中東戦争の経緯一覧表 |
(最新見直し2006.7.24日)
【第一次中東戦争勃発】 |
1948.5.14日、イスラエル建国宣言3時間後、アメリカはイスラエルを承認する(ソ連と東欧諸国は4日後に承認する)。その直後、戦争に突入した。「イスラエルが戦争を仕掛けた」説と「エジプト空軍によるテルアビブ空襲説」とがある。いずれにせよ、イスラエルとアラブ5ヶ国軍(シリア、エジプト、レバノン、トランス・ヨルダン、イラク)が戦争状態に入った。それは、イスラエルからする「独立戦争」、アラブ側からする「イスラエル建国不承認パレスチナ戦争」となった。 当初はアラブ側が優勢であったが、軍事性能の高い武器を持つイスラエル側が次第に優勢になり、アラブ諸国の対立が表面化し始め、7.15日の国連仲裁により休戦となった。1949.1.12日から和平交渉が開始され、7月までにイラク(停戦協定を結ばず撤兵)を除く交戦国との停戦が成立した。イスラエルの機略が成功し、アラブ各軍の準備不足もあり、次第に優勢になり勝利した。 これにより、パレスチナは、イスラエル・エジプト・ヨルダン三国に分割された。トランス・ヨルダンは、ヨルダン川西岸および東エルサレムを自国領に編入し、国名を「ヨルダン・ハシミテ王国」に変更した。またガザ地区はエジプトに編入された。イスラエルの領土が確定され、パレスチナ全土の約3分の2(全パレスチナの75%)を占めることになった。これは、国連によるパレスチナ分割決議でのパレスチナ全土の57%とした地域を大きく上回った。 イスラエルとトランス・ヨルダンは休戦協定により、エルサレムは東西に分割された。旧市街地を含む東エルサレムはトランス・ヨルダンの支配下に、西エルサレムはイスラエルの支配下に入った。トランス・ヨルダンのヨルダン西岸地区併合は、土地を得たことにより、いわゆるパレスティナへの裏切りとなった。今第一次中東戦争にが汁を飲んだのはパレスティナだけとなった。 |
【第二次中東戦争(スエズ動乱)勃発】 |
1956.10.6日、イスラエル軍がシリア方面に集結しているという情報が伝えられたエジプトのナセルは、対抗上エジプト軍のシナイ半島への集結を命じた。さらにチラン海峡の封鎖を命じたことで、イスラエルは唯一のインド洋へ通じるルートを遮断される危険に陥った。10.6日昼過ぎ、エジプト・シリア両軍がイスラエルを奇襲したことから第二次中東戦争始まった。緒戦はエジプトが優位に闘ったが、スエズ運河利権を失いたくない英仏がイスラエルに加担し、イスラエルのガザおよびシナイ半島進撃と同時にイギリス・フランス軍がエジプトへの攻撃を開始した。イスラエルは、エプト・シリア・ヨルダンの空軍基地を攻撃し、空軍を全滅させた。対し、軍歩兵の操作する対戦車ミサイルによって敗れた。→イスラエル初の敗退。米ソ両国が介入し、英仏に圧力をかけ、両国は2カ月後撤退、イスラエル軍も翌年3月撤退し終息した。第二次中東戦争に戦勝したイスラエルは、パレスチナ地域への基盤をますます強固なものにした。 |
【第三次中東戦争勃発】 |
1967.6.5日、イスラエル空軍がエジプト各地の空軍基地を電撃的に攻撃し、第三次中東戦争が勃発した。これによりエジプト空軍は壊滅的打撃を受けた。ダヤン国防相の指揮するイスラエル軍は、東部でヨルダン、北部でシリア、南西部でエジプトという「三正面」で交戦し、全てに勝利した。アラブ側はイスラエルに制空権を握られ、ゴラン高原、ヨルダン領の東エルサレムとヨルダン川西岸、エジプト領のガザ地区、シナイ半島などを占領された。エジプト、ヨルダン、シリアは停戦を受け入れた。この戦争はアラブ側の敗北で、6日間で終わった。故に6日間戦争(第三次中東戦争)と呼ばれる。ナセル大統領(エジプト)による汎アラブ民族主義が失墜した。中東革新陣営諸国によるアラブ統一・社会主義路線も敗北した。 第三次中東戦争に勝利したイスラエルは、この戦勝により更に領土を拡大した。東エルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの領土だったガザ地区とシナイ半島をも支配下においた(エジプトはシナイ半島全域を失ったことになる)。右派政党リクードの「大イスラエル主義者」らによる西岸とガザ地区への入植地建設が始まった。 約40万人のパレスチナ人が難民となり、ヨルダン川東岸に逃げ込んだ。ヨルダンの人口約200万人の内74万人がパレスチナ人となった。この人口構成により、ヨルダンでは大きな政治勢力としてパレスチナ人を抱え、国内政治情勢は不安定となった。 イスラエルは統一されたエルサレムを「首都」と宣言した。しかし、各国(日本を含め)はこれを認めていない。あくまでテルアビブが首都であるとして、大使館はテルアビブにおいている。 国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対する撤回決議を採択したが、イスラエルはこれに拒否し今日に至っている。 東エルサレムは以降イスラエルに占領されることになったが、中心部の「旧市街」にはイスラム、ユダヤ、キリスト各教の聖地があり、パレスチナ人約21万人が住む状態の中での占領であり、この宗教上の聖地問題が「パレスチナ問題」の複雑さに更に輪をかけていくことになる。(日本を含め)これを認めていない。あくまでテルアビブ首都であるとして、大使館はテルアビブにおいている。 国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対する撤回決議を採択したが、イスラエルはこれに反論した。 |
【第4次中東戦争勃発】 |
1973.10.6日、エジプト軍がスエズ運河東岸を、シリア軍がゴラン高原に進撃して、アラブ諸国対イスラエルの第四次中東戦争が勃発した。10.15日には、サウジアラビア軍も参戦して、アラブ側参戦国は10ケ国に達したが、アメリカの巨大な軍事力を背景にしたイスラエル軍がアラブ側を圧倒した。 OAPEC(アラブ石油輸出国機構、クウェート、リビア、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、カタール、バーレン、イラク、シリア、エジプトの十カ国)は、いわゆる「石油戦略」を発動した。これは、親イスラエル国に対して石油輸出禁止や削減政策を断行するというものであり、原油価格を70%値上げするというものだった。世界に「オイルショック」が襲い、アラブの石油に頼っていた日本では、トイレットペーパーが店頭からなくなるというほどのパニックを引き起こした(「石油危機」)。 その後も次々と原油生産削減、石油禁輸が実行に移され、この政策によりアラブ側はそれまでの圧倒的不利な状況を覆した。ところが、皮肉なことに石油危機に乗じた原油値上げによりメジャーは空前の利益をあげ、このことがイスラム諸国の大衆に一層の貧困をもたらすという現象となった。しかし、原油価格は1972年末と比較して3$/Bから12$/Bと約5倍近くに値上がり、世界経済に大打撃を与えることになった。 |
【第5次中東戦争勃発】 |
2002.3.29日、 イスラエル軍がヨルダン川西岸のパレスチナ自治区に対して全面的な侵攻作戦を開始し、ラマラに突入した。以降、多方面作戦を開始する。3.30日、イスラエル軍はナブルス、ベイトジャラにも侵略戦争を拡大した3.31日、イスラエルのシャロン首相が、国民向けのテレビ演説を行い、「イスラエルは戦争状態にある。対テロ戦争を遂行する」と述べ、対パレスチナ軍事作戦の強化を宣言した。首相はまた、アラファト・パレスチナ自治政府議長を「和平の障害」などと強い調子で批判、敵意をむき出しにした。この演説を受け、イスラエル軍は新たにヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ベツレヘム、ベツレヘム、トゥルカレム、カルキリヤと西岸全域に侵攻、軍事作戦を拡大した。 4.2日、イスラエル軍は、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ベツレヘムにあるイエス・キリストの生誕地とされる聖誕教会(キリスト教徒の聖地で、紀元325年に建てられた由緒ある古式の教会)の直近まで侵攻、パレスチナ人武装集団と激しい銃撃戦を繰り広げた。イスラエル軍は武装集団側が教会敷地内に陣取り、発砲とパイプ爆弾投てきをしていると主張。一方、パレスチナ側は同軍が教会近くに攻撃を仕掛けたと非難している。同軍はまた、西岸北部のジェニンにも新たに侵攻した。ジェニンへの侵攻では、イスラエル軍はまず12台の戦車を市内に突入させ、以後も続々と部隊が入った。イスラエルの大規模軍事作戦は3日未明で6日目に突入、西岸のパレスチナの主要8都市のうち5市を制圧する勢い。ラマラで、ジェニンで、ナブルスで、過激派掃討名目での戦車による破壊攻撃が遂行された。 4.6日、侵攻したイスラエル軍は、アラファト・パレスチナ自治政府議長が監禁状態に置かれているヨルダン川西岸ラマラの議長府に対し、砲撃を開始した。4.7日、イスラエル軍は、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ナブルス旧市街に武装ヘリや戦車を展開してパレスチナ過激派拠点への集中攻撃を加速させた。西岸ジェニンの難民キャンプでも戦闘が続いており、パレスチナ側の死者が急増している。 イスラエル軍司令官は7日、ロイター通信に数日前からのナブルスでの過激派掃討作戦の結果、武装したパレスチナ人30人以上が死亡したと語った。同軍のモファズ参謀総長も同日朝の閣議で、29日の侵攻開始以来のパレスチナ人死者は約200人、負傷者も1500人に達したと述べた。パレスチナ赤新月社は6日未明から夕方までに子どもを含むパレスチナ人16人が死亡、27人が負傷したことを確認したが、戦闘が激しい地域の被害状況は不明という。この時、レバノンのイスラム教シーア派民兵組織「ヒズボラ」が登場し、ロケット砲攻撃で反撃した。 4.17日、国際社会の圧力を受け、ブッシュ米大統領が送り込んだパウエル国務長官は、シャロン首相の強硬な態度を軟化させることができず交渉は失敗に帰した。4.19日、イスラエル軍がガザにも侵攻。 4.28日、パレスチナ自治政府のアラファト議長は、ゼエビ・イスラエル観光相の暗殺犯を米英の監視のもとで服役させるという米国の妥協案の受け入れを表明した。イスラエル政府も同案受け入れを決めており、3.29日の侵攻以来1カ月にわたるアラファト議長の監禁が解除される見通しになった。 |
(私論.私見)