ユダヤの告白4 |
第九章 コインの両面、人権と組織犯罪 ギャングから慈善家への変身 組織犯罪に関する研究者としてアメリカにおける第一人者であるハンク・メ シックによると、全米犯罪シンジケート(NCS)委員会会長であったロシア 生まれのユダヤ人ギャング、メイヤー・ランスキーは二つの夢を持っていたと いう。 一つは、大犯罪を行っても人目につかぬようまともな体裁を装うことによ り、政府のいかなる検察官も手出しができないようにした上で、北米の犯罪地 下シンジケートを世界最強のビジネス・金融集団につくり変えることであっ た。 二番目は、イスラエルを「買収」し、そこを自分の「合法的」組織犯罪帝国 の世界本部とすることであった。ランスキー自身はどちらの夢の実現も見るこ となく他界した。しかしその死後十年が経過した今、彼の二つの夢はともに現 実のものとなった。彼の夢を現実化した大きな要素は、ADLの存在であっ た。 これまでにも述べてきた通り、二十世紀への世紀の変わり目頃に創設された 当初から、ADLは組織犯罪におけるユダヤ組織のための最初の防衛機関であ った。警察や新聞が、勢力を拡大する全米犯罪シンジケート中におけるユダ ヤ・ギャングの役割を解明しようとでもすれば、ADLはこれを反ユダヤ主義 者として攻撃した。 メイヤー・ランスキーが、アメリカ最大の犯罪組織である全米犯罪シンジ ケートを五十年間も運営していたという事実が知られていなかったことは、そ れ自体、ADLが防衛活動をいかにうまくやりおおしていたかを示す明白な証 拠の一つである。 ADLの資金源 ランスキーは、その勢いが最も強かった頃、悪名高いシシリー・マフィアを 完全に支配していた。このシシリー・マフィアも全米犯罪シンジケートに加わ っていた組織の一つであった。 全米犯罪シンジケートは、フランクリン・ルーズベルトのニュー・ディール 推進機関で全米の公共事業の監督に当たった全米復興庁(NRA)を範にと り、「合法的」組織犯罪を目指すランスキーの夢に沿ってつくられた組織であ る。同シンジケートの地方組織の構成方法は全米復興庁のやり方の模倣であ り、意志決定は等しくそれぞれの地方組織を代表する全米委員会で下された。 全米委員会はニューヨーク、ニューオーリンズ、シカゴのような伝統的にギ ャングの中心地であった主要都市だけではなく、全米のすべての地域社会に組 織犯罪を拡めることを目的として組織されていた。また同委員会は、犯罪シン ジケートへの法規制強化と国民一般の反感をもたらす可能性があるギャングの 抗争を未然に防ぐ自警団組織をつくる狙いをも持っていた。禁酒法時代のシカ ゴにおける「カポネ戦争」は犯罪シンジケートを著しく弱体化させたが、ラン スキーはこのような些細な抗争で自分の大計画が潰れることのないよう心掛け た。 メイヤー・ランスキーは全米犯罪シンジケート委員会の押しも押されもせぬ 会長であった。 ADLが戦後、組織の立て直しを図った際、全米犯罪シンジケートと全く同 じ方法で組織を再構成したばかりではなく、その統括母体を全米委員会と呼ぶ ようにしたのは決して偶然ではない。 ユダヤ・ギャングに援助を与えたのと引き換えに、ADLは組織犯罪の隠れ 蓑に付随する金銭上の利益を獲得した。ADLの資金調達活動やこれと協力関 係にあるユダヤ慈善事業に対しては、メイヤー・ランスキー委員会会長のシン ジケート内の仲間たちによる多額の寄付が行われた。ランスキーが自分自身の 名でADLに寄付を行ったという証拠はないが、ジョー・リンゼイ、ヴィク ター・ポズナー、メシュラム・リクリス、エドモンド・サフラ、モー・ダリッ ツ、サム・ミラーそしてモーリス・シャンカーのような終生シンジケートに関 係していた人たちが、公にADLに対し寄付を行った。 ギャングの脱皮と変身 一九八五年、ADLはその月報の第一面で、シンジケートの大物モー・ダリ ッツに年間慈善家賞を授与したと誇らしげに伝えた。禁酒法時代にアメリカの 郵便局に貼ってあったFBIの指名手配ポスターに使われていたダリッツの写 真が、クリーブランドとラスベガスのギャングに対する謝辞に添えられて機関 紙の第一面を飾ったのである。 ダリッツはメイヤー・ランスキーの古くからの犯罪シンジケートの盟友であ った。彼はクリーブランドにおける地下組織の四人の頭目中の一人で、他の三 人はユダヤ・ギャングのモーリス・クラインマン、サム・タッカーおよびルイ ス・ロスコップであった。禁酒法時代の後、ダリッツはクリーブランドの押し も押されもせぬ頭目となり、マイアミの賭博場にまでその犯罪の手を拡げた。 そのようなナイト・スポットの一つ、フローリックス・クラブはダリッツとラ ンスキー自身との共有物であった。ランスキーがキューバに彼として最初の賭 博、麻薬と資金洗浄のオフショア・ヘブンを開いたとき、ダリッツは特別待遇 のパートナーとして迎えられた。ランスキーが古くからのシンジケートのパー トナーの一人であるベンジャミン・シーゲルをラスベガスから追い出す決意を 固めたとき、ダリッツはカジノとそれに関連するアングラ・ビジネスの最大の 分け前にあずかった。ダリッツはランスキーの生涯を通じての親密な協力者で あり、そのマイアミ・ビーチのアパートを頻繁に訪問している。 一九六三年、ADLがライバルの米国ユダヤ委員会と二十五年間共同で行っ ていた資金集めを中止するに際し、その全米会長に有名なハリウッドのプロデ ューサー、ドール・シャリーを指名した結果、その後の資金集めに関する心配 はなくなった。ユダヤ・シンジケートに清潔なイメージを与えようとするメイ ヤー・ランスキーの運動は、この時点でADLが資金集めのためにシャリーの 名を使っても問題がないところまで前進していたのであった。 シンジケートの暗殺部隊「殺人会社」 シャリーはハリウッドにおけるランスキーの仲間中もう一人の最高幹部、ア ブナー・ツビルマンの生涯を通じての友人であり、また子分としても知られて いた。ツビルマンはニュージャージー州アトランティック・シティのボスであ り、全米犯罪シンジケートの設立時からの一員でハリウッドに多額の投資をし ていた。彼はまた、ランスキーとシーゲルが私的に運営していた全米犯罪シン ジケートの暗殺部隊である殺人会社の当初からの構成員でもあった。 禁酒法時代の間ツビルマンは「ビッグ・セブン」の一員であった。ビッグ・ セブンとはランスキーの仲間たちからなる東海岸のグループで、カナダから密 輸入した密売酒の配給を取り仕切っていた。この酒はサム・ブロンフマン一味 がカナダで製造したものであった。ニュージャージーでのライバルであるアー ビング・ウェクスラー(別名ワキシー・ゴードン)とアーサー・フリーゲンハ イマー(別名ダッチ・シュルツ)を排除した後、ツビルマンは同州のシンジ ケートすべてのいかがわしい商売を一手に引受けることになった。そしてつい にはラスベガスの賭博カジノ、ハリウッドの映画スタジオにまで手を拡げるに 至ったのである。 ツビルマンが病に倒れ、再開された政府の捜査にランスキーがひっかかる恐 れが生じたとき、シンジケートの全米委員会はこのニュージャージーのボスの 排除を決定した。一九五九年二月二十七日、彼はニュージャージー州ウエス ト・オレンジにある部屋数が二十室にも上る自分の豪邸の地下で死んでいるの が発見された。地元警察は彼の死を「自殺」と考えたが、実際は他ならぬ彼自 身がその設立に手を貸した殺人会社によって殺されたということは広く知られ ている。 犯罪人とADLのドッキング その四年後にADLの全米会長になったドール・シャリーは、彼の葬式に参 列していたと広く報道された。もっともシャリー自身はこれを否定した。 FBIはシャリーが真実を語っているとは思っていなかった。FBIニュー アーク現地事務所が作成した一九六一年八月二日付のぶ厚いシャリーの身辺調 書中に、シャリーとツビルマン両者について次のような興味ある報告が載って いる。「一九五九年三月四日付の新聞記事には、ドール・シャリーは、彼がア ブナー・ツビルマンの葬式に参列したという報道を否定しこれを訂正したとし ている。シャリーはこの記事の中で、自分はツビルマンの親しい友人ではなか ったと言い、また自分がアマチュア劇の指導をしていたニューアークのユダヤ 青少年協会で三十年前に会って以来、彼とは一度も会ったことはないと語っ た」 組織犯罪の専門研究家によると、ドール・シャリーは、ツビルマンの後援を 受けてハリウッドでの仕事を始めたという。 FBIの報告は続く。「一九五九年二月二十六日、ニュージャージー州ウエ スト・オレンジ警察は、アブナー・ツビルマンが、この日ニュージャージー州 ウエスト・オレンジ、ビバリー・ロード五〇番地の自宅の地下室で首を吊って 自殺したと報告した。」「一九五九年二月二十八日付のニューヨークの日刊新 聞『ニューヨーク・ワールド・テレグラフ』紙の記事は『アブナー・ツビルマ ンは陰で巨大な権力を行使する完全な闇の大立者だった。彼ほど長期にわたっ て合法的に闇商売で成功し、いかがわしい商売によって赤貧から財をなし、そ して社会的地位を得た人物は他にはいなかった。禁酒法時代に五千万ドルを稼 ぎ出す密売組織を持っていたツビルマンは着々と事業を拡張し、後年にはウエ スト・オレンジの二十室もある自分の大邸宅で豪勢な生活を送った。しかしそ の一方で彼は、今なおいかがわしい商売をしていると自分を非難する人たちを 訴えては、騒ぎを起こしていた』と伝えている」「しかしケハウファーの徹底 的犯罪調査の結果、ツビルマンを包む霧は幾分取り払われた。ツビルマンは調 査員が事情聴取をしようとしたとき姿を消し、委員会がやっとのことで彼に召 喚状を受理させたときには、自己を有罪に導く可能性がある発現を四十一回も 拒否しなければならなかった...彼は早くからいかがわしい商売を数多く手が け、禁酒法時代にはニュージャージーの酒の密輸入船団を取り仕切る頭目の一 人となった。...彼は合法的企業に多額の資金を投じ始め...そしてこれらの合 法を装った見せかけの企業は、ケハウファー調査によって初めて明るみに出さ れ...彼は不正手段で得た多額の資金を、ニュージャージー州全域を牛耳るた めに注ぎ込んだ...一九五二年には彼は所得税脱税の罪で裁判にかけられた が、無罪となった。しかし今月、FBIは一人の陪審員が買収されていたとし てこれを告発し、逮捕した」 ドール・シャリーは一九六三年から一九六九までADL全米会長の地位にあ ったが、彼がその地位に任命されたことは象徴的な出来事だった。この頃ユダ ヤ・シンジケートの存在は公になりかかっていたが、ADLにとっては、自分 たちとその犯罪組織との長期にわたる深いかかわりを隠す必要はもはやなくな っていた。 ADL用「洗浄」銀行 ADLと犯罪シンジケートとの最も古くかつ強力な結び付きは、組織犯罪集 団の御用達であったニューヨークの銀行の一つ、スターリング・ナショナル銀 行に見ることができる。組織犯罪の専門研究家によると、この銀行はメイ ヤー・ランスキーに非常に近いシンジケートの仕事仲間フランク・エリクソン により、一九二九年に設立されたものである。 エリクソンはランスキーの金銭の出納を任されていた。ユダヤ・ギャングの 「ブレーン」だったランスキーの前任者アーノルド・ロススタインが一九二六 年十一月に暗殺された後、ランスキーは個人的にシンジケートの全米の競馬呑 み屋に関する業務をエリクソンに担当させた。ランスキーの伝記作家ハンク・ メシェクによれば、彼はエリクソンに自分が密かに所有していたフロリダの競 馬場やネバダのカジノなど、いくつかの主要な事業における金銭の出納を任せ ていた。 スターリング・ナショナル銀行はまたニューヨーク、ガーメント・センター (マンハッタンにある婦人用衣服製造、卸売の中心)におけるシンジケートの 「債権取立」銀行でもあった。つまり何千もの中小衣服製造業者に対し、原料 買付用として高利の短期資金を貸付けていたのである。その貸付金は衣服製造 業者の売掛金を担保としていた。それはある程度合法化された高利貸業であっ た。エリクソンがランスキーと関係があったことから、スターリング・ナショ ナル銀行はガーメント・センターを実質上完全に支配することになった。 セオドア・H・シルバートは一九三四年にこの銀行に加わり、一九四五年に 頭取になった。スターリング・ナショナル銀行は一九六六年には彼の下で再編 され、スタンダード・ファイナンシャル社の完全子会社となった。さらにその スタンダード・ファイナンシャル社はニューヨーク株式市場に上場されている 持株会社スターリング・バンコープの全額出資下に置かれた。そしてシルバー トはこれら三つの会社それぞれの会長、取締役、経営最高責任者に就任した。 スターリング・ナショナル銀行の実態シルバートはまたADLの終身メン バーで、全米委員会および全米執行委員会とともに、その資金集めと広報をも 担当した。広報活動にはギャングの一員モー・ダリッツや、ランスキーの手先 である人物が多勢加わった。シルバートは現在ADLの名誉副会長である。 スターリング・ナショナル銀行はADLの銀行である。国税庁が保存してい る一九七六年にまで溯るADLの財務記録によれば、スターリング・ナショナ ル銀行とスタンダード・ファイナンシャル社は、唯一の例外を除きADLが出 資を行った二つだけの外部組織であった(唯一の例外はADLの全米委員でか つてブナイ・ブリスの国際部長だったフィリップ・クラツニックが率いるアメ リカン・バンク・アンド・トラスト社に五千ドルを出資したその一回)。AD Lは広報活動用の銀行預金口座をスターリング・ナショナル銀行に設けてい た。ADLの活動に詳しい金融界筋の情報によると、一九七八年以後同団体は ADL財団を含むそのすべての銀行、投資活動を同銀行へ移していた。 シルバートは全米犯罪シンジケートと銀行との関係を隠すために、スターリ ング・ナショナル銀行の財務最高責任者に就任したふしがある。にもかかわら ず、彼は、銀行を犯罪との結び付きから文壇したと上手に見せかけることがで きたとは言えない。 訴えられてボロが出た 一九八二年時点で、スターリング・ナショナル銀行とその関連持株会社は、 詐欺と横領の共同謀議に荷担したとして三件の民事訴訟で訴えられていた。ス ターリング・ナショナル銀行に向けられた訴訟は、最近のアイヴァン・ボウス キーとマイケル・ミルケンに対して起こされた訴えと同種のものである。その 容疑はADLが関係したジャンク・ボンドに絡む詐欺とインサイダー取引に関 するものであった。 一九七九年にダニエル・マイスターはスターリング・ナショナル銀行、スタ ンダード・ファクターズ、ブルック・アンド・テイラー、リード・アンド・ダ ンモア、バーナード・スペクターおよびマービン・トーラーマンをニューヨー クの南部地区連邦地方裁判所に訴えた。凡例番号は七九CIV三〇四〇であっ た。マイスターはトーラーマンを、投資家からの詐欺を目的としてスターリン グ・ナショナル銀行と共謀し、自分の会社ラテン・アメリカン・リゾーシーズ に対し横領を働いたと訴えた。その盗みの手口を見れば、同行がどのように不 正資金を「洗浄」した上でADLに流していたかがよくわかる。 トーラーマンは会社の資産八十八万ドルを、彼が所有するニュージャージー のダミー会社宛の銀行発行の信用状に転換した。スターリング・ナショナル銀 行はパナマとスイスにある一連のオフショア銀行口座に金銭を振り込んだ。 トーラーマンはスターリング・ナショナル銀行が有する海外での資金洗浄手法 を利用することによって、自分自身の会社の借金を踏み倒し現金を持ち逃げし た。トーラーマンはスターリング・ナショナル銀行の債権回収部長ジョーダ ン・ボッシュを共謀者とする民事訴訟の外、刑事訴訟においても犯罪の事実を 認めた。 スターリング・ナショナル銀行は、それより数年前にも同じような手口で連 邦裁判所に民事訴訟で訴えられていた。それはすでに倒産している会社への当 市を勧誘して一般大衆から金銭をだまし取るために、他の多くの銀行と共謀し て公開会社の倒産を隠したことによるものである。一九七六年にはデービッ ド・ヘイバーが、インベスターズ・ファンディング社のオーナーであるジェ ローム・ノーマンおよびファラエル・ダンスカーに対し集団訴訟を起こした。 同社は一九四六年に設立され一九七四年に倒産したが、その時点でスターリン グ・ナショナル銀行はイスラエル・ディスカウント、バークレーズの両行並び にその他の多くの会社と結託して、同社が倒産したことを十分に知りながら同 社株の売買を続け、それによって得た利益を秘密口座に隠蔽していた。 NATO司令官誘拐事件 スターリング・ナショナルが関与した最大の銀行詐欺スキャンダルは、一九 八〇年代初期に国際テロリズムを背景として行われたものである。 一九八一年一二月、イタリアの赤い旅団のテロリストが、イタリアのNAT O軍司令官ジェームズ・ドジェ将軍を誘拐した。この事件に対する初期捜査 は、通常の人質救出作戦と比較して思い切ったやり方で進められ、イタリア政 府はイタリアとシシリー全土のマフィアの本拠地に対する一斉手入れを開始し ただけでなく、 ニューヨークにおけるギャングの金融取引にも捜査の手を伸 ばし始めた。 イタリア政府がこのような救出作戦のやり方をとったのは、こうすれば犯罪 シンジケートは捜査の手を緩めるため、ドジェ将軍の解放に関して米伊両国の 政府に協力してくるだろうと予想したからだった。というのもこの捜査により シンジケートは何十億ドルもの損失と被った上に、組織の基盤が危うくなって いたからである。イタリア政府はこの時点ですでに、国内のテロリスト組織が 在来の犯罪地下組織網と連携し、麻薬の密輸と誘拐を手助けする見返りとし て、ギャングから武器と隠れ家および偽造身分証明書を手に入れていることを 割り出していた。 政府の救出活動に組織犯罪グループを利用するという対テロリズム強硬作戦 の結果、イタリア政府はドジェ将軍の解放と赤い旅団の誘拐犯の逮捕に成功し た。 イタリア政府が乗り出す ところでこの捜査の過程で、ADLおよびADLと組織犯罪とのつながりに 関して深い係わりのある興味深い出来事が起こった。 一九八二年一月二十九日、イタリア政府はアドルフォ・ドルメッタ、ジョバ ンニ・ルボリおよびヴィットリオ・コーダを通してニューヨークの南部地区連 邦地方裁判所に対し、「法定信託、横領謀議、詐欺および受託者義務違反」に 関する民事訴訟を正式に提起した。被告人はスターリング・バンコープ、スタ ンダード・プルーデンシャル・コーポレーション(以前のファイナンシャル・ コーポレーション)およびスターリング・ナショナル・バンク・アンド・トラ スト・カンパニー・オブ・ニューヨーク(スターリング・ナショナル銀行)、 原告はイタリア政府が任命したバンカ・プリヴァータ・イタリアーナ社の清算 人であった。原告側はイタリア人銀行家ミケーレ・シンドーナが一九七三年か ら七四年にわたり、バンカ・プリヴァータおよび同じミラノの銀行であるバン カ・ユニオーネの両行の預金口座から二千七百万ドルを盗むのを手助けする国 際的資金洗浄行為に、スターリング・ナショナルが荷担したと訴えた。 南部地区裁判所に残されている民事訴訟記録には次のような記述が見られ る。「バンカ・プリヴァータ・イタリアーナは一九七四年九月二十七日付でイ タリア財務省から清算命令を下された。同行の当初の清算人ジョルジョ・アン ブロソリは一九七九年七月に殺害された。一九八〇年にミラノでシンドーナと 他の一人について開始した刑事訴訟手続きの中で、一九八一年七月、ミラノの 担当判事はシンドーナに対し、アンブロソリの殺害容疑で逮捕状を出した」 アンブロソリ暗殺の後、三人の原告がバンカ・プリヴァータの清算人に任命 された。一九八二年一月のスターリング・ナショナル銀行に対する訴訟は、シ ンジケートにドジェ将軍救出に強力させることを狙ったイタリア当局の、マフ ィアに対する厳重なる取締りの一環であった。シンドーナは一九八一年五月に 起こった法王ヨハネ・パウロ二世暗殺未遂事件に加担した犯罪者集団、フリー メーソン普及ロッジに関係していた。 政権内に巣をつくる スターリング・ナショナル銀行は、民事訴訟の中でシンドーナの横領を幇助 したとして訴えられた。その内容はスイス、ルクセンブルグ、ユタ州およびデ ラウェア州にあるダミー会社を使って手の込んだ資金洗浄行為を実施し、シン ドーナがバンカ・プリヴァータとバンカ・ユニオーネ両行の預金から二千七百 十八万ドルを盗んだというものである。この横領はシンドーナが多額の投資を 行っていたニューヨーク州ロング・アイランドにあるフランクリン・ナショナ ル銀行の破産がきっかけとなった。この銀行の破産による損失を補填するた め、シンドーナは自分が支配する他の銀行の預金横領を始めたふしがある。シ ンドーナ、スターリング・ナショナルとともに訴えられたのは、フランクリ ン・ナショナルの破産当時におけるシンドーナの仕事上のパートナーで、ニク ソン政権の財務長官を務めたデービッド・ケネディであった。 スターリング・ナショナル銀行は、ニューヨークにある債権回収会社タルコ ット・ナショナル社の株式購入を仲介することによって、シンドーナが盗んだ 金銭を隠すのを助けた。それは両行がアメリカの法律違反の嫌疑により連邦準 備委員会の追求から逃れるための手段であった。スターリング・ナショナルは シンドーナにその時二百七十万ドルを「貸付け」たが、その貸付けはシンドー ナがタルコットの株を同行に差入れることによって担保され、同行が後日これ をデービッド・ケネディに「売却」した際、ケネディが購入代金として充てた 資金は、スターリング・ナショナル自体が用意したものだったのである。この 手の込んだ細工によってシンドーナは一時的にではあったが、横領の事実を隠 蔽した。 レーガン政権下の「金融手品師」 シンドーナによるバンカ・プリヴァータの詐欺事件は、メイヤー・ランス キーの組織犯罪の手引書通りに行われた典型的なものであった。スターリン グ・ナショナルの持っているノウハウからすればこの程度のことは別に驚くに はあたらない。その取締役の中には何人かの金融上の手品の専門家がいたし、 そのうち少なくとも二人はレーガン・ブッシュ政権で非常に重要な地位にあっ た。そしてこの二人はともにADLの主要な後援者でもあった。 その中の一人であるマクスウェル・ラブは、ADLの中でも有力な地位にあ るニューヨーク州支部の副会長であり、またスターリング・ナショナル銀行の 取締役で、ロナルド・レーガン大統領の下でイタリア大使を務めた人物であ る。 ラブはローマでの外交上の地位にある間、主要なユダヤ・ギャングの弁護士 ロイ・マーカス・コーンと緊密な関係にあった。ラブの娘はアメリカ市民では あったが、イタリアに囲まれた小国サン・マリノの政府財政最高顧問をしてい た。サン・マリノはイタリア共産党が支配しており、世界中で最も銀後期生が 緩いことでよく知られている。ラブはアイゼンハワー政権時代以来、ADLお 抱えの政治家であった。アイゼンハワー政権では彼は閣僚の一人だった。こう した立派な政治的経歴を有しているにもかかわらず、ラブは一九七〇年代に 『ニューヨーク・シティ』紙でメイヤー・ランスキーの仕事上のパートナーと して紹介された。ラブとランスキーは共同でインターナショナル・エアポー ト・ホテルズ社を興した。ランスキーがこのように会社の取締役として名を連 ねるのは稀であった。しかしADLの最高幹部と手を組むという大胆な手段を 彼が選択したのは別段不思議なことではない。 不起訴処分であったバーンズ スターリング・ナショナル銀行の取締役の中で、ADLとレーガン双方につ ながっていたもう一人の人物はアーノルド・バーンズであった。一九八五年に バーンズはレーガン大統領により司法副長官に任命されたが、これは彼をアメ リカの検察官として上から二番目の地位に就けるものであった。バーンズはラ ブと同様、組織犯罪と非常に強いつながりを持っていた。彼は自分が経営する バーンズ・アンド・サミット法律事務所を通して、依頼人にオフショアのタッ クス・シェルター(税金逃れの隠れ蓑)への架空の投資を行わせることによる 脱税方法を考案した。タックス・シェルターに入った金銭は、最終的にはイス ラエルのハイテク企業に流れるようになっていた。アメリカ議会のシオニス ト・ロビーが連邦税法の中に巧みに仕組んだ信じ難い抜け穴によって、イスラ エルの研究開発関連会社に対する投資は免税扱いとなっていたのである。 ところが消息筋と連邦政府の調査によると、バーンズ・アンド・サミット法 律事務所はイスラエルの会社に資金を回してはいなかった。彼らは投資家のカ ネをバハマのオフショアの秘密銀行口座に移したにすぎない。にもかかわらず 彼らは投資家には何百万ドルもの税控除をさせたわけである。 このスキャンダルに関係した少なくとも一つの消息筋は、バーンズと共謀し ていたイスラエルの弁護士の一人がハワード・カッツだったと指摘している。 彼はかつてマサチューセッツ州ボストンで活躍していた弁護士で、ジョナサ ン・ジェイ・ポラードのスパイ事件に深くかかわっていた。カッツはイスラエ ルのスパイ活動用の秘密口座を管理しており、ポラードに対する報酬もその口 座を通じて支払われた。彼は個人的にワシントンにアパートを購入していた が、ポラードはそこでアメリカ政府の極秘文書をイスラエル大使館職員に手渡 していた。 こののっぴきならないすべての証拠が公となったにもかかわらず、アーノル ド・バーンズが起訴されることはなかった。バーンズが法廷で自分の依頼人と 仕事上のパートナーにとって不利な証言をした結果、彼らは刑務所行きとなっ たが、バーンズ自身は連邦検察官との秘密取引のおかげで合衆国の司法副長官 となった。 プライベート情報は盗まれている 司法副長官としての地位を利用して、バーンズはワシントンのコンピュー ター・ソフト会社インスロー社の乗取りに関係者として大きな役割を演じた。 同社は司法省からコンピューターによる判例管理システムの設置および管理に 関する十億ドルの契約を受注することになっていた。 アメリカ連邦裁判所の記録によると、バーンズたちはコンピューター・ソフ ト契約をのっとる計略の一環として、司法省に対しインスロー社への何百万ド ルもの支払いを思いとどまらせることにより、計画的に同社を破産させたとい う。インスロー社の破産に関する上院調査報告書では、バーンズはインスロー 社側の法律事務所に個人的に介入し、司法省を相手取った同社の訴訟を故意に 妨害したということになっている。 証拠によるとバーンズはウォール街の当市会社チャールズ・アレン・アン ド・カンパニーのために働いていたようである。ギャングが関係しているアレ ン社は司法省との契約を巡ってインスロー社と戦ったライバル会社に融資して いた。さらにアレン社は、メイヤー・ランスキーが一九六〇年代にカリブ海の バハマ諸島でカジノ賭博と麻薬密売の一大帝国を築き上げたときの主たる融資 者でもあった。 コンピューター業界の専門家は、司法省のコンピューターに携わる会社が、 国家機密に係わる情報を含む連邦政府の全犯罪に関する裁判関係のデータ・ ベースに対し、リアル・タイムでアクセスしていると認めている。つまり大陪 審での証言、連邦政府のために秘密工作に従事しているエージェントの身元、 連邦政府によって保護されている証人、そして係争中の起訴手続きといったも のがこういう会社ではすぐに分かるわけである。インスロー社に関する事件は 今でも連邦裁判所で争われており、また少なくとも議会の調査対象の一つとな っている。 腐敗弁護士の悪だくみメイヤー・ランスキーによる全米犯罪シンジケート合 法化計画の第一の鍵が、腐敗した銀行家の存在であるとするなら、二つ目は腐 敗した弁護士の存在だった。ここで再びADLが、主要な役割を果たす人材を 供給することになる。 ランスキーの壮大な計画の中で、ADL側の中心的役割を担っている人物は まさしくケネス・ビアルキンである。ドール・シャリーと同様、ビアルキンは ADLとギャングとの密接な結合ぶりを示す象徴であった。ウォール街におい て最も有力かつ裕福な弁護士の一人、ビアルキンは一九八二年から八六年にわ たりADL全米会長であった。一九八四年には彼は有力ユダヤ組織代表者会議 の会長にも就任した。また名門のエルサレム財団の理事長でもあった。その財 団は長年エルサレム市長をしているテディー・コレック率いるフリーメーソン の集まりであることがはっきりしている。今日、ビアルキンはADLの名誉会 長であるとともに、現在のところその主要な資金調達機関であり、スターリン グ・ナショナル銀行内にその事務所を置くADL財団の理事長でもある。 数年前に世界最大の法律事務所、スカデン・アープスに移籍するまで、ビア ルキンはウォール街にあるウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務 所の二人の業務執行パートナーの一人であった。ウィルキー・ファーでの在職 期間中、彼の事務所はADLの法律問題を多数手がけたが、それらはすべて報 酬なしだった。 マネー・ローンダリング ニューヨークの南部地区連邦裁判所の記録によると、弁護士ケネス・ビアル キンは国際的逃亡犯である麻薬密売人ロバート・ヴェスコのブレーンでもあっ た。 ロバート・ヴェスコ、ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーとその他何 人かのADL最高幹部が行った二億七千万ドルに上るかなり手の込んだインベ スターズ・オーバーシーズ・サービス(IOS)横領事件を理解するために は、一九六〇年代にロスチャイルド家の手先バーニー・コーンフェルドが当初 つくり上げたIOSの資金洗浄(マネー・ローンダリング)手法を簡単に説明 する必要がある。 ニューヨークでかつてアメリカ社会党を創立したバーニー・コーンフェルド は、ロスチャイルド家のフランスの一族により用意された創業資金を手に、一 九六〇年代初期にスイスのジュネーブに現れた。彼は表向きは世界中の多数の 中小投資家のために、ミューチュアル・ファンドからなるポートフォリオを運 用するためと称して、IOSをはじめ投資信託を組み入れたファンド、ファン ド・オブ・ファンズなどからなる複雑な企業ネットワークを直ちにつくり上げ た。コーンフェルドの会社はすべて、銀行機密法によって投資家と預金者の身 元の秘密が守られるスイスに設立されたため、初めから組織犯罪による収益、 特に全米犯罪シンジケートの頭目、メイヤー・ランスキーが手にした収益の隠 し場所となっている。 作家ハンク・メシックはコーンフェルドとIOSと、ランスキーとの関係に ついて次のように語っている。「同時期にバハマでカジノが拡がった結果、も う一つの非常に重大な事態が発生した。ランスキーの大計画の最終段階の仕上 げとして、公益法人が賭博の世界に入り込んできた」「背後で重要な役割を演 じたのは、約二十億ドルを投資信託の形で保有する多くの会社の親会社である 巨大なIOSであった。スイスに本拠地を置き、したがって米国証券取引委員 会の規制を受けることがないIOSは世界中で活動した。IOSはカジノを所 有する公益法人から自分の匿名の顧客のために株式を買付けたが、その買い手 がメイヤー・ランスキーであるのか、ヘンリー・フォード二世であるのか、そ れはわからなかった」「アルビン・マルニックの一九七〇年の裁判によって、 ギャングが支配するナッソーのバンク・オブ・ワールド・コマース(世界商業 銀行)とタイバー・ローゼンバームが率いるインターナショナル・クレジッ ト・バンク・オブ・スイツァランド(スイス国際信用銀行)とに関する多くの 情報が明るみに出た。文字通り何百万ドルもの金銭がこの二つの銀行間を行き 来し、そしてアメリカに再投資された。IOSと国際信用銀行とのつながりに ついては不明な点が多いが、両者に関係があったことは事実である」 国際信用銀行の悪用「IOSの設立者であり一九七〇年までその経営に非凡 な才を見せた人物バーニー・コーンフェルドは、タイバー・ローゼンバウムの 親しい友人であるとともに、そのビジネス上の協力者でもあった。例えばIO Sと国際信用銀行は、ジュネーブの英字新聞社に共同で貸付けをし、後にIO Sが同社を買収した」「さらに重要なことはコーンフェルドがシルベイン・フ ェルドマンを使ったことだ。国際信用銀行の職員であったフェルドマンは、一 九六七年の『ライフ』誌の中でメイヤー・ランスキーが秘密の情報を伝えるの に使ったスパイだと指摘された。彼はまたマルニックのの親しい友人であると ともに、世界商業銀行の協力者でもあった。IOSがブラジルで問題を抱えた とき、コーンフェルドは自体を収拾するためフェルドマンをブラジルへ派遣し た。表向きは慈善団体から派遣されたように見せかけていたが、実際は彼は工 作員であった」「国際信用銀行は金銭の流れを手早く処理し、情報の運び屋で あるスパイを使う必要性をなくすため、最終的にナッソーに支店事務所を開設 した。ナッソーにはIOSの会社が数多く存在したが、国際信用銀行がナッ ソーに支店を開いたことで、資金をいったん同支店に移して裏金に変え、それ を再び貸付けあるいは投資に回すということが簡単にできるようになった」 「そのようなやり方で行った投資の一つとして表に出たのが、ガルフストリー ム公園のま東にある『ランスキーランド』での四千万ドルに上る高層マンショ ン群であった。その本当の所有者は誰にもわからない」「たとえば大企業のリ ゾーツ・インターナショナル社株がIOSによって買われたが、それがランス キーの意向を受けたものだったという話を聞かされたとき、リゾーツ社側は動 揺した。しかし皮肉なことに、そのことを否定しようにも同社はその証拠を得 ることができなかった」「国際的な金融機構を利用することによって、ランス キーあるいは他の組織犯罪のメンバーの財産を隠す仕組みが出来上がった。そ の意図と目的を隠すため、その仕組みが明らかにされることはなかった」 ヤミ収益隠しのフロント・マン この仕組みが見えないということに付随して出てきたメリットは、コーンフ ェルドのような表面要員(フロント・マン)を排除あるいは交替させるのに、 従来からの手段に訴える必要がなくなったことである。その手段とはシンジ ケートの成立当初から存在し、ランスキー自身が作った殺人会社により完成さ れた粛正方法である。そこで要員を引退させることは、ウォール街の法律事務 所や高い報酬をとる会計士の仕事になった。 連邦裁判所の記録によると、ケネス・ビアルキンとウィルキー・ファー・ア ンド・ギャラガーは、IOSからコーンフェルドを追い出したことになってい る。彼の後任者となったのは、オール・アメリカン・エンジニアリングという CIAの隠れ蓑会社(フロント・カンパニー)に一時雇われていたデトロイト 生まれのセールスマンであった。同社はデラウエアに本社があるデュポン・ケ ミカル社の全額出資子会社で、その男の名はロバート・ヴェスコであった。 裁判所の記録と他の出版物を注意深く調べてみると、ヴェスコはADL工作 員グループのために任命された表面要員であったことがわかる。一九七四年の ファンド・オブ・ファンズに詐取された投資家たちによる集団訴訟の際のケネ ス・ビアルキンの証言によれば、ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーは ヴェスコがIOSを乗っ取り結果的に横取りする数年前から彼と組んで仕事を していたということである。 ユダヤ・ギャングの活用 一九七一年、ロンドンでウィルキー・ファー法律事務所の弁護士は、メシュ ラム・リクリスという名の裕福なユダヤ人ギャングにヴェスコを紹介した。リ クリスはイスラエル独立戦争の間イギリスに協力し警察へ密告を行っていたこ とが発覚し、地下組織の一つイルグンから死刑を宣告されたためパレスチナか ら逃亡した。彼はミネソタ州ミネアポリスに辿り着き、そこで地方の穀物カル テルの一員でADLの最高幹部の一人でもあったバートン・ジョセフに拾われ た。ジョセフは一九七七年から八〇年までの間ADLの全米委員会会長であっ た。 ジョセフから援助された創業資金によりリクリスは、メイヤー・ランスキー の禁酒法時代の密売組織と全米犯罪シンジケートの傘下にあった酒造会社の中 でも中心的な会社であるシェンリーズ・ディスティラリーズ社を買収した。同 社はランスキー、ジョニー・トリオおよびジョセフ・リンゼイの長年の友であ るルイス・ローゼンスタイルが興した会社だった。 早くからランスキーのシンジケートの後援者であったトリオは、ローゼンス タイルの義理の兄弟ハーバート・ヘラーが経営するシェンリーズの関連会社ブ レンダーガスト・アンド・デイビーズ社の筆頭株主であった。ローゼンスタイ ルもまた、全米犯罪シンジケートがその社会的地位と評価をどのように手にし たかを示す成功例であった。ローゼンスタイルは単にADLへの大口献金者と いうだけではなかった。彼はマイアミ大学に対して最も多額の寄付を行った一 人であるとともに、彼の長年の友でFBI長官だったJ・エドガー・フーバー 財団の設立者でもあった。この財団はシェンリーズ・ディスティラリーズ社の 株式を基に設立された。彼がFBIでの長年にわたるフーバーの副官としての 職を下りたとき、ルイス・ニコルスがシェンリーズ社の副社長となった。 この会社はリクリスとその背後にあるADLグループにとっては申し分のな い隠れ蓑であった。リクリスはIOSに大量の投資を行った。ヴェスコとロン ドンで会談した際、彼は投資信託の一大帝国を支配できるほど大量のIOS株 を買い込んだ。 この巧みなる悪知恵 コーンフェルドを追い出し、ヴェスコをその後釜に据える企ては、IOSの 関連会社の取締役会にウィルキー・ファー法律事務所の少なくとも三人のパー トナー―アラン・コンウィル、ジョン・ダリモンテおよびレイモンド・メリッ ト―が名を連ねていたことでうまく運んだ。 一九七一年にリクリスはIOSにおける自分の支配権をロバート・ヴェスコ に委譲した。ヴェスコは直ちにコーンフェルドの同社における取締役の地位を 剥奪した。一九七二年初頭のヴェスコによる乗取りの少し後、ウィルキー・フ ァー法律事務所の弁護士アラン・コンウィルはIOSの子会社であるFOFプ ロプリエタリー・ファンズの資産の大部分を六千万ドルで売却した。一九七二 年八月中にその売却代金はオーバーシーズ・ディヴェロプメント・バンクとい うルクセンブルグのシェル・カンパニー(株式の公開買付けの対象となるよう な弱小会社)に不法に移された。このシェル・カンパニーはバンク・オブ・ニ ューヨークにあったFOFプロプリエタリー・ファンズの銀行口座から詐取さ れた六千万ドルの単なる受け皿としてウィルキー・ファーが設立したものであ った。 その資金はまもなくインターアメリカン社というウィルキー・ファーによっ て設立されたもう一つのヴェスコの隠れ蓑会社に移された。全く価値のないイ ンターアメリカン社の株式を購入した形をとることにより、この資金はバハ マ・フェニックス銀行の中で洗浄された。この銀行は、ウィルキー・ファー法 律事務所のジェイ・レヴィの手で、この目的のために設立されたもう一つの会 社だった。結局この六千万ドルは、目下逃亡中のヴェスコが辿りついた先と同 じコスタリカに到着した。 それと並行してヴェスコはIOSの資金の中から別に二億一千万ドルを横領 した。それらの資金はメイヤー・ランスキーの犯罪組織が長年の間洗浄行為を 続けて貯めた収益で、ヴェスコはこれをさらにカリブ海を基地とするオフショ アの銀行に移しただけだと広く信じられている。このカリブの銀行組織は、ス イスを中心とするIOSおよびその関連会社であるインターナショナル・クレ ディット・バンク・オブ・タイバー・ローゼンバームに代わるものとして新し くつくられた機関である。IOSから二億一千万ドルが持ち出された正確な経 路はわからない。というのは「投資家」はその資金を取り戻すためにヴェス コ、ビアルキンをはじめとする人々を訴えようとは一切しなかったからであ る。この事実は、ヴェスコとビアルキンによるIOS横領事件が当時進行中で あった北米組織犯罪の再編作業の重要部分であったことを示す有力な状況証拠 にすぎない。ランスキーは世界の汚れた金銭の洗浄行為の中心地を、スイス山 中の本拠地から新しくカリブ海につくり上げた大規模な賭博とホット・マネー からなる彼の一大帝国へと移動させたのである。 今やジュネーブ軍縮委員長、カンペルマン コスタリカに上陸して後も、このウィルキー・ファーの表面要員はビアルキ ンと彼の会社を通じて依然活動していた。ヴェスコはランスキーがその何年か 前に設立したバハマに本社を置くカジノとリゾートの会社、リゾーツ・イン ターナショナル社を買収しようとした。ヴェスコの弁護士とリゾーツ側を代理 する弁護士との一連の話合いにもかかわらず、この取引は実現しなかった。 この取引の背後にもADLの人間が絡んでいた。正体を見せないグループを 代表してこの交渉にあたったのはウォール街のフライド・フランク・ハリス・ シュライバー・アンド・カンペルマン法律事務所であった。同事務所のシニ ア・パートナーであるカンペルマンは、現在ADLの名誉副会長であり、長年 にわたってADLの全米委員として活躍した。彼はリクリスとヴェスコにビジ ネス・チャンスを与えたバートン・ジョセフと同じ「ミネアポリス・マフィ ア」の一員であった。 バハマのパラダイス島にあったリゾーツ・インターナショナル社買収工作に ヴェスコが失敗した理由としては、一九七四年七月にニューヨークの南部地区 連邦地方裁判所に対し集団訴訟(七四CIV八〇)が提起された結果、後にA DLの全米委員会会長となる人物がIOSから六千万ドルを横領するのに使っ た複雑な手口が露見する恐れが生じた事実を挙げることができる。「ファン ド・オブ・ファンズおよびインベスターズ・オーバーシーズ・サービス社の株 主対ロバート・ヴェスコ、アラン・コンウェル、バンク・オブ・ニューヨーク およびウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務所」訴訟は六年間続 いたが、陪審員の最終評決は被告側に不利な結果となり、裁判所はバンク・オ ブ・ニューヨークとビアルキンの法律事務所であるウィルキー・ファーに対し 六千万ドルの支払いを命じた。 一九八〇年七月三十一日、連邦判事D・J・スチュワートは、バンク・オ ブ・ニューヨークに対し、横領の被害に遭ったIOSの投資家への総額三千五 百六十万ドルの支払いと、 ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガーに対し 残り二千四百四十万ドルの支払いを命じる判決を下した。この訴訟に関する裁 判所の公開資料は二十個の箱に納められている。それらの中にはヴェスコの横 領計画にケネス・ビアルキンとウィルキー・ファーが関与したことを示す大量 の通信文書、宣誓証言その他の証拠資料が含まれている。 ADLの実態を隠し続ける ヴェスコの次なる仕事は世界の不法麻薬取引の元締めになることだった。今 や米国司法省から追われる身のヴェスコは、金融面における凄腕のならず者と いうイメージを払拭し、コスタリカに広大な壁を廻らした地所を入手し、島の いいかげんな政治家たちを札束で頬を叩くようにしてことごとく買収してい る。そして自分自身とその家族仕事仲間をカリブ海のあちこちに運ぶヨットを 購入するなどしている。 ヴェスコは一九七二年のリチャード・ニクソンの再選キャンペーンに違法な ほど多額の献金をし、また一九七六年の民主党のジミー・カーターの大統領キ ャンペーンにも同様に密かに献金を行っている。遠く離れたカリブ海で逃亡生 活を続けていたにもかかわらず、彼は新政権に対する影響力を拡大した。そし て大統領の弟ビリー・カーターを買収することによって、リビアの独裁者ムア マル・カダフィが購入していたボーイング七四七の引渡しの凍結状態を解除し ようとした。ビリーは喜んでヴェスコやカダフィに協力した。一九八〇年のジ ミー・カーターの再選キャンペーンの直前に「ビリーゲート」事件が新聞紙上 を賑わしたとき、実質的にカーターの敗北が決まった。 こうして次から次へと事件を起こした結果、以前にもましてヴェスコの金融 詐欺師としての名は高まった。同時にこうした事件でその悪名が高まれば高ま るほど、ビアルキン、ジョセフ、リクリス、カンペルマン等のADLの大物と 彼との結び付きはますます人目につかないものになってきた。 しかしその実、ADLはランスキーの大計画に自分たちも加担している事実 を世間の目からそらすために、ヴェスコという人間を表向きに立てていたわけ である。この手口はランスキーがその正体を暴かれることがないよう自分を社 会の表舞台から遮断していたのとよく似たやり方である。
第十章 犯罪シンジケートへのイスラエル囲い込み 麻薬カルテル、メデリン 公にはその操縦母体であるADLと距離を保ちながら、ヴェスコは一九七九 年には、北米史上最大の利益をもたらす麻薬ルートをつくり上げていた。 自動車泥棒とマリファナ密輸のかどでフロリダの刑務所に六年間服役したこ とがあるコロンビアのチンピラやくざカルロス・レーダー・リバスと組んで、 彼はノーマンズ・ケイというバハマの島を購入した。その後三年間、この島は アメリカ向けコロンビア産コカインの主要中継点として利用された。密かにA DLシンジケートのために働くヴェスコとアドルフ・ヒトラーに対する尊敬の 念を公然と口にするコロンビアのチンピラやくざの共同事業というのは、どう 見ても不自然なものであるが、これも戦略的背景があってこそ行われているの である。 コロンビアにあるレーダーの組織は、メデリン犯罪組織の中心的グループと 密接な関係にあった。メデリン・ファミリーはエメラルドの密輸によって財を 築いたが、当時はボリビアとペルーでのコカイン生産を大幅に増やすために資 金を注ぎ込んでいた。このコカインはコロンビアにある秘密工場で精製され、 人目につかない小さな空港からアメリカに運び込まれた。このヴェスコとレー ダーの共同事業は、今日いわゆるメデリン・カルテルとして知られるものにま で成長した。 世間一般にはメデリン・カルテルというコロンビア新興勢力が、北米におけ る従来の麻薬犯罪組織に取って代わったと言われているが、事実は全くその逆 である。メイヤー・ランスキーは西半球一帯への麻薬の供給を目論んでいた が、カーター政権時代に銀行に対する規制が緩和された結果、その事業は大き く前進した。パナマ共和国と西インド諸島は一夜にしてダーティー・マネーの 新たな逃避先となったが、ランスキーとADLはこういった一連の動きを背後 から操るため事前にこの地に移ってきていた。彼らは苦労しながらもこうした オフショアの資金洗浄の仕組みをつくり上げたおかげで、旧来の組織ではあり ながらメデリンや他の南米のコカイン・カルテルを牛耳ることができた。コロ ンビア人の方は有名になったが、ADLの大物たちをはじめとするランスキー の組織は大金を懐にすることに成功した。 カーター政権内のADL ADLの支持者ソル・リノヴィッツはカーター政権のパナマ運河条約交渉特 別担当官だった。交渉に際しリノヴィッツには、パナマの銀行にオフショアの ダーティー・マネーを受け入れさせるという別の目的があった。彼は私欲のな い人間などでは決してなかった。パナマ・ナショナル・バンクの代行機関であ るマリーン・ミッドランド銀行の取締役として、リノヴィッツ自身は投機資金 であるホット・マネーを操っていた。パナマ運河条約交渉の最中の一九七八 年、マリーン・ミッドランド銀行は香港上海銀行に買収された。香港上海銀行 は、一九世紀における中国でのアヘン戦争以来、世界でも最も悪名高い麻薬資 金の洗浄機関である。 さらに一九八〇年代にランスキー一味がコカイン取引でボロ儲けをする体制 を築き上げていたちょうどその期間、カーター政権の商務長官はADLの最高 幹部フィリップ・クラツニックだった。証言に基づいてつくられた公式のAD L史『一日にして成らず』によると、クラツニックの商務長官選任に関して カーターのホワイト・ハウスと民主党全国委員長ロバート・シュトラウスが、 副大統領ウォルター・モンデールの長年の友であるバートン・ジョセフに直接 相談している。当時ADL全米委員長を務めていたこのバートン・ジョセフ は、前にも再三述べた通り、以前リクリスとヴェスコを結び付けた人物であ る。 カストロと麻薬ビジネス アメリカ政府捜査当局は、今日に至るまで、ロバート・ヴェスコがコカイン 取引の中心人物であると考えている。一九八一年にアメリカ麻薬取締官の逮捕 の手を避けるためコスタリカから逃亡して後、ヴェスコはついにキューバの独 裁者フィデル・カストロからハバナに住む許可を獲得した。このカストロの行 動は、キューバに一大カジノ帝国を築き上げるという野望を長年持ち続けてい たメイヤー・ランスキーを非常に喜ばせたに違いない。ランスキーの長年の友 であったファルゲンシオ・バチスタからカストロが政権を奪ったときに、彼の この夢は打ち砕かれてしまっていたからである。 このキューバの独裁共産主義者の厚意に応える形で、ヴェスコはレーダーと 共に築き上げた麻薬密輸ビジネスの仲間にカストロを加えた。カストロは特に アメリカ人の助けを必要としてはいなかった。一九六〇年代の初頭からすで に、彼はソ連の情報機関の手引により麻薬取引に手を染めていた。コロンビ ア、ペルー及び中米の共産ゲリラは、麻薬商人との取引により武器購入資金を 調達することを知っていた。極左ゲリラはコカインとマリファナの栽培農場を 警護したし、自分たちで実際に麻薬を栽培、精製することもあったし、またあ る場合には麻薬の原料を精製所へ輸送する麻薬商人に武装兵を提供することさ えもあった。 しかし、ヴェスコはカリブ海経由の主要密輸ルートにキューバ人とニカラグ ア周辺にいた親キューバのサンディニスタを直接参加させた。ヴェスコの仲介 によってキューバ人やニカラグア人は、メデリン・カルテルのための燃料補給 をはじめとする輸送の中継の仕事を程なく請負うようになった。麻薬をアメリ カに注ぎ込むことにより「ヤンキー」の文化的・精神的崩壊を早める一方で、 彼らは何百万ドルもの米貨を手にしたのである。 中米をおおう麻薬汚染 一九八九年四月一七日、米国司法省はコカイン密輸の容疑により大陪審がロ バート・ヴェスコを正式に起訴したと発表した。 起訴に関する新聞発表の一部は次の通りである。「フロリダ中部地区担当の ロバート・W・ジェンツマン検事は、メデリン・カルテルのメンバーによるコ ロンビアからアメリカへのコカイン密輸に関する捜査の結果、フロリダ州ジャ クソンビル大陪審が新たに追加した二人の被告を起訴したと本日発表した。ア メリカへのコカイン持込みを企てたことにより起訴されたのはロバート・ リー・ヴェスコである。ヴェスコ(五十五歳)は現在キューバに住んでおり、 一九七四年から一九八九年にかけ他の三十人の被告と共に行った共同謀議によ り起訴された。起訴状はヴェスコが以前メデリン・カルテルの首魁の一人であ ったカルロス・レーダーに対し、一九八四年末頃にコカインを積んだ飛行機の キューバ上空通過の便宜を図ったことを特に起訴理由として挙げている。レー ダーは、一九八八年のフロリダ州ジャクソンビルにおいてコカインを密輸した 事件で有罪判決を受け、現在終身刑で服役中である。もしヴェスコが有罪とい うことになれば、最高で終身刑と四百万ドルの罰金ということになる...」 「ヴェスコは一九八九年二月に陪審員の答申が出たパブロ・エスコバル・ガヴ ァリア、ホセ・ゴンサロ・ロドリゲス・ガチャ、ホルヘ・ヴァスケスをはじめ すべてメデリン・カルテルのメンバーからなる三十人の被告に対する訴訟の中 で罪に問われた」 一九八四年五月の起訴状によると、カルロス・レーダー、パブロ・エスコバ ル・ガヴァリア、ホルヘ・オチョア・ヴァスケス、ファビオ・オチョア・ヴァ スケスおよびゴンサロ・ロドリゲス・ガチャらはすべてニカラグア国外で活動 していた。メデリン・カルテルの殺し屋によってコロンビアの法務大臣ロドリ ゴ・ララ・ボニラが暗殺された直後、彼らはニカラグアから逃亡した。彼らメ デリン・カルテルの五人の頭目は、サンディニスタの役人に多額の賄賂を贈っ てその密輸取引の拠点をこの中米の国に移行していた。そしてすでに千四百キ ログラムに及ぶコカインをロス・ブラジルズ空軍基地の格納庫の中に隠してい た。 一九八四年十月、レーダーはニカラグアのコーン島からキューバのケイ ヨー・ラーゴにいるロバート・ヴェスコのもとに手紙を持たせた使いを送り、 この昔の密輸仲間にニカラグアからバハマのアンドロス島までコカインを運ぶ メデリン・カルテルの飛行機のキューバ領空通過をキューバ当局に働きかけて くれるよう要請した。ヴェスコは数日のうちにキューバ当局から領空飛行の許 可を得た。 イラン・コントラの仲介者名簿 ワシントンではADLラテン・アメリカ部の幹部ラビ・モートン・ローゼン タールが、サンディニスタ政府の反ユダヤ主義について大統領に状況説明をす るためにホワイト・ハウスに招かれた。ADLはニカラグアの反ユダヤのサン ディニスタ政権を転覆するための秘密戦争ではレーガン政権に協力することを 約束していた。メデリン・カルテルもまたレーガンの政権の支持を約束してい たと言われている。反サンディニスタ活動の一環として、メデリン・カルテル の銀行はレーガン政権のこの秘密戦争のために操縦士、航空機と何百万ドルも の現金を密かに用意した。メイヤー・ランスキーと彼のADLの仲間たちは、 ずっと前から、それが選挙キャンペーンであろうと戦争であろうと、すべての 闘いにおいて賭けのリスクを回避するため常に双方に投資するやり方をとって いた。 皮肉にもケネス・ビアルキンの最大の顧客ロバート・ヴェスコが、その長年 の友であるアラブの億万長者アドナン・カショギから買ったヨットの上でキ ューバの太陽を浴びてくつろいでいた時、レーガン政権の秘密チーム(オリ バー・ノース海軍中佐と引退した空軍のリチャード・セコード将軍)がイラン のアヤトラ・ホメイニとニカラグアのコントラ向けの武器の購入に要する数千 万ドルの資金を捻出するために、ビアルキンはカショギに代わって、一連の秘 密金融取引にあたっていた。手当てした資金の送金のために用意したスイスの 秘密銀行口座の管理にはウィラード・ツッカーなるチューリッヒの弁護士があ たっていた。ツッカーはウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務所 のヨーロッパ代表であり、ヴェスコによるIOS社の買収に際してはビアルキ ンに最も協力した人物だった。 以上のようなことが起こっていた間、ケネス・ビアルキンは一方ではADL の全米委員会会長として精力的に働いていた。 アメリカン・エキスプレスの買収 米国大統領は次々と交替するし、戦争もいつかは終了する。しかし全米犯罪 シンジケートをアメリカの政財界の中枢に送り込むというメイヤー・ランス キーの長年の目標は依然変わることはなかった。 一九八〇年代中頃にはADL会長ケネス・ビアルキンは、新たな段階に入っ たランスキーの壮大な計画にすでに取り込まれていた。つまりビアルキンは地 下活動から毎年あがる何十億ドルという利益をアメリカに還流させるための金 融機構づくりのために働いていたのである。 ちょうどロバート・ヴェスコがランスキーの財産をカリブ海にあるオフショ ア・バンキング・ヘイブンに移すのに手を貸したように、ビアルキンは今度は アメリカ企業の大部分が全米犯罪シンジケートの後継者たちの手に落ちること になる一連の劇的な企業買収を画策した。 ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務所に籍を置きながら、ビ アルキンはシェアソン・ローブ・ローズやエドモンド・サフラのサフラ・バン クをはじめとする何社かのウィルキー・ファーの顧客をアメリカン・エキスプ レス・コーポレーション(アメックス)に合併させた。アメックスとシェアソ ン合併のすぐ後、連邦捜査当局はクレジット・カード業務とマーチャント・バ ンギング業務からなるこのコングロマリット企業が、何百万ドルもの小切手を 組織犯罪集団に代わって振り出していたことを発見した。ペンシルベニア州の フィラデルフィアとフランスのパリにあるアメリカン・エキスプレスの事務所 が米国税関とFBI捜査官による手入れを受け、最高幹部が起訴された。 麻薬ルートをたどる しかしビアルキンの顧客と国際犯罪組織との間にもっと重大な関係があった ことは、起訴が言い渡される前にもみ消されてしまった。この事件にはスイス やブラジルの銀行のみならずニューヨークにあるリパブリック・ナショナル・ バンクを所有し、ビアルキンの顧客でありまたADLの主要な後援者でもある エドモンド・サフラも絡んでいた。 一九八八年に、アメリカの麻薬取締局と税関の職員は、スイスのアメリカ大 使館を捜査した結果チューリッヒに本拠を置くシャカーチ・トレーディング・ カンパニーが中東とラテン・アメリカの麻薬取引組織網のために資金を洗浄し ていた事実をつかんだ。ベルンを拠点とする捜査官は、トルコ、ブルガリア経 由でレバノンからチューリッヒにハシッシュとアヘンを持ち込むことで手にし た金塊や現金が、その後どのようなルートを辿るか追跡した。チューリッヒで は、シャカーチから遣わされた運び屋が届いた現物を受け取った。金塊は売却 され、その代金は別に受け取った現金とともにニューヨークにあるリパブリッ ク・ナショナル・バンクの口座に振り込まれた。 同時に、カリフォルニア州ロサンゼルスに本部を置き、メデリン・カルテル の資金を密かに洗浄している会社の徹底的調査を目的とする「ポーラー・キャ ップ作戦」に従事する麻薬取締局の操作官が、コカインによる利益もロサンゼ ルスからリパブリック・ナショナル・バンクの同じ口座に振り込まれているこ とをつきとめた。見たところ二つの別々の麻薬密輸組織間に、確固としたつな がりがあることが判明した。つまりともにシャカーチ・トレーディング・カン パニーという同じ資金洗浄機関を使っていたのである。 サフラが起訴されていたら シャカーチ社の背後関係を調査中の在スイス・アメリカの捜査官は、同社の 創立者であるモハメッド・シャカーチが、リパブリック・ナショナル・バンク のオーナーであるエドモンド・サフラとは古くからの友人であり、仕事仲間で もあることをつきとめた。捜査官はさらに、スイスの副大統領でかつ司法大臣 でもあるエリザベス・コップの夫がシャカーチ・トレーディング・カンパニー の重役をしており、スイスとアメリカで起訴される前に同社の取締役を辞任す るよう警告していた事実をつかんだ。その後に起こったスキャンダルの結果、 コップ夫人は辞職した。モハメッド・シャカーチの二人の息子は洗浄行為に関 与したかどで懲役刑に処せられた。だが、どういうわけかその理由は今でも謎 に包まれたままであるが、起訴されると見られていたエドモンド・サフラは、 結局起訴されなかった。 サフラが起訴されていたとすれば、ウォール街から国連プラザにあるADL 本部までが大混乱に陥っていただろう。このシリア生まれのユダヤ人は、一時 期アメックスのマーチャント・バンキング部門の筆頭に位置していたこともあ るし、ヘンリー・キッシンジャーやビアルキンとおもにアメックスの取締役会 にも名を連ねていた。さらにサフラは法律問題に関するパートナーであるビア ルキンやイラン・コントラに関与する人物ウィラード・ツッカーと一緒になっ て、レバノンにいる米国人人質の釈放を巡ってテヘランと秘密交渉する期間、 ノースとセコードが率いるチームにジェット便のサービスを提供するための会 社を設立していたからである。 企業買収マニアたち ケネス・ビアルキンが画策したアメックスによる大規模な買収は、その後に 続くもっと大がかりな企業買収のの単なる先駆にすぎなかった。こうした大規 模な買収行為は、アメリカの名門大企業の一部をADLの息のかかった人たち の手に渡すものだった。 企業買収業務にもっと専念するべくビアルキンは一九八八年一月にウィル キー・ファー法律事務所を辞め、世界最大でかつおそらく最も悪辣な法律事務 所スカデン・アープス・スレート・ミーガー・アンド・フロムに移った。スカ デン・アープスが公表している資料によると、同法律事務所は現在千人以上の 弁護士と二千人以上の事務職員、補助職員を抱え、アメリカ全土、極東および ヨーロッパに事務所を有している。一九八九年中に、同事務所が顧客に請求し た報酬総額は四億ドルを抱えている。それほどの収益を手にしていながら、ス カデン・アープスはこの一世紀最大とまでは言わずともこの十年間で最大のホ ワイト・カラー犯罪に関与してきた。 スカデン・アープスは企業買収を得意とする。この事務所の共同設立者であ る弁護士ジョセフ・フロムは「レバレッジド・バイアウト(LBO、主として 借入金による買収)」「ホスタル・テイクオーバー(敵対的買収)」あるいは 「コーポレート・レイド(企業乗取り)」といった名で呼ばれる技法を開発し たことで広く知られている。スカデン・アープスの顧客中最大の買収マニアで 一九八五年から一九八八年にかけてアメリカ企業を総なめにしたのは、ジャン ク・ボンドを編み出したマイケル・ミルケンの会社ドレクセル・バーナム・ラ ンベールなる証券会社であった。 ミルケンは彼と親しかった同僚のアイヴァン・ボウスキーと組んで、株式の 買占め資金を高利回りの「ジャンク・ボンド」の発行で賄いながら、米国内企 業を相手とする一連の劇的な敵対的企業買収を一九八五年に開始した。 従来の見方に立つなら、こうしたやり方はいつかは破綻せざるを得ないもの だ。米国、カナダ全土の一連のデパートを買収したキャンポー・コーポレーシ ョンの場合も、借金した買収資金の利子を払うのに、買収した会社から入る現 金では足りないという事態が起こった。 ほどなくして連邦捜査当局が、こうした企業買収がインサイダー情報に基づ く株式買占めによって行われていることを突き止めた結果、ドレクセル・バー ナム社、ミルケン、ボウスキーにとって事態は最悪のものとなった。彼らは、 結局のところ買収した企業に全部ツケを回すことによって、株式の買占めで大 きな利益を懐にすることができた。ボウスキー、ミルケンそしてドレクセル社 のすべてが米国司法省により起訴された。 ドレクセルのジャンク・ボンド しかしその間に、海外に蓄積した利益を「ジャンク・ボンド」のメカニズム を通してアメリカに還流させる見えざる仕組みが、かつてランスキーの組織の ために金融面でこっそりと働いていた人たちにより考案された。一九八〇年代 半ばから終わりにかけて企業乗取りが最も盛んだった頃、ジャンク・ボンドに 投資された資金の約七割はドレクセル・バーナム・ランベールによるものだっ た。同社がどこからその資金を手に入れたかを尋ねる者はなかった。そしてド レクセルも同社が抱えるこうした特別の投資家の正体を明かすことはなかっ た。 ドレクセルのジャンク・ボンドの大手顧客は、ウィルキー・ファー事務所時 代からのビアルキンの顧客で、バーニー・コーンフェルドにならって英国ロス チャイルドのパートナーとなったリライアンス・グループのサウル・スタイン バーグ、前々からランスキーの組織との関係を疑われていたオハイオ州シンシ ナティに本拠を置く抵当権保証業者のカール・リンドナー、それにもう一人ず っと以前からランスキーとは仕事仲間だったビクター・ポズナーといった人た ちであった。 ボウスキーとミルケンが連邦刑務所入りしたのに対し、乗取り策を練りイン サイダー情報のやりとりをコントロールするという最高の立場にいたスカデ ン・アープス事務所の弁護士たちが起訴されることはなかった。 RJRナビスコ買収劇 ADLの会長ビアルキンはうまく立ち回ってきた。 ADLといういわゆる 福祉事業に携わる他に、彼はニューヨーク証券取引所理事会の法律顧問委員会 の一員でもあった。また米国弁護士協会の会社・銀行・商法委員会の議長でも あった。またそれ以前は同弁護士協会の連邦規制証券委員会の議長であった。 レーガン政権時代には、彼は連邦政府の規制全体の研究と見直しを担当する大 統領諮問委員会の委員に任命された。ビアルキンをこうした委員のメンバーに したのがボイデン・グレイで、彼は当時ブッシュ副大統領の主席法律顧問だっ た。今日、グレイは大統領になったブッシュの主席法律顧問である。 グレイはR・J・レイノルズ・タバコ・カンパニーの富を引き継いだ人物で ある。この会社はナショナル・ビスケット・カンパニー(ナビスコ)と合併し た後大きく成長した。ナビスコはADLが設立された頃から同団体と関係があ った。一九八八年、このRJRナビスコは米国史上最大の企業買収の標的とな った。最終的な買収金額は二百五十億ドルを超えた。スカデン・アープス法律 事務所がコールバーグ・クラヴィス・ロバーツ社側の代理人として、この案件 の一部始終に関与した。 スカデン・アープスにいる「友人」からのインサイダー情報で一儲けを企ん だ内輪の人たちが手にした利益は、とてつもない額に上ったようだ。 RJR ナビスコとクラヴィスが最初に接触して以来、最後の株式移動が完了するまで 十四ヵ月かかったが、その間RJR株の値段は四十一ドルの安値から高値百八 ドルまで三倍近い暴騰ぶりを見せたからである。 イスラエルの乗取り 米国情報部のイスラエル政治研究の専門家によると、RJRナビスコ買収か ら得た利益ばかりでなく、スカデン・アープスやドレクセル・バーナム、マイ ケル・ミルケン、アイヴァン・ボウスキーといった人たちが手がけたLBOで 手に入った利益のかなりの部分が、イスラエルの次期対アラブ戦争時用の軍資 金に充てられた。 このイスラエル担当の元情報部員によると、この不正資金はアリエル・シャ ロンを中心にした極めて好戦的なグループが一九八二年から密かに溜め込み始 めたもので、今ではその額は二百五十億ドルを超えているという。その資金は おおむね非合法活動から手にしたものである。スカデン・アープス法律事務所 がつくりあげたLBOによって手にした資金にはじまり、麻薬取引や武器の密 輸、技術の盗用などもっと直接的な犯罪行為によって得た資金に至るまで、 様々な不正資金からなっている。 このシャロンが後ろ盾になった自称「イスラエル・マフィア」も、実際のと ころは北米全国犯罪シンジケートに属する組織の一つだった。その頃には、こ の犯罪シンジケートは、ケネス・ビアルキン、エドガー・ブロンフマン、メ シュラム・リクリス、リッチマン兄弟、エドモンド・サフラ、ヘンリー・キ ッシンジャーといったADL幹部たちの手で牛耳られていた。 リクリスはADLのランスキー信奉者たちによって悪漢ロバート・ヴェスコ とADLの間のパイプ役に利用されたが、その時と同様一九七〇年代初頭には 再び、ADLのパトロンたちからシャロン将軍のために仕事をするよう命じら れた。シャロンは冷酷で、堕落しており、異常なまでの野心の持ち主だった。 イスラエルの王になれるのなら、悪魔とでも喜んで手を結ぶほどの人物だっ た。リクリスは資金面でシャロンを支えた。彼はシャロンのためにネゲブ砂漠 にある農場を購入したが、この農場がイスラエルを完全に手中にする陰謀の本 部になった。 リクリスは、一時期イギリス警察のスパイだったことから、ユダヤ地下組織 からは命を狙われた時もあった。その彼がシャロンと関係するようになった 時、その所属する企業の中で中心的な位置を占めるのは、ラピッド・アメリ カ・コーポレーションという通信器材リースとニューヨークにある一連の高価 なオフィス・ビルを所有する業務を行う会社であった。リクリスの側近の一 人、アリエー・ジェンジャーがシャロン将軍とリクリスの間をとりもった。彼 は一九七〇年代末におけるリクード党のメナヒム・ベギン内閣で、シャロンが イスラエル国防相になった時、イスラエルに呼ばれその副官として武器の輸出 入一切を任せられることになった。 世界犯罪シンジケート本部に メイヤー・ランスキー自身でないにしてもその後継者たちによって、シャロ ンはユダヤ・シンジケートによるイスラエル経済および同国政府機関乗取り工 作の采配を命じられていた。 イスラエルをシンジケートの本拠地に仕立て上げるには、それを実行する戦 士が必要であることをランスキーは知っていた。一九六〇年代後半、彼は長年 の仕事仲間だったジョー(別名ドック)・ストラッチャーをイスラエルに送り 込んだ。ストラッチャーの使命はユダヤ国家の中に永住し、メイヤー・ランス キー自身がイスラエルに移り住めるための道を拓くことだった。「帰還法」の 下では、イスラエルへ移住したすべてのアメリカのユダヤ人は直ちにイスラエ ル市民となることができた。ストラッチャーはイスラエルの右派の有力政治家 に、メイヤー・ランスキーは個人的にイスラエルの七億五千万ドル投資する用 意があり、それでリゾート・ホテル、カジノその他レジャー施設からなる複合 施設を建設すればこの国を「第二のリビエラ(フランスからイタリアにまたが る地中海岸にある風光明媚な避寒地)」に変えることができると説いて回っ た。 イスラエルにとって幸いなことに、国防軍とそれに属する情報部を中心とし た愛国者グループがこのランスキーの申し出を拒んだ。彼らはランスキーが代 理人を通してすでにイスラエルに入り込み、組織犯罪機構をつくり上げている 十分な証拠を集め、その結果全米犯罪シンジケートの頭目がイスラエル市民権 を取得するのを阻止した。一九七〇年、ランスキーは到着後まもなくイスラエ ルからの国外退去を命じられた。アメリカ政府はイスラエル政府に対し、米国 人の引き渡しに協力しない限り、同国が喉から手が出るほど欲しがっているジ ェット戦闘機の提供を停止すると脅した。 イスラエルを世界の組織犯罪の本拠地にするというランスキーの願望は崩れ たが、計画自体はその後も存続していた。彼にはすでに願望達成の目処はつい ていた。 全米犯罪シンジケートがイスラエルで目をつけたのは、ユダヤ・ギャングの 有する密輸能力がイスラエルの独立戦争に決定的な役割を果たしていたという 事実である。ランスキー・シンジケートの指導者たちは第二次世界大戦直後、 パレスチナにユダヤ国家を建設するユダヤ地下闘争のために武器の密輸に手を 貸したが、そのようなシンジケートの助けがなければ、イスラエル国家は存在 していなかっただろう。 エルサレムの「億万長者会議」 イスラエルの元大蔵大臣で一九六八年に同国のオフショア銀行ネットワーク をつくり上げたピンチャス・サピアは、エルサレムのいわゆる「億万長者会 議」の発起人である。その会議の表向きの目的は、アメリカの裕福なユダヤ人 に対し急速に発展しつつあったイスラエルのハイテク産業への投資を勧誘する ことだった。しかしその参加者のほとんど全員がメイヤー・ランスキーの仲間 であった事実は、この組織の実態が何であったかを示している。 出席者の中には次のような人物がいた。ランスキーの仕事仲間として知られ ているルイス・ボイヤーとサム・ロスバーグの二人。かつてのユダヤ・ギャン グの一人で、戦時中に行っていた金属のスクラップ事業をマテリアル・サービ シーズ・コーポレーションなる一大企業にまで発展させたヘンリー・クラウ ン。ミシガン州デトロイトでウイスキーを密売していた禁酒法時代のパープ ル・ギャングの元頭目で、後にユナイテッド・フルーツ・カンパニーを乗取っ たマックス・フィッシャー。かつてカナダのサム・ブロンフマン・ギャングと して知られていたブロンフマン・ファミリーの仕事仲間レイ・ウルフェ。イス ラエルの武器密輸業者の大物で同国情報部モサドの最高幹部であるショール・ アイゼンバーグ。イスラエル・ディスカウント・バンクの頭取でイスラエル・ マフィアの影の支配者と広く考えられているラファエル・ルカナティ。そして ADLの最高幹部で、アメリカン・バンク・アンド・トラスト・カンパニー・ オブ・ニューヨークの資金洗浄業務をアイゼンバーグと一緒に行っていたフィ リップ・クラツニック。 海外の犯罪組織によるイスラエル経済乗取り計画には皮肉にも「プロジェク ト・インデペンデンス(独立計画)」という新しい名が与えられた。 この会議の参加者が約束したイスラエル「投資」を一本にまとめるためにイ スラエル・コーポレーションと呼ばれる国有企業が設立された。イスラエル・ コーポレーションの銀行取引の面倒を見たのは、他ならぬタイバー・ローゼン バ−ムだった。彼はスイスを本拠とする国際信用銀行の頭取であり、かつてモ サドの出先機関の責任者だった人物である。エルサレムの「億万長者会議クラ ブ」会議が開かれる以前にローゼンバ−ムはすでにコーンフェルド、ランス キーおよびランスキーの側近のアルヴィン・マルニックとつながっていた。こ のマルニックのカリブ海を本拠とする世界商業銀行は、ランスキーの利益のう ち一千万ドルをローゼンバ−ムのスイスにある銀行にすでに移していた。 マルニックとローゼンバ−ムは各々の銀行間の操作により、ADL最高幹部 であるフィリップ・クラツニックのアメリカン・バンク・アンド・トラスト・ カンパニーの中に、ニューヨークに本部を置く関連会社をすでに設立してい た。クラツニックは「億万長者会議クラブ」設立委員の一人であった。 パレスチナ人追放の理由 ランスキー一味はストラッチャーの指揮の下、エルサレムのシェラトン・ホ テルにその活動拠点を置いた。そしてストラッチャーはすぐさま工作を開始 し、シンジケートの資金をイスラエルの国家宗教党役員のハイム・バソックを 通して同党に注ぎ込んだのをはじめ、ラビ・メナヒム・ポルシェの率いる入植 促進組織アグダス・イスラエルにも注ぎ始めた。この国家宗教党とアグダス・ イスラエルは、ともにメナヒム・ベギン率いる右派のルートの活動と非常に近 い関係にあった。ランスキーの資金はグッシュ・エムニーム(イスラエルの戦 闘的な宗教的極右組織)の活動にも投じられた。グッシュ・エムニームは、一 九六七年の六日戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸とガザ地区に不法 なやり方でユダヤ人入植地を拡げようとしていた。 ランスキーの対イスラエル作戦は、次第にヨルダン川西岸とガザにおけるユ ダヤ人入植地拡大計画に収斂されるようになってきた。一九七七年にベギンの リクードが政権を獲得したとき、この計画は実施に移された。 アリエル・シャロン将軍は、彼の資金面での後援者であるメシュラム・リク リスの勧めでクネセット(イスラエル議会)に立候補するため一九七五年にイ スラエル国防軍から離れた。ベギンの下で農業大臣に任命されるや、シャロン はその地位を利用してユダヤ人入植地の急拡大に向け直ちに活動を開始した。 この結果、一九八一年までには約三万人のユダヤ人が占領地へ移住したと推測 される。 一九八一年時点では、シャロンは国防相に任命されていた。イスラエル軍の 高官が語ったところによると、彼は国防相在職中にキプロスでソ連の軍高官と 密かに接触を開始した。その目的は向こう十年間で約百五十万人に上るソ連在 住ユダヤ人をイスラエルに移住させることについて交渉することだった。シャ ロンの計画(実はランスキーの本来の計画を基にしたもの)によれば、これら 大量のユダヤ人は、ヨルダン川西岸とガザに入植することになっていた。この 計画は「ランドスキャム(土地詐取)」と名付けられた。 ランドスキャム計画はアメリカのADLばかりか、ロンドンにおけるフリー メーソンの有力グループの一部からも熱狂的な支持を受けた。ロンドンのフ リーメーソンは、シオニズムなる宗教を後援するスコティシュ・ライトの伝統 を引き継いでいた。 「占領地併合会議」のメンバーたち 一九八二年初春のイスラエルによるレバノン侵攻の直前、この計画を実行に 移すための一連の秘密会議が開催された。 最初の会議はアリエル・シャロンが所有するネゲブ砂漠の農場で行われた。 先に述べた通りこの農場は、ADLの表面要因メシュラム・リクリスがシャロ ンのために買い与えたものである。この会議は極めて異例な顔ぶれからなり立 っていた。目撃者の証言やマスコミの伝えるところによると、出席者は次の通 りである。☆ アリエル・シャロン☆ ヘンリー・A・キッシンジャー。当時に おいてはその私的国際コンサルティング会社、キッシンジャー・アソシエイツ の社長。☆ メジャー・ルイス・モーティマー・ブルームフィールド。ブロン フマン一家の利権を代表してこの会議に出席したモントリオールの弁護士。第 二次世界大戦中は極秘の英国特殊工作部隊(SOE)のスパイで、戦後設立さ れた北米におけるイギリスの情報工作用出先機関ブリティッシュ・アメリカ ン・カナディアン・コーポレーションのパートナー。彼は一九五〇年代後半に パーミンデックス(「パーマネント・インダストリアル・エクスポジション (常設産業博覧会)」)・コーポレーションを設立。同社はジョン・F・ケネ ディ大統領暗殺と、シャルル・ドゴール仏大統領暗殺未遂の両事件に関与した として非難された。彼はエドガー・ブロンフマンの弁護士であるほか、国際信 用銀行のオーナーであるタイバー・ローゼンバームとも親しい関係にあり、ま たパーミンデックス社の取締役会を通してユダヤ・ギャングの弁護士ロイ・ コーンともつながっていた。☆ ラフィ・アイタン。モサドの生え抜き幹部 で、シャロンの長年にわたる政治的盟友。彼はベギン政権では二つのポストに 就いた。まず首相直属の対テロ局の局長、同局はイスラエル国家の「敵」であ るアラブ人とパレスチナ人に対する秘密工作を担当する選り抜きの工作部隊だ った。彼はまた、国防省に属し技術情報の収集を任務とするスパイ部隊LAK AMの首脳でもあった。イスラエル・ソ連のスパイ、ジョナサン・ジェイ・ポ ラードを使ったのがこのLAKAMである。☆ レハベアム・ゼイエビ将軍。 元イスラエル国防軍将校。一九七七年に退役し、エクアドル政府のテロリスト 対策のための「民間人」コンサルタントに就任した。彼が南米へ赴任したの は、シャロンとイスラエル・マフィアの代理人として行動するという目的を持 ったものであった。ゼイエビは一九八〇年のボリビアにおける軍事クーデター に関与したが、この政変により悪名高い「コカイン大佐」が権力の座についた 結果、彼らの指導の下でボリビアは世界でも有数のコカイン生産国となり、メ デリン・カルテルのビジネス・パートナーともなった。この会議が開かれる前 に彼は正式に呼び戻され、ベギン政権の法務大臣顧問に就任していた。しかし その立場にもかかわらず、彼はあの広く取り沙汰された一九八一年のシャロン の中米歴訪に同行した。そしてこの訪問の折、この二人の元イスラエル将軍 は、ラテン・アメリカの麻薬密輸組織と手を組んで周到な武器密輸ネットワー クを築き上げた。☆ アリエー・ジェンジャー。リクリスのラピッド・アメリ カ・コーポレーションの元副社長。後イスラエル国防軍でシャロンの副官とな り、海外への武器売却を担当する。彼はその職務の関係から、ゼイエビとシャ ロンがカリブ海全域に配置した武器密輸人との連絡係を務めている。☆ エ リ・ランドウ。イスラエルのジャーナリストでシャロンの右腕。 今日頻発する悲劇の背景 二回目の会議は一九八二年十月十五日に、当時、シャロン国防相指揮下のイ スラエル軍に占領されていたレバノンのシューフ山近くで行われた。シャロ ン、レバノンのファランヘ党の指導者カミーレ・シャムーン、オーストラリア の新聞王ルパート・マードック、それに加え数名のイスラエル及びレバノンの 政府役人と作家のウア・ダンが出席した。ダンはメイヤー・ランスキーを賞賛 する伝記を書いている。 ランドスキャム計画への投資勧誘を目的とする第三回の会議は、一九八二年 十一月十五日にロンドンで開かれた。シャロン及びヘンリー・キッシンジャー の他に出席者として、当時キッシンジャー・アソシエイツ社で彼のパートナー だったピーター・キャリントン卿、ケネディ政権時代の駐米英国大使で、キャ リントンとは親しい仲のハーレック卿(サー・デービッド・オームスビーゴ ア)、元米国国務長官アレクサンダー・ヘイグ、英国下院議員ジュリアン・ア メリー、イギリスのシオニストのサー・エドムンド・ペック、英国情報部の元 中東局長で現在MI−6の幹部ニコラス・エリオットが顔を揃えた。 正体を隠して働く手先の人間や組織をいろいろ使いながら、一連のランドス キャム計画会議の参加者たちは、占領地内のアラブ人の土地やエルサレム旧市 街中のイスラム・キリスト教徒用特別割当地域の買収を始めた。 ランドスキャム計画の最終段階に向けての段取りは、一九八〇年代末までに はすべて完了した。この最終段階においてはソ連在住ユダヤ人がイスラエルへ 大量移住し、占領地に住む全アラブ人の最終的な大量追い出しが行われる。 この段階でランスキー子飼いのADLの別の一員が、この計画の遂行上極め て重要な役割を引き受けることになった。これはちょうど一九七〇年代から一 九八〇年代にかけて、ADL全米委員会会長であるケネス・ビアルキンが、犯 罪によって手にした何十億ドルもの利益をアメリカの企業や銀行業、不動産分 野に再投資する工作を統括する役目を果たしたのと全く同じである。 世界ユダヤ人会議会長、ブロンフマンの正体 その人物とは、エドガー・ブロンフマン、禁酒法時代の酒の密売人サム・ブ ロンフマンの息子で、弟のチャールズや数人のいとこたちとともにシーグラ ム・ウイスキー帝国を引き継いだ人物である。ブロンフマン一族は赤貧からい かがわしい商売に手を染め、その結果大金持ちとなり、社会的地位も手にする というギャングの成功物語を地で行った。 エドガー・ブロンフマンの祖父エチェルは、一九八九年にルーマニアのベッ サラビア地方から、事実上バロン・ド・ヒルシュ財団の年期奉公人としてカナ ダにやって来たが、その時すでに同財団はブナイ・ブリスと緊密なつながりが あった。 初代ブロンフマン(イーディシュ語で文字通り酒屋の意)は北米の地を踏む と直ちにいかがわしい商売を手がけ、何軒もの売春宿を経営するようになっ た。一九一五年にカナダで禁酒法が施行されるとブロンフマンの売春宿は不法 ナイトクラブとなり、そこで国境を越えてアメリカから密輸入されたウイス キーが売られた。 アメリカの禁酒法時代が始まるとともに、カナダで実験的に実施された禁酒 法は廃止された。エチェル・ブロンフマンと彼の息子のエイブとサムは、違法 ウイスキーと麻薬の取引きにおいて、買い手から売り手側に立場が逆転してい た。一九一六年にエイブとサム・ブロンフマンは、一族が密売と売春で手にし た利益をピュア・ドラッグ・カンパニーの獲得に投じた。ある報告によると、 この会社は極東からカナダ向けに麻薬の輸入を開始した。アメリカの禁酒法時 代の開始とともに、このピュア・ドラッグ社の生産設備がアメリカ市場向け安 物ウイスキーの大量生産に使われたのはまちがいない。ブロンフマン一族は禁 酒法時代を通じて、メイヤー・ランスキーの全米犯罪シンジケート向けウイス キーの有力供給者だった。この一族は「チキンコック」(彼らのウイスキーに 与えられた名前)を売ることによって富を獲得した。アメリカ政府の記録によ ると、一九二〇年から一九三〇年の間に三万四千人以上の米国人が、ブロンフ マンの醸造したこの酒を飲んでアルコール中毒により死亡した。 一九二六年、カナダ警察が「ブロンフマン・ギャング」を取り締まる動きに 出た時、エチェルの四人の息子たちはアトラス・シッピング・カンパニーを設 立し、彼らのウイスキーをカリブ海に送り出した。そのウイスキーはそこで、 ラインフェルド・シンジケートや「ユダヤ海軍」、その他のランスキー・シン ジケートの息のかかった酒の密輸人が所有する船に積み替えられた。 禁酒法時代が終わる頃、サム・ブロンフマンは過去に溯って数百万ドルの税 金を支払うことを米国財務省と交渉した。その「延滞」税額は一族が禁酒法の 下でウイスキーと麻薬密売から得た訃報利益のほんの一部にすぎなかった。そ してこの僅かな納税により、ブロンフマン一族は一夜にして、カナダにおける シオニストのエスタブリッシュメントの名士に変身することにも成功したので ある。 慈善団体を装う外面 一九三四年にサム・ブロンフマンはカナダ全国ユダヤ人民救済委員会の会長 に就任した。一九三九年には彼はユダヤ植民地化委員会の理事に任命された。 この委員会は元のバロン・ド・ヒルシュ基金で、ちょうど五十年前に自分の父 親がこの基金から得た渡航費でカナダに渡ってきたものだった。第二次世界大 戦が終わった時、サム・ブロンフマンはイスラエル・ユダヤ更正全国協議会を 設立した。もっともその名前の趣旨に反し、この組織の主たる目的はパレスチ ナのユダヤ地下組織ハガナ向けに武器を密輸することだった。 この頃までにブロンフマンの息子たちは初代ブロンフマンが密輸で得た資産 を「合法的」ビジネスに移しかえていたが、それがシーグラムズ・ディスティ ラーズ・オブ・カナダである。次の世代になってこの一族は結婚により、北米 随一のシオニスト・エスタブリッシュメントにのし上がった。エドガー・ブロ ンフマンはアン・ローブとの結婚により、直ちにウォール街のローブ・ローズ の利権と結び付くことになった。フィリス・ブロンフマンがジーン・ランバー トと結婚したことで、ブロンフマン一族は突如ロスチャイルド家の一員となっ た。ランバート男爵はロスチャイルド一族のベルギーの分家の一員だった。後 にケネス・ビアルキンによる企業買収で中心的役割を果たしたドレクセル・ バーナム・ランベールなるニューヨークの投資会社はブロンフマンの支配下に 吸収された。 ブロンフマン一族が赤貧から闇商売に手を出し、富を手にし、果ては社会的 地位をも獲得するという途を着実に進んでいた間においても、一族の中枢を占 める者の中には古いシンジケートとの結び付きを完全に断ち切ることのできな かった者が何人かいた。 一九七二年、モントリオール犯罪委員会はエドガー・ブロンフマンの甥、ミ ッチェル・ブロンフマンをモントリオールの大物ギャング、ウィリー・オブロ ントの犯罪仲間と認定する報告書を提出した。この報告書によるとオブロント とミッチェル・ブロンフマンの関係は「不法活動にまで及び、彼らは相互にあ るいは共同で犯罪行為に関与していた....、お互いの間で特別に便宜を図り合 い、これによって高利貸し、ギャンブル、不法賭博、有価証券の絡む取引、脱 税および買収等の事柄で互いに利益を獲得した」とされている。一九七〇年代 半ば、オブロントとミッチェル・ブロンフマンのもう一人の仲間、サム・ロー ゼンはともに麻薬資金洗浄行為の罪で投獄された。オブロントとブロンフマン の共同事業の一つである北マイアミのナイトクラブ、パゴダ・ノースがニュー ヨークのマフィアの頭目、ビトー・ジェノベーゼがしばしば訪れるシンジケー トの根城であることを、アメリカの取締当局は嗅ぎつけていた。 世界ユダヤ人会議の会長、ADLの名誉副会長、そしてシーグラム・インダ ストリーズ社の会長であるエドガー・ブロンフマンは、慈善団体を装ったAD Lの資金集めの中心的存在であるノースイースト・アピールなる組織を通じて いろいろの活動をすることにより、スカデン・アープス法律事務所が持ってい る企業買収ノウハウから多大の利益を手にしたいま一人の人物でもある。 対米不動産投資の仲介者 一九八〇年代の中頃、アメリカ企業としては最も古くかつ最大の企業の一つ であるデュポン・ケミカル・コーポレーションの取締役会長だったアービン グ・シャピロは、同社を辞めてスカデン・アープス法律事務所のパートナーと なった。彼がこの法律事務所に入ってまもなく、エドガー・ブロンフマンが所 有するシーグラム・コーポレーションがデュポン社株の買い占めを始め、つい に同社の支配圏を手に入れた。ビジネス円卓会議の議長在職期間中ブロンフマ ンとは親しく一緒に仕事をした仲のシャピロは、ブロンフマンのデュポン社乗 取りに当たっては内輪の人間として中心的な役割を果たしたと言われている。 ついでながら、デュポンからスカデン・アープスへ移って後、アービング・ シャピロは自分の息子アイザックも同事務所へ引っ張った。アイザックは自分 が前の事務所ブルーブラッド・ミルバンク・ハドレー・ツイード・アンド・マ ッコイに在籍していたときの顧客だった日本の対米不動産投資家中でも大手の 顧客を手土産に移ってきた。 指導的地位にあるシオニストの慈善家でかつ億万長者の会社経営者という一 連の威光ある肩書を武器として、エドガー・ブロンフマンはメイヤー・ランス キーの二つ目の夢、すなわちシンジケートによるイスラエルの乗取りを実現す べく組織的な活動を一九八〇年代中頃に開始した。 東欧諸国の実態は何か ソ連政府にユダヤ人移民の出国を促し、かつロシアのユダヤ人に対しイスラ エル入国を保証することのできる人物を一人ADL幹部の中から探すとすれ ば、エドガー・ブロンフマンをおいて他に人はいない。 自分の会社のシーグラムズ製品の独占販売権を通して、エドガーとその弟チ ャールズは、ドイツ社会主義統一党(共産党)エーリッヒ・ホーネッカーをは じめ共産世界の最有力者の何人かと友好関係にあった。ブロンフマン一族は シーグラムズの西ドイツ支社を通じて、東ドイツの共産党に対しシーグラムズ の酒を無制限に供給することにした。こうして提供された酒は党の最高幹部た ちに無料で分け与えられた。一九八六年、東ベルリンにいるブロンフマンの密 使はクラウス・ギジと親密な関係を結んだ。彼は東ドイツの宗教問題担当大臣 で、ホーネッカー書記長の後継者となったグレゴール・ギジの父である。ギジ 父子はユダヤ人である。 一九八八年に、エドガー・ブロンフマンはホーネッカーと東ドイツの共産党 幹部ヘルマン・アクセンと会うために自らが東ベルリンに赴いた。その訪問期 間中にブロンフマンはホーネッカーのワシントン公式訪問の手配をすることを 約束した。その一年後、東ドイツでホーネッカーの追放と共産党独裁政権の転 覆という事態が起こる直前、ブロンフマンは東独政府から民間人として最高の 賞である「人民友好金メダル」を授与された。 オーストリア大統領への中傷 一九八六年十一月のレイキャビクにおけるソ連の指導者ゴルバチョフと米国 大統領レーガンとの首脳会談以後冷戦が急速に終結したことに伴い、ブロンフ マンは東ドイツへの働きかけと平行してモスクワに対する意欲的な外交活動を 開始した。 一九八九年一月二十三日、エドガー・ブロンフマンはニューヨークにある自 分のペントハウスでソ連に在住するユダヤ人の移住を計画するための秘密会議 を開いた。この会合に出席したのはアーチャー・ダニエルズ・ミッドランド穀 物カルテルの会長デーン・アンドレアスで、彼はウォール・ストリート・ジ ャーナルで西側におけるゴルバチョフの「親友」と称された。ブロンフマンの 計画は単純明快なものだった。すなわちアメリカがソ連に対し緊急に必要とさ れる穀物の供給保証を行う見返りとして、モスクワはソ連に居住するユダヤ人 のイスラエル移住を許可するというものだった。ソ連のユダヤ人が確実に西側 に到着でき、その後アメリカへ行くかあるいはヨーロッパに留まることができ るようにするために、ブロンフマンの世界ユダヤ人会議はオーストリアの大統 領カール・ワルトハイムに対する中傷キャンペーンをすでに開始していた。そ れはワルトハイムに東ヨーロッパのユダヤ人絶滅に関与した戦時中のナチ協力 者としての汚名を着せようとするものだった。伝えられるところでは、ブロン フマンのキャンペーンはソ連のKGBその他のソ連ブロックの秘密警察機関が 提供したでっち上げの証拠資料に基づくものであった。この醜聞事件は米墺関 係に大きな亀裂をもたらした。結果的に、以前は西側へ逃亡する在ソユダヤ人 の主たる通過地点だったオーストリアはこれら移住者を締め出した。これに代 わってハンガリーとポーランド経由のルートが開かれたが、それはイスラエル への移住のみが許されるという条件付きのものだった。 ブロンフマンの計画は「穀物とユダヤ人」の取引きを行うという皮肉なもの だった。彼の一族は「ブロンフマン・ギャング」と呼ばれ続けていた。ところ がこのADLの一員は、彼個人としてはメイヤー・ランスキーに対する一族の 長年にわたる負債を返済しつつあると同時に、この犯罪王の二つ目の壮大な理 想であったイスラエルの乗取りを実現しつつあるのだと考えていた。
(私論.私見)