【事件の疑惑考】 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.7日
(れんだいこのショートメッセージ) |
「狭山事件」には捜査上での数多くの疑惑がある。本サイトでこれを検証する。「推理【狭山事件】」その他を下敷きにさせていただいた。本格的に検証するのは後日として備忘録的にここに書き記しておく。一般に冤罪事件にはある種共通の法則のようなものがある。それを知っておくことが互いに身のためだろう。そういう意味で、このサイトを深めたいが何事もいっぺんには首尾よくできない。 2004.3.16日再編集 れんだいこ拝 |
【確定判決となった東京高裁での判決に基づいた事件の筋書き】 |
東京高裁判決を叩き台にするが、石川被告の自供に基づき次のように事件経過を説明している。この筋書きがどこまで正しいのかほとんど無茶なのかが問われている。 |
石川一雄は、それまで勤めていた石田養豚場を辞めたのち、兄のやっている鳶の仕事の手伝いをしていたが、父親への借金を返し、東京の姉のところへ行って働く金が必要であった。そこで、1ヶ月前に東京で起きた幼児誘拐事件、いわゆる「吉展ちゃん事件」をまねて、子どもを誘拐し、20万円を取ることを計画し、4月28日の午後、脅迫状を自宅で書いた。妹のノートを破った紙にボールペンを使い、漢字が書けないので、妹の『りぼん』という雑誌を手本にして、ふりがなを頼りに漢字を選んで脅迫状を書いた。脅迫状はジーパンのポケットに入れたまま、持ち歩いていた。 5月1日の朝、仕事に行くと言って、弁当箱を持って家を出たが、仕事には行かず、パチンコなどをして時間をつぶした。午後2時ごろ入間川駅(現・狭山市駅)に戻り、あてもなくブラブラと歩いて、山学校のほうへ行った。山学校の手前の十字路で、自転車に乗った女子高生の中田善枝がやって来たので、とっさに誘拐しようと考え、自転車の荷台を押さえ、「用がある」と言って止めた。中田善枝は黙って雑木林までついて来た。途中、父親の名前と家の場所を尋ねたら、素直に答えた。 雑木林の中に連れ込み、松の木に手ぬぐいで後ろ手に縛り、タオルで目隠しをしたが、特に抵抗なく、腕時計と3つ折り財布を取った。急に強姦する気になり、いったん手を解いて、松の木から離れたところで縛り直し、近くの杉の木のところで押し倒して、強姦しようとすると、「キャー」「助けて」と大声で悲鳴を上げたので、右手を広げて首を上から押さえつけた。強姦し終わって気が付くと中田善枝は死んでいた。 近くの檜の下で30分ぐらい考えたあと、死体を両手で抱えて雑木林を出て、畑の中の農道を通って200メートル離れた芋穴(さつまいもを貯蔵するために掘られた穴)まで運んだ。死体を芋穴のそばに置いて、荒縄と麻縄を盗んできて、芋穴に逆さ吊りにした。 被害者の自転車に乗って脅迫状を届けに中田善枝の自宅に向かった。途中で、カバン、教科書、ゴムひもを捨てた。カバンを捨てるとき、中から筆箱だけを取り出し、ポケットに入れて持ち帰った。中田善枝宅の近くの農家で、「中田宅は、どこか」と尋ねる。中田宅の玄関の戸のすきまに脅迫状を差し入れた。 そのあと、以前勤めていた石田養豚場に行きスコップを盗み、芋穴に戻って、死体を引き上げて、すぐそばの農道に穴を掘って埋めた。帰るときにスコップを近くの麦畑に放り投げて捨て、夜の9時過ぎに家に帰った。 翌5月2日の夜10時ごろ、身代金を奪うために、兄の地下足袋をはいて家を出て、佐野屋の脇の畑で待った。12時ごろ「おばさんのような人」がやってきたので声をかけたが、近くに人がいたようなので金を取らずに逃げて帰った。その後、持ち帰った筆箱は風呂場のたき口で燃やし、中にあった万年筆は、鴨居の上に置いた。腕時計は11日ごろに路上に捨てた。 |
【狭山事件疑惑総論「新証拠が事実調べされない変調さ」】 |
1964.9.10日、第2審東京高裁(久永正勝裁判長)第1回公判で、石川被告が冒頭で突然中田さん殺害を全面否認、無実を訴えて以来、「狭山事件」はが俄然冤罪事件的様相を帯びることになった。以来、10年におよぶ70回余の公判で、「事件の全面的な見直しと事実調べ」が行われるに至る。この間、石川被告の不屈の獄中闘争と相まって次第に大衆運動的に盛り上がっていった。 1974.10.31日、狭山事件第二審で有罪判決(いわゆる「寺尾判決」)が出されたが、「狭山闘争」はますます昂揚していくことになった。引き続き公判闘争が続けられ、狭山事件弁護団は、石川被告の無実を証明するたくさんの新証拠を裁判所に提出している。有罪判決では犯人の残した脅迫状の筆跡が石川さんの筆跡と一致するとされていたが、その根拠とされた警察の鑑識の筆跡鑑定はひじょうにズサンなものであることを明らかにし、学習院大学の大野晋・名誉教授や元京都府警鑑識課員などの「筆跡は異なる」という鑑定書を提出している。81人の法学者が、事実調べを求める署名を東京高裁に提出したり、国民的規模で「狭山事件の公正な裁判と事実調べを求める署名」が行われている。 しかし、裁判所の反応は冷淡なものであった。要望されている証人尋問や現場検証などの事実調べが遅々として進められていない。東京高等検察庁は、事件発生以来今日まで裁判所に提出していない多くの証拠を隠しもったままでいる。そればかりかなんと証拠のリストすら開示していない。法務省刑事局長は、狭山事件の未提出の証拠について「段ボール箱にして4〜5箱、積みあげれば2〜3メートルの高さ」あると言っている。 この間東京高裁は、石川被告の異議申立てを受けて狭山事件の再審を開始するべきかどうか16年間審理してきたことになる。一度有罪の確定した再審請求の審理に16年もかかることは極めて異例の事態で、弁護団が提出した200以上の新証拠を前に、裁判所自身対応に苦慮して判断を先延ばしにしてきたことがうかがわれる。しかし結局歴代の担当裁判官たちは、ただの一度も証拠の事実調べをおこなっていない。ずるずると結論を先延ばししただけのことであり、司法の自殺行為とも云えよう。 狭山事件弁護団は、東京高等検察庁にたいして、犯行現場の血痕検査報告書や足跡の写真、証拠リストなどを開示するよう求めている。ところが、東京高検は、証拠リストなどがあることは認めながら、開示を拒否している。再審請求でも、弁護側が必要な証拠の開示を受けることができるのは国際的には当然のこととされている。日本も批准している国際人権規約からしても、証拠を隠すなどということは許されない。「狭山事件の事実調べと全証拠開示」が早急に望まれており、「再審開始を実現するために、すべてのみなさんのご支援を訴えます」とある。つまり、「裁判所の審理において必要な証拠資料が検察段階で留めおかれて裁判所に提出されない。これでどうして公平で公正な裁判が保証できるか」と、批判の声があがっている。 これについて、指宿信(いぷすき・まこと)。鹿児島大学教授(法学博士、刑事訴訟法専攻)は、「『証拠開示』ルール化が急務 」(2002.2.20日付「読売新聞」記事)で次のように述べている。 「わが国では死刑囚による再審請求事件四件を合めて、数多くの再審事件で、元の裁判では被告側が触れることのできなかった証拠が重要な役割を果たしてきている。枚挙にいとまがないが、たとえば松山事件では、任意に検察側が開示した書状の通し番号の欠落から偶然にも重要証人の虚偽証言が明らかになった。梅田事件では、検察側から出された被害者の頭蓋写真が決定的な反証材料となった。再審事件のみならず、冤罪を訴えて無罪となった数多くの著名事件でも無罪方向の手がかりが得られたのは同様である。松川事件で被告人らのアリバイを証明する第三者のメモ帳が検察側によって秘匿されていた、いわゆる「諏訪メモ」はあまりに強烈な事例であろう。 開示の経緯は、偶然や、検察側に理解があった場合、国民的な注目を集めた結果として開示されたものなど様々である。いま目を向けるべき点は、そうした証拠を被告・請求人側が知ることができなければどうなっていたか、ということである。わが国の刑事裁判では、証拠の収集と立証の責任を検察側に負わせ、被告側にも独自の訴訟活動を期待する『当事者主義』と呼ばれる構造を採用しており、相対する側に手持ちの資料や情報を開示することは、それと矛盾するという考え方がこれまで一般的であった。最高裁は一九六九年に、検察が法廷で利用しない証拠についても裁判所が個別に開示命令を出せることを承認したが、これも手続きの段階に制限を加えた非常に限定的なものにとどまった。 他方、諸外国では九〇年代に証拠開示問題について劇的な変化を見せていることは注目に値しよう。たとえば、カナダ最高裁は誤判事件を契機に公判に入る前の段階で検察側に全面的な証拠開示義務があるとしたし、イギリスでもいくつもの誤判事件を教訓に、利用するしないにかかわらず検察側は手持ち証拠の一覧を弁護側に示すルールが定められた。近年、映画を通じて知られるようになった米国の「カーター事件」は再審無罪を勝ち取った事件だが、このケースは被告人に有利な証拠がルールどおりに開示されていなかったことが重要なポイントてあった。これも、米国では通常審の開示ルールが整備されていたこと、そうした手続き違反を再審理由に認めていたからこそ実現したものである。 わが国では通常審、再審請求審いずれにおいても、検察側には手持ち証拠の一覧すら開示義務がなく、被告・請求人は証拠の存在を知り得ない危険がある。これではたとえ裁判所に開示命令権があっても意味がない。とりわけ再審請求審では、未開示証拠へのアクセスは真実発見にとって替え難い。たとえ司法改革で通常審の証拠開示手続きが整備されたとしても、この問題は未解決のままになる。 誤判の続いたイギリスでは、九六年に再審請求審査のため独立した機関を設置し、強力な証拠開示命令権を認めて証拠収集に支障がないよう配慮した。わが国でも、通常審、再審請求手続き共に開示に関するルール整備が喫緊の課題であることはもちろん、現在進行中のすべての再審請求審において全面的な証拠のすみやかな開示が、真実の発見と正義実現のため不可欠だろう」。 1993.11月、国連の国際人権規約委員会は、日本政府に次のような勧告をしている。「弁護人が警察などにあるすべての証拠を閲覧・利用できるようにすること」。一昨年、日本政府は国連事務総長あての報告書で「日本では証拠の開示を受ける機会は保障されている」と報告している。狭山事件の証拠開示請求に東京高検がこたえないならば、国連に虚偽の報告を提出したことになる。「東京高検はただちに狭山事件の弁護団が要求している証拠リストなどの開示をしなければなりません」。 狭山事件に対するこのような日本政府・検察庁の姿勢は、1998年末にジュネーヴでひらかれた国際人権規約委員会でも非難の的となった。日本政府の代表(法務省)は、「刑事事件の証拠は、裁判長から提出するよう命じられれば出しているのだから、証拠隠しにはあたらない」と反論している。しかし委員会はこの反論は詭弁であるとして、結局、日本政府に対して「刑事事件の証拠は十分に開示して公正な裁判を保証するように。事務的にできることならすぐおこなうべきだし、もしそのために法律改正の必要があればただちに改正作業に入るべきである」と正式に勧告した。これは個別狭山事件に対する日本政府・検察庁の対応が問題となった上での結論です。 |
【狭山事件疑惑各論その1、被害者中田さんの当日の足取りについて】 |
事件当日被害者中田さんの足取りが明らかにされていない。判明していることは次の通りである。その日中田さんは級友に「今日は私の誕生日だから」と言い残し、一人でいつもより少し早く下校している。しかし、中田さんの自宅では特にお祝いをする計画はなかった。中田さんがはなぜ帰宅を早めたのか。そこにどういう理由があったのか。これが狭山事件の謎の一つであるが、これについて捜査当局はどのように推理しているのか要領を得ない。 下校後の中田さんの足取りで判明しているのは次のところまでである。学校近くの郵便局に立ち寄った(オリンピックの記念切手を予約するため)あと、ようとして分からなくなる。 時間的には下校直後の3時20分頃、西武線のガード下で中学時代の中田さんをよく知っていたNさんが、「誰かを待っているような様子の中田さんを見た」と証言しているが、この場所は中田さんの通学路とは全く反対の方向にあたる。中田さんはいったいなぜこのような場所にいたのか? いずれにせよ、「中田さんが誰かと会うために早退した」と解するのが相当であり、では誰と会おうとしていたのかの解明に向かうのが常道であろう。しかし、この線の捜査は進展していないように見える。 というか、「中田さんの当日の足取りについては、当時警察も最優先の捜査課題として聞き込みをおこなっていますが、なんとこの記録は裁判にも提出されることなく、今でも検察が持っている。弁護側はこの記録の開示を求めているが、検察は『プライバシーの保護』を理由として開示を拒否している。しかし、中田さんの当日の足取りは狭山事件の核心と言ってもよい部分である。被害者の人権の法益を守ることと、冤罪事件による被告の人権を守ることとの法益を秤にかければ、まずもって事件の真相を明らかにすることこそ第一としなくてはならないのではないのか」。 |
【狭山事件疑惑各論その2、自転車戻し問題】 |
「自転車に纏わる不審」も狭山事件の謎の一つである。脅迫状が届くに及び、兄の健治が警察に通報しようして納屋に行ってみると、自動車の脇に善枝の自転車がいつも置かれていた場所に帰されていたのが発見された。電灯を点けてみると雨に濡れた自転車のサドル部分が濡れていなかった。@・何ゆえ自転車が戻されていたのか。A・誰が戻したのか。B・自転車は何時戻されたのか。C・いつもの場所に戻されていたのは偶然か。D・「自転車のサドル部分が濡れていなかった」というのはどういうことなのか、等々不審が付きまとっている。 |
【狭山事件疑惑各論その3、脅迫状の筆跡鑑定】 | |
狭山事件で間違いなく真犯人が残したと言える物証として事件発生当日被害者宅に届けられた脅迫状がある。当然、事件の取り調べでも裁判でも、脅迫状を石川さんが書いたかどうかが最大の争点となった。
脅迫状の文字はわざと書いたと思われるきわめて特徴的な筆跡で、全ての字が一定の勢いと形式をもって書かれている。大学ノートを破いた用紙に、横書きで書かれている。その内容は、@・子どもを誘拐したこと、A・身代金20万円を女性が5.2日の深夜・「佐野屋」という酒屋のところに持ってくること、B・もし警察に話したら子どもを殺す、という意味のことが書かれていた。 この「脅迫状」を石川氏が書いたものとすると次のような疑問が発生する。その一。石川氏は当時ほとんど字を書くことができなかった。このことは当初から警察も認めている。脅迫状には、特殊なあて字はあるものの誤字や脱字はない。当時の石川氏の作文能力は低く、誤字や脱字が多数混じり、しかも勢いのないたどたどしいものであった。当時の石川氏にこの脅迫状がかけなかったことは、国語学者の大野晋さんをはじめとする多くの専門家によって立証され、鑑定書として裁判所にも提出されている。これらの中には、永年警察で筆跡鑑定にたずさわってきた元京都府警鑑識課員の鑑定書もある。 このことが当然争われることになったが、1999年の再審棄却決定で東京高裁第4刑事部の高木裁判長は、「同一人物でも時々によって筆跡は異なることがあるから、(石川さんが当時書いた上申書の筆跡と、脅迫状の筆跡が異なっていても)ただちに石川さんが脅迫状を書かなかったとは言えない」という主旨のことを述べている。 しかし、これは法の番人として首肯し難き暴論理論であろう。この種の論法を使えば、筆跡鑑定そのものが無意味になろう。少なくとも、刑を確定する根拠になりえなくなろう。それに、この理屈で言えば、当然、石川さんが脅迫状を書いたということも言えなくなるはずであるが、高木裁判長は「それでも脅迫状は石川さんが書いたものだ」と断言する。2002.1.29日の異議申し立て棄却決定でも、東京高裁刑事第5部の高橋省吾裁判長が、こうした疑問を一切無視し、ただ高木決定の文言を繰り返して弁護団の訴えを退けている。まさに、法の番人の側よりする法理論の破壊であり、司法の自殺行為とも云えよう。 |
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警察で鑑識に携わること24年、この道の第一人者である斎藤保・指紋鑑定士(元栃木県警鑑識技官)は、狭山事件の脅迫状封筒を鑑定して、「科学的に分析する限り、真犯人は事件発生前に脅迫状封筒に万年筆ないしは付けペンで被害者の父親の名前をかけた人物」しかも「真犯人は軍手をはめて脅迫状を扱っている」事実を指摘している。しかし、石川被告は、事件前に万年筆やつけペンを入手できなかい境遇にあった。そして被害者と一面識もなく、その家族構成や名前など知る由もなかった。また「自白」によれば終始一貫して素手で脅迫状と封筒を扱っている。これらのことは裁判所も検察も、ともに認めるところであるが、いずれも石川氏を犯人とはし難き根拠を示している。 | |
東京高裁の寺尾裁判長は、警察関係者の鑑定の結論にそのまま依拠していたが、石川は教育程度が低く、逮捕された後に作成した図面に記載した説明文を見ても誤りが多い上に、漢字もあまり知らないことが判り、そうしたことから、「漢字の知識」については無視できずにいた。 そこで、「決め手」となったのが、『りぼん』(集英社/1955年創刊)という少女雑誌だった。石川は、妹が友達から借りていた『りぼん』から、振り仮名を頼りに漢字を拾い出して、それを見ながら脅迫状を作ったというのだ。ところが、脅迫状にある<刑札>の<刑>と<西武園>の<武>は『りぼん』にはなかった。さらに、『りぼん』は事件が起きる7ヶ月に、すでに友達のところに返されていたことが、あとになって判る。 石川の「自白」によると、妹のノートを破いて脅迫状を書き、ボールペンを使用して訂正し、封筒はつばでなめて封をしたことになっているが、実際は、石川の家から押収した妹のノートと脅迫状に使ったノートは違うものであり、訂正箇所も万年筆を使用しており、封筒は2種類のノリで封がされていた。 |
【狭山事件疑惑各論その4、脅迫状その他の指紋について】 |
[ 指紋 ]については次の事が明らかになっている。不思議議なことに、石川の指紋が検出されていない。脅迫状や封筒に7つ、善枝が持っていた万年筆に3つの指紋が残されているのだが、いずれも、照合不可能とされている。 |
【狭山事件疑惑各論その5、犯人取り逃がしについて】 |
狭山署・埼玉県警本部による厳重な捜査体制にも拘らず犯人は逃走に成功している。この遣り取りの一部始終からは次のことが判明する。@・犯人の身代金要求の狙いは奈辺にあったのか。A・犯人の逃亡成功はよほど周囲の地理に明るい様子が判明する。B・中田さんの姉と犯人の会話により、「犯人の声は40〜50歳と証言」されている。ところが、後に逮捕される石川氏は当時24歳であった。この齟齬はいかように説明されているのか。C・翌日に足跡調査が為されているが、後に逮捕される石川氏のサイズとの整合性はどうなのか。詳細は明らかでないが、「かなりないし全く異なっている」ことが判明している。これらのことも狭山事件の謎の一つとなっている。 [ 足跡 ]については次の事実が判明している。身代金受渡し場所の佐野屋近くの踏み荒らされた畑に犯人のものと思われる地下足袋の足跡が残されていた。警察が石膏を流して採取した足跡の数は40個以上もあったが、5.4日付けの鑑識課の報告書では、10文〜10文半の大きさの地下足袋による足跡とされた。5.23日に、石川逮捕とともに、地下足袋5足を押収したが、それらの大きさはいずれも9文7分であった。そこで、警察は現場の足跡は9文7分の押収した地下足袋によってできたもので、破損痕も一致するとした。 |
【狭山事件疑惑各論その6、遺体の様子について】 |
「中田さんの遺体の様子」には、@・頭上に玉石が置かれていた、A・タオルで目隠しがしてあった、B・顔の下にはビニール片が1枚敷いてあった等々明らかに「弔いの様子」が認められる。加えて、「中田さんの膣内には性交渉の跡が認められた。残留精液はB型だった」。これも狭山事件の謎の一つであるが、犯人は何らかの形で中田さんと「顔見知り」では無いのかと推測される。捜査当局により犯人とされた石川被告には、中田さんとの「顔見知り」関係は無い。これらのことも狭山事件の謎の一つとなっている。 当時雨天であったにも拘らず、中田さんの遺体は「ほとんど水に濡れていなかった」。これをどう読むべきだろうか。 「遺体の様子と石川被告の自供内容との齟齬について」も検討せねばならない。(引用元は失念したが、次のように指摘されている) 石川氏の自白の中身と実際の犯行内容とがかなり齟齬している。多くの相違点の中から2例を取り上げる。その一、殺害方法について。石川氏の自白では被害者は「掌で首を圧迫して」殺されたことになっている。しかし、実際には被害者は「やわらかい手ぬぐいかタオルのようなもので絞め殺された」形跡がある。これは再審請求をするようになってから弁護団が専門家に鑑定を依頼して分かったことである。被害者の首の部分に、絞殺時にできる特徴的な痕「蒼白帯」が発見された。 このことについて1999年の棄却決定では、「もしかしたら絞殺かも知れないが、そんなことはたいしたことではない」というような言い方をしている。しかし、殺人事件の裁判で「どういう殺し方をしたのかは関係ない」などという判決が為されるとすれば暴論であろう。2002年の棄却決定はこのことに答えなかった。 石川被告は「荒縄と麻縄を盗んできて、芋穴に逆さ吊りにした」と自供している。が、医師の鑑定により遺体の足首にはそのようなことをした跡が残っていないことが判明している。 [ タオルと手拭い ] 遺体を埋める際にタオルで目隠しをして縛っているが、タオルは東京・江戸川区月島食品工業の社名入り宣伝用で8434本作られ、取引先などに配られた。石川はこのタオルの配布先である保谷市(ほうやし/現・西東京市)の東鳩製菓の保谷工場に3年間勤めていたことがあり、そこの野球チームに参加していた。工場内の親善試合で毎年50本ぐらいタオルが参加賞として配られていたから石川はそれを毎年もらっていたはずだと検察側は主張した。 また、後ろ手にして両手を手拭いで縛っているが、この手拭いは事件のあった年の正月に狭山市入間川の五十子米穀店が得意先に配った165本の中の1本であることが分かっている。捜査当局はすべてを回収しようとしたが、どうしても7本が出てこなかった。165本のうち1本を石川の姉の夫がもらっていた。さらに石川の近所の家の手拭いが1本なくなっていたので捜査本部はどちらかの1本を石川が手に入れて使ったのではないかと推測した。 |
【狭山事件疑惑各論その7、目撃者について】 |
石川氏の自供によれば、5.1日、中田さんを「用がある」と言って突然呼びとめ、雑木林まで誘導した。中田さんは自転車を押しながら石川に付いて行ったとされているが、白昼、農作業をしている人たちがいる畑の間の道を歩いたというのに、目撃者は1人もいない。 石川被告は、2人が出会った地点から700メートル離れた雑木林の杉の木の下で強姦したあと、手で絞殺したと供述しているが、このとき、善枝が「キャーッ、助けて!」と悲鳴を上げたとも述べている。にもかかわらず、その犯行時間と重なる時間帯に、その雑木林のすぐ隣りの桑畑で除草剤をまく作業をしていた人が悲鳴を聞いていない。その人は桑畑のすぐわきの道に車を止めており、除草剤の補給に10回くらい車と桑畑を往復したが、人影は見なかったと供述している。殺害現場の杉の木のところからその人が作業していた地点は20〜40メートルの距離で、車からまっすぐに見通すことができるところに杉の木はあった。また、5.4日に、善枝の農道に埋められた遺体が発見されているが、この現場での目撃者もいない。これらのことも狭山事件の謎の一つとなっている。 |
【狭山事件疑惑各論その8、石川被告の着衣について】 |
[ 血痕問題 ]も絡んでくる。この事件の場合、善枝が後頭部に出血しているので、それを運搬したとされる石川の着衣に血痕が付いているか否かが当然、問題にされたはずなのだが、警察は着衣を調べていなかった。東京高裁の寺尾裁判長は、「もし、鑑定していたら、付いているのが判ったかもしれない」と、公平とは思えない言い方をしている。 |
【狭山事件疑惑各論その9、「不審なスコップ」について】 |
5.7日、中田さんの遺体が発見された地点から西へ124メートル離れたところでスコップが発見されたが、そのスコップに付いていた土を調べたところ、遺体を埋めた地点の土と同じものという鑑定結果が出たことから遺体を埋めたときに使ったスコップと認定された。特捜本部は、遺体の付近で発見されたスコップで死体が埋められたと判断し、スコップの出所を調査し始めたところ、このスコップは近所の石田養豚場から盗まれたもので、元来石田養豚場の所持物であると推定された。特捜本部は、石田養豚場の経営者の石田からスコップ紛失届を入手し、石田養豚場に出入りしていた部落民に対する見込み捜査を開始した。この認定に間違いは無いのだろうか。 スコップが遺体埋め用に使われたとの鑑定は間違いないのか。「スコップが養豚場の物であるという立証」は十分為されているのか。スコップの石田養豚場との関連には根拠が有ったのか無かったのかつまり石田養豚場疑惑には根拠が有ったのか。部落差別に基づく偏見による見込み捜査であったのか。これらのことも狭山事件の謎の一つとなっている。 |
【狭山事件疑惑各論その10、重要証拠品万年筆の「擬態捻出(デッチアゲ)」について】 |
石川被告の自白によって発見されたとされる数点の証拠物件の一つに万年筆がある。後に公判で明らかになったことであるが、「被害者の万年筆」について、この間5.23日第1回家宅捜査(2時間17分、刑事12人)、第2回家宅捜索(2時間8分、刑事14人)で発見されておらず、それが6.26日の第3回家宅捜索(24分、刑事3人)の際に台所の鴨居(カモイ)から発見されている。これは明らかに「重要証拠品の擬態捻出(デッチアゲ)」である。 これにつき、再審請求後に重大な新証言が為されている。1度目、2度目の捜索の時現場責任者であった元刑事が、「私が指揮して捜索したとき、問題のかもいも確かに捜した。私自身が自分で手でも触って確認したが万年筆はなかった」と明言した。さらに彼は、「ところが後になって、そのかもいから万年筆が発見されたと聞いて驚いた」、「大きな事件だったので、今まで言い出すことができなかった」と付け加えている。 この重大証言について東京高裁の高木裁判長は、1999年の棄却決定で「事件発生から20年以上たってからの証言であるから信用性が薄い」と言って全く考慮しなかった。2002年の高橋裁判長も、この高木決定の文言を全く同様に繰り返している。高木裁判長をはじめ歴代の裁判官は、一度としてこの元刑事から直接話を聞こうとしていない。 狭山事件の確定判決である第2審東京高裁の判決(寺尾判決)はこう言っている。「もしも、物証について弁護側の言うような不審な点が一つでもあれば、(石川さんが犯人であるという認定は)極めてあやしくなる」。してみれば、元刑事の証言が第2審の審理の中で出ていればどういうことになったか? 刑事訴訟法が定める再審を開始すべき「新規・明白な証拠」について、最高裁はつぎのような決定をしている。「新規・明白な証拠」とは、「かって裁判にその証拠が提出されていたら同じ判決が下されたかどうか判断し、その判断が確定判決と異なる場合には再審を開始する」ような証拠(最高裁・「白鳥・財田川決定」)のことを云う。これに照らせば、東京高裁の棄却決定は、証拠の評価において明らかにこの最高裁判例に違反する。 問題は、このような警察による「重要証拠品の擬態捻出(デッチアゲ)」がかなり常套的であることにある。事件当時の報道によれば、狭山事件発生前の1955年にやはり埼玉県内で起こった「節子さん事件」でも見られると云う。この事件は、殺人犯だとして逮捕し自白を取って起訴したものの、裁判の途中で真犯人が名乗り出て無罪になったという事件であった。この時、自白にもとづいて「被害者の指輪」が発見されていた。「節子さん事件」の裁判で検察は、「被害者の指輪がどこにあるかは真犯人しか知り得ない証拠である。それが被告の自白で見つかったのだから、これは秘密の暴露にあたり、被告が真犯人である動かぬ証拠である」と主張していた。もしも真犯人が名乗り出なければ、裁判所はこの主張を鵜のみとした筈である。しかし裁判では、結局問題の指輪のことはうやむやのまま、「真犯人が分かったから」という理由で無罪となった。一部では「埼玉県警が指輪をでっちあげなかったとしたら、いったいどういう説明ができるのか?」という報道も為されたが、県警の責任は全く問われなかった。 実は埼玉県警は、「節子さん殺し」以前にも、本庄市でおこった事件で無実の人間を逮捕して自白させてしまうというミスを犯していた。恐るべきは、「節子さん殺し」の捜査にあたった県警捜査一課は、狭山事件の捜査陣のまさに中核だった。つまり、「重要証拠品の擬態捻出(デッチアゲ)」はお手のものだったということになる。こうした埼玉県警の体質が今日何らか改善されているのかどうか、一人埼玉県警のものだけのことなのかどうか。 ちなみに、かもいから見つかったとされている万年筆は被害者の物ではない。 |
腕時計は、数人の捜査官が、探し回っても発見できなかった同じ場所から、78歳の視力が不確かな老人によって、3日後に、偶然「発見」されている。この腕時計は7.2日に発見されたことになっているが、その4日前に、警察官がその腕時計を石川に見せ、石川もそれをはめてみて「善枝ちゃんは案外、腕が太かったんだ」と警察官たちと談笑した、と石川は公判で述べている。この腕時計も被害者の物ではない。 カバンについては発見されたのは革製のダレスカバンだったが、善枝の父親が警察で供述した調書によると、善枝が持っていたのは、一見革製に見える旅行カバンであるということからニセモノである可能性があった。万年筆は科学警察研究所が調べた結果、発見された万年筆はペン先がほとんど使われていない新しいものでインクはブルーブラックだった。だが、善枝の日記やノートに出てくる字のインクはライトブルーだったことからニセモノである可能性があった。腕時計については発見されたのはシチズンペットだったが、善枝が持っていたのはシチズンコニーであったことからこれもニセモノである可能性があった。 また、カバンや腕時計の捨て場所の自供図面については、「警察官が2枚のザラ紙を重ねて地図を書き、下の方の紙を渡されて、その筆圧によってできた溝をなぞって書いたもの」と石川は公判で述べている。 |
【狭山事件疑惑各論その11、事件関係者の変死について】 |
狭山事件の最大のミステリーは、他の事件では類例を見ない多数の自殺者の存在である。これを順に追って見る。その一。5.6日、被害者N家の関係者の一人であったOさんは、事件の最初の段階で埼玉県警の厳しい取り調べを受けて自殺している。Oさんは翌日に結婚式を控えている身であり、自ら死を選んだ場所は新築中の新居であった。その二。5.11日、市内の林で不審な3人の男を見たとの目撃証言を警察にもたらしたTさんが、心臓を刃物で突き刺して自殺している。その三。被害者の姉であり、唯一真犯人と言葉を交わした人物であったN・Tさんは、事件の翌年、石川さんに死刑判決が出された時期に農薬を飲んで自殺した。彼女もまもなく結婚する予定であった。その四。この他にも、被害者Yさんの弟が自殺している。その五。いわゆる「変死」とされる人も入れれば、その数はもっと増える。 このように多くの悲惨な自殺者を多数出した刑事事件は、他に類例を見ない。この方々の死が、狭山事件にどのようにかかわっているのか、その真相は何一つ明らかになっていない。 |
【 推理 】(【狭山事件】より抜書き引用) |
犯人は善枝と面識のある中年男という見方は、当初から根強くあった。根拠はまず、善枝は中学時代、ソフトボール部キャプテンで体力があり、生徒会副会長を務めるなど、男を毅然とたしなめる強い性格だったから、見知らぬ男に簡単に誘拐されるとは思えないこと。 次に、犯人の声。善枝の姉と刑事、民間人数人が聞いているが、地元訛りのある中年の声だったと言っている。さらに、現場に残された地下足袋の足跡も中年を連想させる。 善枝が行方不明になった5月1日は、本人の16歳の誕生日だった。放課後、善枝は時間を気にしていたようだし、ガード下で、人待ち顔の善枝を見た者もいる。 胃の内容物から、下校後、まもなく殺されたと見られている。司法解剖で、性経験があったことが判っているが、強姦ではなく、合意のもとでの性交と見られている。 善枝は、下校後、関係のあった中年の男と待ち合わせをして、誕生日を祝うつもりだったのではないだろうか。中年男と言えば、自殺した男たちが浮かぶ。 善枝の日記に、<身内と喧嘩して、くやしい、くやしい>という一節があるとして、部落解放同盟は、犯人は身内の者で、殺害動機は遺産相続、近親憎悪であろうと見ている。 歴史民族学研究会主宰の礫川全次(こいしかわぜんじ)は、著書『戦後ニッポン犯罪史』(批評社/2000)で、この事件を推理している。 礫川は「訂正された脅迫状」に注目しているが、犯人Aは、別の人物Bに脅迫状を代筆させたのではないかと見ている。Bは中田家とかかわる人物であり、しかも犯人Aに何らかの弱みを握られている人物である。 Aは当初から中田善枝の誘拐を計画し、その際、Bを利用しようと考えていた。Bに対し、架空の誘拐事件を計画しているかに見せかけ、脅迫状の作成を強要する。続いてAは、Bに善枝の誘い出しを依頼し、善枝の身柄を拘束する。ここにいたって、Bは自らが完全に罠にはまったことを悟る。「訂正脅迫状」は、こうした経緯で使用されたものではなかったか。すなわち、「少時様」宛て脅迫状は、Bを共犯に(犯人に)仕立て上げるための小細工だったのではなかったか。 そして、Bに該当する人物を事件直後の5月6日に不可解な自殺を遂げた奥富玄ニ(1人目の変死者)とした。彼は、中田家で住み込みで働いていたことがあり、もちろん善枝と面識があった。自殺した日は自分の結婚式の前日であった。奥富は結婚を控えて、Aに何か重大な弱みを握られていたのではないか。そのため、つい、架空の脅迫状の代筆を引き受けてしまい、善枝の誘い出しに協力した。 以上はあくまでも推理だが、もし、このように考えれば、次の3つの難問がクリアできる。(1)なぜ、脅迫状が訂正されたのか(訂正部分の筆跡の主は別人とする説がある)。(2)なぜ、善枝は簡単に拉致されたのか。(3)なぜ、奥富は不可解な自殺を遂げたのか。 この推理が正しいとしても、Aに該当する人物が誰であるのか特定できない。 同書によると、亀井トムが著書『狭山事件』(辺境社/1972)の中で、Aに該当する人物を1966年(昭和41年)10月に、電車に轢かれて死亡(警察は自殺と断定)した石田登利造(4人目の変死者)ではないかと推理しているらしいのだが、その理由として、(1)登利造は5月1日に、石川の兄から地下足袋(9文7分)を借りて返していないこと。(2)登利造の足は9文7分であること。(3)善枝の首にあった細引きは「すごき結び」という専門的な結び方がされていたが、登利造がこの縛り方を熟知していたこと。(4)事件後、登利造は大酒がたたってアルコール精神病の発作を起こし、2度ほど精神科に入院していること。(5)電車に轢かれて死亡していること。登利造にはこうした疑惑があるが、事件当時、登利造にはアリバイがあったとも言われている。 『犯人 「狭山事件」より』(晩聲社/殿岡駿星/1990)でも犯人を推理している。はっきりと名指しで誰が犯人であるとは書かれてはいないのだが、1990年(平成2年)4月13日、著者はその人宛てにいくつかの質問を列挙した手紙を出している。それは宛先人が犯人であるという前提で質問したような内容になっている。その宛先人が誰であるかをここでは言えませんが、自殺や事故死?した人物でないことは確かで、石田登利造を犯人とした亀井氏の推理とは違っている。その相手から返事がきたのは5日後だったが、手紙には<書状は確かに受け取りました。その設問にはお答えする事は出来ません。平成2年4月18日 ○○○○(自分の名前)>と3行だけ書かれてあった。 ちなみに私(boro)は殿岡駿星の推理を支持。この推理が正しいと仮定するとあらゆる謎とされていたことがほぼ解明できる。殿岡氏の手紙の宛先人が事件直後の5月6日に不可解な自殺を遂げた奥富玄ニ(1人目の変死者)と共謀あるいは一方的に教唆した上で犯行に及んだものと見ています。 |
(私論.私見)