人権運動内の言語規制「言葉狩り」の動きについて

 (最新見直し2009.12.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 1975(昭和50).5月、日本放送作家組合をはじめ関係8団体の主催による「用語と差別を考えるシンポジウム」が開催され、「差別用語問題は、部落差別や心身障害者への差別をなくする行動と言論表現の自由との接点にわたる問題であり、二者択一・特定の考え方で割り切れるものではない」との立場から、まず何が起こっているのかの事実をタブーにせず、すべての国民の「開かれた討論の対象としなければならないこと、国民の知らないところで「言葉狩り」や言論統制にちかい措置がすすめられることは、人権を守り尊重する運動とは相容れないことなどが明らかにされた。

 しかし、1993(平成5).9月、作家の筒井康隆氏が、「てんかん」という用語の使用について日本てんかん協会から抗議をうけた。筒井氏は逆に抗議して「断筆宣言」をするという事件が発生した。「差別用語と言葉狩り」を廻って暗闘が継続していることが露呈した。

 2007.7.14日再編集 れんだいこ拝

【いわゆる「差別用語と言葉狩り」について】

 いつか云いたかったことを次に記す。戦後民主主義の風潮以来この間ずっと左派ないしリベラルの間では、「差別に対する贖罪運動」が為されてきた。否、運動というより風潮を醸成させてきたというのが正確かも知れない。そこには功罪があるということについて述べてみたい。近時、差別贖罪運動が、歴史的に育まれてきた言葉にまで関与し始め、いわゆる差別用語の追放領域を広げつつある。それがあきらかに無用と思われる「差別用語の自粛」ならまだ納得できる。実際には人口に膾炙している生活用語にまで及ぼうとしているからそれは行き過ぎであると誰かが云わねばなるまい。

 問題は、言葉をいくら糖衣錠でまぶしても、何ら差別の解消にはならないということではなかろうか。腹の底が見えない見かけの言葉の優しさがそれほど要求されているのだろうか。いわゆる差別なくせ運動を言葉狩りに向かって行ったのは、運動主体がそうリードしたのか、受け入れる側がそちらにミスリードさせたのか、双方一体となって向かったのか由来は分からない。

 一般に「差別意識」の根は深く、エリート意識との裏合せの関係にあり、人間性そのものに内在しているものではないのか、というのがれんだいこ観点である。歴史的系譜を見るならば人類の始まりとともに発生しているのではなかろうか。メンタルな面では、差別意識は誰にでもあり、時には発奮の材料になったりもする。当然被差別者間にもあり、というより、観点を変えれば差別者が差別されていたり、その逆があったりの中で人は生活しているのではなかろうか。つまり、「認識上の識別」を「社会的な差別」にまで至らせないよう、どう合理化し関係付けるのかに叡智と工夫がいる厄介な問題なのではなかろうか。そこを見ずに、片や潔癖の無差別人士、片や憎き差別人士という見立て色分けによる、無差別派からの差別派に対する精神領域にまで及ぼうとするローラー運動にはウソがあるのではなかろうか。

 若い頃なら正義感で、社会に現存する諸々の差別に対してそれを批判することは良いことだしそうすべきだと思う。青年期から、老成したり顔で差別容認社会の是認を説く者の感性はいかがなものであろうかと思う。しかし、ひと年こいてくると、社会が案外と合理性で維持されている面も見えてくる。これは何もれんだいこ一人のジレンマではないのではなかろうか。若い頃の正義感を現状に埋没させない形で、より合理的な新社会秩序創造へと擦り合わせていく努力、これが目下れんだいこのテーマとなっている。

 一般に、「差別を無くせ」は言葉狩りの方に向かうべきだろうか、れんだいこは逆ではないかと思っている。例えば、部落、外国人、身体障害者、精神障害者等々種を拾い出したらきりがなくなるほど差別は充満している。こうした状況下にあって、真に批判されねばならないのは「制度的な社会的差別」に対してではなかろうか。極端に云えばここに尽きるのであって、それ以上の配慮は難しいのではないかと思っている。劣性な生活環境、社会進出の機会均等に対する法的規制に対して、行政的な改善を試みることこそ本来取り組むべきことなのではなかろうか。案外と、この辺りのことが疎かにされつつあるに応じて、糖衣錠言葉運動の方に過激に向かっているのではなかろうか。れんだいこは、そういう傾向を良しとしない。

 考えてみれば分かる。どだい差別とは、ほぼ制度問題に収斂するのではなかろうか。被差別者が生きていく上で本当に困ることは、不要不当なる制度的な差別ではないのか。仮に、この問題がクリヤーされてなお精神的領域にまで差別云々と云い続けるとしたら、それは既に差別問題の常軌を越えているのではないのか。通常の労働者一般自身が呻吟させられている社会にあって、被差別者だけが突出的に差別撤廃を為しえるなぞという御めでたい社会なぞある訳ないではないか。仮に、そういう心配りの良い社会が出現したとしたら、それこそ逆差別の始まりではないのか。

 こう考えるから、言語規制の風潮を強めて善人面しようとするマスコミの風潮、世の知識紳士の優しさ傾向には断じて与し得ない。それだけ報道規制する暇があったら、その十分の一でも良いから社会にある不要不当な制度的差別の是正解消に健筆、健マイクを振るえばよいのにと思う。恐らく、出入国管理令なぞにも時代錯誤の条文が生き残っており、日本人が海外渡航の際には緩く、外国人の来日の場合には七面倒くさい手続きから始まる諸々の不公平さがあるはずである。参政権の場合は難しいが、税を支払っている以上は地方選挙辺りまでは認められるべきではなかろうか。

 ことほど左様に有害無益な方向に向けて積極的な差別なくせ運動が為され、有益無害な方向には向かわないというヘンチクリンを好むのが我が社会の正義運動の特徴であることを認識しておきたい。

 最後に付け加えておく。歴史的に定着した言語の抹殺運動は無茶である。昔の人は、ある事象を表現するのに短くして分かりやすい的確無比な用語を生み出し、それが名言なるが故に受け入れられ、今日まで続いているという歴史がある。それは我々の認識力ないしは思考活動を助けることに役立っており、これが切り替えられる場合にはそれに劣らぬ新語が用意されて初めて取り替えられるべきであろう。それを為さずに締まりのない糖衣錠言語を弄ぶなぞは民族の能力の減退に寄与することだけであろう。戦後民主主義理念の辿りついた波止場がかようなものであったとは、当時の誰が創造しえたであろうか。


Re::れんだいこのカンテラ時評636 れんだいこ 2009/12/21
 【阿久根市・竹原市長の「差別用語言論問題」考】

 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(50)が「差別用語言論問題」で騒動に追いやられているようだ。これに関して、れんだいこ見解を出しておきたい。

 れんだいこは、竹原信一市長の委細の履歴までは知らぬが、同市長が先だって市役所職員の給与明細を公開した挙については高く評価している。これについては、「公務員給与考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/komuinkyuyoco/kominkyuyoco.htm)で言及している。

 公務員給与を廻る問題提起の原資料を提起した竹原市長が今、「差別用語言論問題」で「謝罪と辞職」を要求されているとのことである。具体的にどのような状況下でどのような発言をしたのか、それを伝えると差別を助長するとの配慮でか報道されていないように見受けられる。もどかしいが、れんだいこにも分からない。分かるのは次の経緯である。

 11.8日、竹原市長は、ブログに「医師不足の原因は医師会」と題して論じる中で、医師不足問題で医師会を批判する内容を記した後、「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰(とうた)された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護施設に行く子供が増えてしまった」、「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」(原文のまま)と記載していたとのことである。全体の論調が分からないのでコメントしにくいが、現代社会の微妙な問題に土足で分け入り快刀乱麻していることが分かる。「目の不自由な人に対する差別的な発言をした」、「ブログに障害者の出生を否定するような文章を掲載した問題」とも書かれているので、この辺りも関係しているらしい。

 早速、竹原市長ブログが噛みつかれることになった。「市長という公的な立場にある者のブログとして不適切」と云うことになった。市議会で激しく追求され、「竹原市長の答弁に当惑と怒りが渦巻いた」様子である。

 2009.12.17日、竹原市長に謝罪を求める決議案が、何と市議会ではなく県議会(金子万寿夫議長)に於いて出席議員50名の全会一致で採択されている。一自治体の首長たる市長に対して県議会が非難決議するのは極めて異例なことであろう。県議会が県知事を弾劾するのなら分かる。県議会が市長を弾劾する作法が分からない。こうなるといずれ、国会が県知事や市長を弾劾する時代がやって来そうだ。

 同18日、障害がある全国の議員らでつくる「障害者の政治参加をすすめるネットワーク」(入部香代子代表、30人)が抗議に訪れ、自身が障害者である平野みどり熊本県議(51)ら3議員が代表して竹原市長と面会した。同日、竹原信一・阿久根市長の差別的記述に対する市議会の「取消と謝罪を要求する決議」が賛成11反対4で可決された。採決に先立つ討論では、決議に反対した市長派市議が市長擁護論を展開している。同日、阿久根市職労(花木伸宏委員長・200人)は、差別的記述に対する抗議声明を総務課を通じて市長に渡した。文面は、「障がいのある方の福祉を増進すべき立場を否定したもの」と非難し、「不適切な記述を直ちに削除し、真摯(しんし)な反省を持って謝罪すること求める」などとしている。これらの動きを踏まえてと思われるが、午後、ブログの問題部分は削除され、「ただいま修正中」と書き込まれた。

 興味深いことは次の問答である。12.18日の竹原市長と平野県議のやり取りで、平野県議が、「差別するつもりはなくても、相手が傷つけば差別になる」と指摘した。その後、障害者の表現をめぐる話になったらしい。竹原市長が、「めくらとか、ちんばとかいう言葉は禁止用語なのか」と述べたのであろう、平野県議が「めくらとか、ちんばとかいう言葉は今は使わない」と応えている。続いて市長は、「『めくら千人、めあき千人』との言い回しがあるが、言い古されてきたこういう表現も駄目なのか。どう言えばいいのか」と質問している。平野県議らが「差別語で傷つく人がいるから現在では使いません」、「絶対に使ってはいけない言葉。市長が、そういう表現を使うことが残念でならない」と諭したという。それに対して、竹原市長は、「言葉を制限すると文化がしぼむ」などと持論を展開した。平野県議が「『視覚障害者』と言うべきだ」などと言うと、「そういうふうに言うんですか」と答えたという。竹原市長は、問題の記述について「乱暴で誤解を招いた。誤解を招かないような表現に修正する」と「反省」したものの、他方で「障害者団体などの批判は誤解だ」との姿勢を崩さず、「謝罪はしない」とも述べたという。

 マスコミは、「差別用語を持ち出して反論していたことが、関係者への取材で分かった」、「めくら千人……は、世の中には道理の分かる人もいるが、分からない人もいるという意味で差別的表現とされる」とのコメントを付し、竹原市長の見識を批判している。この問題を愚考してみたい。

 れんだいこは既に、「いわゆる「差別用語と言葉狩り」について」を発表している。
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/burakukaifoundo/sabetuyogoco/kotobagarico.html)

 繰り返すことになるが、「めくら」とか「ちんば」なる言葉を差別用語として規制するのは構わない、それに代わる適宜な表現があればという但し書きで。問題は、言葉を規制しただけでは終わらないのに、いつも言葉尻を咎めて解決せんとしているエエ加減さにあると思っている。もっと云えば、差別用語の規制は構わないのだが、その対価として、用語上それらの既成表現に代わる簡にして要を得たものを生み出さねばならないと思っている。それができない以上、批判は片手落ちにとどまるということである。政界における万年野党の対案示さずの反対討論染みて聞こえるのは、れんだいこだけの感慨だろうか。

 「めくら」を「視覚障害者」、「ちんば」を「下肢不自由者」、精神病者を「統合失調者」と云い換える場合、新表現の方がより適切、より的確である方が望ましい。れんだいこには、学術論文の場合の精密規定による長たらしい表現は別として、一言で対象を表現でき且つ表現し易い語調のものを捜している。そういう意味で、新表現が旧表現よりも適切かどうか疑問を抱いている。なぜなら、人の頭脳と云うものは、より的確な認識を求めるのを本性としていると思うからである。より的確な認識を求めること自体には咎はない。そのこと自体には差別性はない。差別性が生まれるのは的確な認識獲得後の社会的対応からである。その語を差別傾向に使う者も居るだろうし、是正方向に使う者も居るだろう。それは各人の性向、時代の性格に依るのではなかろうか。

 れんだいこが、このように云うと、差別表現固持者であるとして批判が聞こえてきそうである。そういう批判者に逆批判しておく。差別問題の本質は、表現を難詰、言葉狩りして正義ぶることにあるのではない。対象とされる側の者の層の政治的、制度的、社会的に的確相当な対策が講ぜられるべきことにある。もとより、相手が傷つくのを承知で不用意不必要乱語的に多用されるべきではない。問題は、一々目くじら言挙げして封じ込めれば解決済みとするものでもないところにある。目指すべき地平は、ハンディー者をして勇気づけ、ハンディーを抱えながらもけな気に生きて行こうとする者に対する生活支援、愛情配慮することにある。このことの方がよほど大事なのではなかろうか。文言を避けて通れば良いというものではないということである。

 付言しておけば、現在、「気違い」なる表現は不適切とされている。しかしながら、れんだいこが解するところ、この表現は「気違い」者に対するかなり温かい眼差しを持つ表現であると思っている。なぜなら、「気違い」とは「気の間違い」の略であろうから、「狂人」表現に比べて「気の間違ったお気の毒な身の上」とする配慮が働いているのではなかろうか。つまり、「気違い」なる表現のそもそもは決して差別語として退けられるものではなく、逆に温かい眼差しに根差した表現なのではなかろうか。こういう例は、捜せば他にもあるだろう。今一斉に「古来表現の自粛」が風潮となっているが、無批判な迎合は禁物とすべきではなかろうか。

 差別用語ではないが似たような表現に「腹下げ」というのがある。一般には「下痢」と表現されているが、れんだいこには「腹下げ」の方が的確且つ雅びな表現のように思っている。こういう言葉は大事にしなければならないと思っている。「古来表現の自粛」は「古来伝統の自粛」に繋がり、「古来風習、しきたりの自粛」にも繋がると見立てている。それは危なかしい風潮ではないかと棹差したくなる。

 もとへ。「竹原市長の差別用語言論問題」は、言論批判に求めるべきではなく、竹原市長は行政の長であるからして、竹原市長の行政に対する見識と施策評価に於いて是非判断されるべきではなかろうか。肝心かなめのこの施策における反動性と言論が重なる時、批判を逞しゅうすべきではなかろうか。入口の差別発言問題だけを取り出す作法は、今日びのマスコミ的正義ではあっても、れんだいこ的には理解できないところである。マスコミ的正義は大概、手前たちは年収ン千万円でぬくぬくしながら、世の貧困問題を論うところに特徴がある。我々は何度、たいこ腹をさすりながら飢餓問題を論ずるコメンテーターを目にして来たことか。彼らの言葉狩りもそうで、一見親切そうでも何らの役に立たない。そういう連中のコメントは常に上から目線の思いつき程度の思いやりでしかない。あるいは、解雇問題の時に残業問題を論じるようなすり替えでしかない。そういうものに騙される方も方ではなかろうか。

 竹原市長は、「ブログを読んでもらえれば私の考えは理解してもらえる。メディアが一部を取り上げ、大騒ぎしているだけ」と答弁し、関係者に謝罪する意思がないことを明らかにしている。「言葉を制限すると文化がしぼむ」、「タブーを作ってはいけない。現実を見つめる視点が必要だ」なる発言もしている。れんだいこは、竹原市長のブログを読んでいないが、かなり確固とした信念と世相に流されない文明批評家の眼を持った市長ではなかろうかと思っている。問題は、竹原市長の数々の提言の革新性の良きところを受け止めず、揚げ足取り的な批判ばかりに専念する傾向にある。マスコミはいつしか重箱の隅太郎になり下がっている。

 高給でぬくぬくとした生活をエンジョイしながら、如何にも優しそうに寄り添い正義ぶる。そういう正義よりも、もっと大きな正義に向かってほしい、不正義を告発するペンを振るってほしいと願うのは、れんだいこだけだろうか。竹原市長は堂々と所信を貫き、選挙の洗礼を受ければ良い、これがれんだいこの結論となる。

 2009.12.20日 れんだいこ拝





(私論.私見)