経歴1 1、戦前編・党活動の端緒から釈放まで

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 見よ!この宮顕の変態長征の歴史を。まだまだ十分でなく、取り込めなかったり整理しきれてないが、これを読んで宮顕をまだ弁護する左派人士がいたとしたら、れんだいこはそういう者とは意思疎通をしたくない。白黒付けねばならないところと、つけてはならないところと、つけるに及ばないところとの仕分けが肝心だ。ここは、白黒つけるところであるからして十分に精読して思案して欲しい。

 但し、このサイトでは極力簡略にし、通史としてひと目で追えるよう心掛けた。やや詳しくは、別サイトのそれぞれの項を参照されたし。掲載しているのは氷山の一角で、まだまだ漏れているところがあるのですが纏めきれない。参考情報及び資料のご紹介をお願いいたします。

 2006.5.30日再編集 れんだいこ拝


【「宮顕のはるかなる変態長征総史」各章】
 宮顕の活動履歴を如何に仕切るか。れんだいこは、次のように識別し、それぞれの時期の活動を素描することにした。ここでは、これを一括で概括し、それぞれの章ではもう少し詳しく見ることにする。
戦前編 党活動の端緒から釈放まで(「経歴(1)」)
戦後前半 戦後直後から「六全協」まで(「経歴(2)」)
戦後中半 党中央簒奪から宮顕独裁完了まで(「経歴(3)」)
戦後後半 左派運動鎮圧から盟友袴田の除名まで(「経歴(4)」)
戦後終盤 最後の国策奉仕から引退まで(「経歴(5)」)

 
2006.6.8日 れんだいこ拝

1、戦前編・党活動の端緒から釈放まで(「経歴(1)」)

 【「敗北の文学」に見る排他性疑惑】
 1929年(昭和4).8月、この年の総合誌「改造」の懸賞論文で一等当選。宮顕はこの名声をもって当時のプロレタリア文学運動の隊列に加わっていくことになり、以降「戦旗」に働き場所を見つけた。
(私論.私見) 
 芥川文学を評するに「それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだろう。いつの間にか、日本のパルナッスの山頂で、世紀末的な偶像に化しつつある氏の文学に向かって、ツルハシをうち下ろさねばならない」などと述べ、早くも「排除の強権論理」を垣間見せている。なお、松高時代の文芸仲間の文章の盗作の疑いがあるとの指摘が為されている。詳細は、「『敗北の文学』の論評」に記す。

 【入党疑惑】
 1931年(昭和6).5月、入党。相前後してプロレタリア作家同盟に加入した。32年の春より地下活動に入った。
(私論.私見) 
 れんだいこは、宮顕の胡散臭さは入党時点から既に始まっていると観る。入党オルグは同郷の文芸評論家の手塚とされているが、もっと詳しく洗わねばなるまい。

 【スパイMとの関係疑惑】
 同10.6日、大森銀行ギャング事件が引き起こされた。同10.30日に「熱海事件」が引き起こされた。どちらの事件にもスパイMが暗躍している。その後スパイMは忽然と消え、特高資料においても痕跡さえ消されている。
(私論.私見) 
 スパイMの退場は何を意味しているのだろうか。れんだいこは、特高がスパイMの替わりになる手駒の配置を終えたことを意味していると推理する。ならば、スパイMの後釜は誰かということになるが、それが宮顕であったと見るべきではなかろうか。れんだいこは、宮顕とスパイMが同じ指揮系統で繋がっていたと推理している。

 【その後の宮顕の暗躍振り疑惑】
 1932(昭和7)年、宮顕は、入党後は主に文芸部門に関わり、蔵原式プロレタリア文学理論を踏襲した。芸術.文化運動のボルシェヴィキ化」、「唯物弁証法的創作方法」、「社会主義リアリズム論」を前面に押し立てての「政治の優位性理論」によりブロレタリア文学運動に影響を与えていった。
(私論.私見)
 日本プロレタリア文学運動に於ける蔵原ー宮顕ラインの果たした役割こそ胡散臭い。彼らは、口先では最も尖鋭なブロレタリア文学理論を唱えるが、実践的には却って有害無益な観点を押し付けていった。この点での検証がまだ不足している。

 【小林多喜二逮捕に関する疑惑】
 1933年(昭和8).2.20日、小林多喜二は特高に捕まり即日拷問の末虐殺された。東京市委員長三船留吉の手引きによるとされている。
(私論.私見)
 小林多喜二は三船留吉に売られたとされているが、当時小林多喜二と連絡線を保っていたのはプロレタリア文学運動の理論的指導者宮顕ー蔵原ラインではなかったか。れんだいこは、三船にすりかえられている可能性が強いと疑惑している。

 【中央委員昇格時の推薦人疑惑】
 宮顕は、野呂委員長の下で中央委員会に抜擢されている。この時宮顕は若干25才の登竜であった。具体的にどのような批判であったのかは明らかにされていないが、この当時既に宮顕登用に反対する党内意見があったとの資料が遺されている。
(私論.私見)
 宮顕が中央委員として登用された際の推薦人が誰なのか記録がない。この当時中央委員になるためには既中央委員の推挙が必要とされ、しかる後全中央委員の承認が必要であった筈である。この肝心なところが抹消されている。宮顕にはこの種の胡散臭さが限りなくある。

 【東京市委員会に転出してからの悪巧み疑惑】
 宮顕は東京市委員会に転出させられ、スパイ三船留吉の後任となった。袴田は組織部会の部長であり、その部員に木島隆明がいた。ここで、「宮顕-袴田-木島ラインが形成」され、後述の小畑中央委員査問死事件を引き起こしていくことになる。
(私論.私見)
 ここに宮顕派が結成された。以降、この宮顕派が党中央を簒奪していくことになる。

 【党内査問運動に見る黒幕性疑惑】
 宮顕が党中央に進出した頃から査問事件が頻出し始めている
(私論.私見)
 一連の「査問事件」が宮顕の党中央委員進出以降の出来事であることと、これらの査問に宮顕の影が見えていることを思えば、黒幕を窺わせるに足りると推定し得る。

 【大泉.小畑中央委員査問、小畑致死事件疑惑】
 12.23日、「党中央委員大泉.小畑両名査問事件、小畑査問致死事件」が発生した。
(私論.私見)
 この事件解明の意義は、これまで黒幕に位置してきていた宮顕が小畑の逃げ出し行為という突発的事態の発生で直接の下手人として手を染めさせられたということにある。宮顕は今日に至るまで、この事実を伏せようとしてデタラメの弁明を行ってきている。まさに、宮顕にとって、小畑の奮戦死は致命的な打撃を与えることになった。

 【宮顕が党中央簒奪】
 小畑死亡直後、小畑の死体を前にして平然と協議が行われ、宮顕が党中央のトップに座った。宮顕は、小畑の死体の前で平然と新人事を発令している。これが「まさに血塗られた党中央の戦前最後の中央委員としての宮顕-袴田コンビ誕生秘話」である。
(私論.私見)
 戦後党活動の再建に当たって、「党中央の戦前最後の中央委員」であるという肩書きを宮顕-袴田コンビが吹聴してまわることになるが、その実体はこのような状況下で決議された資格だったということを知っておく必要がある。

 【宮顕指示内容の変調さ】
 この会議で、宮顕が為した指示は、スパイ摘発闘争の徹底と、当局に漏洩されたら取り返しのつかない党員の経歴書再提出ほかであった。
(私論.私見)
 宮顕は党中央を簒奪するや早くも本性を表わした。「党員の経歴書再提出」は最も避けなければならないのに敢えて指示している。リンチ査問者の対象が全協及び党内に残存する戦闘的活動家に対してタ-ゲットされていたことも胡散臭さを示している。その「指導の変調さ」ははかりしれない。

 【小畑の死体処理責任取らず】
 秋笹と木島が小畑の死体を床下に埋めたが、宮顕は、この時死体遺棄に関与しておらず、「あれは秋笹・木島が勝手にやった」と公判で陳述している。
(私論.私見)
 「責任を下部の者になすりつける」典型的な物言いをしている。世に「卑怯者」という罵詈方があるが、宮顕のこの云いざまこそ相応しい。この処世法は、宮顕の終生に亘る悪癖である。

 【東京市委員会キャップ荻野査問指令の様子疑惑】
 続いて、東京市委員会キャップの荻野の査問を指令している。この時荻野に浴びせたぞんざいな態度が伝えられている。
(私論.私見)
 「萩野査問指令」の史的意味は、宮顕が、小畑致死事件の反省なぞ微塵もなく、更に党内反宮顕派の追撃に向かおうとしていたことを示している点で重要である。

 【宮顕の手帳疑惑】
 宮顕は、荻野をスパイに仕立て上げる為に「手帳疑惑」をその根拠に持ち出している。「手帳所持」に対して、宮顕は次のように批判している。
 概要「党の最高指導機関の指導者が、いつ、どこで不審尋問に会うか判らない。この手帳を見たら、非合法活動をやっている共産党員だということがいっぺんにわかってしまう。当人は勿論逮捕されるが、同時に連絡場所にくるものも片っ端からやられる危険な行為であり、党員は手帳を持たないというのが鉄則である」。
(私論.私見)
 宮顕は、荻野の「手帳疑惑」を問い詰めながら、自身が手帳を持ち歩いていたことが判明している。宮顕なら所持しても良いということにはならないであろうが、荻野をスパイにさせる為にはつじつまが合わなくても構わないらしい。それともこの御仁の癖の一つであるが、「自身には例外が許され、相手には徹底して厳しくという作法の常用」なのであろうか。 

 【逮捕時の変調疑惑】
 宮顕は、査問されようとしていることをキャッチした荻野が警視庁に自首し、その情報に基づき逮捕された。袴田の話によると、袴田も宮顕も、かねがね荻野は怪しいと気づき、疑い監視していたという。検挙される当日も、宮顕に危ういという意見を言う者も居たが、「いや、今日が最後だ」と言って出かけたと伝えられている。
(私論.私見)
 宮顕は、「疑いの強い」荻野にわざわざ会いに行っている必然性が見えてこない。「いや、今日が最後だ」というもの言いが意味深だ。

 【取調べの際の不自然弁明疑惑】
 宮顕は、逮捕されたときの様子を、後日の公判の冒頭陳述で次のように述べている。
 「大体私が麹町警察署に検挙された時に、私を調べんとした山懸警部は鈴木警部等とテーブルを囲んで曰く『これは共産党をデマる為に格好の材料である。今度は我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる』と言って非常に満足した様な調子で我々に冷笑を浴びせて居た。然し自分はテロに依る訊問の為警察に於ては陳述を拒否してきた」。
(私論.私見)
 逮捕時の様子を伝えた宮顕の回顧録の内容に重大な疑惑がある。宮顕の弁明によれば、「宮顕の逮捕時に特高が既に小畑 のリンチ死を知っていた」というということになる。しかし待てよ、宮顕が逮捕され麹町警察署に検挙された時には当局はまだ事件を確認し得ていない筈である。当局が確認したのは、翌昭和9年1月15日の大泉兼蔵が逃亡した直後のことである。おかしなことになる。しかしこれが真相の可能性がある。

 【拷問の様子の不自然弁明】
 宮顕は、麹町署に検挙され、彼が毛利特高課長、山県為三特高警部らから、失神しそうになるほど拷問をされ、獄中にあって麹町警察と留置場において拷問を受けたと本人が明記している。「なお、この時の取調べで『こいつには何を言っても無駄だ』と特高をあきらめさせたと宮顕は得意げに語っている。
(私論.私見)
 宮顕証言に対し、山県警部は、「宮本なる人物には一面識もなく、拷問したなどと言い張るのはまことにもって名誉毀損」と憤慨している。特高をして、「こいつには何を言っても無駄だ」と取調べを諦めさせたというのもウソ丸出しである。この当時の特高の取調べは史上最も凶悪であった時であり、多くの中央委員他幹部が虐殺させられている時である。ましてや、宮顕の云うように宮顕が当局スパイを摘発する戦闘的人士であればあるほどいわば特高との利害対立が先鋭化するのであって、拷問が倍化こそすれそれをあきらめさせる理由は更にないことになるであろう。

 【獄中下病状時期の不自然疑惑】
 宮顕は獄中で度々重病に陥ったとされている。
(私論.私見)
 妙なことに、宮顕の病気中の様子は少しも明らかにされておらず、病状発生時期も他の被告との統一公判が要請されていた時期と符合している。怪訝なことは、宮本百合子の面会がそれまで幾度となく為されているにも関わらず、この時期に限り面会謝絶されている。「宮顕危篤説は統一公判を避けるための仮病であった」としてしか考えられない。その後の宮顕の「健康回復振り」から勘案してみても充分そう考えられる。

 【予審終結決定の不自然】
 38.10.10日、予審終結決定しているが、何の陳述も得られないまま予審終結決定書が出され、公判に移ることとなったとされている。
(私論.私見)
 この間獄中の訊問調書につきこれを一切取らせなかったのか、「口を割らず、空白が多かった」のか、他の被告同様拷問が為された事実があるのか、恐らくないと思われるがヴェールに包まれている。

 【公判で、「正義の単独陳述」】
 宮顕の公判は、「40年4月から7月まで6回、宮本重病のため 一時中断した後、44年6月から11月まで15回行なわれた。11.30日最終陳述」(党史要約)という記述がなされている。44.11.25日結審、12.5日東京刑事地方裁判所第6部で判決。無期懲役刑が宣告された。直ちに上告したが、翌45.5.4日大審院で上告棄却、刑が確定した。
(私論.私見)
 おかしなことであるが、宮顕の公判日について諸説有り一定していない。公判についても、官吏と看守の他は弁護士と傍聴者として百合子のみという奇妙な法廷で、「正義の単独陳述」が滔々と為された出来レースぶりであった。

 【獄中闘争とはいうものの豪奢な獄中生活の様子疑惑】
 「宮顕の獄中生活は、他の同志のそれと比較してみた場合『奇異なまでに豪奢な生活』であった」。宮顕の場合、百合子の度々の面会と往復書簡も為しえている。
(私論.私見)
 百合子の差し入れる弁当により、同じ獄中にある共産主義者もうらやむ上等な食事をとることができたとも、他の獄中闘士の薄着とは違うラクダ毛のシャツや厚いどてらを着ていたと伝えられている。

 【拷問されていない様子が判明】
 「宮本は、11年間過ごした巣鴨について、そこでは収容者を殴ることを日課のようにしていた看守たちから、彼自身は殴られたことはなかった」と伝えられている。屋外運動の時には党員同志顔をあわすこともあったものと思われるが、この辺りの回想も伝えられていない。
(私論.私見)
 宮顕の獄中時代の様子が開示されておらず、奇妙なことである。

 【百合子調書を読んでいる不自然さ】
 この間宮本百合子も検挙・拘留を繰り返しているが、偶然かも知れぬが担当主事は特高課長毛利基であったようである。
(私論.私見)
 平林たい子「宮本百合子236 P」によれば、宮顕は獄中で、百合子の予審調書を手に入れて読んでいる節があるとのことである。後になって、百合子がよく闘ったところや、守るべきとき守れなかったところを指摘している、ということである。宮顕は、どうして百合子の予審調書にまで目を通しえたのだろう。

 【杉本.岡田二人のシベリア越境への無責任教唆】
 「杉本良吉・岡田嘉子の越境事件」は「恋の逃避行」として知られているが、この事件と宮顕が深いつながりがあることが判明している。岡田嘉子の証言によると、杉本良吉は、1937年12月の越境直前に獄中の宮顕に面会に行った、と述べたという(『心に残る人びと』)。それは、本当だろうか、あるいは、なんらかのかたちで事前に杉本良吉からの伝言が宮顕にあったのだろうか?。

 
岡田嘉子の回想によると、宮顕は、戦後にモスクワで岡田嘉子と会ったさい、「あの時、ぼくがマンダート―指令書に代る紙片でも渡せたら」と述べたという(『心に残る人びと』)。
(私論.私見)
 宮顕の、「宮本のマンダート=信認状があれば1938年の杉本良吉・岡田嘉子は助かった」という言い回しも胡散臭い。これが獄中下の者の発想し得ることであろうか。これらが事実とすれば、宮顕は獄中にあって党活動していたということになり、ことは極めて奇怪なことになる。この事実は、宮顕の獄中活動の実態が再精査されねばならないことを発信している。

 【いわゆる網走時代疑惑】
 網走刑務所に送られたのは45.6.16日であり、6.17日入獄している。敗戦によりGHQの政治犯釈放指令がなされるまでの4ヶ月間をここで服した。この間宮顕は獄中11年10ヶ月を完全黙秘、非転向を貫いたとされ、「非転向党員のうち、最も頑強だったのは宮本顕治」であるという「非転向タフガイ神話」が作りだされている。
(私論.私見)
 いわゆる宮顕の「網走ご苦労説」については、6月から10月までの割合と過ごしやすい4ヶ月の間であることを正確に理解する必要がある。流布されている「網走獄中12年」というものでは決して無い。宮顕の「唯一非転向タフガイ神話」もオオウソの可能盛大で、再精査されねばならないであろう。





(私論.私見)