このオカシナ政治現象を疑惑せよ |
更新日/2016.1.31日
Re:れんだいこのカンテラ時評265 | れんだいこ | 2007/03/10 | |
【オカシナ政治現象をどう読み解くべきか】 れんだいこはオカシナ政治現象に気づいている。田中角栄を悪し様に述べる者が共通して第二次世界大戦時のナチス批判、日本軍部批判の戦闘的人士として立ち現れているということである。連中のロッキード事件糾弾と、ホロコースト大虐殺論、南京大虐殺論、百人斬り事件、従軍慰安婦事件の批判の音量がハーモニーしている。これによれば当然、ニュルンベルク裁判も極東国際軍事裁判も、極悪戦犯を裁いた正しき法理の下での法廷であった論になるものと思われる。日共の理論及び史観が妙にこれに照応している。このことに如何なる接点があるのだろうか。これを問わねばなるまい。 これを解くには、太田龍史観、れんだいこ史観をもってすれば容易であるが、他の方法では理解できないだろう。これを仮に「サヨ政治論」と命名する。近時は、左派の名を騙ってのこうした「サヨ政治論」が横行しており、左派の信用失墜毀損をもたらしている。由々しき事態なので、れんだいこは、「サヨ政治論」に代わる「左派政治論」の旗手として日本政治史に役割を果たしたいと思う。 「サヨ政治論」の典型例は、五十嵐仁(法政大学)であり、その他大勢である。五十嵐は、ロッキード事件では、徳本栄一郎−五十嵐仁−立花隆のトライアングルを形成し、今でははっきりとしているロッキード事件の胡散臭さを指摘する流れに対し、それを再否定することで一役買っている。多くの者が、その説法に同調しているように見える。れんだいこは、徳本栄一郎ー五十嵐仁−立花隆の御用漫談考」で検証しているが、ここではこのことを問わない。 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/rokiido_goyomandanco.htm) その五十嵐は、「2007.3.7日付け転成仁語」(ttp://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm)で、次のように述べている。
これによれば、五十嵐は、ナチスの蛮行としてのホロコースト大虐殺論を史実と是認し、日本はドイツの大反省に見習い、南京大虐殺論、百人斬り事件、従軍慰安婦事件その他戦争犯罪全般に大謝罪すべきだと主張していることになる。一見、反戦平和的見地からの指摘であるように見えるが、実は単なるネオシオニズム・テキストの受け売りしている可能性がある。連中は、そういうことを思っても見ない。正しい立論だから鼓吹せねばと正義感に駆られているのだろうか、そういう訳で持論の怪しさを夢にも疑うことをしない。そればかりか、その立論をことさら戦闘的に述べることが義務とでも考えている節がある。 れんだいこは違う。周知のようにロッキード事件に於ける田中角栄の冤罪を説いている。5億円授受を認めてもなお且つ角栄の政治能力を買うのではなく、5億円授受説そのものを虚構とする立場を採っている。ロッキード事件は、国際ネオシオニズム奥の院の指令に基づき、用意周到な「証拠」を捏造し、罠が仕掛けられ、政治的に羽交い絞め絞殺されたと思っている。 逆に、戦前日共の党中央委員小畑の査問致死事件では、宮顕主犯有罪を説いている。スパイ視されている小畑の方が正統の日共党員嫡出子であり、スパイ摘発を呼号した宮顕の方が当局側のエージェントであったと思っている。そういう訳で、宮顕が獄中下で予審調書を一切採らせなかった唯一の非転向指導者である云々聖像論を有り得ないこととして否定している。むしろ宮顕こそスパイM以降の党中央潜入スパイ系譜の真の頭目とみなしている。野坂も別系統のネオシオニズム・エージェントであったと思っている。 だから、れんだいこは、角栄に対しては冤罪を、宮顕に対しては有罪、小畑冤罪を説いている。世のサヨ系自称知識人の角栄=有罪、宮顕=唯一非転向指導者、小畑=スパイ説と真っ向から対立している。こういう大事な問題で議論が為されない現象を理論の貧困とみなしている。 そういう見解を採るれんだいこが、ロッキード事件、戦前日共の党中央委員小畑の査問致死事件等々の検証で編み出した時系列論証法でもってホロコースト大虐殺論、南京大虐殺論、百人斬り事件、従軍慰安婦事件その他諸々を検証して行くと、通説の薄っぺらさばかりが浮き出てくる。基本中の基本である「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのようにして」という5W1Hの徹底解明原則が守られていない事例が多過ぎ、信用するに足らない。しかし、そういうものが公認教説としての地位を獲得している。 興味深いことは、この公認教説を廻って、これを護持せんとする者が体制派となっていることである。彼らは、政治情勢論では概ね野党革新派としてのスタンスを見せているが、国際的公認教説を廻っては与党保守派として位置していることを自覚しているのだろうか。そのことに何の違和感も持っていないようである。この場合、公認教説が史実に照らして正しければ問題ない。間違っていたとすれば、どういうことになるのかという問題になる。 他にも、連中にはもう一つの共通項があるのではないかと思っている。それは、著作権論に於ける強権派の立場である。今や著作権論も国際的公認教説は強権化しつつあり、為に人民大衆の知的欲求が閉塞されつつある。西欧諸国ではとっくの昔から、第二次世界大戦の史的検証が制約されており、ナチス犯罪を説く側に回らない限り公職を追放されたり逮捕されている。その際、著作権法が暗躍悪用されている。これについては資料確認でき次第に現場保存していくことにする。 さて、結論である。この動きは何やら赤い糸で結ばれているように見えるのだがどうであろうか。赤と云うのは左派の専売ではない。ロスチャイルドも赤の盾を紋章としている。「サヨ政治論」を説く連中は恐らく、史実を検証して論を自身で紡ぎだしたのではなく、あつらえられたネオシオニズム・テキストをオウム返しにプロパガンダしているだけの機会主義者でしかないのではなかろうか。そう説くことが御身保全と立身出世の機会に恵まれることを察知し、そのように振舞っているものと思われる。 してみれば、本来の学問上そうであってはならない学的態度が流行していることになる。由々しき事態である。そう云えば、テレビのコメンテーターとして登場している最近の学者知識人がどれもこれも賢そうでないのは理由があるということになるだろうか。政治家も然りであるが。 2007.3.10日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評266 | れんだいこ | 2007/03/11 |
【米国議会下院に「従軍慰安婦問題法案」が上程されたのはなぜか考】 「従軍慰安婦問題」が奇妙に政治課題として持ち上がりつつある。れんだいこは、「従軍慰安婦問題」につき「従軍慰安婦考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_jugunianfu.htm)で考察している。それを踏まえて以下発言する。 「従軍慰安婦問題」が米国議会下院に上程されようとしている。これまで米下院では、慰安婦に関する決議案が7、8回上程されたが、いずれも廃棄されているとのことである。ここにきて再度決議されようとしている執拗さの裏には何があるのか、それを読み取られねばならない。何だか共謀罪の執拗な上程と似ている気がする。 この動きを、米国民主主義の為せる技としてエールを贈る者は今時居るまい。では何なのか。れんだいこは、自衛隊派兵及びイラク戦争負担金問題等々で前任の小泉ほどには言うことをきかない安部政権脅しであろうと推測する。先だっては久間防衛大臣が頑張ったので先送りになったはずだ。お陰で無礼な恥掻かされたな。マスコミは問題にしていないが。本当はブーイングするところだろうに。 日共が例によってはしゃぎ回るとすれば、これが日共党中央の正体と見据えねばならない。ロッキード事件の時には見事に呼応した事例を残している。お陰で戦後保守ハト派は衰退し今日の如くタカ派全盛時代になった。鈴木ムネオ潰しの際のイカガワシイ外務省資料の悪乗りも記憶に新しい。日共のターゲットが奈辺に向かっているのか透けて見えてこよう。そういう訳で、この問題における日共の動きについては、刻々確認して行くことにする。 米国下院議会への「従軍慰安婦問題上程」は、ブッシュ−チェイニー派による「対日タカリユスリ」として利用されようとしているのではなかろうか。安部のアキレス腱は、戦後タカ派的ネオシオニズム拝跪性と戦前タカ派的皇国史観性の両面を持つという二股性にある。今ネオシオニストは、安部に対し、戦前タカ派的皇国史観性を捨て、小泉の如くに戦後タカ派的ネオシオニズム拝跪性に純化し、旗幟鮮明にせよと迫ろうとしている。つまり、つべこべ言わずに何でも云うことを聞けと云われている。 安部のお坊ちゃま的能力は恐らく、「イエス・サー」を返答するであろう。この場合は政権が安堵される。但し、我が国家から大枚の金が又もやむしり取られる。あるいは自衛隊のイラク軍事派兵を撤退どころか逆に増強させられる。安部が夕張問題等々持ち出して渋るものなら、安部政権は一夜にして瓦解させられる。そういう運命にある。そういう訳で、阿部は、身も心も更にネオコン系サタ二ズムに預けるのか、踏み絵が迫られている。 「従軍慰安婦問題」は、そういう政治的思惑で仕掛けられ利用されようとしているのではないのか。つまり、持論を捨て「イエス・サー」するのかしないのか、はっきりせよとの踏み絵として持ち出されようとしている。ブッシュ−チェイニー派は、議会の後押しを得た形でこれをやりたいのだろう。そういう筋書きを描いているのだろう。 となると、安部が「イエス・サー」するのかしないのかに関心が向かざるを得ない。「イエス・サー」の瞬間に内閣打倒に総力で向かわねばならない。そうでなくても、改憲でうるさくて仕方ない。安部が見捨てられた時、次は誰かを予想せねばならない。色気を出し始めているのが麻生であるが、祖父吉田茂の能力の足元にも及ばない単なる偏屈に過ぎない。小泉出戻りと云う狂態までありそうであるが、勘弁でっせ。人心が許すまい。それにしても恐ろしいほど間抜け腑抜けな政治政界になってしまったものだ。 今新聞ジャーナリズムは、朝日、毎日は先のチェイニー来日時には論評一つ為し得なかったのに、「従軍慰安婦問題」ではこぞって健筆を振るおうとしている。興味深いことは、今なぜ米国議会にこの問題が上程されたを問う、その政治的意味を説き明かそうとするものがないことである。安部政権が踏み絵を迫られようとしていることを嗅ぎ取る知恵がない。通り一遍の史実論か便宜論を振りまいているに過ぎない。これは期待しても無理、無駄というものか。 それにしても日本は米英ユ同盟によって更にしゃぶり尽くされようとしている。どうやら天皇制も議題に上っているらしく、パッシングが強まっており、菊タブーが解禁されつつある。これを喜ぶべきかどうか。逆に国際金融資本タブーが築かれている。徳間書店が脅されているらしい。どう対応するのか興味がある。 2007.3.11日 れんだいこ拝 |
日共のらしさを示す以下の記事を転載しておく。
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(私論.私見)