ネオシオニズムの形成過程考 |
(最新見直し2006.3.5日)
「阿修羅ホロコースト2」に投稿された「バルセロナより愛を込めて」氏の論考を転載しておく。
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【ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(1)】 | |||||||
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【ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(2)ゾンビどもの跳梁】 | |||||
●どのような悪も悲劇も、それが「過去のこと」で終わっているのなら、悪党どもが死んでそれで終わっているのなら、あとは正確に研究して記録し、将来のための教訓とするべきものであろう。 しかしもしその悪党どもがゾンビのように生き続け、正体を誤魔化して過去にも増して活発に悪事を働き続けているにもかかわらず・・・・、「教訓とすべき過去」を語る、などとというのであれば・・・・、ましてそれを語る者たちが紛れも無いそのゾンビども自身とその手先であるとするならば・・・・、その悪と悲劇は3倍にも5倍にもなって将来に降りかかることになる。 ●次の資料はJewschoolというサイトの中の1ページである。標題のLikudnik Fascholesはおそらく「ファシストのリクード党」という意味であろう。またモビウス(Mobius)という筆名の著者はどうやらユダヤ系の「オーソドックス・アナーキスト」を自称しているようだ。
私に言わせるならば、著者の目はまだ甘い。現在のシオニストたち自身が、シオニズムにとって「イタリアではユダヤ人に対する抑圧がシオニズム発展のために必要なことであった」と事実上認めているのだ。 イタリアでの『35000名いた中の8000名のユダヤ人が収容所から戻ることは無かった』状態を本当に望んだのは、ヒトラーなのか、それともシオニストなのか。 ●次に、アルゼンチン労働党のネット週刊新聞プレンサ・オブレロ(労働新聞)からの引用で、標題は『嘆きの壁の中にいるムッソリーニ』、著者はパレスチナ社会主義労働者同盟のイツァーク・ベツァレル、日付は2003年12月4日である。
「パレスチナ社会主義労働者同盟」に所属するというこの文章の筆者の視点は、シオニズムを本質的にはイスラエルの中の資本家階級による思想、と捉えているようだ。そして特にジャボチンスキーの流れを汲むリクード党は「労働者の敵」であると同時に「ナチスやアンチセミティズムに協力して同胞をヒトラーに売り渡したユダヤ民族の裏切り者」、「社会主義」シオニストたちにしてもそれに準ずる「多くのユダヤ人を見殺しにした裏切り者たち」である。現在においても都合が悪くなると欧州のネオ・ファシストと野合してアラブ人とユダヤ人労働者を抑圧する許しがたい暴君である、ということだろう。 筆者がシオニズムについて主に使用している情報はおそらく歴史家のレンニ・ブレンナーの研究によるものだろう。確かにブレンナーとその周辺の左翼の研究家たちが「シオニズムの裏切り」について最も豊富な研究を行っている。 ●ただ、ここでちょっとジャボチンスキーから話がそれるのだが、この記事の著者イツァーク・ベツァレルだけではなく、ユダヤ人で左翼を自認する人たちのほとんどは「ホロコースト」が歴史的事実であったことを強固に信じている。その代表がブレンナーであり、『ホロコースト産業』の著者ノーマン・フィンケルシュタインであろう。 彼らのシオニストへの勇気ある挑戦と真摯な研究に対しては正直に敬服するが、ただその「ホロコースト」に対する姿勢が、彼らの中に致命的な欠陥を作りまた彼らにとってどうにもならない壁を作ってしまっているように思えてならない。(彼らほどの勇気と突っ込んだ研究も無しに尻馬に乗って彼らを自らの権威付けに利用するような連中はこの際相手にしない。) 彼らにとっては「ホロコーストとヒトラー」が「超越的・絶対的な悪そのもの」であり、これに関してはもはや「宗教的」としか言いようが無い。ちょうど「神」が超越的・絶対的な「善そのもの」であることの裏返しとなっているようなものだ。ブレンナーが自分の著作をある「レヴィジョニスト」に引用されて激怒した、と聞くが、まさに「ホロコーストとヒトラー」が『神聖不可侵な悪(?!)』となっているようだ。話がこれに及ぶともう理性も何も無くなってしまう。次のように述べるイズラエル・シャミールの方がはるかに理性的だろう。
ヒロシマの死者に対するシオニスト・ユダヤ人たちの「殺されて当然だ」と言わんばかりの傲慢な態度こそが、アウシュビッツの意味を失わせているのではないのか。すでに「肯定論者」からすら否定されている「600万人」を一歩も譲らないのが単に現在と将来の経済的な理由であることはみんなが知っていることである。 彼らの態度が上記のようである以上、現在「ホロコースト・プロパガンダ」「アンチセミティスト・レッテル貼り」に狂奔しているのが、イツァーク・ベツァレルが『あのプロ・ファシスト』と罵倒する当のシオニスト(ユダヤ・ファシスト)自身である現実を直視できないのだ。どうがんばっても精々が「絶対悪であるナチスに協力した『ユダヤ人に対する裏切り』」とその「道徳的罪」に対する非難で終わらざるをえないだろう。 現にブレンナーの著書「51の文書:ナチに対するシオニストの協力」に対して英国のシオニスト集団の機関紙Jewish
NewsがAmazon.co,ukに圧力をかけた問題に関して、シオニストのJon Benjaminから「お前が言っていることは、9・11にイスラエルが絡んでいるなどという新しいアンチセミティズムを力づけるだけだぞ。それでもいいのか。」と脅しをかけられると、ブレンナーは(少々戯画化して描くが)「いやー、そのー・・・・。私も9・11とイスラエルは関係ないと言ってるんですがねぇ・・・・。私はただ独裁者時代のことを言っているだけなんでして・・・・。」と、とたんにしどろもどろになってしまう。こりゃ、だめだ。(ブレンナー氏は先日のアンマン爆破事件など、どう見ているのか? 過去の資料の研究に忙しくて現在の問題には盲目、というのなら何のための歴史研究なのか?) 事実はまさしく!Jon Benjaminの言うとおりなのだ! 『「9・11にイスラエルが関与している」と言うことが「新しいアンチセミティズム」』である! これを多くの左翼ユダヤ人たちはどう見ているのか? かつてユダヤ人迫害を必要としていたのがシオニストであり、そのシオニストによる「ユダヤ人迫害の利用」は現在も延々と続いている、いや彼らの政治目的に沿ってますます強化されているのだ。この最も現在的な視点こそが「シオニズム研究」の眼目ではないのか? 彼らは決して「絶対悪に協力した裏切り者」などではない。ヒトラーとともに「絶対悪を演出した主犯」であり、さらにその背後に米英巨大資本(ブッシュ爺を含む)、およびその目標の実現に励む米英諜報機関がある。そして今日、またしても、「ナチズムに対する反感ゆえに?!米国のファッショ化に狂奔する!?」レオ・シュトラウスの一党と連なる極右シオニストが、「イスラム・テロの絶対悪」を演出しているのだ! ●ブレンナーが書きベツァレルが引用したと思われる箇所で、なぜ『1933年から35年までに、WZO(世界シオニスト組織)は、移住の許可書を請求したドイツのユダヤ人の3分の2を拒否』する必要があったと考えるのか? 『えり抜きの労働力をパレスチナに迂回させる可能性を妨害するかもしれなかった』とどうして言えるのか? 「労働力」というのなら、以下の阿修羅投稿でも明らかであるように、シオニストはアラブ諸国に「離散」していたユダヤ人たちを、爆弾テロを含むあらゆる手段を使って「迫害」を演出し、手当たり次第に強引に狩り集めていたのである。これが彼らの偽らざる基本姿勢なのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ また、アウシュビッツが「ユダヤ人迫害の場」(実際はユダヤ人と同時にジプシー、同性愛者、左翼主義者、心身障害者などに対する迫害の場)だったことに一点の疑いを持つ余地は無いにしても、『ユダヤ人を絶滅させるための場』でなかったことは、当の「絶滅収容所」を信じて疑わない(疑うことを許されない)人たち自身の調査からも明らかにうかがえることであろう。以下を参照していただきたい。
私は敢えてここでは他の「レヴィジョニスト」「ディナイアル」と言われる人の言葉は引用しない。あくまでも私の言葉と私自身が翻訳した文献の表現で語る。ここでこれ以上「ガス室論争」について深入りするつもりは無いが、「ホロコースト史観」に呪縛されている人たちの限界は、いかに彼らが真摯にシオニズムの邪悪さについて研究したとしても、明白であろう。彼らも結局はあの真正ゾンビどもが演出する「過去」に操られるだけのゾンビの一種と化してしまっているのではないのか。彼らが真面目な人たちであると信じるがゆえに、私はそれが残念でしょうがないのだ。 ●今回はここまでとし、次回はジャボチンスキー自身と彼の「修正主義シオニズム」党の足跡を具体的にたどっていくことにしたい。 |
【ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(3)『負け馬に賭けた』?】 | |||
●アブラハム以来(?)のユダヤ歴史年表がイスラエルのサイトJewishhistory.orgで作られて公表されている。 この中からウラジミール(ゼエブ)・ジャボチンスキーの略歴を取り上げてみよう。
さすがにイスラエルで作られている年表だけあって、ムッソリーニのムの字も出てこない。そしてジャボチンスキーを「少々行き過ぎの面はあるが紛れも無い愛国者で欧州のユダヤ人の悲劇を予測して強く警告した人」というイメージで紹介している。「隠蔽と虚構」という大衆支配の原則に忠実に作られているようだ。またハガナーやイルグンなどの「創始者」と書かれているがこれは不正確で、「創設に関与した」という意味だろう。 なお、ハガナー(Haganah:「防衛隊」の意味)は、1909年に創設されたHaShomer(「自警団」の意味)がその前身で、1920年のアラブ人との戦いの時期からHaganahと改名され軍事組織として確立した。そして1948年のイスラエル建国の際に、イスラエル国防軍に変えられた。出身者の中にはイツァーク・ラビン元首相、アルエル・シャロン現首相、モシェ・ダヤン元国防相などがいる。 イルグン(Irgun:「民族軍事機構」)は1937年にハガナーから分離した過激組織で1948年にイスラエル国防軍に吸収される。創設者はAvraham Tehomi。英国はこれをテロリスト組織と見なした。1946年にはエルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆弾テロを起こし、1948年のデイル・ヤシン村での大虐殺の中心となる。メナチェム・ベギン、イツァーク・シャミール両元首相、モシェ・アレンス元国防相が代表的なメンバーである。 ベタール(Betar)は修正シオニスト青年運動で、上のイスラエル製の年表では1917年となっているがWikipediaでは1923年にラトヴィアのリガで、ゼエブ(ウラジミール)・ジャボチンスキーによって創設された、となっている。最初は過激な政治運動だったがやがてムッソリーニの協力で正式な軍事訓練を受けることになる。イルグンのベギン、シャミール、アレンスも所属していた。この組織は現在でも存在し、リクード党を支える様々な活動を行っている。 それにしても「心臓病で死亡」というのはどうも引っかかる。後にバチカンで、オプス・デイに都合の悪い教皇とバチカン幹部がやはり「心臓病」で急死している。ジャボチンスキーの60才の死は、1930年代に「東欧からの完全な避難」を、「(1939年に)60万人のポーランド・ユダヤ人の即時移住」を求めた後のことだった。何か臭うが今はそれには触れないでおこう。 ●次に挙げるのは、ユダヤ人のシオニズム研究家レンニ・ブレンナーの作品である。これはインターネットではデンマークにある次のサイトに納められているもので、 そのごく一部だけを日本語訳してご紹介したい。ほんの短い紹介なのだが、日本でほとんど知る人のいない「ユダヤ・ファシズム」の問題について、一人でも多くの人が関心を持つきっかけになれば幸いである。 (本文にある出典を示す注釈は割愛するので、興味のある人は本文を参照していただきたい。また以下の訳文中で「・・・・・」と《 》で挟まれた箇所は、著者による他の文章からの引用である。Revisionismという用語に関しては、あまり良い訳とは思わないが、とりあえず最も一般的である「修正主義」と訳しておく。)
「ファシスモ」への弁明は必然的に、イタリアのエチオピアに対する侵略によって相当に印象付けられる。英国はいまや地中海での最強の権力とは言い難く、1936年までに彼は新たな支配地域のために活動する時だと言い含められるようになった。喜んでアラブ人に対する最も厳しい方法を使用する意思を持って、である。「必然的に」と彼は友人に書いた。 ヘルツル(Herzl)の同僚であったジャコブ・デ・ハアス(Jacob de Haas)は1930年代の半ばに修正主義に転向していた。そしてこの老シオニスト戦士は1935年にウイーンにあった新シオニスト機構(NZO)の設立会議に出席していた。彼は米国に戻るとすぐに、シカゴのJewish
Chronicleに彼が持っていた毎週のコラムにそのまとめを次のように書いた。『代表者たちはファシストではなかったが、民主主義への忠誠を失っていた彼らはアンチ・ファシストではなかった。しかしながら彼らは極めて反共産主義的であった。』この老人は米国で書いていたのだが、自分自身をファシストとは見なさなかった。ファシストと言う言葉は米国では珍妙であったのかもしれない。そこで彼は自分の同僚を単に反民主主義であると考えるようにした。しかしNZOの資金担当者であり東欧での彼らの外交担当者だったウォルフガング・フォン・ワイスル(Wolfgang
von Weisl)が、「修正主義者たちの中には様々な意見があったが、一般的には彼らはファシズムに親近感を覚えていた」とブカレストの外交文書で語ったとき、彼は間違いなくずっと正確であった。彼は質問者に対して「彼【訳注:ジャボチンスキー】は個人的にはファシズムの支持者であり、アビシニアでのファシスト・イタリアの勝利を白人種の黒人に対する勝利として喜んだ」と断言した。このような意見はローマで多くの人気を得ており、後にローマのチーフ・ラビとなるダヴィッド・プラト(David
Prato)に次のように語ったのはムッソリーニ自身である。 このようなことが、1936年のアラブ人反乱に直面した運動だったのだ。
【前略】 修正主義者たちはファシストとの関係を合理化する ムッソリーニに対する傾倒は完全な破局に終わった。アラブ人、英国人、そしてユダヤ人の反対者に対して盲目的にハンマーを振るいながら、修正主義者たちは次に何がやってくるのかを見ようとしなかった唯一の者たちであった。エミール・シェキブ・アルスラン【Emir
Shekib Arslan、訳注:親ソヴィエト的な汎イスラム主義運動の指導者】からムフティ【the
Mufti、訳注:一般的にはイスラムの律法学士だがここではパレスチナのイスラム指導者を指す。】に宛てられた手紙の写真が、親イタリア・プロパガンダの広がりに関するものだったが、1935年にパレスチナの新聞に現れていたし、1936年までにはラジオ・バリがアラブ人たちに反英放送を鳴り響かせていた。その時期までに修正主義者たちはムッソリーニを弁護することに慣れていたので、彼らは彼がthe
Muftiやパレスチナ人の運動に協力していたことを認めようとすらしなかった。1938年【訳注:この年の11月にイタリアはドイツに倣って「反ユダヤ法」を作った】になっても、米国の修正主義を代表する幹部のウイリアム・ジフ(William
Ziff)が、その著作『パレスチナのレイプ(The Rape of
Palestine)』で、イタリアがムフティと共謀していることを軽視しようと努めたのである。 修正主義者たちが明らかに負け馬に賭けてきたという事実をよそに彼は続けた。 結局のところ、ムッソリーニにヒトラーを援助するように説得したのはパレスチナではなくスペインであった。ムッソリーニは、自分とヒトラーが今やどこであろうと革命を排除するためにまとまらなければならない、そして彼が帝国の拡張を期待できるのはドイツとの協力関係を通してだけである、ということを理解した。しかし彼はまた、ヒトラーと同盟を結びながら自分の党の中にユダヤ人を抱えることが不可能であることも知っていた。したがって彼はラテン化されたアーリア主義(a
Latinised
Aryanism)を調合した。党と経済からユダヤ人を追放し、戦争に向かって加速をつけた。修正主義者たちは正当な理由のゆえに誤ったと宣言した。 ムッソリーニのヒトラーへの急接近に伴って、修正主義者自身のファシズムはユダヤ人世界の中で信頼不可能となった。そしてジャボチンスキーが1940年8月にニューヨークで死亡したときに、彼らは大あわてでRosh Betarの看板を下ろした。それはファシズムの臭いを漂わせていたのである。彼らは自分自身がファシストであったことを認めようとしなくなる。単にジャボチンスキーの靴を誰も履くことができなくなっただけだが。最近の修正主義の年代記編者は必然的にAchimeirのような彼ら内部のファシストの役割について避けようとする、あるいは過小評価しようとする傾向がある。チビタベッキア【訳注:1934年からベタールの部隊が黒シャツ隊によって訓練を受けた場所】は通常「イスラエル海軍がここで訓練を受けた」と申し訳程度の記述で済まされてしまうのだ。 【引用、訳出、終り】 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ●もちろん上の訳出部分はレンニ・ブレンナーの膨大で精緻を極めた研究の中でほんのかすった程度の部分に過ぎない。忘れてならないことは、ムッソリーニと手を結んでいたのが決してジャボチンスキー率いる「修正主義者(レヴィジョニスト)」だけではなかったという事実なのだ。(もちろんブレンナーも他の研究でこれに触れている。)シオニズム創始者のチャイム・ワイツマンや主流派幹部のナウム・ソコロウなどは、もちろん自らを「ファシスト」とは見なさなかったが、ジャボチンスキーの以前に積極的にファシスト党に接近していたのである。イタリア在住のシオニストたちも1938年まではファシスト党と蜜月の関係にあったのだ。 確かに現在のシオニストたちはジャボチンスキーのことを詳しく語りたがらないようだ。またファシスト直系に近い現イタリア・ベルルスコーニ政権と彼らとの極めて親密な仲、およびベルルスコーニとADLフォックスマンの肝胆会い照らす友情の一方で、彼らは双方してシオニズムとファッショ・イタリアとの関係を覆い隠すのに必死の様子である。ジャボチンスキーを洗い始めると、「修正主義者」だけでは済まなくなり、その他の関係までボロボロと姿を表してくるからかもしれない。 そしてここに一つの重大な疑問が残る。先ほどのブレンナーの研究によると、1938年にムッソリーニが「反ユダヤ法」を制定した後で、特に1940年のジャボチンスキーの死後、「修正主義者」たちの評判と権威は地に落ちた・・・・かのように見える。しかし彼の後継者たちによる本当の意味の「ファシストらしさ」が発揮されるのは実はこの後なのだ。これはどういうことなのか? 彼らは本当にブレンナーの言うように『負け馬に賭けた』のだろうか? このシリーズの第1回目でも触れたことだが、ヒトラーとムッソリーニの仲を取り持ったスペインのフランコが数万人にのぼるユダヤ人たちをスペイン経由で逃がし、「修正主義者」たちの望みどおり、英国の意向を無視して直接パレスチナに送り込むことすら行っていたようである。(送り込んだ、ということは「すでに合意され双方で確認された受け入れ態勢ができていた」という意味なのだ。)これは「公式な歴史」の中では決して触れられない。表向きは1938年の「反ユダヤ法」でつながりが切れたことになっているファシスト陣営とシオニストとの間に、実際には何があったのか? そしてあれほどナチズムとファシズムが非難され排除された(はずの)大戦後にも、ベタールが失われることはなかった。またハガナーから袂を分かった(とされる)イルグンを率いたメナチェム・ベギンやイツァーク・シャミールなどのジャボチンスキーの後輩たち(彼らはチビタベッキアで黒シャツ隊から直接の訓練を受けていた!)は、ユダヤ人の移住をコントロールしようとする英国に対してテロ攻撃を仕掛け続け、なおかつ決してつぶされるようなことはなく、むしろ勢力は拡大した。さらにその政治部隊はヘルート党を経てリクード党に続き1977年にはついにベギンが首相となる。その間イスラエルはジャボチンスキーの「鉄の壁」ドクトリンを実行し続けていたのである。 私はこういった「修正主義者」の活動が、強大なパトロン無しに、彼らの思想と意思と情熱だけで達成されると信じるほどお人好しではない。「修正主義」の流れが英国に潰されずむしろ強大になっていったのは、ダブルスタンダードの英国が一方の手で彼らを支えていたか、英国も黙るほどの巨大なパトロンが控えていたか、あるいはそのすべてが茶番劇であり各関係者同士の「了解事項」として進められていたか、の、いずれか以外には考えようが無いのではないか。 確かにムッソリーニ個人は『負け馬』に違いない。いや、もっと正確に言えば『負け馬の皮』ではなかったのか。脱ぎ捨てられ放り投げられた『皮』は間違いなく『負け馬』であろう。しかしその本体は? イスラエルの一方でイタリアでもファシズムが消えることは決して無く、バチカン(オプス・デイ)や英米諜報部と密接につながりながら、公開されない部分で実力は十分に維持され拡張すらされてきている。シオニズムとイタリア・ファシズムとの関係は、本当のところ一体何だったのか?
もう一人の『負け馬』であるヒトラーに、ロックフェラー、ブッシュ爺、ハリマン、フォードなどを含む米英資本のパトロンがちゃんと控えていたことは周知の事実であろう。どうやらシオニストもヒトラーと「浅からぬお付き合い」をしていたようだ。しかし彼もまた『皮』に過ぎなかったであろう。本体であるドイツ大資本およびそれにつながる米英大資本は、びくともしないばかりかますます繁栄を極めている。さらに「バチカン・ラットライン」からも明らかなように諜報組織にもツーカーの連絡網があった。このドイツの極悪人は、生きて利用する価値が無くなったときに捨てられて、その後にはそれぞれの立場で都合の良いようにその悪名を利用される「偉大な役」を、そのパトロンからおおせつかったとみえる。 ヒトラーを「悪の権化」に祭り上げておいて人々の怒りと警戒をそこに集中させ、その陰で好き放題に悪事をはたらく一枚上手の悪党どもが多いようである。コイツらは必ず「ホロコースト」を持ち出す。ネオコンの教祖レオ・シュトラウスとブッシュの一党はもちろん、このシリーズの(2)に登場するイタリア・ネオ・ファシストとイスラエルの直系ユダヤ・ファシストなど、格好の例だろう。(ベルルスコーニやフィニがヒトラーへの悪口を上手に利用していることは有名。)当然だが、コイツらはヒトラーのパトロンやってた連中と直接・間接の豊富なつながりを持っている。 ところで『勝ち馬』の一人となったスターリンはどうだろうか。スターリンとシオニズムの関係は、いろんな資料はあるのだが、本当のところを探るのには少々面倒なようだ。これは後年の課題としておこう。 |
【ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(4)嘘で世界を操る野郎ども】 |
ユダヤ・ファシズムの系譜:ジャボチンスキーからシャロンまで(4)嘘で世界を操る野郎ども
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人間は平気で意図して嘘を付く存在である。「悪の果実」を作る者は騙すことだけを目的にした発言をする。「この人はこうも言ってる、ああも言ってる」ではなく、「コイツが実現させたことが実際にこれだからこの言葉はこんな意味だ」ということなのだ。 「嘘」を血肉化させた悪党は数多く生きているが、その中の一人、米国シオニスト・ユダヤとイスラエルのエージェント、ネオコンの悪徳詐欺師であり、同時にイタリア・フリーメーソンP2ロッジ幹部であるマイケル・レディーン(Michael Ledeen)に注目してみよう。この人物の言動が、ウラジミール・ジャボチンスキーのユダヤ・ファシズムの理想を現在の世界で結実させつつある勢力の本当の姿を、象徴的に表現していると思うからである。
これはインターネット新聞Daily Kosに寄せられた『Niger Yellowcake and The Man Who Forged Too Much』(by Pen Fri Jul 22, 2005 at 05:56:03 AM PDT)を翻訳したものだが、その一部を再掲する。(ぜひとも上記阿修羅投稿で全文をご参照いただきたい。) ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ http://pen.dailykos.com/story/2005/7/22/7563/12283 「ニジェール・ウラン偽文書と捏造しすぎた男」【和訳】:ネオ・ファシズムの尻尾?
1984年にさかのぼるが、Michael Ledeenはイランに対する武器の違法な販売を行うというManucher Ghorbanifarのアイデアを実行に移した。CIAの作戦部長補佐官(Deputy Director for Operations)であるClair GeorgeはGhorbanifarを全く信用が置けないと考えた。彼はGhorbanifarがモサドのダブルスパイであってイスラエルの治安だけを優先させていると感じたのだ。しかしジョージ・ブッシュSr.は、ロナルド・レーガンを当選させた悪名高い「10月の驚き(October Surprise)」に先立って、パリにいたGhorbanifarと関係を持っていたのだが、Ledeenに同意し、こうしてGhorbanifarはイラン・コントラ事件として知られるようになった事柄の中心人物となったのである。実際に、オリバー・ノースはコントラに資金を振り向けるように1986年の1月にGhorbanifarと会った際に提案されたと証言した。 【中略】 1:この会合【注釈:米国をイラク戦争に引きずり出すための、具体的にはニジェールの偽ウラン文書を捏造するための会合】にいた二人の米国人は Newsweekが我々に伝えていないことは、最初の会合に第3の米国人が出席していたことであり、そしてその男がその会合をお膳立てしたのであった。Michael Ledeenである。 【中略】 Rocco Martino、Michael Ledeen、Francesco Pazienza、Silvio BerlusconiおよびNicolo Pollariは全員がP2のメンバーである。P2はSISMIのエージェントを雇い入れてそれと並行して存在する諜報機関として活動してきていることがわかっている。PollariはAbu Omarの誘拐を承認した。この誘拐はRobert Ladyの協力を得たと言われている。ある未だ知られていないSISMIエージェントがMartinoと接触し、彼にニジェールの文書を渡すことのできる"lady"と接触させた。ニジェール大使館は盗みに入られた。この正体不明のSISMIエージェントは"lady"に、偽造した文書と一緒に本物のニジェールの書類を渡した。この"lady"はそれをMartinoに渡した。 【中略】 Michael Ledeenは国家安全保障ユダヤ人協会the Jewish Institute for National Security Affairs (JINSA)の発起人の一人である。彼はAIPACのシンクタンクであるthe American Enterprise Institute (AEI)に出入り自由の特権を持っている。彼はイランの民主連合の共同発起人である。1980年にさかのぼれば、CIAはLedeenをイスラエルの重要なエージェントと格付けしていたと言われる。LedeenはKarl Roveの主要な外交政策アドバイザーである。Ledeensの主な妄想はイランを倒すことであるように見える。 1972年に彼はUniversal Fascismという本を出した。その中で彼は「ファシストの目的の正しさ」について詳しく述べている。Universal Fascismの中で、Ledeenは最初に、ファシズムが「20世紀革命」であったこと、そして「人々は本当のこと、つまりファシズムにあこがれる」という彼の主張を打ち立てる。それはファシズム革命の青写真なのだ。 1980年に彼は、"BillyGate" 事件でSISMI とP2のFrancesco Pazienzaに協力した。【訳注:"BillyGate" 事件:70年代の終盤にジミー・カーターの弟ビリーが、自分の経営するビール会社の製品をリビアで売ろうとしてリビア政府から経済的な計らいを受けた、とされた事件で、イランの米国大使館人質事件とともにカーター再選の障害物になった。これには「ユダヤが仕掛けた」という説がある。】これは、最近イタリアの影の諜報機関に所属していることが明らかになったPazienzeと同一人物である。1985年にPazienzeは政治的な操作、偽造、そしてテロリストを匿ったことで有罪とされた。Ledeenは裁判資料の中でSISMIのエージェントとして身元を明らかにされている。 ペンタゴンは1980年代の半ばにLedeenの機密事項認可をSCI最高機密から普通の機密に格下げした。それはLedeenが禁輸品目をある外国に、イスラエルだと信じられているが、横流ししていることをFBIが調べ始めた後のことである。 2001年にLedeenは特別計画室と契約する仕事をするためにFeithに雇われた。 2001年12月12日に、米国大使SemblerはLedeenおよびイタリア国防長官Antonio Martinoと私的に昼食を共にした。LedeenとMartinoは、彼らが共に出席するGhorbanifarとの次の会合について話し合った。その秘密会合で二つのCIA「でっち上げ情報」の受け渡しが行われたことに深い関心を持ったSemblerは、それをすぐにホワイトハウスに、特にStephen Hadleyに知らせるように、CIAに連絡した。Hadley はLedeenとその協力者にGhorbanifarから離れるように命じた。しかしその命令は無視され、GhorbanifarとRhodeの間の連絡は2003年の2回目の会合に至るまで続いた。 【後略、引用終り】 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ このレディーンを中心に捏造された「ニジェール・イエローケーキ」だけではなく、数々の嘘がイラク戦争の「理由」とされたことは記憶に新しい。9・11でも先ごろのロンドン7・7でも、我々は嘘と隠蔽によって『新たな歴史』が作られる現場を目撃している。嘘と隠蔽による重大事件によって世界が揺り動かされる歴史は1898年のメイン号事件以来散々に繰り返されてきた。『公式の歴史』では「嘘は無かった」ことになっている。要はその『公式の歴史』が嘘によって編修されている、ということだろう。そこに巧妙に隠されているのはあるエリート集団の「世界支配へ向けての意図」である。 このマイケル・レディーンという男も嘘のために生まれてきたような奴とみえる。その知性は、嘘をつき新たな嘘で嘘を覆い隠すために、常に研ぎ澄まされている。これはネオコンやシオニスト中枢にいる連中の最大の特徴でもあろう。彼らの脳の中は虚数空間ならぬ「嘘数空間」であり本心から嘘をつく。嘘発見器などは効かないのではないか。 もちろんレディーン一人が《イスラエル》−《イタリア》−《米国(ネオコン・シオニスト)》を結び付ける人物であるはずが無い。彼も一人の「スター」に過ぎまい。しかしこのような人物を追うことによって、その背後にあるものの全体像を推測していくことができるはずである。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Ledeen マイケル・レディーン(1941年8月1日生まれ)はアメリカン・エンタープライズ研究所【訳注:正式名はThe American Enterprise Institute for Public Policy Research:ヘリティッジ・ファウンデーションとともにブッシュ政権を支えるネオ・ファシスト系シンクタンクで1943年に設立】の研究員である。彼の政治的理想、歴史観と哲学はイラク戦争に向かうブッシュ政権に影響を与えた。彼はNational ReviewとJewish World Reviewの編集人の一人であり、国家安全保障ユダヤ人協会The Jewish Institute for National Security Affairs (JINSA)の発起人、および相談役の一人でもある。同時に米国ネオコンサーヴァティヴと多くの人から見なされている。 レディーンはウイスコンシン大学で哲学博士号を取得、ドイツとイタリアのファシズム史を比較研究した。レディーンの初期の指導者の一人にドイツ生まれのジョージ・モッセがいた。もう一人イタリアの歴史家レンツォ・デ・フェリーチェが彼に影響を与えた。【訳注:George Mosse(1918-1999)とRenzo De Felice(1929-996)については後述】レディーンの政治思想は「集中化された国家権力に対する戦いの緊急性、および人間の自由を中心とすること」を強調する堅固にアンチ・ファシスト的なものであり、これがブッシュ政権に影響を与えたと言われる。 レディーンはロナルド・レーガン政権最大の外交スキャンダルの中で中心的な人物となった。いわゆるイランコントラ事件である。【訳注:これに関しては前述の記事にもあるし、また後で詳しく触れることになる。】彼はまたヨハネ・パウロ2世暗殺未遂事件がブルガリアの秘密諜報機関の陰謀であると語ったが、後に否定された。 中東地域での政権転換に関して、レディーンは2002年に国防顧問のスコウクラフトに反論して、「対テロ戦争」を主張した。2002年9月に「The War Against the Terror Masters」を出版。 レディーンは1972年に「ユニバーサル・ファシズム(Universal Fascism)」「国際ファシズムの理論と実践1928-1936(The Theory and Practice of the Fascist International, 1928-1936)」を出版したが、いまは絶版となっている。レディーンは革命的な「ファシスト運動」と失敗した「ファシズム政権」を区別し、イタリア・ファシズムを批判した。 2003年には、「我々はテロに対する戦争を中東の範囲を超えて西欧の中心部にまで持ち込まなければならない。そこでは中東と同様に、我々の最大の武器は政治的なものである。つまり我々に反対する国々にいる人々の自由への願望の提示である。」と書いた。 レディーンはイランの政権転覆を唱え、イランがイラクの抵抗勢力の背後にいてアル・ザルカウイのアルカイダ・ネットワークをも支えていると主張する。 ニジェール・イエローケーキ捏造【訳注:これは前述の投稿に詳しいので省略する】 【後略、概訳終り】 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ レディーンが属するアメリカン・エンタープライズ研究所はムッソリーニ政権が崩壊した1943年に設立された。このことは我々に重大な示唆を与えてくれる。ファシズム運動の中心がイタリアから米国に移ったように思えるのだ。以後この機関はヘリティッジ・ファウンデーションと共に米国による中南米侵略・支配の中枢機関となり、また「対テロ世界戦争」やユーラシア各国の軍事・非軍事クーデターを通して「世界の自由化・民主化」を推進する中心的な役割を果している。 それにしてもWikipediaもよく言うよ。『レディーンの政治思想は「集中化された国家権力に対する戦いの緊急性、および人間の自由を中心とすること」を強調する堅固にアンチ・ファシスト的なものであり、これがブッシュ政権に影響を与えたと言われる。』だってサ。嘘つき野郎の屁理屈をそのマンマ宣伝している。「張り付いた膏薬」でしかモノを考えないような人間はコロリと言わされるのだろうな。
ラルーシュ運動のサイトの一つであるExecutive Intelligence Reviewの中から、2003年7月11日に寄稿されたScott Thompsonによる『シナーキズム−ナチ/共産主義:マイケル・レディーンはイランの「政権転覆」を要求(’SYNARCHISM-NAZI/COMMUNISM' Michael Ledeen Demands `Regime Change' in Iran)』という論文の一部を翻訳しよう。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ Executive Intelligence Review 【前略、翻訳開始】 レディーンの「シナーキスト」のルーツ レディーンの生涯に最初の重要なインパクトを与えたのはドイツ系ユダヤ人移民のジョージ・モッセ(George Mosse)だった。彼はあのナチのリーダーであるヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)やヘルマン・ゲーリング(Herman Goering)と良い仲であった。モッセはゲーリングが彼の父親を「アーリアン」であるとするほどに親密であり、家族は法律が変わる15分前にドイツを離れることを許された。 ケンブリッジで学んだモッセは、ウイスコンシン大学でレディーンの教官となるのだが、ファシズムが、アンチ・セミティズムによる「悪用」であったのだが、科学的に研究されるべきであると彼に教えた。なぜなら西側諸国のガイスト(精神)が窒息しておりファシズムかナチズムを通してのみ再生させることができるから、というのである。レディーンはその大学の哲学科で働いているときに、ウラジミール・ゼエヴ・ジャボチンスキー(Vladimir Ze'ev Jabotinsky)と結びつくイスラエル諜報部関連の運動の支部――それはモッセの影響下にあった――に参加していたことで排斥された、と言われる。このジャボチンスキーはイスラエルの指導者ダヴィッド・ベン・グリオン(David Ben Gurion)が『ウラジミール・ヒトラー』と呼んだ男なのだ。 レディーンが後の大統領府対外諜報顧問委員会(Presidential Foreign Intelligence Advisory Board)メンバーであるデイヴィッド・アブシャイァ(David Abshire)に紹介されたのはモッセを通してであった。この男は戦略国際研究センター(CSIS;the Center for Strategic and International Studies)の創設者であり、レディーンを政治情報参謀として雇った。 しかしむしろもっと重要なレディーンの師匠はレンツォ・デ・フェリーチェ(Renzo de Felice)であった。彼は、最初の近代ファシストであるナポレオン・ボナパルトの登場を導いたフランスのジャコバン革命の擁護者であった。デ・フェリーチェは、『イルミナティと革命的神秘主義1789-1900(The Illuminati and Revolutionary Mysticism, 1789-1900)』を書いた際に、自分のファシズムを隠さなかった。「私のジャコバン主義とある種のファシズムとの間には共通の何かがある。・・・・文明の歴史の新たな面に向かって・・・・ファシズムは社会と個人の変革の達成を求めた。」 1966年と1967年のイタリアで研究したレディーンは、そこで文明戦争の「魔法使いたち」であるヴェネチアの寡頭政治支配者たちの子孫に会ったのだが、その後『普遍的ファシズム(Universal Fascism)(1972)』、Journal of Contemporary History(July 1969)の記事『イタリア・ファシズムと青年(Italian Fascism and Youth)』、アーヴィング・ルイス・ホロヴィッツ(Irving Louis Horowitz)編集のThe Use and Abuse of Social Scienceの記事『ファシストの社会政策(Fascist Social Policy)』を書き、そしてその他にレンツォ・デ・フェリーチェ著でレディーンによるインタビューを含む『ファシズム、その論理と実践への非公式な招待(Fascism, An Informal Introduction to Its Theory and Practice)』を出版した。 レディーンは拘束の無いジャコバン・スタイルのファシズムを好んだ。1900年代初期のガブリエレ・ダヌンツィオ(Gabrielle D'Annunzio)のそれのようなものである。1972年の『普遍的ファシズム』で、レディーンはベニト・ムッソリーニ(Benito Mussolini)を、あまりにも厳格である、として非難した。「彼は決してイタリア人に十分な信頼を置かずファシズムへの純真な参加を人々に許さなかった。」
レディーンは、過去20年を通して、いくつかの最も浅ましい犯罪に関与してきている。政府高官たちや諜報機関員たち、そして私的な「シナーキスト」ネットワークと共謀しながら。 イランゲート: レディーンは、単にイランに対する「調査計画」に関わっただけだ、と主張し続けた。これは「たまたま偶然」に「行動計画」に変更された、というわけである。しかしながらこの時期の間中、CIAの計画補佐官テオドール・シャックリィ(Theodor Shackley)とともにEATSCO【訳注:the Egyptian American Transport and Services Corporation】という企業を利用して、彼は関与し続けたのである。なおこのシャックリィはイラン・コントラ人脈のもう一人の中心人物なのだ。 イタリアのプロパガンダ2(P2)ロッジ: 「神殿の丘」謀略 【以上、訳出、終了】 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
そしてその人脈の中にユダヤ・ファシストの直系マイケル・レディーンが顔を見せる。 さてさて、イタリア半島には余程とんでもない妖怪が住み付いているようだ。前回「(3)『負け馬に賭けた』?」で、私は、ムッソリーニは『負け馬の皮』ではなかったのか、と申し上げた。脱いだ『皮』は投げ捨てて野良犬どもが食いちぎるに任せれば良い。『本体』はとうに先のほうを走っているのである。レディーンがファシズムを称揚してムッソリーニをけなしたのは、『本体』に属する者として当然のことだろう。ちょうどレオ・シュトラウスがヒトラーのナチズムをけなしてネオコン主義の元祖となったように、である。彼らも先を行く『本体』に属する者たちに違いあるまい。 ヒトラーも東条もしょせんは『本体』に投げ捨てられた『負け馬の皮』だが、それを未だに唸り声を上げながら噛み付き食いちぎるのに余念の無い人たちや、逆に後生大事に守ろうとする人たちが跡を絶たないようだ。どっちもご苦労さんなことで!
マイケル・レディーンの師匠の一人ジョージ・モッセは、『ファシズムが、アンチ・セミティズムによる「悪用」であったのだが、科学的に研究されるべきである』と彼に教えたようだが、要は「アンチ・セミティズムでなければ良い」というわけだ。このモッセの論調がジャボチンスキーの運動から直結していることは火を見るより明らかだろうし、その論法はレオ・シュトラウスの屁理屈と極めて類似している。 また、現在の欧州で「ホロコースト」を使って「アンチ・セミティスト」レッテル貼りキャンペーンを展開するシオニストどもが現代のイタリア・ネオファシストと肝胆相照らす仲であるのも、この観点からすれば当然と言える。 またもう一人の師匠レンツォ・デ・フェリーチェは第2次大戦後にイタリア共産党に属していたようだが(後に脱退)、彼がP2とどんな関係を持っていたのかは不明だ。しかし彼の視点は明らかに『本体』のものだろう。彼はファシズムの根源を啓蒙主義(Enlightenment:「(理性の?)光を当てること」の意味で、イルミナティIlluminatiを連想させる)以来の中産階級(ブルジョアジー)のイデオロギーであると見なし、中産階級の独自のパワーを発揮させる断固たる運動である、と考えていたようだ。 ひょっとすると同様の主張はフェリーチェよりもはるか以前から存在しており、ゼエヴ・ジャボチンスキーが惚れ込んだのもそのようなものではなかったのだろうか。これは憶測に過ぎないのだが、現在の欧米のネオファシストども――間違いなくシオニストやネオコンと同根(ラルーシュ流に言えば全部併せて「シナーキスト」となるか)――がたくらんでいる彼らなりの「革命(=ワンワールド・オーダーの実現)」について考えるときに、非常に示唆的である。ジャボチンスキーがその根っ子の一つになっていることが明らかだからである。
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【ユダヤ・ファシズムの系譜(5)イスラエルの真の開祖、ウラジミール・ヒトラー】 |
![]() ユダヤ・ファシズムの系譜(5)イスラエルの真の開祖、ウラジミール・ヒトラー
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この文章は2002年2月1日にジョージアSCVサイトに寄稿されたものだが、現在ではいくつかのイスラム系ウエッブ・サイトに転載されている。ここではAl-Bushraで保存されている文章を使用する。伝統保守主義者としてのディーンの見解はともかく、冷静にシオニズムとジャボチンスキー、現代イスラエルと米国プロテスタントに関する事実関係を読み取っていただきたい。 なお、訳文中に(・・・j.d.)とあるのはジム・ディーン自身が引用文につけた感想である。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ http://www.al-bushra.org/zionism/dean.html Where Christian Zionism came from?
【前略】 AIPAC (American Israeli Political Action Committee)がクリスチャン・シオニストの誕生を助ける…'bringing in the sheep'...... by Jim Dean AIPACは現在ワシントンでのロビー活動で傑出した力量を持っている。(Jewish Power, J.J. Goldberg, p
13) 2001年の年末休暇の間、私は米国ユダヤ・ロビーの力に関する4つの重要な本を買った。すべて何年にもわたって資料を調べ多くの重要人物を取材してきた私の友人のユダヤ人によって書かれたものである。 私は今日、「クリスチャン・シオニズムはどこから来たのか」についての話、その原因となる物事の実際の背後関係、そして聖地でのキリスト教徒絶滅を含む恐るべきモラルの悲劇を覆い隠すためにそれがどのように操作されているのか、について話をしてみたい。 ヨルダン川西岸とレバノンの侵略――そこでは一般市民への大量殺戮(ベイルートで主に砲撃によって2万人が殺された)が起こったのだが――の以前には、米国の左翼がイスラエルに対する主導的な援助者となっていた。彼らは何年間もユダヤ人の左翼活動家と一緒になって市民権闘争を行ってきた。中絶を支援し、米国市民と教育現場からあらゆるキリスト教のモラルを抹殺しながら、ラディカルなフェミニズムやゲイの権利運動などなどをやってきた。 あるAIPACのインサイダーの話によると、「そのもう一つの面は、パレスチナ問題を人権問題、つまり米国人の琴線に触れる事柄として(しかし十分ではないが j.d.)持ち上げることなのだ。我々はイスラエルが左翼に見捨てられてきたこと(レバノン侵略と蛮行を指す j.d.)を埋め合わせておきたい。だからこそ我々はよけいに‘ネオ・コンサーバティヴ’になっていくのだ。我々はイスラエルへの支援を右翼の側に――西岸地区で何が起こっているのかに関心を持たないがソビエト連合には重大な関心を持っている人々と共に(正確に言うと大部分のネオコンのことをいっているのだが j.d.)――広げていきたいと願っている。' [The Lobby...by Edward Tivnan, p 181] 「こうしてロビーは同時に、米国政府のイスラエルに対する伝統的な支援にほとんど差し障りの無い発言を行う極右勢力に新たな親イスラエル勢力を作ろうとし始めた。...[同書...p 181]. 言い換えると、彼らは極右勢力に手を結ぶつながりを探していたのだ。伝統的な米国の国益が「面倒さ」の要因にならないような方法で、である。これはまさに非常な愛国主義を装う極右に対する告発である。ユダヤ・ロビーの人々は彼らを少しの隠ぺい工作で協力者にできる間抜けなお人好しだと見ている。 この「極右」騙しの重要なカモたちは、「米国が生き残るための政治的な――そして精神的な――鍵としてイスラエルを支持する、何百万人もの米国プロテスタント原理主義者たち」であった。 [同書…p 181]. 私はこれが、パレスチナに残っているクリスチャンの絶滅に、そして道徳的伝統を保持してきたクリスチャンたちの信じられないほどの悲劇に、どのように関与しているのかを示す他の資料についてお話しよう。 メナチェム・ベギンが首相であったときに彼はJerry Falwellに、イスラエルに尽くした者に与えられる「栄誉ある」ジャボチンスキー賞を授与することで、クリスチャン・シオニストたちを釣った。私はこれを『イスラエル・テロリスト/アメリカ売国奴』賞と言い直したい。ジャボチンスキーさんについてちょっと見てみよう。彼は右翼リクード党の元祖であり、この党は現在の【訳注:2002年現在】国家首脳でイスラエル・テロリストのアリエル・シャロンの政党なのだ。 【訳注:Jerry Falwellはクリスチャン・シオニストを代表する牧師でADLのフォックスマンと大統領ブッシュが最も信頼をおく人物の一人。彼がジャボチンスキー賞を受けたのは1981年である。またFalwellは1977年にイスラエル政府からイスラエル訪問用に専用のジェット機をプレゼントされている。】 1925年までにジャボチンスキーは世界シオニスト機構の内部の一部として修正主義(レヴィジョニスト)運動を創設した。そしてパレスチナ信託統治地区のすべて【訳注:現在のイスラエルとヨルダン】の中でヨルダン川の両岸にまたがるユダヤ人国家をすぐさま要求し、また未だに萌芽状態にあったシオニスト組織に不屈の好戦性を求めた。 パレスチナのアラブ人と約束をしないように、そしてパレスチナの分かち合いをしないように主張したのは、元々がジャボチンスキーだったのだ。すべての離散ユダヤ人が流入されなければならないと、つまりあらゆるユダヤ「民族」が正当なエレツ・イスラエルの祖国に戻らねばならない、と言い張ったのはジャボチンスキーである。(Bruzonksy...Washington Post, 1980) そして、一部の米国人クリスチャン最高指導者たちがその名のもとに与えられる「栄誉ある」賞を受け取った、このジャボチンスキーという人物は、どのような種類の人間なのか。彼の言葉を聞いてみよう。 『愚かなのは隣人を信用する者である。隣人としての善良さと愛は愚かなものだろう。拳と不屈さによって、このような者たちにそれを悟らしめることを可能にする者たちのためにのみ、正義が存在する。・・・誰をも信用するな。常に構えておけ。常に棒を手に持っておけ。これが残忍な総力戦の中で生き残る唯一の道なのだ。』 『この世に国家と祖国よりも高い価値を持つものは無いのだ。』と彼は書いた。『明らかな特質を所有するあらゆる民族は一つの民族国家となろうとする。…自らの国家の中でのみ心地よさを感じるものだからである。』 ジャボチンスキーの最もお気に入りの2名の弟子は、一人は、シオニスト・テロリスト・グループのリーダーとして名声をはせ後にイスラエルの首相となったメナチェム・ベギンである。彼はかつてイルグン・グループを率いた。そしてもう一人がイツァーク・シャミールである。彼はレヒ・グループ(スターン・ギャング)を率いた。たとえばシャミールは、1944年11月に起こったレヒによる英国中東特使Moyne卿殺害、および1948年9月に起きたスゥエーデン人国連和平仲介者であるでFolke-Bernadotte伯爵暗殺で、中心的な役割を果した。ベギンのテロ・グループであるイルグンは、1946年にキング・デイヴィッド・ホテルを爆破して、100名を超える英国人、ユダヤ人、アラブ人を殺害した。アリエル・シャロンは、キブヤとサブラとシャティラの難民キャンプでの大虐殺で、このユダヤ・ファシストの伝統を引き継いでいる。アラブ人市民殺害でのその能力の誇示は、常にイスラエルの政治で優勢な道であり続けている。 ユダヤ・テロリズムは米国にユダヤ防衛連盟(JDL)のご親切なオフィスを通して上陸してきた。JDLは1968年にラビMeir Kahaneによって設立されたのである。Martin David Kahaneは1932年にニューヨークのブルックリンで生まれたのだが、ゴリゴリのシオニストであるゼエブ・ジャボチンスキーの「修正主義者(レヴィジョニスト)」活動を積極的に担っていた正統派ラビの長子であった。Kahaneは何でも屋の売国奴であり、彼ができることなら誰のためにでもけしからぬ仕事をやった。FBIの密告屋をやったこともあった。現在のJDL指導者の一人であるIrv Rubinは、米国のアラブ人たちを狙った爆弾テロを計画したかどで先月逮捕された。彼らに「目覚まし時計」を与えるためであった。あるアラブ系議員がそのターゲットになった。一方でIrv Rubinは、メディアに登場するときには「市民権運動活動家」とされている。これが、宗教指導者を含むあらゆるものを売りにかける米国流逆転の倫理のもう一つの例なのだ。 ユダヤ・ロビーはクリスチャン・シオニストが彼ら自身の道徳的尺度を表に出すことを大して気にもかけていない。彼らは牧師たちが投票に行くように語るときにすぐにそれに従う聴衆になるのである。('Power, Glory, and Politics,' TIME cover on TV preachers, Feb 17th, 1986) ユダヤ・ロビーの一部は、3千万人の福音主義クリスチャンの最終目標がユダヤ人の改宗であるため、彼らと行動を共にすることに困難を感じた。(イスラエルでそんなことを言ったら逮捕されるだろう。タリバンでもそうだが・・・j.d.)これらの福音主義クリスチャンたちが大多数のリベラルなユダヤ人たちの社会・政治目標と対立するばかりだったので、ナタン・パールムッターADLディレクターは次のように注意した。「神を褒め称えよ。そして武器を手渡せ。」(同書...p 182)『武器』とはもちろん、イスラエルが指定した敵に対する銃弾として放たれる愚かなクリスチャンのことである。ユダヤ人嫌いが手にする最高の賞は、彼らのためにその汚い仕事を行う協力的な非ユダヤ人のためにある。 以前のAIPACの調査主任であるレンニ・デイヴィスは、次のような笑えない皮肉を弄んだ。「当然だが、この連中は私をいらいらさせる。しかしイエスが丘を登るのを私が見るまでは、私はイスラエルが受け入れることのできるすべての友人たちのために動く。防衛組織(ADLとAJC)を国内情勢に気を遣うようにさせよ。」(同書...p 182) 我々がここに提示したことは両極端を使って中庸を保つ人たちを攻撃する、昔からあるトリックなのだ。一方の端はこの組織と手を結んでその支持を得ようとするユダヤ人グループであり、他方の端はそれと闘うユダヤ人グループである。そして彼らは伝統的なアメリカの価値を攻撃する。フィリップ・ウエイスは確信する。「ウエイスは市民権運動、フェミニズム、メディア、民衆的文化、そして法律と財政におけるユダヤ人の影響力の詳細を誇り高く述べる。彼はその短いお説教を次のように主張して終わる。『社会道徳的価値観に対する教会の影響力が非常に減少したことは文化的なパワーを手にしている世俗化したユダヤ人抜きでは起こり得なかっただろう。』」 (Philip Weiss's "Jews in Bush's Cabinet? Don't Hold Your Breath" (New York Observer, December 22, 2001) だからJerry Falwellよ。そのジャボチンスキーのメダルを自慢げに身に付けているがよい。しかし覚えておくことだ。お前が、お前のシオニストの相棒、ジャボチンスキー、ベギン、シャミールとシャロンの犠牲者たちに、面と向かい合う日が来るだろう。そして私は彼らがそのメダルを受け入れるとは思わない。お前のクリスチャン・シオニストの支持者たちもそれを受け入れようとしないだろう。彼らが本当のことを学んだならば。お前は自分の神と自分の国と自分の支持者を辱めた。お前の魂に神のお慈悲があらんことを。 そしてもし良ければ・・・・お前にもっとふさわしい賞をプレゼントしてやろう。「タリバン・ジョン賞」だ。キリスト教の聖地とアメリカの伝統的価値を破壊した目覚ましい働きと、アメリカのキリスト教への裏切りに対してである。 ジム・ディーン
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 上の訳文中に出てくる『ジャボチンスキー賞』だが、1988年に反名誉毀損同盟(ADL)は、同名の賞を、かの「ナチ・ハンター」サイモン・ヴィセンタールに授与した。『世界がホロコーストを決して忘れないことを確実にさせた勇気あるユダヤの指導力』によってである。受賞に臨んだヴィセンタールはジャボチンスキーを「正しいと思う自らの道を進んだ闘士」と褒め称えた。先日この男が死んだときに盛大に追悼の文句を書いていた者たちは、このことを知っているのだろうか? またクリスチャン・シオニストのリーダーJerry FalwellがSDLからこの賞を受け取ったのが1981年、つまりイスラエルがイラクの核施設を爆撃し、またレーガン=ブッシュ(父)政権が始まった年であることにも注目すべきであろう。その前のカーターを追い落とすために、イスラエルが、前回お知らせしたマイケル・レディーンやイラン内部のイスラエル内通者を通して工作した可能性がある。そしてこの辺りから米国中枢が彼らに乗っ取られていったと思われる。
その中のPart 3 ? The Crimes of the fascist Jabotinskyites の中から、Today's Likud Is The Party of Fascist Vladimir Jabotinskyという記事をご紹介しよう。ただしこれも長い記事なので、その一部だけを和訳してお伝えする。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ http://www.cecaust.com.au/main.asp?sub=culture/jewish&id=p3/article2.htm
【前略】 シャロンは、彼に先立つリクードの首相たち――メナチェム・ベギン、イツァーク・シャミール、そしてベンジャミン・ネタニヤフ――と同様に、ウラジミール・ジャボチンスキーの人種主義と反人間的な観点を真に受け継ぐ者である。イスラエルの初代首相であるベン・グリオンはジャボチンスキーを「ウラジミール・ヒトラー」と呼んだ。これらのリクード党出身の首相はみな、まとめて「ジャボチンスキーのプリンスたち」と言われるのだが、そろいもそろってユダヤ主義の普遍的な観点に対する拒絶を共有している。モーゼの最初の本である創世記にある神から出た次の言葉に対する拒絶である。「我々の姿で人間を作ろう。我々の似姿によって。」つまり、すべての男性と女性は創造者の似姿として作られている、ということである。 この観点はもう一人のジャボチンスキー支持者にも共有された。後のラビ・メイァ・カハネである。彼はテロリスト組織のユダヤ防衛連盟(JDL)の創始者であり、その今日の追随者はKachとKahane Chaiのメンバーである。これらは米国政府がテロ組織としてリストに載せているもので、彼らの多くは最近、パレスチナの女学校を爆破する計画を立てた罪でイスラエルで逮捕された。 メイァ・カハネの父親は米国におけるウラジミール・ジャボチンスキーのための資金調達係だった。若いころのカハネは、JDLを創設しイスラエルでそれに続く活動を行うに際して、ジャボチンスキーの持ったユダヤ人の優越性の思想を採用した。彼はこう書いた。「我々は異なっている。我々は選ばれた民だ。そして特別な民だ。純粋性と神聖さによって選ばれたのだ。もしあるユダヤ人に他と本質的に違う何かが無いとしたら、彼がユダヤ人である理由など何も無い。そうだ。我々は紳士たちと同じではない。我々は違う。我々の方が上なのだ。」 1972年のパンフレットでカハネは書いた。「アラブ人たちはこの地に属する者ではない。彼らは立ち去らねばならない。」1977年にクネセット(イスラエル国会)に立候補する一方で、彼は「我々のアラブ人追放計画」や、もし「ユダヤ人が何万もの空になったアラブ人の家にすむならば」それは「イスラエル経済への巨大な貢献」を為すだろう、という発言を行った。1985年のクネセットへの再選キャンペーンで、彼はがなり立てた。「こいつらアラブの獣ども、このゴキブリどもの魂など、誰一人理解できない。我々はヤツラの喉を切り裂くかあるいは放り出すだろう。私はただあなた方が考えていることを語っているだけなのだ。この2年内に、やつらはラジオのスイッチを入れてそしてカハネが国防長官になったと聞くだろう。それでやつらは私のところにやってきて私の足をなめるだろう。そうして私は憐みを垂れ、やつらが立ち去ることを許すだろう。立ち去らない者は誰であろうと皆殺しにされることだろう。」 【後略、訳出終り】 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ シオニストの本音はこのメイァ・カハネの言葉の中に十分に読み取れる。これはヒトラーの言葉ではない。シオニスト・ファシストの本性なのだ。そして多かれ少なかれ歴史的にイスラエルが実行してきたことである。 なお文中のKachとKahane Chaiはイスラエルのテロリスト・グループで、数多くのパレスチナ人を殺害してきた。1994年に起きたヘブロンのモスクで29名のパレスチナ人をマシンガンで殺害したゴールドシュタインはKachの関係者と言われる。また2002年に東エルサレムにある女学校と病院の爆破未遂事件でKachのメンバーが逮捕されたが、この事件の本当の首謀者は彼らと無関係の他のユダヤ・テロ組織だ、という説もある。いずれにせよイスラエル当局としては「反テロ戦争」を進めている以上、コントロールの効かない「民間テロ組織」の動きは抑えておかねばなるまい。またそうしないと、イスラエル最大の武器の一つである「ホロコースト」が使いづらくなるだろう。
米国だけではない。エルンスト・ツンデルをドイツに強制連行させミシェル・チョスドウスキーを「ホロコースト否定」で告発したカナダのブナイ・ブリスは、ジャボチンスキー・メモリアル・イベントを毎年各地で行っている。
不幸なことにイスラエルという国を作り実質的に運営し拡大させてきたのは、「社会主義者」ではなくファシストたちだったのである。以前に申し上げたように、レンニ・ブレンナーなどのユダヤ左翼知識人が持つ「ジャボチンスキーがムッソリーニという負け馬に賭けた」などという認識は、致命的に誤っているのだ。 イスラエルには、ジャボチンスキーが創設したベタールと彼の運動の延長であるリクード党、彼が創設に尽力したハガナーとイルグンの流れを汲むイスラエル国防軍のほかに、ジャボチンスキー基金、ジャボチンスキー研究所、ジャボチンスキー博物館などもあり、ヘルツルの丘には彼の墓がある。そして何よりもイスラエルという国家そのものが、このファシストの最大の遺産であろう。 現在イスラエルでは、ジャボチンスキーを「ファシスト」と呼んでムッソリーニやヒトラーとの関係を取り沙汰すことはタブーであるようだ。ブナイ・ブリスは彼のことを「修正主義者(レヴィジョニスト)」ではなく「シオニスト・ナショナリスト(Zionist nationalist)」と呼んでいる。イスラエルは紛れも無く、このユダヤ・ファシストを「開祖」として認知しているのである。
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(私論.私見)
影の独裁者 第一部
この国の大物上院議員につくユダヤ人秘書官は、極秘インタビューの中でこう言った。
『アメリカ国民が奮起して、この国からユダヤ人を追い出さないのは驚くべきことだ』
ユダヤ人、ハロルド・ウォーレス・ローゼンタールはユダヤ人が重要な国家計画を全て支配していると認めた上でこう言った。
『我々ユダヤ人は、キリスト教アメリカ国民がたやすく我々の手に落ちてきたことにいつも驚かせられる。原住アメリカ国民がフルシチョフによって滅ぼされるのを待っている間、我々は全ての支配に服従するよう彼らに教えてきた』
誰にも気づかれずに国家を乗っ取ることができたのはどうしてかと尋ねると、ローゼンタールは報道機関の絶対的支配が勝利の原因だと答えた。彼は全ての報道をユダヤ人が支配していることを自慢した。手を加えられたニュースの受け入れを断った新聞社は、どこも広告を引き上げられるため、彼らに従ってきた。これがうまくいかないと、ユダヤ人は紙とインクの供給を止めさせる。
『それはいとも簡単なことだ』と彼は言った。
政府の役人について尋ねた時、過去三十年間、誰もユダヤ人の承諾なしに政治権力を握った者はいない、とローゼンタールは言った。
『(フランクリン)ルーズベルトが我々の手先となった1932年以降、アメリカ国民は一度も大統領を選んだことがない。つまり、ルーズベルト以降、すべての大統領は我々の手先だった』
ジョージ・ウォーレスについての議論で、今日、ウォーレスが立っている視点を心にとめておいた方がいいとローゼンタールは笑みを浮かべて言った。合衆国の外交政策の話になると、インタビューの極秘事項はほとんど話がそらされた。キッシンジャーの外交政策の全貌を見抜けなかったアメリカ国民の愚かさを彼は軽蔑と嘲笑であざ笑った。
『それは初めから終わりまでシオニスト共産主義政策である。だが、国民はこのユダヤ人政策がアメリカ国の利益になると思っている』
彼はユダヤ人の外交の例として「緊張緩和」とアンゴラのことをあげた。アメリカ国民の騙されやすい性質は彼には軽蔑でしかなかった。
インタビューの質疑は、ほとんどすべての分野に渡って続いた。
『我々ユダヤ人はアメリカ国民に対し、次から次へと問題を重ねてきたし、混乱勢力として問題の両面を助長させている。だから国民は問題から目が離せなくなり、全ての出来事の背後にある人物を見失う。我々ユダヤ人は猫が鼠を弄ぶようにアメリカ国民を弄ぶ。』
その会話は何時間も遅くまで続いた。アメリカは今、計算された恐怖時代に入っていると、人は思うかもしれない。ユダヤ人の企みは全ての異人種を互いに戦わせることである。ローゼンタールは冷淡にもこう言った。
『我々の世界制覇の日が来るまで、大衆の血は流れ続けるだろう』
○これは私たちに何を言わんとしているのか?
この長いインタビューが記録された時、ハロルド・ウォーレス・ローゼンタールは、ニューヨークの上院議員、ヤコブ・K・ジャビッツの秘書官で、29歳であった。彼は1976年8月12日、トルコのイスタンブールでイスラエル旅客機ハイジャック未遂事件で亡くなった。
ローゼンタールが「あまりにべらべら喋り過ぎた」事は明らかであらう。何故ならハイジャック未遂事件で四人の死者と三十人の負傷者が出たが、でたらめに打たれた一発の弾で亡くなったわけではないからだ。その時入手された報告書を読むと、この事件に巻き込まれた全乗客の中でローゼンタールが致命傷を負っていたのは驚きであり、奇妙にも思える。この極秘インタビューを行なった私、ウォルター・ホワイトはたくさんの調査と取材から今こう断言できる。ハロルド・ローゼンタールはハイジャックのように見せかけられ、間違いなくイスタンブール空港で殺されたのだ。恐らく彼自身の民族の手によって 。
私たちはこの悲劇を十分被ったローゼンタール家の人々は勿論、誰も傷つけることを望まなかった。私たちはフィラデルフィアにいる彼の両親とカリフォルニア北部の大学に在席中の弟、マーク・デイヴィッド・ローゼンタールと連絡を取った。実際、ワシントンの彼の友人たちがハロルド・W・ローゼンタールの名前で記念基金を作ったと教えてくれたのはその弟だった。彼は私たちに『国際関係ハロルド・W・ローゼンタール奨学金』のコピーを送ってくれた。問い合わせ先は、郵便番号20006、ワシントン、N・W通り18番地818号、アメリカユダヤ人委員会ワシントン支部である。それは人名事典にも載っているし、その名誉会長はウォルター・F・モンデール副大統領とヤコブ・K・ジャビッツ上院議員である。
○ユダヤのシオニズムと反セム主義
ローゼンタールに彼がシオニストであるか尋ねると、こう答えた。
『それはいい質問だ。その問題の根底にはシオニストの伝統的概念「アリヤ」がある。それはヘブライ語で「集合して」とか、ディアスポラ(離散した)ユダヤ人の故郷パレスチナへの帰還という意味がある。イスラエル建国1948年以来、アリヤはイスラエル政府の最重要基本政策の一つになった』
アリヤとは何か? その綴りを教えて欲しいと頼んだ。彼がそれについて何を行なったか、また、アリヤの実際の意味に関して理解しておく必要があった。それに対してローゼンタールは言った。
『それはパレスチナへの物理的永住だ。決して単なる訪問ではない。』
私たちはシオニズムとは何かと尋ねた。私はユダヤ人によるその定義を聞いたことがある。彼らはパレスチナに永住することからイスラエルを経済的、精神的に支援することまで、あらゆることを含むと定義している。そう尋ねるとローゼンタールは答えた。
『我々の最初の指導者、デイビッド・ベングリオン首相は「シオンへの帰還」なしのシオニズムは欺瞞であると言った。在アメリカユダヤ人の多くはイスラエルに永住帰国しない。定義上、すべてのユダヤ人はシオニストであるという者もいれば、ユダヤ人でも活動的シオニスト団体に会費を納めない限りシオニストではないという者もいる。定義はユダヤの故国が現実となってから、至る所であれこれと変わってきた。』
毎年、税金の掛からない何百万ものアメリカドルがイスラエルに送金されているが、私たち、真のアメリカ国民はこのことを快く思わない。そういうとローゼンタールは答えた。
『アメリカ土着のワシントンの政治家たちは騙され易い。彼らのほとんどは大して頭が良くない。強力なユダヤ人圧力団体が何年も前からこの慣行に影響を及ぼしてきたし、それを止められるほど強い政治家はいなかった。その金の幾らかはアメリカに戻され、シオニスト宣伝機関の活動費用に使われる。その多くはブナイ・ブリス、ユダヤ人組織委員会、それから世界ユダヤ人会議を通じて流される。ユダヤ局(ジューイッシュ・エージェンシー)は資金の綱だ。ブナイ・ブリス各支部の、いわば本体だ。アメリカドルをイスラエルに無税で送金することは悪くない。我々がそれをうまくやるほど十分賢ければ。この話はしばらくお預けにしよう。お前はあまりにうるさく質問するなぁ。どうもユダヤ人が嫌いなようだ。どうして我々のことが嫌いなんだ?』
ローゼンタールさん、私は誰も嫌いではないですよ。嫌いなのはユダヤ人が私たちに対してしていることと、取り分けキリスト教に対してしている事柄についてです、と答えた。私はユダヤ人の詐欺、インチキ、狡さ、それに憎むべき不誠実さが嫌いだ。それだけで私が反セム主義であるというのですか?それなら私は反セム主義でしょう。
『反セム主義がセム主義の反対を意味しているわけではない。そうではない。それは我々ユダヤ人が中傷する時、効果的に使う表現だ。お前たちのような狂信者に汚名をきせるのに使う表現で、ユダヤ人に批判を浴びせるやつには誰にでも使う。我々はそれを敵に用いる』
私たちのキリスト教文化とキリストが正しく定めたアメリカの生き方に対し、ユダヤ人が自らの腐敗した影響を与えてきたことを私が軽蔑していることを見抜かれると、ローゼンタールは言った。
『キリストの時代、ユダヤ人は地上の物質的王国を求めていたが、キリストは彼らに精神的王国を与えた。彼らはこれを金では買えなかった。それでイエスを十字架に磔にした』
磔にしたとはどういう意味ですか?ユダヤ人がイエス・キリストを十字架に磔にしたとは歴史は教えていないのでは?そう尋ねると彼は答えた。
『いや、俺の推測によれば、磔にしたのはユダヤ人だ。粗探しするつもりはないが、もし2千年前なら、お前たちの民族は自分を不当に扱った男に対し、同じことをするだろう。イエスがユダヤ人を不当に扱ったように』
あなたはイエス・キリストを普通の人のように言っている。
『彼はただの人間だ。他の奴と同じように大地を歩いた人間だ。キリストが死から蘇り、地上に帰って弟子と一緒に訪れるという作り話は、でたらめの固まりだ。アラブ人をパレスチナから追い出したユダヤ人は精神的王国を目指すキリストの使命を否定するため、そういうことを行なった。いいか、お前たちのような民族はユダヤの帝国を作る指導者ではなく、目には目をに代って、もう一方の頬もというキリストと呼ばれる平和の宣教師をよこした。くだらん!我々はお前たちの民族なしで、お前たちの期待外れの救世主なしでこの世の帝国を作っているし、実際、作ってきた。』
私はあなたやあなたのような人たちこそがクリスマスからキリストを切り離そうとしていることが良く理解できる。私はあなたを気の毒に思う。すると即座に彼は言った。
『そんな馬鹿にした言葉を言うな。同情なんか無用だ。そんなものいるか!ユダヤ人の多くは我々がどのように生き、どのように計算しているか言う勇気がない。だが俺は誰からも何者によっても脅されない。俺はどこに進んでいるか知っている』
○政府と政治の支配
ユダヤ人が時々名前を変えるのはどうしてかと聞くと、彼は言った。
『ユダヤ人は世界で最も優秀な民族だから、名前を変えて得になれば、そうする。それだけのことだ。ユダヤ人は腐敗が蔓延したお前たちの社会に混じっている。そのユダヤ人が利益を上げている一方、バカなゴイどもは非ユダヤの名前を持つこれらのユダヤ人がユダヤであることに気づかない。俺はおまえたちが何を考えているか知っている。非ユダヤの名前を使っている政府のユダヤ人のことだ。まぁ、心配しても無駄だ。見通せる将来において、アメリカでは大統領権力はないのだから。見えない政府がその方面で力を握っている。』
あなたの知る所ではロシアのユダヤ人は本当に迫害されているのか、あるいは何らかの自由が与えられているのか?そう聞くと彼は答えた。
『世界中のほとんどのユダヤ人、恐らく90%以上が我々の民族に実際に起こっていることを知っている。我々はどんな所でも無比の連絡網を持っている。おまえたちの社会で平和を見い出せるヤツはバカと物知らずで誤解してるヤツと退化したヤツだけだ。そしておまえのようなヤツは、羊の皮を被って自分の罪を隠してる。おまえたちは偽善者だ。おまえの言い方、書き方はユダヤ人ではない。さっきの質問に答えよう。ロシアには二つの異なる政府が存在する。一つは見える政府、もう一つは見えない政府だ。見える政府はさまざまな国籍からなる。もう一方、見えない政府はユダヤ人だけからなる。強力なソ連の秘密警察は見えない政府から指令を受けている。ソ連の共産主義者七百万人に対し、およそ六百万人、その内の50%がユダヤ人で、残りの約50%が異教徒だ。その異教徒は頼りにならないが、ユダヤ人共産主義者は団結し、互いに信頼し合っている。ところが他の者は互いにスパイを付け合っている。だいたい五、六年ごとに秘密のユダヤ人委員会が党の浄化のために召集され、多くの者を入れ替える。』
どうしてなのか尋ねると、彼は言った。
『なぜなら彼らはユダヤの秘密政府についてあまりに多くのことを理解し始めるからだ。ロシアの共産主義者は「秘密集団権力(シークレット・グループ・オーダー)」というユダヤ人だけからなる組織を持っている。彼らが見える政府に直接関係するすべての事柄を支配している。全命令の出発点からテルアビブまで、共産主義中央部の秘密の移動はこの組織が責任を持っている。』
私たちの政府と国連はこのことを知っているのかと尋ねると、ローゼンタールは答えた。
『国連は共産世界の巨大強制収容所へのただの入り口だ。我々は国連をかなり巧く支配している。』
共産主義者は侵略するとなぜ中流階級、または教育を受けた人々とその家族全員を殺すのか聞くと、ローゼンタールは答えた。
『既存の政府の役人、その家族と親戚を破壊することは確立した規則だ。ただしユダヤ人は除いて。彼らは全警察官、州警察、軍人、その家族全員を殺害する。ユダヤ人だけは除いて。政府が国境で共産主義者を探し始める時、彼らは本当にそれらの区域でユダヤ人を見つけ出そうとしている。我々は捕まる程バカではない! 共産主義国の見えない支配者たちは自由貿易諸国の報道機関と政府を世界的に支配している。我々は新聞、雑誌、ラジオ、テレビを含むすべての報道機関を支配している。おまえたちが聞く音楽さえも!我々は発表された曲が出版元に届く前に検閲する。間もなく我々はおまえたちの思考をも完全に支配するだろう』
あなたの自慢の仕方、このことがもし本当なら、私たちの将来を考えるのは恐ろしい。キリスト教の将来も。それに対しローゼンタールは言った。
『ここアメリカは無理やり戦争状態にされた階級が出来、多くの者は一掃されるだろう。間違いなくおまえはその中に入っている。ユダヤ人に害はないだろう。俺はホラ話をしているのではない!事実を教えている。キリスト教信奉者が防御を始めても手後れだ。時は既にだいぶ経っている。ずっと大昔から我々は侵略者だったに違いない!それは間違いなく我々人生最大の目的の一つだ。我々こそ侵略者だ!』
彼の言葉は聡明である事を改めて思い出させたが、彼は自分が何について喋っていたか知らないと実感する。彼は言った。
『ユダヤ主義は他に類のない文化だ。世界のどんな所もそれに匹敵するものは何も、いかなるものも存在しない。おまえたちのいわゆるキリスト教はユダヤ主義の産物だ。ユダヤ主義の文化的、知的影響は全世界中に感じられる。そう、全文明を通じても。』
私たちが結果として黒人の驚異的人口増加の問題に直面しているかどうか彼に聞いてみた。すると彼は黒人が幾つかの意味を持ち得る「自分たちの目的」を達成するのに役立っていると言った。
私たちは市、郡、州の職場への黒人進出や、テレビでの黒人の活躍について議論した。また、黒人がユダヤ教に改宗したのは、なんと愚かなことだったかについても議論した。例えばサミー・デイヴィスのように。ローゼンタールは言った。
『それは無意味な事だ。我々は黒人がユダヤ人になれないことを知っているし、サミー・デイヴィスが今でも黒人であることを知っている。改宗したことが彼に利益をもたらしたということは有り得る。現実に彼は黒人のままだし、ユダヤ人ではない』
私はユダヤに関する自分の深い研究と、自分以上にユダヤの世界について研究を行なってきた者はほとんどいないと彼に言った。それから私の不愉快な発見について。ローゼンタールと話しているとユダヤ人には道徳感がないことを思い出させた。彼は言った。
『お金は道徳よりも大切だ。我々は何でも金で解決する。我々の民族は攻撃に逆らう武力がある所は永久に戦争準備状態であることをイスラエルで証明している。イスラエルは現在どんな突発的戦争でも勝利する。頭のいいキブツ集団農場者は、その小国を中東の夢の国に作り変えようとしている。それはまた、最終的に世界政府の総本部となるだろう』
私たちはウォーターゲート事件の悲劇と政府全体の腐敗について議論した。そして政府代表者たちは国民の対処にもっと開放的かつ誠実に行動すべきだと提案した。ローゼンタールは言った。
『それのどこがいいんだ?大衆が政府運営の一体何を知っているっていうんだ。大多数はバカで大マヌケだ!』
今言ったことを引き合いに出してもいいですかと聞くと。
『俺はおまえたちが何をしようと構わない。そう言ったはずだ。ほとんどのヤツは口に出す度胸がない。もしも我々がもっと公然と話せば、皆が互いをもっと良く理解するだろう。ユダヤ人と異教徒同士も。おまえたちの民族は度胸がない。我々はおまえたちの思想を作っている。我々はおまえたちにユダヤ人を公然と批判することを恐れさせる「罪悪感」を植え込んでいる』
○ユダヤ人の信仰と宗教
この啓発的な会話の静けさの中で、立て続けに出て来るその理解ある言葉は素人の口から出たものではないことは明らかだった。
いかにしてユダヤ人は他の人種の中でそう容易く承認を得るのか、ローゼンタールに聞いてみた。彼の答えは長く延々と続いた。
『大変早い時代から世界で生きて行きたいという願いにせき立てられ、ユダヤ人は人種的な見方からすべての注意をそらすための方法を探し始めた。宗教集団の思想を借用したり、利用したりすることよりもっと効果的かつ疑いのないものは何かと考えた。我々はアーリヤ人からこの考えを借りる他なかった。我々ユダヤ人はいかなる理想主義も持たない。だから我々自身の意識から発展したどんな宗教機関も決して持たなかった。このことは現世以外の命の信仰が我々とは相容れないことを意味する。実際、タルムードはこの世の豪華な生活の規則は定めているが、来世のために自分の準備をするという原理は定めていない。タルムードはユダヤ民族を維持するためと我々とゴイとの関係を定めた教えの選集である。我々の教えは道徳的問題と関係がない。むしろいかに「取る」かと関係がある』
『ユダヤ人の宗教的教えの中の道徳価値に関していうと、アーリヤ人には無気味に見える意味で我々がその種の宗教を持っていたことを示す徹底的な研究がある。我々は宗教的訓練が発展させるその種の成果の最高の見本である。我々の命はこの世限りであり、性格がその新しい信条の創始者と同じくらい異なるように、我々の精神はキリスト教の真の精神と同じくらい異なる。キリスト教の創始者はユダヤ人の評価と自分がユダヤ人の一人ではないという事実を公にした。我々がいつものように商売の利益の手段として宗教を利用していたから、彼はそうしなければならないと思うと我々を神殿から追い出した』
『その時代、我々に対するイエスの態度のために、我々はなんとかしてイエスを十字架に磔にした。しかし今のキリスト教徒は政界に入り、選挙に勝つためユダヤ人の票を請うことで自分たちの価値を落としている。彼らの中には自分の国の利益に反して政治的陰謀に荷担する者もいる』
『我々はユダヤ人が異質な民族ではないと納得させるのに成功している限り、「宗教団体」を構成する宗教代表者を除き、他の民族に混じって他の国々の中で生きてゆける。そのことは特異な性質ではあるが。実際の所、これは我々の虚偽の中でも最大のものだ』
『我々は国々に混じって寄生虫として生き続けるため、我々自身の特異な性質と生活習慣を隠さねばならない。多くの者がその国々に混じっているユダヤ人を本当のフランス人、イギリス人、イタリヤ人、ドイツ人だと信じているから、このやり方で我々の成功はこれまで続いてきた。彼らはたまたま、それらの国々に普及しているのと異なる宗教に属している。公務員は最小の歴史的意義しか持たないから、政府に関する分野は特に比較的容易に我々の悪名高い欺瞞を負わせることができる。それゆえ、我々ユダヤ人が異なる国家を形成し、単なる「懺悔」の信奉者ではないということに何の疑いもない。我々が支配する出版物を一目見せるだけで、知的水準の最も低い者にも十分な証拠を与えるはずである。』
(つづく)
さて、次にご紹介する重要文献は「ローゼンタール文書」と呼ばれるものです。
米国の保守派月刊誌「ウエスタン・フロント」の取締役兼編集長ウォルター・ホワイト・ジュニア氏が、ニューヨークの大物上院議員ヤコブ・K・ジャビッツの最高秘書官、ハロルド・ウォーレス・ローゼンタールに対しておこなったインタビューがもとになっています。
1976年におこなわれたこのインタビューの中で、ローゼンタールはユダヤ人が米国の政治とマスコミを完全に支配していること、そして間もなく彼らが全世界を完全に征服するだろうという衝撃的な内容を赤裸々に語っています。
当時のローゼンタールは29歳。エスタブリッシュメントの仲間入りをし、将来を有望視され、有頂天になっていたのかもしれません。個人的には、このインタビューを読んで、先の衆議院選で棚ボタ当選し、浮かれまくって余計なことまで話し、ヒンシュクを買った自民党の小泉チルドレン、杉村太蔵議員を思い浮かべてしまいました。(^^;)
調子に乗ってベラベラと話しすぎたためか、このインタビュー後まもなく、ローゼンタールはイスラエル旅客機ハイジャック未遂事件に巻き込まれ、不可解な死を遂げています。また、インタビューをおこなったウォルター・ホワイト・ジュニア氏も、この文書を公表した翌年、銃で打たれ殺害されました。
この文書で述べられていることが本当に真実なのかどうか私にはわかりませんが(真実は常に「藪の中」だと思っているので…)、少なくともローゼンタールが「真実」と認識していたことを語っているのは間違いないようです。中でもローゼンタールが語った「ユダヤ人が権力を手に入れてきた方法」は秀逸です。これを読んでいただければ、なにゆえ私が貨幣制度の変革を目指すのか?それがご理解いただけると思います。
尚、この「ローゼンタール文書」は二部構成になっていて、第一部は1977年に『影の独裁者』と題して出版されました。そして1992年に、第一部と、インタビューの残りの部分による第二部を足して、同名の『影の独裁者』とし、ホワイト氏の同僚チャールズ・A・ワイスマン氏により出版されています。
まずは、ワイスマン氏による序文から−
『序文』
この文書には大変暴露的で衝撃的な内容のインタビューが収められている。それは1976年、国を憂慮した愛国者、ウォルター・ホワイト・ジュニアによって行なわれたもので、取材の相手はハロルド・ローゼンタールという名のユダヤ人であった。ユダヤの事情に精通し、ワシントンでの政府活動にも携わるユダヤ人有力者、ローゼンタールは今日私たちが直面している主要な問題の原因とユダヤ人との関わりについてそのインタビューの中で述べている。
ローゼンタールは「ユダヤの見えない奥の世界」の側面を暴露し、ユダヤ人がキリスト教文明を破壊し、私たちの生活と政府の支配を密かに達成するのに利用してきた方法と戦略を明らかにした。その結果が私たちに対する「隠された独裁政治」であった。ちょうど独裁者が「謎のバビロン」を指す黙示録の赤い獣の体制で聖人たちと戦ったように。
小数のユダヤ人が一体どうやって多くの人々を奴隷化し、政府の圧倒的支配を得ることが出来たのか。しかも誰にも気づかれることなく。その答えはユダヤ人を指す不正な管理人のキリストの例え話の中で見つかるかもしれない。彼らは神の教えに背くやり方にも拘わらず、抜け目のない、ずる賢いやり方で世界に影響を及ぼすことができる。キリストはいった。
『この世の子等は、生まれた時から光の子等よりも賢い』(ルカによる福音書 第十六章八節)。
言い換えると、ユダヤ人は世俗的な心を持ち、神の子、キリスト教徒より賢い。ローゼンタールの言葉を読み進めば、今述べたことが真実であることに気づくだろう。この問題は既に知れ渡っている。そして彼らに打ち勝つために必要なことは『蛇の如く聰くあれ』とキリストが教えてくれたことである(マタイによる福音書 第十章十六節)。
今アメリカと世界にはキリスト教徒によって取り組まれるべき多くの政治的、経済的、道徳的、そして社会的問題がある。エドムンド・バークは述べた。
『悪魔が勝利する唯一の方法は、善良な人間に何もさせない事である』
正しい行動を取る前に、私たちはその問題に対する正しい理解が必要だ。
1992年6月 チャールズ・A・ワイスマン
『ユダヤの告白』第十一章からの抜粋・引用です。
第十一章 テロの黒幕ADL
PLOの幹部暗殺事件
ADLの実情調査部長で、英国情報部において訓練を受けた社会主義者でもあるシオニストのアーウィン・スウォールは、最近起こった少なくとも二件の極めて劇的な政治家暗殺事件に決定的な役割を果たしていたと考えられている。
実情調査部責任者の手になるADLの内部記録の一つによれば、一九八五年四月にPLO穏健派の指導者イッサム・サルタウィがポルトガルのリスボンで暗殺されたとき、スウォールはその目撃者であったという。サルタウィは、リスボンの高級ホテルのロビーを歩いていたところをパレスチナの対立派が送り込んだと思われる刺客に射殺されたのだとされた。サルタウィは、社会主義者インターナショナルの年次会議に出席するためにリスボンへ来ていた。彼は世界の社会主義者たちに向かって、PLOのヤッサー・アラファト議長への支持と、イスラエル軍に占領されている地域に独立国をつくりたいというパレスチナ人の願いに対する支援を切々と訴えたことがあった。
サルタウィが射殺されたとき、アーウィン・スウォールはそのホテルのロビーで座っていた。彼も同じ社会主義者インターナショナルの会議に出席するためリスボンへ来ていた。イスラエル政府に近い複数の情報源によると、ADLおよびイスラエルのモサドの代理人であるスウォールの役割は、社会主義者インターナショナルを常にイスラエル側につけておき、決してアラブ人やパレスチナ人を擁護する側に回らせないようにすることだったという。この彼の任務からみれば、「人権」や「民族自決」の立場から自らの主義主張を雄弁に説く穏健派パレスチナ人の存在は、イスラエルという国を血の海に引きずり込んでやると叫ぶ狂信的テロリストよりも、大きな脅威だった。
サルタウィの死は、PLOのアラファト議長にとっても、また社会主義者の支持を取り付けようとした彼らの狙いにとっても大きな痛手であった。しかしこの事件からほどなくしてヨルダン川西岸やガザ地区で暴動が起こり、近代的装備を誇るイスラエル軍隊が抵抗する武器を持たない若者に立ち向かったとき、世界の世論や社会主義者インターナショナルの支持は目に見えてイスラエルから離れていくことになった。
スウォールがサルタウィの暗殺に関係があったことを示す証拠は何一つ挙がってはいない。だが、その一方でそれから一年もたたないうちに、イスラエルとADLの利益を脅かした社会主義者インターナショナルのもう一人の人物の暗殺事件の隠蔽工作に、スウォールが個人的に関与していたという驚くべき証拠が明らかになった。
続いてスウェーデン首相、パルメ暗殺
一九八六年二月二十八日、スウェーデンのオロフ・パルメ首相は、夫人や小人数の警護員と一緒に通りを歩いているところを暗殺された。一九六三年の米国大統領ジョン・F・ケネディ暗殺事件以来の大規模な捜査にもかかわらず、今日に至るまで犯人は捕まっていない。
パルメの暗殺から何日かたって、アーウィン・スウォールとADLは、世界のマスコミを動員してパルメ殺害の罪を、アメリカの政治家でエコノミストでもあるリンドン・ラルーシュに押し付けようとした。ADLが十年にもわたって憎悪の対象とするラルーシュは、スウェーデンにも支部のあるヨーロッパ労働党と呼ばれる世界的政治運動の代表だった。パルメ暗殺の二、三年前、ラルーシュは、自分の提出した戦略弾道ミサイル防衛計画案がレーガン大統領によって大幅に採用されたことから、ソ連の怒りを買ったことがあった。彼の提案した計画は、戦略防衛構想(SDI)、別名「スター・ウォーズ構想」の名で広く知られるようになった。レーガン大統領がSDI計画を発表した一九八三年三月二十三日から何週間もたたないうちに、ソ連政府の出版物はADLのパンフレットや記者発表の内容そのままの誹謗中傷の文句を並べ立てて、ラルーシュを好戦主義者だと攻撃を始めた。
ソ連政府上層部の広報担当者たちは、ラルーシュがパルメ殺害の背後にいたとのADLの主張を支持した。その中にはソ連米国カナダ研究所長で科学アカデミー会員のゲオルギ・アルバトフや、当時のスウェーデン駐在ソ連大使で、KGBにあって長年の間専ら裏面での宣伝工作に従事してきたボリス・パンキン中将等もその中にいた。
今になってみれば、パルメ暗殺の背後にラルーシュやヨーロッパ労働党が関係していたと攻撃したスウォールやソ連高官は間違いなく、その主張が全くのでたらめで言いがかりであることを知りながらこうした行動をとっていた。パルメ殺害から三年の後、ストックホルムの主要日刊紙スヴェンスカ・ダグブラデット紙の中で、スウェーデン情報部の上級諜報部員は、スウェーデンにいた少なくとも一人のKGBスパイがパルメ暗殺の数時間前に、同国の社会主義の指導者が殺害されることを予知していたという事実を、確たる証拠を揃えて明らかにした。スウェーデン国家警察SAPOの中の秘密情報部の手で、そのスパイの自宅には盗聴マイクが仕掛けられていた。KGB職員がパルメ暗殺を事前に知っていたことは、彼とその妻の会話を録音したテープにより知ることができる。そのテープは直ちに、最初の段階でSAPOに盗聴装置を提供した米国CIAへ渡された。
パルメ暗殺の隠蔽工作の肝心な部分は、言いがかりであると知りながらラルーシュに罪をなるりつけようとしたことにある。政治的な理由で大物を殺害する場合は常に、殺害の計画と同時に、隠蔽工作をも計画しておかなければならない。
隠蔽工作の担当者は、誰が実際に殺害を実行したか、その詳細を必ずしも知っているわけではないが、暗殺者と隠蔽工作の担当者を採用するのは、ともに全体を仕切る同一人物である。スウォールとADL、それにソ連のKGB。これがスウェーデンの国家最高首脳で社会主義者インターナショナルの指導者、オロフ・パルメ暗殺の隠蔽の鍵を握っている。この点は、文字になって公にされているし、疑問の余地のない事実である。
パルメ殺害の動機
だが、依然はっきりしないのは、パルメ殺害の動機である。
時間の経過とともに、さらにはイラン・コントラ事件の鍵の解明が進むにつれて、一九八四年十一月のインディラ・ガンジー、インド首相の暗殺事件以来起こった重要な政治家の暗殺の動機が判明してきた。一方このことから、米国内外で勃発した数多くの他のテロ事件においてADLが果たした役割につき多くの事柄が明らかになってきた。
オロフ・パルメは殺された当時、社会主義者インターナショナル委員会、つまりパルメ委員会の議長だった。この委員会は、第三世界の紛争の調停をしたり、内戦や地域紛争、民族戦争や混乱によって破壊された地域の非武装化を進めたりすることをその目的としていた。一九八五年の終わり頃には、パルメは六年も続いていたイラン・イラク戦争の終結に向けて努力していた。
殺害される何ヵ月か前、パルメはスウェーデンの武器商人、カール・エリッヒ・シュミットの事務所の手入れをスウェーデンの警察当局に命じた。それは交戦国への武器販売を禁じた国際協定に違反し、イランのホメイニ陣営へ武器を提供した容疑によるものだった。シュミットの家宅捜査により入手した書類を調査するうちに、パルメはそのスウェーデン人がイスラエルのモサドおよびレーガン・ブッシュ政権内のプロジェクト・デモクラシーの組織と緊密な関係を結びながら仕事をしていたことを知った。さらに、東ドイツの悪名高い秘密警察シュタージも、シュミットによるスウェーデン製爆薬のイランへの密輸に加担していたことがわかった。その一方で東ドイツは当時、ソ連製の武器をニカラグアのコントラに大量に送り込むのにも協力していた。
ペルシャ湾や中米で東西が表向きには対立しながら、地域戦争を醸成するために裏ではなれ合いの関係にあるという皮肉な事実を、パルメは暴露しようとしていた。だが、彼は逆に暗殺されてしまった。パルメの口封じは、後にイラン・コントラ事件で明るみに出ることにはなる秘密を隠蔽するために、最初の段階で用いられた過激な手の一つだった。彼の口を封じることは、アメリカの政府高官、ソ連のKGB、そしてその仲間である東ドイツのシュタージのいずれにとっても願ってもない事柄だった。その時点では、ADLもイラン・コントラ工作の中に完全に組み込まれていた。ユダヤ人によるコントラ援助を進めるために、ADLはサンディニスタ政権が「反ユダヤ」政策を取っているなどというばかばかしい宣伝工作を行っていた。
パルメ暗殺に関する悪質な宣伝工作を進める上で、スウォールやADL幹部が果たした役割は、同じADLがイラン・コントラのために行った手口と完全に軸を一にしている。
アーウィン・スウォールはルイジアナ州ニューオーリンズで行ったインタビューの中で、シュミット事件が最初に発覚したとき彼はスウェーデンにおり、リンドン・ラルーシュに対し手を打つ件につきスウェーデンの親シオニスト社会主義者たちとすでに話合いに入っていて、パルメ暗殺から何時間もたたないうちに、彼自らが隠蔽工作に乗り出したことを明らかにしている。
オロフ・パルメの場合も、おそらくイッサム・サルタウィの場合でも、スウォールとADLの役割は、暗殺後のプロパガンダ活動に限られていた。それは虚偽の証拠のねつ造によって本当の暗殺者を逃亡させ、真の動機を隠蔽しようとするものだった。
その他の場合には、米国の内外を問わず、ADLは直接テロそのものに関係していた。ADLは特に、犯罪組織と悪質な情報組織、それに名うてのテロ組織の接点の役目を果たしてきた。
自作自演のカネ集め
ADLがテロリストによる暗殺計画に関与していたことが公にされた最初のかつ悪質この上ない事件は、一九六八年に起こったものである。それはスウォールがADLで汚いトリックを受け持つ実情調査部長に就任して一年後のことだった。そしてこの事件がきっかけとなり、 ADLは南北戦争後密かに手を結んでいたKKKと再び深い関係を持つことになった。
一九六八年六月三十日、ミシシッピー州メリディアンのKKKのメンバー二人が、地元のADL職員メイヤー・ダヴィドソンの自宅に爆弾を仕掛けようとしたところを、警察の待ち伏せに会い、その一人、地元の学校教師キャシー・アイスワースは射殺された。彼女の相棒、トーマス・A・テランツ三世は、警察とFBI捜査官によって七〇回以上撃たれたものの、奇跡的に生き延びた。その後の地元警察による捜査の内容は、ロサンゼルス・タイムズによって事細かく伝えられたが、それによると爆弾を仕掛ける計画も待ち伏せも、すべてはADLによってお膳立てされていたものであることがわかった。
ADLは、FBIと地元警察の情報関係者の少なくとも一人と連携プレーをしていた。事件を演出するために、ADLはそのおとり要員となった地元のKKKの指導者二人に少なくとも六万九千ドルの現金を手渡していた。その二人のうちの一人は、ADLに買収されたとき、三人の人権運動家を殺害したかどですでに有罪になっている人物だった。
アルトン・ウェイン・ロバーツは、一九六四年にミシシッピー州フィラデルフィアで、グッドマン、チェイニー、シュウェーナーの人権活動家三名の暗殺に加わったかどで、他の六人のKKKメンバーともども有罪の判決を受けていた。ダヴィドソン爆殺が企てられたとき、ロバーツは上訴の結果を待つべく保釈金を積んで釈放されていた。彼は終身刑を求刑されていた。
アルトン・ウェイン・ロバーツと彼の兄弟レイモンド・ロバーツには、人種問題が原因で当時起こったと思われるテロ事件のうち、少なくとも一〇件以上について主犯としての容疑がかかっている。このうち二件については、標的がユダヤ人だった。一九六七年九月十八日、ミシシッピー州ジャクソンのシナゴーグが爆破され、同年十一月二十一日には、同じジャクソン市の地元のラビの家が爆破された。そしてアインズウォースとタランツがメイヤー・ダヴィドソン宅を襲撃する一ヵ月前の一九六八年五月二十七日には、ミシシッピー州メリディアンのシナゴーグが爆弾によって大被害を受けた。
これら一連の爆破にADLが資金を出していたという証拠は公にはされていないが、一九六八年六月の第一週までに、ロバーツ兄弟がADLから現金を受け取り、KKKメンバーから二人を送ってメイヤー・ダヴィドソンの家を爆破するよう指令を受けていたことは、警察の調書でも新聞の報道でもはっきりしている。計画ではKKKのメンバー二人が地元のADLの指導者の家を爆破しようとしているところを警察とFBIが逮捕するということになっていた。そしてその後、この事件を大々的に報道し、人種差別の高まりや反ユダヤ主義を大きく取り上げることにより、地元のユダヤ人社会や南部全体のリベラル派の人たちからのADLへの献金を募るというものだった。そうすれば同情した人々から多額のカネが入ってくるという寸法だった。これはまさしく教科書通りの取り込み詐欺の手口で、ADLお得意のやり口だった。
目的のためには手段を選ばず
FBIにとっても、起こった事件を都合よく報道されるのは決して悪い話ではない。またロバーツ兄弟にしても、カネが懐に入るし、刑務所入りを逃れるのに地元や連邦当局の協力を得られるのだからこれは悪い話ではない。
警察の調書によると、ADLの中でこの件を指揮したのは、アドレフ・ボトニック、別名サム・ボトニックだった。彼はADLのルイジアナ支部ニューオーリンズ地区の責任者だった。この支部はミシシッピーにおけるADLの活動も管轄していた。
ボトニックは、ニューオーリンズの元FBI特殊捜査官故ガイ・バニスターとは長年の友人関係にあった。バニスターはまた、海軍情報部にも関係しており、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の陰謀に加わった中心人物の一人だったとの疑いもかけられている。ケネディ暗殺の中心人物とされた二人、犯人とされたリー・ハーヴィー・オズワルドと彼が心を許した友人のデイヴィッド・フェクーは、大統領暗殺のちょうどニ、三ヵ月前からニューオーリンズにあるバニスターの事務所にしばしば出入りしていたことが目撃されている。ケネディ暗殺の真相を究明するニューオーリンズ大陪審に出頭する前日にバニスターが死亡するまで、ボトニックはかれの事務所に絶えず顔を見せていたようである。
一九六八年の初め、サム・ボトニックはミシシッピー州メリディアンを訪ねた。その目的は地元のFBI特別捜査官フランク・ワッツおよびメリディアン警察の刑事ルーク・スカーボローと密かに会合を行うことにあった。その会合の席上、ボトニックはロバーツ兄弟にADLの資金六万九千ドルを渡すという名も知れぬ「仲介人」に対し、一万ドルを支払うことに合意したと言われる。ロバーツ兄弟は情報提供者となり、かつADLやFBI、それに地元警察のための工作員となって、KKKと警察の間に起こる銃撃戦の演出に手を貸すことになった。
ADL、FBI、地元刑事、二人のKKKテロリストの間の合意内容は、有名な捜査担当記者のジャック・ネルソンによる一九七〇年二月十三日付『ロサンゼルス・タイムズ』紙の一面記事の中で詳細が明らかにされている。ネルソンの記事は、メリディアン警察のスカーボロー刑事が記した一九六八年六月十日付報告書を裏付けとしている。
その警察の書類の一部は次のようになっている。
「私は、仲介人に会って、工作の準備が整ったことを告げた。彼はカネについて尋ねたので、われわれはすでにある人物[スカーボローは他のところでこの人物はボトニックだと述べている]に会ったところ、この人物はカネの方は大丈夫だと言っていたと彼に教えてやった。彼は、それからウェイン[アルトン・ウェイン・ロバーツのこと]を訪ね、われわれが事を始める準備が整ったことを告げた。ウェインは店へ行ってレイモンド[ロバーツのこと]にそのことを言いに行くと仲介人に語った。レイモンドは、次の仕事をメリディアンで実行するには三日前後かかるとわれわれに告げた」
「次の仕事が始まったら、われわれは三ヵ所の異なる場所に張り込まなければならないと彼[レイモンド]は語った。また一つの本物があるとするといつも、それに代わるものが二つ存在するものだとも言った」
『ロサンゼルス・タイムズ』のネルソンの記事によると、その翌日サム・ボトニックは、ニューオーリンズからメリディアンに運ばれる最初の分二万五千ドルを二十ドル紙幣で用意した。その現金はFBIの要員に渡され、その日の遅くにその要員はロバーツ兄弟に会った。
六月二十日、ロバーツ兄弟はFBIとADL側に返事を送り、ダヴィドソン宅に爆弾を仕掛けさせるためKKKの中から二名、ジョー・ダニー・ホーキンスとトーマス・テランツ三世を選んだことを伝えた。攻撃予定日は六月三十日。
六月二十九日の夜、アルトン・ウェイン・ロバーツは二人のKKKメンバーに最後の爆破命令を伝えた。最後の瞬間になって、キャシー・アイスワースがホーキンスの代わりに任命された。ホーキンスは計画から降りた。
六月三十日に日付が変わって間もなく、テランツとアイスワースはダヴィドソンの家まで車を走らせた。アイスワースが車の運転席で待っている間、ピストルで武装したテランツが家の方に爆弾を運んだ。その瞬間、十二人のメリディアンの警察官と少なくとも十人のFBI捜査官がKKKのメンバー二人に向かって銃撃を開始した。最初に銃を撃ったのが警官であったのかどうかは今日に至るまで議論があるが、テロリスト志願者の二人がまんまと罠にはまり、警官とFBIの待ち伏せによって文字通り抹殺されたというのは事実である。
KKKとも組むADL
自らの指導者の一人に対するテロを演出するのにADLがどういう役割を果たしたか、その詳細を『ロサンゼルス・タイムズ』が明らかにしたことでADL内にはかなりの混乱が生じたものの、爆破・待ち伏せ作戦そのものは万事計画通りに成功した。マスコミが人々を震え上がらせるような話を書き立てた結果、南部全体でADLの資金集めに弾みがついた。
アルトン・ウェイン・ロバーツは、ミシシッピー州フィラデルフィアにおける民権活動家三人の殺害の件につき、驚くほど短い禁固刑に処せられるだけで済んだ。彼は七年の禁固刑の判決を受けたが、三年で釈放された。彼とその兄弟のレイモンド・ロバーツは、FBIの目撃者連邦保護措置を受けられることになり、多額の給与を与えられている。複数の情報源によると、この二人はその後二十年間はADLの実情調査部のために働くおとり要員として活動し続けたという。
ロバーツ兄弟に見られるように、ADLはKKK子飼いのメンバーを雇うというだけにとどまらず、入獄しなければならないという恐怖心や経済的な困窮という事情をうまく利用したりすることがある。また、恐喝して要員を引張ってくるという昔ながらの手口を使うこともある。
人種差別反対はただの表看板
他から人を捜してくるというやり方のほか、ADLは自ら訓練した工作員を使うこともしばしばある。彼らの多くはユダヤ人で、KKKやそれに類する組織の中に密かにおとり要員として潜入している。 ジェームズ・ローゼンバーグ(別名ジミー・ミッチェルおよびジミー・アンダーソン)は、そうしたADL工作員の一人である。彼は長年にわたってKKKやクリスチャン防衛同盟(CDL)といった白人の人種差別団体の幹部だった。目撃者の証言によると、一九七〇年にローゼンバーグは、ニュージャージー州トレントンのKKKのメンバーを説得して、全米有色人種地位向上協会(NAACP)の地元本部を爆破させるところまで話を詰めたことがあった。もし爆破が実行されていたら、ニュージャージー州の州都は、人種暴動の場を化していたことだろう。
ニューヨーク州知事、州兵、それにイスラエル政府の間の特別のはからいで、ローゼンバーグは十二名のニューヨーク出身者と共に、イスラエル国防軍の軍事訓練を六ヶ月間受けた。ローゼンバーグに関して詳しい何人かの捜査官によると、レーガン政権時代に、ローゼンバーグは、イスラエルのモサドが雇った傭兵の一人として、グアテマラやエルサルバドルに何度か送り込まれた。
ある時、ローゼンバーグとADLの差し金で極右組織に潜入していたもう一人の男が、二人でミッド・タウンのアパートの屋上から自動拳銃で下を通る歩行者を狙っていたところを警察に逮捕され、世間を騒がせたことがあった。
ADLの介入により、その事件の真相は隠蔽され、ローゼンバーグとその共犯者は、ともに罪に問われることはなく事が済んだ。
悪魔からの知恵か
ADLから密かに送り込まれた別のおとりでローゼンバーグやスウォールと長年関係のある人物が、同様の事件を起こしたかどでニューヨークで裁判を待っている。その人物の名はモルデカイ・レヴィ。一九八九年八月十日、彼はニューヨーク市内のグリニッチ・ヴィレッジで実際に通りの群衆に向けて銃を発射、たまたまそこにいた人の足に弾が命中した。ニューヨーク市警テロ対策班の手で付近一帯には非常線が張られた。何年もの間レヴィと一緒に活動してきたFBI捜査官が、最終的にそのユダヤ人秘密工作員に対し武器を捨て警察に投降するように説得した。レヴィは殺人未遂を含む一連の重罪を犯したかどで起訴された。
その十年前、レヴィはこれとは違った形のテロ襲撃を試みて悪名を馳せたことがあった。一九七九年二月十六日、彼は独立ホールでKKKとアメリカ・ナチ党の集会を開く許可をもらうために、ジェームズ・ガットマンなる偽名を使ってペンシルバニア州フィラデルフィアの米国公園管理局事務所に申請を行った。独立ホールは合衆国の独立宣言が調印された国定記念物である。
集会の許可申請書によると、ガットマンは「白色人種による白人の大同団結を誇示し、世界の黒人やユダヤ人どもは腰抜けだということを誇示するための白人パワーの集会」を演出するつもりだった。 集会に使用される道具や装置一式を記載する申請書の別の欄に、彼は「鉤十字章、旗、ナチの制服、KKKの小道具一式・・・・十字架、『ヒトラーは正義なり − コミュニストのユダヤ人をガス室に送れ』と書いた鉤十字のプラカード」と書き入れた。申請書の至るところに「ガットマン」は自分のことをフランク・コリンズ率いるネオナチ・グループでシカゴに本部を置くアメリカ国民社会党の『コーディネーターのトップ』だと書いた。フィラデルフィアでこの集会が開かれる数年前、自分自身がユダヤ人の両親のもとで生まれたコリンズは、イリノイ州スコッキーというシカゴ郊外のユダヤ人が大勢住む地区ですっかり評判となったナチの行進を演出した。当時、その行進はADLかFBI、あるいはその双方が後援者になってやらせているものだとそれを調べた人たちの多くは考えた。
フィラデルフィアで、計画中の独立ホールでの集会への参加をKKKのフィラデルフィア支部やニュージャージー支部に呼びかけたときには、レヴィは「ジェームズ・フランク」なる名前を使った。当時、彼の仲間のADL工作員ジェームズ・ローゼンバーグはその近くのニュージャージー州トレントンで活躍しており、彼はガットマンの集会に参加するよう地元の白人グループを誘った。 レヴィが米国公園管理局から集会許可を得て二十四時間もたたないうちに、ナチ・KKK阻止連合なる特別委員会が急きょフィラデルフィア地域に結成された。このグループは、暴力をもって反対デモを行うというものだった。この連合の旗振り役は誰あろう、モルデカイ・レヴィ自身だった。
彼は本名を使ってテロ集団であるユダヤ防衛連盟(JDL)のフィラデルフィア本部から指揮を行い、この地域の左翼や戦闘的ユダヤ組織にことごとく接触した。
ユダヤ組織の公然たるテロ
この連合の打ち合わせの一つに出席した『フィラデルフィア・ジャーナル』紙の記者、ビル・テイラーによると、グループはまちがいなく流血沙汰を引き起こす準備をしていたという。
「ヤームルカや皮のジャンパーを着たいかつい顔つきの若者のグループが、静かにかつ熱心に銃について議論していた。三五七口径では大きすぎまいか、三八口径は役に立つだろうか、と」と彼は書いている。
一九七九年三月十六日に発表された同じ記事の中で、JDLニューヨーク支部の保安担当の責任者の発言が引用されている。 「われわれはニューヨーク から千人から二千人連れて行く。・・・・われわれの側にはなぜあの連中(ナチ)が一人残らず札付きかという六百万の理由がある」
KKK支持者と反KKKの間であわや再び流血事件の勃発かと思われたが、「ナチ」の集会の直前に地元の新聞記者がガットマンの正体を知るに及んで、衝突は回避された。
フィラデルフィアの新聞は「ナチ集会、仕掛人の正体はユダヤ人」と大見出しで書き立て、「ナチ集会許可、背後でJDLが仕組んだか?」と問いかけた。
マスコミの伝えるところでは、米国公園管理局は集会許可を取り消したという。ADLにとっては惜しかったとはいえ、この団体は懲りることなく、人種対立を煽動する同様の企てを他の機会に何度でも試みようとした。
ADLの手先のモルデカイ・レヴィや、JDLのもっと強硬なテロリストたちは、穏健なパレスチナ系米国人や、イスラエルやソ連が戦時中のナチ戦犯と非難している東欧出身の米国人を対象にした全面テロ攻勢を米国内で仕掛けようとした。
一九八五年秋と言えば、PLO幹部のイッサム・サルタウィの暗殺がアーウィン・スウォールによって目撃されてから何ヵ月もたたない頃だが、その年の秋には血なまぐさいテロの嵐が吹き、その一つの事件では、爆風によって二人が死亡、数人が負傷した。その事件はFBIのウィリアム・ウェブスター長官がいうところの「ユダヤ地下組織」の仕業によるものだった。
一連のテロ事件では、モルデカイ・レヴィが中心的な支援の役回りを果たしていた。
ユダヤ防衛連盟(JDL)のテロ続発
一九八五年八月十五日、ニュージャージー州パターソンのツチェリム・スーブゾコフの自宅が爆破された。彼はロシアのサーカシア地方からアメリカに移民した人物で、中東では米国情報部のために働いていた。この事件は朝の四時に自分の車が燃えているとの隣人からの電話で起こされた彼が、玄関のドアを開けた瞬間に爆発するように仕組まれたなかなか凝ったものだった。スーブゾコフは足を吹き飛ばされた。それから三週間後に近くの病院で息を引き取った。
スーブゾコフはADLと近い関係にある『ニューヨーク・タイムズ』紙の記者に、対戦中はナチだったとして非難されていた。この記者、ハワード・ブラムが非難の根拠としたのは、長年ADLの協力者であったエリザベス・ホルツマン議員が最初に手を入れ、その後ソ連がねつ造したものであることが判明した文書だった。
スーブゾコフはブラムと『ニューヨーク・タイムズ』紙を名誉毀損で訴えた。この辺のところは一冊の本になって大勢の人々に読まれている。彼が勝訴し、示談で決着したときから、彼に対する攻撃や言いがかりがエスカレートした。これらはユダヤの地下組織からのものだった。
爆弾テロが実行されるちょうど二、三日前、モルデカイ・レヴィがニュージャージー州パサイク近くのシナゴーグで話をして、スーブゾコフを危険な「ナチ」と言って攻撃した。レヴィは今は新設のユダヤ武闘組織、ユダヤ防衛機構(JDO)の代表だと自らを称しているが、スーブゾコフが爆弾で吹き飛ばされた後にレヴィは声明を発表して、それを快挙と「賞賛した」。
スーブゾコフへの爆弾襲撃が行われた翌日の一九八五年八月十六日、マサチューセッツ州ボストンの警察官が、アラブ系アメリカ人反差別委員会(AADC)のボストン事務所の外に置かれた同様の仕掛けパイプ爆弾を処理しようとして重傷を負った。爆弾が破裂した後、JDLを代表するという人物から事件は自分が起こしたとする電話があった。ツチェリム・スーブゾコフが息を引き取った八月七日、ニューヨーク、ロング・アイランドにあるエルマーズ・スプロギスの玄関に同じ種類の爆弾が置かれていた。スーブゾコフ同様、スプロギスも戦犯としてJDLの攻撃の対象になっていた。爆発によってスプロギスが負傷することはなかったが、彼の車が燃えているのを知らせるために彼の家の呼鈴を鳴らした何の関係もない通りがかりの人が重傷を負った。再度、JDLは警察とマスコミに犯行声明の電話をかけてきた。そしてこの時もやはり、犯行の何週間か前にADLのおとり要員モルデカイ・レヴィがニューヨーク、オールド・ウェストベリーのシナゴーグで記者会見をして、スプロギスに対し「ユダヤの正義」を思い知らせてやると約束していた。
長々と『ユダヤの告白』にお付き合いくださいまして、ありがとうございます。あまりに情報が多すぎて、読み飛ばされた方も多いと思います。(^^;)登場人物の人物像や社会的地位、それに時代背景等に詳しくないと、この文章で暴露されていることの重大さがわかりづらいかもしれませんが、実働部隊の「手口」を知るうえにおいて比類なき参考書であると思います。また、国際金融家に支援されている実働部隊の組織はADLのみならず、他にもたくさんあります。ぜひ時間をかけて読み解いていただければと思います。
ちなみに、この『ユダヤの告白』は既に絶版となっていて、入手困難なものとなっており、出版元のエノクさんにも在庫がないそうです。ここでは省略しましたが、最後に終章があり、タイトルは「アメリカ骨抜き作戦」となっています。以下に、その小見出しのみあげておきます。
・イスラエル独立の立役者
・アメリカに潜入するモサド
・スパイ工作の最適拠点
・ブナイ・ブリスをも食い荒らすモサド
・イスラエル政府のみへの通報
・アメリカに巣食う吸血鬼
・恩を仇で返す
・「私がモサドへの情報ソース」
・対米工作の極致、ポラード事件
・常に二重忠誠心を抱く人々
・白アリが食い荒らしていた
・ポラード事件をも仕組んだADL
『ユダヤの告白』第十章からの抜粋・引用です。
第十章 犯罪シンジケートへのイスラエル囲い込み
麻薬カルテル、メデリン
公にはその操縦母体であるADLと距離を保ちながら、ヴェスコは一九七九年には、北米史上最大の利益をもたらす麻薬ルートをつくり上げていた。
自動車泥棒とマリファナ密輸のかどでフロリダの刑務所に六年間服役したことがあるコロンビアのチンピラやくざカルロス・レーダー・リバスと組んで、彼はノーマンズ・ケイというバハマの島を購入した。その後三年間、この島はアメリカ向けコロンビア産コカインの主要中継点として利用された。密かにADLシンジケートのために働くヴェスコとアドルフ・ヒトラーに対する尊敬の念を公然と口にするコロンビアのチンピラやくざの共同事業というのは、どう見ても不自然なものであるが、これも戦略的背景があってこそ行われているのである。
コロンビアにあるレーダーの組織は、メデリン犯罪組織の中心的グループと密接な関係にあった。メデリン・ファミリーはエメラルドの密輸によって財を築いたが、当時はボリビアとペルーでのコカイン生産を大幅に増やすために資金を注ぎ込んでいた。このコカインはコロンビアにある秘密工場で精製され、人目につかない小さな空港からアメリカに運び込まれた。このヴェスコとレーダーの共同事業は、今日いわゆるメデリン・カルテルとして知られるものにまで成長した。
世間一般にはメデリン・カルテルというコロンビア新興勢力が、北米における従来の麻薬犯罪組織に取って代わったと言われているが、事実は全くその逆である。メイヤー・ランスキーは西半球一帯への麻薬の供給を目論んでいたが、カーター政権時代に銀行に対する規制が緩和された結果、その事業は大きく前進した。パナマ共和国と西インド諸島は一夜にしてダーティー・マネーの新たな逃避先となったが、ランスキーとADLはこういった一連の動きを背後から操るため事前にこの地に移ってきていた。彼らは苦労しながらもこうしたオフショアの資金洗浄の仕組みをつくり上げたおかげで、旧来の組織ではありながらメデリンや他の南米のコカイン・カルテルを牛耳ることができた。コロンビア人の方は有名になったが、ADLの大物たちをはじめとするランスキーの組織は大金を懐にすることに成功した。
カーター政権内のADL
ADLの支持者ソル・リノヴィッツはカーター政権のパナマ運河条約交渉特別担当官だった。交渉に際しリノヴィッツには、パナマの銀行にオフショアのダーティー・マネーを受け入れさせるという別の目的があった。彼は私欲のない人間などでは決してなかった。パナマ・ナショナル・バンクの代行機関であるマリーン・ミッドランド銀行の取締役として、リノヴィッツ自身は投機資金であるホット・マネーを操っていた。パナマ運河条約交渉の最中の一九七八年、マリーン・ミッドランド銀行は香港上海銀行に買収された。香港上海銀行は、一九世紀における中国でのアヘン戦争以来、世界でも最も悪名高い麻薬資金の洗浄機関である。
カストロと麻薬ビジネス
アメリカ政府捜査当局は、今日に至るまで、ロバート・ヴェスコがコカイン取引の中心人物であると考えている。一九八一年にアメリカ麻薬取締官の逮捕の手を避けるためコスタリカから逃亡して後、ヴェスコはついにキューバの独裁者フィデル・カストロからハバナに住む許可を獲得した。このカストロの行動は、キューバに一大カジノ帝国を築き上げるという野望を長年持ち続けていたメイヤー・ランスキーを非常に喜ばせたに違いない。ランスキーの長年の友であったファルゲンシオ・バチスタからカストロが政権を奪ったときに、彼のこの夢は打ち砕かれてしまっていたからである。
このキューバの独裁共産主義者の厚意に応える形で、ヴェスコはレーダーと共に築き上げた麻薬密輸ビジネスの仲間にカストロを加えた。カストロは特にアメリカ人の助けを必要としてはいなかった。一九六〇年代の初頭からすでに、彼はソ連の情報機関の手引により麻薬取引に手を染めていた。コロンビア、ペルー及び中米の共産ゲリラは、麻薬商人との取引により武器購入資金を調達することを知っていた。極左ゲリラはコカインとマリファナの栽培農場を警護したし、自分たちで実際に麻薬を栽培、精製することもあったし、またある場合には麻薬の原料を精製所へ輸送する麻薬商人に武装兵を提供することさえもあった。
しかし、ヴェスコはカリブ海経由の主要密輸ルートにキューバ人とニカラグア周辺にいた親キューバのサンディニスタを直接参加させた。ヴェスコの仲介によってキューバ人やニカラグア人は、メデリン・カルテルのための燃料補給をはじめとする輸送の中継の仕事を程なく請負うようになった。麻薬をアメリカに注ぎ込むことにより「ヤンキー」の文化的・精神的崩壊を早める一方で、彼らは何百万ドルもの米貨を手にしたのである。
中米をおおう麻薬汚染
一九八九年四月一七日、米国司法省はコカイン密輸の容疑により大陪審がロバート・ヴェスコを正式に起訴したと発表した。
起訴に関する新聞発表の一部は次の通りである。
「フロリダ中部地区担当のロバート・W・ジェンツマン検事は、メデリン・カルテルのメンバーによるコロンビアからアメリカへのコカイン密輸に関する捜査の結果、フロリダ州ジャクソンビル大陪審が新たに追加した二人の被告を起訴したと本日発表した。アメリカへのコカイン持込みを企てたことにより起訴されたのはロバート・リー・ヴェスコである。ヴェスコ(五十五歳)は現在キューバに住んでおり、一九七四年から一九八九年にかけ他の三十人の被告と共に行った共同謀議により起訴された。起訴状はヴェスコが以前メデリン・カルテルの首魁の一人であったカルロス・レーダーに対し、一九八四年末頃にコカインを積んだ飛行機のキューバ上空通過の便宜を図ったことを特に起訴理由として挙げている。レーダーは、一九八八年のフロリダ州ジャクソンビルにおいてコカインを密輸した事件で有罪判決を受け、現在終身刑で服役中である。もしヴェスコが有罪ということになれば、最高で終身刑と四百万ドルの罰金ということになる・・・・」
イラン・コントラの仲介者名簿
ワシントンではADLラテン・アメリカ部の幹部ラビ・モートン・ローゼンタールが、サンディニスタ政府の反ユダヤ主義について大統領に状況説明をするためにホワイト・ハウスに招かれた。ADLはニカラグアの反ユダヤのサンディニスタ政権を転覆するための秘密戦争ではレーガン政権に協力することを約束していた。メデリン・カルテルもまたレーガンの政権の支持を約束していたと言われている。反サンディニスタ活動の一環として、メデリン・カルテルの銀行はレーガン政権のこの秘密戦争のために操縦士、航空機と何百万ドルもの現金を密かに用意した。メイヤー・ランスキーと彼のADLの仲間たちは、ずっと前から、それが選挙キャンペーンであろうと戦争であろうと、すべての闘いにおいて賭けのリスクを回避するため常に双方に投資するやり方をとっていた。
皮肉にもケネス・ビアルキンの最大の顧客ロバート・ヴェスコが、その長年の友であるアラブの億万長者アドナン・カショギから買ったヨットの上でキューバの太陽を浴びてくつろいでいた時、レーガン政権の秘密チーム(オリバー・ノース海軍中佐と引退した空軍のリチャード・セコード将軍)がイランのアヤトラ・ホメイニとニカラグアのコントラ向けの武器の購入に要する数千万ドルの資金を捻出するために、ビアルキンはカショギに代わって、一連の秘密金融取引にあたっていた。手当てした資金の送金のために用意したスイスの秘密銀行口座の管理にはウィラード・ツッカーなるチューリッヒの弁護士があたっていた。ツッカーはウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務所のヨーロッパ代表であり、ヴェスコによるIOS社の買収に際してはビアルキンに最も協力した人物だった。
以上のようなことが起こっていた間、ケネス・ビアルキンは一方ではADLの全米委員会会長として精力的に働いていた。
アメリカン・エキスプレスの買収
米国大統領は次々と交替するし、戦争もいつかは終了する。しかし全米犯罪シンジケートをアメリカの政財界の中枢に送り込むというメイヤー・ランスキーの長年の目標は依然変わることはなかった。
一九八〇年代中頃にはADL会長ケネス・ビアルキンは、新たな段階に入ったランスキーの壮大な計画にすでに取り込まれていた。つまりビアルキンは地下活動から毎年あがる何十億ドルという利益をアメリカに還流させるための金融機構づくりのために働いていたのである。
ちょうどロバート・ヴェスコがランスキーの財産をカリブ海にあるオフショア・バンキング・ヘイブンに移すのに手を貸したように、ビアルキンは今度はアメリカ企業の大部分が全米犯罪シンジケートの後継者たちの手に落ちることになる一連の劇的な企業買収を画策した。
ウィルキー・ファー・アンド・ギャラガー法律事務所に籍を置きながら、ビアルキンはシェアソン・ローブ・ローズやエドモンド・サフラのサフラ・バンクをはじめとする何社かのウィルキー・ファーの顧客をアメリカン・エキスプレス・コーポレーション(アメックス)に合併させた。アメックスとシェアソン合併のすぐ後、連邦捜査当局はクレジット・カード業務とマーチャント・バンギング業務からなるこのコングロマリット企業が、何百万ドルもの小切手を組織犯罪集団に代わって振り出していたことを発見した。ペンシルベニア州のフィラデルフィアとフランスのパリにあるアメリカン・エキスプレスの事務所が米国税関とFBI捜査官による手入れを受け、最高幹部が起訴された。
麻薬ルートをたどる
しかしビアルキンの顧客と国際犯罪組織との間にもっと重大な関係があったことは、起訴が言い渡される前にもみ消されてしまった。この事件にはスイスやブラジルの銀行のみならずニューヨークにあるリパブリック・ナショナル・バンクを所有し、ビアルキンの顧客でありまたADLの主要な後援者でもあるエドモンド・サフラも絡んでいた。
一九八八年に、アメリカの麻薬取締局と税関の職員は、スイスのアメリカ大使館を捜査した結果チューリッヒに本拠を置くシャカーチ・トレーディング・カンパニーが中東とラテン・アメリカの麻薬取引組織網のために資金を洗浄していた事実をつかんだ。ベルンを拠点とする捜査官は、トルコ、ブルガリア経由でレバノンからチューリッヒにハシッシュとアヘンを持ち込むことで手にした金塊や現金が、その後どのようなルートを辿るか追跡した。チューリッヒでは、シャカーチから遣わされた運び屋が届いた現物を受け取った。金塊は売却され、その代金は別に受け取った現金とともにニューヨークにあるリパブリック・ナショナル・バンクの口座に振り込まれた。
同時に、カリフォルニア州ロサンゼルスに本部を置き、メデリン・カルテルの資金を密かに洗浄している会社の徹底的調査を目的とする「ポーラー・キャップ作戦」に従事する麻薬取締局の操作官が、コカインによる利益もロサンゼルスからリパブリック・ナショナル・バンクの同じ口座に振り込まれていることをつきとめた。見たところ二つの別々の麻薬密輸組織間に、確固としたつながりがあることが判明した。つまりともにシャカーチ・トレーディング・カンパニーという同じ資金洗浄機関を使っていたのである。
サフラが起訴されていたら
シャカーチ社の背後関係を調査中の在スイス・アメリカの捜査官は、同社の創立者であるモハメッド・シャカーチが、リパブリック・ナショナル・バンクのオーナーであるエドモンド・サフラとは古くからの友人であり、仕事仲間でもあることをつきとめた。捜査官はさらに、スイスの副大統領でかつ司法大臣でもあるエリザベス・コップの夫がシャカーチ・トレーディング・カンパニーの重役をしており、スイスとアメリカで起訴される前に同社の取締役を辞任するよう警告していた事実をつかんだ。その後に起こったスキャンダルの結果、コップ夫人は辞職した。モハメッド・シャカーチの二人の息子は洗浄行為に関与したかどで懲役刑に処せられた。だが、どういうわけかその理由は今でも謎に包まれたままであるが、起訴されると見られていたエドモンド・サフラは、結局起訴されなかった。
サフラが起訴されていたとすれば、ウォール街から国連プラザにあるADL本部までが大混乱に陥っていただろう。このシリア生まれのユダヤ人は、一時期アメックスのマーチャント・バンキング部門の筆頭に位置していたこともあるし、ヘンリー・キッシンジャーやビアルキンとおもにアメックスの取締役会にも名を連ねていた。
企業買収マニアたち
ケネス・ビアルキンが画策したアメックスによる大規模な買収は、その後に続くもっと大がかりな企業買収の単なる先駆にすぎなかった。こうした大規模な買収行為は、アメリカの名門大企業の一部をADLの息のかかった人たちの手に渡すものだった。
企業買収業務にもっと専念するべくビアルキンは一九八八年一月にウィルキー・ファー法律事務所を辞め、世界最大でかつおそらく最も悪辣な法律事務所スカデン・アープス・スレート・ミーガー・アンド・フロムに移った。スカデン・アープスが公表している資料によると、同法律事務所は現在千人以上の弁護士と二千人以上の事務職員、補助職員を抱え、アメリカ全土、極東およびヨーロッパに事務所を有している。一九八九年中に、同事務所が顧客に請求した報酬総額は四億ドルを抱えている。それほどの収益を手にしていながら、スカデン・アープスはこの一世紀最大とまでは言わずともこの十年間で最大のホワイト・カラー犯罪に関与してきた。
スカデン・アープスは企業買収を得意とする。この事務所の共同設立者である弁護士ジョセフ・フロムは「レバレッジド・バイアウト(LBO、主として借入金による買収)」「ホスタル・テイクオーバー(敵対的買収)」あるいは「コーポレート・レイド(企業乗取り)」といった名で呼ばれる技法を開発したことで広く知られている。スカデン・アープスの顧客中最大の買収マニアで一九八五年から一九八八年にかけてアメリカ企業を総なめにしたのは、ジャンク・ボンドを編み出したマイケル・ミルケンの会社ドレクセル・バーナム・ランベールなる証券会社であった。
ミルケンは彼と親しかった同僚のアイヴァン・ボウスキーと組んで、株式の買占め資金を高利回りの「ジャンク・ボンド」の発行で賄いながら、米国内企業を相手とする一連の劇的な敵対的企業買収を一九八五年に開始した。
従来の見方に立つなら、こうしたやり方はいつかは破綻せざるを得ないものだ。米国、カナダ全土の一連のデパートを買収したキャンポー・コーポレーションの場合も、借金した買収資金の利子を払うのに、買収した会社から入る現金では足りないという事態が起こった。
ほどなくして連邦捜査当局が、こうした企業買収がインサイダー情報に基づく株式買占めによって行われていることを突き止めた結果、ドレクセル・バーナム社、ミルケン、ボウスキーにとって事態は最悪のものとなった。彼らは、結局のところ買収した企業に全部ツケを回すことによって、株式の買占めで大きな利益を懐にすることができた。ボウスキー、ミルケンそしてドレクセル社のすべてが米国司法省により起訴された。
ドレクセルのジャンク・ボンド
しかしその間に、海外に蓄積した利益を「ジャンク・ボンド」のメカニズムを通してアメリカに還流させる見えざる仕組みが、かつてランスキーの組織のために金融面でこっそりと働いていた人たちにより考案された。一九八〇年代半ばから終わりにかけて企業乗取りが最も盛んだった頃、ジャンク・ボンドに投資された資金の約七割はドレクセル・バーナム・ランベールによるものだった。同社がどこからその資金を手に入れたかを尋ねる者はなかった。そしてドレクセルも同社が抱えるこうした特別の投資家の正体を明かすことはなかった。
ドレクセルのジャンク・ボンドの大手顧客は、ウィルキー・ファー事務所時代からのビアルキンの顧客で、バーニー・コーンフェルドにならって英国ロスチャイルドのパートナーとなったリライアンス・グループのサウル・スタインバーグ、前々からランスキーの組織との関係を疑われていたオハイオ州シンシナティに本拠を置く抵当権保証業者のカール・リンドナー、それにもう一人ずっと以前からランスキーとは仕事仲間だったビクター・ポズナーといった人たちであった。
ボウスキーとミルケンが連邦刑務所入りしたのに対し、乗取り策を練りインサイダー情報のやりとりをコントロールするという最高の立場にいたスカデン・アープス事務所の弁護士たちが起訴されることはなかった。
RJRナビスコ買収劇
ADLの会長ビアルキンはうまく立ち回ってきた。ADLといういわゆる福祉事業に携わる他に、彼はニューヨーク証券取引所理事会の法律顧問委員会の一員でもあった。また米国弁護士協会の会社・銀行・商法委員会の議長でもあった。またそれ以前は同弁護士協会の連邦規制証券委員会の議長であった。
レーガン政権時代には、彼は連邦政府の規制全体の研究と見直しを担当する大統領諮問委員会の委員に任命された。ビアルキンをこうした委員のメンバーにしたのがボイデン・グレイで、彼は当時ブッシュ副大統領の主席法律顧問だった。今日、グレイは大統領になったブッシュの主席法律顧問である。
グレイはR・J・レイノルズ・タバコ・カンパニーの富を引き継いだ人物である。この会社はナショナル・ビスケット・カンパニー(ナビスコ)と合併した後大きく成長した。ナビスコはADLが設立された頃から同団体と関係があった。一九八八年、このRJRナビスコは米国史上最大の企業買収の標的となった。最終的な買収金額は二百五十億ドルを超えた。スカデン・アープス法律事務所がコールバーグ・クラヴィス・ロバーツ社側の代理人として、この案件の一部始終に関与した。
スカデン・アープスにいる「友人」からのインサイダー情報で一儲けを企んだ内輪の人たちが手にした利益は、とてつもない額に上ったようだ。 RJRナビスコとクラヴィスが最初に接触して以来、最後の株式移動が完了するまで十四ヵ月かかったが、その間RJR株の値段は四十一ドルの安値から高値百八ドルまで三倍近い暴騰ぶりを見せたからである。
イスラエルの乗取り
米国情報部のイスラエル政治研究の専門家によると、RJRナビスコ買収から得た利益ばかりでなく、スカデン・アープスやドレクセル・バーナム、マイケル・ミルケン、アイヴァン・ボウスキーといった人たちが手がけたLBOで手に入った利益のかなりの部分が、イスラエルの次期対アラブ戦争時用の軍資金に充てられた。
このイスラエル担当の元情報部員によると、この不正資金はアリエル・シャロンを中心にした極めて好戦的なグループが一九八二年から密かに溜め込み始めたもので、今ではその額は二百五十億ドルを超えているという。その資金はおおむね非合法活動から手にしたものである。スカデン・アープス法律事務所がつくりあげたLBOによって手にした資金にはじまり、麻薬取引や武器の密輸、技術の盗用などもっと直接的な犯罪行為によって得た資金に至るまで、様々な不正資金からなっている。
このシャロンが後ろ盾になった自称「イスラエル・マフィア」も、実際のところは北米全国犯罪シンジケートに属する組織の一つだった。その頃には、この犯罪シンジケートは、ケネス・ビアルキン、エドガー・ブロンフマン、メシュラム・リクリス、リッチマン兄弟、エドモンド・サフラ、ヘンリー・キッシンジャーといったADL幹部たちの手で牛耳られていた。
リクリスはADLのランスキー信奉者たちによって悪漢ロバート・ヴェスコとADLの間のパイプ役に利用されたが、その時と同様一九七〇年代初頭には再び、ADLのパトロンたちからシャロン将軍のために仕事をするよう命じられた。シャロンは冷酷で、堕落しており、異常なまでの野心の持ち主だった。
イスラエルの王になれるのなら、悪魔とでも喜んで手を結ぶほどの人物だった。リクリスは資金面でシャロンを支えた。彼はシャロンのためにネゲブ砂漠にある農場を購入したが、この農場がイスラエルを完全に手中にする陰謀の本部になった。
リクリスは、一時期イギリス警察のスパイだったことから、ユダヤ地下組織からは命を狙われた時もあった。その彼がシャロンと関係するようになった時、その所属する企業の中で中心的な位置を占めるのは、ラピッド・アメリカ・コーポレーションという通信器材リースとニューヨークにある一連の高価なオフィス・ビルを所有する業務を行う会社であった。リクリスの側近の一人、アリエー・ジェンジャーがシャロン将軍とリクリスの間をとりもった。彼は一九七〇年代末におけるリクード党のメナヒム・ベギン内閣で、シャロンがイスラエル国防相になった時、イスラエルに呼ばれその副官として武器の輸出入一切を任せられることになった。
世界犯罪シンジケート本部に
メイヤー・ランスキー自身でないにしてもその後継者たちによって、シャロンはユダヤ・シンジケートによるイスラエル経済および同国政府機関乗取り工作の采配を命じられていた。
イスラエルをシンジケートの本拠地に仕立て上げるには、それを実行する戦士が必要であることをランスキーは知っていた。一九六〇年代後半、彼は長年の仕事仲間だったジョー(別名ドック)・ストラッチャーをイスラエルに送り込んだ。ストラッチャーの使命はユダヤ国家の中に永住し、メイヤー・ランスキー自身がイスラエルに移り住めるための道を拓くことだった。「帰還法」の下では、イスラエルへ移住したすべてのアメリカのユダヤ人は直ちにイスラエル市民となることができた。ストラッチャーはイスラエルの右派の有力政治家に、メイヤー・ランスキーは個人的にイスラエルに七億五千万ドル投資する用意があり、それでリゾート・ホテル、カジノその他レジャー施設からなる複合施設を建設すればこの国を「第二のリビエラ(フランスからイタリアにまたがる地中海岸にある風光明媚な避寒地)」に変えることができると説いて回った。
イスラエルにとって幸いなことに、国防軍とそれに属する情報部を中心とした愛国者グループがこのランスキーの申し出を拒んだ。彼らはランスキーが代理人を通してすでにイスラエルに入り込み、組織犯罪機構をつくり上げている十分な証拠を集め、その結果全米犯罪シンジケートの頭目がイスラエル市民権を取得するのを阻止した。一九七〇年、ランスキーは到着後まもなくイスラエルからの国外退去を命じられた。アメリカ政府はイスラエル政府に対し、米国人の引き渡しに協力しない限り、同国が喉から手が出るほど欲しがっているジェット戦闘機の提供を停止すると脅した。
イスラエルを世界の組織犯罪の本拠地にするというランスキーの願望は崩れたが、計画自体はその後も存続していた。彼にはすでに願望達成の目処はついていた。
全米犯罪シンジケートがイスラエルで目をつけたのは、ユダヤ・ギャングの有する密輸能力がイスラエルの独立戦争に決定的な役割を果たしていたという事実である。ランスキー・シンジケートの指導者たちは第二次世界大戦直後、パレスチナにユダヤ国家を建設するユダヤ地下闘争のために武器の密輸に手を貸したが、そのようなシンジケートの助けがなければ、イスラエル国家は存在していなかっただろう。
エルサレムの「億万長者会議」
イスラエルの元大蔵大臣で一九六八年に同国のオフショア銀行ネットワークをつくり上げたピンチャス・サピアは、エルサレムのいわゆる「億万長者会議」の発起人である。その会議の表向きの目的は、アメリカの裕福なユダヤ人に対し急速に発展しつつあったイスラエルのハイテク産業への投資を勧誘することだった。しかしその参加者のほとんど全員がメイヤー・ランスキーの仲間であった事実は、この組織の実態が何であったかを示している。
出席者の中には次のような人物がいた。ランスキーの仕事仲間として知られているルイス・ボイヤーとサム・ロスバーグの二人。かつてのユダヤ・ギャングの一人で、戦時中に行っていた金属のスクラップ事業をマテリアル・サービシーズ・コーポレーションなる一大企業にまで発展させたヘンリー・クラウン。ミシガン州デトロイトでウイスキーを密売していた禁酒法時代のパープル・ギャングの元頭目で、後にユナイテッド・フルーツ・カンパニーを乗取ったマックス・フィッシャー。かつてカナダのサム・ブロンフマン・ギャングとして知られていたブロンフマン・ファミリーの仕事仲間レイ・ウルフェ。イスラエルの武器密輸業者の大物で同国情報部モサドの最高幹部であるショール・アイゼンバーグ。イスラエル・ディスカウント・バンクの頭取でイスラエル・マフィアの影の支配者と広く考えられているラファエル・ルカナティ。そしてADLの最高幹部で、アメリカン・バンク・アンド・トラスト・カンパニー・オブ・ニューヨークの資金洗浄業務をアイゼンバーグと一緒に行っていたフィリップ・クラツニック。
海外の犯罪組織によるイスラエル経済乗取り計画には皮肉にも「プロジェクト・インデペンデンス(独立計画)」という新しい名が与えられた。
この会議の参加者が約束したイスラエル「投資」を一本にまとめるためにイスラエル・コーポレーションと呼ばれる国有企業が設立された。イスラエル・コーポレーションの銀行取引の面倒を見たのは、他ならぬタイバー・ローゼンバ−ムだった。彼はスイスを本拠とする国際信用銀行の頭取であり、かつてモサドの出先機関の責任者だった人物である。
パレスチナ人追放の理由
ランスキー一味はストラッチャーの指揮の下、エルサレムのシェラトン・ホテルにその活動拠点を置いた。そしてストラッチャーはすぐさま工作を開始し、シンジケートの資金をイスラエルの国家宗教党役員のハイム・バソックを通して同党に注ぎ込んだのをはじめ、ラビ・メナヒム・ポルシェの率いる入植促進組織アグダス・イスラエルにも注ぎ始めた。この国家宗教党とアグダス・イスラエルは、ともにメナヒム・ベギン率いる右派のヘルートの活動と非常に近い関係にあった。ランスキーの資金はグッシュ・エムニーム(イスラエルの戦闘的な宗教的極右組織)の活動にも投じられた。グッシュ・エムニームは、一九六七年の六日戦争でイスラエルが占領したヨルダン川西岸とガザ地区に不法なやり方でユダヤ人入植地を拡げようとしていた。
ランスキーの対イスラエル作戦は、次第にヨルダン川西岸とガザにおけるユダヤ人入植地拡大計画に収斂されるようになってきた。一九七七年にベギンのリクードが政権を獲得したとき、この計画は実施に移された。
アリエル・シャロン将軍は、彼の資金面での後援者であるメシュラム・リクリスの勧めでクネセット(イスラエル議会)に立候補するため一九七五年にイスラエル国防軍から離れた。ベギンの下で農業大臣に任命されるや、シャロンはその地位を利用してユダヤ人入植地の急拡大に向け直ちに活動を開始した。
この結果、一九八一年までには約三万人のユダヤ人が占領地へ移住したと推測される。
一九八一年時点では、シャロンは国防相に任命されていた。イスラエル軍の高官が語ったところによると、彼は国防相在職中にキプロスでソ連の軍高官と密かに接触を開始した。その目的は向こう十年間で約百五十万人に上るソ連在住ユダヤ人をイスラエルに移住させることについて交渉することだった。シャロンの計画(実はランスキーの本来の計画を基にしたもの)によれば、これら大量のユダヤ人は、ヨルダン川西岸とガザに入植することになっていた。この計画は「ランドスキャム(土地詐取)」と名付けられた。
ランドスキャム計画はアメリカのADLばかりか、ロンドンにおけるフリーメーソンの有力グループの一部からも熱狂的な支持を受けた。ロンドンのフリーメーソンは、シオニズムなる宗教を後援するスコティシュ・ライトの伝統を引き継いでいた。
「占領地併合会議」のメンバーたち
一九八二年初春のイスラエルによるレバノン侵攻の直前、この計画を実行に移すための一連の秘密会議が開催された。
最初の会議はアリエル・シャロンが所有するネゲブ砂漠の農場で行われた。先に述べた通りこの農場は、ADLの表面要因メシュラム・リクリスがシャロンのために買い与えたものである。この会議は極めて異例な顔ぶれからなり立っていた。目撃者の証言やマスコミの伝えるところによると、出席者は次の通りである。
☆ アリエル・シャロン
☆ ヘンリー・A・キッシンジャー。
当時においてはその私的国際コンサルティング会社、キッシンジャー・アソシエイツの社長。
☆ メジャー・ルイス・モーティマー・ブルームフィールド
ブロンフマン一家の利権を代表してこの会議に出席したモントリオールの弁護士。第二次世界大戦中は極秘の英国特殊工作部隊(SOE)のスパイで、戦後設立された北米におけるイギリスの情報工作用出先機関ブリティッシュ・アメリカン・カナディアン・コーポレーションのパートナー。彼は一九五〇年代後半にパーミンデックス(「パーマネント・インダストリアル・エクスポジション(常設産業博覧会)」)・コーポレーションを設立。同社はジョン・F・ケネディ大統領暗殺と、シャルル・ドゴール仏大統領暗殺未遂の両事件に関与したとして非難された。彼はエドガー・ブロンフマンの弁護士であるほか、国際信用銀行のオーナーであるタイバー・ローゼンバームとも親しい関係にあり、またパーミンデックス社の取締役会を通してユダヤ・ギャングの弁護士ロイ・コーンともつながっていた。
☆ ラフィ・アイタン
モサドの生え抜き幹部で、シャロンの長年にわたる政治的盟友。彼はベギン政権では二つのポストに就いた。まず首相直属の対テロ局の局長、同局はイスラエル国家の「敵」であるアラブ人とパレスチナ人に対する秘密工作を担当する選り抜きの工作部隊だった。彼はまた、国防省に属し技術情報の収集を任務とするスパイ部隊LAKAMの首脳でもあった。
☆ レハベアム・ゼイエビ将軍
元イスラエル国防軍将校。一九七七年に退役し、エクアドル政府のテロリスト対策のための「民間人」コンサルタントに就任した。彼が南米へ赴任したのは、シャロンとイスラエル・マフィアの代理人として行動するという目的を持ったものであった。ゼイエビは一九八〇年のボリビアにおける軍事クーデターに関与したが、この政変により悪名高い「コカイン大佐」が権力の座についた結果、彼らの指導の下でボリビアは世界でも有数のコカイン生産国となり、メデリン・カルテルのビジネス・パートナーともなった。この会議が開かれる前に彼は正式に呼び戻され、ベギン政権の法務大臣顧問に就任していた。しかしその立場にもかかわらず、彼はあの広く取り沙汰された一九八一年のシャロンの中米歴訪に同行した。そしてこの訪問の折、この二人の元イスラエル将軍は、ラテン・アメリカの麻薬密輸組織と手を組んで周到な武器密輸ネットワークを築き上げた。
☆ アリエー・ジェンジャー
リクリスのラピッド・アメリカ・コーポレーションの元副社長。後イスラエル国防軍でシャロンの副官となり、海外への武器売却を担当する。彼はその職務の関係から、ゼイエビとシャロンがカリブ海全域に配置した武器密輸人との連絡係を務めている。
☆ エリ・ランドウ
イスラエルのジャーナリストでシャロンの右腕。
今日頻発する悲劇の背景
二回目の会議は一九八二年十月十五日に、当時、シャロン国防相指揮下のイスラエル軍に占領されていたレバノンのシューフ山近くで行われた。シャロン、レバノンのファランヘ党の指導者カミーレ・シャムーン、オーストラリアの新聞王ルパート・マードック、それに加え数名のイスラエル及びレバノンの政府役人と作家のウア・ダンが出席した。ダンはメイヤー・ランスキーを賞賛する伝記を書いている。
ランドスキャム計画への投資勧誘を目的とする第三回の会議は、一九八二年十一月十五日にロンドンで開かれた。シャロン及びヘンリー・キッシンジャーの他に出席者として、当時キッシンジャー・アソシエイツ社で彼のパートナーだったピーター・キャリントン卿、ケネディ政権時代の駐米英国大使で、キャリントンとは親しい仲のハーレック卿(サー・デービッド・オームスビーゴア)、元米国国務長官アレクサンダー・ヘイグ、英国下院議員ジュリアン・アメリー、イギリスのシオニストのサー・エドムンド・ペック、英国情報部の元中東局長で現在MI−6の幹部ニコラス・エリオットが顔を揃えた。
正体を隠して働く手先の人間や組織をいろいろ使いながら、一連のランドスキャム計画会議の参加者たちは、占領地内のアラブ人の土地やエルサレム旧市街中のイスラム・キリスト教徒用特別割当地域の買収を始めた。
ランドスキャム計画の最終段階に向けての段取りは、一九八〇年代末までにはすべて完了した。この最終段階においてはソ連在住ユダヤ人がイスラエルへ大量移住し、占領地に住む全アラブ人の最終的な大量追い出しが行われる。
この段階でランスキー子飼いのADLの別の一員が、この計画の遂行上極めて重要な役割を引き受けることになった。これはちょうど一九七〇年代から一九八〇年代にかけて、ADL全米委員会会長であるケネス・ビアルキンが、犯罪によって手にした何十億ドルもの利益をアメリカの企業や銀行業、不動産分野に再投資する工作を統括する役目を果たしたのと全く同じである。
世界ユダヤ人会議会長、ブロンフマンの正体
その人物とは、エドガー・ブロンフマン、禁酒法時代の酒の密売人サム・ブロンフマンの息子で、弟のチャールズや数人のいとこたちとともにシーグラム・ウイスキー帝国を引き継いだ人物である。ブロンフマン一族は赤貧からいかがわしい商売に手を染め、その結果大金持ちとなり、社会的地位も手にするというギャングの成功物語を地で行った。
エドガー・ブロンフマンの祖父エチェルは、一九八九年にルーマニアのベッサラビア地方から、事実上バロン・ド・ヒルシュ財団の年期奉公人としてカナダにやって来たが、その時すでに同財団はブナイ・ブリスと緊密なつながりがあった。
初代ブロンフマン(イーディシュ語で文字通り酒屋の意)は北米の地を踏むと直ちにいかがわしい商売を手がけ、何軒もの売春宿を経営するようになった。一九一五年にカナダで禁酒法が施行されるとブロンフマンの売春宿は不法ナイトクラブとなり、そこで国境を越えてアメリカから密輸入されたウイスキーが売られた。
アメリカの禁酒法時代が始まるとともに、カナダで実験的に実施された禁酒法は廃止された。エチェル・ブロンフマンと彼の息子のエイブとサムは、違法ウイスキーと麻薬の取引きにおいて、買い手から売り手側に立場が逆転していた。一九一六年にエイブとサム・ブロンフマンは、一族が密売と売春で手にした利益をピュア・ドラッグ・カンパニーの獲得に投じた。ある報告によると、この会社は極東からカナダ向けに麻薬の輸入を開始した。
ブロンフマン一族は禁酒法時代を通じて、メイヤー・ランスキーの全米犯罪シンジケート向けウイスキーの有力供給者だった。この一族は「チキンコック」(彼らのウイスキーに与えられた名前)を売ることによって富を獲得した。アメリカ政府の記録によると、一九二〇年から一九三〇年の間に三万四千人以上の米国人が、ブロンフマンの醸造したこの酒を飲んでアルコール中毒により死亡した。
一九二六年、カナダ警察が「ブロンフマン・ギャング」を取り締まる動きに出た時、エチェルの四人の息子たちはアトラス・シッピング・カンパニーを設立し、彼らのウイスキーをカリブ海に送り出した。そのウイスキーはそこで、ラインフェルド・シンジケートや「ユダヤ海軍」、その他のランスキー・シンジケートの息のかかった酒の密輸人が所有する船に積み替えられた。
禁酒法時代が終わる頃、サム・ブロンフマンは過去に溯って数百万ドルの税金を支払うことを米国財務省と交渉した。その「延滞」税額は一族が禁酒法の下でウイスキーと麻薬密売から得た不法利益のほんの一部にすぎなかった。そしてこの僅かな納税により、ブロンフマン一族は一夜にして、カナダにおけるシオニストのエスタブリッシュメントの名士に変身することにも成功したのである。
慈善団体を装う外面
一九三四年にサム・ブロンフマンはカナダ全国ユダヤ人民救済委員会の会長に就任した。一九三九年には彼はユダヤ植民地化委員会の理事に任命された。
この委員会は元のバロン・ド・ヒルシュ基金で、ちょうど五十年前に自分の父親がこの基金から得た渡航費でカナダに渡ってきたものだった。第二次世界大戦が終わった時、サム・ブロンフマンはイスラエル・ユダヤ更正全国協議会を設立した。もっともその名前の趣旨に反し、この組織の主たる目的はパレスチナのユダヤ地下組織ハガナ向けに武器を密輸することだった。
この頃までにブロンフマンの息子たちは初代ブロンフマンが密輸で得た資産を「合法的」ビジネスに移しかえていたが、それがシーグラムズ・ディスティラーズ・オブ・カナダである。次の世代になってこの一族は結婚により、北米随一のシオニスト・エスタブリッシュメントにのし上がった。エドガー・ブロンフマンはアン・ローブとの結婚により、直ちにウォール街のローブ・ローズの利権と結び付くことになった。フィリス・ブロンフマンがジーン・ランバートと結婚したことで、ブロンフマン一族は突如ロスチャイルド家の一員となった。ランバート男爵はロスチャイルド一族のベルギーの分家の一員だった。後にケネス・ビアルキンによる企業買収で中心的役割を果たしたドレクセル・バーナム・ランベールなるニューヨークの投資会社はブロンフマンの支配下に吸収された。
世界ユダヤ人会議の会長、ADLの名誉副会長、そしてシーグラム・インダストリーズ社の会長であるエドガー・ブロンフマンは、慈善団体を装ったADLの資金集めの中心的存在であるノースイースト・アピールなる組織を通じていろいろの活動をすることにより、スカデン・アープス法律事務所が持っている企業買収ノウハウから多大の利益を手にしたいま一人の人物でもある。
対米不動産投資の仲介者
一九八〇年代の中頃、アメリカ企業としては最も古くかつ最大の企業の一つであるデュポン・ケミカル・コーポレーションの取締役会長だったアービング・シャピロは、同社を辞めてスカデン・アープス法律事務所のパートナーとなった。彼がこの法律事務所に入ってまもなく、エドガー・ブロンフマンが所有するシーグラム・コーポレーションがデュポン社株の買い占めを始め、ついに同社の支配権を手に入れた。ビジネス円卓会議の議長在職期間中ブロンフマンとは親しく一緒に仕事をした仲のシャピロは、ブロンフマンのデュポン社乗取りに当たっては内輪の人間として中心的な役割を果たしたと言われている。
指導的地位にあるシオニストの慈善家でかつ億万長者の会社経営者という一連の威光ある肩書を武器として、エドガー・ブロンフマンはメイヤー・ランスキーの二つ目の夢、すなわちシンジケートによるイスラエルの乗取りを実現すべく組織的な活動を一九八〇年代中頃に開始した。
東欧諸国の実態は何か
ソ連政府にユダヤ人移民の出国を促し、かつロシアのユダヤ人に対しイスラエル入国を保証することのできる人物を一人ADL幹部の中から探すとすれば、エドガー・ブロンフマンをおいて他に人はいない。
自分の会社のシーグラムズ製品の独占販売権を通して、エドガーとその弟チャールズは、ドイツ社会主義統一党(共産党)エーリッヒ・ホーネッカーをはじめ共産世界の最有力者の何人かと友好関係にあった。ブロンフマン一族はシーグラムズの西ドイツ支社を通じて、東ドイツの共産党に対しシーグラムズの酒を無制限に供給することにした。こうして提供された酒は党の最高幹部たちに無料で分け与えられた。一九八六年、東ベルリンにいるブロンフマンの密使はクラウス・ギジと親密な関係を結んだ。彼は東ドイツの宗教問題担当大臣で、ホーネッカー書記長の後継者となったグレゴール・ギジの父である。ギジ父子はユダヤ人である。
オーストリア大統領への中傷
一九八六年十一月のレイキャビクにおけるソ連の指導者ゴルバチョフと米国大統領レーガンとの首脳会談以後冷戦が急速に終結したことに伴い、ブロンフマンは東ドイツへの働きかけと平行してモスクワに対する意欲的な外交活動を開始した。
一九八九年一月二十三日、エドガー・ブロンフマンはニューヨークにある自分のペントハウスでソ連に在住するユダヤ人の移住を計画するための秘密会議を開いた。この会合に出席したのはアーチャー・ダニエルズ・ミッドランド穀物カルテルの会長デーン・アンドレアスで、彼はウォール・ストリート・ジャーナルで西側におけるゴルバチョフの「親友」と称された。ブロンフマンの計画は単純明快なものだった。すなわちアメリカがソ連に対し緊急に必要とされる穀物の供給保証を行う見返りとして、モスクワはソ連に居住するユダヤ人のイスラエル移住を許可するというものだった。ソ連のユダヤ人が確実に西側に到着でき、その後アメリカへ行くかあるいはヨーロッパに留まることができるようにするために、ブロンフマンの世界ユダヤ人会議はオーストリアの大統領カール・ワルトハイムに対する中傷キャンペーンをすでに開始していた。それはワルトハイムに東ヨーロッパのユダヤ人絶滅に関与した戦時中のナチ協力者としての汚名を着せようとするものだった。伝えられるところでは、ブロンフマンのキャンペーンはソ連のKGBその他のソ連ブロックの秘密警察機関が提供したでっち上げの証拠資料に基づくものであった。この醜聞事件は米墺関係に大きな亀裂をもたらした。結果的に、以前は西側へ逃亡する在ソユダヤ人の主たる通過地点だったオーストリアはこれら移住者を締め出した。これに代わってハンガリーとポーランド経由のルートが開かれたが、それはイスラエルへの移住のみが許されるという条件付きのものだった。
ブロンフマンの計画は「穀物とユダヤ人」の取引きを行うという皮肉なものだった。彼の一族は「ブロンフマン・ギャング」と呼ばれ続けていた。ところがこのADLの一員は、彼個人としてはメイヤー・ランスキーに対する一族の長年にわたる負債を返済しつつあると同時に、この犯罪王の二つ目の壮大な理想であったイスラエルの乗取りを実現しつつあるのだと考えていた。
『ユダヤの告白』第九章からの抜粋・引用です。
第九章 コインの両面、人権と組織犯罪
ギャングから慈善家への変身
組織犯罪に関する研究者としてアメリカにおける第一人者であるハンク・メシックによると、全米犯罪シンジケート(NCS)委員会会長であったロシア生まれのユダヤ人ギャング、メイヤー・ランスキーは二つの夢を持っていたという。
一つは、大犯罪を行っても人目につかぬようまともな体裁を装うことにより、政府のいかなる検察官も手出しができないようにした上で、北米の犯罪地下シンジケートを世界最強のビジネス・金融集団につくり変えることであった。
二番目は、イスラエルを「買収」し、そこを自分の「合法的」組織犯罪帝国の世界本部とすることであった。ランスキー自身はどちらの夢の実現も見ることなく他界した。しかしその死後十年が経過した今、彼の二つの夢はともに現実のものとなった。彼の夢を現実化した大きな要素は、ADLの存在であった。
これまでにも述べてきた通り、二十世紀への世紀の変わり目頃に創設された当初から、ADLは組織犯罪におけるユダヤ組織のための最初の防衛機関であった。警察や新聞が、勢力を拡大する全米犯罪シンジケート中におけるユダヤ・ギャングの役割を解明しようとでもすれば、ADLはこれを反ユダヤ主義者として攻撃した。
メイヤー・ランスキーが、アメリカ最大の犯罪組織である全米犯罪シンジケートを五十年間も運営していたという事実が知られていなかったことは、それ自体、ADLが防衛活動をいかにうまくやりおおしていたかを示す明白な証拠の一つである。
ADLの資金源
ランスキーは、その勢いが最も強かった頃、悪名高いシシリー・マフィアを完全に支配していた。このシシリー・マフィアも全米犯罪シンジケートに加わっていた組織の一つであった。
全米犯罪シンジケートは、フランクリン・ルーズベルトのニュー・ディール推進機関で全米の公共事業の監督に当たった全米復興庁(NRA)を範にとり、「合法的」組織犯罪を目指すランスキーの夢に沿ってつくられた組織である。同シンジケートの地方組織の構成方法は全米復興庁のやり方の模倣であり、意志決定は等しくそれぞれの地方組織を代表する全米委員会で下された。
メイヤー・ランスキーは全米犯罪シンジケート委員会の押しも押されもせぬ会長であった。
ADLが戦後、組織の立て直しを図った際、全米犯罪シンジケートと全く同じ方法で組織を再構成したばかりではなく、その統括母体を全米委員会と呼ぶようにしたのは決して偶然ではない。
ユダヤ・ギャングに援助を与えたのと引き換えに、ADLは組織犯罪の隠れ蓑に付随する金銭上の利益を獲得した。ADLの資金調達活動やこれと協力関係にあるユダヤ慈善事業に対しては、メイヤー・ランスキー委員会会長のシンジケート内の仲間たちによる多額の寄付が行われた。ランスキーが自分自身の名でADLに寄付を行ったという証拠はないが、ジョー・リンゼイ、ヴィクター・ポズナー、メシュラム・リクリス、エドモンド・サフラ、モー・ダリッツ、サム・ミラーそしてモーリス・シャンカーのような終生シンジケートに関係していた人たちが、公にADLに対し寄付を行った。
ギャングの脱皮と変身
一九八五年、ADLはその月報の第一面で、シンジケートの大物モー・ダリッツに年間慈善家賞を授与したと誇らしげに伝えた。禁酒法時代にアメリカの郵便局に貼ってあったFBIの指名手配ポスターに使われていたダリッツの写真が、クリーブランドとラスベガスのギャングに対する謝辞に添えられて機関紙の第一面を飾ったのである。
ダリッツはメイヤー・ランスキーの古くからの犯罪シンジケートの盟友であった。彼はクリーブランドにおける地下組織の四人の頭目中の一人で、他の三人はユダヤ・ギャングのモーリス・クラインマン、サム・タッカーおよびルイス・ロスコップであった。禁酒法時代の後、ダリッツはクリーブランドの押しも押されもせぬ頭目となり、マイアミの賭博場にまでその犯罪の手を拡げた。そのようなナイト・スポットの一つ、フローリックス・クラブはダリッツとランスキー自身との共有物であった。ランスキーがキューバに彼として最初の賭博、麻薬と資金洗浄のオフショア・ヘブンを開いたとき、ダリッツは特別待遇のパートナーとして迎えられた。ランスキーが古くからのシンジケートのパートナーの一人であるベンジャミン・シーゲルをラスベガスから追い出す決意を固めたとき、ダリッツはカジノとそれに関連するアングラ・ビジネスの最大の分け前にあずかった。ダリッツはランスキーの生涯を通じての親密な協力者であり、そのマイアミ・ビーチのアパートを頻繁に訪問している。
一九六三年、ADLがライバルの米国ユダヤ委員会と二十五年間共同で行っていた資金集めを中止するに際し、その全米会長に有名なハリウッドのプロデューサー、ドール・シャリーを指名した結果、その後の資金集めに関する心配はなくなった。ユダヤ・シンジケートに清潔なイメージを与えようとするメイヤー・ランスキーの運動は、この時点でADLが資金集めのためにシャリーの名を使っても問題がないところまで前進していたのであった。
シンジケートの暗殺部隊「殺人会社」
シャリーはハリウッドにおけるランスキーの仲間中もう一人の最高幹部、アブナー・ツビルマンの生涯を通じての友人であり、また子分としても知られていた。ツビルマンはニュージャージー州アトランティック・シティのボスであり、全米犯罪シンジケートの設立時からの一員でハリウッドに多額の投資をしていた。彼はまた、ランスキーとシーゲルが私的に運営していた全米犯罪シンジケートの暗殺部隊である殺人会社の当初からの構成員でもあった。
禁酒法時代の間ツビルマンは「ビッグ・セブン」の一員であった。ビッグ・セブンとはランスキーの仲間たちからなる東海岸のグループで、カナダから密輸入した密売酒の配給を取り仕切っていた。この酒はサム・ブロンフマン一味がカナダで製造したものであった。ニュージャージーでのライバルであるアービング・ウェクスラー(別名ワキシー・ゴードン)とアーサー・フリーゲンハイマー(別名ダッチ・シュルツ)を排除した後、ツビルマンは同州のシンジケートすべてのいかがわしい商売を一手に引受けることになった。そしてついにはラスベガスの賭博カジノ、ハリウッドの映画スタジオにまで手を拡げるに至ったのである。
ツビルマンが病に倒れ、再開された政府の捜査にランスキーがひっかかる恐れが生じたとき、シンジケートの全米委員会はこのニュージャージーのボスの排除を決定した。一九五九年二月二十七日、彼はニュージャージー州ウエスト・オレンジにある部屋数が二十室にも上る自分の豪邸の地下で死んでいるのが発見された。地元警察は彼の死を「自殺」と考えたが、実際は他ならぬ彼自身がその設立に手を貸した殺人会社によって殺されたということは広く知られている。
犯罪人とADLのドッキング
その四年後にADLの全米会長になったドール・シャリーは、彼の葬式に参列していたと広く報道された。もっともシャリー自身はこれを否定した。
FBIはシャリーが真実を語っているとは思っていなかった。FBIニューアーク現地事務所が作成した一九六一年八月二日付のぶ厚いシャリーの身辺調書中に、シャリーとツビルマン両者について次のような興味ある報告が載っている。
「一九五九年三月四日付の新聞記事には、ドール・シャリーは、彼がアブナー・ツビルマンの葬式に参列したという報道を否定しこれを訂正したとしている。シャリーはこの記事の中で、自分はツビルマンの親しい友人ではなかったと言い、また自分がアマチュア劇の指導をしていたニューアークのユダヤ青少年協会で三十年前に会って以来、彼とは一度も会ったことはないと語った」
組織犯罪の専門研究家によると、ドール・シャリーは、ツビルマンの後援を受けてハリウッドでの仕事を始めたという。
FBIの報告は続く。
「一九五九年二月二十六日、ニュージャージー州ウエスト・オレンジ警察は、アブナー・ツビルマンが、この日ニュージャージー州ウエスト・オレンジ、ビバリー・ロード五〇番地の自宅の地下室で首を吊って自殺したと報告した。」
「一九五九年二月二十八日付のニューヨークの日刊新聞『ニューヨーク・ワールド・テレグラフ』紙の記事は『アブナー・ツビルマンは陰で巨大な権力を行使する完全な闇の大立者だった。彼ほど長期にわたって合法的に闇商売で成功し、いかがわしい商売によって赤貧から財をなし、そして社会的地位を得た人物は他にはいなかった。禁酒法時代に五千万ドルを稼ぎ出す密売組織を持っていたツビルマンは着々と事業を拡張し、後年にはウエスト・オレンジの二十室もある自分の大邸宅で豪勢な生活を送った。しかしその一方で彼は、今なおいかがわしい商売をしていると自分を非難する人たちを訴えては、騒ぎを起こしていた』と伝えている」
「しかしケハウファーの徹底的犯罪調査の結果、ツビルマンを包む霧は幾分取り払われた。ツビルマンは調査員が事情聴取をしようとしたとき姿を消し、委員会がやっとのことで彼に召喚状を受理させたときには、自己を有罪に導く可能性がある発言を四十一回も拒否しなければならなかった・・・・彼は早くからいかがわしい商売を数多く手がけ、禁酒法時代にはニュージャージーの酒の密輸入船団を取り仕切る頭目の一人となった。・・・・彼は合法的企業に多額の資金を投じ始め・・・・そしてこれらの合法を装った見せかけの企業は、ケハウファー調査によって初めて明るみに出され・・・・彼は不正手段で得た多額の資金を、ニュージャージー州全域を牛耳るために注ぎ込んだ・・・・一九五二年には彼は所得税脱税の罪で裁判にかけられたが、無罪となった。しかし今月、FBIは一人の陪審員が買収されていたとしてこれを告発し、逮捕した」
ドール・シャリーは一九六三年から一九六九までADL全米会長の地位にあったが、彼がその地位に任命されたことは象徴的な出来事だった。この頃ユダヤ・シンジケートの存在は公になりかかっていたが、ADLにとっては、自分たちとその犯罪組織との長期にわたる深いかかわりを隠す必要はもはやなくなっていた。
ADL用「洗浄」銀行
ADLと犯罪シンジケートとの最も古くかつ強力な結び付きは、組織犯罪集団の御用達であったニューヨークの銀行の一つ、スターリング・ナショナル銀行に見ることができる。組織犯罪の専門研究家によると、この銀行はメイヤー・ランスキーに非常に近いシンジケートの仕事仲間フランク・エリクソンにより、一九二九年に設立されたものである。
エリクソンはランスキーの金銭の出納を任されていた。ユダヤ・ギャングの「ブレーン」だったランスキーの前任者アーノルド・ロススタインが一九二六年十一月に暗殺された後、ランスキーは個人的にシンジケートの全米の競馬呑み屋に関する業務をエリクソンに担当させた。ランスキーの伝記作家ハンク・メシェクによれば、彼はエリクソンに自分が密かに所有していたフロリダの競馬場やネバダのカジノなど、いくつかの主要な事業における金銭の出納を任せていた。
セオドア・H・シルバートは一九三四年にこの銀行に加わり、一九四五年に頭取になった。スターリング・ナショナル銀行は一九六六年には彼の下で再編され、スタンダード・ファイナンシャル社の完全子会社となった。さらにそのスタンダード・ファイナンシャル社はニューヨーク株式市場に上場されている持株会社スターリング・バンコープの全額出資下に置かれた。そしてシルバートはこれら三つの会社それぞれの会長、取締役、経営最高責任者に就任した。
スターリング・ナショナル銀行の実態
シルバートはまたADLの終身メンバーで、全米委員会および全米執行委員会とともに、その資金集めと広報をも担当した。広報活動にはギャングの一員モー・ダリッツや、ランスキーの手先である人物が多勢加わった。シルバートは現在ADLの名誉副会長である。
スターリング・ナショナル銀行はADLの銀行である。国税庁が保存している一九七六年にまで溯るADLの財務記録によれば、スターリング・ナショナル銀行とスタンダード・ファイナンシャル社は、唯一の例外を除きADLが出資を行った二つだけの外部組織であった(唯一の例外はADLの全米委員でかつてブナイ・ブリスの国際部長だったフィリップ・クラツニックが率いるアメリカン・バンク・アンド・トラスト社に五千ドルを出資したその一回)。ADLは広報活動用の銀行預金口座をスターリング・ナショナル銀行に設けていた。ADLの活動に詳しい金融界筋の情報によると、一九七八年以後同団体はADL財団を含むそのすべての銀行、投資活動を同銀行へ移していた。
訴えられてボロが出た
一九八二年時点で、スターリング・ナショナル銀行とその関連持株会社は、詐欺と横領の共同謀議に荷担したとして三件の民事訴訟で訴えられていた。スターリング・ナショナル銀行に向けられた訴訟は、最近のアイヴァン・ボウスキーとマイケル・ミルケンに対して起こされた訴えと同種のものである。その容疑はADLが関係したジャンク・ボンドに絡む詐欺とインサイダー取引に関するものであった。
一九七九年にダニエル・マイスターはスターリング・ナショナル銀行、スタンダード・ファクターズ、ブルック・アンド・テイラー、リード・アンド・ダンモア、バーナード・スペクターおよびマービン・トーラーマンをニューヨークの南部地区連邦地方裁判所に訴えた。凡例番号は七九CIV三〇四〇であった。マイスターはトーラーマンを、投資家からの詐欺を目的としてスターリング・ナショナル銀行と共謀し、自分の会社ラテン・アメリカン・リゾーシーズに対し横領を働いたと訴えた。その盗みの手口を見れば、同行がどのように不正資金を「洗浄」した上でADLに流していたかがよくわかる。
トーラーマンは会社の資産八十八万ドルを、彼が所有するニュージャージーのダミー会社宛の銀行発行の信用状に転換した。スターリング・ナショナル銀行はパナマとスイスにある一連のオフショア銀行口座に金銭を振り込んだ。
トーラーマンはスターリング・ナショナル銀行が有する海外での資金洗浄手法を利用することによって、自分自身の会社の借金を踏み倒し現金を持ち逃げした。トーラーマンはスターリング・ナショナル銀行の債権回収部長ジョーダン・ボッシュを共謀者とする民事訴訟の外、刑事訴訟においても犯罪の事実を認めた。
スターリング・ナショナル銀行は、それより数年前にも同じような手口で連邦裁判所に民事訴訟で訴えられていた。それはすでに倒産している会社への投資を勧誘して一般大衆から金銭をだまし取るために、他の多くの銀行と共謀して公開会社の倒産を隠したことによるものである。一九七六年にはデービッド・ヘイバーが、インベスターズ・ファンディング社のオーナーであるジェローム・ノーマンおよびファラエル・ダンスカーに対し集団訴訟を起こした。
同社は一九四六年に設立され一九七四年に倒産したが、その時点でスターリング・ナショナル銀行はイスラエル・ディスカウント、バークレーズの両行並びにその他の多くの会社と結託して、同社が倒産したことを十分に知りながら同社株の売買を続け、それによって得た利益を秘密口座に隠蔽していた。
NATO司令官誘拐事件
スターリング・ナショナルが関与した最大の銀行詐欺スキャンダルは、一九八〇年代初期に国際テロリズムを背景として行われたものである。
一九八一年一二月、イタリアの赤い旅団のテロリストが、イタリアのNATO軍司令官ジェームズ・ドジェ将軍を誘拐した。この事件に対する初期捜査は、通常の人質救出作戦と比較して思い切ったやり方で進められ、イタリア政府はイタリアとシシリー全土のマフィアの本拠地に対する一斉手入れを開始しただけでなく、 ニューヨークにおけるギャングの金融取引にも捜査の手を伸ばし始めた。
イタリア政府がこのような救出作戦のやり方をとったのは、こうすれば犯罪シンジケートは捜査の手を緩めるため、ドジェ将軍の解放に関して米伊両国の政府に協力してくるだろうと予想したからだった。というのもこの捜査によりシンジケートは何十億ドルもの損失と被った上に、組織の基盤が危うくなっていたからである。イタリア政府はこの時点ですでに、国内のテロリスト組織が在来の犯罪地下組織網と連携し、麻薬の密輸と誘拐を手助けする見返りとして、ギャングから武器と隠れ家および偽造身分証明書を手に入れていることを割り出していた。
政府の救出活動に組織犯罪グループを利用するという対テロリズム強硬作戦の結果、イタリア政府はドジェ将軍の解放と赤い旅団の誘拐犯の逮捕に成功した。
イタリア政府が乗り出す
ところでこの捜査の過程で、ADLおよびADLと組織犯罪とのつながりに関して深い係わりのある興味深い出来事が起こった。
一九八二年一月二十九日、イタリア政府はアドルフォ・ドルメッタ、ジョバンニ・ルボリおよびヴィットリオ・コーダを通してニューヨークの南部地区連邦地方裁判所に対し、「法定信託、横領謀議、詐欺および受託者義務違反」に関する民事訴訟を正式に提起した。被告人はスターリング・バンコープ、スタンダード・プルーデンシャル・コーポレーション(以前のファイナンシャル・コーポレーション)およびスターリング・ナショナル・バンク・アンド・トラスト・カンパニー・オブ・ニューヨーク(スターリング・ナショナル銀行)、原告はイタリア政府が任命したバンカ・プリヴァータ・イタリアーナ社の清算人であった。原告側はイタリア人銀行家ミケーレ・シンドーナが一九七三年から七四年にわたり、バンカ・プリヴァータおよび同じミラノの銀行であるバンカ・ユニオーネの両行の預金口座から二千七百万ドルを盗むのを手助けする国際的資金洗浄行為に、スターリング・ナショナルが荷担したと訴えた。
南部地区裁判所に残されている民事訴訟記録には次のような記述が見られる。
「バンカ・プリヴァータ・イタリアーナは一九七四年九月二十七日付でイタリア財務省から清算命令を下された。同行の当初の清算人ジョルジョ・アンブロソリは一九七九年七月に殺害された。一九八〇年にミラノでシンドーナと他の一人について開始した刑事訴訟手続きの中で、一九八一年七月、ミラノの担当判事はシンドーナに対し、アンブロソリの殺害容疑で逮捕状を出した」
アンブロソリ暗殺の後、三人の原告がバンカ・プリヴァータの清算人に任命された。一九八二年一月のスターリング・ナショナル銀行に対する訴訟は、シンジケートにドジェ将軍救出に強力させることを狙ったイタリア当局の、マフィアに対する厳重なる取締りの一環であった。シンドーナは一九八一年五月に起こった法王ヨハネ・パウロ二世暗殺未遂事件に加担した犯罪者集団、フリーメーソン普及ロッジに関係していた。