
第四章 ADLとCIAの癒着
対日経済戦争の布告
一九八九年九月十九日、ロサンゼルス世界問題評議会での講演で、ウィリアム・ウェブスターCIA長官は、ソ連の脅威の後退に伴い、アメリカの政治的、軍事的同盟国がCIAの情報活動の重要な標的になるだろうと述べた。
ウェブスターは、ロンドンやニューヨークの利益を貪る金融資本を代弁して、その講演の中で次のように語った。
「われわれの政治的、軍事的同盟国が、経済的な競争相手でもある・・・・将来の市場をつくり出し、獲得し、あるいは支配する競争相手国の力というものが、安全保障の点から極めて重要な意味を持つ・・・・日本やその他一部の経済的競争相手国は、我が国が長年にわたって主導権を握ってきたハィテク分野に、今後数年の間にどんどん入り込み続けてくるだろう」
「ハイテクだけでなくほとんどすべての分野において、アメリカの利害が関係する限り、アメリカの政策担当者は競争機会の不平等な分野にますます目を向けるようになるだろう。外国政府の市場開拓への努力や研究開発、生産に対する投資といったものばかりか、我が国の経済的な競争相手国の戦略にまで注目するようになる」
「私が今日述べた経済のトレンドが一示しているように、経済と国家の安全保障との関係がさらに重要になってくる。情報関係者はこのような動きを戦略的な観点から見ている。起こっている出来事、それを起こしている勢力、それに海外で起こったことがどういう形で我が国の安全保障に影響を及ぽすのかといったことなどを調査する」
このように述べた後で、ウェブスターCIA長官は、日本に対し正式に宣戦を布告した。この動きは、投資銀行関係者やADLの情報担当者が言っていた通りに事が進んでいることを示している。
金科玉条の「安全保障のために」
さらに一九八九年九月、ウェブスターはCIA内に局を一つ新設することを極秘のうちに発表した。それは企画調整担当第五局と呼ばれるもので、元管理局長のゲーリー・フォスターが新設局の局長に就任した。官僚機構の中では前例のなかったこの新設局の任務は、CIAのスポークスマンによると「あらゆるレべルでの情報活動並ぴに武器の拡散とか世界経済に関する秘密情報を扱う」ものだという。新たにつくられたこの巨大な官僚機構は、アメリカの情報部門のために予算を立てたり、必要なものを考案したりするためぱかりでなく、新たにどうしても必要になった経済戦争に備えることを狙ったものである。このような手を使った大きな理由は、ウェブスターをはじめとする人々が、予算獲得を巡るいつもの内部抗争や官僚の縄張り争いで主導権を握ろうとしたためである。この新しく生まれた組織は、アメリカにとって「安全保障上の脅威」となる経済政策をとっている国々を対象として情報活動を行っている部署全体をも統轄することになっている。この「安全保障上の脅威」の意味するところは多岐にわたっている。まず、アメリカが生産力、競争力で敗北したのは、アメリカの政策のせいではなく、アメりカの生産力に取って代わってしまった輩のせいだということである。第二に、ある国がアメリカにそれも特にハイテク分野に入り込んできているということになれば、その国は揺さぶりの攻撃対象になる。安全保障という言葉は、秘密工作を弁護するためのキャッチ・フレーズとして使われるのが常である。というのも彼らとしては、こういった政策を公の場で弁護することなどできないからだ。
ADLの代弁者サファイア
このような考え方を口にしているのは、ADLのプロパガンダ活動をしている著名人たちである。ニューヨーク・タイムズ』でこのような親イスラエルの考えを口にしているのが、ウィリアム・サファイアである。サファイアが長年にわたって日本とドイツを攻撃する発言を繰返してきたことは、政界関係者の間ではよく知られている。ニクソン大統領の元スピーチ・ライターで、へンリー・キッシンジャーの親友でもあるサファイアの経歴を見ると、一九五○年代に広報担当責任者を務めていたときメイヤー・ランスキー(第九章参照)と行動を共にしている。そのことにより彼は組織犯罪に関係していたことがわかる。
サファィアは一九九○年二月五日付『ニューヨーク・タイムズ』の寄稿欄に記事を寄せ、その中で「経済介入のための閣議直轄評議会」の設置を説いた。この評議会は、国家安全保障会議の指示に従って経済戦争を遂行する組織である。その中で彼は次のように述べている。
「軍事力が優位性を意味しなくなった世界において、いかにすればアメりカは超大国としての地位を維持することができるのか。答えは自明である。われわれは自国の経済力を維持、強化しなければならない....首位に立てる国は一つしかない。われわれがその地位に立てるならこの上ないことだ・・・・超人国の地位を競うわれわれの相手国は、統一ドイツ(ドイツのヨーロッパ衛星国も含まれることになるだろう)と強大化する日本(もし日中が同盟を組むことに成功すれば、中国も一緒だろう)である・・・・将来において我が国が権力を行使する手段は、主として対外援助(アメ)と限定経済戦争(ムチ)を使ったものになるだろう」
第二次世界大戦によってもたらされた政治構造がすっかり変わってしまい、ポスト冷戦時代に入った今、強大な組織的勢力がアメリカの新たな政治権力構造を支配しようとしている。ウェブスターやサファイアはこういった勢力の中でも、ウォール街を代表する人々やADLを操る勢力の代弁者である。彼らは政策決定過程を支配しようとするだけではなく、「経済競争」は国家の安全保障に係わるという考えに基づいて情報活動の必要性を主張する。金融におけるアダム・スミスの「蚤の市場」の概念が、こういった類の考え方の根底にある。
キッシンジャーの陰謀
経済競争が国家の安全保障に係わるという考え方が、どのような経緯をへてウェブスター長官の発言に見られるアメリカの安全保障観になったかを正確に見るために、へンリー・キッシンジャーが活躍した一九六○年代末から一九七○年頃を振り返ってみることにする。この時代、キッシンジャーはアメリカの政策決定に係わり、基本的にそれを操作しただけではなく、政策決定、情報活動体制そのものをも根本的に再編した。
ロンドンとニューヨークの金融勢力の後ろ楯を受けて、キッシンジャーは情報活動に携わる組織をそれまでと全く反対に入れ換えてしまった。彼がまず企んだのは、CIAの情報分析機構に取って代わるものとして、国家安全保障会議(NSC)のスタッフ自身が重要な政策決定に関与できるようにすることであった。元来この部署のスタッフは、情報関係部局から上がってきた情報を単にNSCに提出するだけのものであった。
情報分析、正確に言うなら国家情報分析(NIES)の目的は、様々な手段や経路を使って入手した生の情報を、状況に応じてべストの分析が行われるようにすることだった。
CIAはェレクトロニクス装置から人的手段までのすべてを駆使して、何が起こっているかを把握し、大統領やその閣僚、それに情報関係部署の責任者をはじめとする政策担当者がしかるべき行動を取れるようにその情報を提供しようと試みていた。キッシンジャーはこのシステムをほとんど信用していなかったので、それを壊してしまおうとした。
さらにキッシンジャーはその際、CIAで働いていた情報関係者の幹部をホワイト・ハウスに招き入れた。CIAの幹部の一人でソ連の情報活動問題担当だったウィリアム・ハイランドも、キッシンジャーによってホワイト・ハウスに移され、彼の前の職場であるCIAに対抗してキッシンジャーが事を進める際の切札に使われた。そのときからというもの、ハイランドはことごとくキッシンジャーの後ろ楯によって出世していった。今日、ハィランドが英米のェスタブリッシュメントの政策集団である外交問題評議会(CFR)の中枢に地位を得ているのもキッシンジャーのおかげである。またブッシュ大統領はこのほどハイランドを大統領付対外情報活動顧問委員会(PFIAB)の委員に指名した。
キッシンジャーはこうした抜擢人事を通じて互いの反目を引き起こし、それによって情報専門家からなっている従来のシステムの弱体化を狙った。このような撹乱工作は一部の情報専門家の間に疑惑を生み、彼らはキッシンジャーを「ソ連のスパイ」かもしれないとして調査を始めたほどであった。キッシンジャーは、最善の情報分析を提供し取るべき行動を進言するという情報専門家の能力を破壊してしまった。そのことで現実に一部の者はキッシンジャーを「ソ連の息のかかったスパイ」と考えたのである。
CIAに浸透したモサド
キッシンジャーは自らの下で、国家情報分析を軽視する一方、第三世界を中心に秘密工作(単に諜報活動に徹するのでなく、意図的に事件を引き起こすこと)を進めることでCIAの秘密工作部に対し協力した。キッシンジャーと一緒にこの工作に加わったのが元CIA長官のウィリアム・コルビーだった。彼は長きにわたって第三世界での秘密工作に携わっており、今ではアメリカの対日政策を決定するための情報活動を民間サイドで進める上でなくてはならない人物になっている。コルビーはトヨタや日商岩井をはじめとする数多くの日本企業の代理人を務めている。彼はさらにウェブスターCIA長官の特別顧問でもある。
キッシンジャーがイスラエルの情報機関であるモサドとの間に緊密な関係をつくり上げたのもこの時期であった。それまではモサドはCIAの単なる下請け機関であり、アフリカや中東での共同秘密工作では金銭的にCIAに依存していた。キッシンジャーが登場するに及んで、情報活動全体の様相がすっかり変わってしまった。一九七三年の中東戦争とそれに続くアラブ諸国の石油輸出ボイコットという事態に対しキッシンジャーが果たした役割によって、彼はイスラエル人に登場の機会を与えた。
ロンドンとニューヨークの金融勢力の利益の代弁者として、キッシンジャーはオイル・ダラーのロンドンとニューヨークへの還流を図ることにより、英米金融システムの崩壊を未然に防ぐことに成功した。また当時IMFの副総裁で後に連邦準備銀行総裁になったポール・ボルカー主導の下でアメリカの銀行制度の規制緩和が進められた結果、英米の金融勢力の政治力は甚だ強大なものになった。今もボルカー、キッシンジャー、コルビーは緊密に手を組みながら世界的な問題に対処している。
従来の情報機関に対抗する権力を国家安全保障会議に付与すること、そして自分の気に入った特別の秘密工作を仕組むこと、この二つの事柄を成し遂げるためにキッシンジャーは努力した。その結果、彼は情報活動の方針並びに政策決定を統轄できる権限を情報活動の専門家の手から奪って自らの手中にすることができた。
歴史的な流れから見れぱ、このような権限の移転が可能だった背景には、いくつかの要因がある。当時、べトナム戦争の敗北のショックが下火になりつつあったし、電撃的な中国との国交回復が起こった上に、モスクワとの間のデタントが進みつつあった。そしてニクソン大統領は政策決定に関してキッシンジャーにほとんど全権を委任していた。キッシンジャーに反対でもしようものなら、ありとあらゆる汚いトリックを仕掛けられる羽目になるのがおちで、彼は自分が牛耳るNSCのメンバーに対してすら容赦はなかった。自分に反対するメンバーに対しては、キッシンジャーは国家の安全にかかわる情報を漏らしたとの嫌疑をかけた。
キッシンジャーは絶大なる権力を振った。
もっとも軍や軍情報部の支援を受けたCIAのOBたちが、キッシンジャーに対し抵抗を試みたことがあった。だが彼らの高邁なる努力にもかかわらず、自らの公的地位を利用し、かつ出世の面で自分に借りのある人物をアメリカ政府内部の要所に配置することによって、キッシンジャーは巨大な私的情報機構をつくり上げることに成功した。
このような手を打った上に、連邦捜査局(FBI)の協力も得、さらに後にウィリアム・ウェブスターの手も借りることによって、キッシンジャーと彼の仲間は米国内に巨大なネットワークを築き上げた。ADLがこの情報機構の代理人として重要な情報活動に従事するようになったきっかけも、実はこのキッシンジャーの行ったことにある。
ADLと米国情報機構・・・・その歴史的関係
ADLとモサドについては後章で触れることになるが、このような動きの結果、憲法によって与えられていたアメリカ政府の権限は大幅に縮小させられてしまった。米国内においてADLが大きな権力を行使できるようになったのは、実際のところ主としてキッシンジャーとFBIの努力によるものである。
ADLの特殊な情報活動能力は、第二次世界大戦前に、第五局と呼ぱれたFBIの防諜担当部署の支援と協力の下、英国情報部の「特殊工作部(SOE)」の責任者ウィリアム・ステファンソン卿の尽力によって培われたものである。表向きは米国内でのナチの諜報活動に対抗するためということだったが、ADLはFBIの協力を得てアメリカの再度のヨーロッパ戦線への参戦に反対する孤立主義者たちの調書を作成し始めた。孤立主義者の一部は「米国第一主義者」と呼ばれた。アメリカは海外のいかなる紛争にも手を出すべきでなく、自国の利益のみを考えるべきだというのが孤立主義者たちの考え方であった。日本が真珠湾を攻撃するまで、こうした米国第一主義者は議会内では強力なロビーの一つだった。
イギリスの情報活動にとってもっと重要だったのは、ADLとFBIが米国内での情報活動体制をつくり上げ、それが戦争突入後ロンドンやニューヨークの金融機関にとって極めて有益なものとなったことである。このFBIとADLの関係が、正式な政府機関内でADLを支える上での頼みの綱になった。だがその関係は鳴り物入りで宣伝するようなものではなく、そっとしておくべきものであった。一九六○年代になってアメリカで大変化が起こり始めるまで、両者の連合関係は、人目につかない穏やかなものだった。
シオ二ストのアメリカ侵攻
一九六七年の六日戦争までは、ADLは諜報合戦においては基本的に部外者であった。彼らの諜報能力はFBIとの関係から制限されていた。アメリカの情報関係者の間には伝統的にイスラエル人やアメリカの情報分野で働くユダヤ系アメリカ人に対する警戒心が存在していたことから、当時はADLのCIAに対する影響力と浸透力は、最低限にとどまっていた。CIAの防諜担当局長を務めたジェームズ・ジーザス・アンジェルトンは例外として、一般にイスラエル人はアメリカの情報分野に入り込むことはできなかった。
アンジェルトンの下で、アメリカの防諜活動はイスラエルの秘密情報機関との間に関係を有するようになった。アンジェルトンはCIAの前身である戦略事務局(OSS)の局員だったときにイスラエル人との間に密接な関係を築いていた。彼が連絡を取り合っていた重要人物には、イスラエルの情報関係者のトップの人たちぱかりでなく、エルサレム市長のテディ・コレックも含まれていた。
しかしながら、六日戦争が終わりアメリカで国内政治危機が起こってからというもの、政治、文化面で一大変化が起こった。イスラエルの電撃的な勝利の結果、アメリカのマスコミや米国民の間で、イスラエル人が一夜のうちに「実体以上の英雄」に祭り上げられてしまった。「無敵のイスラエル人」とか「彼らは間違いを犯すはずがない」といった魔法の呪文が米国民にかけられた。そしてその後の二十五年間でこれらの勢力が政治権力を手の中に入れ、政府機関を上回る強力な存在になってしまった。とりわけこのことは司法省や国防省、それに情報機関の内部で顕著であった。
へンリー・キッシンジャーの台頭と無敵のイスラエルの登場とが相まって、ADLの地位も上昇し始めた。ADLは主として国内の活動強化を図り、産業界、市民団体、労働組合、それに政党の内部に政治的な諜報活動を進めるための拠点を築いた。FBIは絶えずADLを庇護し、いつ何時でも必要なときにはこれに援助の手を差し延べるようになった。
政敵を葬るために
カーター政権時代の一九七七年、ウェブスター判事がFBI長官に任命されたときに、この両者の関係はさらに強固なものとされ、ADLやシオニスト・ロビーに刃向かう政敵に対しては卑劣な工作が仕掛けられることになった。
両者が最初に仕組んだ共同工作活動は、アブスカムと呼ぱれたFBIのおとり捜査だった。FBIは有罪が確定した犯罪者、それもそのうちの何人かはADLと直接つながっているような者を、国会議員や実業家、その他政治的影響力のある人たちを標的にした工作活動に利用した。
アブスカムという言葉は「アラブのぺテン」という意味で、オイル・マネーで裕福な中東の王族に対する反感をかき立て、アメリカにおいて大規模な反アラブ気運を盛り上げることを狙ってつくられた言葉である。アラブの王族たちはシオニスト・ロビーからはアメリカに「堕落をもたらすもの」とみなされていた。ADLはFBIや全国のマスコミと連携して活動した。特に彼らを政治的に攻撃する時にはNBC放送と連携プレーを行った。
彼らの攻撃の目標にされたのは、人種的にアメリカ人と言えるもともとアメリカ生まれの人たちや、労働組合の支持を得ていた保守的な民主党幹部たちであった。かかる憲法をないがしろにする悪質な攻撃の犠牲になった人物の一人が、ハリソン・ウィリアムズ上院議員(民主党、ニュージャージー州)だった。ウィリアムズ上院議員は彼の仲間の手で上院の議席を奪われてしまった。
このことが米国内に新たな先例をつくった。それはFBIとADLからなる勢力に、恐喝という手段に訴えるとてつもない道を拓くことになった。最近では幾度となく彼らはこの手を使っている。へンリー・キッシンジャーは野に下ってからも、政敵を葬り去るためにこの手口をよく用いた。カリフォルニアのボへミァン・グローブで開かれた秘密結社の集会で、キッシンジャーが当時FBI長官だったウェブスターに会ったことは、今では公の文書に記されているが、その席上キッシンジャーはウェブスターに対し政敵を攻撃することを依頼している。
日立をはめたおとり捜査
ウィリアム・ウェブスター判事は、ADLお気に入りの官僚の一人になった。一九七七年から八七年にかけての彼のFBI在職中に、ADLは「民権問題」のコンサルタントという形で正式に司法省に組み込まれた。一九八○年代、ブナイ・ブリスはウェブスターに対しその貢献に報いた。FBIで彼の次席を務めたオリバー・レヴェルは、日常業務においてADLと行動を共にしていた。そればかりか彼は、FBI要員用のテロ対策訓練施設としてバージニア州クァンティコにあるFBI訓練本部にイスラエル情報部員を招聘している。
さほどタイミングが一致しているわけではないが、FBIが日本企業の日立製作所に対しておとり捜査を行ったのは一九八○年代初頭のことであった。以前アブスカム工作をしたときに使ったおとり作戦を、シリコンバレーの企業からコンピューター・チップを買い取ろうとした日立の社員に仕掛けられたのである。実際のところ、この事件は「ジャパン・バッシング」の戦いの始まりだった。
浸食されたClA
レーガン時代にこうした勢力は以前にもまして強大になった。NSCにキッシンジャーが築いた体制、それに民間の手によるものでありながら政府のお墨付きを得ているCIAの元職員を使った秘密諜報工作がアメリカで政策を進める場合の常套手段、あるいは一般的なやり方になった。このような状況の下で、外国人であるイスラェル人がますます深く共同秘密工作にかかわるようになった。
アメリカの諜報能力の再構築の必要性に迫られて、当時のCIA長官だったウィリアム・ケーシーはこういった工作を認めた。当時は依然冷戦たけなわの時代だったので、共産主義者に対する工作に早急にとりかかりたかったケーシーは、その障壁となっていたCIAの官僚制度を飛び越えて事を進めた。つまりそのような工作をイスラエル人に任せたのである。
ケーシーが行ったこのような決定によって、イスラエル人とADLは国家安全保障に関与する組織の上層部に直接食い込むことができるようになった。特にテロリズムの脅威が高まる中で、アメリカはそれに対応できる能力を持っていなかったので、そのための組織をCIAの中につくるためにイスラエル人が紹かれた。これが実はイラン・コントラ事件のもとである。
ケーシー自身は多くの自己矛盾を有する人物であった。元CIA工作員によると、ケーシーは秘密工作をイスラエル人抜きでやれと命令を出そうとしたかと思うと、考えを百八十度転換して同じ任務をイスラエル人に課すなどといったことがよくあった。こうした彼のやり方は、情報関係者内部に大きな混乱を引き起こした。
ケーシーCIA長官が相矛盾する行動を取り、そしてタイミングよく亡くなった後、ニューヨークやロンドンの勢力は議会内における彼らの影響力を行使してレーガン政権を骨抜きにし、ケーシーの後継者としてウィリアム・ウェブスターを任命することを認めさせた。情報関係者たちは自分たちが選んだ候補者をCIA長官のポストに就けることなどできなかった。情報組織内部が毎日のように出てくる新たなスキャンダルで上を下への大騒ぎをしているような状況であったため、この人事に対する組織的な抵抗はほとんどなかった。こういうわけで、ウェブスターが指名された。このウェブスター判事の任命によって、FBI.ADL体制全体が一層強固なものになった。
イスラエル人が情報組織内部に浸透し続けていくことに対し、直接影響を与えた唯一の大スキャンダルは今もっていまわしいポラード事件だった。この事件の詳細については後述することにする。ここではポラード事牛がイスラエル情報部の米国情報部への浸透工作の大きなつまずきとなったことを指摘するだけで充分だろう。ところがこの事件にもかかわらず、ADLによる米国情報組織の破壊はますます激しくなっている。
ClAとジャパン・バッシング
ADLの情報組織破壊工作がなぜうまくいっているかを理解するためには、ウェブスターが現在進めている作業の一部をここで詳しく見てみる必要がある。
ウェブスターの指揮の下、ポラード事件による後退にもかかわらず、ADLはその目的達成のため、様々な代理人を利用しながら日本企業や個人を標的に工作を進めている。ADLがCIAの現幹部や元幹部との間に持っている関係こそが、ジャパン・バッシング計画の決め手なのである。
レーガンの国家安全保障担当補佐官だったリチャード・アレンは、ADLと密接な関係を持ちつつ動いている元幹部の一人である。現在アレンは自分でつくったコンサルタント会社、アレン・アソシエート社を経営しているが、最近クレジット・インターナショナル・バンク(CIB)の役員にも名を連ねた。CIBはワシントンの中心部に集まる政治活動家の中心である。取締役会の構成員の一人はチャールズ・マナットは弁護士でかつ民主党全国委員会の元委員長、それに長年にわたってADLの重鎮でもある。ロバート・シュトラウスの親しい友人でもあるマナットは、日本人とのコネをつくるため、アレンと行動を共にした。シュトラウスはADL全米委員会の委員である。
アレンは日産自動車、東京電力、それに日本や台湾の建設会社の代理人をしている。日本とのコネがあるという理由で彼は一九八六年にCIBに加わるよう招かれた。一九八九年二月までにアレンは千四百万ドル強に相当する投資資金をCIBにもたらした。ここで特に興味深いのは、比較的規模は小さいもののこの金融機関はヘリテージ財団の資金パイプだということである。同財団は保守派の有力財団の一つで、貿易や経済問題では根っからの反日である。
へリテージ財団は、アレン・アソシエート社とCIBから二十五万ドルを受取っている。アレンはへリテージ財団のアジア担当上級顧問である。この財団は有力シンクタンクの一つで、レーガン政権時代に成長した。また従来からADLと関係があり、熱烈な親イスラエルでもある。元情報関係者だった人々の一部は、CIBは実際はCIAの所有物だと考えている。
「日本をターゲット」で常に一体
銀行、政治関係者、財団等からなるこのつながりを通じて、ADLにつながるグループはCIAに対し大手日本企業の内部情報を提供している。リチャード・アレンが様々な関係者が互いに結ぴ付いたこのネットワークに気付いているかどうかははっきりしない。ただはっきりしているのは、このようなネットワークが秘密工作を進める上で非常に有益であるとCIAが考えていることである。従来からアレンは政策の違いというよりは個人的な理由からキッシンジャーと反目してきたが、日本の経済体制の破壊を目指すニューヨークやロンドンの人脈に連なる人々とは手を携えて行動している。
この工作がどう演じられているかを見るには、CIAと銀行の結び付きを理解することがどうしても必要である。元情報部員で『無知なる軍隊』なる本を著したウィリアム・コルソンによると、CIAと銀行との関係ができたのは、アレン・ダレス(一九五三−六一年、CIA長官)がニューヨークの銀行と結び付いた時代にまで遡る。コルソンは次のように述べている。
「CIAが行っていることの真相に迫ろうとするには、CIAと銀行の結ぴ付きを知ることがどうしても必要だ。こうした結ぴ付きは今もはっきりとは分からない。というのも、今まで述べてきた過去のいきさつは、米国内外の金融機関とCIAとの関係や活動に係わっている上に、その関係はずっと昔に遡るからである」
「ここで情報機関と金融機関との関係についてその全貌を述べることはできない。だがその一端を知るには、アレン・ダレスとJ・へンリー・シュローダー銀行およびシュローダー信託会社との関係を見ればよい。一九三七年にダレスは両社の取締役に指名され、一九四三年までその両方の地位に留まっていた。またその間、ダレスはニューヨークの法律事務所、サリヴァン・アンド・クロムウェルのパートナーでもあった」
シュローダーとこの法律事務所はアメリカで情報機関がつくられた当初から、そうした組織とかかわってきた。CIAとシュローダー銀行との結び付きは、情報機関と金融機関が戦いを進める際にどういう形で裏で結び付いているかを示している。この両者の結び付きについてさらにその背景を明らかにすれば、現在これらの組織がどう結び付いて動いているかがはっきりする。
旧来の伝統的銀行の力は今では新興ユダヤ系金融勢力に押され気味だが、日本を標的にする場合には銀行業務と情報活動が一体化して事に当たることになるのである。
第四章ここまで
第五章 日本を操ったアイゼンバーグ
ドイツ脱出の謎
日本に対する情報工作がどのような形で進められるかをより広い角度から眺めるために、政治、金融面での単なる情報工作の枠を超えた秘密工作の中身を見ることにする。それにはイスラエルの誇る一人の人物が携わっている。
その人物の名前はショール・アイゼンバーグ。極東で過去五十年間工作に従事してきた億万長者である。彼はイスラエルのためだけではなく、アメリカの情報組織のためにも働いてきた。事実、アイゼンバーグは極東での米・イスラエル共同作戦の橋渡しをする重要人物の一人だった。だが、彼の活動や事業は極東にとどまらない。これから見るように、アイゼンバーグの世界を股にかけた行動力は、国家や文化といった彼のアイデンティティーを超えたもので、静かなる「へンリー・キッシンジャー」とさえ言うことができる。
ビジネスマンと言うにはあまりにも秘密の部分が多いアイゼンバーグという人物を正しく捉えるには、彼の出生地、一九二六年のドイツのミュンへンにまで遡らなけれぱならない。何人かのイスラエルのジャーナリストが彼の出生の真実を探ろうと試みたが、イスラエル当局からとがめられた。そうしたイスラエルのジャーナリストの一人、イーガール・ラヴィブは、アイゼンバーグが組織犯罪に関与していた多くの事件を暴露しようとした件で三ヵ月の禁固刑に処せられた。こういった妨害があったにせよ、彼の出生地はミュンへンだと推定される。彼の両親は、ポーランドに属するガリチアのユダヤ人で、十九世紀終わりごろにドイツへやって来た。
彼の子供時代、それにそのころの彼の両親のことは秘密のままである。だが、アイゼンバーグ一家はナチが政権を取ってからも急いで脱出することはせず、一九三八年までドイツに留まっていた。少年だったアイゼンバーグは、一九三八年から三九年にかけて出国を計画した。ドイツアルプス越えの脱出は難しくはない。偽旅券を手に彼はとうとうスイスに逃れた。そして猛威をふるうドイツ軍を避けながら、スイスから西ヨーロッパに移動を開始した。彼に関する記録を見ても、どのようにして彼がこのヨーロッパにまたがる逃避行を無事やりおおせたのかは決してわからない。いずれにしても、一九四○年の終わりにはアイゼンバーグはオランダにいた。
戦時下のドイツを脱出
ここで注目する必要があるのは、一九三八年以降にドイツから脱出できたユダヤ人がほとんどいなかったという事実である。ドイツにおいてはナチの手でユダヤ人法が一九三三年から三四年にかけて制定された後、一九三六年からはユダヤ人狩りと強制収容所への移送が始まった。一九三八年までに、在独ユダヤ人は事実上全員が収容所に送り込まれつつあった。ドイツにいたもう一人のユダヤ人、ハインツ(後にへンリー)・キッシンジャーも、同胞が被った運命を逃れるべく一九三八年にドイツを脱出したというのは、何とも皮肉である。
当時のドイツ国内で一体何が起こっており、また何百万人ものユダヤ人が脱出できなかったにもかかわらず、特定のユダヤ人がどうしてドイツから出国できたのかを理解するためには、今まで語られていなかったことを話す必要がある。どのようにしてキッシンジャー一家は脱出できたのか。ゲシュタボが捕えにやって来る前に、ショール・アイゼンバーグのような比較的貧しい労働者階級のユダヤ人がどうして脱出することができたのか。
ヨーロッパにおけるシオニストの組織は比較的弱体であり、ユダヤ人の移民を担当するユダヤ機関で、その頭文字を取ってモサドと呼ばれていた組織には、ヨーロッパのユダヤ人を救うだけの資金も能力もほとんどなかった。ドイツにいたユダヤ人の間では、シオニズムは大きな運動にはならなかった。彼らは自分たちが良きドイツ人としてドイツに同化していると思っており、その多くは第一次世界大戦ではドイツのために戦った。したがって、アイゼンバーグやキッシンジャーのケースはもっと注意深く調べてみる必要がある。
歴史的に見て、ドイツにいたユダヤ人はドイツ共産党を牛耳っていた。社会民主主義者、共産主義者を問わず、労働者階級による政治運動が始まった当初から、ドイツのユダヤ人はこの運動を主導し支配してきた。また、当時ドイツのユダヤ人の多くはドイツ共産党(KPD)の党員であり、モスクワの支配下にあった地下組織の共産主義インターナショナル(コミンテルン)に参加していた。コミンテルン、それにソ連中枢のスパイ機関(NKVD)とソ連軍情報部(GRU)第四局は、幹部諜報部員をヨーロッパから徴募するという秘密の方針を立てていた。モスクワと関係のある家族に特に目がつけられ、多くの場合、単に個々人の機知や賢明さに基づいてヨーロッパから連れ出された。
キッシンジャーとは何者か
だが、ドイツのユダヤ人には脱出のための特別の手が差し出された。シオニスト機関は、在独ユダヤ人についてはパレスチナに喜んで移住する者だけを受け入れた。つまり後にイスラエル国家となるパレスチナに移ることを約束した者だけを助けたのである。
国際救助委員会といった組織を通じて何とか脱出しようとした人々もいたが、彼らはソ連や英米の諜報員の人たちだった。したがって、アイゼンバーグとかキッシンジャーのような人たちが、少年時代にこういった情報組織の一つにその才能ゆえに抜擢され、後にこの情報組織とのコネで出世したということは充分有り得る。
CIA防諜担当局の元局長だったジェームズ・ジーザス・アンジェルトンの記録によれば、キッシンジャーは長きにわたってソ連のスパイだった可能性がある。というのも、彼の父親がバイエルン地方のソ連のNKVDと接触があったからだ。様々な理由から定期的に内容がリークされる公式記録によると、キッシンジャーは「ボーア(Bor)というコード・ネーム(暗号名)を持っていたという。
キッシンジャーに関する記録の内容が正確かどうかは、今もってアメリカ情報関係者の論議の的になっている。われわれは先にも述べたようにキッシンジャーは国際銀行資本と結び付いた特殊工作班に属しているとの見方をとっている。つまりロスチャイルド家とウォーバーグ家につながっている上に、イギリス情報組織とも関係があると見ている。キッシンジャーが政権の内にあっても外にあっても様々な経路を通じてソ連とつながっているのは、ロスチャイルドやウォーバーグとの結び付きがあるからである。彼がアンジェルトンが考えるようにソ連のスパイなのか、それとも意図があって大物ソ連スパイとして振舞っているのかは、事実がどうなのかという問題ではなく単に定義の問題であるにすぎない。
アンジェル卜ンの考え
だが、キッシンジャーに関するアンジェルトンの考え方を正しく理解するためには、ソ連、中国それに彼もその一員だった英米の各エスタブリッシュメントに関して、アンジェルトンが考えていた大前提というものを見てみる必要がある。
今はもう亡くなったアンジェルトンは、共産主義者の陰謀は実際に存在し中ソ分裂は見せかけにすぎず、ソ連はCIAにトップ・レベルの工作員を送り込んでおり、その工作員がCIAを弱体化しほとんど崩壊させてしまったと考えていた。キッシンジャーがソ連相手に行ったことの内容や、彼が密かに図っていた共産中国との国交回復も長い目で見ればソ連の利益になることなどを考え併せると、キッシンジャーはソ連情報組織のために働いていたというのがアンジェルトンが諜報活動を行う上での前提だった。
こういう考え方に立った結果、アンジェルトンはソ連やその諜報活動に関してパラノイア(妄想症患者)的見方をするようになった。彼はソ連やその情報活動が優勢な地域での工作では、自国の諜報活動をもはや信頼しなくなった。というのはアメリカがどんな工作を行ってもソ連は簡単にそれを自分のいいようにしてしまうことができると恐れたからである。
こういった精神構造と行動の結果、アンジェルトンはロシアのユダヤ人の中に入り込んだシオニストを利用する計画をはじめ、様々なプロジェクトにイスラエル情報機関を使うようになった。この工作はすべてイスラエル情報機関と正式な提携関係にあったアンジェルトンの防諜担当局に任されていた。
こうしたチャンネルを通じて、アンジェルトンはその他のいくつかのプロジェクトにおいても、イスラエルとの間に秘密の裏ルートを持っていた。アメリカの諜報活動の中でイスラエル情報機関が決定的な役割を果たしているこうしたプロジェクトに、キッシンジャーも関係していたというのは皮肉なことだが、事実である。元CIA職員によると、こうした意味において、それに他の複雑な理由もあって、アンジェルトンはソ連とイスラエル双方の情報機関に操られていたとされているという。
こうした見方からすれば、アンジェルトンにはアメリカに対して仕掛けられた工作の本当のところは分かっていなかったと思われる。ソ連の工作員、あるいはソ連の息のかかった人物だとアンジェルトンが考えた人物の多くは、イギリスかイスラエルの工作員だったと考えられる。
いずれにしても、アイゼンバーグとキッシンジャーの両者について言えるのは、二人のナチス・ドイツから脱出した経緯、そして後に情報合戦の国際舞台で大きな役割を果たすようになったことを考え併せるとき、もともといかなる基盤もなかったところからどうしてかかる権力者の地位にまで上りつめることができたのかが、不可解だということである。ところでキッシンジャーは大々的に名前が売れ、世間の脚光を一身に浴びているのに対し、アイゼンバーグの方は全くその逆である。
上海から日本ヘ
アイゼンバーグに話を戻そう。世界が第二次世界大戦に突入した後、彼はオランダを出て中国の上海に移ろうとした。一体全体、どういうわけでアイゼンバーグのような人間が、上海のような場所で骨を埋めようなどと考えたのか。当時の上海は陰謀が渦巻く世界、堕落、生き馬の目を抜く激烈なビジネスといったことが同時に起こる所として、その評判は凄じいものだった。
上海に行こうとしたことは、アイゼンバーグのミステリーの中でも極めて興味深く、かつ陰謀の臭いのするところである。というのは、上海は、日本、ソ連、イギリス、ドイツ、アメリカをはじめ、すべての国の対中諜報活動の拠点が置かれた街であったからである。この街はまた、ロシア人とユダヤ人亡命者の世界最大の共同体が存在した場所でもあった。
上海は、当時の主だった情報機関のために働いていた工作員や情報提供者、スパイたちの巣窟だった。そして亡命ユダヤ人の多くは、コミンテルンやGRUの情報組織のメンバーだった。イギリス人のために活動した者もいたし、日本人のために働くようになった者も一部いた。
ゾルゲと共に日本潜入
ソ連が上海で行った極めて重要なスパイ工作は、アメリカ人女性のアグネス・スメドレーを使ったものである。裕福なアメリカの上層階級出身のスメドレーは、共産主義運動に参加し、その後極東におけるソ連の諜報活動の中でも最も重要な工作に従事するため上海へやって来た。彼女を操っていたのがかの悪名高いソ連スパイ、リヒャルト・ゾルゲだった。ゾルゲは当初コミンテルンのために働いていたが、後にGRU第四局に移った。当時の日本の政策を潰すために、彼は日本人だけではなく中国人の共産主義者、ドイツ系ユダヤ人、その他のヨーロッパ人たちを採用した。
一九二○年代から一九三○年代にかけ、従来からあった上海のソ連情報組織は、この工作によって強化された。共産主義者は様々な政治工作を仕掛け、第四局も極めて巧妙な秘密工作を行った。それによってクレムリンは、この地域における日本軍の作戦に関する詳細な情報を入手することができた。彼らは日本による真珠湾攻撃に関する情報も事前に入手していた。
リヒャルト・ゾルゲは、ソ連のGRU第四局の中心的工作員であった。アイゼンバーグがゾルゲの率いる諜報グループの一員だったという直接的な証拠はないにしても、ゾルゲが東京の在日ドイツ大使館におけるソビエト・スパイのトップになったときに、彼が日本に移ったことは極めて深い興味をそそる事実である。ゾルゲは、日本に入り込むために、それまでの八年間を自らの偽装のために費やしている。彼は日本国内での活動のために人脈を作り、要員を徴募し、訓練を行っていた。その人脈の中にショール・アイゼンバーグも含まれていたと思われる。
永野重雄氏とのコンタクト
一九四○年にアイゼンバーグが来日したということには、どこか不吉な予感がする。日本へ来て何ヵ月もたたない間に、彼は日本人女性と結婚した一人のオーストリア人亡命者に接触を図ろうとしていた。そのオーストリア人は画家で、一九三六年のナチによるオーストリア併合の後も本国とのコンタクトを続けていた。ここでアイゼンバーグの経歴に再び前と同じような不可解な様相が現れてくる。彼は、このオーストリア人と日本人の夫妻の娘と結婚したのである。彼の妻は後にユダヤ教に改宗した。彼は、官僚の家系だった妻の母方のコネにより、日本財界の大物の一人である永野重雄氏と出会う。永野氏は新日本製鉄の創始者で、戦後における日本経済の復興を指導した人物である。
戦時中アイゼンバーグが何を行っていたかについての記録はないし、彼もそれを明らかにすることを拒んでいる。だが終戦直後、永野氏との関係を通じてアイゼンバーグは、当時の日本で大手としては唯一の金属と武器のスクラップ会社を設立した。
アイゼンバーグは日本国籍を有していた。アメリカ進駐軍当局は、占領下の日本人がある種の事業を始めることは禁じていたが、アイゼンバーグに対してはそれを全く自由に始めて良いと認めた。彼が一大事業集団を築き上げることになった手初めの大プロジェクトは、オーストラリアとフィリピンから鉄鉱石を買付け、それを日本の鉄鋼メーカー、とりわけ新日本製鉄の前身である八幡製鉄に売るというものだった。彼の事業は急拡大し、また日本の製鉄業界と進駐軍双方に持っていたコネを通じて、アイゼンバーグは日本財界による戦後初の訪米を計画した。彼はアメリカ政府との交渉においては日本の製鉄業界を代表して事に当たった。
この訪米旅行に際し、アイゼンバーグはスクラップ金属事業と軍事機密を扱う事業を興し、それらを統合した。彼は帰国後は、進駐軍当局向けに台所の流し台から浴槽まで様々な家庭用品をつくる工場を三つ建てた。また彼は、事業拡大とともに日本国内での政治権力をも手にするようになった。日本人が独立した力を行使できないような場合には、アイゼンバーグが大抵その肩代りを行った。
日本発進の網をはる
そういう中で、アイゼンバーグが一躍世界的なビジネス・コネクションを手に入れるきっかけとなったのは、イギリス政府が同国の国有会社であるインぺリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)の日本での代表者として彼を指名したことだった。
イギリスの大手国有企業の例にもれず、ICIもイギリス情報機関の秘密工作やスパイ活動に利用された。アイゼンバーグがICIの仕事をすることになった時、イギリス情報機関は日本国内での活動にはある程度の歯止めをかけた。というのも、ダグラス・マッカーサー将軍がイギリス人や彼らの情報活動に対し終始敵意を抱いていたからである。
戦時中、マッカーサーはイギリスのアメリカ国務省への政策介入を非難したことがあったし、戦略事務局(OSS)がつくられた裏にイギリスの意図が働いていたとして、南西太平洋地域での軍事作戦にOSSが介在することを拒否した。日本の情報記録を調べてゾルゲ一味の背景と実体を暴いたのも、マッカーサー配下の軍情報部だった。マッカーサー側近の軍情報将校だった人によると、その関係者の中にショール・アイゼンバーグという名前が挙がったことがあったが、ビジネスの絡みから、彼の件は別にされてしまったという。
日本財界ヘの深き恨み
アイゼンバーグだけを他から切り離すことによって、アメリカ政府筋はアイゼンバーグの日本での事業をさらに拡大し、韓国にまで展開する途を開いた。実際、彼にとっては韓国の事業拠点の方が日本の拠点より重要になった・アイゼンバーグが最初に韓国に行った時は、オーストリアのパスポートを使っていた。彼はオーストリア人ではなくなっていたのだが、「ユダヤ人」と言われることを恐れて義父が彼のためにオーストリアのパスポートを用意してやったのである。
引退したアメリカの外交官の一人が、アイゼンバーグの活動について次のように語っている。
「当初、韓国へは一種の国際金融業務を行う形で入った(アイゼンバーグが韓国で事業を開始したのは停戦後の一九五三年だった)。アイゼンバーグは成功する見込みのないことに手を出し、これに資金を注ぎ込むことによって、彼が利用しようと目を付けていた一部の地元人士の信頼を勝ち取ろうとしていた。」
アイゼンバーグは韓国で建設とエネルギー業務に進出し、それによって得た利益で韓国産業の発展に大きな貢献を果たした。彼が韓国への進出を決意した理由は、アメリカによる軍事占領が終った後、今日でもアイゼンバーグ自身が憤慨している通り、日本の大手企業の多くが彼を追い出しにかかったことにある。
一九八二年一月十四日付『ニューョーク・タイムズ』紙に載ったアイゼンバーグの数少ないインタビュー記事の一つの中で、彼は日本との関係を次のように述べている。
「われわれは日本で数多くの新しい事業に着手したが、日本人がその成果を横取りしてしまった。二十五年あるいは三十年前には日本人はわれわれを必要としたが、今ではわれわれを必要としていない」と。
アイゼンバーグは、今なお日本人に対する恨みの気持ちをはっきりと持っている。一九五○年代に日本人が彼を追い出してしまったことをアイゼンバーグは決して許してはいない。アメリカの情報関係者の中には、アイゼンバーグの恨みから、ADLのジャパン・バッシング計画は徹底したものになると見る人たちがいる。
アイゼンバーグとADL
一九五○年代、六○年代にわたって、アイゼンバーグは原材料の手当や資金調達に自分が持っている南米コネクションを利用し、それによって極東における自らの帝国拡大を図った。彼の大がかりな帝国の中枢となっている企業は、一九六○年にパナマにおいて設立されたユナイテッド・ディべロップメント・コーポレーションである。当時の彼の事業は、電力、製鉄、鉄道、電話、セメント、繊維、化学、潅漑、コーヒーの各分野にわたっていた。また彼の事業は約四十ヵ国にも及んでいた。アメリカにおける彼のコネクションは、シオニスト・ロビーの大物たちが関係する金融ネットワークに及んでいるが、その中でも鍵となる人物は、フィリップ・クラツニックである。
フィリップ・クラツニックは、アメリカのシオニスト・ロビーの中でも最も力のある人物の一人である。彼はカーター大統領の下で商務長官を務めたばかりではなく、ブナイ・ブリスとADLを今日のアメリカの社会の中で最強の組織に変身させた人物でもある。
ブナイ・ブリスの会長を二十年間務めた後も、シカゴに住むクラツニックは、企業や金融機関とのコネクションを通じてティッシュ一族と同等の力を依然有している。シオニスト・ロビーがアメリカの政治を締め付ける力を強固なものにすることができたのは、カーター政権時代のことだった。クラッニックは、ソル・リノヴィッツをカーター政権内に招き入れた。リノヴィッツは、クラツニックとアイゼンバーグの友人であるだけではなく、彼らの仕事上でのパートナーでもある。
見えざるユダヤ組繊の網
本書を通してわれわれが強調したいのは、個々の人物たちのこうした強力な結び付きは、単に強いコネを持った人たちが存在しているというだけではなく、世界中に及ぶ巨大な組織の存在によって裏打ちされているということである。
カーター政権の財務長官だったウェルナー・マイケル・ブルメンソールという一人の人物がいる。中国の上海で育ったブルメンソールは、ナチから逃れたドイツ系ユダヤ難民の一人である。今日、ブルメンソールは、ミシガン州に本拠のあるべンディックス・コーポレーションのトップであり、今も国際通商政策を陰で操っている。彼が上海にいた時、アイゼンバーグとは親しい友人の間柄だったのではないか、という質問については二人ともそれを否定する。だが、二人が同じような経歴をへていることと、互いに密接に関係するようになっているという事実は、何かがあることを示唆している。
個々の人たちがこのように結び付き、政治的経済的連携を図ることができたのは、ロックフェラーやロスチャイルドの後ろ楯のおかげである。彼らの情報活動の拠点は、今日でもアメリカ、イギリス、イスラエルの三カ国である。
アイゼンバーグ、クラッニック、リノヴィツといった人物からなるこの人脈ができたのは、単に運が良かったからとか、ロスチャイルド家の支援があったからというだけのものではない。これには、もう一人の不可解な人物、ティボー・ローゼンバウムが果たした役割が大きい。彼はハンガリー出身のユダヤ人でジュネーブにスイス・イスラエル貿易銀行を設立した。ロスチャイルドが三分の一を直接出資していたこの銀行が、スパイ工作の隠れ蓑として利用されたアイゼンバーグの数多くのハイテク企業に資金を供与したのである。
スイス・イスラエル貿易銀行の役員にアブラハム・ファインバーグが名を連ねている。彼はイスラエル建国の際、シオニズムの主流を占めた軍事組織であるハガナを支援したアメリカ人グループの代表だった。また、役員としてフィリップ・クラツニック、デヴィッド・グラヴィエの名前もある。グラヴィエは極めて示唆に富んだ人物である。
利用された「パキスタンの核」
一九六○年代にローゼンバウムが設立したスイス・イスラエル貿易銀行の別会社として、もう一つの銀行が設立された。それを動かしたのがクラツニックと、アルゼンチン生まれのユダヤ人デヴィッド・グラヴィエだった。このもう一つの銀行は、アメリカン・バンク・アンド・トラスト(ABT)と称した。CIAとモサドが所有するこの銀行は、麻薬の利益の洗浄(ローンダリング)を行う機関であった。
彼らのビジネスの相手だったショール・アイゼンバーグは、そこで借受けた資金をいくつかの秘密プロジェクトのために使った。そのプロジェクトの一つが、パキスタンでの原子力発電所建設であった。これによりパキスタンは原爆用の材料を得ることができるようになった。
一九七○年代に「イスラムの核」が大きな話題になったことがあった。ガイス・ファラオンというエジプト人と、その仲間のロジャー・タマラズというレバノン人の二人が、アイゼンバーグとブロンフマンになり代わってパキスタンとの取引に当たった。この取引にはカナダ政府も絡んでおり、同国政府はカナダ型重水原子炉の輸出認可状をアイゼンバーグの会社に交付していた。この取引を受けて、アメリカ人とイスラエル人からなるこのような人たちは、パキスタンが原爆を開発しつつあると叫んで一大宣伝を開始した。
だがこのキャンべーンの狙いは、パキスタン人が原爆を手にするのを阻止することではなく、イスラムや第三世界の国々による核兵器開発技術の入手に反対する世論を世界中に起こすことだった。つまり、国情の不安定なイスラム国家が原爆をつくる目的でそれに必要な技術を手に入れようとするのを、「文明」諸国が見過ごすことなどどうしてできようか、という世論を巻き起こしたかったのである。彼らは結局のところ、そんな国の原爆開発に手を貸してはいけない、という見本にパキスタンを仕立てたのである。
つまりアイゼンバーグたちがパキスタンの原子力発電建設に手を貸した際密かに狙っていたのは、アラブやイスラムのどの国であろうと原子力技術に手でも出せば、即ちそれが西側の利益にとって「脅威」となるという風潮を生み出すことであった。またパキスタンで原子力発電計画が持ち上がったその時に、当時の大統領ズフィカル・アリ・ブットがより過激なイスラム原理主義者の手で倒されたことも思い出してみるべきである。へンリー・キッシンジャーは、パキスタンが原子力エネルギーを持つことを望んでいるとして、ブットを公に攻撃していた。そして一九八一年六月にィスラエル空軍がィラクの原子炉を急襲したときに、このパキスタンの「事例」が再確認されたわけである。
ABTが麻薬の資金洗浄を大々的に行っている銀行の一っだということは、前に述べた通りであるが、リノヴィツのパートナーであったデヴィッド・グラヴィエは、ABTのカネ四千五百万ドルを横領した罪と麻薬の資金洗浄行為に関与した罪で起訴された。
だが一九七八年、偶然とおぽしき飛行機事故によってグラヴィエは消えてしまった。ところでグラヴィェの活動を調査した中で興味深い点の一つは、彼がラテン・アメリカのいくつかのテロ組織に資金を供給していたことである。さらにここで触れておかねばならないのは、一九七八年のパナマ運河協定の交渉の際、オマル・トリホスを相手にこれを行ったのがADLのトップでもあったリノヴィッツだったことである。トリホスはその後一九八二年に飛行機事故で暗殺された。
ノリ工ガだけが悪玉か
すでに述べた通り、アイゼンバーグがラテン・アメリカに最初の本格的な会社を設立したのはパナマにおいてであり、それは一九六○年のことだった。そしてパナマでトリホスが暗殺された後その後釜に座ったのが、今やその座も追われてしまったマヌエル・ノリエガだった。ノリエガは日本の協力を得て第二パナマ運河をつくろうとしていた。事実、一九八○年代初頭に、駐日パナマ大使が新日本製鉄の最高首脳だった永野氏を訪ねてこのプロジェクトに対する支援を申し入れている。だが、このプロジェクトが大きく前進したのは、ノリエガがニカラグアのコントラ支援をアメリカとイスラエルから求められ、それを呑まされたときのことであった。
その際、ノリエガはイスラエル情報部の工作員であったマイク・ハラリと親密な関係を持つようになった。
ハラリはノリエガの顧問になった。ノリエガが第二パナマ運河計画の達成を望んだにもかかわらず、ハラリや彼のイスラエルとアメリカの友人たちは、コントラの援助資金を調達するために麻薬を扱うアイゼンバーグの組織を築き上げ、マスコミはヒステリックな反ノリエガ・キャンペーンを張り、彼に「麻薬王」のレッテルを貼ってこれを葬ろうとした。そしてブッシュ政権はノリエガを引きずり下ろしてしまったが、ハラリとその仲間の工作員の方は見逃した。
日本の提案によるノリエガ政権下での第二パナマ運河建設が、建設資金のみならずそれに必要な技術供与についてもこれを行うことで日パ両国間の合意が成立した後になって、アメリカとイスラエルによって阻止されたのは不思議ではなかろうか。
アイゼンバーグの活動に対する資金援助の構図をさらに幅広く辿っていくと、一味のリストの中にもう一人の金融界の人物の名が挙がってくる。その名はエドムンド・サフラ。リパブリック・バンク・オブ・ニューヨークのオーナーであるとともに、アメリカン・エキスプレスを買収、顧問の一人にヘンリー・キッシンジャーを招き入れた人物である。
サフラは、シリアのアレッポで生まれたユダヤ人で、ブラジルで成長した。彼は自分の銀行であるジュネーブ貿易開発銀行を通じてアメリカン・エキスプレスを買収した。サフラはアルゼンチン出身のいかがわしい銀行家デヴィッド・グラヴィエに融資を行っており、またアメリカン・エキスプレスが投資銀行のシェアソン・リーマンを買収する際には、ジョン・サムエルズを自分の手先に使っている。サフラをもともと支援していたのは、イスラエル・ディスカゥント銀行のオーナー、レカンティ一族である。サフラ、ブロンフマン、アイゼンバーグ、クラッニック、キッシンジャーは同じ組織に属する仲間である。
マルコス政権転覆の真相
このように見てくると、中南米やアジアで情報活動を展開するアイゼンバーグが、一九七七年当時のイスラエル外相モシェ・ダヤンの訪中などといったイスラエルのための特別な工作にとういうわけで携わってきたかが理解できる。アイゼンバーグが所有するジェット機で、ダヤンはネパール、ビルマ、タイへと飛んだ。その表向きの目的は、イスラエルとこれらの国との関係改善を図るということだった。が、それは共産中国政府を貿易、技術面で支援するというアイゼンバーグの真の目的を隠すためのものにすぎなかった。一九七九年までに彼は中国政府の最高幹部との関係を取り付けるのに成功し、その結果、中国で十五件の大がかりなプロジェクトを成約することができた。
こうしたコネクションによって、アイゼンバーグは北京飯店に事務所を構えるに至った。彼は同ホテルの最上階の三フロアーを占有し、そこでビジネスを展開している。また彼はもう一人のアメリカ人実業家、アーマンド・ハマーとの間でいくつかの合弁事業をも行っている。ハマーは、彼らの人脈の中でも重要な役割を果たしており、一貫してクレムリンとの関係を保ってきている。二人の合弁事業には、四億六千五百万ドルに上る中国の石炭開発事業も含まれる。しかし今日に至るまで、このプロジェクトはいまだ実行に移されていない。
その一方で、アイゼンバーグは銃などの小火器類とハイテク武器の開発製造につき、共産中国政府と合弁契約を結んでいる。この事業を実行するために、彼は日本の商社を真似てアジア・ハウスと称する自分の商社を一九七九年に設立した。この事業を指揮する拠点は、テルアヴィブ郊外のサヴィオンに置かれ、アジア・ハウスのニューヨーク支店は、三九番街東四番にあるアイゼンバーグ所有のビルの中に置かれている。東京、チューリッヒ、ロンドン、マニラにある賛沢なアパートや建物、そして自宅を彼は連絡事務所に使っている。
北京飯店にある住まいを拠点に、アイゼンバーグは中国人と組んで中距離ミサイル技術をぺルシャ湾岸のアラブ諸国に売っている。イスラエルは共産中国が持っている対アラブコネクションを利用することができれば、これらアラブの国々を監視できるばかりでなく、必要とあらば鍵となる技術を送り込むことさえ可能となる。そして、皮肉な事実であるが、これによってイスラエルにはこれらアラブの国々にどう対処していけぱ良いかがわかることになり、西側にとってみればイスラエルはどうしても必要な存在になってくる。
どうしても必要な存在であること、このことはアイゼンバーグの組織がCIAおよびフィリピンの債務の引受人であるアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)と一緒になって、一九八六年二月にマルコス政府の転覆を企てたフィリピンにおいても見られる。
いわゆる民主主義の旗の下、国務省・CIA・イスラエルからなるグループが、政権内部の人間を使ってマルコスの引きずり下ろしを目論んだ。フィリピン国内のすみずみにまで浸透した腐敗は誰の目にも明らかであった。だがフィリピンは実は民主主義を打ち立てるためではなく、貸し付けた資金の回収をより容易に行うためにこのグループが体制の変革を企てようとした最初の国にすぎなかったのである。
アメリカが立てたコラソン・アキノ大統領は、マルコスに比べて操りやすい人物である。AIG社は今もフィリピンの債務保証人だが、この会社の経営者はモーリス・グリーンバーグという。元CIA次長のボビー・レイ・インマンによると、グリーンバーグは当時CIA長官だったウィリアム・ケーシーと殊のほか親しい間柄だった。ケーシーはニューヨークとロンドンの金融勢力のお気に入りだが、これら金融グループがフィリピンに資金を貸付けていたことが、マルコスの追い落しにつながっている。
フィリピンにも拠点を持っていたアイゼンバーグとグリーンバーグは、マルコス打倒に必要な資金を提供した。この打倒計画は比較的容易なものだった。というのも、マルコスの友人たちは私兵を抱えており、その私兵を訓練したのがイスラエル人だったことから、もしアキノによるクーデターに抵抗する者があれば、イスラエル人がアキノ女史の側に寝返って、彼らの知り得た秘密情報や手の内を明かしてしまうということも有り得たからである。
イラン・コン卜ラ事件の黒幕
以前、アイゼンバーグとグリーンバーグが組んで極東最強の企業、C・V・スター・コーポレーションの乗取りを図った。彼らが持っている銀行とのコネクション、とりわけエドムンド・サフラが仕切るジャンク・ボンドを使った工作を利用することによって、アイゼンバーグとグリーンバーグ連合は強引に事を運び、C・V・スターを乗取ってしまった。同会社はこの地域における旧来からのアメリカの利権の橋頭堡ともいうべき存在だった。またレーガン政権のイラン・コントラ工作にイスラエルを絡ませたのも、アイゼンバーグの事実上のコネクションによるものであった。 アイゼンバーグのビジネス上のパートナーであるイスラエル・エアクラフ卜・インダストリースの創始者アル・シュイマーと、シャー時代にイラン国内におけるモサドの活動の指揮を取っていたジェイコブ・ニミロッドの両名は、イランのムヅラー(イスラム教の律法学者)たちとのコネクションをオリヴァー・ノース中佐、リチャード・セコード将軍、並びに元CIA幹部のセオドア・シャクリーに提供した。アイゼンハーグはイラン・コントラ事件で中心的役割を果たした黒幕の一人であったが、それが公にされることは決してなかった。
金融、経済面におけるアメリカの力の後退につれ、この勢力はアメリカに獲物を求めて入り込み、そこに自分たちの牙城を築くことに成功した。そして彼らが、いわゆる増大する日本の脅威に挑戦することは比較的容易になったのである。



(私論.私見)