路銀論

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「路銀論」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


路銀論
 一般的な意味での「ろぎん(路銀)」とは、旅をする際の宿泊や食費などの旅費にあてるお金のことを云う。お道では、旅のお金のことではなく、助け一条の旅に出る布教師に親神様から授けて下さる「おさづけ」を効能として、その対価として得られる謝礼金のことを云う。「心のろぎん」(お指図、明治31.3.30日)という表現も使われている。

 教祖(おやさま)が「肥のさづけ」を下さるときに「長の道中路銀のうては来られようまい、路銀として肥授けよう」と仰せられたことにより「おさづけ」を「ろぎん(路銀)」、他にも「教会名称の理」を許されたことは「ろぎん(路銀)」を渡したようなものであるという理解がされているが、それは表現上の省略形を無視した単直理解に過ぎよう。お道のお助け活動に対する僅かばかりの対価と位置づけるべきだろう。

 一ッ広い世界を 打ち回わり
 一せん二せんで たすけ行く
み神楽歌九下り目一ッ

 「長の道中路銀のうては来られようまい、路銀として肥授けよう」。
 「三杯たべるものを二杯にして、身の暮しをつつましやかにして、一杯を人さまから喜んでもらう。こうしてたすけてもらうこと」。
(私論.私見)
 本部教理では、布教に使う「お授け」そのものを「路銀」(ろぎん)としているが、違うと思う。み神楽歌九下り目一ッの「広い世界を 打ち回わり 一せん二せんで たすけ行く」が根拠となる。このみ神楽歌の「一せん二せん」を「一洗二洗」と解する向きもあるが、「一銭二銭」と受け取る方が素直であろう。み神楽歌の神楽踊りでは、このところで「一本二本と指を出し、これを両手で受ける」手振りをする。これより思案すれば、「“道の路銀”と仰せ下されてある『お授け』を取りついで、一銭二銭の喜捨(きしゃ)をもらいながら難儀不自由の人々を求めてたすけて行く」と受け取るべきであろう。




(私論.私見)