ユダヤの告白3


第二部 かくてアメリカは浸触された

 第六章 ブナイ・ブリスの正体

 アメリカ侵略の野望

 一九八九年の夏、米国・テキサス州議会の一部議員グループが、墓場荒らしや動物のいけにえを捧げる儀式を行うサタン礼拝者たちに厳罰を科する法案を提出した。
 この立法化の動きは、メキシコのマタモロスに本拠を置く麻薬取引人の一味がテキサス大学生マーク・キルロイを誘拐、殺害したことがきっかけで起こった。マタモロスはテキサス州ブラウンズビルから国境を越えたところに所在する街である。
 一九八九年五月にメキシコとアメリカの警察が、マタモロスの近くにあるコカインとマリファナの隠し場所と見られる農場を手入れしたとき、集団埋葬を行った墓地とサタン礼拝の祭壇を発見した。キルロイを含む少なくとも十五人が、拷問にかけられた上そこで殺されていた。死体はばらばらにされて大鍋の中に入れられていた。その麻薬取引人一味のリーダーであるキューバ系アメリカ人、アドルフォ・デ・ジーザス.コンスタンッオは、人間をいけにえとして捧げ悪魔礼拝をすれば、サタンの力が警察から自分たちを守ってくれると一味の者たちに説いていたのである。
 この思いがけない出来事、それに犯罪的な儀式がもたらす気味悪い恐怖の念にテキサス中は大変な衝撃を受けた。悪魔礼拝というおどろおどろしい儀式を禁止し、悪魔礼拝者に長期拘留と多額の罰金を科そうというこの法案は、ほとんど全員の支持を得た。テキサス州知事はこの法案を通過させるために特別州議会を召集した。
 しかしブナイ・ブリスのADLは、この法案を「反ユダヤ主義」と決めつけ、法案通過阻止のためのキャンぺーンを大々的に張った。まずユダヤ人共同体の間で反対運動を起こそうと必死になったADLは、この新しい法案が通ればラビが男児に割礼を施すと起訴されるおそれが出てくると主張した。しかしグラスやヒューストンの有力なラビたちをはじめテキサスのユダヤ人共同体の大半は、ADLの圧力に従うことを拒否しこの法案を支持した。
 これはADLのやり口の典型的な例である。
 ADLというのは何であるのかそれを深く理解する上においても、またアメリカの内側において彼らが悪しき役割を理解するためにも、悪魔礼拝を行うオカルト主義者の権利を擁護しようとするADLのこの奇妙な行動をまず見てみることは役に立つ。

 アジア秘儀に由来するシオ二ズム

 二十世紀への世紀の変わり目に創設されて以来、ADLは国際的オカルト団体フリーメーソンの形だけの「ユダヤ」ロッジ(支部)の中心的存在であった。フリーメーソンについては、一部の歴史家は「ユダヤ人でないユダヤ人たち」と称している。ADLの母体であるブナイ・ブリスは、スコティッシュ・ライト・フリーメイソンのユダヤ人部門として一八四三年アメリカに創設された。その際のフリーメーソンのトップは、当時のイギリスの首相でありアヘン戦争のイギリス側最高責任者であったパーマストン卿であった。
 パーマストンの外交団はオカルト主義の温床であった。第一次アへン戦争当時のイギリスの駐中国首席外交官はエドワード・バルワー・リットンであるが、彼もまたオカルト主義者であり、ローマ帝国の異教信仰の復輿を唱える『リエンッィ』や『ポンぺイ最後の日』など多くの書物を著している。
 ブナイ・ブリスが正式に設立される数世紀前から、ヨーロッパにおいては強大な権力を有する寡頭政治を目指す人々の集団がユダヤ人の神秘的な儀式に関する書『カバラ』を研究し、これを彼らの秘密結社の中に取り入れていた。
 薔薇十字団、エルサレムの聖ョハネ騎士団、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンといった秘密結社は、ルネッサンス期から近代国家が出現した時代にかけて起こってきた新しい動きに対抗し、ヨーロッパの封建時代の古い制度を守るために創設されたものである。封建制度を維持しようとするこうした者たちはカバラの儀式を取り入れた際、それに携わっていたユダヤ人中特定の家族を選んで自分たちの仲間に組み入れた。このような特定のユダヤ人の家系の者を意味するものとして「ホフユーデン」(宮廷ユダヤ人)という言葉がつくられた。こうしたユダヤ人は、寡頭政治の下で首席宮廷顧問という特別の地位に就いた。だが、その一方で彼らの同胞であるユダヤ人が迫害され、見せしめの犠牲者となり、隔離されたゲットーの中で貧しい生活を強いられるということがしばしば起こった。
 十七世紀中頃にスコティッシュ・ラィトの指導的フリーメーソンであったエライアス・アシュモールがイギリスのオックスフォード大学を「秘密の知識」研究の中心機関につくりかえるよう命じられたことをきっかけに、ヨーロッパの秘密結社はカバラ儀式の採用に一段と積極的になった。アシュモールの伝記作家C・H・ジョスターによれぱ、「一六五二年二月、アシュモールは自分のそれまでの研究にもうひとつの主題を加えた。その主題というのは、カバラの記号を使った魔術用の印章を彫る儀式、および彼の目にとまった、ユダヤ人こそが最高とするユダヤ史料に関する研究である」という。
 一六四五年、アシュモールは出来たばかりのイギリスのフリーメーソン支部に入り、すぐにこれをスコティッシュ・ライト結社に改組した。またその一方で同じ頃、彼はカバラの神秘主義の流れをくむユダヤ教などのアジアの秘儀を研究するためにアシュモール博物館を設立した。シオニズムは、こうした研究を母体に生まれてきた考えである。

 アメリ力独立戦争の背後で

 一七六三年、寡頭政治を目指すイギリスのグループは、ホフユーデン初の組織であるユダヤ評議会を設立した。それは今日もなお存在している。この評議会の構成員はカバラ主義のラビと有力なユダヤ人金融家たちであった。金融家としては、モンテフィオール、セバッグ、そして後にはロスチャイルドといった一族が名を連ねていた。この評議会の構成員となったカバラ主義者には、アシュモール博物館やオックスフォードで直接訓練を受けた人々が多かった。
 アメリカ独立革命すなわちアメリカ植民地の反英闘争の頃には、イギリスの寡頭制支持者たちは、後のADLのような「汚いトリック」を受け持つ特別な組織としてカバラ主義者のネットワークを利用していた。これらカバラ主義者の中には、ユダヤ人の血を全く承けていない人たちも混じっていた。そのような人物の存在を示す一例として、次のような事実を挙げることができる。
 一七八○年、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンであり、イギリス東インド会社を動かす「秘密委員会」の会長でもあったシェルボーン卿は、当時首相であったノース卿率いるイギリス政府に対し政治闘争を仕掛けた。シェルボーンはこのノース卿に対して北米における惨澹たる敗北の責任を負っていた。
 英国議会がアイルランドのカトリック教徒に一定の自由を認める法律を通過させた時、シェルボーンは彼の手先の一人ジョージ・ゴードン卿を使ってプロテスタントを煽動し、議会で反カトリック暴動を起こさせた。ロンドンの浮浪者や地方からやって来た農民からなる群衆が何日にもわたって暴徒と化し、放火と略奪を行った。暴動の参加者は東インド会社の手先から買収されていた上に、酒を振舞われていた。彼らは議会の中にまで乱入し、上院議員たち、中でもシェルボーンや「東インド会社」に反対していた上院議員たちは、二階の窓から放り出された。上院の公安委員会議長であったシェルボーン卿は、これに対してあえて暴動法を発動したり警官の出動を要請したりすることもせず、混乱を二日間も放置した。
 暴動が鎮圧された後、ゴードン卿はほんのしばらくロンドン塔に監禁されただけだった。ノース内閣は恐慌をきたし、その後しばらくして内閣は辞職してしまった。新内閣においてシェルボーンは植民地大臣となり、その後アメリカ独立戦争を終結させるべくパリ条約が話し合われた大切な時期に総理大臣に就任した。
 コードン卿はロンドン塔から解放された後、カバラ主義ユダヤ教に改宗し、名もイスラエル・べン・アフラハムという名に改めてオランダに再びその姿を現わした。別の人間になりかわったゴードン卿は、ルイ十六世末期のフランスで活動し、フランス人の魔術師やフリーメーソンの手先であったメスマーとともにマリー・アントワネットの中心的オカルト・アドバイザーとなった。

 アメリ力に渡ったフリーメーソン

 アメリカ独立革命に続いて、イギリス東インド会社と同様にイギリス政府情報部をも支配していたイギリスのスコティッシュ・ライトの指導者たちは、大西洋の反対側アメリカで新しく建設された共和国を転覆し、最終的にアメリカをイギリスの手に取り戻すことを企てた。この目的を果たすため、南カロラィナ州チャールストンをはじめいくつかの都市にスコティッシュ・ライト結社が創設された。当然のことながらそのような都市にはユダヤ商人の小さな社会も出来はじめており、その後まもなくユダヤ人共済会やユダヤ人孤児援護会もつくられた。こうした初期の活動で名のある人物として、モーゼス・コーエン、モーゼス・リーバイ、アイザック・ダ・コスタ、モーゼス・べイクソットなどが挙げられる。彼らの多くはオランダ東インド会社の代理人として西インド諸島に定住したスファラディ・ユダヤ人の家系の出であった。
 こうした団体の中でも最初のものは、一七八四年にすでにメンデス・ロべスの手でチャールストンにつくられていた。南北戦争中イギリスが支援するアメリカ南部連合側の中心として活躍したジュダー・P・べンジャミンも、一八二七年にチャールストンのユダヤ人孤児援護会に入っている。
 しかしこれら名ばかりの「ユダヤ人」組織は結成当初から、ウォルター・スコット卿やアイザック・ディズレーリ卿といった大物メーソンの手でイングランドやスコットランドにつくられたフリーメーソンの聖ヨハネ騎士団や、エルサレム・ホスピタル騎士団あるいはユダヤ人文芸協会といった組織の単なる下部機関にすぎなかった。ディズレーリの著書『イギリスにおけるユダヤ人の歴史は、寡頭政治を企む集団の陰謀に与してアメリカ合衆国を攻撃することが思想的にいかに正当なものであるかを英米両国にいるホフユーデンに向かって記したものである。
 ユダヤ人共済会やユダヤ人文芸協会というものには神秘的な意味あいがこめられているが、それには実際的な目的もあった。中央ヨーロッパにおけるポグロムを避けてアメリカにやって来た大量のユダヤ移民は、自由と繁栄を手に入れることができるという希望を抱いていた。ユダヤ・フリーメーソンの集団はこうした移民をふるいにかけ、野心がありかつ堕落しそうな人々を選ぴ出して自分たちの仲間に引き入れようとした。
 こういう形で仲間に加わったユダヤ人が、二十世紀の初めになるとアメリカにおける組織犯罪の中核を形成することになる。後の章で詳しく述べる通り、禁酒法時代を経る過程でアメリカには大規模な組織犯罪の基盤が出来上がったが、この禁酒法自体がアメリカ共和国初期の時代から続いているスコティッシュ・ライトとホフユーデンの共謀によって成立したものだった。禁酒法時代にブロンフマン一族、レインフェルド・シンジケート、パープル・ギャングやメイヤー・ランスキーといったユダヤ・ギャングが全国のもぐりの酒場に酒を供給したが、こういったユダヤ・ギャングにスコッチ・ウイスキーを流したのが、ヘイグ卿のようなイギリスの貴族たちだったのである。

 ブナイ・ブリスの創設

 一八○一年、ロンドンのスコティッシュ・ライトのグランド・マスターたちは、昔から継承されてきたスコティッシュ・ラィト・フリーメーソンの位階において第三十三階級に位置し、ソロモン神殿の家騎士団の団長からなる最高会議である、エルサレムの王子の大会議に、支部設立許可状を与えるという思いきった手段をとった。こうしてアメリカにおける最初のユダヤ人フリーメーソン支部は、南カロライナ州チャールストンに創設された。当然のことながらこの都市は、その後半世紀以上にもわたって合衆国に楯突く勢力の拠点となった。
 このチャールストンにスコティッシュ・ライトの南部地域を管轄する本部が置かれた。この支部の最初のメンバーの中には、ダ・コスタ、コーエン、イスラエル・デ・リーべン、アイザック・へルド博士・モーゼス・リーバイ、ジョン・ミッチェル、フレデリック・ダラチョといった人々がいた。
 そしてこれらのユダヤ人スコティッシュ・ライト・フリーメーソンの要職にあった者たちが、一八四三年にブナイ・ブリス(契約の子孫の結社)を設立したのである。ブナイ・ブリスの組織はフリーメーソンの「ロッジ」にならってつくられた。
 プナイ・ブリスがつくられたのと時を同じくしてイギリスではシャフツべリ伯爵、スコティッシュ・ライト・フリーメーソンの最高位の座にあったパーマストン卿、モーゼス・モンテフィオーレ卿、それにナサニエル.ロスチャィルドといった人たちの後援によってパレスチナ植民協会が設立された。そのアメリカ支部であるパレスチナ在住困窮ユダヤ人救済北米協会は、アメリカのホフユーデンから集めた資金を、パレスチナに「ユダヤ人の国」を建設しようとする初めての植民計画に注ぎ込んだ。

 リンカーン大統領の暗殺

 シャフツべリ伯爵は当時、アメリカのホフユーデンの資金を利用しようとするイギリスの寡頭政治家たちの巧妙なやり口について、さも満足そうに、次のように記している。
「ユダヤ人はその地に対し古えの想い出と深い愛着の念を持っている。・・・・彼らはほとんどいたるところに住んでおり、各々に勝手な規律のもとで暮らしており、政治には全く無関心で、忍従と自己否定にすっかり慣れきってしまった人々が辛うじて手にし得る楽しみだけを喜びとして生きている。・・・・彼らは現に存在する政府にはそれがいかなるものであっても従い、自分たちで何か別の考えを持っということもない。そして専制政治に対しても、いかなる地にあっても絶対服従する訓練はできている」
 スコティシュ・ライトゃロンドン側のホフユーデン組織からすれば、アメリカにブナイ・ブリス、別名契約の子孫の結社を設立する目的は、南部諸州を合衆国から脱退させ、間もなく仕掛ける北軍への全面攻撃に備えてユダヤ人フリーメーソンの基盤を拡げることにあった。こうして南北戦争が始まり、アブラハム・リンカーン大統領が暗殺されることになった。ブナイ・ブリスが奴隷所有者の一派に属しリンカーン暗殺にかかわっていたことは、まぎれもない歴史上の事実であるが、そのことは身内の者たちにも知らされていなかった。
 ブナイ・ブリスはフリーメーソンの集団だなどと言おうものなら、今日では反ユダヤ主義者のレッテルを貼られるのがオチだ。しかし、設立当時においては、ブナイ・ブリスがスコティッシュ・ライトの組織を範としてつくられたものであることは公然の事実だった。
 ブナイ・ブリスが設立されて間もない頃、その公式機関紙「メノラー」の中で次のようないきさつが紹介されている。
「ブナイ・ブリスとスコティッシュ・ライトの間では頻繁に会合が行われていたし、その構成員の中には当時存在していたフリーメーソンや秘密相互扶助団体のオッド・フェローズといった慈善団体にも加盟していた人が何名かいた。そこで、彼らの間で『ユダヤ人の思想』に基づいてこれらと同じような組織をつくるのが一番よいとの結論に達した。ユダヤ人の宗教の中には秘密結社にも見られる同じ儀式やしきたりが数多くある。たとえばシナゴーグは支部の集会場に該当し、昔は日に二回使用された。友人を見つけたいと思うユダヤ人が行く場所といえばそこしかなかったし、また決められた動作や合い言葉を使って自分の意志を相手に伝えるしかなかった。・・・・その動作とは両手による特殊な握手の仕方だったし、決まった言葉というのはシャローム・アラへンという呪文だった。戸口の側柱に掛けられたメズザは互いの目印であったし、シェマ・イスラエル(聞け、おおイスラエル)という語が彼らの合い言葉であった」

 ユダヤ人秘密結社の危険性

 ユダヤ人秘密結社としてブナイ・ブリスが設立されたことを快く思わないユダヤ人は多かった。ブナイ・ブリス設立の当初、アメリカにいて事の成行きを目撃したヨーロッパのユダヤ人、イスラエル・ジョセフ・ヘンジャミンは、自分の体験を記した著書『アメリカでの三年間、一八五九−六二年』の中で、この結社について次のように述べている。
「これは秘密結社である。合い言葉などを使ったりするあのフリーメーソンと同じ秘密結社である。そして私にはそれまでなかった全く新しい組織のように見えた。・・・・それでも、全くつくる必要のないもののように私には思えた」
 エドワード・E・グラスドが著した半ば公式のブナイ・ブリス史『ブナイ・ブリス−契約の歴史』でごえ、初期の支部が排他的なほどにユダヤ的特性を持っていたことを強調しているだけで、ブナイ・ブリスがフリーメーソンを母体にしてできたという事実を少しも隠そうとはしていない。
「今日でも時々語られる一つの伝説がある。それは、ブナイ・ブリスが創設されたのは、一八四三年にユダヤ人がフリーメーソン結社とオッド・フェローズの構成員から除外されたからだというものである。これは明らかに事実に反する。というのはブナイ・ブリスの創設者の中に、これらの組織に加入していた人が何名かいたからである。ジョーンズやローゼンバーグ、ルノー等をはじめブナイ・ブリス設立直後に加入した人々が書いた記録が断片的に残っているが、それを見てもこの点については全く疑問の余地はない。
・・・・『神の助けによって、アメリカに住むイスラエルの子孫を一つにまとめる手段」としてのユダヤ人組織であるといったようなことをジョーンズは書き残している」

 二股がけの戦術

 ブナイ・ブリスは勢力拡大のために大規模な人集めを行ったが、その最初の試みはバルーク・ロスチャィルドの手によるものだった。彼は、メイヤー・アムシェル・ロスチャィルドが興したロスチャィルド一族の人物だった。彼がそういう活動を始めた理由は「構成員は同等の教育を受けてはおらず、知的能力に大きな差があった」点を心配したからだった。言い換えれば、ヨーロッパ封建時代の貴族の秘密結社が採っていた加入者全員に同一の厳しい資格要件を課するという方法を、ブナイ・ブリスも採用したわけである。
 ブナイ・ブリスが優秀な人々を求め出した裏には、この団体が中心になってアメリカ共和国に対してかってなかったほどの反逆的な陰謀を巡らしていたという事情がある。この陰謀については、米国情報部職員であり発明者でもあったサミュエル・B・モースが一八六○年に著し、人口に膾災した有名な情報レポートに記されている。「アメリカ合衆国解体を目論む今日の試み−イギリス貴族の陰謀」と題するこのレボートだった。その中で、モースは次のように記している。
「アメリカ合衆国に対するイギリスの態度を見ると、アメリカという国家に対し敵対的な態度をとっている二つの党派がはっきりと存在する。一つは南部側につく綿花の利害関係者、もう一つは北部側につく奴隷制廃止を唱える人たちである。そしてイギリスはこの二つのグループ間のバランスを巧妙にとりながら事を進めている。すなわちこうした党派を自己の政治目的のために米国内において自分の持ち駒のように使うわけで、常に双方がいがみ合う形をとらせておくために、一方または他方の側に、あるいは両方同時に援助を与えるというやり方をしている」
 特に二人の人間の存在が、モースが露いた陰謀にブナイ・ブリスがどういう役割を果たしていたかを端的に示している。その二人のうちの一人は南部連合の要職にある人物であり、もう一人は北部民主党の大物であった。
 最初の男の名はジュダー・P・べンジャミン(一八一一−八四)。「南部連合の闇の貴公子」、「ユダヤ人南部連合支持者」、「南部連合の頭脳」といった様々な名で知られた人物である。南カロライナ州チャールストンでスファラディ・ユダヤ人の両親から生まれたべンジャミンは、二年間エール大学で学んだ後、なぜかこの名門大学を去り、その後ルイジアナ州ニューオーリンズに再び姿を現した。エリ・N・エバンスによる好意的な彼の伝記によれば、べンジャミンが突然エール大学を退学した理由は、彼が何人かの学生の持ち物を盗んだことがスキャンダルになったからだという。
 一八五二年、べンジャミンはアメリカ合衆国上院議員となり、南北戦争が始まったときもその地位に留まっていた。戦争開始とともに彼は初代司法長官として南部側に加わり、後には陸軍長官や国務長官となった。その後、彼は南部連合大統領ジェファーソン・デービスとともに、アブラハム・リンカーン大統領の暗殺を命令した嫌疑で公式に起訴されたが、バージニア州アポマトックスでロバート・E・リー将軍が北軍の前に降伏した時、カリブ海のビ二ミ島経由でイギリスへ逃亡した。そしてイギリスは彼に対し、合衆国解体を狙う自分たちのために多大の功績があったという理由で弁護士として特別の地位と富を与えた。べンジャミンはロンドンへ亡命した後も、アメリカ共和国を倒すため、クー・クラックス・クラン(KKK)の見えざる帝国といった秘密結社をつくるために引き続き奔走した。ブナイ・ブリスの正式なメンバーではなかったにもかかわらず(ある記録によると彼はプロテスタントに改宗さえしたという)、べンジャミンはスコティッシュ・ライト南部地区の重要人物であっただけではなく、チャールストンを拠点にしたブナイ・ブリスの国家に対する背信行為のすべてを操る黒幕でもあった。

 べルモントの活動

 もう一人の人物の名はオーガスト・べルモントであった。一八三七年五月十四日、彼はニューヨークにやって来た。彼はここへ、ロスチャィルド家の利権に関する仕事を口実にキューバへ行く途中、立ち寄ったものにすぎなかった。ところがべルモントがニューヨークに到着したちょうどその時、金融大恐慌が起こり、十九世紀最大の不況が始まった。彼はロスチャイルド家が抱える従業員のために緊急の事業を始める任務を急遽命ぜられた。べルモントはそのままニューヨークにとどまった。そして、一八五六年に民主党党首にまで上りつめたあとも、二十年間その地位にとどまった。
 ジュダー・P・べンジャミンとオーガスト・べルモントはともに、ブナイ・ブリスやスコティッシュ・ライトの幹部たちとも組んで合衆国を崩壊させるべく様々な活動を行った。
 この活動はべルモントがブナイ・ブリスのチャールストン支部の幹部だったエドウィン・ディリオンに、「若きアメリカの現状と果たすべき役割」と題するパンフレットの作成を命じた時から本格的に始まったと言える。 ディリオン家は奴隷商人で、南部連合において重要な役割を果たすようになった。パンフレットの作成にとりかかった時期、エドウィン・ディリオンとオーガスト・ベルモントはロンドンにあるスコティッシュ・ラィトの上部組織の支部が二人の人物を使って始めた合衆国の転覆工作を支援するために働いていた。二人の人物とは、オカルトを信じるエドワード・バルワー・リットンとべンジャミン・ディズレーリの一人だった。この活動には「ヨーロッパ青年(ヤング・ヨーロッパ)運動」という名が冠せられたが、この運動が後に共産党第一インターナショナルの活動に受け継がれていくことになる。それはアメリカのみならずヨーロッパのすべての国々の内部にも、イギリスの代理人のネットワークを築き上げることを目的としたものだった。

 アメリ力解体の目論み

 アメリカ国内では、アメリカ青年(ヤング・アメリカ)運動が起こされ、そこにイギリスの手先の人間が多く集まった。ブナイ・ブリスのエドウィン・ディリオン、オーガスト・べルモント率いる民主党から遣わされたジョージ・サンダーズ、空想的理想主義者でこの運動の機関誌『ヤング・アメリカ』の編集者でもあるラルフ・ワルド・エマーソンといった人たちもそれに含まれていた。
 アメリカ青年運動は、自由貿易を主張し、中欧におけるロシアとオーストリアの覇権に対抗するため英米が手を結ぶ必要性があると主張した。一八五三年六月、パーマストン卿とシャフッべリ伯爵が直接後ろ楯となり、欧米双方で青年運動を進めている指導者たちがロンドンに集まって一連の会議を開いた。その目的はヨーロッパ大陸と北米一帯にイギリスの影響力を拡大するための政府転覆計画を話し合うことにあった。出席したのはオーガスト・べルモント、ジョージ・サンダース、イタリア青年運動からきたマッツィーニとガリバルディ、ドイツ青年運動からきたアーノルド・ルージ、ロシア青年運動からきたアレクサンドル・ホルツェン等々であった。
 スコティッシュ・ライトが後援するアメリカ青年運動の中心人物の手で、ブナイ・ブリスの幹部の顔ぶれが目立つ秘密結社ゴールデン・サークル騎士団が組織された。この結社はアメリカ共和国解体を推し進めるというはっきりとした目的のもとに設立されたものである。この団体にはジュダー・P・べンジャミン、オーガスト・べルモント、南部地区スコティッシュ・ライト・フリーメーソンの騎士団長アルバート・パイク将軍、後の南部連合大統領ジェファーソン・デービス、ジョージ・サンダース、それに南カロライナ州チャールストンのブナイ・ブリスの創設者で後に会長になったべンジャミン・ぺイクソットが加わっていた。

 連邦解体の陰謀

 アブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国の第十六代大統領に選ばれたとき、アメリカに送り込まれたイギリスの手先は行動を起こした。リンカーンが首都へ立ち寄ったところを暗殺し、財務省とワシントンの鉄道駅を占拠した上で軍事暴動を引き起こす、そして南部の連邦脱退を実現するために戦争を開始するという内容の計画が、密かにかつ入念に話し合われた。リンカーン暗殺の後には、ゴールデン・サークル騎士団の秘密団員であったジェームズ・ブレッケンリッジがアメリカ合衆国大統領に就任することになっていた。また彼は戦争が勃発した場合、戦闘がほぽすべて北軍の領域内で行われるようにするための工作を担当することにもなっていた。
 この陰謀を企てた主な人物には、ジュダー・べンジャミン、スコティッシュ・ライトのグランド・マスターであるロバート・トゥームズ、悪名高いオカルト信奉者でカバラの研究者でもあったアルバート・パィク将軍などがいた。ニューヨークとボルチモアで銀行業を営み、ブナイ・ブリスを財政的に支えていたセリグマン一族は、この陰謀工作のために多額の資金を醵出していた。
 結局この陰謀は陽の目を見ることなく終ったが、陰謀を企てた者たちに手抜かりがあったわけではない。暗殺が実行に移される前に、連邦脱退派の軍隊がチャールストン港のサンプター要塞に砲撃を仕掛けたことがきっかけで戦争が始まってしまったからである。ただ、大統領がボルチモアを通過した時、暗殺計画が実施に移されはしたものの、失敗に終わった。当時ボルチモァはブナイ・ブリスとスコティッシュ“ライトの活動の拠点になっていた。

 誰が奴隷売買をしたのか

 一八六一年四月、連邦を守ろうとする合衆国軍が首都の守備増強のためにボルチモアを通過しようとしたとき、地元のブナイ・ブリス支部の指導者が率いる暴徒とぶつかった。ブナイ・ブリスがゴールデン・サークル騎士団に加担し、合衆国を壊減させようとするイギリスの陰謀に協力していることなどはないと考えていた人も、ブナイ・ブリスの率いる暴徒が、奴隷制反対を唱える新聞「シナイ」の出版者のラビ、デービッド・アインホーンの事務所を襲撃し印刷機を打ち壊した事件を目の当りにして、その考えをすっかり改めてしまった。
 ボルチモア暴動の後に逮捕された者の中には、ブナイ・ブリス支部で活動する著名なユダヤ人家庭の子弟ジョセフ・フリーデンワルドがいた。数年後、フリーデンワルド家の一員であるアーロン・フリーデンワルドの仕事上のパートナー、モーゼス・ワイゼンフェルドが工場に南部連合の戦争用物資を隠していたことにより逮捕された。奴隷制度を支持する連邦脱退主義者と急進的奴隷制廃止論者たちは裏で密かにつながっていた。ワイゼンフェルドの裁判において、その弁護を務めたのがボルチモア地区の急進的奴隷制廃止運動を率いるクエーカー教徒のジョンズ・ホプキンスであったことは、この事実を裏書するものであった。
 ブナイ・ブリスの支部の大半は北部に置かれていたが、その個々の構成員はどこに住んでいるかに関係なく南部連合の味方をした。連邦脱退の動きが最高潮に達し、一八六一年には南北戦争が始まった。その頃ニューヨーク市のラビ、モーリス・ラファルは広く世に知られるようになった「聖書から見た奴隷制度」と題する説教を行った。それは黒人の人身売買にブナイ・ブリスが果たした役割を釈明する最低の内容のものだった。
 ジュダー・べンジャミンにつながるオラング人奴隷商人により設立されたボルチモア・ユダヤ人会も、やはりブナイ・ブリスの傘下にあるシナゴーグのひとつで、南部連合の側に立った。ブナイ・ブリスの指導者の中にはフリーデンワルドのように極めて活動的な人々がいたが、このシナゴーグもそれに負けず劣らずの活発な活動を行った。ラビのバーナード・イロメイは、ラファルの考えを支持する有名な説教を行ったが、その中で次のように彼は語った。
「自分たちの願いなど叶えられそうもなく、彼らを暴力と専制の足枷の下にしばりつけておこうとするような政府の支配から抜け出ようとしている南部の同胞を、一体誰が非難することができょうか。彼らの財産権や合衆国が享受している特権を守ることができないばかりか、守ろうともしない政府が支配する社会から脱退しようとする南部の同胞を一体誰が非難することができようか」
 そして、彼は聴衆に向かって奴隷制度は「神が命じたもの」だと語って話を終えた。

 反連邦主義者の温床

 ブナイ・ブリスが連邦を解体しようとする陰謀で中心的な役割を果たしていたことを、リンカーン大統領側についた主だった人たちはよく知っていた。
 それゆえに、一八六二年十二月十七日、ユーリセス・S・グラント将軍は次のような内容の命令書第十一号を公布した。
「ユダヤ人全員が、財務省が定めた通商に関する規則および軍管区の命令にことごとく違反しており、それゆえこの命令受理後二十四時間以内にユダヤ人すべては軍管区から追放されるものとする。各部隊の指揮官は、ユダヤ人全員に通行証を所持させ退去させるものとし、いかなる者であってもこの通達の後に戻ってくる者は逮捕され、司令部からの許可がない限り囚人として移送される時まで監禁されるものとする・・・・」
 ここに言う軍管区とは、テネシー、ミズーリとその他の南部および中西部の各州から成るテネシー軍管区のことである。
 ブナイ・ブリスの各支部が反連邦主義者の煽動活動の温床となっていて、南部連合の工作員や代理人の根城であることが判明した事件が頻繁に発生したため、グラントはこのように対処したのであった。この命令が発せられた後でさえ、グラント将軍は特定のブナイ・ブリスの活動家の逮捕を余儀なくされたほどである。逮捕された人間の中には、後にブナイ・ブリス会長となった弁護士サイモン・ウルフも含まれていた。彼は、テネシー軍管区で逮捕された多数のユダヤ人の弁護士を務めた。

 コウモリのごときブナイ・ブリス

 半ば公式のブナイ・ブリス史『ブナイ・ブリス−契約の歴史』でさえ、南北戦争中にブナイ・ブリスが果たした役割を極めて異例な口調ながら次のように記述している。
「ブナイ・ブリスと南北戦争の関係は、どこか不可思議なものがある。第一次およぴ第二次世界大戦のとき、同結社は戦争を後押しする機関へとそれ自体大きく変身した。しかし一八六一年から六五年にかけては何百人ものブナイ・ブリスの者たちが従軍し、北部にあったほとんどの支部は軍に代わって作戦に参加したにもかかわらず、全国組織として同結社が参戦したことについては記録は一切触れていない・・・・開戦から数ヵ月後の一八六一年七月末、ニューヨークで開かれた総本部の会合の議事録には、戦争については一言も記されていない・・・・一八六二年に開かれた会議の記録で南北戦争について言及しているのは、ウォーターマン博士の報告中のほんの一部分だけである。
『私たちの政治的展望には雲がかかっており、それゆえ私たちはより一体となって力を合わせていかなければならない・・・・イスラエルの利益とイスラエルの希望は、現在のこの大いなる戦いの勝敗いかんにかかっている。この先、私たちに未来があるのかどうか、私たちが宗教の自由を守ることができるか否かがかかっているのである・・・・この国において私たちが得た祝福を心に留めるとともに、この試練の時にあって結社のメンバ−が団結して精力的に、かつ行動をもって難局を乗り越えることを願い、信じるものである』
 われわれにできることは、あの南北戦争で全土が戦いに巻き込まれた中でこの結社の動きがそれほど目立たなかったのはなぜかを推測するだけである・・・・その原因の一つは、国家が危機に陥るときまって台頭する反ユダヤ主義によるものであったと推測される。ユダヤ人は卑怯者でなまけ者だと非難された。不当に利益を得ていると責められた。彼らは北部では南部の、そして南部では北部の工作員だと非難された」

第六章ここまで

第7章
第七章 ブナイ・ブリスの秘密部門ADL

 ブナイ・ブリスのアメリ力再侵攻

 アブラハム・リンカーン大統領が暗殺され南北戦争が終わってすぐ、契約の子孫の結社ブナイ・ブリスは、その拠って立とうとした南部連合が崩壊してはいたものの、アメリカで再び影響力を持ち始めた。
 ブナイ・ブリスと手を結んだ「ユダヤ人南部連合主義者」の一人、ジュダー・P・べンジャミンが、このブナイ・ブリス台頭の過程で、大きくはないにしても一つの役割を演じることになった。
 べンジャミンはカリブ海、カナダ経由でアメリカを脱出、一八六五年八月三十日にイギリスへ到着した。その時彼はすでに、一八六五年四月十四日のリンカーン大統領暗殺の嫌疑で南部連合大統領ジェファーソン・デービスとともに起訴されていた。
 ジョン・ウィルクス・ブースによるリンカーン殺害のちょうど十日後、連邦政府の司法長官スタントンは、この暗殺計画は「カナダで計画され、リッチモンドで承認された」ものだったことを公にした。バージニア州リッチモンドは南部連合の首都であった。またイギリスの植民地であったカナダは、連邦脱退を唱える一派のスパイやテロリスト活動の本拠地であった。
 何人かの証人が連邦捜査官に対して語ったところによると、一八六五年四月六日と九日に南部連合の筆頭スパイ、ジェイコブ・トンプソンのモントリオールの事務所で開かれたジョン・スラットとの会合に彼らも出席していた。報告書によればスラットは、南部連合大統領ジェファーソン・デービスと国務長官ジュダー・P・べンジャミンの署名入りのリンカーン殺害命令書を持参したという。
 ジェファーソン・デービスは逃亡前に逮捕された。そこでロンドンへ無事脱出したべンジャミンが、南部連合の陰謀工作を担当するグループの中で最も重要な人物として活躍することになった。彼はまたイギリス法曹界の中でも重きをなすに至った。
 リンカーン暗殺から八ヵ月もたたないうちに無事イギリスに潜入したべンジャミンは、スコティッシュ・ライトの騎士団長であるアルバート・パイクと謀って、ゴールデン・サークル騎士団フリーメーソンをKKKの見えざる帝国という新しい名の下に復活させようとした。南北戦争後、この見えざる帝国をつくる計画に参加した者の中には、バーナード・バルークの曾祖父がいた。
 ジュグー・P・べンジャミンは、南部全土にわたるKKKの見えざる帝国の活動を支援するため、ロンドンから密かにアメリカ向けに送金を行っていた。KKKは二十世紀初めに、ブナイ・ブリスのADLから同じようなやり方で密かに資金供給を受けて、再ぴ頭を擡げてくることになる。だが、それ以前にKKKが意図したのは鉄道建設や農工業基盤整備を中心とした南北戦争後の南部復興計画を阻止することだった。そうすることで、敗北を喫した南部諸州を合衆国に取り込むことを狙ったわけである。

 連邦解体工作は続く

 一方、北部ではブナイ・ブリスは戦争による損失の一部を取り戻そうとしていた。その一つの手段としてブナイ・ブリスは、その創設当時からの支援者であったロスチャイルド家の代理人、オーガスト・べルモントの政治力を利用した。べルモントは一八七○年代中頃まで民主党党首を務めた。その影響力を行使して、彼はブナイ・ブリスのスパイを政界へ送り込んだ。
 べルモントはニューヨークに本拠を置いてはいたものの、南部連合の陰謀をすすめる上で、このことは何の邪魔にもならなかった彼はニューオリンズの民主党のボスで、ジューダー・P・ベンジャミンの政治的後ろ楯だったジョン・スリデルの姪と結婚していた。ブキャナン大統領時代、スリデルは全ての政治的任命権を委ねられており、後にメキシコ大使になった。南北戦争が勃発した時、スリデルは南部連合の外交団の中心的人物となり、ルイ・ナポレオン王朝との特別交渉担当者としてパリへ赴いた。彼ともう一人の南部連合の隠密外交官がフランスに赴く途上、公海上のイギリス船内で北部連邦の水兵によって逮捕された時、べルモントはリンカーン大統領に手紙を書いて自分も含めた分離主義者高官の釈放を要求した。べルモントは彼ら二人を不法逮捕したことがきっかけで、イギリスが南部連合側について参戦してくる恐れがあると説いた。
 事実を振り返って見ると、まず一八五二年、スリデルは義理の甥であるオーガスト・べルモントを、統領指名大会のニューヨーク州代議員にして民主党に引き入れた。指名大会では、彼らはジェームズ・ブキャナン指名の後押しをした。
 民主党はべルモントの下で、連邦解体をその使命とするイギリスの後方撹乱部隊としての役割を果たすようになった。イギリスとのこうした関係は、南北戦争が終わっても存続した。
 べルモントは、アメリカ青年運動やブナイ・ブリスの人間を工作員として、政府部内、政界、金融界の機密にかかわる部署に配置し、連邦解体の工作をさらに進めようとした。

 ブナイ・ブリスが公的費用を醵出

 ブナイ・ブリスの工作員の中でまず復権したのは、ユーリセス・グラント将軍の第十一号命令により逮捕されたサイモン・ウルフだった。
 一八七○年、ウルフとブナイ・ブリスは、連邦政府に巧みに圧力をかけルーマニアに初めて合衆国領事館を開設させた。ルーマニアではユダヤ人社会に対する血なまぐさいポグロム(虐殺)が行われていた。
 ブナイ・ブリスの前会長べンジャミン・F・ぺイクソットは、時の大統領グラントから初代ルーマニア駐在アメリカ領事に任命された。この領事職の手当に充てる政府財源がなかったため、ブナイ・ブリスがぺイクソットの外交活動のための費用を負担した。これは合衆国政府とブナイ・ブリスとの極めて異常な連携だったが、その後両者の間で行われた多くの共同活動の先例となった。そしてそのほとんどは国家の基本的利益に反するものであった。
 迫害されているルーマニアのユダヤ人のために手を施す必要がさし迫るまで、ブナイ・ブリスはもっぱら自分たちの利益のための救済活動を行っていた節がある。ルーマニァに遣わされた外交関係者に関するブナイ・ブリスの公式の報告書によると、ぺイクソットやウルフ、その他の者たちはルーマニァ中にシオンの会(シオン・ソサエティ)なる組織をつくった。このシオンの会は、フリーメーソンの秘密結社ブナイ・ブリスを原型としたものであり、結局のところ、新しい支部として正式にブナイ・ブリスに組み込まれてしまった。アメリカへの移住の際、ブナイ・ブリスの団員だった者に優遇措置がとられるようになった背景には、こうした秘密結社間のつながりが存在したのである。

 ユダヤ移民の選抜

 十九世紀末近くになって、ブナイ・ブリスは東欧や南欧から大量にやって来た移民の中から人材を確保することに力を入れるようになった。ブナイ・ブリスが適用した基本的な採用基準に従えば、その団員になれるのはほとんどが金持ちかそれとも野心があるかのどちらかで、さらに堕落しており将来大物になり得るユダヤ人ということになってしまった。
 ブナイ・ブリスに加盟して団員になれば、グループ生命保険に入る資格が与えられた。ユダヤ人互助会など他の団体が安い保険料率を導入して会員数を増やそうとしても、裕福なユダヤ人や野心的で出世を願う者が余計に団員になりたがるように、プナイ・プリスは醵出金の額をことさら高目に設定した。
 ブナイ・ブリスは一八九○年代に、人材確保と移民受け入れ事業をバロン・ド・ヒルシュ基金と密接に協力して行った。これが、その後長期にわたって様々な意味を持ってくる。ブナイ・ブリスとバロン・ド・ヒルシュ基金は、ロシア難民待遇改善米国委員会を通して特定のユダヤ人移民家族を選び、ニューヨークやその他のアメリカ東海岸の都市部にあるユダヤ人で一杯のゲットー.から、米国内のその他の地域やカナダなどへ移住させた。ブロンフマン一族がカナダ西部に定住するようになったのも、米国委員会の受け入れ作業の結果だった。この一族は、その後、ハドソン・べィ・カンパニーのような長年にわたってスコティッシュ・ライトの隠れ蓑となってきた会社が後ろ楯となっている組織犯罪に急速に足を突っ込むことになった。
 一九○○年には、ブナイ・ブリスはバロン・ド・ヒルシュ基金を事実上併合していた。ブナイ・ブリスの幹部だったヤコブ。シフ(著名なニューヨークの投資銀行家)とオスカー・シュトラウス(アメリカの元トルコ大使)は、基金の理事も兼ねていた。
 百万人以上のユダヤ人が住んでいたガリチア、べッサラビア、およびルーマニアの東欧地域が飢餓に襲われ、新たなポグロムが始まった。その結果大量のユダヤ人が難を逃れてアメリカに脱州した。
 この時点ではブナイ・ブリスとバロン・ド・ヒルシュ基余は、すでに難民救済事業を完全に取り仕切るまでになっていた。というのは秘密支部を全国に持つブナイ・ブリスがユダヤ機関の中で唯一アメリカとカナダ全土に地方支部を有する団体であったため、この地方支部が北米におけるユダヤ人移住者の受け人れ割り当て数を決めることができたからである。ブナイ・ブリスは、南北戦争中に犯した恥ずべき行為が主たる原因となって二十年間にわたって伸び悩んでいたが、この移民受け入れ作業によって再び団員数を拡大することができるようになった。

 節目となったセオドア・ルーズベルト

 一九○一年までに一万人のユダヤ人移民が、ニューヨークのローアー・イーストのゲットーからはるか彼方のコロラド州クリップル・クリークやニューメキシコ州シルバー・シティといったところまで、全米五百の町や市へと再定住させられた。
 また、世紀の変わり目に起こったもう一つのアメリカの悲劇、すなわち一九○一年、ウィリァム・マッキンレー大統領が暗殺され、セオドア・ルーズベル卜が大統領となったのがきっかけとなって、ブナイ・ブリスは隆盛を極めるようになった。
 マッキンレーからルーズべルトへの政権移行は、アメリカ史における最もドラマチックな転換、それも合衆国の敵にとって喜ぶべき転換であった。
 マッキンレーはリンカーンに忠実なオハイオ出身の共和党員であった。彼は一八九六年の選挙と一九○○年の再選のキャンぺーンでは、アメリカ本来の政治・経済システムを取り戻す政策を訴えた。裕福なニューヨーク貴族出のルーズべルトは、その母方の祖父ジェームズ・ブロッチから極めて強い影響を受けていた。
 このプロッチは、ロンドンに本拠を置く南部連合のヨーロッパにおける情報全体を取り仕切るリーダーであった。彼はジュダー・P・べンジャミンの親密な協力者で北部連邦の敵と考えられていたため、南北戦争後アメリカに戻ることは許されなかった。彼と同じく永久追放の目に会ったもう一人の南部連合支持者が、オーガスト・べルモントの叔父ジョン・スリデルであった。
 こと陰謀にかけてはひとかどの人物だったセオドア・ルーズべルトは、海軍次官だった一八九八年、ヘンリー・キャボット・ロッジ上院議員と共謀し、キューバの革命家たちに密かに資金援助をして米西戦争を勃発させようとした。このキューバの革命家たちはアメリカ艦船「メイン号」を沈めたとされている。
 アメリカの歴史家の中には、元ニューヨーク市警察長官であり急進的な隣保運動の後援者でもあったルーズべルトが、マッキンレー暗殺に関与していた可能性があると指摘する者もいる。

 なぜ自由国家にFBlが

 一九○一年、ニューヨーク州バッファローで再選直後の大統領に致命的銃撃を加え殺害した人物は、へンリー・ストリート隣保館に住むロシア人アナーキストであった。
 一九○○年の共和党指名大会ではマッキンレー自身が再選で指名されることは初めからはっきりしていたが、副大統領候補を誰にするかで紛糾した。激しいやりとりの後、相手を不憫に思ったマッキンレーは、自分の大敵であるルーズべルト知事を副大統領候補とすることに同意した。この妥協がマッキンレー自身の上に、そしてアメリカ合衆国の上に不運を招く結果になった。
 セオドア・ルーズべルトが大統領であった八年間に、合衆国が拠って立つ立憲制度の土台を破壊することを目的として数多くの組織が設立された。その一つが連邦捜査局(FBI)で、これは当時の議員たちが「専制警察国家機関」だとして激しく非難したものであった。FBIは議会の夏季休会中に、セオドア・ルーズべルトが署名した行政命令により設立されたのであった。
 そのFBIが公式に行った最初の活動は、FBI設置に反対する合衆国議会議員の事務所にFBIの工作員を送り込み、その議員を罪に陥れる罠を仕掛けさせて、初めて設置された合衆国国家警察機関に反対する議会勢力を叩き潰すことだった。
 その他にセオドア・ルーズべルト時代に誕生した機関としてADLを挙げることができる。ADLが、ボルシェビキの絡む組織犯罪やアメリカの利益を損ねることを狙った外国の諜報組織と手を結ぼうとする一方で、FBIとも緊密な関係を持とうとしたのは決して単なる偶然ではない。それは今後予想される激しい査察や様々な場合に起こり得る刑事訴訟からADLを守るために、FBIとの間に特別な関係をつくっておこうとするものだった。

 ブナイ・ブリスから生まれたADL

 ADL自らが作成した公式のADL史の中で、ADLがプナイ・ブリスの一機関としてつくられた事実を、わざと大したことでないかのように記述している点には注意する必要がある。ADLの報告書によると、ADLはイリノイ州南部出身の一人の若手ユダヤ人弁護士の手でつくられ、設立の五年後になって初めてブナイ・ブリスに「公認」されたことになっている。
 実際、ADLがイリノイ州ブルーミントン出身の若手弁護士シグムンド・リビングストンによりつくられたのはまちがいない。一九○八年にADLが最初に組織された時、リピングストンはシカゴに住んでおり、また有力なブナイ・ブリス第六支部の支部長をしていた。
 一九○八年、ニューヨークのラビ、ジョセフ・シルバーマンは、ブナイ・ブリスの執行部の会議の席上、「ユダヤ人の名誉を守るため」のブナイ・ブリスの新しい組織をつくることを提案した。ブナイ・プリスとADLの沿革史によると、この提案はシェークスピアの有名な戯曲『べニスの商人』の全国興業が実施されたことがきっかけで行われたという。
 だがこの説明は本末転倒である。

 反ユダヤ主義を拡めておいて組織拡大

 ブナイ・ブリスとADLがこの劇を嫌っているというのは事実だが、それは別にシェークスピアが反ユダヤ主義者だからというわけではない。この劇が、シャイロックという人物の描き方を通じ、富と権力のためなら自らの同胞をさえ裏切るユダヤ人の中のホフユーデンなる人々の本性を見抜き彼らをこっぴどくやっつける内容になっていることが、ブナイ・プリスとADLには気に入らないのである。
 シェークスピアがべニスをこの戯曲の舞台に選んだのは偶然ではない。というのは当時べニスは寡頭政治勢力の中心地であり、それ以前から「総督」になり代わって最も非情な秘密犯罪を行わせるためにホフユーデンを使うという歴史的背景があったからである。
 ドイツの偉大な劇作家でアメリカ革命の支持者フリードリッヒ・シラーやアメリカの作家で秘密情報員であったジェームズ・フェニモア・クーパーのように、べネチアの「総督」制と共和主義への憎悪の念を痛烈に告白した作家も他にいた。この「総督」制は、スコティッシュ・ライトやブナイ・ブリスといった組織を通して西欧や北米に拡がっていった。今日に至るまでルツアットやレカナッティといった古くからべネチアに住むホフユーデン一族が中心となり、世界中においてADLとその上部組織であるブナイ・ブリスを支えてきている。
 二十世紀の変わり目に話を戻し、「ユダヤ防衛機関」をつくった本当の理由について考えてみよう。もしアメリカでユダヤ人の名が冒涜されてきたというなら、その冒涜者の筆頭はブナイ・ブリスの指導者たち自身であった。ユダヤ人が非難されるたびに「反ユダヤ主義」と叫ぶような組織をつくることで、ADLの考案者たちはユダヤ人に向けられた非難の内容を覆い隠し、正当な非難と正真正銘の反ユダヤ主義との区別を暖昧なものにしてしまおうとした。そうすることでブナイ・ブリスとADLは、皮肉にもアメリカ中に反ユダヤ主義を拡めるのに大いなる働きをする結果になってしまった。だが、これこそ彼らが当初から意図していたことだった。
 セオドア・ルーズべルト時代において、ブナイ・ブリスは正当な非難を浴びても仕方のないようなことを数多く実行していた。ユダヤ人社会の内部からさえしばしば非難されたほどであった、彼らにとって「ユダヤ人の名を守る」ための組織づくりが急務となったのは、こうした汚い工作をやっていたからに他ならない。

 ボルシェビキ革命ヘの序曲

 ではブナイ・ブリスはどのようなことにかかわったのだろうか。
 第一に、ブナイ・ブリスは、バロン・ド・ヒルシュ基金やその他の秘密結社と共に、ロシアからのユダヤ人移民の中から選りすぐられた者を選別して人材として採用したことで、ロシア帝政を転覆する陰謀の主役を演じることになった。つまり、ブナイ・ブリスは事実上ボルシェビキ革命を積極的に支援した。
 一九○三年四月十九日、べッサラビア(ソ連のルーマニア国境地方、大部分がモルダビア共和国に属する)でキシニョフの大虐殺と呼ばれる惨事が起き、四十五人のユダヤ人が殺され数百人が負傷した。アメリカとヨーロッパ全域の多くのユダヤ機関が、生存する負傷者を支援するための資金集めをしようとしたのに対し、ブナイ・ブリスは財政的援助にはっきりと反対、その代わりセオドア・ルーズべルト大統領とともに、大虐殺に対する個人的責任はツアー(ロシア皇帝)にあるとする世界的キャンぺーンを行い、ロシアの体制の不安定化を図るためさらに揺さぶりを図ろうとした。
 一九○三年六月十五日、ブナイ・ブリスのワシントン代表で元南部連合の顧問弁護士だったサイモン・ウルフは、結社の執行部とルーズべルト大統領、それに国務長官ジョン・へイとの間の会合を設定した。この会合で話し合われた内容はルーズべルト大統領自身の手で報道関係者に公表され、広くマスコミの関心を集めるところとなった。大統領はブナイ・ブリスが用意した嘆願書をツアーに個人的に伝えることに同意した。
 その嘆願書はキシニョフの大虐殺に抗議したもので、再びこのような事件が起こらないようにするため、ロシア政府が殺害者たちをすみやかに処罰し、もっと思い切った政策をとることを要求したものであった。
 一九○三年七月十四日、ルーズべルトは再びブナイ・ブリスの最高幹部であるサイモン・ウルフ、オスカー・W・シュトラウス、それにブナイ・ブリスの会長レオ・N・レビといった人たちとニューヨーク州オイスター・べイにあった彼の私邸サガモア・ヒルで会った。ブナイ・ブリスが嘆願書に数千人の署名(大部分は非ユダヤ人のもの)を集めた後、ルーズべルトがツアーにそれを提出することで彼らは合意した。

 アーマンド・ハマーなる人物

 このようなことは、他国の内政問題に対し非礼にも外交的干渉行為を加えるものであった。というのは大虐殺から数ヵ月たっても、ロシア政府が直接事件に関与したという証拠は何も出てこなかったからである。ツアーは嘆願書の受取を拒否したが、そのことを再び世界のマスコミが一斉に叩いた。
 ブナイ・ブリスが帝政の弱体化を図っていたことが公けになった結果、一九○五年ロシア革命とボルシェビキ運動が起こった後ほどなくして、まもなくそれに対する巻き返しの動きが起こった。一九一七年にボルシェビキが権力を奪うと、ユダヤ人とボルシェビキはつながっていたと指摘する声が大きくなった。 アメリカ国務省の一九二○年代初期の公式文書に「ユダヤ・ボルシェビキ」の中心人物として記録されている重要人物の一人はアーマンド・ハマーである。アメリカ共産党の創始者の息子ハマーはモスクワに数年間滞在し、V・I・レーニンを含むボルシェビキの最高幹部と個人的に親密な交流があった。彼は新しくできた共産主義独裁政権にアメリカが大規模な経済援助を行うべきことを説いて回った。ハマーはソ連滞在中に米国情報部がソビエトの大物スパイとみなしていたロシア人女性と結婚した。アーマンド・ハマーはADLと親密な関係にあり、今日に至るまでソビエトと「特別な関係」を築くことを最も熱心に唱える人物の一人である。

 表はブナイ・ブリス、裏はADL

 二十世紀初めの混乱と変化の中で、ブナイ・ブリス首脳は結社が長年にわたって保持してきた秘密主義を放棄し、もっと開かれた公的な組織になるべきだと考えた。公式のブナイ・ブリス史にはそういった記述はないが、この結社の責任者は、それ以降の秘密工作はADLのみが担当するとのはっきりとした決定を行っている。
 このように、ブナイ・ブリスの「ユダヤ防衛」部門は、成立当初から秘密結社の中の秘密組織と考えられていた。それまではブナイ・ブリス全体で行っていた地下工作をこの部門だけで行うことになったわけである。ブナイ・プリスはアメリカに住む広範囲なユダヤ人層からその後も引き続きメンバーを採用することによって、当初は誰の目にも明らかだったフリーメーソンの組織であるというその歴史を世間から隠していった。そしてそれ以後は、ADLが受け持つようになった秘密工作を世間の目から隠すために、社会的義務を立派に果たす組織としての体裁を整えるようになった。
 しかしプナイ・ブリスの全米執行委員会とADLの全米委員会が全く同じ顔ぶれからなっているのを見れぱ、結社内部のエリートとADL幹部がつながっていることがわかる。
 こうした変更は二十世紀に入った一九一○年代の十年間に実施された。一九一○年のブナイ・ブリスの全国大会では、結社に「秘密主義の廃止」を求める議案が圧倒的多数で否決された。しかしその十年後、一九二○年の大会では、一○年の大会のときと同じ代議員が多数出席したにもかかわらず秘密主義は正式に廃止された。同時にプナイ・ブリスは結社の「ユダヤ防衛」計画の活動を拡大するため、十九万二千ドルを特別ADL基金として別途醵出することを決定した。
 結社に新しい秘密部門、すなわちADLをつくるという考えは、単にボルシェビキとの絡みからでてきたというだけのことではなかった。決定的要因とは言わないまでもADL創設のもう一つの重要な要素として、ブナイ・ブリスとバロン・ド・ヒシュル基金の支援を受けていた東欧からのユダヤ人移民が牛耳る組織犯罪のシンジケートの出現という事実があった。

 イタリア・マフィアとの連携

 ADLの設立に関する公式の報告書は、ADLが末端に至るまでブナイ・ブリスによっ統制されているということには余り触れていないが、「ユダヤ・ギャング」の存在に伴って起こったスキャンダルについてはことさら詳しく述べている。
 早くも一九○一年には、ニューヨーク市警察は強大化する地下犯罪組織の活動、それにその地下組織と国際アナーキスト運動とのつながりを追っていた。
 ニューヨーク市警察長官セオドア・ビンガムと彼の配下の首席情報担当官ジョセフ・ぺトロシーノ警部補は、そのことを知ってか知らずか、スコティッシュ・ライトが当時進めていた陰謀を追っていた。その陰謀とは、アメリカ合衆国、それにヨーロッパ大陸の国の中でアメリカが行ったような共和制国家をつくる実験を繰り返す可能性があるすべての国を弱体化することであった。
 共産党第一インターナショナル結成当時、スコティッシュ・ライトはヨーロッパ青年運動の中心的人物を多勢引き抜き、共産主義者やアナーキストに仕立てた。こうしたことを行ったフリーメーソン活動家の中に、イタリアのジョゼッぺ・マッツィーニがいた。
 マッツィーニのイタリア青年運動は、一八四八年以後のヨーロッパ中に吹き荒れた革命の嵐が鎮まった後におけるヨーロッパ青年運動の組織全体の立て直しのために中心となって働いた。マッツィーニの勢力は第一インターナショナルの結成大会では過半数を占めたが、歴史の教科書の中では彼の働きはイギリスで訓練を受けたドイツ系ユダャ人共産主義者、カール・マルクスの陰に隠れてしまっている。
 マッツィーニのイ夕リア青年運動は、拡大する国際組織犯罪シンジケートの中心でもあった。この犯罪シンジケートが、後にマフィアとして知られることになった。イ夕リア人のアメリカへの大量移民が始まるとともに、マッツィーニ率いるイタリア青年運動組織は新世界に足掛かりを設けた。当然のことながら、スコティッシュ・ライトが後ろ楯となっているマッツィーニの運動が、すでにできあがっていたプナイ・ブリスのネットワークや、大西洋を越えてアメリカに移植されたヨーロッパ青年運動の他のグループと共通の目的を持っといったことがしばしば起こった。十九世紀の終わりには、ユダヤ人やイタリア人、アイルランド人、それにその他のヨーロッパ移民を巻き込んだ一つの強力な犯罪シンジケートが、ニューヨークやニューオーリンズといった都市にできていた。
 ニューヨーク市警察長官ビンガムが叩き潰そうとしたのも、まさしくこのような組織であった。

 ユダヤ防衛のためにあらず

 早くも一九○一年の初めには、ビンガム長官の右腕のジョセフ・ぺトロシーノ警部補は、ニューヨークのローアー・イーストサイドにあるヘンリー・ストリート隣保館を本拠とするアナーキスト一味がウイリアム・マッキンレー大統領の暗殺を企んでいると、財務省秘密検察局に事前に警告していた。へンリー・ストリートの一味と関係があったアナーキストはエマ・ゴールドマンであった。一八九○年代初め、ニューヨーク市警察長官在職当時、セオドア・ルーズべルトはフェビアン社会主義者がつくったへンリー・ストリート隣保館の強力な支持者であった。財務省秘密検察局はぺトロシーノの警告を無視した。その数ヵ月後マッキンレーは亡くなり、そしてセオドア・ルーズべルトが大統領となったのである。
 ピンガムとぺトロシーノは、ニューヨークにおけるアナーキスト犯罪者による地下活動の徹底調査を進めて、それなりの成功を得た。悪名高いギャング、アル・カポネの叔父、ジョニー・トリオは、ニューヨーク市警察から絶えずえず圧カをかけられ、その結果ニューヨークからシカゴへと追いやられてしまった。一九○八年初め、ビンガムは一冊の公的報告書を出し、その中でニューヨークに台頭してきたユダヤやイタリア、それにアイルランドの犯罪シンジケートについて詳しく報告するとともに、それらシンジケートと国際アナーキストとの関係についてもその実態を明らかにした。この報告書は今では入手できないので、シンジケートの一部としてブナイ・ブリスの名をビンガムがはっきりとした形で挙げていたかどうかは調べようがない。しかしADLの沿革を書いた
 公式の文書によれば、ADLがブナイ・ブリスの単なる広報委員会としての活動を行っていた当時、まず最初の攻撃目標に選んだのがビンガム長官だった。「ユダヤ人を中傷した」という理由で、彼は激しい非難にさらされた。
 一九○九年初めにぺトロシーノ警部補はイタリア警察との連携捜査のためにイタリアへ渡り、ニューヨークに拠点をつくり上げた主要なイタリア・ギャングに関する一連の書類を引き渡した。三月にシシリーを訪れていたぺトロシーノは、シシリー・マフィアのボス、ドン・ヴィトー・カスチオ・フェロにより暗殺された。
 一方アメリカでは、ビンガムを反ユダヤ主義者呼ばわりするブナイ・ブリスの率いる運動が繰り広げられ、彼はニューヨーク市警察長官の地位を追われた。その結果イタリア人およぴユダヤ人双方のギャングの活動は隆盛を極めることとなった。
 犯罪と戦ったビンガムが追放され、ぺトロシーノが暗殺された事実は、ADLがどういう存在であるか、その本質的なものを示唆している。つまりADLは結成当初から組織犯罪やそれを操るスコティッシュ・ライトの「防衛機関」として位置づけられていたのであり、「ユダヤ人」の防衛組織だとは決して考えられていなかったのである。

 組織犯罪を支えるADL

 ADLが結成当初からスコティッシュ・ライト・フリーメーソンの上層部によって支配されていたことは、その設立者であり初代専務理事(一九二二−四五年)を務めたシグムンド・リビングストンの経歴を見るとわかる。リビングストンは中西部の有力なブナイ・ブリス第六支部の支部長だったとき、すでにシカゴの弁護士として名をなしていた。彼の大手顧客の中にはウイリアム・ムーアが支配するシカゴ・アルトン鉄道があった。一八九○年代以後、監督教会員であったムーア家はJ・P・モルガン銀行グループとの共同事業により財をなした。ムーア家は、モルガンの財政的支援を受けてナショナル・ビスケット・カンパニー(ナビスコ)やU・S・スティール・コーポレーションを設立した。二世代のうちにムーア一族はニューヨークのバンカーズ・トラスト・カンパニーを支配するようになり、インターナショナル・ビジネス・マシーン・コーポレーション(IBM)の重役に名を連ねるようにもなった。
 ムーア家の弁護士シグムンド・リビングストンは、一九○○年代初めの三十年間、ADLの活動の支配権を握ったというだけではなかった。ナビスコやムーア一族が所有するその他の企業が中心になって、常にADLを財政的に支えていたのである。一九八八年に至るまで、ムーアの子孫の一人で、ニューヨークの聖ヨハネ監督教会のポール・ムーア主教は、ADLと非常に密接な関係を持っていた。彼はエルサレムの聖ヨハネ騎士団のようなフリーメーソン機関の活動の場所として、自分の教会を提供していた。
 ウォール街やロンドンのシティの監督教会派フリーメーソン上層部の密かな支援を受け、またADLの強力な保護も受けながら、二十世紀の当初二十年間に全国的なユダヤ犯罪シンジケートができ上がってきた。
 一九一九年に禁酒法ができてからというのもの、彼らの事業はまさに全盛を極めるに至った。

 イギリスの支援と支配

 アル・カポネ、チャールズ(ラッキー)・ルチアーノ、ジョニー・トリオといった別名で呼ばれた有名なイタリア人の他に、禁酒法時代の組織犯罪はユダヤ・ギャングによっても支配されていた。その中で最も有名なのはメイヤー・ランスキーであった。ランスキー自身は、ロススタインという有名なニューヨークの繊維衣料商人の息子の支援を受けていた。アーノルド・ロススタインはニューヨークに登場した最初の犯罪ボスであった。彼は一九二六年に暗殺されたが、その時点でメイヤー・ランスキーは押しも押されもせぬシンジケート・ボスの地位に就いた。ランスキーと彼の少年時代からの友人チャールズ・ルチアーノは殺人会社、すなわち銃を使う名うての殺し屋集団をつくり、それによって北米のすべての都市に、密売酒と麻薬の流通ルートを支配する全国的犯罪連合をつくっていった。
 ユダヤ人が不正なやり方でカネを手にするのを取り締まろうとする動きがちょっとでもあれば、ADLはすぐさま「反ユダヤ主義」という叫び声をあげた。それによって、シンジケートは禁酒法時代の十年間に根を深く張り巡らし、何十億ドルという不正資金を蓄えるに至った。メイヤー・ランスキーのほかにも、大物ユダヤ・ギャングがアメりカとカナダに現れた。こうしたギャングの中でも特筆すべき存在がカナダにおけるサム・ブロンフマン率いるブロンフマン・ギャング、クリーブランド、デトロイト、シカゴの五大湖周辺に根を張ったノーマン・パープルやモリス・ダリッツ、それにマックス・フィッシャー率いるパープル・ギャング、ニュージャージーからボストンへの酒と麻薬の流通路を支配したジョセフ・レインフェルド・シンジケートといった集団である。ランスキーと親しいべンジャミン(バッグス)・シーゲルは、禁酒法時代にウィスキーの密売と麻薬で稼いだ資金を基にネバダにギャンブル王国を築いた。組織犯罪全盛期に儲けた資金のその他の部分は、ハリウッドの映画制作会社に注ぎ込まれた。
 禁酒法時代にあっても、ユダヤ・シンジケートは、イギリスに本拠を置くフリーメイソン一味との間に秘密の特別な関係があったおかげで繁栄した。カナダやカリブ海にある引き渡し地点までスコッチ・ウィスキーを自由に配送することができる英国酒造評議会を支配していたのは、ほかならぬウインストン・チャーチルその人であった。そして引き渡した地点からはランスキー・シンジケートの所有する船が、極上の酒をアメリカへ運び込んだ。当時の警察の記録は、アメリカの東海岸や五大湖の湖岸線を支配していた「ユダヤ海軍」について言及している。
 そして一九二○年、アーノルド・ロススタインとメイヤー・ランスキーは、彼らの代理人ジェイコブ(ヤシャ)・カッツェンバーグを上海へ送り、中国産アへンの北米における販売権を手に入れるべく交渉させた。カッツェンバーグが交渉した相手のイギリスのアへン王の中には、香港上海銀行とジャーディン・マゼソン・トレーディング・カンパニーのケズウィック卿がいた。ケズウィックは、スコティッシュ・ライトの団員だった。このスコティッシシュライトは、グランド・マスターのパーマストン卿のもと、中国における麻薬取引の権益をイギリスの手に入れるべく、十九世紀後半にアへン戦争として知られる戦争を仕掛けた団体であった。

 財務長官モーゲンソー

 ADLとブナイ・ブリスが支援するユダヤ・シンジケートは、禁酒法のおかげで強大な金融・政治権力の基盤を築くことができた。しかし、ユダヤ・シンジケートの名だたる人物のほとんどは、北米全土の律儀な警察官の目には、やくざ、麻薬密売人、人殺し、強盗ということになっていた。
 一九三三年、ADLはこうした人間だとしか見られていなかったユダヤ・ギャングたちの復権を図るべく動き始めた。ドイツでアドルフ・ヒトラーが政権の座につき、アメリカ国内でも親ヒトラー的な動きが台頭したことから、ADLとこれを支援するスコティッシュ・ライトは、こうしたギャングに復権の機会を与えようと行動し始めたのである。
 プナイ・ブリスは一九三三年の全国大会でADL支援を最優先扱いとすることとし、ADLの後援のもとで反ナチ秘密情報収集活動に従事する部隊を創設するために二十万ドルを緊急醵出することを決定した。
 この動きはすでにでき上がっていたイギリスの情報工作計画とうまい具合いにかみ合うことになった。イギリスの諜報活動の拠点は、ニューヨークにある何社かのイギリス系投資会社の中に置かれていた。最初に拠点が設けられたのは、第一次世界大戦終結時のことでウィリアム・ワイズマン卿がこれに当たった。イギリスの諜報活動は形式上はFBIおよぴ米国財務省と連携して行われていた。
 その米国財務省の秘密検察局というのは、大統領と政府高官を護衛するために設立されたもので、アメリカで最も古い民間情報取締機関であった。
 フランクリン・デラノ・ルーズべルト大統領が任命した財務長官は、都合の良いことにブナイ・ブリス幹部であるヘンリー。モーゲンソー二世だった。彼の父ヘンリー・モーゲンソーはボルシェビキ革命当時のトルコ大使であり、その当時の結杜の秘密活動に最も活躍した人物である。
 英国情報部の連絡役だったワイズマンが交替したとき、ウィリアム・ステファンソン卿は増大するナチの危険に対して英米の情報機関の協力体制を大幅に拡大しようとした。またモーゲンソーは、ADLを秘密スパイ活動のために全面的に投入した。うまい具合いに、ADLの情報部長モーリス・チェク(別名フランク・ビアス)が、アメリカ議会のマコーミック・ディックスタイン委員会の首席調査官だった。さらにADLのトップクラスの諜報員であった弁護士ジョージ・ミンッアーは、一九二六年から一九三一年にかけて、ニューヨーク南部地区の合衆国検察局の犯罪調査部長を務めていた。

 罰せられることなき犯罪者たち

 ミンツァーはその立場を活かし、メイヤー・ランスキーの殺人会社(マーダー・インク社)のネットワークを刑事訴追からかばった。公けにされた当時の歴史史料によると、一九二九年にはメイヤー・ランスキーは米国財務省への情報提供者として密かに名前が挙げられており、それゆえ訴追を受けることがないようになっていたという。それが事実かどうかは立証されてはいないが、いずれにしても彼が一九二九年以後一日として刑務所で過ごしたことがなかったのは事実である。
 ミンツァーの前任者でニューヨークの合衆国検察局の刑事部門を統轄していたのは、ランスキーのもう一人の擁護者、モーゼス・ボラコフであった。ボラコフは自分がユダヤ・シンジケートとつながっていることを隠そうとはしなかった。合衆国検察局を去って後、彼はランスキーとチャールズ・ルチア−ノ両人の個人弁護士となった。
 一九三三年、ミンツァーはADLのために働く秘密情報班を自分の法律事務所内に設けた。本当のものも単に推測に基づくものも含めて、米国における親ナチ・ネットワークに関するファイルが、そこに保管された。こうしたファイルは海軍情報局(ONI)やFBI、国務省、それにウィリァム・ステファンソン卿率いる英国特殊工作部(SOE)にも提供された。
 第二次世界大戦終結の時点までに、破壊活動に関与したとしてADLのファイルに記載された米国人の名前は、充分な証拠のない者も含め三万二千人以上に及んだ。それら名指しされた人々の中には、進んでナチズムを支持した正真正銘の反逆者もいたが、その多くはただADLおよびユダヤ・シンジケートと対立したというだけの人々であった。

 米ソ情報部への浸透

 一九四○年七月、イギリスはすでにヨーロッパでの戦争に巻き込まれており、ルーズべルトはイギリスを守ることを決定していた。そういう中でアメリカとイギリスの情報部は、いわゆる「暗黒街工作(オぺレーション・アンダーワールド)」を始めた。この「暗黒街工作」の目的は、シシリー上陸から開始する将来のヨーロッパ攻略に備え、シシリー・マフィアの中でこれはという人物を連合国側に取り込むことであった。
 ADLが後押しをするムーア一族所有のナビスコ社の執行役員であるチャールズ・ラドクリフ・ハフェンデン海軍少佐は、海軍情報局B_3調査部長に任命され、ニューヨークにおける工作を命じられていた。ハフェンデンはすぐに、後にADL最高幹部となるニューヨークの地方検事補マーリ・ガーフェインの支持を取付けた。ガーフェインは、モーゼス・ボラコフとメイヤー・ランスキーを通じて、殺人会社のチャールズ・ルチァーノにシシリー侵攻計画への援助を約束させた。結果として、ランスキー、ルチアーノの両人は海軍情報局の情報提供員として働くことになった。
 ランスキーが、海軍情報局からシシリー・マフィアと接触し、侵攻計画に対する彼らの支援を確かなものにするよう依頼されたとき、皮肉にもランスキーは、一九○九年にニューヨーク市警察のぺトロシ−ノ警部補を殺害したマフィアのボス、ドン・ヴィト−・カスチオ・フェロの息子の所に直接赴いた。
 反ナチ運動は正義であったということや、組織犯罪に関係する人物をナチ占領下のヨーロッパへの侵攻準備のために使うのは戦争のためには仕方のなかったことだ、ということについては異論はない。ただ、防衛のために設立されたはずのADLや組織犯罪が、本来犯罪と戦うべきである連邦機関の承認と積極的援助を受け、隆盛を極めることができたというのは、何とも不幸な結末だった。
 もう一つ戦争の結果として言えるのは、ADLのソ連情報部とのつながりが強まったことである。戦時かけて、ニューヨーク南部地区の合衆国検察局の犯罪調査部長を務めていた。

 アメリカ全国ヘの勢力拡大

 終戦時、ADLは過去二十年間でアメリカの奥深く侵入を果たした実績をより一層活用するため、大がかりな組織改革を行った。
 ADL自らが口述によって作製した六巻からなる公式のADL史によると、一九四六年、べンジャミン・R・エプスタインをはじめとするADL職員が、ディック・ガッツスタット専務理事に組織拡大を図るという観点から組織の見直しを行うよう提案した。その当時、ADLの常勤職員の数は五十人にも満たなかった。エプスタイン、ルー・ノビンズ、マックス・クロロフ、ハロルド・サックス、アーノルド・フォルスターといった人が一つの研究を行っていたが、それは後にADL内で「審問」という名で知られるようになったものである。「審問」の直接の結果として、ADLは現在の部局からなる組織に再編され、再編された各部局は常勤専門職員を採用するようになり、その管理は当時すでに社会復帰していた多くのユダヤ・ギャングが支配する全米委員会という素人集団が行うことになった。コロラド州デンバーのADL理事会の会長メルビン・シュレジンジャー大佐の尽力により、ADLの地方事務所の数は一九五○年の一二ヵ所から五年間で三○ヵ所以上というように倍以上になった。
 べンジャミン・エプスタイン自身は、一九四七年にADLの執行理事となり、一九七九年までその座にあったが、退任の後も新しく設立されたADL財団の副会長として半ばADL内にとどまっていた。彼は一九八三年に没した。

第七章ここまで

第8章へ
第八章 上納か、「反ユダヤ」の烙印か

最大の私設秘密警察

 ブナイ・ブリスの下部組織ADLは、今日アメリカや西ヨーロッパ、ラテ
ン・アメリカのすべてのユダヤ人社会にその触手を伸ばしている。この組織は
多くの地方の弁護士会を支配することによって、また州および連邦裁判所の判
事の選任に影響力を行使することによって、アメリカの司法機構のほとんどす
べてを密かに支配している。またADLは大手銀行や金融機関の枢要な地位に
工作員を送り込んでいる。さらに米国上下両院の議員は、ADLの名誉副会長
だなどと世間ではとりざたされている。また、ADLは、数多くのアメリカの
警察幹部を、イスラエル政府およびユダヤ・ロビーの手先として抱き込むこと
に成功している。
 ADLはまた、二十世紀における最も強力なユダヤ・ギャング、メイヤー・ ランスキーが築き上げた組織犯罪帝国を受け継いだ組織である。アメリカの総 人口約三億人の中でユダヤ人の数はわずか六百万人でしかないにもかかわら ず、もし本当の力を一つにまとめれば、驚くべきことにADLはアメリカにお ける最大の、そしておそらく最強の私設秘密警察機関であるということになる だろう。人口比でみれば0.5%にしかすぎないというのに。  ADLの活動は、アメリカのユダヤ人社会を対象にしたものに限るものでは ない。前のところで詳しく述べた「ホフユーデン」(宮廷ユダヤ人)の伝統は 今も生きている。ADLは強大な金融、政治勢力集団に仕え、リベラルな東部 エスタブリッシュメントとは協調体制にあるといえる。そのためにユダヤ人社 会やイスラエル国家の利益を犠牲にするといったことがしばしば起こってい る。
 権力と影響力を追求する余り、歴史的に彼らはソビエト政府とその諜報組織 であるKGBとは非常に密接な関係を維持しているとともに、常に意志の疎通 を図っている。ADLのメンバーや支持者の多くがかつて共産主義者又は社会 主義者であったことが、この協力関係の背景になっている。当然のことながら ADLはイスラエルのモサドばかりか、米国中央情報局(CIA)や連邦捜査 局(FBI)、それに国の内外の諜報機関とも深くかかわりあっている。  アメリカ最古の社交団体の一つだと自称していながら、ADLは会員権を一 般に開放していない。ADLの構成員となるには、州、地方あるいは全国組織 いずれの場合でも、連邦首脳部の同意を必要としている。
 ブナイ・ブリスが今日に至るまで公式のフリーメーソン・ロッジ(支部)と しての構成を守っているのに対し、ADLは実際にはこれよりもはるかに秘密 の組織であると言える。もしブナイ・ブリスがフリーメーソンの中のユダヤ人 下部組織であるとすれば、ADLとそれにつながるエルサレム財団は、ブナ イ・ブリスの支部の中で最も秘密に包まれた組織ということになる。  一九四八年にイスラエルが建国されたとき、イスラエル政府は新しくつくっ たモサド(イスラエルの対外諜報機関)への密かな援助を期待したこともあっ てADLの活動の大幅拡大を申し入れた。それを承けて、ADLは一九四八年 以来、組織を次の三つの段階に分けて活動している。
一、 全米、地方あるいは地域委員として活動する一般メンバー
二、 常勤専門スタッフとして雇用された職員
三、 ADLとは表向き関係はないがADLから給与を受けて働く秘密工作員
 戦後のADLを構成するこの三つのグループの中で、最も力を持っているの が委員を務める一般メンバーである。彼らが決定権を持っており、専門スタッ フのために活動方針を決定する。  クラツニック、カンペルマン、ブロンフマン  彼らのほとんど全員が、極めて裕福であるか政治権力を持っている者たちで ある。例えば、ADL全米委員会会長のフィリップ・クラツニックは、カー ター政権当時の商務長官であった。さらに全米委員会副会長のマックス・カン ペルマンはカーターの民主党政権下で人権外交の大使を務め、レーガンの共和 党政権下では軍縮交渉主席担当官の地位にあった。さらに三人目としてADL 全米委員会副会長の実業家、エドガー・ブロンフマンはアメリカ多国籍企業の 中でも最大かつ最強の企業の一つであるデュポン・コーポレーションの過半数 を支配している大株主である。  ADLが全米委員会のメンバーに強力な政治・金融の大物たちを揃えている ことから、その専門スタッフは人に接触する場合でも、影響力を行使する場合 でも、絶大な力を発揮することができる。ADL全米委員の銀行や企業とのコ ネクションのおかげで、ADLの資金調達活動はフォーチュン誌が調べた全米 大手五百社や大手商業銀行、さらには全米すべてのマスコミの取締役会のメン バーにまで行き及んでいる。  このようにADLは、カネで買うことも可能な政治警察力の提供というサー ビスを行うのと同時に、自分たちに貢物を納めるか、それとも「反ユダヤ主 義」の烙印を押されたいのかといっては大手米国企業や銀行をゆすっている。  例えば、一九七七年から七八年にかけて、ADL副会長エドガー・ブロンフ マンは自分の会社であるシーグラム・コーポレーションのニューヨーク本社 で、バートン・ジョセフやジャスティン・フィンガー、ベン・エプスタインと いったADL幹部と、アメリカ財界の政策決定機関であるビジネス円卓会議の リーダーたちとの間の秘密交渉をとり持った。  この会議において、企業グループ側は結局のところ、イスラエルに対するア ラブ・ボイコットを暗黙のうちに支持してきた行為を止めるようにというAD Lの要求を受け入れざるを得なかった。この時、ビジネス円卓会議参加者を率 いてその交渉に臨んだのはデュポン・コーポレーション会長のアービング・シ ャピロだったが、挙げ句の果てに、このシャピロは、ブロンフマンによるデュ ポン買収の際には、中心となってブロンフマンに便宜を図った。円卓会議の弁 護士としてこの困難な交渉に当たったのはC・ボイデン・グレイで、彼は現在 ジョージ・ブッシュ大統領の主席法律顧問を務めている。  ADL組織、その表と裏  ADLの専門スタッフは、ニューヨーク市国連プラザ八二三番地にある全国 本部で仕事をしている。本部のある超高層オフィス・ビルは、マンハッタンの イースト・サイドの最も地価の高いところに建っており、国連本部とは通りを 挟んで反対側にある。このビルの価値は二千万ドルを上回るという。この建物 のテナントの中には、日米欧三極委員会(TC)の北米事務所がある。  専門スタッフはまた、アメリカ全土に三十一の地方事務所を持っている。こ れらの事務所はニューヨーク、マイアミ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、 シカゴ、デトロイト、ボストン、フェニックスをはじめとする全国主要都市の 中心に置かれている。その他にも、都市の大きさとは別に、強大なユダヤ人社 会があるものの一般的にはあまり重要でない都市にもADLは事務所を持って いる。フロリダ州のウエストパームビーチやニューヨーク州(ロングアイラン ド)のグレートネック、ニュージャージー州のリビングストンといった都市が それに当たる。これら三つの都市の郊外の地域には、非常に裕福なユダヤ人家 族が集中して住んでいる。  海外においては、ADLは次の国と都市に事務所を持っている。 ・ イスラエルのエルサレム ・ フランスのパリ ・ イタリアのローマ ・ カナダ・オンタリオ州のダウンズビュー  ADLは英国においても、ユダヤ人問題研究所(IJA)を通して影響力を 有している。 IJAはもともとニューヨーク(後にロンドンに移転された) の世界ユダヤ人会議により設立されたものである。最近、世界ユダヤ人会議の 会長にADL最高幹部エドガー・ブロンフマンが選出されたことによって、ロ ンドンのユダヤ人問題研究所はADL及び世界ユダヤ人会議と共同でプロジェ クトを組むことになった。ユダヤ人問題研究所は現在ロンドンとADLのニ ューヨーク本部にその事務所を置いている。  一九九〇年一月には、ソビエト大統領ミハイル・ゴルバチョフとエドガー・ ブロンフマンおよびADLに対する有力資金提供者である穀物商デーン・アン ドレアスとの間で一連の会談が行われ、会談後、年末までにADLがモスクワ 事務所を開設することを計画していると発表された。モスクワ事務所を設ける 目的は、表向きにはソビエト政府が国内の反ユダヤ運動を抑えるのを支援する ためというものである。しかし、ADLとソビエトKGBとの長年にわたる共 謀に詳しいアメリカの上級情報職員によれば、その本当の目的は米国内でのソ 連の宣伝工作と諜報活動のためのパイプ役を果たすためのものだということで ある。  ADL本部内の専門スタッフは次の五つの部に分かれる。 一、 公民権。詳細は後述。 二、 通信。 ADLの出版物や映像資料などの製作を担当する部門。  ADLやそれから派生した各種財団、それに世間の目をごまかすためにつく られた表向きの組織は、映画製作の他にも多くの白書、開放、特別レポートを 刊行している。 ADLは近年、ホロコーストやアメリカの人種差別主義集 団、偏見等々を扱った中学、高校用社会科教科書シリーズをつくりあげた。 様々なADLの出版物の中には、月刊の「公報」、不定期刊行物の「法執行公 報」、公民権部の活動を紹介した「訴訟審理要領」、さらには「ラテンアメリ カ公報」などといったものがある。 三、 地域サービス。  米国内三十一ヶ所にあるADL地方事務所を管轄する部。 四、 対外交流。  世界な主な宗教すべてとADLとの間の連絡を担当する部。この対外交流部はバチカンとの関係もあって ローマに事務所を置いている。 五、 国際問題。  これはエルサレム・センターを含むADLの海外事務所を管轄している。こ の部はまたイスラエル政府、米国務省、 CIA等と連携しながら行動するA DLの対外工作部でもある。  そういうわけで、一九九〇年二月、ソ連政府代表やロシアのユダヤ人社会の 指導者たちと会談するため、ADLの一行をモスクワへ率いていったのは、こ の国際問題担当理事のケネス・ヤコブソンであった。そしてADLがブッシュ 政権と共同して反日キャンペーンを行うのを支援したのもこのヤコブソンであ る。「公民権」という偽りの名の下に、ADLは様々な表向きの顔をもって、 自分たちとは別行動をとっているふりをしている破壊活動分子の大規模な全米 および国際ネットワークを持っている。ADL発行の出版物を注意して読む と、米国内の暴力的な右翼の過激派ばかりか左翼の過激派の背後にもその密か な手が働いていることがしばしばわかる。表面上はこの両過激派は共にADL の不倶戴天の敵ということになっている。  演出なしでは起きないこと  ADLはまたアメリカの全国記者クラブにその手先を送り込んでいる。いつ でもすぐに記者を集めて、ADLがあらかじめ用意した通りの記事を一面に書 かせることができる。  公民権部は米国内の諜報かつ小津や秘密工作を担当する部署である。その中 には次の三つの課がある。 一、 実情調査 二、 法律 三、 調査  これら三つの課のうち二つは、CIAの情報工作部の構造にある点では似て いる。実情調査課が、国内や海外の秘密工作情報の収集と工作に備えての情報 判断を行うのに対し、調査課は表に出ている情報収集と分析作業を行う。それ ゆえ一九八八年にCIAの職員の一人がADLのワシントン事務所に招かれ、 実情調査課と調査課のスタッフに対し背景説明を行ったというのも別に不思議 なことではない。  実情調査課は米国内の過激派の中にADLへの情報提供者、おとり、潜入者 をいつも送り込んでいる。過去三十年間に起こった事件の記録を見ると、AD L実情調査課の工作員は殺人や暴動の扇動、爆破をはじめとする重大な犯罪に 係わり合ってきている。  一九六〇年代に起こった一つの事件では、ニューオーリンズのADL事務所 が、ミシシッピーのメリディアンに住むADL職員の一人が暗殺されかかった かのように演出するのに、白人の人種差別主義者KKKのメンバーを買収して それを依頼している。地元警察はそのADL職員の家の外で待ち伏せをし、銃 撃戦の末、一人の女性が殺された。その女性はキャシー・アイスワースという 地元の学校教師であった。  一九七〇年に起こったもう一つの事件では、ニュージャージーのトレントン のKKKに潜入していたADL諜報工作員が、全米有色人種地位向上協会(N AACP)なる黒人公民権グループの地方本部に爆弾を仕掛けることを、地元 のKKKのリーダーに依頼し、もう少しで成功するところだった。それにあた ったADLの工作員、ジェームズ・ローゼンバーグは、イスラエル国防軍(I DF)から準軍事的訓練を受けていた。  一九八〇年代半ば、もう一人のADLに雇われた工作員であるモルデカイ・ レヴィが、ADLをはじめとするグループからパレスチナ解放機構(PLO) あるいは第二次世界大戦時のナチ戦犯と関係があるといって非難されていた人 たちに対する一連の暗殺計画に関与していた。アレックス・オデーとツチェリ ム・スーブゾコフ殺害に使われた強力で高性能のパイプ爆弾を仕掛けたことに ついて、レヴィは直接の罪を問われはしなかったものの、FBIと警察はレヴ ィがこの二人の暗殺について中心的役割を果たしたと考えた。暗殺それ自体 は、少なくとも一人のADL最高幹部の協力なテコ入れにより創設されたユダ ヤ防衛連盟(JDL)と関係のある訓練された暗殺者によって実行された。  労働者組織への潜入  ADLが人材を集めたり、政党や政治団体の間に幅広く工作員を配置したり するに当たってはその実情調査部長アーウィン・スウォールが、社会主義イン ターナショナルやアメリカの労働組合を支配しているアメリカ労働総同盟産別 会議(AFL−CIO)と密接な関係を持っていることが、大いに役立ってい る。  スウォールは、イギリスのオックスフォード大学のラスキン労働カレッジ で、労働者側に立って反政府運動を行う訓練を受けた。ラスキン労働カレッジ は、英語圏内の国々での諜報工作員徴募のための拠点として有名である。彼が そこで学べるようその費用を負担したのは国際婦人服労働組合(ILGWU) であった。この労働組合は、米国共産党党首であったジェイ・ラブストンをは じめ、ユダヤ人共産主義者や元共産主義者であった人たちが牛耳っている。ラ ブストンは一九三〇年代後半にスターリンと仲違いをし、その後はやはり以前 アメリカの共産主義者の一人だったアービング・ブラウンとともにCIAの後 ろ盾によって労働界の指導者の一人となった。  オックスフォードでの訓練を受けた後、スウォールは米国社会党党首ノーマ ン・トーマスの個人秘書となった。一九五〇年代末、スウォールはユダヤ労働 委員会のために働いた。この委員会はアメリカ労働組合運動の中のユダヤ人指 導者たちによる政治活動団体で、その狙いとするところはアメリカの労働運動 を親イスラエル勢力側にとどめておくことだった。  彼らの活動は、イスラエル国家のための工作という露骨な形をとることもし ばしば起こった。  全米自動車労組も傘下に  一九六八年、スウォールはADLの実情調査部を引き受け、今日までその地 位にとどまっている。しかし、今日に至るまで彼は社会主義インターナショナ ルの現役メンバーでもある。  一九七五年、著名なPLO幹部イッサム・サルタウィが、社会主義インター ナショナルの年次総会出席のために訪れていたポルトガルのリスボンのホテル のロビーで暗殺されたとき、スウォールはその場に居合わせていた。彼は、社 会主義インターナショナル総会で起こった出来事に関し、ADL全米委員会宛 に詳細な秘密メモを送ったが、その中でサルタウィの殺害によって、世界の社 会主義者の支援をとりつけようとしていたPLOが強烈な打撃を受けること、 またこの事件はユダヤ人グループやイスラエルの勝利であるといったことを記 していた。  スウォールはその他にも社会主義グループとコネクションを持っており、産 業民主連盟(LID)の理事会やアメリカ合衆国社会民主党のメンバーでもあ った。この産業民主連盟は全米自動車労組(UAW)やAFL−CIO傘下の その他の労働組合から多額の資金援助を受けていた。  このようにスウォールやADLは、他のユダヤ人団体が通常関係することの ないようなところから資金を得ていた。  例えば全米自動車労組は、情報収集や敵とみなす相手に対抗策を講ずるため に正体を伏せた表向きの組織を持っている。こうした組織にホームフロントお よびグループ・リサーチ社という二つの組織があり、この二つはスウォール率 いるADL実情調査部と共同で業務を進めている。  この実情調査部が米国内や世界的なテロリズム、諜報工作、それに他の犯罪 に関係していることについては、ここで取り上げた事件を含め、後の章で詳し く述べることにする(第一章参照)。ここでは、ADLの活発な活動の背景に はこうした能力や他の組織との相互関係が存在することを指摘するにとどめて おく。  組織変更と活動の拡大  ADLが現在の組織になったのは、第二次世界大戦直後に、後の全米委員会 会長ベンジャミン・エプスタインの下で行われた念入りな検討の結果によるも のであった。ADLが作成した六巻からなる口述ADL史『一日にして成ら ず』によると、エプスタインはADL本部スタッフからなるチームを指揮し、 一年近くをかけてすべての地方事務所を訪問させた。そしてADLに関係する 部外者、 ADLのスタッフ全員にことごとくインタビューをさせることによ って、どのようにすればADLの活動を飛躍的に向上させることができるかを 調査した。  その結果、基本的勧告として二つの点が指摘された。エプスタインは一九四 八年に全米委員会理事となったが、その後二十年以上にわたってその役職にと どまり、その勧告の実施状況を見守ってきた。  勧告の第一点は、一般メンバーからなる全米委員会を大幅に拡大し、委員会 の主要構成員に政策決定の責任を与えてADL全体の活動を管理させるという ものであった。この意味するところは、政界、財界、労働界、産業界、マスコ ミ、軍・情報関係高官の中から最も優秀なユダヤ人を選抜し、そうした人物に ADLの運営を直接任せるというものである。  勧告の第二点は、人数にかかわらずユダヤ人社会が存在するアメリカ全土の 主たる都市すべてに地方支部を設置するということである。ニューヨークに本 拠を置く組織という観点からだけから見る限りADLを効果的に動かすことは できないとエプスタインは説いた。  こうした組織変更を行った結果、ADLの活動は飛躍的に書く第した。一九 三〇年代の大恐慌時、ADLはアメリカ・ユダヤ委員会(AJC)との間で、 共同して募金を集めるために合同ユダヤ基金を設けることで合意した。この合 意は、一九六〇年代初めまで続いた。その頃になるとADLは、有力な人物を 揃えることでアメリカのユダヤ人社会にある程度の実力を行使できるようにな っており、またいつでもみずからの手で募金調達が可能なほどにまでなってい た。  なぜ非課税法人なのか  ADLの資料によると、今日彼らは年平均二千五百万ドルの資金を集めてい る。しかしこの数字は多くの意味において極めて欺瞞に満ちたものである。そ の数字はADLの実際収入のほんの一部を表しているものにしか過ぎない。  何よりも第一に、ADLは合衆国税法五〇一条C三項の規定に基づく非課税 法人である。営利法人が毎年莫大な金額を連邦と州政府に税金として納めてい るにもかかわらず、ADLは一銭も税金を支払っていない。この非課税法人と しての地位を維持するためには、一切政治活動をしてはいけないし、その他の 法律の要件に厳格に従う義務もある。だがADLは常にこれらの規定に違反し ている。しかしニューヨーク市にある国税庁(IRS)のブルックリン事務所 の免税事務担当官は、ADLが事もあろうに法律で禁じられている政治活動を 行っているとの批判が数多く寄せられているにもかかわらず、長年にわたって ADLを弁護してきた。  第二に、ADLは一九七八年以来、資金源を分散するためにADL財団とい う別組織を持っている。ADL財団はさらにADLの活動資金用の裏金の資金 洗浄行為をも行っている。  第三に、ADLはニューヨーク市ブルックリンのIRSに登録してある全国 組織以外にも、国内のほとんどすべての州に組織を有している。これら州単位 のADL支部にも、それぞれ理事や、受託者、職員が存在し、全国組織と平行 して各々が別に資金調達活動を行っている。  ADL全米委員会の構成員や、ADLを支援しているアメリカとカナダの銀 行界、産業界のエリートたちの中には、自分で非課税財団や公益法人をつくっ てADLやADL財団と同じように免税措置を受けている者が多い。  例えば、ADL全米委員エドガー・ブロンフマンの父親の名にちなんで名付 けられたサム・ブロンフマン財団は、ADLのために何十万ドルもの資金を提 供しているだけではなく、ADLと一緒になって行うプロジェクトのために自 分の資金を醵出している。カリフォルニア州サンフランシスコ出身のもう一人 のADL全米委員メルヴィン・スイッグは、スイッグ・ファミリー財団を所有 している。この財団は、アメリカン・ファミリー財団に多大の出資をしている が、このアメリカン・ファミリー財団は、ADLと非常に密接な連携を保ちな がらマインド・コントロール実験にかかわっている進歩的精神科医から構成さ れている。  常設委員会の構成員たち  ADLの現行の会則によれば、ADLの運営は百五十一名からなる現役会員 と同数の名誉会員で構成される全米委員会が担当することになっている。名誉 会員とは、前委員であって半ば引退してはいるが現役のような役割を果たして いる人か、あるいは現在政府の役職に就いているためADLの活動に正式には 参画できない委員の人のいずれかである。  ブナイ・ブリス・インターナショナルおよびブナイ・ブリスの婦人部ハダ サーの最高幹部は、自動的にADL全米委員会の構成員となる。また彼らは、 ADLの日常の政策決定を預かる全米委員から公正される全米執行委員会(N EC)の構成員にも自動的に就任する。ADLの一般会員のうちで最も有力な 人物を一人挙げるとすれば全米委員会会長であり、組織の上で二番目に有力な 人物を挙げるとすれば、全米執行委員会会長である。  全米委員会の中には、ADLに雇用された専門職員からなる五つの部に街灯 する常設委員会というものがある。常設委員会の構成員は、ADLの職員から なる各部の長から、実績や目標など詳細を記した年次報告を年に二度受ける。 実際には、常設委員会の幹部たちは、彼らが担当する部の職員とは常時接触を 保っている。常設委員会の構成員は、全米執行委員会の構成員とともにADL で活躍している人たちの核をなしている。  誰がこうした委員会の構成員となっているのだろうか。  ADL自らが発行している「目的と計画の直近版によると、現在の全米委員 会会長はカリフォルニア州ビバリーヒルズの弁護士バートン・S・レビンソン である。全米執行委員会会長はニューヨーク州ニューヨーク市のラビ、ロナル ド・B・ソーベルである。ラビ・ソーベルは全米いやおそらく全世界で最も有 力かつ裕福なユダヤ教のシナゴーグであるテンプル・エマヌエルのチーフ・ラ ビである。  先端金融商品の売り込み  ADL名誉会長の一人でありADLの元全米委員会会長だった人物が、ニ ューヨークの弁護士ケネス・ビアルキンである。ビアルキンは、今日のアメリ カにおける最も有力かつおそらく最も腐敗した弁護士の一人である。ビアルキ ンは逃亡中の犯罪者、ロバート・ヴェスコの弁護に当たっていたが、彼自身が 一九七〇年代初めにスイスに本拠を置くミューチュアル・ファンド(会社型 オープンエンド投資信託)から一億ドルをヴェスコがまんまと盗み取った事件 の首謀者として、一九八〇年にニューヨークの民事訴訟において有罪の判決を 受けている。スイスとアメリカの警察は、この一億ドルの多くはかつての組織 犯罪の首魁、メイヤー・ランスキーが犯罪によって手にした利益だと考えてい る。  さらにイラン・コントラ事件の真っ最中に、サウジアラビアの石油長者アド ナン・カショギの代理人として、ビアルキンはオリバー・ノースやリチャー ド・セコードおよびCIAとの間の、秘密の非合法な取引をことごとく行っ た。  今日、ビアルキンは世界最大の弁護士事務所スカデン・アープスの上席パー トナーである。この弁護士事務所が、「ジャンク・ボンド」や「レバレッジ ド・バイアウト」を考え出し、それによってアメリカの株式市場や貯蓄貸付機 関(S&L)業界に深く係わり合っている。こういう方法を使って、大量融資 を実施して相手につけ込むようなことを行った狙いというのは、主として麻薬 取引で得た不正資金を、アメリカ経済に還流させることにあった。ビアルキン と彼のパートナーたちが努力した結果、アメリカの金融資産と企業資産の大部 分が、国際組織犯罪の手先の人々の手に落ちた。  隠れ蓑としての実体  ADL全米委員会の名誉副会長に名を連ねる人々を見ていると、ユダヤ・ギ ャングと彼らの手先となって働いている政治家からなる犯罪者リストを眺めて いる気分がする。その中には次のような人々がいる。☆ レオナード・アベ ス。フロリダ州マイアミ在住。シティ・ナショナルバンク・オブ・マイアミの 会長。同銀行は、長年南米コカイン・カルテルと関係しており、米国情報関係 者内の裏切り者ともつながっている。同行の幹部職員であるアルバート・デュ クエは、麻薬資金洗浄行為のかどで現在連邦刑務所に服役中である。もう一人 の幹部職員、ドナルド・ビーズリーはマイアミにある同行とオーストラリアに 本店のあるヌーゲン・ハンド・バンクとの間を行き来している。ヌーゲン・ハ ンド・バンクという銀行は、元業務副本部長セオドア・G・シャックリーをは じめとする腐敗したCIA職員たちの手でつくられたものである。同銀行は、 ベトナム戦争が集結に向かい働くかたわら、国際的なマリファナやヘロイン密 輸、それにそこから得た利益の洗浄行為に関係していた。☆ ルディー・ボシ ュビッツ上院議員。ミネソタ州選出の共和党議員。彼はいわゆるADLの「ミ ネアポリス・マフィア」の一員である。このマフィアなる名称は、ミネアポリ スに本社を置く中西部の穀物カルテルの利益のために働く政治家で、昔も今も ADLの最高幹部として力を振るっている人々の一派を指す。アメリカの中心 部をなす地域の脱工業化を図ろうとする穀物カルテルの計画に歩調を合わせる 形で、ボシュビッツは米上院の中で最も強硬な環境擁護論者の一人となってい る。彼はまた米国連邦議会内のイスラエル・ロビーの中で指導的立場にある人 物の一人でもある。☆ エドガー・ブロンフマン。アメリカ北東部におけるA DLの資金調達の責任者であるとともに、世界ユダヤ人会議の会長。彼は個人 的な力で、この国際的ユダヤ人組織とADLとの間に緊密な関係を築こうとし ている。  ブロンフマンは、禁酒法時代のカナダで酒の密売をはじめあらゆる犯罪に関 係する頭目だった父親の実績を基に築き上げられた米加両国にまたがる金融帝 国の筆頭に立つ人物である。彼はまた、共産主義の国々に対するADLの最も 信頼できる裏ルートとしての役割も果たしてきた。  一九八九年、東ドイツの共産政権崩壊のほんの二、三週間前、ブロンフマン は同国から最高市民栄誉賞を受けている。これは今では退陣した共産主義者の 親玉、エーリッヒ・ホーネッカーから個人的に贈られた賞である。ブロンフマ ンの東独共産政権との結び付きは、最初は宗教問題大臣クラウス・ギジを通じ て培われたものであった。このクラウス・ギジの息子グレゴールは現在ホーネ ッカーの後継者になっている。  ブロンフマンは、陰の部分においても東独上層部とつながっていた。ホーネ ッカーが倒れるまで、ブロンフマンは東ドイツの秘密警察、国家保安部の長官 であるマルクス・ウルフ将軍と関係があった。  ウルフは共産主義者の家庭に育ったドイツ系ユダヤ人で、第二次大戦中は家 族と共にモスクワにいたが、戦後ソ連の工作員としてドイツへ帰ってきた。彼 は三十二歳で国家保安部長官となった。ベルリンの壁崩壊と東ベルリンの共産 主義政権崩壊の後、五千人を超える熟練工作員やテロリストを抱えているとい われたウルフの組織は解体された。ウルフが抱えていた工作員の多くは今、イ スラエル情報部や、解放された東欧全域に組織網を持つエドガー・ブロンフマ ン率いる世界ユダヤ人会議との連携の下で活動していると思われる。  ブロンフマンは、退陣した東独共産政権の首領、ホーネッカーと良好な関係 にあったことから、ソ連のゴルバチョフ大統領とも親密な関係を持っているは ずである。この個人的結び付きの存在は、一九八九年一月に、ニューヨークに あるブロンフマンのペントハウスで行われた秘密の会合の席上、ロナルド・エ ヴァンスとロバート・ノヴァクなる二人のシンジケート・コラムニストの手に よって明らかにされた。  彼らは在露ユダヤ人のイスラエル移住の取引条件としてアメリカの穀物を使 う案が出されたことを報道した。この会合にははやりADLの大物スポンサー の一人である穀物王、デーン・アンドレアスも出席していた。この取引はブロ ンフマンがすべて取り仕切り完全に履行することをソ連側に納得させようとす るものだった。☆ マックス・カンペルマン。政治力あるワシントンの弁護士 で、かつ政府の職員。ワシントンにある有力法律事務所、フリード・フラン ク・シュライヴァー・ハリス・アンド・カンペルマンの上席パートナーで、上 院議員で副大統領にもなったヒューバート・ハンフリーの元補佐官でもあっ た。カンペルマンは、ジョージ・ブッシュが大統領になったのを機に私人に戻 るまで、カーター、レーガン両政権において一連の最高のポストを歴任した。 ☆ フィリップ・クラツニック。ブナイ・ブリスの元国際部長で、カーター大 統領時代の商務長官。ADL史『一日にしてならず』によれば、クラツニック がカーター大統領の下でその地位を得たのは、当時の民主党の全国委員長ロ バート・シュトラウスがADL幹部のところに赴き、その地位にふさわしい 「名望のあるユダヤ人ビジネスマン」の推挙を依頼した結果である。クラツニ ックの経歴を見ると非常にいかがわしい銀行業務にいくつか関係していたこと がわかる。彼の銀行事業の一つ、アメリカン・バンク・アンド・トラスト・カ ンパニーは、イスラエル・モサドのために資金洗浄行為を働いていたことが判 明している。☆ ハワード・メッツェンバウム。オハイオ州選出の現職民主党 上院議員。彼は同じオハイオ仲間のマーヴィン・ワーナーやカール・リンド ナーと一緒になって、中西部における組織犯罪行為に関与してきた。ジミー・ カーター時代のスイス大使であったワーナーは、南米の麻薬王全員を巻き込ん だ一連の資金洗浄事件に関係してきた。ワーナー自身は、中西部におけるAD Lの活動を強力に支援している。以上に挙げた人たちの他に、アメリカ下院の 現職議員、元議員各々一人もまた、ADLの名誉副会長に名を連ねている。イ リノイ州選出の民主党下院議員のシドニー・R・イェーツと、コネチカット州 選出の元民主党下院議員アブラハム・リビコフである。  セオドア・H・シルバートも名誉副会長の地位にあり、過去十数年にわたっ てADLの拡大に極めて特異な役割を果たしてきた。シルバートはニューヨー クに本店を置く銀行スターリング・ナショナル・バンク・コーポレーションの 頭取であり最高経営責任者である。公表されている資料によると、この銀行は もともとメイヤー・ランスキーの率いるシンジケートによって設立された。シ ルバートは、一九三〇年代後半からこの銀行を経営してきた。一九七八年に一 時的に金融情勢が悪化したときに、ADLはその銀行機能のすべてをスターリ ング・ナショナルに移した。このことはADL財団の創設と時を同じくしてい る。組織犯罪研究の専門家たちは、これら二つのことが同時に行われたのは、 ADLの組織の組織の指揮を、メイヤー・ランスキーの手で何十年以上にもわ たって築き上げられてきた国際的資金洗浄組織の手に移しかえるためのものだ ったと考えている。  複雑な国際金融取引においてADLにノウハウを提供しているのは、現在の 全米執行委員会副会長のメイヤー・アイゼンバーグである。名声あるワシント ンの弁護士であるアイゼンバーグは、証券取引の監督を任務とする連邦機関で ある証券取引委員会(SEC)の顧問を十年余り務めている。一九七〇年代初 め、全米有数の証券関係専門の弁護士になるためにSECを退職した時点で は、アイゼンバーグはウィリアム・ケイシーの下でSEC主席法律顧問補佐の 地位にあった。ケイシーは後にレーガン大統領の下でCIA長官となった。  ADLの全米委員の名簿には、米国全州から選ばれた州や地元地域の弁護 士、銀行家、政治家、新聞編集者や発行人など三百人以上の名前がある。その 他にADL地方支部の州の理事、法議員および委員として数百人の名前が並ん でいる。  これらの人々はいずれもADLから報酬を受けていないにもかかわらず、一 丸となって組織の屋台骨を支えている。彼らはADLの全国組織のスタッフ と、米国全域にあってそれぞれの地域の世論や政策に大きな影響力を持つ実力 者で、かつ最も腐敗した人たちとの間をとりもつ立場にある。ADLに資金や 各種の恩恵を提供する外部の大口献金者の名を見れば、こうした人たちの影響 力がよく理解できる。  絞り取られる米国企業  ほとんど毎日のように、ADLがアメリカの企業から資金を絞り取ることを 目的とした何らかの活動のスポンサーとなっていると考えて間違いはない。ア メリカの企業から資金を詐取するその能力たるや、ADLが大いに自慢すると ころのほどのものである。『ADLの友』と題するADLが発行する特別会報 は、もっぱらADLに対する大口資金提供者を対象としたものである。ADL が毎年発行する資金集めのためのパンフレットの中では、」「深い感謝をもっ て」という見出しの下に彼らを支援するパトロンの企業名を列挙している。最 近発行されたパンフレットの中には、献金を行った企業の著名な最高経営責任 者二百七十人の名前が挙げられている。  そこに挙げられた名刺たちのリストの中には、長きにわたってADL活動の 母体となってきたハリウッド映画産業の関係者の名前が多く見られる。このA DLとハリウッドの関係は、映画産業が禁酒法時代に組織犯罪で得られた資金 により築かれたという事実を示すものである。そうした資金はハリウッドの大 手映画界者や、初期の頃のラスベガスやリノの賭博カジノに注ぎ込まれたので ある。  しかしADLに入る資金の多くは、左の図が示すように、アメリカの産業界 並びに銀行界からのものである。ADLの出版物は、ADLに対する資金提供 者である企業および役員の名を挙げているが、以下はその一部である。 ADLへの献金者リスト ☆ ロバート・O・アンダーソン=アトランティック・リッチフィールド・カンパニー ☆ デーン・アンドレアス=アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド・カンパニー ☆ トーマス・エイヤーズ=コモンウェルス・エジソン・コーポレーション ☆ ロバート・A・ベック=プルーデンシャル・ライフ・インシュアランス・カンパニー(プルーデンシャル 生命) ☆ ロジャー・E・バーク=メリル・リンチ・アンド・カンパニー ☆ フランク・ボーマン=イースタン・エアラインズ(イースタン航空) ☆エドガー・ブロンフマン=シーグラムス・コーポレーション ☆チャールズ・L・ブラウン=アメリカン・テレフォン・アンド・テレグラフ(アメリカ電信電話会社-AT T) ☆ ジェームズ・E・バーク=ジョンソン・アンド・ジョンソン ☆ ウィラード・C・バッチャー=チェース・マンハッタン・バンク(チェース・マンハッタン銀行) ☆ オーエン・バトラー=プロクター・アンド・ギャンブル・コーポレーション(P&G) ☆ フィリップ・コールドウェル=フォード・モーター・カンパニー(フォード自動車) ☆ J・ジェフリー・キャンベル=バーガー・キング・コーポレーション ☆ アルバート・V・ケイシー=アメリカン・エアラインズ(アメリカン航空) ☆ アルバート・チャップマン=マイアミ・ヘラルド・パブリッシング・カンパニー(マイアミ・ヘラルド出 版) ☆ ピーター・コーエン=シェアソン・アメリカン・エキスプレス・インコーポレイテッド ☆ リチャード・P・クーリー=ウェールズ・ファーゴ・バンク・N.A.(ウェールズ・ファーゴ銀行) ☆ レスター・クラウン=マテリアル・サービス・コーポレーション ☆ ジョセフ・クルマン三世=フィリップ・モリス・インコーポレイテッド ☆ マービン・デイビス=トゥエンティス・センチュリー・フォックス・フィルム・コーポレーション(二十 世紀フォックス映画) ☆ ルイス・ディーゲン=ベアトリス・フーズ・インコーポレイテッド ☆ エドワード・アイホーン=シカゴ・ホワイト・ソックス ☆ コーイ・イクランド=エクイタブル・ライツ・アシュアランス・ソサエティー(エクイタブル生命) ☆ シェルダン・ファントル=ピープルズ・ドラッグ・ストアーズ ☆ ジェームズ・ファーガソン=ゼネラル・フーズ・インコーポレイテッド ☆ ロバート・ファーガソン=ファースト・ナショナル・ステイト・バンク・オブ・ニュージャージー ☆ ジョン・フィラー=エトナ・ライフ・アンド・カジュアルティー・カンパニー(エトナ保険) ☆ ジェームズ・フィンリー=J・P・スティーブンス・アンド・カンパニー ☆ ウィリアム・フィッシュマン=ARA・サービシーズ・インコーポレイテッド ☆ ヘンリー・フォード二世=フォード・モーター・カンパニー(フォード自動車) ☆ デービッド・ギャレット=デルタ・エアラインズ(デルタ航空) ☆ リチャード・ゲルブ=ブリストル・マイヤーズ(現米国務省アメリカ情報局長官) ☆ ハロルド・ジェニーン=インターナショナル・テレフォン・アンド・テレグラム(ITT) ☆ レオナード・ゴールデンソン=アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーズ(ABC) ☆ アルバート・ゴードン=キダー・ピーボディー・アンド・カンパニー ☆ ハリー・J・グレイ=ユナイテッド・テクノロジーズ・コーポレーション ☆ ジョン・ガットフロインド=ソロモン・ブラザーズ ☆ ジョン・W・ヘイノン・ジュニア=バンカーズ・トラスト・カンパニー ☆ ランドルフ・A・ハースト=ハースト・コーポレーション ☆ サムエル・ヒギンボット=ロールス・ロイス・インコーポレイテッド ☆ アラン・J・ハーシュフィールド=トゥエンティス・センチュリー・フォックス・フィルム・コーポレー ション(二十世紀フォックス映画) ☆ オビタ・カルプ・ホビー=ヒューストン・ポスト・カンパニー ☆ ジェリー・ホーマー=バーガー・キング・コーポレーション ☆ アモリー・ホートン・ジュニア=コーニング・グラス・ワークス ☆ ホレース・C・ジョーンズ=バーリントン・インダストリーズ ☆ スティーブン・B・ケイ=ゴールドマン・サックス・アンド・カンパニー ☆ ドナルド・R・ケオー=コカコーラ・カンパニー ☆ ロバート・カービー=ウェスティングハウス・エレクトリック・コーポレーション ☆ レイン・カークランド=AFL−CIO(アメリカ労働総同盟産別会議) ☆ ジョン・W・クルージ=メトロメディア・インコーポレイテッド ☆ デービッド・ロイド・クリーガー=GEICOコーポレーション ☆ ラルフ・ラザラス=フェデレーテッド・デパートメント・ストアーズ(フェデレーテッド百貨店) ☆ サイ・レスリー=MGM/UA・ホーム・エンタテインメント・グループ ☆ デービッド・S・ルイス=ゼネラル・ダイナミックス・コーポレーション ☆ ジョン・L・ローブ・ジュニア=シェアソン・ローブ・ローズ・インコーポレイテッド ☆ ジェームズ・マクファーランド=ゼネラル・ミルズ・インコーポレイテッド ☆ コーネル・メイヤー=カイザー・アルミニウム・アンド・ケミカル・コーポレーション ☆ J・ウィラード・マリオット=マリオット・コーポレーション ☆ ルベン・メトラー=TRWインコーポレイテッド ☆ ジョン・A・メイヤーズ=タイム・インコーポレイテッド ☆ ポール・L・ミラー=ファースト・ボストン・コーポレーション ☆ ドクター・ゴードン・E・ムーア=インテル・コーポレーション ☆ ドクター・フランクリン・マーフィー=ザ・タイムズ・ミラー・コーポレーション ☆ ジョン・J・ネビン=ファイアストーン・タイヤ・アンド・ラバー・カンパニー ☆ ノーマン・ニューハウス=サムエル・ニューハウス・ファウンデーション(サムエル・ニューハウス財団) ☆ ジョン・D・オング=ザ・B・F・グッドリッチ・カンパニー ☆ ウィリアム・S・ペイリー=CBSインコーポレイテッド ☆ アンドラル・E・ピアソン=ペプシコ ☆ ハリス・パールスタイン=パブスト・ブリューイング・カンパニー ☆ セイモア・J・フィリップス=フィリップス・バン・ヒューセン・コーポレーション ☆ チャールズ・R・ピアース=ロング・アイランド・ライティング・カンパニー ☆ レスター・ポーラック=ユナイテッド・ブランズ ☆ ビクター・ポスナー=シャロン・スティール・コーポレーション ☆ エイブラム・プリッツカー=ハイアット・コーポレーション ☆ リーランド・S・ブラッシア=バンカメリカ・コーポレーション ☆ ジョン・V・ローチ=タンディー・コーポレーション ☆ ジェームズ・D・ロビンソン=アメリカン・エクスプレス・カンパニー(アメックス) ☆ デービッド・M・ローデリック=U.S.スティール・コーポレーション ☆ フランク・ローゼンフェルト=メトロ・ゴールドウィン・メイヤー・インコーポレイテッド ☆ スティーブン・J・ロス=ワーナー・コミュニケイションズ・インコーポレイテッド ☆ ロバート・シェイベル=ナビスコ・ブランズ ☆ セオドア・シルバート=スターリング・ナショナル・バンク・アンド・トラスト ☆ ウィリアム・スミスバーグ=ザ・クエーカー・オーツ・カンパニー ☆ ジョージ・スティンソン=ナショナル・スティール・コーポレーション ☆ アーサー・オークス・スーズバーガー=ニューヨーク・タイムズ・カンパニー ☆ S・P・トーマス=シアーズ・ローバック・アンド・カンパニー ☆ ジェームズ・タウィー=オーリン・コーポレーション ☆ ロバート・V・バン・フォッソン=ミューチュアル・ベネフィット・ライフ・インシュアランス ☆ アイラ・ウォールドバウム=ワルドバウム・インコーポレイテッド ☆ ゴードン・T・ウォーレス=アービング・トラスト・カンパニー ☆ グレン・E・ワッツ=コミュニケーション・ワーカーズ・オブ・アメリカ ☆ サンフォード・ワイル=シェアソン・アメリカン・エキスプレス・インコーポレイテッド ☆ ジョン・E・ウェルチ=ゼネラル・エレクトリック(GE) ☆ ジョン・E・ホワイトヘッド=ゴールドマン・サックス・アンド・カンパニー

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(私論.私見)