伊藤律の生涯履歴

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).5.9日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、伊藤律の生涯履歴の概要を確認しておく。

 2007.4.19日 れんだいこ拝


【伊藤律(いとうりつ)(1913.6.27〜1989.8.7)の履歴】
 1913.6.27日、岐阜県土岐村生まれ。
 幼少の頃から神童の名が高く恵那中を経て、1930(昭5)年、中学4年修了で一高の文科甲類に入学した。
 1932(昭7).6月、共産青年同盟に加入。この頃の伊藤律について、増山太助氏の「戦後期左翼人士群像」は次のように記している。
 概要「超秀才ぶりと指導能力が秀でていたことにより『一高に咲いた左翼の華』、『一高に伊藤律あり、八高に都留重人あり』と称せられるほど、当時の活動仲間から別格扱い受けるほどの優秀さぷりが語り伝えられている。同時期の清水慎三(六高)が私に語ったことがあった」。

 3年になっての9月、放校処分に処された。
 1933(昭8).2月、共青中央事務局長となり、日本共産党に入党。この頃、岡部隆司、長谷川浩、伊藤律、小野義彦らによる党再建委員会が活動している。
 同年5月、検挙され、特高の宮下弘(のちゾルゲ事件の捜査担当)に取り調べられ、共青中央の組織を自白した、とされている。
  1934(昭9).12月、予審を終えて保釈出所。4月、懲役2年、執行猶予3年の判決。
 1937(昭12).8月頃から、長谷川浩に協力して党再建活動に参加した。
 1939(昭和14).8.1日、全国購買組合勤務を経て、伊藤律が満鉄東京支社調査室の嘱託に採用されている。その2ヶ月前に尾崎秀実も高級嘱託として入社しており、同郷ということもあって交友を深めている。
 この頃満鉄調査部は、松岡洋右総裁の「置き土産」のような形で拡充され、国家の意思決定に重要な提言を為し得る能力を獲得しつつあった。こうした事情から左翼の転向組がこの前後にドッと採用され、伊藤律もその一人であったということになる。石堂清倫、西沢富夫、堀江邑一、海江田久孝らもその一人である。

 左翼の転向組が登用された事情について、石堂氏は次のように書き記している。
 「調査部を拡充するとはいっても、優秀な調査マンは、そうはいなかった。そこで目をつけられたのが転向者で、彼らは語学もできるし、マルクス経済学を勉強した人が多かったから、全体を見る眼があるし、調査・資料収集、分析をやらせても役に立つ。調査部と強い関係にあった関東軍なども、赤でも黒でも役に立つやつは、どんどん使え、邪魔になれば追い出せばいいのだから、と公言していた。実際、いろんなところに軍が入ってきて、指示・命令をしていたが、そういう大きなアミの中では、実に自由に泳ぐことができた。調査部は、一種の独立王国みたいな感じがあって、当時、内地では手に入れることの出来なかったマルク主義関係の本も、自由に読めたし、外国の資料も使えた。満鉄の雑誌にも、平気でいろんなことが書けた。人事面でも、思想犯として引っ張られたことのある『前歴者』が採用され、ある意味で、ルーズな面があった」。

 伊藤律は、満鉄でも農村・農業調査を研究テーマに選び、関西、四国、中国地方の農村事情を調査している。

 同年11.11日、入社3ヶ月にしかならないこの頃、二度目の検挙となった。この時はほぼ1年間獄中の身となっている。担当警部補は伊藤猛虎、特高一課第二係長宮下弘。この時「手記」を書かされている。特高一課第二係長・宮下弘は次のように記している。

 「警察では調べがある程度進むと、本人に『手記』を書かせる。この『手記』と、取調官が訊問してつくる『聴取書(ききとりがき)』、それに『意見書』をつけて検事局に送るのが、その頃の手続きで、ほとんど例外なく、治安維持法違反の被疑者は『手記』を書いた。彼は例によって要領がよく、こちらが知っていることはしゃべっても、階級的立場は譲らなかった」。

 この宮下の伝から判明することは、宮顕は、必須の「手記」さえ書くことなくとうとうと「暗黒法廷」で正義の陳述を為しえた、と言う不思議な能力を見せているということになる。

 1940(昭和15).6.25−7.3日、池田勇作、長谷川浩、岡部隆司、新井静子、青柳喜久代、松本キミら党再建グループが一斉検挙された。この時の取調べで、獄中下の伊藤律のそれまでの供述のウソが明らかにされ党再建運動について自供していくことになった。この時、宮下の取り調べに北村トモの名を挙げたことが、1941年のゾルゲ事件検挙の糸口となった、とされている。

【宮下弘氏の貴重発言】

 「伊藤律の北村トモ密告供述」について、当時の特高担当宮下弘・氏が、「伊藤律陰の昭和史」で貴重発言している。

 「(後の「ウィロビー報告」を見て)何だ、オレが書いた報告と同じ内容じゃないか、と思いましたよ。内務省に報告していますからね。また『特高月報』にも伊藤の供述と書いてありますよ。これは伊藤に(我々の側の)スパイという疑いがあるというどころじゃなく、スパイじゃないからあからさまに名前が出たんですよ。律が我々のスパイだったら。律の名前なんか内務省への報告などに書いたりしませんよ」。

 宮下氏の「スパイじゃないからあからさまに名前が出たんですよ。律が我々のスパイだったら。律の名前なんか内務省への報告などに書いたりしませんよ」は貴重な指摘ではなかろうか。「重要なスパイ線は決して表に出さない」と云っていることになるが、まさにそう窺うべきではなかろうか。

 同書の中で、宮下弘・氏は次のようにも云っている。1933年、伊藤律は一高中退で共産青年同盟の事務局長をしていた時捕まったが、その最初の逮捕・取調べの際の伊藤律の対応振りはこうであったと云う。

 概要「大崎警察署に留置されていましたが、如才無く立ち回り、取調べに対し、警察に分かってしまったことは仕方がないから、としゃべり、分かっていないことは絶対に言わない、といった具合に非常に明確なんです」。

 宮下弘・氏のこの証言は、何の利益もないことであるからして、大いに価値がある、と云うべきではなかろうか。伊藤律を取り調べた経歴を持つ宮下氏は、宮顕共産党中央によりプロパガンダされていた「伊藤律スパイ説」に異を唱え、伊藤律をよく知る者として史実の偽造にがまんならず真実の伊藤律像を伝えている、と窺うべきではなかろうか。

 1940年のゾルゲ事件の発端となったと言われている時の取調べの様子についても次のように証言している。

 「伊藤が再建準備委員会の中心にいることが分かった。みんなわかっちゃったですね。長谷川もしゃべったんですよ。伊藤が新井の後に結婚した東京交通組合の婦人部長であった松本きみも、既に逮捕されていた。それなのに、伊藤は黙って頑張っているんですね。そこで、私は伊藤猛虎に、もう全部分かっているんだと云ってやれ、といって取り調べさせたのです」。
 概要「(宮下になら話すから呼んでくれと云われて出向いた宮下は、)そこで私は会ったんです。そして云ったんです。こちらが分かっていることについては、供述にウソは無いようだが、それだけで君を帰すような手品は出来ない。前だって、転向する、と言って約束し、まじめにやっていると葉書までくれたが、結局は私がだまされたんじゃないか。帰してやると、上司に報告できないよと跳ねつけたんですよ、そんなことが二、三回あり、また頼む、といって来たんです」。
 概要「そこで、一つだけ活路を与えてやろうと思った。我々が知らないことで、君の階級的意識に恥じないこと、君が階級的意識に恥じることは言えない人間であることは分かるが、積極的には階級的意識に恥じないで、警察が知らないであろうこと、しかも重要な話をすれば、考えてもいい、と言ったんですね。そうしたら『そんなものはない』と云うんで、『無ければ駄目だよ。君に扉を開けてやる鍵はやれない』と突っぱねたんです。そして数日後、話したのが北林トモのことです。『アメリカのスパイがいる、調べて御覧なさい』というんですね」。
 概要「(結果として、伊藤律がゾルゲ事件を引き出すことになってしまったことについて)端緒になってしまったことは確かです。伊藤律にしても、心外なことではなかったか。満鉄に就職したのも、岐阜の同郷で一高の先輩でもある尾崎秀実に世話になった。尾崎が捕まるような、そんな馬鹿なことを言いますか。イモヅル式というか、神風が吹いたようなもので、ゾルゲ事件の発覚は全く不思議なくらいでしたね」。

 宮下弘・氏は、伊藤律の人物及びその能力について次のように評している。

 「確かに人間的な面ではもろいところもあったが、階級的な闘士としては弱くない。強靭で、粘着力が強く、ポキポキ折れるのではなく、押されれば引っ込むが、別の場所で起き上がるんですね。例えば、僕に好意を持っているような様子を見せるが、僕は好意を持っているようには思わなかった。転向していないから、仕方がないが僕を利用してやるという気持ちが、そこにあると思った」。

【その後の伊藤律の動向】

 1940(昭15).8.末、伊藤律、病気のため警察拘留の一時停止で釈放(書類送検へ)。次のように記されている。

 概要「このまま放り込まれていては体が持たない。逃げはしない。転向するから釈放してくれと頼み、警察医が診察した結果、『監獄の病院に送るか、釈放するしかない。このまま獄中においたのできは生命の危険がある』と診断の結果、警察拘留の一時停止で釈放された」。

 この時の調書と思われるが次のように記載されている。

 概要「伊藤律(当時29歳満鉄東京支社調査部)は、俊敏にして共産主義に対する信念堅固なるものあり。検挙後数ヶ月にして、警視庁の峻烈なる一面、温情ある取調べに対し、遂に翻然転向を決意し、漸次の犯行を自供するに至れり」(内務省警保局編「社会運動の状況」昭和16年)。
 10月頃、満鉄東京支社調査室ら復職。この時「日本における農家経済の最近の動向」を書き上げ、「満鉄調査月報」や「時事資料月報」に発表されている。この論文はかなり好評で、後にゾルゲ事件で逮捕される尾崎秀実に高く評価された。これが機縁となり、「何度か彼の私宅に呼ばれ、いろいろ話し合った」とある。
 1941(昭16).9.28日、北林トモが検挙される。「伊藤律の北村トモ密告供述」が関係していたと云われているが、謀略の可能性が高い。10.10日、宮城検挙。10.13日、秋山幸治と九津見房子検挙。10.15日、尾崎検挙。10.17日、水野成検挙。10.18日、ゾルゲとクラウゼン、ブーケリッチら一斉検挙。10.22日、川合貞吉が検挙されている。引き続き1942(昭17).4.28日までに合計35名(うち外国人4名、女性は6名)が検挙投獄された。
 丁度この時期の9.29日、伊藤律は、起訴のため久松署に再検挙され収容されている。10.1日、満鉄退社。
 12.8日、日米開戦。
 1942(昭和17)年.6.4日、伊藤律の予審終結、公判へ。6.28日、保釈出所。「著述と翻訳で暮らしを立てる」ことになった。11月、伊藤律が証人として東京地方裁判所に呼び出されている。12.28日、伊藤律が東京地裁の第一審判決で懲役4年の実刑判決。上告。(長谷川浩は懲役6年、岡部隆司は死去)。11月、懲役3年の判決。東京拘置所で服役。優遇され雑役係となった。
 1943(昭和18).6.29日、伊藤律の大審院の上告棄却で原判決破棄、差し戻し(弁護士資格に問題)。東京高裁へ。
 11.11日、伊藤律に東京地裁で懲役3年の実刑判決。12.20日、東京拘置所に服役。翌春、豊多摩刑務所に移る。思想犯は第5舎と呼ばれる特別の建物の独房に入れられ、当初は封筒張りの仕事をさせられている。この時西沢隆司と相方になり、糊付けをしたようである。そのときの荷造り屋が大泉兼蔵であった。その後農業班に卸され、2、3ヶ月で教務課の図書係(雑役)に代わった。
 1944(昭和19).1月、ゾルゲ・尾崎の死刑確定。

【伊藤律の戦後活動、党中央進出と宮顕派の抗争】
 戦後日本共産党に復党。この時伊藤律と長谷川浩が再会し、その後の方針を語り合った、と伝えられている。二人はこの後国分寺の自立会に徳球.志賀を訪ね、その場で入党手続きを済ませている。入党推薦者は、志賀と神山がなっている。ちなみに、妻のキミも長谷川と伊藤律の推薦で、同じ10月のうちに入党している。 入党後、長谷川は労働運動、伊藤は農民運動の組織活動に取り組むことになった。伊藤は農民運動の闘争現場を飛び回り、その状況を徳球書記長に報告していった。

 この時期の伊藤律の様子について、志賀の「日本共産党史覚え書」は次のように記している。
 「1945年の10月も下旬になった時、伊藤律が訪ねてきた。『終戦直後に、徳田さんや志賀さんのいた予防拘禁所の隣の豊多摩刑務所から出獄したものです。さっき徳田さんの意見も聞き、全く賛成です。一緒にやりましょう』と云いながら、大げさに握手を求めた。私はその目つきを見て、これはどうも油断の出来ない才物だナと思った。その直後に、長谷川浩が保坂浩明のカンパを持参した。彼がポケットからカンパを取り出し、私に渡す時の話し方を見て、これは誠実な人だと感じた。12.8日の戦犯追及大会の後、共立講堂から水道橋の駅まで、保坂が送ってくれた。その時彼の話では、1927年ごろに野坂の産業労働調査書の給仕をしていて、野坂夫妻が信頼していた岡部が成長してその指導するグループに長谷川と共に属していたこと、伊藤律は信用できないこことを、穏やかな言葉だが、私に話した。そのことを長谷川に聞いたら、『律はいやらしい男です。あまり信用しないで下さい』と答えた。私はそのことをすぐ徳田に伝えた。徳田は、『どうも集まる中には、転向した連中もいるが、才能のある者は使って、鍛えなおすべきだ』と云った。野坂が延安から帰って来ると、伊藤は彼にも取り入った。伊藤律は農民運動の方面の指導を担当した。犬養健も『我々のところにも、伊藤君ほどの有能な人物が欲しい』といったという話がある」。

 (かく志賀は伊藤律評価に対して貶めているが、それはそれとして当時の動きが貴重な発言である)
 1946(昭和21).2.24−26日にかけての「第5回党大会」で、徳球の寵愛を受けトントン拍子で中央委員、政治局員となり、スポークスマンの役割を果たす。「第5回党大会」での中央委員メンバーに伊藤律.水谷孝、長谷川浩、西沢隆二が引き上げられていることが注目される。椎名悦郎、保坂浩明らも中央委員候補として登用されている。特に伊藤律は中央委員且つ書記局員に大抜擢され最高幹部の一人に昇進した。33歳の若さであった。これは、徳球書記長による戦後型の新有能幹部の登用方針によってもたらされたものである。

 当時を知る関係者の話によると、会議をしてもテキパキ処理し、文章にして発表するのも早く、新聞記者やGHQ絡みの情報取りもうまかった。こうした実務能力が徳球に重用されることになったようで、「長く獄中にいた者は使い物にならない」とぼやいていたこととの裏表であった。

 終生の盟友となった長谷川浩・氏は次のように説明している。
 「実際、獄中何年という人だけでは、仕事になりませんからね。徳田としては、伊藤は才走り過ぎる欠点はあるが、人扱いも上手だし、才能もあり、重宝に使えるということになったんだと思う。その結果、伊藤が目立ち、それで党内で多くの反感を買った。でも、彼はあくまでスポークスマンであって、bQではない。50年分裂前後までの実力者は、徳田であり、志賀、野坂だった。その3人の意見を、伊藤は実にうまくまとめていた。彼と言う接着剤がなかったら、『俺が、俺が』という人が多い党だから、バラバラになっていたかも知れない」。

 伊藤律は、こうして古い多くの党歴者を飛び越えての大出世を遂げ、その後徳球書記長の片腕的な役割を果たしていくことになる。ちなみに、宮顕の生年は1908年であり伊藤律が1913年であるので5歳若かった勘定になる。つまり、戦前24歳という若くして党中央の最高指導者に登竜していた宮顕を飛び越す登用のされ方であったということになる。こういうことも関係していたと思われるが、伊藤律と宮顕グループとは終生に亘って死闘戦を繰り広げていくことになる。

 宮顕.袴田.神山らは幹部採用に厳重な審査を要求したが、徳球.志賀らは新進気鋭幹部の登用は執行部権限であるとして取り合わなかったと伝えられている。徳球が幹部登用基準に恣意的であったことは事実であろうが、ある意味では執行部権限範囲というのも一理あるであろう。余談であるがナンバー2の地位を野坂に譲った志賀が面白くないのも容易に想像できる。このことは後日現実化し、志賀は徳球グループと宮顕グループの間を遊泳していくことになる。
 3ヵ月後の補充人事で、伊藤律は、長谷川浩、春日(庄)らとともに政治局員に加えられている。この時政治局員と書記局員を兼ねたのは、徳田球一、志賀義雄、野坂参三、伊藤律の4名しかおらず、おまけに伊藤は、党スポークスマンと農民部長を兼ねていたので、押しも押されもせぬ実力者となったことになる。
 翌1947(昭和22).12.21―23日の「第6回大会」で、中央委員として1徳田球一.2野坂参三.3志賀義雄.4宮本顕冶.6金天海.7春日庄次郎.8袴田里見.9志田重男.10伊藤律.長谷川浩.春日正一.紺野与次郎.蔵原惟人の他新たに伊藤憲一.松本一三.竹中恒三郎.高倉輝.岸本茂雄.白川晴一.遠坂寛.松本三益.亀山幸三.佐藤佐藤次.野坂竜らが、末席に神山茂夫(順位調査要す)の25人が選出された。神山茂夫の末席待遇は後にしこりを生むこととなった。

 こうして従前と同じく「徳球−野坂−志賀体制」が再任されたが、伊藤律の台頭著しいものがあった。伊藤は政治局員と書記局員を兼ね、実際に農民運動の経験がないものの農民部長となり、さらにアカハタ主筆代理となり、党のスポークスマンともなった。事実上副書記長格ナンバー2の地位にのしあがったのであり、「徳球−野坂−志賀体制」から「徳田−伊藤律.野坂−志賀体制」への移行が為されたとする方がより史実に近いと思われる。

 但し、彼の起用には宮顕.袴田.春日(庄).亀山らが批判的であった。徳球は、こうした伊藤批判を一切受け付けなかった。「律を抱きかかえるぐらいの政治性をもたんと政治家ではない」と云っていたと伝えられている。袴田は、この大会で何一つ報告を担当させられず、政治局員、統制委員からも外され、ヒラの中央委員に格下げされた。

 この頃から運動方針上の対立が表面化していくこととなった。日本の独立問題が新たに浮上することにより、戦略課題として独立闘争と国内の奪権闘争のどちらを重視するのか、議会闘争と大衆闘争の位置づけ等々が問われることになった。独立闘争を強く主張するグループとして宮顕派が台頭し始めた。その他奪権闘争の方式をめぐって様々な見解が生まれつつありグループ間の対立へと発展しそうな気配を強めていくことになった。こうした事情に規定されて、新体制は徳球の家父長的な指導の下、伊藤律−長谷川派、志田派、紺野派らの専断的な機関運営傾向を強めていくことになった。徳球グループの派閥的運営が目立つことになった、と今日では総括されている。


【米陸軍省が「ゾルゲ事件報告書」を突如発表、伊藤律にスパイ容疑を被せる】

 1949(昭和24).2.10日、アメリカ陸軍省は「極東における国際スパイ事件」と題する3万2千語に上る文書を発表した。通称「ウィロビー報告」と呼ばれている。この報告書は、ゾルゲ事件は伊藤律の密告により始まったとして、伊藤律とゾルゲ事件との関係を示唆し、次のような機密文書を意識的に漏洩している。

 「ゾルゲ一派は日本共産党とは連絡がないものと思われていた。しかし共産党の北林トモは明らかにこの一派の命令に従っていた。共産党員伊藤律は彼女が共産党を裏切ったと思い込み、彼女に仕返しすることを望んだ。そこで彼女がほんとうにスパイであるとは知らずに、警察に彼女をスパイであると通報した。警官は1941年9.28日、彼女を逮捕し、10月には関係者全部を検挙した」。

 つまり、「ゾルゲ事件の発覚に伊藤律の責任があり、その伊藤律が現在日本共産党の中央委員をして飛ぶ鳥を落とす勢いを見せている」として、伊藤律を痛打する内容となっていた。アメリカ陸軍省の「ゾルゲ事件報告書」は次期党指導者として固まりつつあった伊藤律の政治的立場をぐらつかせた。そういう意味での政治的な文書であった。以降党内に「伊藤律スパイ説」が潜伏することになり、北京機関時代に査問の材料に使われ、53.9月の除名に至る伏線となる。

 新聞各社がこの情報に飛びつき、「発端は伊藤氏取り調べ」、「伊藤律氏が密告す」と報じた。伊藤律は「私は関係無し、矛盾に満ちたデマ作文」と反論したが、伊藤律へのボディブローとなった。

 翌2.11日、党中央はこれを躍起となって打ち消し、赤旗紙上で「ゾルゲ・尾崎事件の真相 共産党関係なし 特高憲兵警察の邪悪な謀略」を発表し、「伊藤律密告説」を打ち消している。
(私論.私見)「ウィロビー報告」の政治的役割について
 この伊藤律とゾルゲ事件の関係に付き、今日判明している事実は、特高が有能党員の片鱗を見せていた伊藤律の経歴に傷を負わそうとして用意周到な仕掛けが為された結果、伊藤律がそうした罠を見抜けず誘い込まれたという経過である。しかし、この当時にあってはそういうことは不明で伊藤律のなにやら胡散臭さのみ浮き上がらせられるという政治的効果を生んだ。アメリカ陸軍省ルートの政治的エポック期のタイミングであることの胡散臭さのほうを見るべきであろうが、そういうことにはならず、統制委議長宮顕の伊藤律追撃が為され、年末には査問に向けての政治局合同の会議が開かれている。

【「50年分裂」以降の歩み】
 1950年の党中央分裂では徳球の片腕となり、所感派(主流派)を指導する。1.18−20日、急遽「第十八回拡大中央委員会」が開かれた。この時の会議は激しく紛糾し討論が爆発した。先の政治局の対立が中央委員会の対立にまで拡大した。両派の間に延々5時間余の激論が戦わされた。戦後党史上初めての本格的な意見対立となった。

 
「所感」を支持したのは徳球.野坂.伊藤律.長谷川.志田.紺野.伊藤憲.春日(正)の「主流派」であった。「所感」を非としたのは志賀.宮本.神山.袴田.春日(春).蔵原.亀山の「非主流派7名」であった。「非主流派」の底流には執行部を牛耳る徳球派の官僚主義に対する反発が渦巻いていた。

 
マッカーサー司令部による「6・6追放」で地下活動に入る。これ以降当局との闘いもさることながら、国際派とりわけ宮顕グループとの死闘戦に突入する。
 1951年秋、中国に渡り、当時の主流派の最高指導部「北京機関」に参加。この時の様子を伊藤律は次のように伝えている。伊藤は、51年秋口密航し北京の党機関に入ったが、この時既に、表面上穏やかなうちにも徳球対野坂・西沢間に底流での対立が横たわっていることをキャッチした。徳球書記長が野坂に対し、表面上はつとめて平静な態度をとっていたが、強い批判と不信を抱いている様子が知れた。徳球書記長は娘婿の西沢に対しても嫌悪しており、既に精神的に絶縁していた。「西沢と野坂は同じ思想だ。彼を日本へ帰してしまう」とまで云い切っていたが逡巡しているうちに徳球が倒れることになった。
 1952年頃、宮顕を頭目とする当時の国際派の連中は、徳球のアキレス腱として伊藤律を標的にして、非難.攻撃を集中していた。5月頃、徳球はモスクワへ詣でスターリンとの会談の席を設けているがで、この席上伊藤律問題が持ち上がり、徳球は次のように発言している。
 「律は戦時中誤り(転向のこと−注)を犯したが、ゾルげ事件については政治局で調査済みである。律スパイ説は敵の反共デマである。彼は戦後よく働き、努力している有能な幹部、アメリカ帝国主義のスパイなどではない、と説明して先方も納得した。が、今後も画策する奴があるかも知れないから用心せよ。徳田は北京に帰ってきてから私にこう語った」(1982.10.13日長谷川浩宛書簡)。

 ちなみに徳球対西沢の対立に興味深い史実が「伊藤律回想録」で明かされている。それによると、徳球対西沢の対立は、51年春のモスクワ訪問の時から先鋭化したようで、微妙に宮顕問題が絡んでいた。西沢が宮顕との妥協を進言したのに対し、徳球が断固これを受け付けず、以来徳球は西沢を娘婿としても義絶すると言明するに至ったと云う。徳球対宮顕の対立の根深さを物語っていよう。 

【伊藤律幽閉される】
 1953.10.14日、徳球は亡命先北京で客死した(享年59歳)。後ろ盾を失った伊藤律は野坂、西沢らの暗躍により中国で投獄される。まもなくスパイとして除名される。以降、消息不明となり、死亡説も囁かれていた。

 伊藤律幽閉の時の様子が次のように伝えられている。「もう一年も中連部に厄介をかけたし、今から別のところへ移ってもらう」の野坂の宣告と同時に鄭所長と公安職員が飛び込んできた。「律はある夜突然、一陣の風のごとき軍隊に拉致されて消えた」と伝えられているが、行く先は監獄であった。「これは日本共産党の委託によることで、中共としてはプロレタリア国際主義の義務なので、問題を日本共産党が解決するまで致し方ない」と因果を言い含められた、と後に伊藤自身が明らかにしている。

 こうして伊藤律は、裁判も、刑の言い渡しもなく、異国の獄中に呻吟する運命となった。まだ40才になるかならないかの頃であった。以来27年間を幽閉され、80年9月奇跡的な生還を遂げることになる。この経過に党の責任がないなぞとなぜ云えようか。

 日本向けの地下放送「自由日本放送」を担当していた藤井冠次(元NHK職員)の回顧によればこう書かれている。
 概要「人民服姿の中国軍公安部隊が着剣した銃を持って入口にずらり並んでいた。何事かと思ってみていると、顔面蒼白な伊藤が、公安兵士に両腕を抱えられて引き立てられて出てきた。そして表で待っていた黒塗り乗用車に押し込められてどこかに連れ去られた。これが孫機関に伊藤を見た最後です。西沢や野坂もそれを見守っていたが、まったく無表情だった」。

【野坂―宮顕系党中央による除名】
 1953.9月、藤井冠次は志田重男に会い、伊藤律処分声明を伝える。
 9.15日、突如「伊藤律処分に関する日本共産党中央委員会声明」が発表された。しかし、この時の中央委員会の責任主体は今もって判然としない。伊藤律は、中国での獄中の身のままそういう不思議な公告により除名されたことになる。声明は、伊藤律を裏切り者=特高のスパイと断定した上で除名処分としていた。2年後の「六全協」で再確認されることになる。「職場放棄の極左的な挑発行為の扇動」という件りが記されていた。今日では野坂の暗躍で進行したことが確認されている。この時徳球書記長は回復見込みの無い病状を呈しており、知る由もなかった。国内の同志に対して、徳球も参加の上での査問結果であるかのように偽装されていた。この伊藤律の失脚で、宮顕の党中央登壇の舞台が回ってくることになる。
 9.21日、アカハタは「伊藤律処分に関する声明」を載せた。一見して宮顕の手になる文章であることが見て取れるしろものである。「個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割」が指弾され、次のように罵倒批判されている。
 「彼の党及び国民に対する許すことの出来ない犯罪行為は、党機関の査問に対する彼の自供並びに、党中央委員会と統制委員会の調査した諸事実によってバクロされた」
 「彼の階級敵犯罪行為は、1938年、彼が最初に検挙されたときに、敵に屈服して以来、戦前、戦後を通じて一貫して続けられてきた」。
 「戦後、彼が党内で果たした反階級的行為は、アメリカの占領という事情によって、さらに政治的となり、単に個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割から、党の政策をブルジョア的に堕落させ、党内において派閥を形成して、党の組織の統一を混乱に導き、党を内部から破壊し、米日反動勢力に奉仕することにあった。それは政策面においては、彼の農業理論、社共合同論、2.1スト後における新しい労働運動の盛り上がりに際して執った職場放棄の極左的な挑発行動の煽動、及びストライキ運動に対する極端な日和見主義的抑制等においてあらわれ、組織の面においては、党中央並びに地方の諸組織内に彼の個人的派閥を形成することによって、実行にうつしていた」。
(私見・私論) 「伊藤律処分に関する声明」の内容について
 この声明文は誰の手になるものであろうか。私には、宮顕特有の書き方であることが分かる。となると、この時点で、宮顕が事実上党中央の一角に潜り込んでいることになる。このことから、表見的には徳球−志田系執行部時代であるが、志田執行部はその誕生時点の早くより宮顕勢力との緊密な連動によって運営されていたのではないかと言う推論が成り立つことになる。

 それにしても、おのれの「単に個々の党組織を敵に売り渡すスパイの役割から、党の政策をブルジョア的に堕落させ、党内において派閥を形成して、党の組織の統一を混乱に導き、党を内部から破壊し、米日反動勢力に奉仕する」役目を、そのまま伊藤律に被せているその手法と論理に辟易せざるを得ない。

 これが、中央委員.同書記局員.同政治局員.アカハタ主筆と異例の抜擢でたちまち最高指導部にのしあがり、徳球書記長に重用されて絶大な権力をふるった伊藤律の末路であった。

 これを宮顕系から見れば、「彼を重用した徳田の政治責任も、中央委員会の連帯責任も何ら問われなかった。伊藤律個人一切に責任を負わせる官僚主義特有の自己保身法が示されていた」となおも不満であるらしい。

【伊藤律の妻きみの声明】
 10.1日、伊藤律の妻きみの次のような絶縁声明がアカハタに掲載されている。声明文は次の通り。
 「私は9.21日付アカハタ発表の党中央委員会声明『伊藤律処分に関する声明』を絶対支持し、心からの憤激をもって、今後ますます強まるであろう米日反動の政策に対して闘うことを誓います。率直に言って、事実を聞かされた時は、大きなショックを受けました。結婚してから15年間、どんなに苦しいことがあっても、彼が革命の為に生命を捨て、闘っているということが、私の支えでした。(中略)しかし、彼は自分自身の出世主義に陥り、党の集団主義の原則を破り、あまつさえ、米日反動スパイとして敵とつながり、党と国民の利益を完全に裏切ったのです。この本質を理解したとき、今まで彼に対して持っていた私の愛情と信頼は一瞬に崩れ、憎しみに変わりました。二人の子供も将来成長した時、父親としてでなく階級的裏切り分子として彼をみるようになるでしょう。(後略)」。
(私見・私論) 「伊藤律の妻きみの声明」の内容について
 この声明について、袴田里見は、「私の戦後史」の中で次のように記している。
 「聞くところによると、夫を採るか党をとるか、と査問された挙句に書かされたということだった」。

【新党中央による「獄中面会」の様子】
 1953.12月、野坂と西沢が伊藤律の監禁場所にやってきている。

 時期が確定できないが55年初春頃にかけて監獄に留置された伊藤律の様子見に西沢、紺野、宮本太郎が訪れて、反復して査問している。「アメリカ帝国主義のスパイの事実を白状しろ」と迫った。この一ヵ月後に袴田が訪れている。

 1955初秋、西沢が伊藤律のもとを訪れている。この時は今までの態度と異なり、悄然としていたとある。いつもの「伊藤律=アメ帝のスパイ」とする自己批判強要はなく、次のように述べたと伊藤律自身が「伊藤律回想録―北京幽閉二七年」の中で明らかにしている。

 「僕は前に君に注意したろう。オヤジ(徳田)が生きているうちはいいが、オヤジが死にでもすれば、用心しないと宮本や袴田にやられるよと。彼等は戦前の実績がある人たちだからな。云わないことじゃない、君は用心しなかったものだから、こういうことになってしまったんだ」。

 1955年の暮れ近く袴田が伊藤律を訪ねて再査問している。袴田は勝ち誇った態度を見せながら、次のように述べたと伊藤律自身が「伊藤律回想録―北京幽閉二七年」の中で明らかにしている。

 概要「キミが一行、ひとこと、アメ帝のスパイだったと承認すれば、命は助かるし、元のポストに戻してやる。自分がそうでなければ、長谷川か小松など他の幹部のことでもいい。それが君の手柄になる。君の才能を惜しむことにかけては、宮本も俺も徳田に劣らない。今だから云ってやるが、ソ.中両党に手を廻し、君にこうした処置をとらせたのは、この我々だ」。

 「「自白しろ、いえば命だけは助けてやる」」、「この取引を私は即座に拒否した」。袴田は「死にたければ勝手にしろ」と捨て台詞を残して去ったとある。それっきり、25年間、4分の1世紀誰も来なかった。

(私論.私観) 「袴田の『今だから云ってやるが、ソ.中両党に手を廻し、君にこうした処置をとらせたのは、この我々だ』発言」について

 この袴田発言も貴重である。伊藤律が生還したことにより明らかにされた裏史実である。 

 ちなみに、袴田は、除名されたのちに「私の戦後史」の中で次のように述べている。

 「スパイに対する最高の処分は除名と主張し続けている。が、伊藤の身柄を中国の公安に引き渡した時点で、この党の〈鉄則〉はやぶられている」。
 「真実を知っていた野坂議長(百歳になってスパイとして除名)、宮本委員長らは、二十七年間も党の〈鉄則〉も、規約も、革命モラルも、何よりも人権を踏みにじり続けたのだ! しかも六〇年代には『文化大革命の初期、北京の刑務所で孤独と病気のため獄死した』と『確信めいた……発表』さえ行っていた」(243P)。

 当時、宮顕の斬り込み隊長兼腰巾着の袴田が自己の責任を棚上げして「よく言うよ」であるが、この指摘はその通りである。


(私論.私観) 【宮顕系日共党史の記述考】
 「五〇年」、「六〇年」、「六十五年」党史は、伊藤律をいずれもスパイと明記できず、「伊藤律は党かく乱者」なる批判でお茶を濁している。つまり、いろいろ手立てを尽くしたが、スパイと断定することが出来なかったことを示唆している。つまり、党史が、スパイ証拠がないままで、他の理由で除名してしまったことを問わず語りに示していることになる。

 
しかし、「党かく乱者」規定でスパイ呼ばわりしていくことほど危険なことは無い。こういう論法を許せば、党内異端派、反主流派はいつでもスパイにされてしまうことになろう。

【伊藤律奇跡の生還】
 1980(昭和55).8.23日、新聞各紙の夕刊は、一面トップで、伊藤律の生存ニュースを報じた。伊藤律は、外国友党の刑務所(中国)に27年間幽閉されるという、世界革命運動でもおそらく初めての事例に耐え、帰国した。中共は、日共の意向とはまったく無関係に、人道上ということで釈放し、伊藤は日本へ送還された。政治局員・全人代常務委員長の喬石の決断、と朝日新聞は報じた。

 8.30日、党中央は、「伊藤律の帰国を廻る問題について」と題する次のような広報部発表をしている。

 概要「日本共産党中央委員会が、伊藤律の身柄を中国側に預かってくれと依頼した事実はありません。伊藤律への措置は、1950年の分裂の後、徳田球一を中心とした『一方の側』の『亡命者の政治集団』が、勝手にやったことで、伊藤律の帰国が今日の日本共産党に何らかの重大な影響を与えるかの如き論評は、まったく的外れのものです」。

 毎日新聞社編「伊藤律陰の昭和し」では、この間、伊藤律の息子の淳が北京に赴き、「スパイの濡れ衣を晴らす」ことに執念を燃やす律と、「今更古い話を蒸し返されるのは迷惑」と主張する淳との間で、綱引きが為されたと伝えられている。

 1980.9.3日、伊藤律奇跡的な帰国。密航以来29年ぶりの帰国であった。

 党中央はすばやく反応し、記者会見して、無署名論文「歴史の真実と伊藤律の『証言』」(赤旗に3回連載)と野坂による「『北京機関』に関する伊藤律の『証言』について」論文を発表した。

 伊藤律幽閉の当事者であった野坂は、「伊藤律の問題について」で苦しい弁明をしている。9.26日赤旗は、宮顕の「戦後史における日本共産党」講演を掲載した。宮顕は、この講演の中で伊藤律に触れて次のように述べている。
 「伊藤律は警察につかまっては警察の機嫌を取り(笑い)、また党に入っては家父長的な幹部の機嫌を取るというような点で、出色の才能をもっていた(笑い)」。、
 「伊藤律はそのまわりで幹部の不和を煽ったり、おべんちやらをいって徳田書記長の誤りを助長した」。
 9.11日、党本部で都道府県委員長会議が開かれ、宮顕委員長が、異例の公開で会議を取り仕切った。宮顕は、冒頭挨拶の中で次のように述べている。
 「伊藤律は明らかなスパイだった。数多い同志を売ったばかりでなく、特高とも連絡をしていた。除名は律の供述と十分な傍証をもって確認した。この発表についてはこの30年間、本人からの異議は受け取っていない。律がマスコミで大変な大物扱いされ、律の口次第で歴史が変わるかのように云われている。分裂の状況に乗じて律がうまく立ち回ったという点はあっても、律が党史の重要な曲がり角をつくりあげたものはない。我々は、党から除名された者を拘束する権限は一切無い。だから律の帰国にも介入していないし、今後の私生活を『平和な老後を過ごしたい』というなら、それも彼の勝手である」。
 9.19日付け赤旗は、野坂参三議長の次のような声明を載せている。これまで公式的に伊藤律とは東京で別れて以来会ったことがないとしてきていた野坂が、伊藤律生還という事態に対して種々弁明している。そのハイライトは次の下りである。
 「こうして西沢と私とは、『北京機関』内部の問題と同時に、今言ったような過去における彼の行動、特にゾルゲ事件に彼の発言、行動がきっかけをつくったというのが事実とすれば、これは重大問題だと考えました。そして、この際、伊藤律の問題を『北京機関』の問題として取り上げなければならない、ということを、私と西沢で決めました。その時は、徳田君のほうは脳溢血で倒れて、これには関与できない状態になっていました。そこで、周恩来など中国側の最高幹部とも協議して、伊藤律を『北京機関』から離し、別のところに住まわせて、十分に時間をかけ、深くこれらの問題を調査する必要があるという結論に、我々は到達したのです。これが1952年の10月ごろです。伊藤が北京に来てから、丁度1年目ぐらいです」、「私も1959年に中国の国慶節の為に短期間中国に行ったことがあり、その時、伊藤律がどうなっているか尋ねたことがありました。その時には中国側からは何の返事も無く、その後もありませんでした」。
 こうした共産党中央の一連の対応の後、「伊藤律証言」が朝日新聞と週刊朝日に連載された。除名後27年間の沈黙を破る伊藤律自身の言葉が披瀝された。
 「ぼくは身の潔白を証明する為に生き長らえてきたんじゃないんだ。曲がりなりにも日本共産党の政治局員という責任ある地位にいた者として、今やらなければならないことがあるんだ」。
 10月初旬、伊藤律、小松雄一郎に「獄中27年の記録」語り始める。12月まで続き、朝日新聞がこれをもとに12.22日より7回連載で「伊藤律の証言」として「故国の土を踏みて」を発表する。

【伊藤律逝去】
 1989.8.7日、伊藤律死去。

【山口武秀氏の伊藤律追悼文】
 かって日本革命と農民運動を律と共に闘った山口武秀(日本最強の常東農民運動の指導者、代議士二期、三里塚闘争の「軍師」などとして終生闘いぬいた)は、律の死に次の追悼文をよせた(抜粋)。
 「伊藤律さんは大衆に思いをはせた」

 「伊藤律の生涯を思うとき、今の私には二八年の北京幽閉ということが一番大きくでてまいります。これ以上の残酷はあるまいという幽閉の中を伊藤律は生き延びてきました。よくも生きてきたという思いの外、そこにはどうしても見過ごしに出来ない問題が存在すると考えます。

 一体、同じ仲間の手で二八年も異国の地に幽閉されるということはどんなことだったのか。もとより拘禁はなんの法令に基づくものでもなく、いつまでという期限もつけられておりませんでした。それがかりに敵に捕らわれたというのならば、憎しみの心を燃やすことが出来ます。敵の手で殺されるというなら、後に続く同志に期待を持つことが出来ます。だが、味方の手で地獄に突き落とされたところでは、どこに何を見ていったらよいのか、思いの出所がないと考えられるのです。

 共産党は伊藤律をそうした処へ蹴落としながら、何も知らぬと口をぬぐっておりました。獄中で死ぬのを待っていたのでしょう。冷酷な人間抹殺です。通常の世界にありうることではありません。共産党が一般社会とかけ離れた世界だからそんなことが出来たのです。

 一般社会の常識では許されないその処置を階級・前衛党を守るに必要な行為としているのでしょう。独善的な世界にだけ通用する倫理、勝手な言い分というものに他なりません。

 伊藤律幽閉は野坂参三ら何人かの党幹部の手によってなされました。幹部以外にはその事実は秘匿されてきました。しかし、党員達は事のあらましを知ったにしろ、おそらく野坂達のとった処置に異議を唱えなかったでありましょう。共産党の組織なるものは上部を絶対的なものとし、党員はそれに従うだけの存在にしてしまっているからであります。

 個々の党員には自分の頭で判断するとか当然でてくる意見を述べるとかいうことがなくなっております」。(『山口武秀著作集』)

【山口武秀氏の馬車引き代議士木村栄氏の追悼時の言葉】

 木村栄は、敗戦から1年半後の1947年衆議院選挙で共産党が徳球、志賀、林百郎(長野)、木村(島根)の四人しか当選しなかった時に山陰の農民の強い支持で選ばれた「馬車引き代議士」で、農民運動家であった。山口武秀は彼の追悼で次のようにいった。

 「伊藤律と木村君の会見の話が伝わった。手を取り合って、涙を流したという。『二十八年間の中国幽閉なんて、人間のすることではない』という木村君の言葉も聞いた。共産党関係の多くの人々はその律幽閉を無感覚に見過ごしている。木村君の怒りこそが真っとうなのだ。戦後、農民の中に入って闘い、見聞きし、思考してきた木村君の姿勢は、伊藤律との感動の会見に真っすぐつながっているものがあると思う」(「徳球会会報」1992.3月)。
(私論.私見) 木村栄氏の「人間のすることではない」について
 「人間のすることではない」という木村の感覚こそが、まっとうなのである。日共の次の言い分が記されている「70年党史」が、どれだけ「異常」なのか、両者の主張を比べてみるとよくわかる。

【「伊藤律を偲ぶ会」】
 1990.8月、伊藤律はスパイでないとい認識する人々による「伊藤律を偲ぶ会」が開催された。山崎早市氏は同時期の一高生で戦後時事通信記者で党員ジャーナリストの中心の一人。六全協直後に野坂が彼に「律スパイの証拠はないか」とたずねたが、「彼はスパイではないですよ」と一蹴した事を報告した。山口武秀、大金久展、樋口篤三が問題提起し、鈴木市蔵、一柳茂次、増山太助、寺尾五郎がそれぞれ「無実」論を発表した(全文は「労働運動研究」1992.1月の伊藤律特集)。

 (「増山太助「戦後期左翼人士群像」によせて(続)(3)革命運動と人権」(樋口篤三、かけはし 2001.2.12号)参照)

【「伊藤律回想録―北京幽閉二七年」出版される】
 1993.10.15日、「伊藤律回想録―北京幽閉二七年」(文藝春秋社)が出版された。一部が「伊藤律回想録、北京幽閉二七年―伊藤律、第四章第一節及び第二節」に転載されている。末尾に、元日本共産党三多摩地区委員長・荒川亘・氏の「刊行に寄せて」が次のような興味深い内容を記している。
 概要「『耳は聞こえず、目もほとんど見えず、一人では外出・歩行も困難な』云わば、惨憺たる状態の伊藤律が、それなりに動いている『日本の運動状況』の中に帰ってきたというのは、『逆立ちした見方』であって、事実は、『惨憺たる日本の運動状況』の中に27年の苦難の中で思想と理論を鍛えた伊藤律が帰って来たのである。(中略)私がここで『日本の運動状況』と云う時、問題にしているのは日本共産党のことだけを言っているのではない。それに批判的な人々、潮流についても言っているのである。

 その事は、帰国後、国内の運動と思想の状況をほぼ理解した後の伊藤律さんの次の感想に示されている。『あの徳田が指導していた党は、どこへ行ってしまったのだ』」。

【渡部富哉の「偽りの烙印」の衝撃】
 1993年、渡部富哉は、新たな発想方法と実証調査を綿密に行って「偽りの烙印」(五月書房)を刊行し、ゾルゲ事件の伊藤端緒説等の誤りを決定的に立証し、尾崎秀樹や松本清張により広められた「生きているユダ」伝説を覆した

 「偽りの烙印──伊藤律・スパイ説の崩壊」(五月書房、1993年)は、次のように評されている。
 「『日本のユダ』は革命売らず。伊藤律とゾルゲ事件に新証言。伊藤律スパイ説を徹底的に検証して、これを完全に葬った労作」。

 同書の目次は次の通り。
プロローグ   二人だけの葬式
第1章   なぜ伊藤律は共産党から除名されたのか
第2章  ゾルゲ事件とは何か
第3章  「伊藤律端緒説」の謎を追う
第4章  “一高時代からスパイ”は本当か
第5章  これまでのスパイ説を検証する
第6章  警視庁職員録とゾルゲ事件公表の波紋
第7章  なぜ「伊藤律スパイ・ユダ説」は作られたのか
エピローグ  事実をして語らしめる

 この本を契機に「伊藤律の名誉回復を求める会」(世話人、畑敏雄(伊藤と一高同期、元群馬大学長)、井上敏夫、渡部、樋口ら)が生まれ、機関誌「三号罪犯と呼ばれて」を発行している。

【渡部富哉氏の「生還者の証言──伊藤律書簡集」の衝撃】
 1999.10.28日、渡部富哉氏は、「生還者の証言──伊藤律書簡集」(渡部富哉監修 伊藤律書簡集刊行委員会編、五月書房)、「徳田球一著作集」全六巻(五月書房)を刊行した。

 加藤哲郎氏の「『生還者の証言──伊藤律書簡集』(五月書房)を沖縄で読む」は次のように記している。
 「そこには、中国での27年間の査問・投獄を経て80年に帰国してから89年夏の死に至る、家族や友人に宛てた伊藤の139通の書簡が収録されている。音信不通だった妻に『きみ子同志』とよびかけた帰国直前の手紙から、過去を自己批判的に検証する書簡が続く。ゾルゲ事件発覚の発端とされ、日本共産党除名の主たる理由とされた『スパイ』説は、自分の戦前獄中供述が特高警察と占領軍により情報操作され、共産党がそれに攪乱され便乗した結果であることを見出すまでの心境が、率直に綴られる」。



【伊藤律の著作集】
 文献に「伊藤律の証言」(81年)など。




(私論.私見)