またさらに、
明治十九年九月十日 式上郡笠間村講元 加見兵四郎
少々家業さして被下度(下されたく)御願
さあ/\尋ねる事上(事情)/\は、あかき道、白き道、くろき(黒き)道にさとしおこう(諭し置こう)、
これでわかろまい、
あかき道は神の道一寸はかり(ちょっと解り)かけた事、白き道はせかいなみ(世界並み)、黒き道はわが身の思案、
せかい(世界)のものからつけた徳は、せかい(世界)からはおとさん(落とさん)、わが心でおとさぬ(落とさぬ)よう、
さあ/\、いばらぐろう(茨畔)も、がけ(崖)道も、つるぎ(剣)の中もといふ(言う)てあろ、どうせこうせはいわん(言わん)、心と心でしやん(思案)してみるがよい。
【註】当おさしづは、現行「七巻本」未収録です。
〔みちのだい第33号「教祖特集号」40頁〕
明治二十年十一月二日(旧九月十七日) 本席様おさしづお言葉
心迄に一寸噺して置に依テ(心までにちょっと話しておくによって)、よふしやん(よう思案)。
赤キ道、黒キ道、白キ道、是デハわかろまい(これでは分かろまい)。
あか(赤)き道とゆふは、わかりかけた心、赤キ道也(なり)。
黒キ道とゆふは、何事もわがしやんの心、黒キ道也(なり)。
白キ道とゆふは、世界なみの心、是ヲ(これを)白キ道とゆふ也(言うなり)。
【註】当おさしづも「七巻本」未収録です。
〔「根のある花・山田伊八郎」222頁〕
とあり、
赤き道とは「神の道・神意・教えの理が解りかけた心」で、
黒き道とは「何事も自分中心に考える『わが身思案・ほこり』の心」で、
白き道とは「世界並みの心」と説明されています。
【参考】「おさしづ」のなかにみる「色」を示すお言葉は、
たゞ(ただ)こうきという。それ/\(それぞれ)の處(ところ)より刻限、赤きは赤き、黒きは黒き者に連れられ、さあ/\だん/\早や/\。
〔おさしづ 明治20.3.19〕
めん/\身上處(ところ)分からん。ほんにいろもの、白黒が分からん残念。
〔おさしづ 明治20.12.2〕
どういう事も改める/\/\、十分改める。白きものは白きと言えば分かる。
〔おさしづ 明治22.4.17〕
赤きもの赤きと言えば、鮮やかであろう。白きもの白きと言えば、鮮やかであろう。
〔おさしづ 明治22.10.9〕
先の理の話、これまで一つの理、思いも軽い理も分かる、黒き赤き理も分かる。
〔おさしづ 明治25.2.1〕
もと/\(元々)から用いりて、取り立てゝ(立てて)くれにゃならん。持ちてる物 離してなりと運んでくれにゃならん。白きもの白きに見る、赤きもの赤きに見る、黒きもの黒きに見るは皆世界の事情。
〔おさしづ 明治26.2.5〕
どう思うてもならんで/\。悩み/\身の難儀、赤い黒いも分からず、そも/\(そもそも)の心を吹き出し、だん/\事情と言えば、これも十分の心とは言えようまい。
〔おさしづ 明治26.5.18〕
夜と昼とが分からねばならん。白いものと黒いものと分からねばならん。
〔おさしづ 明治26.10.5〕
縁談話理が分かりよう處(ところ)分け。白きもの白き理、色の話、どんな話、大変間違う。…白き話、白きものを以(もっ)て、理を以て理聞く。
〔おさしづ 明治27.3.6〕
春風のようなそよ/\(そよそよ)風の間は何も言う事は無い。神も勇んで守護する。なれど今の事情はどうであるか。黒ほこり、泥ぼこり立ち切って(たちきって)ある。この黒ほこり、泥ぼこりの中で、どうして守護出来るか。又(また)守護した處(ところ)が、世界へどう見えるか。よう聞き取れ。大変口説き話である程に/\。
〔おさしづ 明治30.2.1〕
鏡やしき濁りた心は持たん。黒きは黒き、白きは白き、赤きは赤きが映る。
〔おさしづ 明治30.7.7〕
そこで内々事情、やしきの中という。あちらから黒ぼこりこちらから黒ぼこり、年限ようよう一寸(ちょっと)事情、払うて/\どうでも払い足らん。未だ(まだ)もう一段払い足らん。…
神の自由(じゅうよう)して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れてしまう。大ぼこり/\、提げ出す、担い出す。積もる。後向いても、何っ處(どっこ)にも橋が無い。神が除いて了(しも)たら、是非が無いで。どれだけ塵(ちり)を溜めて置いても、払うて了(しも)うたら、もう一遍(いっぺん)どうしようと思ても行こまい。
〔おさしづ 明治31.5.9 夜〕
あちら話しこちら話し、白いものと言うて売っても 中開けて黒かったらどうするぞ。
〔おさしづ 明治32.7.23〕
このように「おさしづ」に「赤い、黒い、白い」が複数使われているので、上記二つの「赤き道、白き道、黒き道」の説明がなされている「おさしづ」が、これらの「おさしづ」解読の一助、指針となることでしょう。