年問題』が総括された」。なお、「四全協」-「五全協」-「六全協」までの徳球系主流派による党の歴史を規約違反の「適法ならざる歴史」として実質的に抹殺し、これらの大会も正式なものでないとして否定し、党史から抹殺した。 こうして、「50年問題について」は、「50年問題」の解決を徳球系主流派の責任の確定という時点にとどめ、単なる正統派争い.本家争いで処理することになった。それを越えた党全体の主体的な在り方の問題、「スターリン批判」が各国の運動組織に突きつけた根本問題には一切のほおかむりですませようとする態度が取られた。これらにつき大衆的討議が必要であったが「スターリン批判」も「ハンガリー問題」もついに党内で論議を起こさず過ぎた。 |
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党史の改竄歪曲がこの時より始まる。 |
(私論.私見)