春日は、私心のない人で人生すべてを革命に捧げた闘いに終始した。晩年の10年は自らの陣営からも孤立していたが、その思想と姿勢は見事なものであった。自らの若き日と反戦派労働者が共通していたと見え、『現代の眼』誌に載せた短文(1頁)はそれを見事に表現していたが、その原文がどこかに入ってしまって今ないのが残念である。
共労党は、1967年に結成されたが、春日は中央委員会ではなく、評議員会メンバーであった。それはイタリア共産党が、長老を遇した顧問会のようなもので、その後、中国共産党が毛沢東死後につくった鄧小平、陣雲らの顧問委員会のような中央委以上の権力をもった組織とは比べようがないものであった。この「過去の人」扱いに対して、本人は一言も反論することなく、しかし現実への対応力を持ち、自ら主宰した現代民主主義研究会の会報で中ソ対立から公害や三里塚に到る問題で私見を展開した。同時に大変な数の手紙を、しかも克明に(読みづらい字で)記し、さまざまの人に送り続け、私宛てにも何十通も来た。それで、月1回ぐらいばかり会って話をした。でがらしの渋茶を何杯ものみ、意見を率直に語っていた。先輩の荒畑寒村や石堂清倫、前野良らととくに親しく交わっていた。
新左翼の弱点も見抜いていた
彼は新左翼のよさをとらえるとともに、その欠陥もしっかりと見抜き、対応した。共労党は月2回の羽田闘争や新宿、王子などの街頭闘争や学生運動(民学同からプロレタリア学生同盟)、反戦青年委員会を支持した労働運動を通じて、左旋回し、社会主義革命運動を経た内藤知周、長谷川浩、松江澄らと対立を埋め、69年初夏の第3回大会に激突した。
社革出身者の多くは、新左翼党派や反戦青年委員は、小ブル急進主義で、「トロツキーは反革命家」(原善吾)とみる思想性が続いた。ただし、68年1月のエンプラ闘争では、佐世保駅前にあった共労党事務所を「街頭闘争の連絡用」に使わせて欲しいという中核派(野島)の申し入れを、財政部長・一柳茂次の「かしてやれよ」の一言で決まったこともあった。社革労で政治報告(武藤一羊が理論的に展開し、いいだももが方針成文化した)を支持したのは、由井誓(統一編集長)、山口義行(鳥取全日自労委員長・倉吉市議/現在は女婿が県議)、菱田彰(明日を拓く)らであった。
大会で両派は激突(学生派は〝第三勢力〟化)、社革派は退場し分裂した。春日はわれわれを基本的に支持したが、大会前の公開討論で「『政治報告』の討論メモ」を提出。私は多忙にすぎて当時はさっと一読しただけだったが、その後に再読したら、政治報告のもつ「革命主体についての二重基準」の矛盾を彼一人だけがついていた。つまり労働者階級と学生をおのおの主体扱いしていたこと、それと不可分に「『戦後平和・民主主義』『構造改革』などについてきわめて厳しく、かつ否定的・断絶的であるが、左に向かっては開かれ、むしろ連続的でさえある」と指摘している。この2点は、それから2年後、武装闘争と反対派に2分解3分裂した原点だが、当時からその矛盾と「小ブル急進派」傾斜――内藤議長らはそこのみを批判した――と危険もよくみていたのであった。
共革労の武装闘争化と反対闘争
その思想政治論は、2年後の沖縄闘争の「秋期決戦」時に、突如として「全人民武装決起の十一月へ!」という鬼面人を驚かすスローガンと武闘の現実化となっていった。私はバーヂャー氏病が悪化して(その2年後にやっと分かった)半年間休んでいたが、「赤軍派路線に煽られた」「願望左派」と映った。その名も「赤色戦線」によって明日その
〝兵器〟を実行というぎりぎりの段階で徹夜会議となり、労働運動に依拠する7人の中央委員(労働者革命派)に、白川書記長ら学生運動出身で党機関にいた「プロレタリア革命派」が同調して阻止された。事前に動きを察知した公安警察が事務所にガサ入れし、党員名簿、会計帳簿を押収していたから(そういう状態のままにやろうとしていた)、決行したら潰滅的大打撃を受けていただろう。その直後に、今後の相談に羽田の拙宅に集まり意見は一致した。疲れたから寝ることになったが、都営アパートで部屋は2つしかなく、蒲団も2組しかなかった。子どもは2歳。ごろ寝しかなく、パジャマも1着。それを春日さんにとすすめたが、本人は「慣れているから」と断り、ズボン(吊り具のついた)とワイシャツのまま1つ蒲団を横にしたところに寝た。私は同じ中央幹部でも、志賀義雄、神山茂夫らをよく知っていたが、こういう姿勢と作風は春日の特長であらためて尊敬した。
樋口議長・春日中央委員
三分派化の進行の中で、私は分裂だけは避けようと努力したが、労働現場で働く同志たちの武装闘争への不信感は避けがたく、1年余経って分裂し、「労働者党」(規約にある)結成となった。私は「白川派」との調整統一を模索したが(もしできたら分裂しなかった)それもかなわず、結成へ。方針はすぐ決まり、指導部を選出。力のあった鳥取・山口が、議長樋口、顧問春日を提案。ところが「異議なし」の瞬間、春日さんは「顧問なんていやだ」と異議を唱え、強い態度なので、これまた山口提案で中央委員となった。大先輩の春日さんをおいて、私が議長になる。このありさまに私の抵抗感は強く、その後30年間にわたって対外的に示したことは一度もなく、本稿で初めて記した。あれでよかったのだろうか、と今でも問い返している。この態勢を、国分一太郎、亀山幸三(日共財政部長、このあと〝入党〟した)も支持したが……。
内ゲバ中止への必死の調停作業
春日の死に至る3年間、心血を注いだのは破防法を適用された中核、ブント幹部らをはじめとした救援センターの統一化とその代表委員としての活躍、また折から「死闘化」した中核対革マル派の内ゲバの停止への調停であった。同志であった渡部義通(歴史学者、元民科幹事長、衆議院議員)、国分一太郎(新日文議長、共労党評議員――渡部も)、作家の作多稲子らに呼びかけ、「身体を張って」両派にあたった。革マル派は、中核派本多書記長の極秘アジトを襲い、妻子の目の前で脳天にハンマーを打ち込んで殺害。中核派は「革命的復讐」を叫んで無限地獄の様相となっていた。75年には植谷雄高、久野収らが、二次にわたって「革共同両派へ提言」をおこなった。それとは別に春日らは、一歩踏み込み、両派最高指導者に直に会って、「休止・停戦」を勧告する。その渾身の調停作業は、戦前来の革命家・春日にしてはじめてできたものであった。革マル派は「敵の大将をうちとった」から停止を受け入れたが、やられた側は「対価報復」からノーを貫き、その後、20数年続いたことは周知の通りで、春日調停は実らなかった。だが、その必死の努力は記憶に残されるべきものである。この頃、私は三里塚・戸村委員長の参院選挙闘争と膨大な借金処理、季刊『労働運動』編集長などに追われ、春日さんへの協力もままならなかった。
たえざる病魔のなかで
長い16年間の非転向の獄中生活、戦後中央労働部長――国際派(彼だけが地下生活を送った)――六全協の党再建運動――社会主義革命・構改派の中心――共労党などの激務の中で、身体は常に爆弾を抱えていたが、その面でも剛毅の人だった。その一端で記憶に残っているのは、歯がガタガタになり、4本の入れ替えをいわれたときに、当時は国内麻酔も幼稚な頃だったが、痛め止めもないままで4本を一度に抜いてくれと頼み、そうしたといっていたことである。常人ではできないことであった。
春日に対する尊敬と同志愛
偉大な革命家が死んで、国分寺の自宅で簡素な葬儀がおこなわれた。――遺体は本人の意思で大学病院に献体した。出棺のときに、佐多稲子(婦民クラブ委員長)は、感極まって<RUBY
CHAR="嗚咽","おえつ">した。国分一太郎は静かに頬をなでていた。戦争中以来闘い抜いた「最後の同志・戦友」という気持ちが、周りにもひしひしと伝わった一瞬であった。私は感動した。あれから30年。今でも尊敬し、人間的に信頼する大先輩の一生を、本稿を書きながらも姿勢を正し偲んでいる。学んだことは大変大きかった。春日さん、ありがとうこざいました。その志を継いで闘ってきたし、
〝天界〟にいくまで貫くつもりです。
〈追記〉
私は貧乏暮らしが長く、100円の金にも困るときもしばしばで、電車賃にも苦労した。その職革生活を見ていて、具体的に援助してくれた先輩は神山茂夫と春日庄次郎だけであった。春日さんは70年代に宮内勇(戦前の〝多数派〟の中心)に話して、半年間原稿を書いて月3万円を稼がせてくれたが、それが唯一の生活費であった
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