山中一揆義民

 (最新見直し2008.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 史上最大の百姓一揆と云われる「山中一揆義民」を確認しておく。白土三平の劇画カムイ伝に登場することでも知られている。「山中一揆」、「享保の改革と山中(サンチュウ)一揆」その他を参照する。

 2008.10.26日 れんだいこ拝


【「山中一揆顛末」】
 「山中(さんちゅう)一揆」の総評は次の通り。
 1726(享保11)年の秋から翌年にかけて、時の津山藩の過酷な圧政に堪えかねた藩全域の農民によって繰り広げられた一揆を「山中(さんちゅう)一揆」という。山中というのは広義には美作一円の呼称と解く向きもあるが、一般的には湯原町を中心とした旭川上流域を指して呼ぶ。この一揆が山中一揆と云われるのは、先頭に立って指導的な役割を果たしたのがこの地方の農民であり、藩が一揆を鎮圧するために集中的に山中に軍勢を投入したことによる。山中一揆は幕藩体制解体初期の全藩的一揆の代表的なものといえる。この一揆の指導者は牧の徳右衛門、見尾の弥治郎たちで、久世の大旦芝に4千人ともいわれる農民を集結させ、藩の代官との数日間におよぶ交渉の中で、年貢の一部免除、四歩加免の免除、村役人の罷免などを藩側に認めさせた。しかし、やがて藩は武力鎮圧に踏み切り、強大な戦力をもって掃討戦に向かう。一揆の指導者の一人「徳右衛門」は湯原山中に隠れ、最後には千明さん等の住む禾津柿の木坂で捕縛された。指導者を始め参加者の主要な者は打ち首などの死罪になり51名もの多くの犠牲者を出した。

 1698(元禄11)年正月、森藩の後、松平長矩が10万石を与えられ津山城に入ってきた。藩の財政は苦しく、農村部も階層分化し始めており、貧農層に餓死者が続出する他方で、地主化した特権層が特権商人と組んで農政上の不正を働き始めていた。上級家臣の不正行為、江戸屋敷の度重なる焼失が藩財政を更に逼迫化させた。

 1726(享保11))年、津山藩は、久保新平を勘定奉行に任命して藩財政の改革に乗り出した。久保は、享保の改革に倣い、家臣の俸禄支給の延期・削減をおこなうことで藩の支出を厳しく制限する他方で農民の年貢負担を強化することで藩財政の再建を図ろうとした。代官・大庄屋・庄屋を通じて手厳しく取り立てを強行して行き、納めることができない農民には鋤・鍬を封印をするということも行われた。

 11.11日、藩主・浅五郎が江戸屋敷で死亡した。「藩は蔵米を売り払うらしい」といううわさが飛び、11.12日夜、大庭郡河内村の大庄屋・中庄屋ら3名が、西原(落合町西原)の米倉に納められていた年貢米のうち取り分(先納米か御用米の返済分)を勝手に持ち出そうとした。これが発端となって領内一円に不穏な情勢がみなぎり始めた。

 11.24日、跡継ぎも決まっておらぬところへ。幕府から「領地を半分の5万石に減らす」という知らせが津山に入った。津山藩は、減封の対象となると思われる真島、大庭両郡(現在の真庭郡)から徴収した年貢米を領地を取り上げられる前に自分たちのものにしておこうとして、11.28日、久世の米倉から米を運び出そうとした。察知した農民たちが激しく追及した為に藩は中止した。しかし、翌朝、農民との約束を破り、こっそりと船で年貢米を運び出した。 

 これを知った農民たちは、「12.3日に久世に集結すること」を告げる天狗状を村村にまわした。真島郡牧村(今の湯原町牧)の徳右衛門、見尾村(今の勝山町見尾)の弥次郎らに率いられた3千〜4千名の山中勢が、手に手に猟銃・竹やり・鳶口(とびぐち)(まさかり)などを持ち、久世に押し寄せ、里方の一揆勢と合流し、実力をもって久世の米倉(郷倉)を管理するとともに、近辺の大庄屋・中庄屋などの屋敷を打ち壊した。

 城中で緊急の評定(ひょうじょう)が開かれた。しかし、すでに東筋(美作東部)の村村にも久世の状況が伝わり、領内全土に一揆が起こりかねない状況になっていた。藩は、大庭郡代官の山田丈八と真島郡代官の三木甚左衛門を派遣し、一揆側と交渉させた。

 農民側は、次のような要求を突きつけた。@年貢の未納分の14%は納入を免除すること。A四歩加免(しぶかめん)は免除すること。B大庄屋から借りて払った年貢米を免除すること。C米以外のいろいろな名目の税金(諸運上金)を廃止すること。D藩が任命する大庄屋・村庄屋を廃止して,農民が選んだ状着(農民代表)を置くこと。E大庄屋・中庄屋・村庄屋に与えられた特別の権益を廃止し,所帳簿を農民に渡すこと。農民側と藩代表者との交渉は数日に及び、結果、農民側はCを除いて,ほとんどの要求を勝ち取った。

 その後も、山中地方では大庄屋以下の不正を摘発する闘争が続けられた為、藩当局は救済用の米切手1100俵分を与えて農民を押さえようとした。農民たちは、ただの紙切れになってしまうことを察知し、大庄屋や富商の家に押しかけて米の引渡しを求め、応じなければ打ちこわしをかけた。


 恐れた大庄屋たちは津山城下へ逃れ、藩当局へ「このままでは山中は農民のものになる」と訴えた。

 遂に、津山藩は、幕府の了解を得て一揆の全面的弾圧に乗り出した。目付の山田兵内および三木・山田両代官の率いる大砲・鉄砲で武装した1100名の藩兵を山中地方へ出動させた。一揆側は地理に詳しく神出鬼没のゲリラ作戦を取り抵抗した。

 1727(享保12).正月7日、久世の三坂峠から湯原への侵入が不可能なことを知った鎮圧隊は、一揆勢の意表を突いて出雲街道から山中の裏側の美甘・新庄に向かった。そこで、田口村で一揆の指導者の三郎右衛門・長右衛門の2名を捕らえ新庄に入った。新庄からの知らせで、三坂峠に陣取っていた徳右衛門・弥次郎・半六らは、美甘方面からの鎮圧隊に黒田村で備えるという二面作戦を強いられることになった。

 黒田村で代官は、一揆の農民たちに次のような触れを出した。

 「飛び道具を持って役人に向かうのは、殿様に逆らうのと同じである。すぐに鉄砲を捨てなければ、後ろから軍勢を持って討ち取るぞ。悪者に脅されている者は、殺すに忍びない。今のうちに逃げれば罪は問わない。逃げなければ、たとえ山中に人がいなくなろうともとらえて処罰する」。

 さらに百姓たちの女房子どもを人質にして矢面に立てるというなりふりかまわない作戦を取った。代官は、指導的な立場のものの中から藩に協力する者を探し、その結果、新庄村の状着・利左衛門と美甘村の状着・治八が協力するようになった。一揆勢の足並みは急に乱れ、味方の裏切りや大庄屋の内通もあり、一揆勢は不利になった。

 一揆勢は、黒田方面、三坂方面、久世から帰路峠を超えて山久世に出て旭川を上る川筋の三方面からの攻撃を受けることになった。徳右衛門の弟・惣右衛門は、川筋の村村に11日に久見河原に総勢を結集しようと呼びかけた。結集は期待はずれとなった。奥山中の大森の七左衛門らの結集や湯本・下長田の村村の加入、弥次郎を中心とする川筋の結集などにより13日の行動を申し合わせた。

 その状況が代官側に通じ、代官側もすばやく12日夜に行動を起こした。先に捕らえていた田口村の2名と新庄村の3名を新庄の今井河原で処刑し、その首を首切り峠などにさらして農民たちを恐れさせた。裏切者に案内させ土居村に入り徳右衛門を捕らえようとした。柿の木坂に潜伏している徳右衛門を発見し、「牧の徳右衛門、早く出てこい」と呼びかけたところ、連日の疲れで徳右衛門ももはやこれまでと覚悟し、「これから出るぞ」と答えて、山刀を抜いて飛び出した。こうして、徳右衛門が捕らえられただけでなく、雪の土居村に宿泊していた大森の喜平次の率いる奥山中の一隊など32名が捕らえられた。12日の大雪の夜、徳右衛門らのリーダーが捕らえられるに及んで一揆勢は総崩れとなった。

 13日の朝、久世・新庄の鎮圧隊は山中に入った。久世の主力は、三坂峠と川筋から大筒で空砲を撃ち農民たちを脅しながら攻めた。昼頃、小川村に着いた久世の鎮圧隊は、新庄からやってきた代官の一隊と合流した。見せしめの為、昨夜、土居村で捕らえた32名のうち25名を土居中河原で打ち首にした。その13名の首を三坂峠にさらし、12名を川筋から久世に越える主要街道である山久世の帰路峠にさらした。徳右衛門と土居の忠右衛門、大森の喜平次は首謀者であるのでこの場で処罰せず、残りの4人は釈放された。

 14日、一揆の指導者である徳右衛門と喜平次の2名が、かごで津山に護送された。この頃から、庄屋たちによる農民の摘発が盛んになった。見尾の弥次郎も中庄屋の密告で見尾村の聖岳(弥次郎嶽とも)に隠れているところを捕らえられ、徳右衛門の弟の惣右衛門も同様の運命となった。相次いで指導者を失った農民たちを、付近の25カ寺やお宮がかくまった。15日、大森の七左衛門が捕らえられ、17日、弥次郎・忠右衛門とともに津山に送られた。

 19日、下長田が破れ、20日、最後まで抵抗した里方の目木触・河内触が鎮圧され、3ヵ月に及んだ一揆は農民側の敗北に終わった。しかし鎮圧隊の処刑は続いた。25日、湯本大庄屋預かりの8名が湯本河原において処刑された。その首は田羽根の熊居峠にさらされた。それから1週間ほど後の潤正月2日、久世河原において西筋里方の指導者7名が斬首された。

 この結果、村村の農民たちは「今後このようなことは絶対にしません」と詫びの証文を取られ四歩加免以外は認められず、とり返した米も返納させられた。さらに状宿・状着の制度は廃止され、再び庄屋制が復活した。

 3.12日、津山に送られた27名のうち6名が、正式の裁判により処刑された。徳右衛門、弥次郎は津山を引き回しの上、院庄の滑川の刑場において磔にされた。「作陽乱聴記」は、次のように記している。

 「二人を大きな牛に乗せご城下の町内を引き回した。そのとき、徳右衛門は弥次郎に声をかけて励まし、自分は謡曲を口ずさみながら刑場に着いた。刑場には12間の小屋を作り、役人が30人、それに足軽など18人が準備を整え、厳しく警戒していた。やがて役人が決まりにより処刑を行うよう申し渡し、磔にかけた。弥次郎がまず処刑され、いよいよ徳右衛門の前に槍が構えられた。『しばらく待て』と磔の上から声がかかった。『何か』と尋ねると、『気楽に受け答えの声ををかけてやろう、つくときは声をかけてこい』と。それではと『左から参るぞ』といえば『合点』と答えて穂先を受けた。ついで『左より参るぞ』といえば、『覚えたり』と答えて両脇に槍を受けた上、さらに『とどめに参るぞ』といえば、気丈にも応答の声が聞き取れた。それを見た群集は『さても大丈夫なるかな』と感嘆の声を上げた」(「山中一揆」)。

 続いて、東茅部大森の七左衛門と富東谷の与七郎が獄門にされ、土居の忠右衛門と大森の喜平次とが打ち首にされた。この山中一揆で犠牲になった人は、51名という驚くべき多数に上り、一揆史上類例を見ない結末を告げた。この年の5月、山中は天領となった。


 一揆の後、津山藩は5万石に減封され、浅五郎のいとこにあたる越前松平知清の三男長熙(ながひろ)が3代藩主となった。しかし後に8代藩主に将軍家斉の第16子の斉民を迎えたときに再び十万石に復活している。

 日本最大の百姓一揆と云われる「山中一揆」を記念して、湯原町の禾津(イナツ)にはこの時の義民達を祀る碑が建てられている。毎年5月3日、柿の木坂で護摩を炊き、「義民祭」が行われている。また町の北部黒杭にある大林寺には、死罪となった農民達を弔う妙典塚が建てられている。その他真庭郡北部には一揆で犠牲となった人々を祀る史蹟が数多くある。現在、地元で起こった一揆について語り継いで行こうとする各地の人々が集まり、「一揆サミット」が毎年行われている。数年前には湯原で開催され、千明さんがパネラーの一人として湯原義民顕彰会の報告を行った。






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