「惣五郎一揆、佐倉宗吾」 |
(最新見直し2008.9.2日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「ウィキペディア佐倉惣五郎」、「義民佐倉宗吾」、「義民の世界 佐倉惣五郎伝説」その他を参照する。 |
佐倉惣五郎、宗吾(さくら そうごろう、そうご、本名は木内惣五郎)。1605(慶長10)?年−1653(承応2).9.3(9.24日)。江戸前期の百姓一揆の指導者。 1652(慶安5)年、下総佐倉の藩主堀田正信は、飢饉や洪水に関係なく重税を課した。佐倉藩の代官は、農民たちの家の財産までも搾り取るように重税を課し、さらに年貢を納められない者を怠納と称して処罰した。これに堪りかねて、村の名主や年寄りが郡奉行や佐倉藩江戸屋敷に年貢の軽減を求めて訴えたが、冷たくあしらわれた。承応年間(1652-1655)、天災・飢饉の続く中下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市)の名主であった惣五郎ら代表者6名が、佐倉藩の重税に耐えかねた農民を代表して藩の役人や江戸の役所に困窮と減税を訴えた。 これを「越訴」と云う。しかしその訴えは聞き入れられず、老中の久世大和守に駕籠訴をしても果たせなかった。「佐倉藩の事にて、藩主に相談すべき事」と追い返された。 そして遂には4代将軍家綱が上野寛永寺へ参詣の折に直訴に及ぶ。惣五郎は、家族に害が及ばないように妻に離縁状を渡して江戸に出向。上野東叡山入り口の三枚橋付近で将軍家綱に直訴に及んだ。直訴を知った佐倉藩主堀田正信は、国許の役人を激しい叱責した。その結果、租税は軽減されたが、1653(承応2)年、惣五郎夫妻は家財没収の上、捉えられた。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、公津村の刑場で磔刑、男子3名女子1名は死罪に処された。現在、地元の佐倉をはじめ、全国各地に惣五郎神社が20ケ所あり、惣五郎一家は、神として祀られている。 堀田正信は惣五郎を慰霊するため,承応3年に大佐倉村の将門山に石の鳥居を寄進している。さらに,後の佐倉領主が戒名や院号を贈ったり,惣五郎の子孫に土地を与えるなど,一農民に対する処遇としては,破格の扱いをしている。しかし、惣五郎の祟りによってか、堀田家に不幸がおこり改易されてしまう。以上が惣五郎伝承の基本的骨格である。 宗吾伝説は百姓一揆の高揚期の中でも様々の要素を添加されながら成長し、講談や歌舞伎などで広く取り上げられ、明治以後も民権論の高まりの中で再評価され、脚光を浴びた。1851(嘉永4)年、「東山桜荘子」(ひがしやまさくらのそうし)の主人公・浅倉当吾こと佐倉惣五郎が百姓一揆の義民として採り上げられ、関係者の予想をはるかに超えるヒットとなり、とりわけ地方巡業芝居で人気を得て、またたく間に日本中に広まった。明治期以後は「佐倉義民伝」という名題となり、実名で登場したため庶民の喝采を浴び、日本一の義民となった。 現在、千葉県成田市には宗吾を祀った宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺)が建っている。佐倉惣五郎譚は己の命を賭して民衆の危機を救った英雄譚として、「佐倉義民伝」などの芝居や歌舞伎の演目として現在も親しまれている。 |
「阿修羅・空耳の丘40 」の愚民党氏の2005.7.6日付け投稿【義は宣なり、義民の世界 佐倉惣五郎伝説 国立歴史民俗博物館】を転載しておく。
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(私論.私見)