【たんのう(足納)成人論】 |
お道教義では、神一条信仰、生活への転換を歩一歩促している。その歩一歩の階梯を「たんのう」と云う。「たんのう」の漢字当て字は「足納」と書く。「堪能」とする説もある。 広辞苑の編者である新村出博士によると、「たんのう」の原義は「足りている」ことで、「足りぬ」が「足んぬ」と変化したものであるとしている。
「たんのう」とは、「足りていることを味わう境地」、「逆境に臨んでの心の切り替え」と考えられる。自分の身に降りかかる全ての出来事(事情、身上)に対し、これらから逃げることなく、不平を言うのでもなく、泣く泣く辛抱むしろ 「たんのうは前生いんねんのさんげ」、「成って来るのが天の理」と前向きに正面から受け止め、陽気暮らしの道へ向かう為の親神の思し召しにして手引きであり、これにより成人を促されているものとして有難く頂戴する気持ちと覚悟で向き合うのが良い。親神の示唆を拝する心持ちが大事で、この心構えに対しても「たんのう」と云う。
次に教理の貸し物借り物の理を心に治め、心のほこりを払う努力を怠らず、「因縁」を自覚し、その納消に向けて心を励まして踏ん張る精進の日々のあり姿のことを云う。「お道」では、かくどんなときも報恩、喜びの心で日々を生きる生き方が示唆されている。「不足は切る理、たんのうはつなぐ理」、「たんのうは前生のさんげ」とも説かれており、芳しくない運命切り換えの契機とするよう促されている。夫婦、親子、家族の団欒も同じ理である。
お道教義では、信仰生活の階梯を「成人」というお言葉で例え話しされている。
「人が人生途上で難関にぶつかった時、成人している者としていない者との差がはっきりする。成人のできていない者はあわてうろたえ、不足をし、悲しむ。成人している者は、苦労の中でも喜んで、勇んで、有難く通れる。この心をたんのうと云う」。 |
御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
だんだんと 子供の出世 待ちかねる 神の思惑 こればかりなり |
四号65 |
日々に 澄むし分かりし 胸のうち 成人次第 見えてくるぞや |
六号15 |
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教祖お諭しは次の通り。
「世界には、枕元に食べ物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」 。 |
「たんのうは誠」。 |
「子供の楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや」。 |
「苦労は道の物種や、今の苦労が末の楽しみや」 |
「先は長いで。どんな事があっても、愛想尽かさず信心しなされ。先は結構や。たんのうせよ。後々は結構なことやで」 |
「人が何と云うても、云おうとも、人の云うこと、心にかけるやないほどに。今日の日、何か見えるやないけれども、先を楽しめ。楽しめ」。 |
「見事な枝ぶりだと褒めそやされるような松の木でも、小さい時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで」。 |
「先になったら、難儀しようと思うたとて難儀できんのやで。今、しっかり働いておきなされや」。 |
「苦労は道の物種や、今の苦労が末の楽しみや」。 |
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逸話篇21「結構や、結構や」。
慶応四年五月の中旬のこと。それは、山中忠七が入信して五年後のことであるが、毎日々々大雨が降り続いて、あちらでもこちらでも川が氾濫して、田が流れる家が流れるという大洪水となった。忠七の家でも、持山が崩れて、大木が一時に埋没してしまう、田地が一町歩程も土砂に埋まってしまう、という大きな被害を受けた。この時、かねてから忠七の信心を嘲笑っていた村人達は、「あのざまを見よ。阿呆な奴や」と、思い切り罵った。それを聞いて忠七は、残念に思い、早速お屋敷へ帰って、教祖に伺うと、教祖は、「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うやろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで」と、お聞かせ下された。忠七は、大難を小難にして頂いたことを、心から親神様にお礼申し上げた。 |
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逸話篇39「もっと結構」。
明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい」と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結講でございました」 と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか」と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。 |
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逸話篇133「先を永く」。
明治十六年頃、山沢為造にお聞かせ下されたお話に、「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、急ぐ事要らん」、「早いが早いにならん。遅いが遅いにならん」、「たんのうは誠」と。 |
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逸話篇147「本当のたすかり」。
大和国倉橋村の山本与平妻いさ(註、当時四十才)は、明治十五年、ふしぎなたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の足の悩みをすっきり御守護頂いた。が、そのあと手が少しふるえて、なかなかよくならない。少しのことではあったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治十七年夏、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかって、そのふるえる手を出して、「お息をかけて頂きとうございます」と、願った。すると、教祖は、「息をかけるは、いと易い事やが、あんたは、足を救けて頂いたのやから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっきり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいんねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすかりやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろ。これを写してもろて、たえず読むのやで」と、お諭し下されて、おふでさき十七号全冊をお貸し下された。この時以来、手のふるえは、一寸も苦にならないようになった。そして生家の父に写してもらったおふでさきを、生涯、いつも読ませて頂いていた。そして、誰を見ても、熱心ににをいをかけさせて頂き、八十九才まで長生きさせて頂いた。 |
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逸話篇184「 悟り方」。
明治十九年二月六日(陰暦正月三日)、お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、家から、かねて身上中の二女みちゑがなくなったという報せが届いた。教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、教祖は、「それは結構やなあ」と、仰せられた。梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、更に、もう一度、「子供をなくしましたので」と、申し上げると、教祖は、ただ一言、「大きい方でのうて、よかったなあ」と、仰せられた。 |
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逸話篇「198、咲く花、咲かぬ花」。
「或る時、清水與之助、梅谷四郎兵衛、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合っていると、教祖が、次のようにお諭し下された。『どんな気菜でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もある出。一年咲かんでも、又、年が変れば咲くで』」。 |
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「栗の節句とは、苦がなくなるということである。栗はイガの剛(こわ)いものである。そのイガをとれば、中に皮があり、又渋がある。その皮なり渋をとれば、まことに味の良い実が出てくるで。人間も、理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで」(「イガの理」)。 |
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高井猶吉「教祖より聞きし話」43-44頁の「なるほどの理」。
「『このお道のお話は、一言は十言に値する』と仰る。一言の話でも、なるほど、と腹(心)に治まったら、『救からん身上も救かる』。『治まらん事情も治まる』。なるほど、と治めるところに救かる理があるのや。教祖は『日々教理を聞いて、なるほど、そうに違いない、と感じることは、心の養(やしな)い』と仰る。 早い話は、人間は米(食料)を食うて日々の養い(栄養)を摂(と)っている。食べなければ身上(からだ)は痩(や)せる。日々に教えの理を聞かしてもらい、なるほどと感じることは心の養いである。それで心に力が出来るのである。ゆえに分かった話でも、何遍(なんべん)も何遍も聞かしてもろうて、その時の感じを腹(心)に治める。それが、『なるほどの理を治める』ということになるのである。心に納得できると、心に力ができる。この事を、成人、と言うのである。あんなところ、よう辛抱したものや。ふつうの人なら到底できん。参ってしまう。しかし、本人にしてみれば比較的平気である。ちょっとした事で心を濁らしたり、狂うたりするのは『心に力の無い証拠』である。悪いと知りつつもやめられん、ということを、世界の人からよく聞くのである。お道でも 、あの人のあれは、いづれ、ひどい目に遭わねば治まらん、とよく聞くことである。まことに忌(いま)わしいことである。『日々に教えの理を聞かせてもろうて、心に力を付けることが肝心』である。 心の成人を願う、のである。『心の成人待ちかねる 神の思惑 こればかりやで』」。
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お指図には次のような御言葉がある。
「たんのう/\心定めるなら、やれ/\。たんのうなくては、受け取るところ一つないで」(明治20.3.25日)。 |
「難儀さそ、不自由さそという親はない。幾名何人(いくめいなんにん)ありても、救けたいとの一条である。その中隔てにゃならん、隔てられんやならん、というところ、世上見て一つの思案。この理を聞き分け。一つはたんのう(足納)と。善き種蒔(ま)けば善き芽が吹くも、世上見て一つのたんのうとの心定め。たんのうとの理を持ちて、案じる事は要らん。案じては案じの理を(が)回る。案じは要らん、と、大きな心を持ちて理を治め。善き種蒔けば善き実がのる、との指図、と」(明治21.6月)。 |
「人間というものは、身の内かりもの八つのほこり、この理を分かりさいすれば、何も彼も分かる。そこで、たんのうという理を諭してやれ」(明治21.7.4日)。 |
「たんのうは誠より出やせん」(明治21.10.28日)。 |
「人が障りあればあれはほこりやと言う。どうも情けない」(明治22.10.9)。 |
一日の日でも心たんのう(足納)の理は受け取る。金銭の心は受け取りは無い。心だけ金銭、何程(なにほど)の金を持って来て、今日からと言うても受け取るものやない。これだけよう聞き分け。 おさしづ 明治23.6.17 午前三時半
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「因縁の理を聞き分けば治まる。治まらぬはどういうものであろうという。因縁の理を諭していて、因縁の理が分からん。因縁の道を通って了い、又内々因縁聞き分け。因縁という一つの理聞き分けて、たんのう事情聞き分け。たんのう一つの理を聞き分け」(明治23.8.26日) 。 |
思うよう〈に〉成るも因縁、成らんも因縁。皆んな(みんな)段々因縁知らず/\越せば、どんな因縁が持って出るや分からん。どねしても(どのようにしても)成らんが因縁。金銀力(きんぎんちから)で行けば、世上に一つの理もあるまい。金銀力で行かんが因縁という。 おさしづ 明治23.8.26 補遺 |
「世上を見てたんのうという」(明治23.12.27日)。 |
「たんのうは前生因縁のさんげ」(明治23.12.27日)。 |
「たんのうは真の誠より出る。真の誠はたんのう」(明治24.12.30日)。 |
「ふじいうの処たんのふするはたんのふ、徳をつむといふ、受け取るといふ。これ一つきゝわけにやならん」(明治28.3.6日)。 |
「因縁一つの理は、たんのうより外に受け取る理はない」(明治29.10.4日)。 |
「わるい中にたんのうおさめられん、道理といふ、ならん中たんのう、をさめられん所からをさめるは真実まことといふ、前生因縁のさんげともいふ」(明治30.7.14日)。 |
「あちらもこちらも事情が重なっている中で“たんのう”しろと言ってもできにくいであろう。しかし、どう思ってみても、どうなるものではない。よく聞き分けて、日々結構に通らせて頂いて有難いという、“たんのう”の心を治めなさい。体がつらい苦しいというときに、“たんのう”しろと言ってもできないであろう。けれども、この道の話をよく聞きわければ分かるはずである。今日まで通ってきた日々の中に、親心を十分おかけ頂いてきたことを思案しなさい。身上、事情の苦しい中、“たんのう”できにくい中に、“たんのう”して通るのが、前生因縁の“さんげ”である。前生因縁は、これより“さんげ”の道はない」(明治32.3.23日)。 |
「このぢばという/\、あちら眺めても こちら眺めても、皆(みな)敵であった。皆な幼少ばかり、これを見て教祖(おやさま)誰に頼り、彼に頼りなき理を見て、たんのう(足納)してくれにゃならん。元から子 生み出したも同じ事/\。それぞれ相談/\一つ理。皆な兄何人あるか。聞き分けてたんのう。この兄親一つ理、教祖存命苦労艱難見れば、聞き分け。今日は不自由さそう、難儀さそうと言うのやない。兄親の数を幾人(いくにん)あるか、一つ理見てくれにゃならん」(明治29.12.22日)。
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