狭山事件史3、裁判及び狭山闘争の経過

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「狭山事件史3、裁判及び狭山闘争の経過」を記す。

 2008.9.23日 れんだいこ拝


【「第1回公判」】
 1963(昭和38).7.9日、石川氏が中田さん強盗強姦死体遺棄罪で浦和地検に起訴される。この間事件発生後70日を経ている。

 9.4日、浦和地裁で第1審第1回公判が開かれ、石川被告は「約束を信じて」起訴事実を認める。

 石川被告はその後の公判においても中田さん殺しを認め、一貫して自白を維持していた。弁護団は、本人が犯行を認めている中で真相究明に向かって地道な活動を続け、裁判所に対し弁護側証人として32名の請求をしている。しかし、「情状証人」4名が取調べられたのみで、その他は却下されている。弁護団は法廷に提出された証拠物の発見経過の問題点や、証拠物と自白との矛盾をついて「石川被告は真犯人ではない」と主張し、「石川被告は犯人ではない」との最終弁論を行っている。「数あるえん罪事件の弁護活動の中でも例をみない優れたものでした」と自賛している点が注目される(「狭山事件と救援会」)。

 なお、この当時の弁護団の活動は、石川被告が「中田さんん殺し」の自白を維持していた関係もあって「量刑不当」を争い、控訴趣意書を作成した当時においては、弁護団の論点の中心は「死刑判決の誤り」におき、最後に「かりにやったとしても」という但し書のうえ、量刑不当を主張していた。「自白を維持している裁判においてはやむを得ないものであり、石川被告が自白を撤回して以来、弁護団はこれを一回も主張していない事でも、充分うなずけるものである」(「狭山事件と救援会」)と弁明している。

 どの時点ことか不明であるが」、概要「中田弁護人らは、部落解放同盟中央本部を訪問して、裁判の問題点を報告し、何回も支援の要請を行いました。しかし『本人が自白を維持している。観念している』ということで、支援を得ることができませんでした」(「狭山事件と救援会」)とある。

【「死刑判決」】
 1964(昭和39).3.11日、第1審浦和地裁(内田武文裁判長)が、11回目の公判で、石川さんに死刑判決を言い渡す。この時、石川氏はひと言も否認の言葉を漏らさなかった。

【「石川被告が東京高裁に控訴」】
 3.12日、石川被告が東京高裁に控訴。石川氏は自分が騙されていたことに気づき、以来一転犯行を否認し続けることになる。

【中田さんの姉が農薬自殺】
 7.14日、中田さんの姉のT(24歳)が死刑判決直後から、精神に異常をきたし、自宅で農薬を飲んで自殺した。登美恵は結婚を控えており、厭世自殺するのは不自然だった。
(私論.私見) 「中田さんの姉の農薬自殺」について

 これも「狭山事件」の数々の不審の一つである。中田さんの姉にとって石川被告への死刑判決がよほどショックだったようにも推測しうる。「登美恵が真犯人を察知してしまったために、陥ったパニックから派生したもの」と見られている。


【東京高裁第2審第1回公判で、石川被告が無実を訴える】

 1964.9.10日、第2審東京高裁(久永正勝裁判長)で第1回公判が開かれ、弁護人の控訴趣意書陳述のあと、石川被告が冒頭で突然中田さん殺害を全面否認、無実を訴える。概要「私は善技さんを殺していない。刑事さんから、別件だけでも10年の懲役だが、犯行を認めれば、10年で出してやると言われ、信じた」、「このことは弁護士にも話していない」と、これまでの舞台裏を明かした。

 この時、石川被告は、弁護人にさえ「全面否認」の胸中を明らかにしていない。「このことは弁護士にも話していない」陳述の通りで、この直後、「ある者の策動によって中田弁護人ら全員を、間もなく家族の説得で撤回しましたが、解任したこともあった」(「狭山事件と救援会」)とある。

 以来、10年におよぶ70回余の公判で、全面的な事実調べがおこなわれるにいたる。この間、弁護団の尽力と大衆運動が支えとなった。


【「石川被告の獄中書簡」が語る真相について】
 石川被告の突然の否認について、「獄中書簡」が存在し、その心情を次のように披瀝している。これを紹介しているのが、狭山事件とは資料に所収されている獄中からの手紙であり、不思議な事に他の「狭山事件」論考サイトには掲載されておらずその意味でも本サイトの価値が高い。これは石川被告自身の証言であり、事実性の詮議を要するものの極めて貴重である。ここにれんだいこが要点整理しておく。

 
石川被告の獄中書簡が存在し、「萩原佑介さんへの手紙」と「朝田善之助さんへの手紙」が掲載されている。他にも古川泰龍氏その他との遣り取りも存在すると云う。萩原氏は、事件当初より石川被告の無実を信じ、「国家権力による部落民にたいする差別的デッチあげ」であるとして弾劾してきた人物である。朝田氏は、周知のとおり部落解放同盟の委員長その人である。ここでは、二人への手紙の内容を順不同ながら経過順に再構成して紹介しておく。

 石川被告の「自供」に至る伏線として次のような経緯があった。石川氏は頑強に否定し続けていた。「(逮捕より)丸一ヵ月の間、嘘発見器にもかけられたり、検事が雑談のなかで殺人事件の犯人は何人ぐらいだろうと様子をうかがったり、入れ代わり立ち替わりの調べ官の緩急自在な威し、甘言などで疲労困憊にあった」と記している。

 捜査側は思惑通りに事が運ばず手を焼いたようで、「許されざる手法としてのあの手この手」を駆使している。その一つが「騙り弁護人との面会」であり「騙り市長との面会」である。次のように記されている。

 警察がニセの弁護士をさしむけたことを次のように暴露している。
 概要「それは私が再逮捕される前の6.2日頃のことで、狭山署にいる時。『お前に弁護士があいに来たから次の部屋で会ってこい』と言われ接見する。その人が優しそうな声で『私は、石川君、あなたのために弁護をまかされた者です。私たち弁護人はみんな石川君の味方なのですよ、依頼人の秘密は絶対に守りますから、何でも話してくださってもかまいません。良いこと、悪いことも石川君のためになるように計るのが私の役目なのです』、『聞くところによると、中田善枝さんが殺された当日に、石川君が東島君(狭山市柏原・部落出身で、私の友人)と一緒に花嫁学校(通称「山学校」)付近にいるのを見たと届けた人がいるそうだが、その人がまさか嘘をついているとも思えないし、石川君たちは善枝さんと会うまでは学校のどのへんにいたのですか、それにもし善枝さんを殺しているのでしたら、その対策をかんがえなくてはなりませんので、戸外に絶対漏らしませんから話してくれませんか』などと言われた。私に殺してもいない善枝さんのことをひつこく聞こうとするので、私もいやになり、『私は殺していません』と、はっきりと申し上げた」。石川被告は後に中田弁護人が付く事になるが、当然「まったく知らない」人物であった、と云う。これが「弁護人不信を抱く遠因の一つにもなった」。

 警察は、ニセの市長までつかった」ことを次のように暴露している。
 概要「その二、三日後に、こんどは『狭山市長の石川求助』と名乗る人が私に会いにきた。30分ぐらいにわたって、『あたくしは石川君と同じ石川という姓で、名前は求助といい、狭山市の市長を務めている者です。石川君が中田善枝さん殺しの容疑で逮捕され、善枝さんを殺しているのに、未だ自白していないようなことを新聞で読んだが、もし善枝さんを殺しているのなら、私からお父さんや家の人たちによく話してあげましょう。私は市長だから、決して石川君の不利になるようなことはしません、だから話してくれまいか』などと言われた。私は、『自分で犯した悪事は全部警察の人に話してしまっており、これ以上は何もしていませんし、ましてや善枝さんなどは殺してなんかおりません』と、はっきりと申し上げたら、『本当に石川君は殺していないのですか』と、念を押して帰っていったのです」。ところで、後日判明するところによると、これも偽市長であった。「ですから、私に会いにきた人も、実は市長と偽って私の心のなかをさぐりにきた警察の手先だったのです」。

 そういう「騙り弁護士事件」の後、石川被告の父親の依頼を受け中田弁護人が面会に来ている。しかし、いきなり不信感を植え付けられることになる。次のように述べている。「中田弁護人が6.1日頃狭山署に訪ねてきて、6.18日に裁判が開かれるということを教えて下さったのであります」。石川被告は、「裁判所というところは、正しい人のために味方になってくれ、力になってくれる所だという印象があり」この裁判に相当の期待をしていたが、告知されていた日の前日の17日に概要「中田善枝さん殺しとしての容疑で逮捕状が出て再逮捕され、狭山署から川越署に移されてしまった」、「つぎの日の18日がきても、開かれる予定だった裁判は、ついに開かれずじまいに終わった」。「その裁判に私は期待していただけに、弁護人のいい加減な言葉を恨めしくさえ思っていた」と記している。中田弁護人に対するこの当初の不信がトラウマになっていくことになるようである。

 石川被告には別件で罪科があったようで、これが取引に使われていく事になる。これについては、「私が警察にいた時に申し上げた窃盗などの件について、ありのままを話し、また常に責められ通しであった中田善枝さん殺しの容疑についても、はっきりと私でないことを申し上げ、そのことで受けていた警察での責められ方を申し上げようと心に期していた」とある。

 こうした折に、野球仲間で「一緒に子どもたちのプレーを見守ってきた仲間のひとりとして、何らかの連帯があった」関なる人物が終始「なだめ落とし役」で介在している。「孤立無縁のなかでの私にとって、関さんが来てくれたことが、どんなに割り増しされて親しく感じられたかはおわかりいただけるものと思います」、「私にとっては地獄で仏の顔を見たように、なつかしいものとして映ったのでした」、「その間をときどき関さんが顔を見せては優しい言葉をかけてくれたり、心配している様子などを見せていましたので、まったくの恐怖のなかにある私にとって、そんなときの関さんがとても安らぐ思いであったのです」と記している。

 警察は、「自白」の強要が無理だと判断するやワナを仕掛けた。その立役者が長谷部課長と関で、このコンビプレーにより次第に追い詰められていくことになる。「私の川越署における善枝さん殺しの責めはつづき、6.23日に関さんに自白する少し前に、長谷部課長から『われわれはお前を犯人と断定している、殺しを認めるまでは一歩も出してやらん、どのみち九件もの事件があるのだから十年はでられない、どうだ、認めても全部の罪を併せても十年で出られるようにしてやる、俺は中田弁護人と違って嘘はつかん、中田弁護人は6.18日に裁判があると言っていたが嘘をついたではないか、俺は嘘をつけば警察官だから首になるんだ、だから嘘はつけん、お前もいつまでもここにいたくないだろう、十年で必ず出られるように男同士の約束をするから認めてしまえ』と言われ」、動揺し始めることになる。

「私が自白をさせられた経緯としての長谷部課長との約束、すなわち『殺人を認めれば十年でだしてやる』につきましても、それを言い出す前に『認めなければお前を殺して善枝のように埋めてしまう』と言ったり、『認めなくても、どうせ別件の悪事で十年はでられない』などと、あらゆる言葉を使って私の恐怖心をつのらせるようにしていたのです」とも記している。

 次第に石川氏の抵抗気力が萎え始め、「私も長谷部課長の言葉のように約束してもらえると思い、どうせ認めなくても十年は出られないなら、認めることによっていまの責め苦から解放されて楽になりたいと思い、関さんに『三人でやった』」と認めたのでした」と記している。こうして石川被告は、「長谷部との男同士の約束」を信じ、関源三による「情け」に落とされ、これが警察によって仕組まれたものであることを知らずに仕掛けられたワナに陥った。後に、「見事に、警察のワナに陥ってしまった自分の無知を恨みました」と悔やむことになる。

 こうして、「三人でやった」と認めるや、「他の二人はどこに住んでいるのかと聞かれ」、「いい加減に『入曽と入間川』と答えましたら、『わしもその入曽の人が石川君がつかまる前から臭いと思っていたし、課長さんたちきっと石川君が犯人だなんて思っていないと思う。石川君が法廷に出ているときに捕まえるのではないかな』などと私の方こそびっくりすることを言うのでした。もしかしたら真犯人を警察ではすでに知っているのかと思ったほどでした」。

「その後の調べは、もうまるでデタラメでありました。殺人を認めたのだから善枝さんの鞄などの捨て場所も知っていない訳がないと言い、私に自分の思うところの図面を書いてみろとか、狭山市の地図を前にだして、この辺を地図にしろ、とか私が書けないでいると、『死刑にされるかも知れないぞ』と言って無理やりに書かせるのでした。そして教えてもらった場所の図面を書いて渡したら、三十分ほどしたら発見されたことを電話で知らせてきたので、更にびっくりしてしまったのです。いまにして思うと、何もかも最初から発見されてあったのを、有罪にするための証拠の裏付けとして、私の自筆の図面を書かせたのだったと思うのです。時計にしても、万年筆があったという場所にしても、まったく不思議でなりません」。

「要するに、関さんは、私が厳しく責められている最中に折々顔をだし、私を心配している様子を示したりし、また『課長さんの言うとおりにした方が、石川君のため』とも教えてくれたりして、私も忍耐しきれない頃に、『どうせ“やった”と言わなくてはならないのなら、少しでも知っている関さんに言った方がいい』と思わせたのでした。それからの調べで、結局なんだかんだと脅かされながら、『独りでやった』ことにされてしまったのですが、私に図面を書かせたり、他の調書などもある程度そろったので、いままで以上に高圧的になり、私が質問されることに『わからない』と答えると、『何時までも世話をやかせると、裁判官に頼んで死刑にしてもらう』と言って脅かすのでした」。

 この間、石川被告は中田弁護人を忌避し続けていたことが明らかにされている。「6.18日に裁判が開かれる」と告知されたのに開かれなかった事が不信を生み、「『中田弁護人は私に嘘をついていた、弁護人なんて嘘つきだ』と思い込むようになってしまったのでした。そして、常に近くにいる警察官の方がより信じられるようになっていたのでした。(いまにして思えば、中田先生は、会いたくとも接見禁止などによって、いつでも自由には会えなかったのです)」と記している。

 
その後の石川被告は、「10年で出られるという約束」をひたすら信じ」、裁判による早期決着を期待し続けた。このことについて次のように記している。「さて、私は、自分がいよいよ中田善枝さん殺しの犯人として、警察で全面的に認めさせられ、男同士の約束によって『一〇年で出られる』という思いで起訴され、浦和拘置所に移され、裁判を待っていた」。

 この間、弁護人との接触を避けていた。このことについて次のように記している。「その間、裁判がはじまっても、ほとんど弁護人との親密な交渉もなく、また警察での約束事なども明らかにすることなく、警察で教えられたとおりの態度でいた」。それは何故かというと、「私は、中田弁護人が私にたいして、『嘘をついていた』ということにとてもこだわり、腹を立て、警察でもさんざんに中田弁護人のことを悪く言われたので、なぜか会うことも嫌で、浦和拘置所に移されてから10数回の面会がありましたが、いつも短い時間で帰ってもらうように仕向けていました。弁護人と会うときは拘置所の職員の立ち会いがありませんので、私は面会所に行く途中で、係の職員の人に『弁護人とはあまり会っていたくないから、できるだけ早く帰るように伝えてください』」と頼んだ程でしたが、『われわれは弁護人に早く帰れなどと言うことはできない、あいたくない時は石川君から言えばいい』と言われてしまったのでした」ほどであった、と云う。

 「そのようにして、私は弁護人を避けていたのでしたが、裁判においても、また嘘の自白を一審の終わりまで維持しつづけるのに、何ひとつも弁護人と相談しなかったのも、このままにしていれば、長谷部課長との約束の通り10年で出られるのに、なまじ弁護人に警察での約束を話してしまえば、どんなことから裁判が崩れてしまうかわからないという恐れを抱いておりましたし、第一、一度あれだけ期待していた裁判(六月一八日)がなくなってしまったりして、弁護人にたいする不信感もありましたので、じっとこのまま自分の殻に閉じこもっていた方が、自分自身のためであると思っていたのでした」。

 概要「しかし、このことが結果的に私の立場を現在の窮地に追い込む最大の原因となってしまった訳であります。(弁護人が)『嘘をついていた』と思い込んでいた裁判は、検察と警察の都合で一方的に中止させられたのであり、中田弁護人の責任ではまったくなかったのでありましたが、それが当時の私にはわからず、ただ警察の言う言葉をそのまま信じ、一途に弁護人にたいする不信感を抱きつづけていたのでした」。


 石川被告が所定の法的手続きを進行させている間中、拘置所の担当看守、教育課長、教戒師がこぞって「取引成就」の協力人と化していた。拘置所での石川さんの担当看守であった森脇は、六法全書のような本をめくっては、「一〇年で出所できる」と石川さんに言聞かせ、拘置所の教育課長や教戒師は、「裁判のあいだじゅうは、一から十まで数を数えていたらいいのだ」と教えていた。しかも、ていねいに石川さんに法廷までつきそってきた看守が、公判が終わるたびに「今日は一から十まで、何回数えたのか」と質問していた、と云う。

 しかし、房仲間から「お前は騙されている」と教えられ、「いったい誰を信じたらよいのかわからなくなった」。そして遂に、「最後の頼みの綱である裁判所の判事さんに直接、私が犯人でないことを申し上げる以外にないと思うようになり、第二審の最初の公判廷で、事前に誰とも相談せず、自分の考えだけで、手をあげて無罪を訴えたのでありました」。

 この時の様子を解説すれば次のようであった。1964.9.10日、久永裁判長のもとで第二審の第一回公判が開かれたが、弁護人による控訴趣意説明が終わるや否や、石川さんが突然立ち上がり、裁判長の制止にもかかわらず、「俺は善枝さんを殺していない。このことはまだ弁護士さんにも話していない」と発言した。久永裁判長はびっくりして「なになに、中田善枝を殺していない、いま何を言ったのか、もういっぺん言ってみろ」と聞き返した。この間、検事はうつむいて顔色はなく、三人の弁護団もあっけにとられ、満員の傍聴席は、あぜんとして息をのみ、やがてためいきのようなざわめきが生じた、と伝えられている。

 
石川氏は、1966(昭和41).11.22日の萩原氏への手紙「内田武文、長谷部、関源三を死刑に!」で次のように述べている。「私は、『死刑』を言い渡されたとき、善枝さんを殺していないことを即座に訴えれば良かったのですが、長谷部課長さんが『10年で出してやる』と約束までしていたので『まさか』と思いましたし、長谷部さんは裁判長よりエライ方だと思っていたので、必ず10年で出してくれるものと信じておりました」。

「内田武文は、私が中田善枝さんを殺していないことを知っていて、検察とグルになって裏で小細工して、いかにも私の『自供』にもとづいて何でも見つかったように見せ掛けたことがバレてしまったのです。また、私は、川越署では、口ではあらわせない程のひどいめにあいました」、「内田武文を絞首台にあげてください。また、長谷部(警視)、関(巡査部長)の両人も死刑にしてもらいます」。ちなみに関なる者は、石川被告が第二審で無実を主張し始めるや手のひらを返したように面会にもこなくなり、手紙もださなくなっている。

【重要参考人の一人が電車に轢かれて死亡】
 1966(昭和41).10.24日、事件当時、スコップが盗まれた石田養豚場に勤めていて、養豚場経営者である石田一義の兄・石田登利造が、西武線入曽駅近くの踏切りで電車に轢かれて死亡した。登利造は捜査本部の参考者リストに載っていた。警察は自殺と断定した。

【救援会が結成される】
 事件から五年後のこの頃、日本国民救援会が、狭山事件を支援する救援会を結成している。救援会の会長となった難波英夫氏は、部落解放同盟東京都連の会長でもあり、第1回公判以来かかさず傍聴していた。「部落民へのねらいうちだ」として、捜査本部にしばしば抗議し、のちには解放同盟関東甲信越静協議会としてパンフ・狭山事件・などを発行している。

 1968.3月、「狭山事件の真相を聞く会」が、救援会中央本部の難波英夫会長(当時)をむかえて埼玉・川越市で開かれている。これが救援運動のはじまりとなった。東京での「石川一雄さんを守る会」の結成をはじめとして、埼玉、京都、大阪、兵庫などにあいついで「守る会」が組織され、公判記録の作成や弁護団活動を支えるカンパ、全国的な規模での現地調査、さらには記録映画の制作・上映など、運動は急速に発展して行った。


【救援会の「第一回現地調査」が行なわれる】
 1968.10月、いよいよ最終弁論をむかえるという時、難波氏ら有志のよびかけで「第一回現地調査」が行なわれた。参加は30余名にすぎなかったが、全参加者は裁判の重大性を痛感し、弁護団の支援と守る会結成による大衆的裁判闘争を決意した。こうして、東京での守る会結成をはじめ、埼玉・京都・大阪・兵庫などにあいついで守る会が組織され、「公判記録」の作成や弁護団活動費のカンパ、全国的規模の現地調査、さらには、「記録映画」の制作・上映など運動は急速に発展した。

【弁護団が脅迫状の筆圧痕問題を新事実として提出】
 1968.11.14日、東京高裁での第30回公判で、弁護団が脅迫状の筆圧痕問題を新事実として提出。

【「狭山差別裁判糾弾」が盛り上がり見せる】

 1960年代後半から全世界に広がったベトナム反戦運動や1966年(昭和41年)からの中国の「文化大革命」、1968年(昭和43年)のパリの「5月革命」などの時代背景の影響もあって、1969年(昭和44)1月の東大安田講堂を占拠した学生による「東大闘争」などの全国の大学で学園闘争が吹き荒れるようになった。そうした時代と狭山裁判は関わっていくことになる。

 1969(昭和44)11月、被差別部落出身学生による「狭山差別裁判糾弾」を掲げた「浦和地裁占拠闘争」に始まり、この頃から部落解放同盟が本格的に狭山裁判に乗り出すことになる。解放同盟による全国大行進が行なわれ、公正裁判要求の署名は300万人を超え、文化人や地方議員による公正裁判を求める声明・決議が相次いで出された。

 1970(昭和45)12.3日、部落解放同盟中央本部が『狭山差別裁判』を発行。


【部落解放同盟が狭山事件支援の特別決議を採択】

 1969.3月、「解放同盟」(部落解放同盟)の第24回全国大会で、狭山事件支援の特別決議を採択し、組織を挙げての取り組みを指針させた。「解放同盟」は、狭山事件の本質を「差別裁判」と規定し、以降組織を挙げて取り組みことになった。

 しかし、この頃「解放同盟」と泥沼の抗争に突入していた日共はこの「差別裁判規定」に反発し、救援闘争にも陰が差し込み始めることになる。


【「狭山差別裁判に対する公正裁判要求、石川一雄氏の即時釈放を求める百万人署名」運動が始まる】

 1971.5.29日、「石川被告は冤罪であり、警察・マスコミの差別報道の中で冤罪が生み出されてしまった」との観点から、「狭山差別裁判に対する公正裁判要求、石川一雄氏の即時釈放を求める百万人署名」運動が始まる。


弁護団が石川の無実を裏付ける「6つの鑑定書」を提出
 1972(昭和47)7.27日、弁護団が石川の無実を裏付ける「6つの鑑定書」を提出。

【裁判長の次から次への交代】
 11.28日、井波裁判長、定年退官。代わって第4刑事部の寺尾正二裁判長が担当することになった。二審の裁判長は、久永裁判長から津田正良、江崎太郎、井波七郎裁判長へ、さらに寺尾正二裁判長へと交代している。

 ちなみに、寺尾正二裁判長は1974年(昭和49).8.28日に神奈川県平塚市の団地で起きた、いわゆる「ピアノ騒音殺人事件」に東京高裁の裁判長として関わった人物である。この事件でのちに起訴された大浜松三(事件当時46歳)は1975年(昭和50).10.20日、1審の横浜地裁小田原支部で死刑判決となり、大浜は控訴を希望していなかったが、弁護人が説得して大浜に控訴趣意書を書かせた。その後の東京高裁が命じた精神鑑定では「パラノイアに罹患していて責任能力なしの状態にあった」とされたが、大浜は弁護人に相談もせずに控訴を取り下げてしまう。この控訴取り下げを有効と認める決定を下したのが寺尾正二裁判長である。(ピアノ騒音殺人事件の詳細についてはこちら

【石川被告が中田弁護士らを公然批判】

 1969年、「解放同盟」が「狭山差別裁判糾弾」と規定し、中田弁護人らを非難するにいたっても、なお、二年余にわたって石川被告と中田弁護人らの信頼関係は維持されていた。しかし、1973年にいたって、石川被告は中田弁護人らを「日共系弁護士」と公然と非難するにいたり(1973.1.15日付解放新聞)、さらに1974.4月には、中核派機関誌・武装・誌上において「三月公判に於ける弁護士の不誠意・斗魂のなさといいましょうか、勉強不足には耳をふさぎ目をそむけたくなる」と非難をエスカレートさせていった。

 このような状態の中で、中田弁譲人らが辞任。

 その3カ月後の「解同」第30回大会への訴えにおいて、石川被告は「何故一審当時から弁護活動を続けてきた日共系弁護士を、あたかも汚物を吐き出すかのごとく、切り棄ててしまったのか」として、さきの辞任声明をとりあげ、「日共系弁護士は一皮むけば、あのように破廉恥行為を平気で起こすんだ」と非難し、加えて控訴趣意書の量刑不当の論点をとらえ「私の糾弾を真正面から受止めて自己批判するのではなく、恥知らずの居直りをおこなった「中田弁護人らに厳しい糾弾がなされて当然だ」と悪罵を浴びせかけている。

 「部落解放同盟の狭山差別裁判闘争は、第一審以来献身的に尽力してきた中田弁護人らと救援会および『守る会』に非難・攻撃のほこ先が集中した。彼らは『日共・救援会の公正裁判路線粉砕』と非難し、救援会や『守る会』が行う狭山事件の学習会に押しかけ、集会を妨害するまでにエスカレートした。石川自身も彼らの誤った立場にくみして、私たちを一方的に非難、中傷することを少しも恥とせず、中田弁護人たちや救援会・『守る会』の支援運動に攻撃のほこ先をむけてきた」(狭山事件と救援会)とある。


【石川被告の最終意見陳述
 第二審の石川さんによる最終意見陳述は次の通り。
「部落民の私を犠牲に選んで、権力の威信回復をはかろうとした、まさに天人ともに 許されない悪逆非道なやり方に鋭く批判をくわえ、国家権力の自己批判を迫る」、「完全無罪判決を受けるのは当然のこととしても、私は加害者としての国家権力に何らかの制裁がくわえられないのは不合理だと思います。もちろん、実際問題として、私が無罪になっても、私に一審死刑を科した判事(内田武文)には法律によって罰することがかないません」、「しかし、これは私にかぎらず、あの真昼の暗黒で有名な八海事件にせよ、二転三転 と死から生、生から死へと振り回され、結局無罪が確定したものの、その過程で死を 科した判事たちは、かりにあのまま被告人の精神がくじけてしまって、刑が確定していたら、法律による完全な殺人事件が成立してしまうことになり、いくら法律の名のもとに決定したとは申せ、その宣告した判事は殺人者に違いないのであります」。

【新左翼が狭山闘争東京高裁長官室に乱入】

 1974.2.29日、「中核派」、「反帝学評」などが「日帝寺尾体制打倒」、「石川青年奪還」を叫んで、二審判決の前々日、5名が東京高裁長官室に乱入、長官ら3名に鉄パイプでなぐりかかるという事件を起こしている(74.10.30付朝日新聞)。


【「寺尾判決」下される】

 1974.10.31日、第2審東京高裁(寺尾正二裁判長)は、石川と弁護団の「被告は無実である。自供は全て、警察の誘導によって造り上げられたものだ」という主張をことごとく斥けて、減刑したものの無期懲役の判決を言い渡す(寺尾判決)。石川さん・弁護団、最高裁判所へ即日上告


1975.1.11日付け赤旗論文「『一般刑事事件』民主的運動」から始まる日共の露骨な反動化
 日共は、1975.1.11日付赤旗論文「『一般刑事事件』民主的運動」を掲載している。概要「左翼的装いをこらした反共暴力の犠牲者に対する救援、彼らの暴力から国民の生命と人権を守る活動が、新しい救援運動の重要な課題になっている」という逆さま観点を打ち出し、狭山事件を1974.10月末の東京高裁による有罪判決を論拠として一般刑事事件の問題とした上で、その救援活動及び政党の取り組みに次のような批判を加えた。まさに日共の反動性を証左する格好標本足りえている。以下、宮顕−不破指導による解放運動理論の反動的歪曲考参照の事。

救援会および「守る会」が狭山事件の支援運動から撤退する
 第二審判決後の1975.2月中旬、中田主任弁護人ら7名は、「石川君自身が、反共・反民主主義的破壊活動をこととする部落解放同盟朝田派の立場にくみし、私たちを一方的に非難することを少しも恥としなくなった以上、石川君の弁護人となることによって、その誤った立場をともにすることは、もはや私たちにはできません」と声明して、弁護人を辞任した。これを受けて救援会および「守る会」は、狭山事件の支援運動から撤退した。

【再審請求の経過その1】
 1976(昭和51)1月28日、弁護団が最高裁へ上告趣意書を提出。

 1976.5.23日、石川さんの不当逮捕13年に抗議して、各地で同盟休校をはじめとした闘いがおこなわれる。

 1976.9.17日、有罪判決の報復として、寺尾正二裁判長の出勤途上を四谷で待ち伏せし、五人組がバットで乗用車後部のガラスをたたきわり、頭、腕などに負傷させた(76.9.17日付朝日新聞)。

【再審請求の経過その2】
 1977(昭和52).8.9日、最高裁判所(第2小法廷)、口頭弁論もおこなわずに上告棄却の決定をし、無期懲役刑が確定した。

 同年8.11日、石川被告及び弁護団が最高裁判所へ異議申し立て。8.16日、最高裁判所が異議申し立てを却下(15日付)。原判決の無期懲役が確定。

 同年8.23日、調査官宅に時限式爆燃物、杉並駐在所、狭山・西宮・広島の派出所に放火し、中核派は記者会見で同派の犯行を認めている(77.8.23日付朝日新聞)。

 同年8.30日、石川さん・弁護団、東京高等裁判所へ第1次再審請求を申し立て。一度も証拠の事実調べもなく上告棄却される。

 9.8日、石川被告が千葉刑務所に収監された。弁護団は東京高裁に「再審」を申し立て、第四刑事部山本裁判長らによって審理されることになった。

 10.4日、中田さんの次兄のKが首吊り自殺した。自分の中華料理店の経営不振が原因だと言われたが・・・。

 1979(昭和54).4.11日〜27日、息子の無実を訴え、両親の石川富造(当時81歳)、リイ(当時73歳)、全国行脚。

 1980(昭和55).2.7日、東京高等裁判所、再審請求棄却の決定。2.12日東京高裁へ異議申し立てをおこなう。

 1981.3.25日、東京高裁、事実調べを一切おこなわず異議申し立てを棄却。

 3.30日、石川さん・弁護団、最高裁判所へ特別抗告。

 10.31日、最高裁に特別抗告補充書を提出。

 1983(昭和58).10.31日、弁護団が最終の鑑定書、補充書を最高裁に提出。12.15日、和島岩吉弁護士が申し立て書補充書を最高裁に提出。

 1984(昭和59).7.14日、石川富造、最高裁へ出向き、息子の無実を訴える。

 1985(昭和60).5.28日、最高裁判所第2小法廷、第1次再審請求の特別抗告を棄却する。11.23日、父親の石川富造が死去(享年87歳)。

 1986(昭和61).4.5日、姉の石川よねが死去(享年62歳)。

 1986(昭和61).8.21日、東京高等裁判所第4刑事部へ第2次再審請求(小名木さんの新供述、筆跡鑑定など提出)。

 11.12日、家宅捜索にかかわる元刑事7人の新証言(鴨居に万年筆はなかった)。12.5日、東京高検に証拠開示請求。12.18日、4通の筆跡鑑定、浜田意見書提出。

 1987年(昭和62).3.28日、母親の石川リイが死去(享年81歳)。

 1988.9.2日、東京高検が中田さんの遺体が埋められていた穴芋のルミノール反応検査報告書を証拠開示。(芋穴に血痕反応はなかった)その他の証拠は開示を拒否。

 1990.12.20日、再審請求補充書(総合的補充書)を提出。

 1991年(平成3).8.20日、81人の法学者が事実調べを求める署名を東京高裁に提出。10月〜翌1992年(平成4)、社会党国会議員が千葉刑務所と法務省に対し、仮出獄連続要請行動。1993年(平成5).3.15日、弁護団が意見書を提出。5.14日、殺害方法についての法医学鑑定書、筆跡に関する調査報告書、自白の信用性などについての意見書追加書面を提出。

【石川被告、仮出獄果たす】
 1994(平成6).12.21日、石川氏は第2次再審請求中のまま31年7ヶ月ぶりに仮出獄、仮釈放を果たす。石川被告は、一審判決「死刑」、二審「無期懲役」の判決によって平成6年12月の仮釈放になるまでの実に31年7ヶ月間を獄中で過ごす事を余儀なくされたことになる。

 その後、 狭山事件の
真相と公正な裁判を求める ための訴えに全国を廻る。

石川被告仮出獄後の「狭山闘争」
 1996年(平成8).7月、仮釈放された石川氏が、徳島市で開かれた交流集会へ参加し、徳島でながく狭山を支援してきた後に妻となる早智子さんと知り合う。

 同年8.21日、IMADR(反差別国際運動)が国連人権小委員会で狭山事件の証拠開示を訴える。

 同年12.21日、石川被告が、早智子さんと結婚。以来、夫婦二人三脚で冤罪を訴え続けている。

 1997年(平成9).2.18日、弁護団が追加意見書(筆跡)を東京高裁に提出。

 1998年(平成10).11.6日、国際人権規約委員会が「弁護側がすべての証拠にアクセスできるよう、法律および実務を改めること」を日本政府に勧告した。12.8日、指紋に関する元警察鑑識課員の鑑定書を提出。

 1999年(平成11).3.23日、弁護団が東京高検の検察官と証拠開示について折衝。多数の未開示証拠と証拠リストが存在することを確認。証拠リストを求める書面を提出。指紋についての鑑定人尋問、鴨居の検証を求める書面を提出。6.10日、東京高検の亀井検事と証拠開示について折衝。東京高裁に斎藤鑑定を提出。

 6.23日、東京高裁第4刑事部の高木俊夫裁判長と面会。事実調べと証拠開示の勧告を求める。

 
東京高裁第4刑事部の高木俊夫裁判長は1997年(平成9年)3月19日に東京・渋谷で東京電力のエリートOLの遺体が発見された事件の控訴審で裁判長として関わった人物である。この事件ではネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリが逮捕・起訴されたが、2000年(平成12年)4月14日、東京地裁で無罪判決となった。刑事訴訟法345条には無罪となった場合は勾留は失効されるとされており、ゴビンダは不法滞在により本国へ強制送還されるはずであった。だが、検察は再勾留を要請し、東京地裁と東京高裁第5特別部は再勾留を認めなかったが、5月8日、東京高裁第4刑事部(高木俊夫裁判長)が再勾留を決定した。その後、第4刑事部で控訴審が開始され、12月22日、東京高裁の高木俊夫裁判長は決定的証拠が何ひとつないにもかかわらず、ゴビンダに無期懲役を言い渡した。即日、弁護側は上告した。東電OL殺人事件の詳細についてはこちら

 7.7日、東京高裁第4刑事部の高木裁判長が事実調べを行わず、再審請求棄却。

 1999.7.9日、東京高裁・高木裁判長は、事実調べも行なわないままに抜き打ち的に再審請求を棄却する。この不当な棄却決定に対し、7.12日、弁護団は直ちに東京高裁に異議申立をおこなう。

 2000年(平成12).3.31日、異議申立補充書・新証拠を提出。

 5.22日、この日の朝日新聞の朝刊に、「狭山事件の再審を求める文化人の会」による意見広告が掲載された。その意見広告の内容は、脅迫状とそれを手本に石川一雄が書かされたものを並べて、脅迫状が石川の手によるものか、問答式で読者に考えてもらうものであった。

 2002(平成14).1.23日、東京高裁第5刑事部の高橋裁判長が突如として「再審は開始しない」と述べ、異議申し立て棄却決定を下す。2002.1.29日石川被告と弁護団は、ただちに最高裁に特別抗告をおこなう。「再審が開始されるまで何十年かかっても闘い抜く」と声明を発表。

 東京高裁第5刑事部には2001年(平成13年)5月19日に14歳の少女に現金を渡してみだらな行為をしたとして児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いで警視庁に逮捕された東京都中野区の村木保裕判事(当時43歳)が所属していた。蒲田(かまた)署の調べでは村木は同年1月20日午後4時10分ごろから午後6時ごろまでの間、川崎市川崎区内のホテルで少女が18歳未満であることを知りながら現金2万円を渡してみだらな行為をした疑いがあった。のちに、同年4月にもカラオケボックスやホテルで15歳と16歳の少女の体に触っていたことが判明する。村木は1983年(昭和58年)に司法試験に合格し、山口地裁・家裁判事や津地裁・家裁判事、東京地裁判事を経て2001年(平成13年)4月から東京高裁刑事5部の判事に就任している。村木は逮捕後、少女買春の言い訳として「仕事のストレス」をあげたが、「仕事」の中には狭山裁判の異議申し立ての書類を見ることもあったと思われる。同年7月23日、東京地裁で初公判が開かれ、山室恵裁判長は被告への補充質問で、12年後輩の村木判事を睨みつけ、「言葉は悪いが、単なるロリコン、単なるスケベおやじだったのではないのか」と言い、公判の最後には「日本の司法の歴史の中でとんでもないことをしたというのは分かってますな」と問いかけた。とっさに何度も頭を下げる村木判事に向かって、「まさかこういうことで裁判官を裁くとは思っていなかったよ」と吐き棄てるように言った。検察側は「家裁の併任勤務が長いにもかかわらず、少年の保護を担う責務と反した」と厳しく指摘し、懲役2年を求刑し結審した。8月27日、東京地裁は懲役2年・執行猶予5年を言い渡した。11月28日、裁判官弾劾裁判所は村木に対し罷免を言い渡した。不服申し立てはできず罷免が確定。村木は法曹資格を失い、5年間は資格回復を求めることができない。裁判官の罷免は20年ぶりで5人目。

 2006.5.23日、第3次再審請求。

 2019.5.23日、3千人収容の日比谷野外音楽堂で、狭山事件再審を求める集会が開催される。




(私論.私見)