有田 芳生(よしふ)氏の日本共産党への手紙考

 (最新見直し2014.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2014.04.07日 れんだいこ拝


 有田 芳生(よしふ)氏はジャーナリスト、テレビコメンテーター。出版社社員などを経て2010年参院選で初当選。党副幹事長などを歴任。参院比例代表、当選2回。立憲民主党。
 1952年〈昭和27年〉2月20日、京都府北桑田郡周山町(現在の京都市右京区)で。共産党員の両親の下に生まれた。父は政治運動家・労働運動家の有田光雄。ヨシフ・スターリンから「よしふ」と名付けられた。芳生は「スターリンから取ったと聞かされたのは、中学のときだったんじゃないかなぁ」と述べている。

 1970年、京都府立乙訓高校在学中の18歳の頃、上田耕一郎さん(後に副委員長)らの論文に感動して入党。

 1977年、日本民主青年同盟の同盟員が多数いた立命館大学経済学部を卒業。日本共産党系の出版社である新日本出版社に入社し編集者となった。日本共産党党本部によく行き、上田副委員長の部屋へも通っていた。「赤旗」編集局長だった吉岡吉典に「処分を受けるくらい(型破りな)いい仕事をしろ」と発破をかけられ、雑誌「文化評論」に大竹しのぶさん、淡谷のり子さんら芸能人を出すなど活躍した。

 1980年、「文化評論」に事前に宮本顕治日本共産党委員長(当時)も了解した企画である上田日本共産党副委員長と作家の小田実の対談を掲載した。掲載号は完売した数カ月後に、小田実が公の場で「共産党を市民運動などを自党に系列化する既成政党」と批判した。この日本共産党批判を受けて、共産党と小田実の関係が悪化した余波で党内で有田までも批判された。日本共産党から長時間の「査問」(追及)を受けた末に自己批判書を書かされている。

 1984年、党籍剥奪はされなかったものの日本共産党系出版社である新日本出版社から追放されている。後の2005年に小田実と上田副委員長が再び対談し、雑誌掲載されたが、日本共産党による対立の総括・和解経緯説明は一切なかった。そのため、2005年当時の心境について、有田芳生は「人生を変えられた者としては、どうしても解せなかった」と語っている。

 新日本出版社退社後、党籍は残したままフリーランスのジャーナリストとなる。

 1986年、朝日ジャーナルの霊感商法批判キャンペーンに参加する。同誌休刊後は週刊文春で統一教会報道に携わる。

 1990年、「日本共産党への手紙」(教育史料出版会)という本を編集した。共産党への批判や提言を加藤周一さんら文化人15人にもらった。事前に上田さんに相談すると、「いい企画だ」とうなずかれた。この本で党内外の自由かつ建設的な議論の種をまくつもりだったが、以前共産党に攻撃されたことなどを理由に寄稿を断る文化人は多かった。作家の佐多稲子さんは、用件を聞くなり受話器をガチャン。哲学者の久野収さんらも断った。「以前共産党に攻撃されたことなどを理由に寄稿を断る文化人は多かった」と明かしている。党の対応は、さらに硬直的だった。「赤旗」が3回連載でこの本を批判した。再び査問され党規律違反として除籍処分を受ける。上田は「だから(出版を)やめろと言っただろう!」と掌返ししたことに言葉を失ったとし、「これが、『政治的人間』というものか」と思ったと明かしている。

 1990年、2回の査問の末に「日本共産党への手紙」の編集をしたことで除名された。
 1990年代中盤からは、従来からのライフワークであった統一教会に加えオウム真理教に詳しいジャーナリストとしてTVの報道番組に出演し、日本テレビ系列のザ・ワイドでレギュラーのコメンテーターを務めていた。しかし、有田はオウム事件発生以前からオウムを取材していたわけではなく、当時一緒に酒を飲むほど親しくしていた江川紹子にオウムの話ばかりを聞かされ、詳しくなった。1995年3月22日のオウム施設への強制捜査以降、しばらくの間平均睡眠時間が3-4時間になった。

 1995年5月の麻原彰晃元死刑囚が逮捕された翌朝の「赤旗」に、「反共を売り物にする」「有田芳生」と呼び捨てで批判するコラムが載った。当時の心境について、有田芳生は「共産党は除名した人を反党分子だと攻撃する」と久野収が日本共産党を糾弾していたことを思い出したと語っている。
 政界進出・政治家時代

 2007年新党日本副代表に就任し、同年の第21回参議院議員通常選挙に同党の比例区から立候補したが落選。  

 2009年
、新党日本公認で、第45回衆議院議員総選挙東京都第11区(比例区重複)から立候補したが、落選。

 その後民主党に移籍する。
 2010年第22回参議院議員通常選挙に比例区から立候補し、37万票獲得し初当選した。民主党の比例区当選者としては、トップ当選であった。

 2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙で民主党代表の海江田万里が落選。海江田の辞任に伴い2015年1月18日に行われた代表選挙では、長妻昭の推薦人に名を連ねた。

 2016年第24回参議院議員通常選挙に比例区から立候補し、2選(20万票、比例4位)。第191回国会では参議院政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会委員長を務める。

 2017年7月27日、民進党代表の蓮舫が、同月の東京都議会議員選挙の結果を受けて辞任を表明。蓮舫の辞任に伴う代表選挙(9月1日実施)では枝野幸男の推薦人に名を連ねた。

 同年12月11日、民進党を離党し立憲民主党への入党を申請。26日承認された。

 2018年8月29日、立憲民主党沖縄県連代表に就任。
 2020年9月15日、旧立憲民主党、旧国民民主党などが合流し、新「立憲民主党」が結成される。有田も新党に参加。

 2021年10月31日の第49回衆議院議員総選挙で立憲民主党は議席を「109」から「96」に減らし、11月2日、枝野幸男代表は引責辞任を表明。枝野の辞任に伴う代表選挙(11月30日実施)では逢坂誠二の推薦人に名を連ねた。

 2022年7月10日の第26回参議院議員通常選挙で、立憲民主党は比例代表で7議席を獲得。有田は党内候補者20人中、10番目の得票数で落選した。一方、参議院選の前々日に起きた安倍晋三銃撃事件の犯人が動機として旧統一教会への恨みがあったと供述していることで、旧統一協会が再注目され、ワイドショーに出演している。



 





(私論.私見)