古い人にとっては、「原点」にもなる二つの作品を…。
倉橋由美子の「パルタイ」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E6%A9%8B%E7%94%B1%E7%BE%8E%E5%AD%90
大島渚の「日本の夜と霧」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%9C%E3%81%A8%E9%9C%A7
…もっとも今の中核派にとって、あまりに「古すぎる」?
「10・8世代」にとってすら、共産党とは、「歌と踊りと右翼的」なくらいの認識も少なくないから、今の30代~40代の人にはピンと来ないかもしれない。
少し新しいニュースから
戦後共産党の政治局員の伊藤律スパイ事件は近年、名誉回復の動きが進んでいるそうだ。伊藤律氏がスパイとして断罪され、亡命先の中国で投獄された事件の発端も、「権力によるささやき」だったらしい。事実とすれば、権力はこうしたささやきで共産党の政治局員を葬り去ることに成功したのだといえよう。権力はこうして内部分裂を起こし、粛清を誘導し、共産党の「権威」を破壊することに成功したのかもしれない。
東京の杉原こうじ(緑の党 Greens Japan 脱原発担当)氏のブログから、以下引用。
杉原浩司(Koji Sugihara) kojis at agate.plala.or.jp
■2013.05.19 遅れた追悼 ――伊藤律(日本の被占領期の日本共産党政治局員)について(私の「覚え書き」)
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-date-20130519.html
伊藤律という人は私にとっては長い間、日本の被占領期の日本共産党政治局員というよりも、「革命を売る男」(松本清張)、「生きているユダ」(尾崎秀樹)というものでした。また、GHQによる追放令で1951年に中国に密出国し一時北京機関の一員となった後、同地で消息不明、非業の死を遂げた人ということでしかありませんでした。だから、伊藤律の「生きている」ことを伝える1980年7月31日の時事通信の報道には驚きました。そして、同年9月3日、伊藤律は新聞の報道のとおり29年ぶりに「生きて」成田空港に帰国しました。帰国時は伊藤は67歳で車椅子に乗っていました。
伊藤の帰国後、私は改めて『日本共産党の五十年』史(当時としては一番新しい党史)を読んでみました。その五十年史にはやはり「伊藤はスパイである」旨の記述がありました。渡部富哉著の『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房、1993年)という本も読んでみました。同著によって私ははじめて「伊藤スパイ」説は誤りではないか、と考えるようになりました。渡部氏が指摘する「伊藤スパイ」説の誤りを私なりにですがひとつひとつ検証していくと渡部氏の説を首肯せざるをえなかったからです。しかし、私は、この問題についてそれ以上考えることはしませんでした。
■「日本の黒い霧」スパイ説に断り書き 伊藤律遺族「文春側の訂正」(東京新聞 2013年4月21日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013042102000121.html
作家の松本清張が代表作「日本の黒い霧」で、共産党元幹部の伊藤律を特高警察のスパイだったなどと記述していることについて、遺族から誤りだと指摘された発行元の文芸春秋が、異例の断り書きを入れることが、遺族側への取材で分かった。遺族側は事実上の訂正とみて評価している。 (森本智之)
http://list.jca.apc.org/public/cml/2013-May/024223.html
‥‥クロ説にたってもこうした「疑惑」を克服するためにも、より広範な資料と新たな捜査を重ねて、あらためて「再審」をスパイ対策機関から提訴する、大法廷で審理を重ねることが、スパイの残党や他のスパイの根絶のためにも有効な気がする。
「スパイ荒川を人民法廷に引きずり出そう!すべての左翼戦線から広範な声を上げよう!」ではないか?
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