【成人論】 |
お道教義では、信仰生活の階梯を「成人」というお言葉で例え話しされている。
「人が人生途上で難関にぶつかった時、成人している者としていない者との差がはっきりする。成人のできていない者はあわてうろたえ、不足をし、悲しむ。成人している者は、苦労の中でも喜んで、勇んで、有難く通れる。この心をたんのうと云う」。 |
御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
だんだんと 子供の出世 待ちかねる
神の思惑 こればかりなり |
四号65 |
日々に 澄むし分かりし 胸のうち
成人次第 見えてくるぞや |
六号15 |
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教祖お諭しは次の通り。
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逸話篇196「子供の成人」。
『分からん子供が分からんのやない。親の教えが届かんのや。親の教えが、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ』。教祖は、繰り返し繰り返し、このようにお聞かせ下された。そのお陰につて、分からん人も分かり、助からん人も助かり、難儀する人も難儀せぬようになる道を、おつけくだされた。 |
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逸話篇133「先を永く 」。
明治16年頃、山沢為造にお聞かせ下されたお話しに、『先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、急ぐ事要らん』、『早いが早いにならん。遅いが遅いにならん』、『たんのうは誠』、と。 |
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高井猶吉「教祖より聞きし話」43-44頁の「なるほどの理」。
『このお道のお話は、一言は十言に値する』と仰る。一言の話でも、なるほど、と腹(心)に治まったら、『救からん身上も救かる』。『治まらん事情も治まる』。なるほど、と治めるところに救かる理があるのや。教祖は『日々教理を聞いて、なるほど、そうに違いない、と感じることは、心の養(やしな)い』と仰る。 早い話は、人間は米(食料)を食うて日々の養い(栄養)を摂(と)っている。食べなければ身上(からだ)は痩(や)せる。日々に教えの理を聞かしてもらい、なるほどと感じることは心の養いである。それで心に力が出来るのである。ゆえに分かった話でも、何遍(なんべん)も何遍も聞かしてもろうて、その時の感じを腹(心)に治める。それが、『なるほどの理を治める』ということになるのである。心に納得できると、心に力ができる。この事を、成人、と言うのである。あんなところ、よう辛抱したものや。ふつうの人なら到底できん。参ってしまう。しかし、本人にしてみれば比較的平気である。ちょっとした事で心を濁らしたり、狂うたりするのは『心に力の無い証拠』である。悪いと知りつつもやめられん、ということを、世界の人からよく聞くのである。お道でも 、あの人のあれは、いづれ、ひどい目に遭わねば治まらん、とよく聞くことである。まことに忌(いま)わしいことである。『日々に教えの理を聞かせてもろうて、心に力を付けることが肝心』である。 心の成人を願う、のである。『心の成人待ちかねる 神の思惑 こればかりやで』。
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