れんだいこ版元の理教理その1、仕込み編 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年12.31日
(れんだいこのショートメッセージ) |
「元の理一括文」で一覧にしたが、ここでその読解を試みる。まことに「元の理」は汲めども尽きぬ世にも珍しい人類創世記であり、いかようにも解き分けられる不思議な物語である。西欧学的インテリジェンスに慣らされた者には何のことかちんぷんかんぷんであろうが、まずはとくとご照覧あれ。これを1と2に分け、ここでは「れんだいこ版「元の理教理その1、仕込み編」を解読する。 2006.1.24日 れんだいこ拝 |
【れんだいこ版元の理教理その1、創造編】 |
1 | 既に長い時間が経過していた。見渡せば、一面泥海であった。 | |||
このことがお筆先で次のように誌されている。
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この件で、「泥海の理」が諭されている。何気なく見落としがちであるが、この世の始原において「泥海」の存在を前提にしているところが素晴らしい。ユダヤ/キリスト教理の根幹を為す聖書創世記では、絶対無からの天地創造が語られており、偉大なドイツ近世の哲学者ヘーゲルがこれを論理学形式で説明するのに如何に苦慮したことか。それを思えば、みきの説く「元の理創世記」では、記紀神話も然りだが、天地創造に当り「さしあたって泥海という質量の存在」を認めている。これにより「元の理」は「泥海こふき」とも云われるのであるが、日本式天地創造説話の無理のなさが分かろうというものである。れんだいこはそう考える。いずれにせよ、この「泥海」から総てが始まる。 なお、この「泥海」にはカオス的意味があり、この世はカオス的混沌から始まったという理合いで受け取らせていただくことができる。これは、ユダヤ/キリスト教理の「はじめに言葉ありき」のロゴス的世界観と対照的見解である点で興味深い。ちなみに、「混沌」とは辞書に1、天地創造の神話で、天と地がまだ分かれず、混じりあっている状態。2、入り混じって区別がつかず、はっきりしないさま。とある。 |
2 | 泥海には多くのどじょうが棲んでいた。 | |
このことがお筆先で次のように誌されている。
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この件で、「どじょうの理」が諭されている。その泥海の中に無数の「どじょう」が棲んでいたと云う。これは、生命体の発生過程に於いて最初に生まれていたものが「どじょう」であると云う風に解することができよう。 |
3 | この泥海世界に月様と日様が居られた。月様と日様は、泥海の中に大龍、大蛇のお姿をしてお現れになっていた。これを月日両神と云う。この月様をくにとこたちの命(みこと)、日様ををもたりの命と申し上げる。人間、世界をはじめられた親神(おやがみ)様である。 | |
このことがお筆先で次のように誌されている。
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この件で、「月日の理」が諭されている。この世の元始まりの始原に於いて、月日両神に表象されるあたかも陰と陽のような「対の二原理」が作動していた、ということになる。「陰陽的二大対原理」の重要性が最初に指摘されていることになり、この指摘も味わい深い。この「対の原理」が元の理譚に於いても日本神話においても貫く型になっていることを拝すべきだろう。「大龍」、「大蛇」は実在のものというよりも比喩的表象として受け取るべきではないかと思う。 |
4 | ある時、月日両神は「味気なし」と思し召され、「一つ人間というものを拵えて、そのものが陽気遊山して喜ぶ様を見て共に楽しみたい」と思い立った。 | |
このことがお筆先で次のように誌されている。
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この件で、「味気なし。人間を拵えて楽しみたいの理」が諭されている。ここで、神が何故人間を創造するに至ったのか、その理由を明確に述べている。これは、他の宗教では語られた事がない稀有なことのように思われる。天理教教理の最重要部分の一つと私は考える。 「元の理」譚によると、人間始め出しは、月日両神のこの発意に機縁を負っている。総じて何か物足りなさを覚え、「味気なし」と思し召し、「一つ人間というものを拵えて、そのものが喜ぶ様を見て自分も楽しみたい」と発意して人間創造に向われた、と云う。これにより、月日両神が人間創造主としての親神の立場にあられることになる。親神が人間創造を思い立ったのは、「味気なし」から始まり「人が喜ぶ様を見て自分も楽しみたい」という動機であった、と云う。ならば、人は、神が見て喜ぶような「味気ある人生」を目指すべく生きることが遺伝子にインプットされており、そういう「神人和楽」的生き方こそが理に叶っている、ということになる。ここにお道独特の「味の理」と「神人和楽思想」が明らかにされている。同時に「人間の存在根拠、処世法と人生観」が鮮やかに指し示されている。 ところで、「味気なし」はどういう気分、感情を云うのだろうか。今までここを詮索したことはなかったが、ふと気づいた。「味気なし」とは、身近な例で云えば、夫婦の相方が死ぬなり入院するなりしていなくなり、一人ぼっちになった方が味わうその時の気持ちを云うのではなかろうか。一人になると、何だか面白くない、寂しい、つまらないような気持になるが、そういう気持ちではないのか。あるいは「親を亡くした」時の寂しさもそうだろう。補足しておけば、神が「味気ない」と思ったからには、神には人間同様の心、感情があるということになる。 「元の理」を歴史的事実として拝服するのも良いが、ある企てをする時の何もない何もしていない状態からの階梯順序譚として窺うのも良いのではなかろうか。 |
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この件で、「陽気遊山の理」が諭されている。月日両神が人間に如何に「陽気遊山」を促しておられるかが分かる。ならば、人は、そういう親神の思いに応えて「陽気遊山に暮らすこと、陽気づくめに暮らすこと」、「その心澄み切りて、勇む生き方をすること」が親神創造主の思いに叶い、この生き方が最も自然で理に叶うということになる。「お道の信仰は、親神を信じ、もたれ、その心に添う生き方にある」とされるのが、ここにその由来を発している。これを「親神の理」と云う。 このことは、「人間の存在根拠と処世法と人生観」を規定する。古来より、「人間存在の意義と意味」は論ぜられて来た。未だに解明されないが、お道教義では、その問いに対して直接答えたものではないとしても、「親神の思惑に釣り合う在り方、生き方を為す事が人の在り方、生き方の本筋である」ということを指針せしめていることになる。その具体的実践例として、教祖みきの「人生道中道すがら=ひながた」が呈示されており、道人はこれを手本に各自がその道を歩むべしということになる。つまり、「ひながたの道」を通るということになる。 何気なく見落としがちであるが、「人は如何に生くべきか」という難題に対する鮮やかな解答が示されているのではなかろうか。人生論を余りにも難しく思弁的に探る必要がなく、人が創造されたときの創造主の思惑を考え、その思いに相応しい生き方をするのが良い、としている。この態度は立派な見識ではなかろうか。なぜなら、「人は如何に生くべきか」の思弁的解明なぞ永遠に出きっこなかろうから。西欧的知はこれに挑み続けているけれども。東洋的中でも日本神道的知は「人は如何に生くべきか」をwhyではなくhowの方を重視させており、生命の節々に即応した生き方を模索することこそ肝要としているように思える。人生観に対するこの差の識別が存外と大事なのではなかろうか。 これにつき、2016.1.26日付け天理時報特別号の「人間いきいき通信1月号、天理教教祖130年祭」は次のように述べている。分かり易く説いているので転載しておく。
この「泥海こふき」式天地創造説話は、仏教との比較においても合理的優位性を見せている。仏教では、人間の根本存在を「苦」や「業」として捉える。生きていることそのものに「苦」や「業」を観る。仏教の救済論理とは、この「苦」や「業」の因縁からの解放である。ここから解脱の方法が生まれてくる。その前提として、「苦」や「業」の分析に取り掛かっている。要因として欲望を捉え、これに執着する心を煩悩としている。従って、その煩悩の納消に全精力を注ぎ、様々な修行をうながすことになった。宗派によっては、これを全肯定するという逆転の発想をも生み出しているが、仏教の、人生を「苦」や「業」とする原理からは解放されていない。ユダヤーキリスト教では、仏教的な「苦」や「業」に代わる「罪」、「罰」を観ている。これらに比して、教祖みき教理は「人間存在自体に肯定的明るさ」を根底に見据えている。そういう意味で異色のそれとなっている。ここにみき教理の値打ち、真骨頂があると受け取りさせていただく。 |
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「共に楽しみたいと思い立った」の件(くだり)も興味深い。神と人間の関係は、創造主と創造物の関係であるが、親神とあるように親子の間柄として捉えられている。人間は元々「人間が互いにたすけあって生きる世の中での陽気ぐらし」をするように創られている。これは人間同士に限らず、地球に存在するありとあらゆる生命に対しても然りである。神と人間が共に楽しむ関係は、人間同士にも適用される、共に助けあわなければならないと諭されることになる。 |
5 | こうして「世にも珍しい企て」が始められた。 | |||||
このことがお筆先では次のように誌されている。
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この件で、「世にも珍しい企ての理」が諭されている。親神の「世にも珍しい企て」として人間創造と世界創造が始まった、とある。何気なく見落としがちであるが、人間創造の始発において「発案→構想」から始まっていることも興味深い。何事も万事、当初は企画から始まるという普遍原則が示唆されている。思念の力こそ元始まりと窺うべきではなかろうか。 |
6 | 併行して世界も同時に創造されることになった。 | |
このことがお筆先では次のように誌されている。
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この件で、「同時並行的世界創造の理」が諭されている。親神の人類創造と世界創造が同時並行的に立て合っていた、とある。 |
7 | 月日両神が泥海を見澄ますと、どぢよ、うお、その他様々な生物がいた。それらの特徴と働きの特質を見抜き、人間作りの道具にしようと思し召された。 | |||||
このことがお筆先では次のように誌されている。
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ここで、泥海には、どじょうの他にも様々な生物が居たことが知らされる。泥海中の生物こそが人間創造の始発ということにも解することができる。 | ||||||
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何事も、発意から構想へと向かうと云う理が諭されている。 |
8 | こうして、月日両神の心尽くしての人間創造が始まった。構想が練られ、いよいよ人間作りの台となる素材集めに向かわれることになった。 | |
このことがお筆先では次のように誌されている。
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9 | 月日両神はまず最初に、鱗(うろこ)のない、見目形が人間の台になりそうな「うお」と「み」に注目した。どちらも、神の構想素材に相応しい顔と皮膚をしており、「このものを雛型として人間をこしらえたらよかろう」と思いつかれた。人肌のすべすべした滑らかさと見目形はこの素材に負っている。かくて「うお」と「み」の性が見定められて人間の台となった。 | |||||
このことがお筆先では次のように誌されている。
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人間創造の道具衆の最初は、「うお」と「み」であった。「うお」と「み」の鱗(うろこ)のないこと、見目形が人間の顔の、すべすべした肌が人間の肌のモデルとなった、と云う。味わい深いと思う。そもそもにおいて雌雄一対にされていることも興味深い。これはどうやら日本思想の重要な原点原理なのではなかろうか。 | ||||||
ちなみに、「うお」をサンショウウオ、「み」をヤツメウナギと比定する説がある。 |
10 | 月日両神は最初に「うお」を見定めて呼び寄せた。「うお」は一筋心でやって来た。その心根が御心に叶った。月日両神は「うお」に人間創造の事業計画を打ち明け、「貰い受けたい」と伝え協力を願った。「うお」は当初断ったが、懇々と諭され、神と「うお」との真剣な談じ合いを経て、「役立ってくれるなら後々まで祀る」と諭されるに及び承知した。 | |
このことがお筆先では次のように誌されている。
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神は、人間を創るにあたって、対象の心と性質、能力を見定め、呼び寄せから始めていることが分かる。 | ||
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呼び寄せに応える道具の心根が問われており、「一筋心」であることが重要視されていることが分かる。この理から「一筋心」の重視性を学ばねばならないと云う諭しになる。 | ||
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親神は、引き寄せたものに対し、粘り強く説得し、談じ合いしようとしていることが着目される。ここで拝するべきは、親神が、白羽の矢を立てた生き物に対し、決してユダヤ―キリスト教理のような有無を言わさぬ一方的な命令による強制ではなく、まずは相手側に「心の自由」を与え、自主性を与え、親神の人間創造に協力するよう諭されていることである。ここから学ぶべきことは、創造主が、何事かを企てるに当たって、「談じ合い」を重視したこと、更に相手方が納得と得心いくまでとことん談じ合っていることであり、この作法は万に通ずることとして諭されているように思われる。この理から「談じ合い」の重要性を重視して学ばねばならないと云う諭しになる。 | ||
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なお、「役立ってくれるなら後々まで祀る」も興味深い。道具衆はひいては人は、献身的貢献に対して後々まで祀られることにより犠牲をも甘受したということになる。なかなか味わい深い遣り取りではなかろうか。「役立ってくれるなら後々まで祀る」につき、「最初に産みおろす子数の年限が経ったなら、宿し込みのいんねんある元の屋敷に連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた」という説話も為されている。 |
11 | 月日両神はこれを食べて賞味された。これが「男の台」のひながたになった。これより「うお」を「岐魚」(ぎぎょ)と名づけ「岐様」(ぎさま)と敬称することになった。後の人間創造の際に、「岐様」の胎内に月様が入り込むことにより仕込みされ、「岐様」は生命の片方の原理である「水気」の役割、特に「よろづ眼胴うるおい」の働きに責任を負うことになる。神名「くにとこたち(国常立)の命」として祀られることとなった。神楽づとめの際には、つとめ人衆が大竜で表される獅子面を被る。 |
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神様の人間及び世界創造に当たって、その最初に「うをとみい」が登場する。以下、十柱の神々が寄せ集められることになるが、それぞれ「御姿」、「御働き」、「御性質」が説き明かされることになる。ここで便宜上、「うお」を最初に解説する。「うお」は、「人間身のうちの眼胴うるおい(潤い)、世界では水気全般の守護」の役目を務めた。これを仮に「水の理」と命名する。この働きに神名をつけて「くにとこたち(国常立)の命」として敬う。人間、天地創造の際の「水の理」が一番手働きと云うことになる。それほど「水の理」が重要であると悟らせて頂くのが良い。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 | |
補足 | 別書に 「岐様の鰭(ひれ)に五つの筋(すじ)がありた。これが五本の指と成った」の記述がある。最新の生物科学は、「人間の祖先にあたるシーラカンスのような魚の胸びれや尻びれが、段々と手足に進化変化し、サンショウウオかトカゲのような姿で陸に上がった」としている。 |
12 | 「み」も同様にして承知をさせ、これを食べて賞味された。これが「女の台」のひながたになった。後の人間創造の際に、「み」の胎内に日様が入り込むことにより仕込みされ、「み」は生命の片方の原理である「火気」の役割、特に「よろづぬくみ」の働きに責任を負うことになる。神名「おもたり(面足)の命」として祀られることとなった。神楽づとめの際には、つとめ人衆が大蛇で表される獅子面を被る。 | ||
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ここで、「み」が人間及び世界創造に当たって「火気全般、特にぬくみ」の役目を務めたことが知らされる。これを仮に「火の理」と命名する。この働きに神名をつけて「をもたり(面足)の命」として敬う。人間、天地創造の際の「火の理」が二番手働きと云うことになる。それほど「火の理」が重要であると悟らせて頂くのが良い。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 | |||
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13 | 人間創造の元となる台は「くにとこたち」と「をもたり」で、種と苗代の役割を担った。 | |||
このことがお筆先では次のように誌されている。
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ここで、くにとこたち(国常立)の命とをもたり(面足)の命が登場しているが、両者は対の役割を担っており、ここでも「対の原理」が作動している。 これより、この「水の理」と「火の理」の二機能が人間身の内の二大機能中枢として働いていることを悟らせていただくことができる。なお、「お筆先六44」で、「うお」が種の役割、「み」が苗代の役割を果たしたことも告げられている。ここまでを思案するのに、人間の生命には、月日両神の二原理が入り込んでいることからして「神の体」としての外の世界と人間の身の内とが通貫しており、外の世界と人間の身の内とは相似系で関連しており、その根本的二作用として「水と火」を挙げ且つ「水火一対」として対的に位置づけられている。この御教えもなかなかに味わい深い。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 |
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補足 | 別書に「このよう(世)の火と水とは一の神 風より外(ほか)に神はないぞや」の記述がある。(高井家資料6p文書類。おふでさき号外の類) |
14 | 神が次に為されたことは人間のその他の機能の仕込みであった。四方八方からこれに相応しい素材集めに向かわれることになった。「しゃち」、「かめ」、「うなぎ」、「かれい」、「ふぐ」、「くろぐつな」が選ばれた。それぞれに「うお」と「み」同様に人間の道具になることを承知をさせ、食べて賞味された。 |
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「水火」の二台原理を台として次に「六道具衆」の6機能が加わる。 |
15 | 「しゃち」が乾(いぬい、西北)の方角からやって来た。この者は変にシャチコ張り、勢いの強い特性によって、骨を始めとする「よろづ突っ張りの役目」に使われることになった。且つその特性が生殖機能としての「男一の道具」に使われ、これが「うお」に仕込まれた。こうして男雛型ができあがった。神名「月よみ(月読)の命」として祀られることとなった。神楽づとめの際には、つとめ人衆の男性が鼻高面をつけ背中にシャチを背負う。 |
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ここで、「方位方角の理」が告げられている。現在「雛型かんろ台」が据えられている地点「ぢば」より見て各方位方角に住んでいた生命体を呼び寄せられることになる。。ここで初めて、方位方角の概念及び確定がされている。「ぢば」とは、これより行う一連の人間創造を始めた元始めの場所である。「しゃち」は、「乾・いぬい」(西北)から呼び寄せられる。 | |
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「しゃち」(鯱)は、「よろず突っ張り及び男一の道具」機能を表象する。これを仮に「突っ張りの理」と命名する。この働きに神名をつけて「月よみ(月読)の命」として敬う。人間、天地創造の際の「突っ張りの理」が三番手働きと云うことになる。それほど「突っ張りの理」が重要であると悟らせて頂くのが良い。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 「鯱ばる」とは、1、鯱のように厳めしく構える。2、緊張して固くなる、とある。「益荒男ぶり、手弱女ぶり」。 |
16 | 「かめ」が巽(たつみ、東南)の方角からやって来た。この者は皮が強く、ふんばりも強くて容易に転ばない特性によって、皮膚を始めとする「よろづ繋(つな)ぎの役目」に使われることになった。且つその特性が生殖機能としての「女一の道具」に使われ、これが「み」に仕込まれた。こうして女雛型ができあがった。神名をつけて「くにさづちい(国狭槌)の命」として祀られることとなった。神楽づとめの際には、つとめ人衆の女性が女面をつけ背中に亀を背負う。 |
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「かめ」は、「皮つなぎ及び女一の道具」機能を表象する。これを仮に「つなぎの理」と命名する。「人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万づつなぎの守護の理」である。この働きに神名をつけて「くにさづち(国狭槌)の命」として敬う。人間、天地創造の際の「つなぎの理」が四番手働きと云うことになる。それほど「つなぎの理」が重要であると悟らせて頂くのが良い。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 |
17 | 人間創造の機能の最初を「月読み」と「くにさづち」が担い、「月読み」が男性生理と骨つっぱり、「くにさづち」が女性生理と皮つなぎの役割を担った。 | |
このことがお筆先では次のように誌されている。
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ここで、くにさづちの命と月読みの命が登場しているが、両者は対の役割を担っており、ここでも「対の原理」が作動している。 「水火」の二大対原理を台として次に組み込まれた最初の機能が「突っ張りと皮つなぎ」であった。くにさづちの皮つなぎ、月読みの突っ張りがそれぞれの性の性質をも規定している。「水火」の二大対原理の次に性差が説かれていることになる。性が如何に重要な始原性を持つものかを知ることができよう。 補足しておけば、「元の理譚」はかくも「対としての性の型」を重視している。この構図は最近のジェンダー論の中性化志向と対立するものになっている。もっと云えば、「元の理譚」による男女性差重視はジェンダー式中性化論を否定している。この点も興味深い。 |
18 | 「うなぎ」が東(ひがし)の方角からやって来た。この者は精が強く、頭の方へも尾の方へもスルスルとぬけて行く特性によって、「よろづ飲み食い出入りの道具」に使われることになった。神名をつけて「くもよみ(雲 読)の命」として祀られることとなった。神楽づとめの際には、つとめ人衆の女性が女面を被る。 |
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「うなぎ」は、「飲み食い出入りの道具/消化器官」機能を表象する。これを仮に「飲み食い出入りの理」と命名する。神様が人間、天地創造の次に位置づけたのが「人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理」である。この働きに神名をつけて「くもよみ(雲 読)の命」として敬う。人間、天地創造の際の「飲み食い出入りの理」が五番手働きと云うことになる。それほど「飲み食い出入りの理」が重要であると悟らせて頂くのが良い。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 |
19 | 「かれい」が未申(ひつじさる、西南)の方角からやって来た。この者は身が薄く、風をおこすのに都合がよい特性によって、「よろづ息吹き分けの道具」に使われることになった。神名をつけて「かしこね(惶 根)の命」として祀られることとなった。神楽づとめの際には、つとめ人衆の男性が男面を被る。 |
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「かれい」は、「息吹き分けの道具/呼吸器官」機能を表象する。言語機能もこれより発する。これを仮に「息吹き分けの理」と命名する。この働きに神名をつけて「かしこね(惶 根)の命」として敬う。人間、天地創造の際の「息吹き分けの理」が六番手働きと云うことになる。それほど「息吹き分けの理」が重要であると悟らせて頂くのが良い。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 |
20 | この四神が「最初の一の道具」となった。 | |||||
このことがお筆先では次のように誌されている。
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ここで、くもよみ(雲 読)の命とかしこね(惶 根)の命が登場しているが、両者は対の役割を担っており、ここでも「対の原理」が作動している。 これを思案するのに、「眼潤いの水気」と「ぬくみの温気」の次に「よろず突っ張り」と「よろずつなぎ」、次に「飲み食い出入り」と「息吹き分け」の機能が重要であったということになる。後者の四機能が最初の二機能を補完する関係で働いており、仕込みの順に人間身の内を守護しているものと悟らせていただくことができる。 |
21 | 「くろぐつな」が西の方角からやって来た。この者は勢いが強く、引っぱっても容易にちぎれない特性によって、「母親の胎内からの引き出しを始めとするよろず引出しの道具」に使われることになった。成長の機能はこれにより、「立毛(りゆけ)の一の道具」としての地位が与えられている。神名をつけて「をふとのべ(大戸辺)の命」として祀られることとなった。神楽づとめの際には、つとめ人衆の男性が男面を被る。 | |
このことがお筆先では次のように誌されている。
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「くろくつな」は、「母親の胎内からの出産を始めとするよろず引き出しの道具=成長」機能を表象する。これを仮に「引き出しの理」と命名する。この働きに神名をつけて「をふとのべ(大戸辺)の命」として敬う。人間、天地創造の際の「引き出しの理」が七番手働きと云うことになる。それほど「引き出しの理」が重要であると悟らせて頂くのが良い。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 「くろぐつな」の「くろ」は色の黒であり、「くつな」は「くちなわ」、朽ちた縄が変化したもので蛇の方言である。この生命体だけは色もはっきりしている。黒蛇に似たうねうねと長い生命体である。 |
22 | 「ふぐ」が丑寅(うしとら、東北)の方角からやって来た。この者は食べるとよくあたって、この世との縁が切れるものである特性によって、母親の胎内からの切り離しを始めとする「よろづ切り離しの道具」に使われることになった。「ふぐ」に仕込みされ、へその緒切り」を始めとして生命の誕生から息の引き取りの世話をさせることにした。「世界のはさみ」としての地位が与えられている。神名をつけて「たいしょく天(大食天)の命」として祀られることとなった。神楽づとめの際には、つとめ人衆の女性が女面を被る。 | |
このことがお筆先では次のように誌されている。
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「ふぐ」は、「母親の胎内からの切り離しを始めとするよろず切り離しの道具=はさみ」機能を表象する。これを仮に「切り離しの理」と命名する。「人間身の内の出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引き取る世話、世界では切ること一切の守護の理」である。この働きに神名をつけて「たいしょく天(大食天)の命」として敬う。人間、天地創造の際の「切り離しの理」が八番手働きと云うことになる。それほど「切り離しの理」が重要であると悟らせて頂くのが良い。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 |
23 | 月読みを男の台に、くにさずちを女の台に、これに「くもよみ、かしこね、をふとのべ、大食天」の機能を備えさせて働きの道具が皆揃った。これらを合わせて「六台始まり」と云う。かんろ台の六角形はこの理によっている。 | |
このことがお筆先では次のように誌されている。
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ここで、をふとのべ(大戸辺)の命とたいしょく天(大食天)の命が登場しているが、両者は対の役割を担っており、ここでも「対の原理」が作動している。 人間及び世界創造の原理には今までの6機能に加えて「よろず引出し」と「よろず切り離し」の二機能が必要であった。水火の二大原理に加えて、突っ張り男一の道具、皮つなぎ女一の道具、飲み食い出入り、息吹き分けの4原理、更に「よろず引出し」と「よろず切り離し」の2原理が加わり併せて6機能が備わったことになる。これらを合わせて「六台始まり」と云う。かんろ台の六角形はこの理によっている。こうして、この世の要素はこの二大原理+6機能で成り立っていることが表象されている。都合「八台」となっていることを悟らせていただくことができる。 |
24 | 月日両神は泥海の中にたくさんいた「どじょう」を食べられて賞味し、その心根(こころね)を味わい、人間創造の際の「種」とした。これで、人間作りの全ての機能が備えられた。 | |||
このことがお筆先では次のように誌されている。
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これを思案するのに、「八台」の次に、人間創造の「種」として「どじょう」が必要であったと悟らせていただくことができる。何故人間の“ たね” はどじょうなのか?。「どじょう」は漢字で“ 泥鰌” と書く。英語では、weather fish(天気予報をする魚)と書き、未来を感知する能力があるとされている。れんだいこが思うに、「どじょう」の表象するものは精子、卵子のようなものではなかろうか。この教理より「どじょう」も大事にせねばならないことになる。 |
25 | さて、ここまで準備が整ったからには、その受け皿としての身の台を拵える必要があった。こうして次に、男の雛型として想定されていた「うお」が呼び寄せられ、「種宿しこみ」の役目が諭され、「いざなぎの命」の神名が与えられた。併せて、女の雛型として想定されていた「み」が呼び寄せられ、「苗代」の役目が諭され、「いざなみの命」の神名が与えられた。この「いざなぎの命」と「いざなみの命」が夫婦としての役目を担い、命を生み出すことになる。 | |||||
このことがお筆先では次のように誌されている。
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これを思案するのに、人間創造には男雛型と女雛型の二身が必要であり、これが「元始まりの親」となりその親が夫婦として「二つ一つ」に交(まぐわ)うことにより生命が宿され産み出されるということを悟らせていただくことができる。なお、万物霊長は雌雄の交合によって生命が生み出されているという普遍的な真理を拝することができる。ちなみに「雌雄の交合による万物創造」は記紀然り、「元の理」然りの観点になっている。この「雌雄の交合による万物創造」観点は、これを「学問的に隠す倣いのある教理」よりも優れているのではなかろうかと思う。ここに、日本思想の特質である性の重視且つそのおおらかな認識ぶりを見て取れよう。詳細は「元の理に基づく十全のご守護」。 |
26 | かくて、人間創造の雛型と道具衆が全員揃った。これを併せて十全の守護と云う。この守護は、月日親神の世話取りで生み出されているものであるから、人間は月日親神の守護を学び、有難いとして深く感謝しつつ大事に扱いながら日々を生きるのが人の道である。 | |||
このことがお筆先では次のように誌されている。
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こまでを思案するのに、人間身の内の守護には「八台」と雛型としての男と女の「二身」という「十全の守護」が必要であり、これに更に「種」が加わっていることを悟らせていただくことができる。思えば、人間の身体機能につきこれで全てを説き明かすことができる。有り難くも勿体ないお話であることが分かる。教祖当時の取次人であった古老達の話として、教祖は、「守護というのは千にも万にも説き分けられる。けれども、それを十の働きで説明する」と宣べられたとの由が伝えられている(「ほんあづま」№434)。 「雛型」とは、1、実物を小さくかたどったもの、模型。2様式、書式、手本とある。 |
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「十全の守護」はそのそれぞれに名前を付けて「十柱の神様」として呼ばれる。「十柱の神様」は、くにとこたちの命(水の理)とおもたりの命(火の理)を「二つ一つ」の大作用として横綱的に位置しており、それぞれが「東三神・女神/国狹槌、大食天、雲読」、「西三神・男神/月読、大戸辺、惶根」を三役として輔弼させつつ相互に立て合っている。その中でもさらに、つきよみの命(突っ張り)とくにさずちの命(つなぎ)、くみよみの命(水気上げ下げ、飲み食い出入り)とかしこねの命(息吹き分け)、おおとのべの命(引き出し)とたいしょくてんの命(切る理)が対照している。これら八神の助けを得てイザナギ、イザナミの岐美二柱が「二つ一つ」となられて中宮に治まっている。これで十柱の神が出揃うという関係にある。 |
【「十柱の神様」の相関関係、立ち位置図】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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27 | とはいえ、道具衆が揃っただけでは人間が創造される訳ではない。月日両神の「諭しと指図」が為され、道具衆がそれぞれの役目を「一手一つ」になって果たすよう指示された。こうして幾度も「談じ合い」が始まり幾度もの「練り合い」で息合わせが試された。 | |
このことがお筆先では次のように誌されている。
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(これは参考文であり、今後どんどん書き換えられていきます。最新は2021.11.27日の見直し)
(私論.私見)