「シオニズムの隠された歴史」(ラルフ・シェーンマン著、バルセロナより愛を込めて氏翻訳) |
【シオニズムの隠された歴史その1、「ホロコーストの死霊」による憑依現象】 | |||||
「阿修羅」の「ホロコースト3」のバルセロナより愛を込めて氏の投稿「シオニズムの隠された歴史:第6章(ラルフ・シェーンマン著)《全訳、その1》【「ホロコーストの死霊」による憑依現象」を転載する。次のようにコメントしている。
|
|||||
第6章:シオニズムとユダヤ人 もしパレスチナの植民地化が強奪の連続によって特徴付けられるとすれば、我々はシオニスト運動の振る舞いについて、パレスチナの犠牲者たちに対するもの(我々は後でこのテーマに戻るのだが)ばかりではなく、ユダヤ人自身に向けてのものを検討する時間を持つべきであろう。 ヘルツル自身がユダヤ人のことを次のような形で書いた。
シオニストの青年組織であるHashomer Hatzair (青年防衛隊)は次のような表明をした。
ジャボチンスキーは全く同じように
シオニズムの創始者たちは反ユダヤ主義と戦うことを放棄しそして、筋の通らないことなのだが、反ユダヤ主義者を自分たちの同盟者と見なしたのである。なぜなら、彼らはユダヤ人たちを住んでいる国から取り除きたいという願望を共有していたからなのだ。次第に彼らは似たようなユダヤ嫌悪と反ユダヤ主義の価値観を持つようになった。シオニスト運動が反ユダヤ主義者自身をその最も信頼すべきスポンサーであり保護者であると見なすようになったからである。 テオドル・ヘルツルは誰あろうフォン・プレーヴェ(Von Plehve【訳注:レニ・ブレンナーはPlevheとしている】)伯爵−ロシアにおける最悪のポグロムであるキシネフ(Kishinev)のポグロムの実行者−に接近して次のような提案をしたのだ。
フォン・プレフヴェは承諾し、そしてシオニスト運動に資金援助を約束したのである。彼は後にヘルツルに不満を漏らした。
ヘルツルとワイツマンは、パレスチナにおけるロシア皇帝主義者の利益を保証し、西欧とロシアからそれらの『有害で破壊的な無政府主義と共産主義のユダヤ人』を取り除くための助力を提供した。我々が今までに注目してきたことだが、全く同じ提案がトルコのスルタン、ドイツのカイザー、フランス帝国主義と大英帝国に対して、シオニストたちによって為されていたのである。 |
|||||
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ |
|||||
[シオニズムとファシズム] シオニズムの歴史は―その多くは覆い隠されているのだが―薄汚いものである。ムッソリーニはレヴィジョニスト・シオニストの青年運動であるベタルの小隊を作り上げたのだが、彼らはムッソリーニ自身のファシスト集団に見習って黒シャツを着た。メナヘム・ベギンがベタルの長となったとき、彼はヒトラー・ギャングどもの茶色のシャツを好んだ。それはベギンとベタルのメンバーがあらゆる会合や集会に身に付けて出かけたものであった。その場で彼らは、ファシストの掛け声でお互いに叫びあい会合を開きそして閉会したのだった。 シモン・ペティルラ(Simon Petilura)は、897回の異なる襲撃で28000名のユダヤ人の命を奪ったボグロムを指揮したウクライナのファシストであった。ジャボチンスキーは、赤軍とボルシェヴィキ革命に対抗する反革命の戦い−その中で革命を支持する農民や労働者、知識人たちの殺害するのだが−で、ユダヤ人警察軍をペティルラの軍隊に同行させようと提案してペティルラと同盟の交渉をしたのだった。 |
|||||
[ナチスとの協力] 欧州の悪意に満ちたジュウ・ヘイターたちを招きいれ、そして、パレスチナにおけるシオニスト植民地の財政と軍事のパトロンとして、最も邪悪な運動や政権と同盟を結ぶ戦略は、ナチスを排除するものではなかったのだ。ドイツのシオニスト連合は1933年6月21日にナチスへの支援を綴った文書を送った。【注記:同年1月、ヒトラーが政権を握る】その中でシオニスト連合は次のように記している。
この方針を拒否するどころか、世界シオニスト組織(WZO)会議は1933年に、ヒトラーへの反対運動を呼びかける議案を240対43で否決したのだ。 まさにこの会議の最中に、ヒトラーはWZOのアングロ−パレスチナ銀行との交渉合意の声明を出したのである。このようにしてドイツ経済が極めて脆弱なときにナチ政権へのユダヤ人によるボイコットをぶち壊したのであった。そのときは大不況の真っ只中であり、価値を失ったドイツ・マルクで一杯になった樽を転がしていたのだった。世界シオニスト組織はユダヤ人のボイコットをぶち壊し、中東と欧州北部一帯でナチ製品最大の販売主となったのだった。彼らはハアヴァラ(the Ha’avara)を設立したのだが、それはドイツのユダヤ人資本家からの資金を受け取るように作られたパレスチナの銀行だった。そしてその資金を利用してドイツ製品が非常に大量に購入されたのだ。 |
|||||
[SSを取り込む]
必然的な結果として、シオニストたちはSS保安部(S.S. Security Service)のブラウン・フォン・ミルデンシュタイン(Baron Von Mildenstein)をパレスチナに送り込み、彼はシオニストの支援で6ヶ月間そこに滞在した。ヒトラーの宣伝相ジョセフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)はこの訪問を1934年にDer Angriff (猛攻撃)という12部の報告書にまとめ、シオニズムを褒め称えた。ゲッベルスは片面にスワスチカを、もう片面にはシオニストのダビデの星をあしらった大型メダルを作るように命じたのだ。1935年5月に、SS保安部主任のラインハルト・ハイドリッヒ(Reinhardt Heydrich)は、ユダヤ人を《二つの種類》に区別した文書を書いた。彼が好んだユダヤ人はシオニストたちである。
1937年には労働『社会主義』シオニストの軍勢であるハガナー(ジャボチンスキーにより創設)は一人のエージェント(フェイヴェル・ポルケス;Feivel Polkes)をベルリンに送り、ユダヤ人の富をシオニスト植民活動のために開放することと引き換えに、SS保安部のためのスパイ活動を提供した。アドルフ・アイヒマンがパレスチナにハガナーのゲストとして招待されたのである。【注記:ユダヤ人への迫害を決定的にしたニュルンベルグ法はすでに1935年に制定されている。有名な「水晶の夜」は1939年11月に起こった。】 フェイヴェル・ポルケスはアイヒマンに次のように伝えた。
シオニストとナチスの協力的活動についてのリストはまだまだ続く。欧州のユダヤ人を裏切るシオニスト指導者の信じられないほどの意欲に対して、一体どう説明すればよいのだろうか? イスラエルの擁護者によって出されるイスラエル国家のための総体的な理由付けによると、それは、迫害に直面するユダヤ人たちの避難を意図したものである、とされてきたのだ。 しかしその逆に、シオニストたちは欧州にいるユダヤ人たちの救出のいかなる努力をも彼らの政治目的を満たすものと見なしていなかった。それどころかそれを彼らの運動全体に対する脅威と見ていたのである。もし欧州のユダヤ人たちが救われるとしたら、彼らはパレスチナ以外の場所に行くことを望むであろうし、救出作戦はシオニストによるパレスチナ征服の計画とは何の関係も持たないものになるのかもしれないのだ。 |
|||||
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ |
|||||
[欧州のユダヤ人を犠牲にする] 1930年代を通してのナチスとの協力的行動と相関性のあるものとして次の点がある。米国と西欧の移民法改正の試みが迫害を受ける欧州のユダヤ人にとって申し訳程度だが避難先を提供する目的で議論されていたときに、これらの努力をストップさせるために積極的に組織活動を行ったのがシオニストたちだったのだ。 ベン・グリオンは1938年に英国の労働党シオニストの会合で次のように報告した。
このパレスチナ植民地化とアラブ人制圧という強迫観念によって、シオニストたちは、絶滅に直面しているユダヤ人たちのどのような救出にも反対した。なぜなら、優れた人材をパレスチナに振り向ける可能性が妨害されるかも知らなかったからである。1933年から1935年までの間に、WZOは移住許可証明書を求めるドイツの全ユダヤ人のうちで3分の2をはねつけたのである。 労働党シオニストの新聞ダヴァル(Davar)の編集長であったベレル・カツネルソン(Berel Katznelson)が『シオニズムの残酷な基準』として描いたものだが、ドイツのユダヤ人たちはパレスチナで子供を産むには年をとりすぎており、シオニスト植民地を建設するための職業を欠いており、ヘブライ語を話さず、そして彼らはシオニストではなかった。これらの絶滅に瀕しているユダヤ人の代りに、WZOは米国や英国やその他の安全な国々から6千人の訓練を受けた若いシオニストたちを導入した。さらに悪いことに、WZOがホロコーストに直面しているユダヤ人たちに対してどのような他の解決方法をも見つけようとしなかったのみならず、このシオニスト指導部は逃亡するユダヤ人たちに対する避難先を見つける努力に猛烈な剣幕で反対したのだ。 1943年にもなって、欧州のユダヤ人が何百万人も絶滅させられつつあったときに、米国議会がこの問題を『研究するために』委員会の設置を提案した。ラビ・ステファン・ワイズは、米国第一のシオニズムの論客だったのだが、ワシントンに行きその救出法案に反対する証言を行った。それがパレスチナの植民地化から注意をそらすかも知れなかったからである。 1938年に米国ユダヤ人会議のリーダーとしての資格で、ユダヤ人が避難先を見つけることを可能にする米国移民法のあらゆる改定に反対する手紙を書いたのが、このラビ・ワイズである。彼は次のように述べた。
|
|||||
[逃避行に対する攻撃] シオニストの全指導部は、迫害を受けるユダヤ人たちに英国領の中で避難場所を提供するために英国議会の227名が政府に呼びかけた動議に対する反応の中で、その姿勢を見誤ることのないほど明らかにした。準備されたわずかばかりの試みは次の通りであった。
しかしこの形ばかりの措置ですらシオニスト指導部によって反対された。1943年1月27日の国会審議で、その次のステップが100名を超える議員によって遂行されつつあったのだが、シオニストのスポークスマンは、これがパレスチナ植民の準備を含んでいないため反対するとの声明を出した。これが一貫した姿勢だったのだ。 ハイム・ワイツマン(Chaim Weizmann)は、バルフォア宣言を準備しイスラエルの初代大統領になったのだが、このシオニストの政策を非常に明確にさせた。
イツァーク・グルエンバウム(Yitzhak Gruenbaum)は、シオニストによって名目通り欧州ユダヤ人の状態調査のために設けられた委員会の議長だったが、次のように語った。
|
|||||
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ |
|||||
[抵抗運動に対する裏切り] 1944年7月に、スロヴァキアのユダヤ人指導者ラビ・ドヴ・ミヒャエル・ワイスマンデル(Dov Michael Weissmandel)が、これらの「救出組織」に携わるシオニストの幹部たちに宛てた手紙の中で、アウシュヴィッツに送られる予定のユダヤ人たちを救出するための一連の方策を提案した[14]。彼は鉄道の正確な地図を示し、ハンガリーのユダヤ人たちが焼却場に移送されるのに使われる線路の爆破を強く勧めた。 彼はアウシュヴィッツの焼却炉の爆破、8万人の囚人に対する武器のパラシュート投下、あらゆる絶滅の手段を爆破するための破壊工作員のパラシュート降下を提案し、こうして毎日1万3千人のユダヤ人の焼却を終わらせることを主張した。 連合国がこの「救出組織」によって組織され公にされた要求を拒否するなら、ワイスマンデルは、資金と組織を持っているシオニストたちが飛行機を手に入れてユダヤ人のボランティアを集めそして破壊工作を実行することを提案した。 ワイスマンデル一人ではなかった。30年代の終りから40年代を通して、欧州のユダヤ言論人は助けを求め、公の戦いを求め、組織化された抵抗運動を求め、連合国の政府の手立てに圧力をかけるデモを要求したのだが、それらは、シオニストの黙殺のみならず、英国と米国で提案され準備されたほんのわずかの努力にさえ向けられたシオニストの積極的な妨害に出会っただけだったのだ。 ここに、ラビ・ワイスマンデルの心底からの苦悶の叫びがある。1944年7月にシオニストたちに書いた手紙で、彼は不信を込めて次のように問いかけた。
シオニストの指導者は誰一人彼の求めに応えようとしなかった。西側の資本主義政権のどこも強制収容所の一つさえも爆撃しようとしなかった。 |
|||||
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ |
|||||
【翻訳(その2)に続く】 【脚注】 [1]. Marvin Lowenthal, ed., The Diaries of Theodor Herzl, p.6. Cited in Lenni
Brenner, Zionism in the Age of the Dictators (Westport, Conn.: Lawrence Hill,
1983) p.6. (または次を参照のこと) [2]. From Our Shomer “Weltanschauung”, Hashomer Hatzair, December 1936.
Originally published in 1917, Brenner, Zionism, p.22. (または次を参照のこと) [3]. Brenner, The Iron Wall. (または次を参照のこと) ]4] lbid., p.14. (または次を参照のこと) [5] Ibid. (同上) [6] Brenner, Zionism, p.48. (または次を参照のこと) [7] Ibid., p.85. (または次を参照のこと) [8] Ibid., p.99. (または次を参照のこと) [9] Ibid., p.149. (または次を参照のこと) [10] Ibid. (同上) [11] Rabbi Solomon Schonfeld, Britain’s chief Rabbi during World War II. Faris Yahya, Zionist Relations with Nazi Germany (Beirut, Lebanon: Palestine Research Center, January 1978), p.53. [12] Chaim Weizmann reporting to the Zionist Congress in 1937 on his
testimony before the Peel Commission in London, July 1937. Cited in Yahya, p.
55. (または次を参照のこと) [13] Yitzhak Gruenbaum was chairperson of the Jewish Agency’s Rescue
Committee. Excerpted from a speech made in 1943. Ibid., p.56.
(または次を参照のこと) [14] Ibid., p.53. (または次を参照のこと) [15] Ibid., pp.59-60. (または次を参照のこと) |
「阿修羅」の「ホロコースト3」のバルセロナより愛を込めて氏の投稿「ラルフ・シェーンマン著シオニズムの隠された歴史第6章全訳その2、「ホロコーストの死霊」による憑依現象」を転載する。次のようにコメントしている。 |
||
[ハンガリーのユダヤ人に対する協定] ケストナーがアイヒマンとの合意を結んだときに彼が外国のシオニスト指導者の命令を受けていたことが後に明らかにされた。その合意はハンガリーのユダヤ人の運命に関して沈黙を守るという条件で600名の優秀なユダヤ人を救うものであった。 生存者の一人であるマルチエル・グリーンワルド(Malchiel Greenwald)がこの協定を暴露しケストナーをナチ協力者として「彼がブダペストで行ったことによって数十万人のユダヤ人が命を落とした」と告発したときに[16]、グリーンワルドはイスラエル政府によって告訴された。イスラエルの指導者たちがケストナー協定の文言を作り上げていたからである。 イスラエルの裁判所は次のような結論を下した。
裁判所は次のように述べた。この協定にある命令調の条件は、ケストナーもシオニスト指導者もユダヤ人に対するナチスの行動に干渉しない、というものであった、と。これらの指導者たちは、干渉することを避ける保証をしたばかりでなく、イスラエルの裁判所の言葉によると、「彼らを絶滅させることを妨げない」ことに合意したのだった。
|
||
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ |
||
[ユダヤ人ではなくナチスを救う] ケストナーがSSのクルト・ベッチャー(Kurt Becher)将軍を戦争犯罪の裁判から救うために干渉したことが明らかになったのは驚くべきことでもない。ベッチャーは1944年のシオニストとの取引で主要な交渉者の一人だったのである。彼はまたポーランドでのSS高官の一人であり、「ユダヤ人を殺す時計の針を回らせた」殺人集団のメンバーであった。
彼はハインリッヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)によって全てのナチ強制収用所の代表委員に指名されたのだった。 彼はどうなったのであろうか。彼は多くの企業の代表となりイスラエルに小麦を売る責任者となったのだ。彼の会社であるケルン・ハンデル・ゲセルシャフト(the Cologne-Handel Gesellschaft)は、イスラエル政府との多額の取引を行った。 |
||
[ナチとの軍事協定] 1941年1月11日、アヴラハム・スターンは、現イスラエル首相【訳注:この論文が書かれた当時】であるイツァーク・シャミールがリーダーを務める民族軍事機構(National Military Organization=NMO)とナチ第3帝国との間の公式な軍事協定締結を提唱したのだった。この提唱はアンカラ文書として知られるようになったのだが、戦後になってトルコのドイツ大使館でファイルの中から発見されたものである。それは次のように述べている。
|
||
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ |
||
[シオニズムの背信] シオニズムの背信、つまりホロコースト犠牲者に対する裏切りは、支配階級の利益をユダヤ人の利益であると見なす試みの極地であった。今日、シオニストたちは、ラテン・アメリカでの暗殺部隊から4つの大陸にまたがるCIAの隠密作戦に至る米国帝国主義の軍事行動に、自らの国を参加させている。 この浅ましい歴史はシオニズムの創始者たちの道徳的退廃に根ざしている。彼らは大衆の闘争と社会革命を通しての反ユダヤ主義(アンチ・セミティズム)の克服の可能性を拒否した。モウゼス・ヘス(Moses Hess)、テオドル・ヘルツル(Theodor Herzl)、そしてハイム・ワイツマン(Chaim Weizmann)はバリケードの逆側を選んだのだ。つまり国家権力、階級支配、そして排外主義的な支配の側である。彼らは、迫害からの解放と社会変革の必要性の間には何の関係も無いという空想を打ち出した。彼らは、反ユダヤ主義とユダヤ人への迫害が、自分たちが恩恵を得る支配階級自身の仕業であることを十分に理解したのである。 反ユダヤ主義者自身による保護を求めて彼らは様々な動機を現した。自分が結び付いて力を手に入れる権力への崇拝、アウトサイダーであり続けることをやめてユダヤ人の「無力さ」とひ弱さを終わらせようとする野望である。 この感覚はジュー・ヘイター達自身の価値観と思想への同調までほんの一歩の距離にあった。シオニストたちが書くことには、ユダヤ人は実に礼儀知らずで破壊的で堕落した人々であり、彼らが受けてきた悪口に値するものであった。シオニストたちは恥知らずにも人種主義のジュー・ヘイターたちの機嫌をとった。権力を賞賛しながら、彼らはフォン・プレーヴェスやヒムラーの反ユダヤ願望に訴えかけた。迫害を受けて過激化した人々、革命的な運動の中心を担った人々や、苦しんだ結果としてその最良の意思を既製の価値に対する攻撃的な知的触媒へと変えた人々を犠牲者として取り除くためである。 シオニストの歴史の汚い秘密は、シオニズムがユダヤ人自身に脅威を覚えていた、という点である。迫害からユダヤ民族を守ることは彼らを脅迫する政権に対して抵抗を組織することを意味した。しかしそういった政権は社会的な権力の意思のみで成り立っている、すなわちパレスチナ人たちに移住者の植民地を押し付けることができる帝国主義的な支配階級を体現したものであった。ゆえに、シオニストたちはユダヤ人を植民地推進者とさせるために迫害を必要としたのである。そして彼らはその権威を支援する迫害者を必要としたのである。 しかし欧州のユダヤ人たちはパレスチナの植民に対する興味を一切掲げようとしなかった。シオニズムはユダヤ人の間では周辺部の運動であり続けたのである。ユダヤ人たちは彼らの生まれた国で差別を受けずに住むことを、あるいはより寛容な民主的な扱いを受ける資本主義国に移住することで迫害を逃れることを望んでいたのである。 だからシオニズムはユダヤ人たちの必要性や希望に応えることが全くできなかったのだ。迫害が肉体的な絶滅への道を与えたときにその本当の瞬間がやってきたのである。ユダヤ人の生き残りとの実際の関係について最終的で唯一のテストを与えられたときに、シオニストたちは抵抗を率いるあるいはユダヤ人を守ることに失敗したのみならず、ナチの経済に対するボイコットの努力を積極的に妨害しさえした。彼らはその後でさえ自分たち自身の大量殺人者どもの保護を求めた。それは単に第3帝国がシオニスト植民地を作るのに十分に力を持っていたからだけではなく、ナチの行為がシオニストが想定したことと同調していたからである。 ナチスとシオニストの間には共通の基盤があった。それは単にシャミールの民族軍事機構がパレスチナに「民族的で全体主義的な基盤」の上に立つ国家を作るために行った提案の中に現れるばかりではなかった。ウラジミール・ジャボチンスキーは、その最後の著作である「ユダヤ戦線(The Jewish War Front :1940)」の中で、パレスチナ人についての彼の計画を次のように書いた。
「ユダヤ戦線」の中にあるジャボチンスキーのこの注目すべき表明は、シオニストの思考とその道徳的破産に同調するものである。ユダヤ人の虐殺者たちはシオニズムに「偉大な道徳的権威」を与えた。何のために? 「アラブ人たちの脱出を穏やかに直視するため」である。ナチによるユダヤ人破壊の教訓は、シオニストにとって、パレスチナの人間たち全体に同様の運命をもたらすことが今や許されるべきものである、ということだった。 7年の後に、シオニストたちはナチスを手本とした。彼らはナチスの後押しを求め時にはそれを達成すらした。そして彼らはいくつものリディセ【訳注:チェコにある村で1942年にナチスによって村民340名が虐殺された】[22]の中でパレスチナを血で覆い、80万人を追放に追いやったのだ。 シオニストたちは、フォン・プレーヴェに対して持っていたのと同様の精神でナチスに接近し、ジュー・ヘイトが利用できるという邪な考え方で行動した。彼らの目的は救うことではなく、選ばれた少数者の強制的な徴用であり、残りはその残酷な運命に放り込んだのであった。 シオニズムはそれでもってパレスチナの植民を進めるための人材を求め、ひょっとしたらどこかにでも移民したかもしれないユダヤ人たちを救うことよりも、何百万もの死体を作ることを好んだ。 もしも、迫害と打ち続く難民生活の苦しみと降伏の惨めさの意味を十分に解っていると思われる民族がいたとするならば、それはユダヤ人であったはずなのだ。 同情の代りに、シオニストたちは他民族からの迫害を祝った。彼らはまさに、まずユダヤ人を裏切りそして次にその品位を下げたのである。彼らは自分たち自身の民族を犠牲として選び征服の計画をその上に負わせた。彼らは生き残ったユダヤ人を、パレスチナ人に対する新たな大虐殺の作業に就かせた。残酷な皮肉を使って、自らの姿をホロコーストの集団的な死装束の中に覆い隠しながら、である。 |
||
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
||
【脚注】
[16] Ibid., p.58. (または次を参照のこと) [17] Judgment given on June 22, 1955, Protocol of Criminal Case 124/53 in
District Court, Jerusalem. Ibid., p.58. (または次を参照のこと) [18] Ibid., p.59.(同上) [19] Ben Hecht, Perfidy (New York: 1961), pp.58-59. Ibid., p.60. [20] Proposal of the National Military Organization - Irgun Zvai Leumi -
Concerning the Solution of the Jewish Question in Europe and the Participation
of the N.M.O. in the War on the side of Germany. Original text found in David
Yisraeli, The Palestine Problem in German Politics. 1889-1945. (Ramat Gan,
Israel: Bar Ilan University, 1974), pp.315-317, Brenner. Zionism, p.267.
(または次を参照のこと) [21] Brenner, The Iron Wall, p.107. (または次を参照のこと) [22] Lidice was a Czech village razed to the ground by the S.S. It became a symbol of Nazi brutality and was singled out as a war crime during the Nuremberg Trials. 【以上、翻訳作業終了】 |
||
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ●「ホロコーストの死霊」による憑依現象 この論文の作者であるラルフ・シューマンだけではなく、レニ・ブレンナーやノーマン・フィンケルシュタインなども同様なのですが、彼らユダヤ系左翼知識人のホロコーストに対する見方は、一つの特殊な「信仰」のようなものになっているのではないか、としか思えません。彼らのシオニスト批判は「宗教的使命感」のようなものに支えられているのではないでしょうか。 これは拙稿《『米国:あるユダヤ国家』に対する私からのコメント、および若干の考察》 彼らにすれば《絶対悪としてのナチス》とそれによる「ホロコースト」は文字通り絶対的であり、その否定は《神》の否定にも等しいばかりか、《絶対悪の側についてホロコーストに手を貸したシオニスト》を憎む彼らにとっては批判の根拠を失うことになります。だから「ホロコースト否定」は「ネオナチ=アンチ・セミティスト」つまり《絶対悪》そのものになるのです。 そしてこの地点で彼らはシオニストと手を結ぶことになります。シオニストにしてみれば「ホロコースト」を失うことはイスラエル国家と自分たちの利権の根拠を失うことにつながりますから「600万人」の死守には手段を選びません。その意味で彼らにとってもホロコースト否定は《絶対悪》となります。一般の自由なユダヤ人たちにしてみれば「右」からも「左」からも《絶対悪》信奉を植えつけられることになるでしょう。実に巧妙な仕掛けです。 もちろん、シオニストの腐敗と堕落、またシオニストとナチやファシストとの関係を、妨害と脅迫を受けながらも、誰よりも幅広く鋭く突っ込んで調べ資料を発掘して分析する彼らの勇気と努力に対しては正直に敬意を表しますが、しかしそれは同時に、彼らの限界をも示しているでしょう。 こんな言い方は不遜かもしれませんが、彼ら《絶対悪》に取り付かれた人々の書いたものを読んでいると、ちょうど《平家の亡霊に取り付かれて墓地で壇ノ浦の「恨み節」を弾き語る耳無し芳一》を見るような、半分薄気味悪く半分滑稽な気分に襲われます。今回翻訳した文章などその典型でしょう。
結局、彼らはシオニストのかけた「神話として機能するホロコースト」の呪縛から逃れることができないのでしょう。シオニストが誰かに「反ユダヤ主義者!(アンチ・セミティスト)」と叫んだ途端、キオツケーッ!回れー、ミギィーッ! そして一緒になって叫ぶわけです。「アンチ・セミティスト!」と。 次の拙稿で私は次のように書きました。 また先日来の「イスラエル・ロビー告発」に関しては、同じく米国の左翼ユダヤ人の代表者ノーム・チョムスキーが、早速ミアシャイマー=ウォルト「批判」というかシオニストへの擦り寄りを開始しました。(もっとも、チョムスキーは自らをシオニスト「極左派?」と自覚しているようですが。) フィンケルシュタインやブレンナーがこれに関して何を語っているのかは知りませんが、おそらく『新しいアンチセミティズム』に怯え結局はシオニストの掌に戻って行くのでしょうね。 この呪縛から逃れ得たユダヤ知識人は実に少数です。イズラエル・シャミールは「神話として機能するホロコースト」の死霊から自由になった数少ないユダヤ人の一人なのですが、現在、次のような事実を世界に公表できる人は、米国の「左翼ユダヤ人」にはまずいないでしょう。拙稿より引用します。 第2次世界大戦の以前からメディアを支配しているのがユダヤ人であったことを、イスラエルの研究者が突き止めて、本人はすっかりこれに当惑しているわけです。しかし実際には、「世界のメディアがユダヤ人に支配されている」と言う者がいるなら、ユダヤ人、非ユダヤ人を問わず、右と左とを問わず、一斉に「アンチ・セミティスト!」の金切り声をあげて社会的にパージし、国によっては刑事罰の対象にもすることでしょう。 この「ホロコースト」を冷静な歴史的研究対象とするように初めて提言した国家指導者がイランのアフマディネジャッド大統領です。イズラエル・シャミールが彼をマハティールと並ぶ『偉大な人物』と呼ぶのも当然のことです。この実に強烈な「神話」に対して「別の神話」をぶつけてみたり「新しい神話」を作り上げたりしても、全く無意味なばかりか、余計にその神話性を強めるのみでしょう。 そして「ホロコースト」にとどまらず、シオニズム、ナチズムとファシズム、スターリニズム、欧米資本主義などのつながりと仕組み、イスラエル国家の創設といわゆる「冷戦」、また「戦後」と呼ばれる期間の正体、そしてユダヤ教系統とバチカンを中心にした宗教教団の変遷など、多くの側面から近代を見直していく中で、「神話として機能するホロコースト」が作ってきた構造を解明し解体していくことが必要になると思われます。 その中で、シューマンやブレンナーなどのユダヤ人左翼知識人は、良質の資料を提供してくれる重要な役目を持っているのでしょうが、彼らの限界もまた十分に認識されるべきでしょう。「晒し者」にされたラルフ・シューマンにはまことに申し訳なかったのですが、今回の翻訳はその限界の実例を紹介するつもりで行ったものです。以上です。 |
(私論.私見)