備前渋染一揆

 (最新見直し2005.4.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「渋染一揆」が記録に遺されている。百姓一揆であったのかどうか判然とし無い面があるが確認しておく。「渋染一揆の指導者の実像」その他を参照する。

 2005.7.6日再編集 れんだいこ拝


 渋染一揆(しぶぞめいっき)とは、江戸時代末期(幕末)の1857(安政3)年に起こった備前国岡山藩の被差別部落住民53団による強訴である。事件名称は昭和時代に一揆とされた。

 備前岡山の池田藩は、黒船来航に伴う混乱下、1856(安政2)年、倹約令29条・別段御触書5ケ条を発布した。江戸警備の費用がかさんで財政が苦しくなったのが原因とされている。「別段御触書5ケ条」の概要は次の通り。
一、えたの衣類は、無紋(むもん)・渋染・藍染に限る。しかし、当分の間は、今あるそまつな木綿着(もめんぎ)なら許す。ただし、紋つきの着用は禁じる。

一、雨天のとき、村内の知り合いの家に行く場合、泥足では相手も迷惑だろうからくりの木のげたをはいてもよい。しかし、顔見知りの百姓に出会ったらげたをぬいでおじぎをせよ。他村など遠方へ行く場合のげたばきは許さない。

 この「別段御触書5ケ条」をどう読むべきか。「被差別部落民は公式の場の紋無し・柿渋による渋染の着衣、下駄履きの原則禁止(雨の日はげたをはいてもよいが、他村に行くときははだしにせよ)などを強制された」とされているが、議論の余地がある。村役人から穢多に対して、この「御触書」が読み上げられ、請取書に署名を求められたとき、穢多判頭は次のように答えている。

 「このたびの御倹約之義につき、御百姓一同之御請は仕候得共、私等衣類格別の御請は御断り申上べき」。

 穢多の家職に対する「御百姓一同之御請」は承諾するけれども、「衣類格別の御請」は承諾することができないと述べたことになる。

 いずれにせよ、53か村各部落の代表者が集まり弥一、友吉らが白い死装束を着て非武装で強訴を行い、次のような嘆願書を出した。

 「御国中、穢多共の内、御城下近在の5か村の穢多どものうち、番役など仕えているというものがいます。藩の牢屋や刑場で死罪判決がでた者の処刑が実施された場合は、その際、刑の執行に携わったものもあまたいます。そのため、5か村の穢多はもとより、その他の穢多村も同様、御用を仰せつかった穢多は、役人に対する報酬として、御米4俵宛受け取ってきました。それは、諏訪御用の節、御忠勤をつくしたてまつる身分であるがゆえに、御百姓も御承知されていることがらです。(穢多の在所は)役人村と呼ばれることもあります。盗賊または強盗・荒破者が出たときには、穢多村にひきとり、・・・番にある役人はいうに及ばず、無役の穢多に至るまで、一命にかかわることも厭わず、御用に励み、御忠勤を尽くしてきました。別段御触書に記された渋染・藍染の衣服を身にまとっていては、御城下はもちろん、村々、浦々に至るまで、盗賊や疑わしい人々は、遠く離れたところからも、渋染・藍染の制服をきた、司法・警察である穢多に気づいて身を隠してしまいます。これでは、巡邏の際に不審人物に職務質問することはさらに難しく、犯人の逮捕は難しくなります。詮なきことを続けていては、御用に携わる意気も低下してきます」。

 約半分の村から千数百人がたち上がり、藩の役所におしかけ「竹槍1本たずさえない強訴」する。武装した藩士と乱闘となった。「村役人たちは6尺棒を揮って戦ったが、屈強の強訴勢は村役人どもを素手で掴み左右に投げ云々」。結果、嘆願書を藩主に渡すという要求は実現し御触書は撤廃された。但し、首謀者は厳しい取り調べなどにより死亡せしめられた。この経緯は、儒学など学問等の教養もあった強訴指導者により記録され今に伝えられる。

 1923(大正12)年、部落解放運動を進める全国水平社が岡山県でも結成された時、その県本部は一揆の中心となった神下村(こうのしたむら)に置かれた。柴田一著「渋染一揆論」。




(私論.私見)