日共のネオシオニズム拝跪運動を弾劾せよ |
(最新見直し2014.9.23日)
【日共理論のネオシオニズム拝跪性を弾劾する】 | ||
宮顕−不破−志位系党中央の理論の特徴について考えたことがあるだろうか。れんだいこは、この党中央の変態性に気づいているのでいつでも客観化している。その目で見ると、日共理論は、マルクス主義と云うよりネオ・シオニズムに酷似していることに気づかされる。案外とこのことが知られていない。 一体全体、宮顕−不破−志位系党中央の理論で、組織論でも運動論でもマニュフェストでも歴史論でも、ネオシオニズムのそれと食い違う箇所を探すのはよほど困難である。日共理論は、一から十までネオシオニズム理論を下敷きにしている。果たしてこういうことが偶然に起こるだろうか。 それにも拘らず、多くの者は、現下日共理論をマルクス主義の現代的創造的適用と了解したがっているように思える。しかし、それは、そう受け取る者達のマルクス主義的理解の貧困さを物語っているだけのことである。思えば、原典を離れての注釈書流行りの時代だから仕方ないのかもしれない。 ここでは、日共の第二次世界大戦歴史観を検証する。第二次世界大戦史観とその後の反戦平和理論は対のものであるが、マルクス主義のそれと云うよりは如何にネオシオニズムの観点丸出しであるかを確認してみたい。これが如何に酷いものであるかは、試みに、日共の中東問題理論を炙り出せばよい。彼らがどのような見解を披瀝しているのか、イスラエルとどう関わろうとしているのか確かめればよい。透けて見えてくるのは、彼らのいわゆるテロ批判が、イスラエルの建国以来の国家テロには向かわず、イスラムのレジスタンス派のテロをのみ殊更に採り上げて批判を集中していることである。 彼らの第二次世界大戦論を見よ。不破のそれは特に「民主主義対ファシズムの闘い」であり、前者の連合国が後者の枢軸国を破った聖戦として意義づけられている。これにより、連合国を極力美化し、枢軸国を極力ファナティックなものとして描くことになる。その例証は枚挙にいとまない。次の一例を示しておこう。 2007.4.15日付け赤旗は、「ナチ擁護 独首相が批判 “問題直視さけられない”」なる次の記事を掲載している。
これのどこが問題なのかと云うと、第二次世界大戦を「民主主義対ファシズムの闘い」と位置づけ、戦後60年余の今もなおナチスに対する徹底征伐思想に依拠しているところにある。「同氏はこの事実がメディアに暴露されたことをきっかけに、州首相の座から失脚しました。今月一日に九十三歳で死去したフィルビンガー氏が、自らの過去を悔い改めたことはありませんでした」とあるように、ナチス派は死してなお鞭打たれんとしている。それでいて、ナチスの犯罪についての歴史検証が十分かと云うとそうでもなく、問答無用式に断罪され続けている。 これまで何万ベンとなく、ユダヤ人ガス殺600万人説やアンネの日記を引き合いに出して、ナチスのユダヤ人迫害が如何に酷いものであったかが語られてきた。その根絶を目指すため、今日でも世界中でプロパガンダされており、ナチス残党狩りが演ぜられている。しかし、今日の思潮は、「ナチスのユダヤ人迫害の実態」を廻って論争過程にある。むしろ、「己を絶対善、政敵を絶対悪」として描きプロパガンダし続けるネオシオニズム特有の勝者の論理ではないかとの疑惑を増しつつある。 この観点から、ナチスドイツと同盟した日本帝国主義も断罪されている。ユダヤ人ガス殺600万人説に相当するのが日本では南京大虐殺事件である。他にも百人斬り事件、従軍慰安婦事件、三光作戦等々がある。いずれも、日本軍部の犯行を極力ファナティックなものに描くことに特徴が認められる。靖国神社問題はこれらに関係している。 しかしこれは、マルクス主義のものではない。ネオシオニズムのものである。日共は、ネオシオニズム理論を振りまきながら、マルクス主義的なそれであるかのように見せかけている。日本の戦後歴史教育も又概ねこの構図での学習を標準としてきた。故に、反戦平和運動を担う者はごく自然にユダヤ人ガス殺600万人説、南京大虐殺説を反戦平和運動の基点として学ばされてきた。その癖、米英ユ軍の無差別都市爆撃、原爆投下については調法なロジックで免責している。 れんだいこが思うに、本来の反戦平和運動は、ユダヤ人ガス殺600万人説、南京大虐殺説を足場に構築する必要はない。日本的立場としては、幕末維新以来の富国強兵化の道のりを検証し、二度と不戦の誓いを立てるほうがより肝腎だ。最初の被爆国としてノーモア広島・長崎的原水禁運動を世界に広げた方が値打ちがあろう。西欧諸国なら、近代以来の絶えざる国家間戦争と世界植民地化の道のりを総括するのが良い。 これらを為すには歴史検証が必要で、人民大衆が個々に歴史に通暁する以外に方法が無い。左派運動は、そういう運動を創りだすべきであった。実際には、歴史検証を怠り、ごく安易にユダヤ人ガス殺600万人説、南京大虐殺説を唱えることによって反戦平和の橋頭堡としてきた。かく駄弁するのが反戦平和運動かの如く装ってきた。これは安逸であり、ネオシオニズムに操作されたものでしかない。今やそう知るべきだろう。 2007.4.17日 れんだいこ拝 |
【日共理論のネオシオニズム呼応性を弾劾する】 |
「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK143」のgataro氏の2013.2.10日付け投稿「<英フィナンシャル・タイムズ> 「日本の病の基本的な原因は「過剰な民間貯蓄」である。より正確には、企業が投資に比べ極…」に触発され、以下のことを書きつけておく。れんだいこの興味は文の内容にあるのではない。英フィナンシャル・タイムズが、 「日本の病の基本的な原因は過剰な民間貯蓄である。より正確には、企業が投資に比べ極めて過剰に収益をため込んでいることにある」、「均衡ある経済へのカギは巨額の利益を使うことのできなかった企業寡占体からそれを引き離すことだ。国民が所得増の恩恵を受けるようにすべきだ」と主張し、これに呼応する形でマスコミが提灯言説を掲げるのはいつものこととして、共産党の笠井氏が早速に国会質疑で「内部留保還元を」とぶっていることへのイカガワシサの検証にある。 2013.2.9日付け赤旗は、「笠井氏 内部留保還元を/首相 「経営者に要請する」/働く人の所得増こそ」との見出しを掲げ、8日の衆院予算委員会での笠井亮議員の質疑内容を記事にしている。「“企業の収益が上がれば賃金もやがて上がる”というアベノミクスの論拠を突き崩して、働く人の所得を増やすことこそ必要だと強調しました」云々。 ここにいつもの日共らしさが垣間見える。個々の部分的発言ではさもらしく色々主張する。その限りでは問題ない。だがしかし、主たる論調の意図はいつもネオシオニズムの意向に添っている。これが日共口舌である。本件では、ネオシオニズムの日本の国民資産の剥ぎ取り指令が介在しており、日共の「働く人の所得を増やすことこそ必要論」は、これだけを取り上げるとその通りなのだが、ネオシオニズムの意向に添った発言であることもその通りである。このことに注目を換気したい。 思えば、ネオシオニズム奥の院が田中角栄征討を指令するや金権批判で呼応したこと、内治より外治に資金誘導する為の方策を打ちあげるや公共事業批判に精力的になったこと、田中真紀子征討を指令するや真紀子批判、鈴木ムネオ征討を指令するやムネオハウス批判、小沢一郎を指令するや小沢批判に精力的になったこと等々数え上げればキリがない。要するに、ネオシオニズム奥の院の指令を日共言葉に翻訳し、要するに日共流で引き受けると云う習性が見える。 日共のこの根深い好ネオシオニズム体質を訝らず、戦前の日本共産党と戦後の宮顕―不破―志位系日共とを同じラインで結び、生活者利益擁護の点ではまだしも原則的であった戦前の日本共産党の好評論を横滑りさせて現下の日共好評論に繋げる者が多い。しかしそれは知の貧困と云うべきではなかろうか。それはあたかも、容量5リットルのビンが10リットルの水を受け半分を垂れ流ししている様に似ている。この域の観点から、れんだいこの日共論、政論を得意げに批判する若造に食いつかれたら、れんだいこはどう対応すべきか。それは、囲碁6段の者が初段の者に滔々と囲碁論聞かされる破目に遭うのに似ている。恐れ入りやの鬼子母神ではなかろうか。 かく問うべきところ、「共産党自体はあまり好きじゃないけど、言ってる事は筋が通っている」なるおべんちゃらは日共問題を隠す役割を果たす裏からの御用発言でしかない。 2013.2.10日 れんだいこ拝 |
「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK171」の赤かぶ氏の2014 年 9 月 23 日付投稿「戦後「左翼」の罪深き思考停止 朝日新聞の虚報、捏造の背景にあるもの(JBPRESS)」を転載する。
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筆坂のこの見地は私が捜していたものだ。この論文のキモは、宮顕-不破-志位系共産党の国際奥の院ユダ邪との親疎性にある。要するに口先はマルキシズムに似せているが本当に唱えていること、していることはネオシオニズムに拝跪した運動である。このことを本論文が裏づけていることになる。これが筆坂の見地であり、不破の側近でいた者の証言である故に相当の根拠を握っており、今後も様子を見ながら次々と暴露されるだろうと見る。 2014.9.23日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)