狭山事件史1、事件発生とその後の経緯

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).6.7日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 では、狭山事件というのはどういう事件なのか、以下考察する。狭山事件の概要は、「冤罪狭山事件」、狭山事件「狭山事件とは?」「狭山事件」に詳しい。れんだいこなりに要約すれば次のようになる。「」とする。

 2008.9.23日 れんだいこ拝


【狭山事件発生】
 この年、3月に東京都台東区で幼児吉展ちゃん誘拐事件が発生し、警視庁は身代金を取りに来た犯人を取り逃がしていた(「吉展ちゃん事件」)。マスコミは連日のように捜査状況を大きく取り上げていたが事件は解決せず、警察の威信が落ち、批判は日増しに強まっていた。これが狭山事件の前提となっている。

 1963(昭和38).5.1日、埼玉県狭山市で中田家の川越高校入間川分校の1年女学生の善枝(当時16)さんが下校途中行方不明になり、その夜20万円を要求する脅迫状が届けられるという事件が発生した。この日は善枝さんの16歳の誕生日でもあった。中田さんは当日午後3時半ごろ、「今日は(私の16歳の)誕生日だから」などと友人らに言い残して、いつもよりも早く自転車で下校している。これが狭山事件の謎の一つである。中田さんがはなぜ帰宅を早めたのか。そこにどういう理由があったのか。

 この日は午後2時ごろから小雨が降ったりやんだりしていたが、午後4時20分ごろから本降りになった。中田さんは午後6時過ぎになっても帰宅しなかった。午後6時50分ごろ、中田さんが帰宅しないのを心配した善枝の長兄の健治(当時25歳)が自動車で探しに行った。だが、見つけることができず、午後7時半ごろ帰宅した。

【脅迫状】
 午後7時40分ごろ、20万円を要求する内容の脅迫状が届けられる。脅迫状と一緒に中田さんの高校の身分証明書が封筒に入れられて、玄関のガラス戸に差し込まれているのを健治が発見した。「脅迫状」の文字はきわめて特徴的な筆跡で、大学ノートを破いた用紙に、横書きで書かれていた。

 脅迫状の文面は以下のように記されていた。

少時様  このかみにツツんでこい

 子供の命がほ知かたら4月29日の夜12時に、

五月2日

 金二十万円女の人がもツての門のところにいろ。

さのヤ

 友だちが車出いくからその人にわたせ。

 時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。ー

 刑札には名知たら小供は死。

 もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら

 子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。

 もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら

 子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける、

 くりか江す 刑札にはなすな。

 気んじょの人にもはなすな

   子供死出死まう。

 もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら

 そのままかえてきて、こどもわころしてヤる。

 文面には、@・子どもを誘拐したこと、A・子どもの命が欲しかったら、5.2日夜12時(3日午前0時)、佐野屋という酒屋の前に20万円の金を持ってくること、B・金は友たぢが車で行くからその人に渡せ、C・もし警察に話したら子どもを殺す、という意味のことが書かれていた。

 脅迫状が入っていた封筒の宛名は、<少時様中田江さく>になっていた。中田栄作は善枝の父親である。脅迫状と封筒にある「取り消し線」は1本ではなく、何本も引かれてあったが、取り消された文字が判読できるものであった。冒頭部の「少時様」が消されており、「4月29日」が消されて、その文字の下に「五月2日」、「前」が消されてその文字の下に「さのヤ」、封筒の「少時様」が消されて「中田江さく」にそれぞれ訂正されている。


 この脅迫状の文字の使用について特徴をあげると次のようになる。

(1)  「つ」を「ツ」、「や」を「ヤ」というようにいくつかのひらがなに対しカタカナが使用されている。また、「ツ」については、「もって」(持って)を「もツて」、「いって」(行って)を「いツて」、「かえって」(帰って)を「かえツて」というように、本来、促音(小さい「っ」)を用いるべきところも同じように「ツ」としている。
(2)  「し」を「知」、「で」を「出」、「な」を「名」、「え」を「江」、「き」を「気」、「し」を「死」というようにいくつかのひらがなに対して漢字が使用されている。
(3)  「知」→「し」→「死」→「し」、「な」→「名」→「な」、「江」→「え」→「江」→「え」というようにひらがなと漢字が混じって使用されている。
(4)  「おくれたら」(遅れたら)が「をくれたら」、「子供は〜」が「子供わ〜」といった誤用が見られる。だが、「おもい」(思い)、「刑札には名知たら」(警察に話したら)とあることから「お」、「は」の文字自体は知っているようだ。
(5)  「刑札」、「小供」などのように間違った漢字が使われている。
(6)  「子供」→「小供」→「子供」というように正しい漢字の間に間違った漢字が見られる。
(7)  下から5〜3行目の「くりか江す〜子供死出死まう」は他の文に比べて大きい字で書かれている。

 この脅迫状は誤用が多いので、一見国語能力が低い人が書いたように見えるが、(3)(4)(5)(6)から推測して文字の誤用をわざとしてそれによって、「国語能力が低いように偽装した可能性」さえ窺うことが出来よう。

(私論.私見) 「脅迫状の文面」について

 犯人として逮捕された石川氏は当時、ひらがなが書ける程度で漢字の読み書きはまったくできなかったことが判明している。「その石川氏がこのような脅迫状を書けるわけがない」という見方が為されているのも首肯できるところである。


【自転車がいつの間にか返されていたことにまつわる不審】
 脅迫状を読んだ家族は、ただちに警察に通報することにした。健治が警察に通報しようと自動車に乗って駐在所に行こうとして納屋に行ってみると、自動車の脇に善枝の自転車がいつも置かれていた場所に帰されていたのが発見された。電灯を点けてみると雨に濡れた自転車のサドル部分が濡れていなかった。
(私論.私見) 「自転車に纏わる不審」について
 これらも狭山事件の謎の一つである。@・何ゆえ自転車が戻されていたのか。A・誰が戻したのか。B・自転車は何時戻されたのか。C・いつもの場所に戻されていたのは偶然か。D・「自転車のサドル部分が濡れていなかった」というのはどういうことなのか、等々不審が付きまとっている。

【身代金受渡し現場での失態】
 午後7時55分ごろ、駐在所に通報。駐在所から狭山署に連絡され狭山署・埼玉県警本部による緊急捜査体制が取られた。警察は誘拐事件と断定し、佐野屋の周辺、道路に40人の警官を張り込ませるという大型の捜査網を敷いた。中田さんの姉のTが指定された通りに翌日5.2日深夜(3日午前0時)佐野屋の前まで、20万円に見せかけた偽造紙幣(身代金に見せかけた新聞紙の束)を持って行った。辺りは真の闇であった。

 犯人は佐野屋の北側の畑の中から徒歩で現れた。警察では、脅迫状にあった「車で取りにいく」という内容を過信し田畑側は完全にノーマークだった。この時、Tさんと二言三言次のような言葉を交わしている。犯人・「おいおい、来てんのか」。登美恵・「来てますよ」。犯人・ 「警察に話したんべ。そこに2人いるじゃねえか」。登美恵・ 「1人で来てるから、ここまでいらっしゃいよ」。

 この遣り取りに拠れば、犯人は張り込みに気づいていたことになる。犯人は身代金を取らずに逃走した。しかも警察官40人の張り込みの中を首尾よく逃走している。これを警察から見れば、完全包囲しておきながら目と鼻の先にいた犯人を取り逃がすという大失態を演じたことになる。犯人が逃走してから、慌てて追いかけた拙さと、犯人が地理を知り抜いていた両方の理由でかくなる事態となった。
(私論.私見) 「犯人の声」について
 中田さんの姉と犯人の会話は約10分間に渡って続いている。佐野屋に張り込んでいた刑事たちは、この会話を聞いているが、犯人の声は40〜50歳と証言している。ところが、後に逮捕される石川氏は当時24歳であった。この齟齬はいかように説明されているのか。
(私論.私見) 「犯人はなぜ鉄壁の包囲網から逃げだすことが出来たのか」
 これも狭山事件の謎の一つである。犯人はなぜ鉄壁の包囲網から逃げだすことができたのか。
(私論.私見) 「犯人の足跡」について
 翌5.3日、捜査官は犯人を取り逃がした夜が明けてから現場を調べ始めた。犯人の足跡が残されたが、後に逮捕される石川氏のサイズとの整合性はどうなのか。詳細は明らかでないが、「かなりないし全く異なっている」ことが判明している。

【犯人の逃走経路捜索】
 犯人の足跡らしきものが佐野屋の東南方向の畑に見つかり、その臭いを警察犬に追わせると不老川(としとらずがわ)という小さい川の近くまで行ってあとは分からなくなったという。そしてその足跡や臭いの跡が消えた場所から遠くないところに石田養豚場があった。警察は、犬がその近辺で臭いを追えなくなったのは犯人が石田養豚場の者だからでは無かろうかと推定した。経営者の石田一義やその家族、従業員は狭山市内の被差別部落の出身者であった。
(私論.私見) 「石田養豚場の線が洗われていくことになった因果関係」について
 こうして、石田養豚場の線が洗われていくが、この段階から狭山事件は部落差別問題と関わりを持ち始めるようになる。これも狭山事件の謎の一つである。石田養豚場疑惑には必然性があったのか、なかったのか。

【遺体発見される】
 5.4日午前10時半、地元民の協力を得て中田さんの捜索活動を続けていた捜査班本部は、付近の入間川沿いの雑木林から麦畑に出たところの農道に埋められている死体を発見した。遺体には強姦殺害された痕跡が認められ、遺体を埋めた穴は縦166センチ、横88センチ、深さ86センチであった。

 遺体は次のような特徴を見せていた。
中田さんはうつぶせの状態になっていた。
セーラー服は着たままでスカートはまくられ、ズロースがひざまで引き降ろされていた。
中田さんの膣内には性交渉の跡が認められた。残留精液はB型だった。
<月島食品工業の月印テーブルマーガリン>と印刷してあるタオルで目隠しがしてあり、顔の下にはビニール片が1枚敷いてあった。
両手は後ろ手に手拭いで縛られていた。手拭いは五十子米穀店が宣伝用に配ったものであった。
頭の上には縦20センチ、横16センチ、高さ13センチ、重さが6.6キロの玉石が置かれていた。
両足は靴をはき、靴下はきれいだった。首と足首は細引きで縛ってあった。その縛り方はアメリカのカウボーイが投げ縄に使うような「すごき結び」で絞められていた。
その細引きの端にはビニール風呂敷の端が結びつけてあった。
そしてその両端の切れたビニール風呂敷がその遺体発見場所から20メートル離れた芋穴の底に置かれていた。
10 足首を縛っていた細引きには荒縄が結びつけられてあった。荒縄は4本に分かれていて1番長いのが6メートル90センチ、次が6メートル75センチ、5メートル58センチ、4メートル80センチとなっていた。

 同日の夜、中田宅で司法解剖された。判明している事は、中田さんの死体は、雨の中を雨具も持たずに自転車に乗っていたはずなのに、ほとんど水に濡れていなかった。また、検死の結果、胃の内容物に学校の昼食には出ていないトマトの残留が認められた。
(私論.私見) 「中田さんの遺体の様子」について
 中田さんの遺体には弔いの様子が認められる。これも狭山事件の謎の一つである。犯人は何らかの形で中田さんと顔見知りではないのか。なお、中田さんの遺体が当時雨天であったにも拘らず「ほとんど濡れていなかった」とはどういうことであろうか。

【警察の失態が批判される】
 犯人を取り逃がし、中田さんが遺体となって発見されたことにより、警察の面目まるつぶれとなった。マスコミにより「警察の失態」が大きくクローズアップされ、世論の非難が煽られた。埼玉県警及び狭山署は、同年3月の吉展ちゃん誘拐事件のこともあり、異様な緊張感に包まれて捜査を開始する。この問題で柏村警察庁長官が4日、辞表を提出するという展開となった。

 誘拐事件で真犯人取り逃がしを立て続けて演じた警察の失態は、おりから開会中だった国会でも取り上げられた。野党は政府全体の責任を厳しく追求し、マスコミなど世論もごうごうたる非難を集中した。中田さんの遺体が発見された5.4日、警察庁の柏村信雄警察庁長官が引責辞任した。

【「警察の威信にかけて早期解決」が至上命題となる】
 時の国家公安委員・長篠田国務大臣は、国会での答弁で「この事件は警察の威信にかけて早期に解決する」と確約する。そして埼玉県警に対して、「5.8日日の参議院本会議までに真犯人を逮捕せよ」と厳命する。

 埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させ、強引な捜査を展開していくことになる。上田明埼玉県警本部長は「犯人は必ず土地の者だという確信をもった。近いうちにも事件を解決できるかもしれない」と言い、中勲(なかいさお)捜査本部長も「犯人は土地カンがあることは今までの捜査でハッキリしている。近日中にも事件を解決したい」と強気の発言をした。

【奥富容疑者の自殺】
 5.6日、任意で取り調べた「関係者」(運送会社従業員の奥富玄ニ、当時31歳)に自殺されるという、取り返しのつかない失態まで犯す。奥富は農薬を飲み、井戸に投身自殺した。これも狭山事件の謎の一つである。重要参考人奥富氏はなぜ自殺したのか。厳しい取調べが原因なのか、他の事情があったのか。

 奥富は中田家に住み込みで働いていたこともあり、中田さんと交際があった。奥富氏の住居は遺体発見現場のすぐ近くで、事件当日、運送会社を早退してからのアリバイは不明だった。血液型はB型で、中田さんの膣内残留液の血液型と一致していた。奥富氏は翌日に自分の結婚式を控えていたが、中田さんの誕生日祝いで待ち合わせした可能性が大きい。何らかのトラブルがあったことも考えられる。

【国家公安委員長が「生きた犯人を捕まえよ」と檄を飛ばす】
 そういう重要人物の奥富氏が自殺したことで、当初の捜査は全く行き詰まってしまう。ところが何と、篠田弘作国家公安委員長が、緊急記者会見で記者団に対して「死んだ犯人には用はない。必ず生きた犯人を捕まてみせる」(「犯人に死なれてはたまらない。必ず生きたまま捕らえる」)と宣言する。

 5.7日、捜査本部は、奥富自殺後1日しか経っていなかったが、「奥富玄ニにはアリバイがあった」と発表して奥富氏関連の捜査を打ち切った。警察は、あくまでも生きたまま犯人を捕らえることに執着した。

【「不審なスコップ」が発見される】
 5.7日午後5時ごろ、狭山市入間川東里の小麦畑で農作業をしていた人がスコップを発見した。中田さんの遺体が発見された地点から西へ124メートル離れたところだった。そこでスコップに付いていた土を調べたところ、遺体を埋めた地点の土と同じものという鑑定結果が出たことから遺体を埋めたときに使ったスコップと認定された。

 特捜本部は、遺体の付近で発見されたスコップで死体が埋められたと判断し、スコップの出所を調査し始めたところ、このスコップは近所の石田養豚場から盗まれたもので、元来石田養豚場の所持物であると推定された。特捜本部は、石田養豚場の経営者の石田からスコップ紛失届を入手し、石田養豚場に出入りしていた部落民に対する見込み捜査を開始した。
(私論.私見) 「スコップの線からの捜索の必然性」について
 これも狭山事件の謎の一つである。スコップが遺体埋め用に使われたとの鑑定は間違いないのか。「スコップが養豚場の物であるという立証」は十分為されているのか。スコップの石田養豚場との関連には根拠があったのかなかったのかつまり石田養豚場疑惑には根拠が有ったのか。部落差別に基づく偏見による見込み捜査であったのか。

目撃証言者・田中登さんの自殺
 続いて、5.11日「市内の林で不審な3人の男を見た」との目撃証言を警察にもたらした田中登(31歳)さんが、警察の事情聴取を受けた後、包丁で心臓を突き刺して自殺する。「警察に情報提供したのに、逆に犯人扱いされた」ことを苦にして自殺したとされている。
(私論.私見) 「目撃証言者・田中登さんの自殺」について
 これも狭山事件の謎の一つである。この自殺にも不可解な点が多く、重要参考人にして目撃証言者の田中登・氏はなぜ自殺したのか。厳しい取調べが原因なのか、他の事情があったのか。

被差別部落の青年たちに捜査が絞られ始める
 「死んだ犯人に用はない。生きた犯人を逮捕せよ」なる国家公安委員長の言葉が埼玉県警の捜査の指揮に影響を与える。事件発生後3週間を経ても犯人の特定が出来ず、捜査に行き詰まった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を開始する。被差別部落の青年に的を絞った特命捜査班が組織され、狭山市内の3つの被差別部落に目をつけ、真犯人があらわれた「身代金受け渡し現場」の近くに被差別部落出身者が営む養豚場があり、そこに働く被差別部落の青年たち(石川一雄氏もその一人)に目を付ける。

 当時、被差別地区に対する偏見と露骨な差別の様子がこの事件を報道した東京新聞に次のように述べられている。「犯罪の温床―善枝さん殺しの背景―」、「善枝さんの死体が四丁目に近い麦畑で見つかったとき、狭山の人たちは異口同音に『犯人はあの区域だ』と断言した」。
(私論.私見) 「被差別部落の青年たちに捜査が絞られ始めた経緯」について
 これも狭山事件の謎の一つである。典型的な「見込み捜査」で犯人のデッチアゲが為されていくことになったことになる。犯人は被差別部落の出身という推定と石田養豚場との関連には相互に根拠があったのかなかったのか。




(私論.私見)