【手引き論】 |
お道教義では、「神の口説き、手入れ、意見」は次に「神の手引き、道教え(道をせ)、仕込み」論に繋がり、「我が身直し、立て替え」の好機とせよ、という受け取りになる。つまり、「身上、事情の諭し」は、病諭し論と仕込み論の二段階で構成されていることになる。
天理教教典第六章「てびき」には、「いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ」とある。即ち、お道教義では、身上、事情は「神の手入れ、意見」であるとする諭しに加えて、更に積極的に「神意に引き合わせるための神の手引き」であるとも仰せられている。要するに、何に対しても受け取りが明るい、と云うことになる。「みちをせ」は、道を歩む上で正しい目的地に向かうことのできる道標のように、道を教えて下さる神の働きを云う。「よふむき」は、神の用に使いたいという親神様の御用向きを云う。
御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
何にても 病い痛みは 更になし
神のせきこみ 手引きなるぞや |
二号7 |
せきこみも 何ゆえなると ゆうならば
つとめの人衆 欲しい事から |
二号8 |
世界中 とこが悪しきや 痛みしよ
神の道教え 手引き知らすに |
二号22 |
この道に 病と言うて ないほどに
身のうち障り 皆な思案せよ |
二号23 |
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教祖伝逸話篇8「一寸身上に」。
文久元年、西田コトは、五月六日の日に、歯が痛いので、千束の稲荷さんへ詣ろうと思って家を出た。千束なら、斜に北へ行かねばならぬのに、何気なく東の方へ行くと、別所の奥田という家へ嫁入っている同年輩の人に、道路上でパッタリと出会った。そこで、「どこへ行きなさる」という話から、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる」という事を聞き、早速お詣りした 。すると、夕方であったが、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と、仰せられ、更に、「一寸身上に知らせた」とて、神様のお話をお聞かせ下され、ハッタイ粉の御供を下された。お話を承って家へ帰る頃には、歯痛はもう全く治っていた。が、そのまま四、五日詣らずにいると、今度は、目が悪くなって来た。激しく疼いて来たのである。それで、早速お詣りして伺うと、「身上に知らせたのやで」とて、有難いお話を、だんだんと聞かせて頂き、拝んで頂くと、かえる頃には、治っていた。それから、三日間程、弁当持ちでお屋敷のお掃除に通わせて頂いた。こうして信心させて頂くようになった。この年コトは三十二才であった。 |
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教祖伝逸話篇10「えらい遠廻わりをして」。
文久三年、桝井キク三十九才の時のことである。夫の伊三郎が、ふとした風邪から喘息になり、それがなかなか治らない。キクは、それまでから、神信心の好きな方であったから、近くはもとより、二里三里の所にある詣り所、願い所で、足を運ばない所は、ほとんどないくらいであった。けれども、どうしても治らない。その時、隣家の矢追仙助から、「オキクさん、あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と、すすめられた。目に見えない綱ででも、引き寄せられるような気がして、その足で、おぢばへ駆け付けた。旬が来ていたのである。キクは、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、「待っていた、待っていた」と、可愛い我が子がはるばると帰って来たのを迎える、やさしい温かなお言葉を下された。それで、キクは、「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました」と、申し上げると、教祖は、「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに」と、仰せられて、やさしくお笑いになった。このお言葉を聞いて、「ほんに成る程、これこそ本当の親や」と、何んとも言えぬ慕わしさが、キクの胸の底まで沁みわたり、強い感激に打たれたのであった。 |
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教祖伝逸話篇11「 神が引き寄せた」。
それは、文久四年正月なかば頃、山中忠七三十八才の時であった。忠七の妻そのは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、既に数日間、流動物さえ喉を通らず、医者が二人まで、「見込みなし」と、匙を投げてしまった。この時、芝村の清兵衞からにをいがかかった。そこで、忠七は、早速お屋敷へ帰らせて頂いて、教祖にお目通りさせて頂いたところ、お言葉があった。「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」と。 |
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教祖伝逸話篇24「 よう帰って来たなあ」。
大和国仁興村の的場彦太郎は、声よしで、音頭取りが得意であった。盆踊りの頃ともなれば、長滝、苣原、笠などと、近在の村々までも出かけて行って、音頭櫓の上に立った。明治四年、十九才の時、声の壁を破らなければ本当の声は出ない、と聞き、夜、横川の滝で「コーリャ コーリャ コーリャ」と、大声を張り上げた。昼は田で働いた上のことであったので、マムシの黒焼と黒豆と胡麻を、すって練ったものをなめて、精をつけながら頑張った。すると、三晩目のこと、突然目が見えなくなってしまった。ソコヒになったのである。長谷の観音へも跣足詣りの願をかけたが、一向利やくはなかった。それで、付添いの母親しかが、「足許へ来た白い鶏さえ見えぬのか。」と、歎き悲しんだ。こうして三ヵ月余も経った時、にをいがかかった。「庄屋敷に、どんな病気でも救けて下さる神さんが出来たそうな。そんなぐらい直ぐに救けて下さるわ」という事である。それで、早速おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いたところ、教祖は、ハッタイ粉の御供を三服下され、「よう帰って来たなあ。あんた、目が見えなんだら、この世暗がり同様や。神さんの仰っしゃる通りにさしてもろたら、きっと救けて下さるで」と、仰せになった。彦太郎は、「このままで越すことかないません。治して下さるのでしたら、どんな事でもさしてもらいます」とお答えした。すると。教祖は、「それやったら、一生、世界へ働かんと、神さんのお伴さしてもろうて、人救けに歩きなされ」と、仰せられた。「そんなら、そうさしてもらいます」と彦太郎の答が、口から出るか出ないかのうちに、目が開き、日ならずして全快した。その喜びに、彦太郎は、日夜熱心に、にをいがけ・おたすけに励んだ。それから八十七才の晩年に到るまで、眼鏡なしで細かい字が読めるよう、お救け頂いたのである。 |
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教祖伝逸話篇33「 国の掛け橋」。
河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を取って胸を打ち、三年間病の床に臥していた。医者にも見せ、あちらこちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、命旦夕に迫って来た。明治六年夏のことである。その時、同じ柏原村の「トウ」という木挽屋へ、大和の布留から働きに来ていた熊さんという木挽きが、にをいをかけてくれた。それで、父の利八が代参で、早速おぢばへ帰ると、教祖から、「この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待ってたのやで」と、結構なお言葉を頂いた。もどって来て、これを伝えると、利三郎は、「大和の神様へお詣りしたい」と言い出した。家族の者は、「とても、大和へ着くまで持たぬだろう」と止めたが、利三郎は、「それでもよいから、その神様の側へ行きたい」と、せがんだ。あまりの切望に、戸板を用意して、夜になってから、ひそかに門を出た。けれども、途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまったので、一旦は引き返した。しかし、家に着くと、不思議と息を吹き返して、「死んでもよいから」と言うので、水盃の上、夜遅く、提灯をつけて、又戸板をかついで大和へと向かった。その夜は、暗い夜だった。
一行は、翌日の夕方遅く、ようやくおぢばへ着いた。既にお屋敷の門も閉まっていたので、付近の家で泊めてもらい、翌朝、死に瀕している利三郎を、教祖の御前へ運んだ。すると、教祖は、
「案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるのや」と、仰せ下され、つづいて、「国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差し上げんか。荒木棟梁 々々々々」と、お言葉を下された。それから、風呂をお命じになり、「早く、風呂へお入り」と、仰せ下され、風呂を出て来ると、「これで清々したやろ」と、仰せ下された。そんな事の出来る容態ではなかったのに、利三郎は、少しも苦しまず、かえって、苦しみは去り、痛みは遠ざかって、教祖から頂いたお粥を三杯、おいしく頂戴した。こうして、教祖の温かい親心により、利三郎は、六日目にお救け頂き、一ヵ月滞在の後、柏原へもどって来た。その元気な姿に、村人達は驚歎した、という。 |
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教祖伝逸話篇36「 定めた心」。
明治七年十二月四日(陰暦十月二十六日)朝、増井りんは、起き上がろうとすると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日に悪化し、医者に診てもらうと、ソコヒとのことである。そこで、驚いて、医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくなられてから二年後のことである。こうして、一家の者が非歎の涙にくれている時、年末年始の頃、(陰暦十一月下旬)当時十二才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、「大和庄屋敷の天竜さんは、何んでもよく救けて下さる。三日三夜の祈祷で救かる」という話を聞いてもどった。それで早速、親子が、大和の方を向いて、三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖を拝み、取次の方々から教の理を承り、その上、角目角目を書いてもらって、もどって来た。これを幾太郎が読み、りんが聞き、「こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家のいんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます」と、家族一同、堅い心定めをした。りんは言うに及ばず、幾太郎と八才のとみゑも水行して、一家揃うて三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、なむてんりわうのみことと、繰り返し繰り返して、お願いしたのである。やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前で、お願い中端座しつづけていたりんの横にいたとみゑが、戸の隙間から差して来る光を見て、思わず、「あ、お母さん、夜が明けました」と、言った。その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から、一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は、昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。
りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。「さあ/\一夜の間に目が潰れたのやな。さあ/\いんねん、いんねん。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう」と、仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖からお言葉があった。「さあ/\いんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあ/\いんねん、いんねん。佐右衞門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら、直ぐ見える。見えるであろう。さあ/\勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの心次第やで」と、仰せ下された。その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へもどらせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、「遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやなあ。さあ/\その定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあ/\着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあ/\楽しめ、楽しめ、楽しめ」と、お言葉を下された。りんは、ものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん、三十二才であった。
註 仲田儀三郎、前名は佐右衞門。明治六年頃、亮・助・衞門廃止の時に、儀三郎と改名した。 |
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教祖伝逸話篇42「 人を救けたら」。
明治八年四月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、「庄屋敷村には生神様がござる」 と聞き、早速、三輪を経て庄屋敷に到り、お屋敷を訪れ、取次に頼んで、教祖にお目通りした。すると、教祖は、「心配は要らん要らん。家に災難が出ているから、早ようおかえり。かえったら、村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるのやで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻わるのやで。人を救けたら我が身が救かるのや」と、お言葉を下された。栄治郎は、心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て、菅浜に着いたのは、四月二十三日であった。娘は、ひどく狂うていた。しかし、両手を合わせて、なむてんりわうのみことと、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かになって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中ににをいがけをして廻わり、病人の居る家は重ねて何度も廻わって、四十二人の平癒を拝み続けた。すると、不思議にも、娘はすっかり全快の御守護を頂いた。方々の家からもお礼に来た。全快した娘には養子をもろうた。栄治郎と娘夫婦の三人は、救けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておられ、綺麗な上品なお姿であられた、という。 |
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教祖伝逸話篇48「 待ってた、待ってた」。
明治九年十一月九日(陰暦九月二十四日)午後二時頃、上田嘉治郎が、萱生の天神祭に出かけようとした時、機を織っていた娘のナライトが、突然、「布留の石上さんが、総髪のような髪をして、降りて来はる。怖い」 と言うて泣き出した。いろいろと手当てを尽したが、何んの効能もなかったので、隣りの西浦弥平のにをいがけで信心するうち、次第によくなり、翌月、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂いたところ、「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた叔母やで」と、有難いお言葉を頂き、三日の間に、すっきりお救け頂いた。時に、ナライト十四才であった。 |
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教祖伝逸話篇50「 幸助とすま」。
明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マスは、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と思って叱ると、やっと起きた。が、翌二十二日になっても、未だ身体がすっきりしない。それで、マスは、お屋敷へ詣らせて頂こう、と思って、許しを得て、朝八時伊豆七条村の家を出て、十時頃お屋敷へ到着した。すると、教祖は、マスに、「村田、前栽へ嫁付きなはるかえ」と、仰せになった。マスは、突然の事ではあったが、教祖のお言葉に、「はい、有難うございます」と、お答えした。すると、教祖は、「おまはんだけではいかん。兄さん(註、桝井伊三郎)にも来てもらい」と、仰せられたので、その日は、そのまま伊豆七条村へもどって、兄の伊三郎にこの話をした。その頃には、頭痛は、もう、すっきり治っていた。それで、伊三郎は、神様が仰せ下さるのやから、明早朝伺わせて頂こう、ということになり、翌二十三日朝、お屋敷へ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、「オマスはんを、村田へやんなはるか。やんなはるなら、二十六日の日に、あんたの方から、オマスはんを連れて、ここへ来なはれ」と、仰せになったので、伊三郎は、「有難うございます」 と、お礼申し上げて、伊豆七条村へもどった。翌二十四日、前栽の村田イヱが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、「オイヱはん、おまはんの来るのを、せんど待ちかねてるね。おまはんの方へ嫁はんあげるが、要らんかえ」と、仰せになったので、イヱは、「有難うございます」と、お答えした。すると、教祖は、「二十六日の日に、桝井の方から連れて来てやさかいに、おまはんの方へ連れてかえり」と、仰せ下された。二十六日の朝、桝井の家からは、いろいろと御馳走を作って重箱に入れ、母のキクと兄夫婦とマスの四人が、お屋敷へ帰って来た。前栽からは、味醂をはじめ、いろいろの御馳走を入れた重箱を持って、親の幸右衞門、イヱ夫婦と亀松(註、当時二十六才)が、お屋敷へ帰って来た。そこで、教祖のお部屋、即ち中南の間で、まず教祖にお盃を召し上がって頂き、そのお流れを、亀松とマスが頂戴した。教祖は、「今一寸前栽へ行くだけで、直きここへ帰って来るねで」と、お言葉を下された。この時、マスは、教祖からすまと名前を頂いて、改名し、亀松は、後、明治十二年、教祖から幸助と名前を頂いて、改名した。
註 レンド レンドは、又レンゾとも言い、百姓の春休みの日。日は、村によって同日ではないが、田植、草取りなどの激しい農作業を目の前にして、餅をつき団子を作りなどして、休養する日。(近畿民俗学会「大和の民俗」、民俗学研究所「綜合日本民俗語彙)
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教祖伝逸話篇52「 琴を習いや」。
明治十年のこと。教祖が、当時八才の辻とめぎくに、「琴を習いや」と、仰せになったが、父の忠作は、「我々の家は百姓であるし、そんな、琴なんか習わせても」と言って、そのままにして、日を過ごしていた。すると、忠作の右腕に、大きな腫物が出来た。それで、この身上から、「娘に琴の稽古をさせねばならぬ」と気付き、決心して、郡山の町へ琴を買いに行った。そうして、琴屋で、話しているうちに、その腫物が潰れて、痛みもすっきり治まった。それで、「いよいよこれは、神様の思わくやったのや」と、心も勇んで、大きな琴を、今先まで痛んでいた手で肩にかついで、帰路についた、という。 |
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教祖伝逸話篇55「 胡弓々々」。
明治十年のこと。当時十五才の上田ナライトは、ある日、たまたま園原村の生家へかえっていたが、何かのはずみで、身体が何度も揺れ動いて止まらない。父親や兄がいくら押えても、止まらず、一しょになって動くので、父親がナライトを連れて、教祖の御許へお伺いに行くと、 「胡弓々々」と、仰せになった。それで「はい」とお受けすると、身体の揺れるのが治まった。こうして、胡弓をお教え頂くことになり、おつとめに出させて頂くようになった。 |
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教祖伝逸話篇57「 男の子は、父親付きで」。
明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子供二、三名と、村の西側を流れる佐保川へ川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと、大層腫れて来た。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種種と手を尽したが、一向効しは見えなかった。その頃、同村の喜多治郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとは、既に熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに、信心をすすめてくれた。ことは、元来信心家であったので、直ぐ、その気になったが、楢蔵の父惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ信心する者を笑っていたぐらいであった。そこで、ことが、「わたしの還暦祝をやめるか、信心するか。どちらかにしてもらいたい」 とまで言ったので、惣五郎はやっとその気になった。十一年一月(陰暦 前年十二月)のことである。そこで、祖母のことが楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところを、ごらん頂くと、教祖は、「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで」と、お言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のなかが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしく御守護を頂けない。
明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、 ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、「『男の子は、父親付きで』と、お聞かせ下さる。一度、惣五郎さんが連れて詣りなされ」と、言ってくれた。それで、家へもどってから、ことは、このことを惣五郎に話して、「ぜひお詣りしておくれ」と、言った。それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、すっきり全快の御守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も、心に沁みて親神様の御守護に感激し、これが、一生変わらぬ堅い信仰のもととなった。
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