追悼

 (最新見直し2007.4.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2005.6.30日再編集 れんだいこ拝


【山口武秀氏の伊藤律追悼文】
 かって日本革命と農民運動を律と共に闘った山口武秀(日本最強の常東農民運動の指導者、代議士二期、三里塚闘争の「軍師」などとして終生闘いぬいた)は、律の死に次の追悼文をよせた(抜粋)。
 「伊藤律さんは大衆に思いをはせた」

 「伊藤律の生涯を思うとき、今の私には二八年の北京幽閉ということが一番大きくでてまいります。これ以上の残酷はあるまいという幽閉の中を伊藤律は生き延びてきました。よくも生きてきたという思いの外、そこにはどうしても見過ごしに出来ない問題が存在すると考えます。

 一体、同じ仲間の手で二八年も異国の地に幽閉されるということはどんなことだったのか。もとより拘禁はなんの法令に基づくものでもなく、いつまでという期限もつけられておりませんでした。それがかりに敵に捕らわれたというのならば、憎しみの心を燃やすことが出来ます。敵の手で殺されるというなら、後に続く同志に期待を持つことが出来ます。だが、味方の手で地獄に突き落とされたところでは、どこに何を見ていったらよいのか、思いの出所がないと考えられるのです。

 共産党は伊藤律をそうした処へ蹴落としながら、何も知らぬと口をぬぐっておりました。獄中で死ぬのを待っていたのでしょう。冷酷な人間抹殺です。通常の世界にありうることではありません。共産党が一般社会とかけ離れた世界だからそんなことが出来たのです。

 一般社会の常識では許されないその処置を階級・前衛党を守るに必要な行為としているのでしょう。独善的な世界にだけ通用する倫理、勝手な言い分というものに他なりません。

 伊藤律幽閉は野坂参三ら何人かの党幹部の手によってなされました。幹部以外にはその事実は秘匿されてきました。しかし、党員達は事のあらましを知ったにしろ、おそらく野坂達のとった処置に異議を唱えなかったでありましょう。共産党の組織なるものは上部を絶対的なものとし、党員はそれに従うだけの存在にしてしまっているからであります。

 個々の党員には自分の頭で判断するとか当然でてくる意見を述べるとかいうことがなくなっております」。(『山口武秀著作集』)

【山口武秀氏の馬車引き代議士木村栄氏の追悼時の言葉】

 木村栄は、敗戦から1年半後の1947年衆議院選挙で共産党が徳球、志賀、林百郎(長野)、木村(島根)の四人しか当選しなかった時に山陰の農民の強い支持で選ばれた「馬車引き代議士」で、農民運動家であった。山口武秀は彼の追悼で次のようにいった。

 「伊藤律と木村君の会見の話が伝わった。手を取り合って、涙を流したという。『二十八年間の中国幽閉なんて、人間のすることではない』という木村君の言葉も聞いた。共産党関係の多くの人々はその律幽閉を無感覚に見過ごしている。木村君の怒りこそが真っとうなのだ。戦後、農民の中に入って闘い、見聞きし、思考してきた木村君の姿勢は、伊藤律との感動の会見に真っすぐつながっているものがあると思う」(「徳球会会報」1992.3月)。

(私論.私見) 木村栄氏の「人間のすることではない」について

 「人間のすることではない」という木村の感覚こそが、まっとうなのである。日共の次の言い分が記されている「70年党史」が、どれだけ「異常」なのか、両者の主張を比べてみるとよくわかる。



【伊藤律の著作集】
 文献に「伊藤律の証言」(81年)など。




(私論.私見)