日共解体か根本的再生か、れんだいこの再建策 |
(最新見直し2007.8.18日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
日共は、1955年の六全協以来、戦前の共産党運動を壊滅せしめた張本人の宮顕、野坂と云う反動的指導者を党中央に潜入させ、2010年現在に続く右翼的指導に転換させている。序々に大衆闘争から召喚させ、議会専一主義とも云うべき議会闘争に一本化させてきた。1970年代までは、「70年代の遅くない時期に民主連合政府樹立」と云う呪文によってそれなりの党的拡大を成功させてきた。しかし、1980年代以降、序々に議会専一化させたその議会闘争でも後退局面に入っている。れんだいこに云わせれば、議会闘争そのものは邪ではない。特に戦後憲法秩序のプレ社会主義性を認めるならば、議会闘争の強化は当り前の運動である。しかしながら、現下の日共党中央の議会闘争は大衆闘争からの召喚の為の議会闘争に過ぎず、そういう邪(よこしま)な思惑で始めた議会闘争も又邪な闘争に捻じ曲げられている。日共式議会闘争は日本左派運動の進展に為にならない。否、日本左派運動の進展に棹さすような形での議会闘争に終始している。口先のあれこれではなく、やっていることを見ればそういうことになる。このことを確認せねばなるまい。 2007参院選で又もや後退し、現党中央の唯一の生命線である議会闘争でも意義を失いつつある。日共は今や命綱を失い風前の灯といった感がある。これが客観評価となるべきところ、にも拘らず党中央はこたびも善戦総括しており、大方の顰蹙を買っている。 不破の2007党創立講演の口上を聞け。何と、捲土重来論をそう何度も唱えぬことによってか、粗暴にも「前進・後退に一喜一憂せず論」で居直るという浅ましさを見せつけた。不破は常々これが科学的社会主義の優位性を聞かせている。しかし、科学的社会主義の選挙分析がかようなものであるとしたら科学的社会主義のお里が知れる。その不破の口上をこたびも拍手で迎えるとしたなら、もはやこの党は処置無しと云える。 以上は前置きである。れんだいこがここで論じようとすることは、この日共をどうするべきかについてである。今やこれを真剣に論ぜねばならない時機を迎えている。ここに及んでも議論が生まれないようなら、この党は既に生ける屍である。宮顕−不破系日共党中央をこのまま放置しておくのか、彼らを引き摺り下ろし党再生にむかうべきなのか、はたまたいよいよ本物の共産党新党を創出すべきかの議論を開始せねばならない。 この核心に触れずのべつくまなく追従したり批判するのはれんだいこの趣味ではない。容認し難い。以下、れんだいこ式日本左派運動再建策を世に提起し判断を仰ぐことにする。 2007.8.18日、2010.7.8日再編集 れんだいこ拝 |
【何をどう為すべきか】 |
れんだいこ式日本左派運動再建策は、日共党中央問題に対し、「何を為すべきか」と「どう為すべきか」の二面から問うことから始まる。「何を為すべきか」は多岐にわたるので後述するとして、「どう為すべきか」にコメントする。本筋は本物の人民大衆運動の創出である。共産党が本来そのようなものであることを前提として、日共党中央問題をどう片付けるべきか。これを問わねばならない。 日共党中央問題を俎上に乗せ、これを内部から切開するのか、日共を処置無しと見立て新党創出に向かうのかが第一の岐路である。れんだいこは、新党創出の方が効率的であるとは思うのでそうしたい。だがしかし、れんだいこには、戦前から今日まで本来の共産党運動に殉じて身と心を捧げてきた党員及び支援者の英霊の声が聞こえる。彼らの怨念に応えるのは、宮顕−不破系党中央支配の転覆による党の再生ではないかと云う気がしてならない。 但し、この場合、れんだいこは党員ではないので内部からどうこうする立場には無い。しかしながら、日本共産党運動はそもそも人民大衆のものであり歴史的なものであり、現下の党中央及び党員に私物化させる類いのものではない。党外であれ、日本共産党運動の在り方を問うのに何の憚りがあろう。そう考え、党外からではあるが党内に向けてれんだいこ指針を発信し続けるべきではなかろうか。そして党内が動き、自律的に宮顕−不破系党中央を断罪し、新党中央の創出に向かう可能性があるのなら、これに役立つべきではなかろうか。 しかし、今の日共内にそのような能力が有るのだろうか。50年有余にわたる宮顕−不破系党中央の洗脳により党員の脳内は完全にやられているのではなかろうか。党中央と党員の頭脳は結構ハーモニーしているのではなかろうか。そういう見立てもできる。ならば無駄な努力、蟷螂の斧になりやしないか。新党を立ち上げ手本を率先垂範すべきではなかろうか。マルクス主義の限界も見えてきた頃だし、そうすべきではなかろうか。この二つの問いの決着が付かず思案が堂々巡りしてしまう。 しかしまぁそれはそれとして、日本左派運動再建の一里塚としての日共再生の為に何をなすべきかを明確にしておかねばならない。以下、「何を為すべき」を書き付け世に問う。 2007.8.18日 れんだいこ拝 |
【日共の根本的再生の確かな道筋考その1、のど仏に突き刺さっているままの戦前党中央委員小畑査問致死事件に対し、小畑に対する冤罪を認め名誉回復させ、宮顕犯罪を総括し人民大衆に詫びよ】 |
日共問題処方箋の第一は、戦後左派運動ののど仏に突き刺さったままの戦前党運動の宮顕派による党中央委員小畑査問致死事件(以下、仮に「リンチ事件」と云う)の再検証から始めねばならない。多くの者は何を今更と云うが、れんだいこは違うと断言する。何ゆえこれが必要か。それは、この事件を領導した宮顕が戦後党運動に再登壇し、現在に至る日共の総路線を敷いているからである。 日共総路線を個別的に批判することも必要であるが、「リンチ事件」の解明を通して宮顕の正体を露見させ、そのような人物が敷いた現下の日共総路線そのものの総体的な胡散臭さを浮かび上がらせる必要が有る。日共総路線の個別的批判は手間と時間が掛かるが、宮顕の正体批判はこれ一事で、日共総路線の個別的批判総体に匹敵する証明力を持つ。「リンチ事件」批判にはそういう意義がある。 これにより宮顕の正体を確認し、宮顕総路線の個別的政策批判をも獲得すれば当然に、有り得べからざる人物である宮顕の党中央壟断を許し、いかがわしい路線と政策を押し付けてきたことの非を人民大衆に謝罪させせねばならない。これができない以上は日共問題の解決の糸口が開けない。全てはここから始まる。「リンチ事件」にはそういう重要性がある。 れんだいこは、「リンチ事件」について「宮本顕治論」所収リンチ事件考で検証している。詳しくはここで確認して貰いたい。結論だけを述べれば、宮顕は小畑致死の直接の下手人であり、いわば党中央委員殺人鬼であり、今日までその史実を隠蔽し、居直ったまま生涯を閉じさせた。この事件は、戦前党運動の数次にわたる弾圧と再建の攻防の果てに最終的に党中央壊滅をもたらした。、「リンチ事件」にはそういう史的意味がある。 問題はここから始まる。そういう履歴を持つ宮顕をして戦後、党中央に再登壇させ、長年第一人者の地位に坐らせ、今日的日共路線を敷設させ、党員はその指導を仰ぎ、あまつさえ一時期宮顕を国会に送り参議院議員にまでならせたという史実がある。日共はこの不義を天下に詫びねばならない。これ無しには何も始まらない。 れんだいこ的には信じられない狂態であり、日共は大きくその党史を汚してしまった。共産党と云う当局との攻防熾烈な特殊な政党ゆえに発生した椿事ではあるが、有り得べからざることを起こしたという感覚が欲しい。 ところが、ここで早くも躓く。党員は、宮顕−不破系党中央に洗脳され丸め込まれてしまっており、れんだいこの指摘に何の議論も仕掛けられないのに、この鬼説を否定する。これを如何せんか。 2008.8.18日 れんだいこ拝 |
【日共の根本的再生の確かな道筋考その2、戦後党運動に於ける第一期を指導した徳球−伊藤律系運動を再評価させ、復権させよ。但し、単純な是非論に陥ることなく弁証法的に出藍させねばならない】 |
【日共の根本的再生の確かな道筋考その3、党内問題として、民主集中制の独裁的奇形的適用を戒め、異端異論を許容する機関決定重視型民主主義集中制組織へ転換させよ】 |
【日共の根本的再生の確かな道筋考その4、党外問題として、統一戦線論に基づく奥の院型指導運動を戒め、見解の違う党派との課題一致型共同戦線論に基づく左派運動を創出し、結集させよ】 |
共同戦線論考理論と実践の喧々諤々を常時介在させ、競合弁証法で運動を鍛えよ |
【日共の根本的再生の確かな道筋考その5、国際的実践問題として、各国左派運動の自由自主自律型国際社会主義運動を展望し、左派サミットを牽引せよ】 |
【日共の根本的再生の確かな道筋考その6、国際的理論問題として、現代世界を牛耳るネオ・シオニズムの凶暴性を露見させ、諸民族協和・地球環境保全型新イデオロギーを獲得せよ】 |
(私論.私見)