浩さんの思い出 真の共産主義者 伊藤 律
労働運動研究 1984年5月 No.176
釧路の獄を出て
長谷川浩さんが六年もの非転向獄中闘争を終り、三鷹村の家に帰ったのは、一九三六年であった。その直後、彼が急逝まで仕事をしていたあの書斎で初対面した。頬や手にも、厳寒の釧路の獄での凍傷の痕が紫色に残っていた。相手を英気で圧倒せず、理論と気概で燃え立たせるその態度に、深く感銘した。半日話し合った結果、職場細胞から共産党再建の方針が定まった。
初対面でも、つながりは約五年前に遡る。当時彼の弟と私は、旧制一高の共産主義青年同盟再建を始めた。すでに転向の濁流が広がる中で、一高先輩に非転向党幹部が二人いた。志賀義雄と長谷川浩。われわれ後輩の尊敬の的であった。その頃大和村辺にあった家をも訪れ、浩さんの獄中動静を逐一聞いた。
地下潜入後、一九三三年逮捕され、豊多摩監獄の未決監「八舎」へ送られた。その頃浩さんもここにいた。弟が、彼の宅下げした本を私に差入れてくれる。時には剥ぎ残ったレッテルに、長谷川浩の名が読みとれる。胸をおどらせた。この縁故があったから、初対面でも旧知のように話が進んだ。
共産党再建のために
まもなく昔産労の「少年」、岡部隆司と連絡がつく。岡部は優れた理論家で、コミンテルンとも関連があったのだ。未熟な後輩の私を加え、三人で情勢と任務を反復討論した。コミンテルン第七回大会の反ファッショ統一戦線方針、岡野・田中「日本の共産主義者への手紙」をさらに一歩深め、方針を立てた。党は在来帝国議会を、絶対主義天皇制の飾物と否定してきた。が当面の情勢に鑑み、そこにわずかでも残る自由民権運動の遺産を擁護、斉藤議員の軍部批判に代表される自由主義ブルジョアを含む広範な人民統一戦線を提起した。
三七年夏、近衛内閣は中国侵略の宣戦を布告。一二月「人民戦線」弾圧で社民勢力をも壊滅。天皇制ファシズムの嵐が吹きすさぶ。戦争を批判しただけで「国賊」と罵られ、投獄される。進歩分子.殊に非転向者への圧力は日に強まる。だが浩さんは「オレは天衣無縫で往く」と、昂然嵐に立ち向った。
過去党壊滅の教訓を汲み、大経営に組織の根を下ろす活動に努力を集中した。浩さんは三菱重工、国鉄、東交なぞの職場闘争と組織を直接指導。全員協力、農民、市民、学生、文化の諸運動とも連係。さらに秘密印刷機関を創設、文書を発行。その筆者は浩さん。
嵐をさけ、密室の革命論議に耽ける傾向を厳に自戒した。困難と障害を克服、大経営細胞建設のため、誰よりも浩さんは奮闘した。当時地下グループが他にもあった。関西の春日庄次郎中心の共産主義者同盟は「武漢三鎮を守れ」と主張。われわれは大衆の意識程度に応じ、戦争の苦難に喘ぐ大衆を行動に立たせるため「即時停戦、平和を」掲げた。その他、神山茂夫中心の旧刷同組、山代ら京浜グループもあった。だが皆、街頭組織の域を未だ出ない故、連係を差控えているうち、悉く摘発された。
天皇制権力は労組、農組その他大衆組織をも次々に圧殺。特高指揮下の産業報国会への組替えが強行されてゆく。旧党員学者すら、産報への「潜り込み」戦術を提唱する。われわれはこれを批判、あくまで労働者の団結権を守る闘争を堅持した。殆んどの労組が解散を余儀なくされ、東京交通労組が、最後の砦として残った。当局に迫られた労組幹部は一九四〇年春、中央執行委員会を開き、労組の産報への改組「見切り発車」を企てた。婦人部と青年部の大衆は、大会を頑強に要求して闘う。あげく拡大中執委会議となった。労組解体止むなしの大多数意見に対し、婦人部長は検挙覚悟で、立って断固労組を守れと主張した。侵略戦争とファシズムの嵐に抗した労働者階級の最後の組織的戦闘であった。身をもってこの闘争を指導したのが、浩さん。
間もなく岡部、長谷川その他も逮捕。他の諸グループも弾圧。かくて敗戦まで、党は遂に立ち上りえなかった。浩さんはそれからまた約六年、獄中に陣吟した。
戦後労働者進撃の先頭に
一九四五年一○月、浩さんは出獄するや工場へ走った。労働者の闘争に身を投じ、その創意と経験を虚心に学び、その総括から前進の道の探求に努力した。徳田・志賀「人民に訴う」に、始まり、第四回大会の「人民管理、労働者の手による産業復興」の方針は、社会主義への道を提示した怒濤の如き労働者闘争の創意の総括であった。
全国を席捲した生産管理闘争の燥火となったのは読売争議である。これは同社の鈴木東民ら進歩分子が昼休みごとに、佐和慶太郎主宰の人民社の焼ビルでの集合、協議に始まる。高野実もここの常連だった。党は労組、農民組織、大衆団体の再建につき統一戦線を志向した。そのためこの縁で、高野・長谷川会談が内密に行われた。二人の意見はほぼ一致した。が、同席した袴田里見が戦前の赤色労組方針を譲らないため、会談は実を結ばなかった。戦後労働戦線も出発点から、産別、総同盟にわかれてしまった。
だが職場労働者の切実な要求は同一であることを、浩さんは誰よりも強調した。職場闘争の発展につれ、共同闘争を通じ工場代表者会議が拡がり、関東労協に結集された。ポツダム宣言に抵抗する幣原官僚内閣は、食糧、職、家、生活品の極度欠乏に苦しむ入民大衆の憎悪の的となる。自由、社会、共同、共産で、内閣打倒四党委員会が結成され、政府を総辞職に追い込んだ。その力量は大衆の激烈な闘争と広大な統一行動である。それは関東労協を中心に関東農民協、市民の食糧よこせ団体を結集した関東食糧民主協議会を主軸として展開された。この基礎の上に、戦後初の統一メーデーが、続いて食糧メーデーが盛り上る。吉田茂が一旦組閣を諦めたほど、労働者を先頭とする人民大衆の革命の波は全国に高まった。
第一次吉田内閣の成立は、連合軍による上からの民主改革の終焉を意味した。アメリカは天皇の戦犯を免除、労働者の生産管理を禁止、独占資本支持にまわり、鉾先を人民大衆に転じた。爆発した日本人民の民主革命と、上からの民主化を狙う連合国軍との〃束の間の蜜月〃は終った。それは民主化の主導権を誰が握るかの激烈な闘いの時期であった。その勝敗は日本敗戦の時すでに決着していたのだ。土地改革を含むこの時点でわが国階級関係は完全かつ根本的に変化した。革命の性格は社会主義へと進展した。 〃密月〃の破綻は米日反動派協力関係の出発点、やがて帝国主義軍事同盟に発展する。
米占領軍は労働者が社会主義へ半歩でも踏み出すのを決して許さない。すでに四月六目首相官邸包囲の大デモは占領軍との最初の衝突となる。徳田書記長と長谷川はその先頭に立った。GHQはこれを「暴民デモ」と禁止。だが労働者階級は米日反動派の合作攻撃を果敢に迎撃した。国鉄、海員の闘争から産別の十月攻勢を経て、全官公庁中心の共闘六百万人の二・一ゼネストへと突進する。全官公労を軸に産別、総同盟を含む殆んど全国の労組参加の「全闘」が結成される。さらにこれに日農その他社会党左、中間派と党を加え、倒閣実行委員会が発足する。全国に赤旗が翻り、騒然とした革命気運が国中にみなぎった。占領軍はついに、総司令官命令をもって禁止。労働者階級が議会民主を乗り越え、社会主義へ踏み出そうとしたこの歴史的闘争は、悲痛にも挫折した。アメリカ帝国主義は日本人民にキバを剥き出したのだ。
占領下の反撃と最後の決戦 党の戦略不明確とゼネスト挫折にもかかわらず、労働者階級は不屈であった。党は挫折の教訓を汲み、経営細胞強化に依拠、職場闘争に基づく地域人民闘争戦術をたてた。その提起者はやはり徳田と長谷川。武装した権力、占領軍と政府に対決しうる革命への道である。この党生活刷新は大衆の信頼を高め、四九年一月の総選挙で、党は三六の衆議院議席をかち取った。大衆はこの方針の下、反撃に立ち上った。全逓労働者は職階制賃金に反対、占領軍の干渉に抗し、全国を東西に二分、交互のストを打ち、最低要求を獲得。官公労組のスト権を剥奪する政令二〇一号に反対、国鉄二機関区で一斉職揚放棄、民族独立行動隊が全国を駆ける。
東宝砧閉鎖に反対、全従業員が撮影所を占拠、遂に戦車の出動となる。四九年に入ると、都公安条例反対の大衆デモが機動隊と激闘、東交の橋本金二が虐殺される。これに抗議する政治ストが決行される。十万人猷首に反対した国鉄労働者はスト、人民電車運行で闘う。東芝では企業整備と対決、生産管理或は地域ぐるみの産業防衛闘争を組織した。日鋼広島の闘争を支援した殆んど全県労働者は、占領軍の干渉に抗議、ストとデモを敢行。その他各地で激烈な反撃が展開された。
しかし下山、三鷹、松川の謀略弾圧のもとで、国鉄・全逓十数万人の大量馘首に続き、一連の大企業整備が強行されてしまう。労働者大衆の壮烈な反撃は敗北に終った。敗北したとはいえ、これまた歴史に残るこの反撃闘争の前線指導者は二ニスト同様、浩さんだった。
この反撃と翌五〇年の階級決戦は、重大な意味をもつ。米日反動派は戦後労働者が闘い取った諸権利と成果を悉く剥奪し、独占資本の復興と帝国主義復活を急いだ。そして米帝国主義が中国人民革命を圧殺、ソ連への突撃路を拓くため、朝鮮戦争の前進基地日本の地馴らしであった。レッドパージ先進分子の追放、労組の骨抜きと右傾化が襲いかかる。労働者はこれに抗し、生活と権利を守る決戦に立ち上った。まず八幡製鉄労働者が二〇目間のストを敢行。炭労、全鉱のスト、電産の反復電源スト、さらに全造船も参加。官公労を除く殆んど全産業の労働者が立ち上った。特筆さるべきは日立総連の三カ月に亘るスト、管理闘争、全自動車の六月三日全国統一ゼネスト提起だろう。それは全国労働者と基層党員の頑強、果敢そして決死の決闘であった。だが、この階級決戦も敗北に帰した。
遺憾にも、当時徳田は病身、長谷川は大阪駐在、労働者のこの決戦の指導に当れなかった。
常に労働運動の最前線に
長谷川は戦後五〇年まで、党政治局で一貫労働戦線を担任した。徳田主宰の組織活動指導部の実質的責任者は、彼であった。長谷川は殆んど党本部に座っていなかった。幹部室にも長谷川専用の机はなかった。激烈な労働争議の現揚には、殆んどと言ってよいほど、必ず頑丈な軍靴姿の彼がいた。浩さんは日々労働者と共に、文字通り寝食を忘れて闘った。歴史的な二・一ゼネスト前夜における彼の活動は正に獅子奮迅。その戦闘の雄姿は、今なお瞼にありありと浮ぶ。
この五年間は、日本革命未曽有の高揚期であった。浩さんにとっても生涯中、最も思いざま活躍、他の時期何十年に匹敵する豊富な貢献と経験を積み、自らも急成長した時期であった。
ニ筋の路線の闘争の中で
労働者が生産管理と二・一ストで社会主義へ前進を求めたにも拘らず、残念にも党は革命の性格変化を的確に掴めなかった。四六年二月、五回党大会での野坂提案による大会宣言は、平和的な民主革命と規定した。この誤りは単に野坂一個のものではなかった。当時はまだ連合軍と日本人民は、民主化をめざす同床異夢の〃蜜月〃にあった。上からの改革に幻惑された小ブル思想が党内にも氾濫したのだ。が徳田はこの大会での一般報告中、組織的実力で敵を追い詰めねば平和革命は不可能と指摘。八月の中総報告では、議会主義的平和革命論は社会民主主義への屈服と強調。四七年六回党大会で、野坂政治テーゼ上程は阻止された。
明らかに相対立する二筋の路線が党内に存在した。そして野坂理論は実質上克服された。勿論、党内矛盾と路線闘争は不可避であり、それを通じてこそ党は強化、発展する。しかし、これまた残念にも、それが確認されず、理論的に提起されず、思想根源に亘る全党討論による明白な決着が着けられなかった。その結果は五〇年問題から今日にまで尾をひいている。このため殆んどの覚員が両路線混合の誤りに陥った。のち、野坂理論を継承発展させた路線が展開される。その中で、浩さんは誤りが最も少なく、野坂帰国前の四回党大会の路線を守った稀有の幹部の一人なのだ。それは彼が常に労働者の中で闘った実践家の故である。戦後、党の再建と破竹の進展は、労農大衆の革命闘争と結合して実現した。大衆運動から遊離したお説教や文案とは無縁に再建され、発展して来た。
浩さんは終始党が労働戦線を指導する最前線の部署を守りつづけた。
五〇年問題と長谷川浩
五〇年の混乱は党の宿病と矛盾の爆発だった。意見分岐が組織分裂に発展したのはなぜか? これはおざなりの責任論や規約手続論では解決できない根本問題である。
一九四九年国鉄、全逓に始まり、全産業に亘る苛酷な合理化と大量馘首。
続く五〇年の企業大整備と「赤追放」。それへの反撃と決戦の敗北により、労働者階級は深い打撃を蒙った。党は基幹大経営における基盤を失い、大衆から浮上った。大衆闘争を共にする実践中、意見分岐を克服する基盤が極度に弱まった。しかも全労働者と基層党員が陣営の命運を賭けて決戦している時、党中央はこれを見殺すかに、論争に明け暮れしていた。党中央、国会議員、アカハタ、経営細胞への大弾圧に対してすら、大衆的抗議闘争を展開し得なかった。
分裂を防げなかった根底がこの点にあったことを、浩さんは身を切られる思いで痛感した。
五〇年分裂問題は、二派対立の図式で割切れるほど単純ではない。申央幹部の誰一人その責任を免れえない。だが徳田「串刺論」対宮本「全一支配」論争の決着は、歴史が既に着けた。ただ組織上の措置については、多数派の責任が当然より大きい。が政治、書記局中、最もその誤りの小さかったのは浩さんだろう。本部にいなかったせいもあろうが、主に共産主義者らしい品質による。
浩さんは、(一)物事を極力全面的見るに努め、(二)卑劣な個人攻撃を恥とした。五〇年問題以来、多くの幹部が互に個人攻撃を事とし、大衆も組織も忘れ去った。浩さんは身命を献げた党に挟別するに際しても、誰をも罵らなかった。党綱領の根底にある「異質の思想」を鋭く批判して去った。日何より重要なのは、労働者階級に無限の信頼を寄せ、革命的熱情を傾けて献身し、その陣頭に闘いつづけた。五〇年潜行後、政治局員でありながら島流し同然、九州で苦難にみちた地下活動の五年を送る。この時期においても彼はまたそうであり、惜しみなく大衆と党に献身した。
当時党と革命に重大な損害をもたらした極左偏向は、その実かつて国際批判を浴びた民族主義的日和見路線の根底にあった小ブル思想の裏返しであった。しかも基幹産業労働者の基盤を失った党中央の「左」への動揺であった。
浩さんは終始この極左偏向と闘った。浩さん 永遠に労働者階級の胸の中に生き、闘ってくれ。
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