【救援闘争史考】

 (最新見直し2008.9.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 狭山闘争の「救援闘争史」を整理しておく事、その経過で発生した「日共系弁護団の解任事件」に目を通しておく必要があるが、こういう重要な事件に対する理論的考察が為されていない。その様は、日本左派運動の無能さを証しているように見える。以下、れんだいこなりにスケッチしておく。「狭山事件と救援会」(1995.3三月、日本国民救援会中央本部)その他を参照した。「救援闘争通史」は、「裁判の経過」サイトに取り込み、ここでは「日共系弁護団の解任事件」を集中的に論ずることにする。

 2004.3.16日 れんだいこ拝


 【「中田弁護人らの辞任声明」】

 1975.2月、中田主任弁護人ら七名が石川被告の弁護活動を辞任すると声明した。「中田弁護人らの辞任の声明」は次の通り。 

 中田弁護人らの辞任の声明

 私たちは、石川一雄君の無実を確信し、弁護人としての活動に誠心誠意努力してきました。すでに一九六七年後半には、「石川一雄さんを守る会」の真実と正義にねざす活動が、実質的に始められていました。「部落解放同盟」朝田派は、一九七〇年に至って、にわかに「狭山差別裁判糾弾」をとりあげ、同時に、「部落民にたいする差別的偏見と予断によって」「警察・検察・裁判所と同じ論理のうえに立ち」、「石川無罪にたいする確信」を失い、「差別判決を根本的なところで是認し」、「根本的なところでまったく屈服して」しまい、「決定的な誤りをおかした」として、私たちをひぽうしました。以来、「部落解放同盟」朝田派は、あれこれの表面的態度にもかかわらず、私たちを「日共系弁護士」と呼び、「差別者」と中傷し、私たちと石川君を離間させ、私たちを解任させようとするなどの策動を執ようにくりかえしました。

 そればかりではなく、「部落解放同盟」朝田派は、「差別裁判」を踏み絵とし、多くの分野の人びとに、暴力と脅迫をもって、自己の政治的立場に屈服することを強要してきました。そしてまた、殺人を公然賞揚するいわゆる「中核派」など暴力者集団と結びつき、かれらを「狭山差別裁判闘争」の動員に利用しながら、民主勢力に敵対する攻撃を強めてきました。「石川一雄さんを守る会」などの主催する集会は、しばしば「粉砕」の対象とされました。

 「部落解放同盟」朝田派および殺人暴力者集団のこのような動きは、真に石川君を救援しようとする裁判闘争の大道とは全く無縁でありもともと、反共・反民主主義的破壊活動のために狭山事件を道具とするものにすさません。私たちは、早くからこのことを明らかにし、公然と批判してきましたし、弁護団内部にあっても、このような誤った運動の反映を克服し、無実の者を救うという一点で団結するよう努力しました。

 さらに私たちは、石川君に対しても、すべての人びとに真実のみを訴え、誤りに手をかすことのないよう説得をつづけてきました。しかし、石川君は、これら策動の影響のもとで、ときに、私たちを公然と非難するようになりました。一九七三年一月八日付および一五日付、「部落解放同盟」朝田派機関紙「解放新聞」上の「新年の訴え」やいわゆるゆる「中核派」の機関誌「武装」一九七四年八月号の「獄中からのアピール」における弁護団非難などがその例です。

 控訴審判決後、「部落解放同盟」朝田派は、いち早く「日共差別者集団」の「粉砕」を叫び、「一部の弁護人はかたくなに冤罪事件と限定した」とし、「部落差別がこの事件と裁判をつらぬく本質であるという主張をよわめ、否定する見解をもちこんではならない」などと述べて、私たちを排除することを求め、民主勢力に対する分裂策動を強化することをあきらかにしました。

 それでもなお、私たちは、無実の者を救うために、被告人と弁護団の真の団結を固めるよう、さまざまに努力しました。ところが、「毛沢東思想」という雑誌の一九七四年一二月号は、石川君が父の言葉をかりる形であるにせよ、「この判決のいったんに、量刑不当の控訴趣意書が大きく影響を及ぼしているということから遠藤さん(注1)は紹介者としての責任をとったのでありましょう、昨日付けで共産党から脱退したそうであります」などという、全く事実無根のことを述べ、私たちを「力のない弁護士」と非難する、石川君から「部落解放同盟」朝田派「推せん」の弁護人に宛てた「判決後の第一信」を掲載しました。被告人の弁護人に対する私信であれば、その公表について、石川君とその弁護人の同意があったことは明白です。

 石川君じしんが、反共・反民主主義的破壊活動をこととする「部落解放同盟」朝田派の立場にくみし、私たちを一方的に非難することを少しも恥としなくなった以上、石川君の弁護人となることによって、その誤った立場をともにすることは、もはや私たちにはできません。しかも、出版物において、一方的非難が加えられた以上、私たちは、その態度を明確にし、これを公表せざるをえません。

 一九七五年二月一三日
  弁護士 中田 直人、(同) 石田享、(同)橋本紀徳、(同)宇津泰親、(同)福地明人、(同)宮沢洋夫、(同)城ロ順二

 (註1) 遠藤さんは、当時から一貫して地域の民商会長を、救援会員の拡大などで活動されています。



(私論.私見) 「中田弁護人らの辞任声明」をどう読むべきか

 「中田弁護人らの辞任声明」の史的意味が位置付けなければならないのに案外為されていない。れんだいこが思うに、何事も歴史的経過の中で読み取られねばならない。その全体の流れは、裁判及び狭山闘争の経過に記したので、ここでは直近の動きとの関連で位置づける事にする。

 判明する事は、直前の1975.1.11日付赤旗論文「『一般刑事事件』民主的運動」との絡みであろう。この論文は、いわゆる新左翼が狭山事件に介入し始めた事を口実にそれらの運動と一線を画す意図から狭山事件闘争からの召還を指針させていたところに意味を持つ。日共党中央のこの新指針を受けて「中田弁護人らの辞任声明」が為された事は容易に見て取れることである。

 してみれば、、いわゆる新左翼が中田弁護人らを「日共系弁護士」と評していた事はそのこと自体むしろ正確を射ているということができよう。「中田弁護人らの辞任声明」は、「私たちを日共系弁護士と呼び」とあたかも根拠の無いレッテル貼りであるかのように述べているが何をかいわんやであろう。問題は、「日共系弁護士」であろうが無かろうがそういうことはどうでも良く、「日共系弁護士」の弁護活動の中身そのものの精査であろう。そこで、「日共系弁護士」の弁護活動の中身そのもの検証していくこととする。

 (以下、略)



狭山事件再審弁護団声明

  平成14年1月23日東京高等裁判所第5刑事部高橋省吾裁判長は狭山事件の第2次再審申立に対する棄却決定に対する異議申立を棄却する決定を下した。弁護団は満身の怒りをこめてここに抗議の声明をあきらかにするものである。

  本決定の内容は全部で8万数千字に達するものであるが、これを検討すると弁護団の主張、新証拠の内容を多量に引用しながら単に結論部分として「弁護人らの主張は認められない」という判断を下しただけの内容空疎な迷妄の一語に尽きるものと断言できる。有名な万年筆の発見に関する疑問に対する論点についての判断がその典型であるが、弁護人らの主張、関連する鑑定内容を引用しながらその申立を棄却した理由としてあげているのは単に「第3回目の捜索で発見されたのは、第1、第2回の捜索の場合と捜索の事情や条件を異にするのであるから第1回、2回の捜索時に発見できないからといって本件万年筆が石川宅になかったことにならない」というだけの理由で弁護人らの請求を棄却したのである。いうところの「捜索の事情や条件を異にする」という点について、具体的には一切ふれていない。

  あるいはまた、上記万年筆について異議審に提出した齋藤鑑定の結果あきらかになったところの、万年筆による脅迫文の訂正ならびに脅迫状、封筒の文字が自白にいう犯行現場で訂正されたものではなく、それ以前に万年筆によって筆記されたものであることが科学的にあきらかにされているにもかかわらず、この弁護団の主張と自白の核心をゆるがした鑑定結果を全く無視し、論点としてとり上げていないのである。要するに本決定はあきらかに逃げの姿勢そのままであった。その証拠に旧証拠である自白の信用性についての総合的かつ全面的な再検討を全くやっていない。

  本決定はいうまでもなく無辜の救済の理念によって審査されたものではなく、ただ確定判決を維持せんがための棄却決定であって白鳥決定、財田川決定に対する判例違反はまことにあきらかである。弁護団は最高裁判所に特別抗告をなすことにより、必ずや再審開始決定をうるために断固たたかうものである。



【「狭山事件・再審請求における最高検の証拠開示等に関する質問主意書」(2003.7.22日提出質問第135号、提出者・北川れん子)】
 狭山裁判は、現在第二次再審の特別抗告審という段階であるが、一九九九年三月、当時の担当検事が、みかん箱六個分(三メートル)程度もあると回答した証拠の開示を今なお最高検は行おうとしておらず、また、最高裁も開示勧告を行っていない。

 狭山事件の被告とされた石川一雄さんは、三十一年七ヶ月にも及ぶ拘禁生活の後、仮出獄された今も『冤罪は晴れた訳ではない。まだ私には見えない手錠がかかっている』と、無実を叫び続けている。石川一雄さんという、「にんげん」一人の命運を左右する重大事に際し、全く不条理なことである。

 狭山事件発生の一九六三年五月一日から四十年目の二〇〇三年五月一日、石川一雄さんについて『埼玉新聞』は一面トップで「再審なれば、無罪分かる」と報じ、また『東京新聞』は、現地の埼玉県狭山市で行われた五月一七日集会の模様を翌日一八日に報じており、さらに『朝日新聞』は石川早智子さんの最高裁への要請を五月二三日に、他紙も大・小はあるが狭山事件について報道し、検察官が裁判に証拠として出していない公判未提出証拠の弁護側への証拠開示、事実調べについてふれている。

 情報公開が市民の権利として進められている世界的な趨勢の中、アメリカでは世界に先駆け証拠開示が制度化され、イギリスでは証拠開示法が制定されており、オーストラリアでは全面開示する継続的義務が負わされている。カナダでは、マイノリティであり先住民であるネイティブ・カナディアンへの冤罪事件が起こり、証拠開示で無罪となり、政府は王立委員会をつくり証拠開示が行われておれば冤罪は起こらなかったとし、判例で証拠開示を義務付けた。そこでは「証拠は有罪獲得のための手段でない。正義実現のための公共財である」という位置づけがされ、根本的な発想の転換がなされている。このように九〇年代にはイギリスをはじめ先進諸国で証拠開示がルール化、義務化されている。これらは、冤罪や誤判事件の原因調査の中からの教訓として制定されており、世界の流れとなっている。

 また、一九九八年十月には、国連の自由権規約委員会が狭山事件を取り上げ、日本政府に対して「検察官手持ちのすべての証拠にアクセス出来るよう」法律や実務を改善することを勧告している。被告にとって有利となる証拠、検事にとって不利な証拠を開示しないことは国際的にも認められないことである。

 司法制度改革審議会の最終意見は、「争点整理のための証拠開示の拡充が必要」とし、「証拠開示の時期・範囲等に関するルールを法令により明確化」すべきとしている。審議会の最終意見を受けて、内閣に設置された司法制度改革推進本部の「裁判員制度・刑事検討会」が、証拠開示や国民の司法参加のありかた(裁判員制度)の制度設計や立法化のための検討作業を現在行っている。裁判員制度の導入で、刑事裁判でも一〜二年という迅速化が目前の現在、狭山事件第二次再審の特別抗告審における検察、裁判所の姿勢では冤罪に苦しむ人々をさらに増やしていくのではないかと危惧を抱かざるをえない。

 このような状況を踏まえて、以下、質問する。
 一九九九年三月二三日、東京高検と証拠開示折衝の際、弁護団に当時の担当検事(會田検事)が「証拠リストと照合して整理した。積み上げると二〜三メートルになる」と回答し、未開示証拠の存在が明らかになった。以後、弁護団では再三再四、証拠開示を求めている。しかし、その後、十人も担当検事がかわり、その都度折衝をはじめからやりなおさなければならないという異常な事態が続いている。會田検事が回答した未開示証拠の存在及び具体的な数量等について述べられよ。
 この間、最高検は「証拠リスト」さえ開示することなく、逆に「証拠を特定すれば(開示を)考える」と弁護側に言っているが、証拠を特定するためには、リストの開示が前提であることは論を待たない。リスト開示の是非について述べられよ。
 免田事件、財田川事件、松山事件、徳島事件、梅田事件、日野町事件などでは、証拠やリストが開示されているにもかかわらず、狭山事件では開示されていない。差別的対応だと思われるが、その理由を述べられよ。
 この間、いくつかの団体が最高検を訪れ、検察事務官と会い、要請を行っているが、回答がなく、「検察官に、伝えています。」というのみである。質問や問いかけになぜ回答できないのか、その理由を述べられよ。
 要請をうける事務官は、ただ、三十分間をやりすごせばいいという姿勢で、「個人の見解は差し控えさせていただきます」というのみで、会話さえ成立しない状況である。事務官にしゃべらないようにという教育などがなされているのか、述べられよ。
 「次は、回答できる方に会わせてほしい」と要請しても実現されない。担当検察官に会う手立てについて述べられよ。
 最高検では、部落差別問題をはじめとする人権問題の研修がなされているのか。カリキュラムなど詳細について具体的に述べられよ。
 最高検の使命は、「国民」に良質な司法サービスを提供することにあるのであり、「国民」の要請や問いかけには誠実に説明責任を果たすことが求められていると考える。しかしながら、この間の対応にはそうした認識の欠片も見受けられず、居丈高で傲慢不遜な態度に終始されている。職責遂行の原点に立ち返り、人間らしい対応をすべきだと思うが、如何、お考えか。述べられよ。
 右質問する。


              




(私論.私見)