共産党は、歴史的に大衆運動と選挙運動の結合を目指してきた。ところが、1955年の六全協で宮顕が指導を掌握し、1960年代後半になって次期指導者として不破が登場し始めてより以来次第に露骨に大衆運動から召還し、選挙闘争一本槍の専一化に転換させるようになった。当初は議席を増大させ上げ潮ムードに乗ったが、1980年頃よりの党勢そのものに陰りが見え始め、それは選挙にも反映し一進一退の頭打ち、やがて退潮し始めることになった。いわゆるジリ貧化が始まり、この流れが2010年の今日まで続いている。
党中央は、これを自慢の科学的社会主義的にどう分析したか。何とご都合主義的に有利な指標を見つけて前進勝利と居直り、事態を隠蔽糊塗に専念した。ところが、2010年の参院選であらゆる指標に於いて退潮データが出たことにより、その居直りも通用しなくなった。いわばお手上げの状態になっている。これが目下の状況である。これを踏まえて、以下言及する。
日共は、国政選挙における供託金没収総額に触れたことが一度もない。完全な沈黙・隠蔽をしてきた。市田書記局長が、10年1月第25回大会において、党員から義務的徴収をした供託金支援基金総額を、09年総選挙の供託金没収総額の一部穴埋めに使った事実を報告しただけである。彼は、そこでも、6億6600万円という没収総額を隠蔽した。
宮地氏の「供託金の26億8400万円国庫垂れ流し政党」によれば、2003年総選挙から2010年参院選まで8年間において、参院選3回・総選挙3回という国政選挙6回分の供託金没収人数・比率・金額を次のように計算している。それによれば、わずか8年間で、26億8400万円もの供託金を国庫に垂れ流ししている。その内訳は2003年衆院選で7億9200万円、2004年参院選で1億7100万円、2005年衆院選で7億3100万円、2007年参院選で1億5900万円、2009年衆院選で6億6600万円、2010年参院選で1億6500万円。「これほどの財政無知・放漫経営の民間新聞社なら、とっくの間に、役員解任・追放をされている」と評している。
この問題の重要性は次のところにある。供託金没収金額は、会計経理原則から云えば純利から引き当てられる。これほどの純利負担が続けられるものだろうか。れんだいこは、ここに闇があると考える。これについては、経理に詳しいものが論じた方が良いかも知れない。普通には気違い沙汰であろう。
2006年、第24回党大会は、供託金支援基金を決定した。満場一致挙手要員として濾過・選別され、伊豆に集まった党大会代議員約1000人は、一人の質問・反対もなく賛成した。党大会決定となった基金は、全党員一律年間1200円の義務的な拠出基金となった。それは、党費1%に上乗せされる。なぜ、06年に供託金支援基金が提起され、その拠出が党費並に義務化されたのか。衆参院国政選挙における全選挙区立候補戦術を貫徹する為の費用捻出であることは疑いない。、党費納入とは別に、年間一律1200円義務基金を徴収することにより調達したかに見える。1200円×06年第24回大会における公表党員数40万4299人=4億8515万円になるからである。 ところが、2010年1月第25回大会での供託金支援基金に関する市田書記局長報告によれば、党費納入25万党員中、供託金基金納入拒否・不服従をしている者は57.6%、14.4万人に達している。2009年総選挙不参加・サボタージュ党員と、供託金基金納入拒否・不服従党員との党員数・比率は照応している。ほぼ重複している。こうなると計算し直さねばならない。公表党費納入率63.0%として、40万4299人×63.0%=党費納入党員25万4708人×1200円=3億0565万円になる。何とか帳尻が合っているように見える。
しかし、問題は残る。これは、供託金没収金額に見合った数字であるに過ぎず、実際の選挙戦では幾ら資金が有っても足りないほど費消されている。供託金支援基金が供託金没収対策費として限定されているのならともかく一部が選挙費用総体に回されていたとするなら、最終的に供託金没収の重みがのしかかる。この辺りにつき、経理報告が為されているように思われない。日共は経理公開する必要があろう。独特の御都合論理でしないのであれば、せめて供託金支援基金の徴収額と使途明細を公開せねばならない。
最終的に残る疑問は次のところにある。日共党中央は何故にこれだけの供託金没収を受けながら、相も変わらず懲りもせず全選挙区立候補制を敷くのであろうか。それが客観的にどういう役割を果たしているのだろうか。それを承知で継続する裏に闇資金の流れがあるのではなかろうか。
2010.10.2日 れんだいこ拝