親子、子供、兄弟論

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「親子、子供、兄弟」教理を確認する。

 2016.02.29日 れんだいこ拝


【親子論】
 「お道教義」に於ける「親子兄弟論」を確認しておく。他の宗教教義、諸思想に比して独特の且つ高度深淵な理合いが説かれている。

 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 親子でも 夫婦の仲も 兄弟も
 皆な銘々に 心違うで
五号8

 教祖は次のようにお諭しなされている。
 「をやの心、殺して通る者。勝手な道を歩む者。なれど、一度は許す、二度は救ける、三度は許さん」。(明治18.3.14、松村榮治郎)
 16「子供が親のために」。
 桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、五十町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお救け下さいませ」と、お願いすると、教祖は、「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救からんで」と、仰せになった。これを承って、他ならぬ教祖の仰せであるから、伊三郎は、「さようでございますか」と言って、そのまま御前を引き下がって、家へかえって来た。が、家へ着いて、目の前に、病気で苦しんでいる母親の姿を見ていると、心が変わって来て、「ああ、どうでも救けてもらいたいなあ」という気持で一杯になって来た。それで、再びお屋敷へ帰って、「どうかお願いです。ならん中を救けて頂きとうございます」と願うと、教祖は、重ねて、「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん」と、仰せになった。教祖に、こう仰せ頂くと、伊三郎は、「ああやむをえない」と、その時は得心した。が、家にもどって、苦しみ悩んでいる母親の姿を見た時、子供としてジッとしていられなくなった。又、トボトボと五十町の道のりを歩いて、お屋敷へ着いた時には、もう、夜になっていた。教祖は、もう、お寝みになった、と聞いたのに、更にお願いした。「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます」と。すると、教祖は、「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と、仰せ下された。この有難いお言葉を頂戴して、キクは、救からん命を救けて頂き、八十八才まで長命させて頂いた。
 57「男の子は、父親付きで」。
 明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子供二、三名と、村の西側を流れる佐保川へ川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと、大層腫れて来た。別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種種と手を尽したが、一向効しは見えなかった。その頃、同村の喜多治郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとは、既に熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに、信心をすすめてくれた。ことは、元来信心家であったので、直ぐ、その気になったが、楢蔵の父惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ信心する者を笑っていたぐらいであった。そこで、ことが、「わたしの還暦祝をやめるか、信心するか。どちらかにしてもらいたい」とまで言ったので、惣五郎はやっとその気になった。十一年一月(陰暦 前年十二月)のことである。そこで、祖母のことが楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところを、ごらん頂くと、教祖は、「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで」と、お言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のなかが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしく御守護を頂けない。

 明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、 ことが楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、「『男の子は、父親付きで』と、お聞かせ下さる。一度、惣五郎さんが連れて詣りなされ」と、言ってくれた。それで、家へもどってから、ことは、このことを惣五郎に話して、「ぜひお詣りしておくれ」と、言った。それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れておぢばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、すっきり全快の御守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもなかった。当時十才の楢蔵も、心に沁みて親神様の御守護に感激し、これが、一生変わらぬ堅い信仰のもととなった。

 117「父母に連れられて」。
 明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衞が、当時五、六才の梅次郎を連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、梅次郎は、赤衣を召された教祖にお目にかかって、当時煙草屋の看板に描いていた姫達摩を思い出したものか、「達摩はん、達摩はん」と言った。それに恐縮した四郎兵衞は、次にお屋敷へ帰らせて頂く時、梅次郎を同伴しなかったところ、教祖は、「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで」と、仰せられた。このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた、という。
 143「子供可愛い」。
 深谷源次郎は、一寸でも分からない事があると、直ぐ教祖にお伺いした。ある時、取次を通して伺うてもろうたところ、「一年経ったら一年の理、二年経ったら二年の理、三年経てば親となる。親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん」と、お諭し下された。源次郎は、このお言葉を頂いて、一層心から信者を大事にして通った。お祭日に信者がかえって来ると、すしを拵えたり餅を搗いたり、そのような事は何んでもない事であるが、真心を尽して、ボツボツと信者を育て上げたのである。
 157「ええ手やなあ」。
 教祖が、お疲れの時に、梶本ひさが、「按摩をさして頂きましょう。」と申し上げると、「揉んでおくれ」と、仰せられる。そこで、按摩させてもらうと、後で、ひさの手を取って、「この手は、ええ手やなあ」と、言うて、ひさの手を撫でて下された。又、教祖は、よく、「親に孝行は、銭金要らん。とかく、按摩で堪能させ」と、歌うように仰せられた、という。
 196「子供の成人」。
 教祖の仰せに、「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ」と、繰り返し繰り返し、聞かして下された。お蔭によって、分からん人も分かり、救からん人も救かり、難儀する人も難儀せぬようの道を、おつけ下されたのである。

【お指図】
 お指図には次のような御言葉がある。
 親と称え(とな)え、親と言うは、子供育てるも、いかなる道を通る。親の心、真実道を知らせば親と言う」。(明治20.4月補遺)
 「人間々々元が分かろまい。世界中皆(みな)神の子供。難儀さそう、困らそうという親はあるまい。親あって子がある。この理を聞け。憎い可愛(かわいい)の隔てない」。(明治20.12.9日補遺)。
 「古き者は 親と思え。親となれば 子は可愛いというもの。皆な満足さして治めにゃならん。子供は子供だけの事。腹を立てゝは親であらせん。親となれば子を可愛との心にならねばならん。子を憎む心では親でない。この理をよく聞き分けておけ」。(明治21.6.30日補遺)
 「大きい心を持って通れば大きい成る、小さい心を持って通れば小そう成る。親が怒って子供はどうして育つ。皆な親の代わりをするのや。満足さして連れて通るが親の役や」。(明治21.7.7日)
 「この世に親という理は面々(銘々)の二人より外(ほか)にもう一人(いちにん)あろうまいがな。皆々々聞いておけ」。(明治21.8.9日)
 「親に孝心、夫に貞女(ていじょ)、世界の事情、どうでもこれを分けねばならん」。
 (明治22.1.13日)
 「子供の成人楽しみに、日々に功(こう)を積んで居る。皆その通り、いつもいつまでも親の厄介になる者はどんならん」。(明治22.1.24日午前9時)
 「家内親々一つの事情、一代又二代、心の理があって一つ十分に治めある」。
 (明治22.6.10日)
 「さあさぁ小児因縁/\、あたゑ/\という」、「さあ/\与えたる小児は、親々の親という。親々の親を与えたるという」。(明治22.6.16日)
 これまで尽す運ぶ中に、互い助け合いは諭する理、又所に一つ成程の者というは、第一に家業親孝心、二つ一つが天の理という。(明治22.10.9日補遺)
 古き者 親という。子は何人ありても親は一人。為(な)したる事は どうでも立てねばならん。親がありて子というは、親が賢(かしこ)うても、子は鈍(どん)な者 出ける(できる)やら知れん。子は、親が鈍な者やと言う者があるなれども、何ぼ(なんぼ)鈍な親でも、親があればこそ。年が寄れば 鈍な者や。鈍な者でも 親というもの大切なものや。‥親というものは どれだけ鈍な者でも、親がありて子や。子は何ぼ(なんぼ)賢うても 親を立てるは一つの理や。これだけの理を聞かしおこう 。(明治22.10.14日、陰暦9.20日) 
 一日の日は遊びに行て来うか言うて暮らして、奈良へ行こと思えば、年寄ったら手を引いて上げましょうと言うて、手を引かねば行かりゃせん。この理をよう/\気を付けさっしゃい。この理から年が寄ればくどい事を言う。理と理と親子なるこのやしき(屋敷)へ入り込めば、年取りた者を親と見立てるよう。この理を聞き取ってくれ。(明治22.10.14日午前8時20分)
 親は親。何も案ぜる事は要らん。どういう事も治まれば皆な治まる。親小人同じ事情。
 (明治22.10.22日)
 元というはをやという。をやという理は可愛い理に育てば(育てれば)、どんな所も育つ。親と成りて育つるは可愛という理を以(もっ)て育てるよう。これだけ一寸(ちょっと)諭しおこう。
 (明治22.11.27日)
 日々家業第一内々親孝心、この二つ理がこれが天の理。
 (明治22.12.14日補遺)
 親という理に子という理、救けにゃならんが親の理。可愛い一条、‥。
 (明治23.8.7日)
 「さあ/\人間というは神の子供という。親子兄弟同んなじ中といえども、皆な一名一人の心の理を以て生れて居る。何ぼどうしようこうしようと言うたところが、心の理がある。何ぼ親子兄弟でも」。
 (明治23年8.9日)。
 「古き者に親が尽して子が尽す当り前、子が尽して親が何でもという心の理がある」。
 (明治23.10.1日)
 「十分(じゅうぶん)子が成人する。親々の理 子にある。子に真実誠あれば理がある。古い者は親ともいう」。
 (明治24.1.8日)
 「親の理は神の理、‥」。
 (明治24.3.25日)
 「めん/\の子供の親あって子、‥」。
 (明治24.5.13日)
 「いかなるもいんねん、ほこりもいんねん、難儀するもいんねん、暮らすもいんねん、それ/\(それぞれ)のいんねん。親の理に分からんは知らず/\の理であろうまい。‥ いんねん事情、いんねん事情なら通らねばならん。いんねんというは そう/\どうむ(どうも)ならん。曇りの中でも暮らさにゃならん。それ/\親から明らか事情持たねばならん。これだけ諭するによって、しいかり(しっかり)聞き分け」。(明治24.5.20日)
 「事情どういう事を聞き、今の不自由を思わずして、他の處(ところ)、世界万事(ばんじ)の中、一つの理が難儀不自由。親一つの理を以(もっ)てすれば、治まらん事はない。よく聞き取ってくれ」。
 (明治24年7月)
 「子供という、親という、親は辛抱(しんぼう)して、この物は数無い物や、残してやろ、と言うが親の理。上と言えば上、兄と言えば兄、親と言えば親の理。しっかり聞いてくれ」。
 (明治24.11.15日夜1時)
 「勝手良い理に寄って 勝手の悪き理は寄り難(に)くい理であろう。勝手の良き理は置かん。この道では選り喰い(よりぐい)同様、親という理分からねば何も分からん」。
 (明治25.10.15日)
 「心の尽し方、親孝行の理も同じ事、皆な随(つ)いて来る」。
 (明治26.5.17夜)
 「どうでもこうでも伝う理、親という代、そのあと伝わにゃならん。尋ねるまでのもの。真実の理を見た限り、親のあと子が伝う。心なき者どうしようと言うて成るものやない。元々の理を伝わにゃならん」。(明治26.6.21)
 「親が分からにゃ、子が皆分からん」。
 (明治27.3.15)
 「親は子を思うは一つの理、子は親思うは理。この理聞き分け。何でもぢば、という理が集まりて道という」。(明治28.3.10)
 「第一心 一人心、親という理思う。神という理思う。思うは鮮やか。思うは神の理、親の理忘れる事なら道とは言わん。‥生涯さしづは生涯 親の理 神の理、その理 知らねばならん」。(明治28.6.24)
 「一戸の内に諭しても分かるやろ。水も同じ事。汲(く)めば飲める。親があって子という。子は何人あれど皆(みな)可愛いもの。なれど、どんならにゃ ならんように片付ける。中に出直す者もある。我が子であってまゝ(まま)にならん。出すにも出せん、切るにも切られん。あんな者は何處へなっとと(原文まま)思えど、真の理は切れるか。この理から取ってみよ」(明治31.3.30日)。
 「親子となるいんねん理、聞き分け。親子それはどうでも、一日々々深くなる。親子分かろまい。一日の日の処、将来さしづ、皆いんねん、いんねん以て寄る」。(明治32.4.27日)
 「親ありて子、親ありて子。思やん(思案)せい。結構思えど、心に掛かれば どうもならん。理の煩(わずら)わんようにせにゃならん」。(明治32.9.23)
 「親の後は子である。親に子が無けねば、貰(もろ)てなりと末代(まつだい)という。よう聞き分け。心が悔(く)やめば、切り(限り)が無い、果てが無い。‥これが間違いと思たら、間違う。聞き違えば違う。さあ/\心配する事要らんで。親は一代 理は末代、神は末代。理は違わん。この理 聞き分けてくれ」。(明治33.4.3)
 「何も彼も皆な因縁同志(同士)。因縁という親子の理、因縁の理聞き分け、善い子持つも悪い子持つも因縁。これ聞き分けにゃならん」。(明治34.3.11日)
 「皆な夫婦と成るも因縁、親子と成るも因縁。どうでもこうでも因縁なくして成らるものやない。夫婦親子と成り、その中よう聞き分けにゃならん 。堪いられん(耐えられん)ところから親という因縁というところから、どういうところも治め。一人の理ではない。‥道という。扶け合い(たすけあい)というは、それぞれ諭す。又、因縁の中というは、尚々(なおなお)の事。因縁、それはやり損(ぞこ)のうてはならん、運び損のうてはならん。‥夫婦親子というは深い仲、それには又、兄弟/\ある。この理 何か結び合い/\、この心定め。成る理は言うまで。何か因縁為す(なす)中なら、どうという一時急く事、人という心寄せ/\、心寄せるなら又、世界もほんになあ道と言う。早く順序定め。急く/\」。(明治34.3.26日夜、補遺)
 「親の言う事は、道の上の心と思わにゃ理やない。道の理やで。これさえ聞き分けたらば、腹立ちゃせん。たゞ(ただ)ぬっと大きなって、子の間はというものは、どういう事も知りゃせん。さあ/\欲というものに切り(限り)は無い/\。いんねん(因縁)が悪かったらどうするか。門に立って一度のものも乞うや。不自由の理 聞き分け。不自由の理 聞き分けたら、何も腹立ちゃせん」。(明治35.3.14)
 「親孝心(おやこうしん/親孝行)、又(また)家業第一。これ何處(どこ)へ行(いっ)ても難はない」。
 (明治35.7.13)
 「親という子という、子の煩(わずら)いは親の煩い、親の煩いは子の煩い。これしっかり聞き分け/\」。(明治35.9.21)
 「親と成り子と成るは、いんねん事情から成りたもの。親を孝行せず、親という理忘れ、親に不幸すれば、今度の世は 何になるとも分かり難ない/\。この話 理 伝えてをこう」。(明治40.4.9)

【親の教えが届かん、親子の理合い】
 教祖逸話篇(十)一九六 子供の成人

 教祖の仰せに、 「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ。」と、繰り返し繰り返し、聞かして下された。お蔭によって、分からん人も分かり、救からん人も救かり、難儀する人も難儀せぬようの道を、おつけ下されたのである。
 「分からん子供が分からんのやない。親の教えが届かんのや。親の教えが隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろう」。

 「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の永尾芳枝(よしゑ)の「思出の二つ」(昭和四年四月二十日発行みちのとも29-30p)を転載する。
 「今でも思い出すのは明治15年、私が17歳の時の御教祖の御言葉で御座います。『芳ちゃん(私の事)継親(ままおや)にはかけるものでもなければ、かゝるものでもないで、まゝ子がにくい/\/\と天から日に/\三文字ずつまゝ親へいきそう、それでまゝ子がにくて/\てどんならん。仲々軽い理やない。恐しい理や。可愛い子を見捨てゝ先立つ親の心になってやっておくれ、親のない子は可愛いがらんないかんで』。その当時は何と言っても17やそこらで、世間の事もよく判らず、こういうお言葉を聴いても一向平気で左程胸にもこたえませんでした。ところが明治32年、私の34歳の時、夫を先立てゝからと云うもの、このお言葉がひし/\と胸にこたえる様になりました。それからは親のない子を見れば可哀想になる。門に立つ乞食一人でも子供を背負うて居ると夫があるのか、その子は実の子かと尋ねる。家に引き入れて共に泣くと言う調子で非常に物に感じやすくあわれみの心が増して参りました。とかく、人間と言うものは自分が実地その場に当って見なければ真の情(なさけ)が湧いて来ないもので御座います。私共がよく失敗致しますのもその点で、頭を打って見る迄は自分の考えがいつも正しいと思い語るもので御座います。私に致しましても、早くに夫に別れませねば御教祖の御言葉もうか/\と聞き過していた事だろうと存じます。事実は何よりも善い教訓で御座います。さて明治36年旧8月29日は其の五年祭で御座居ましたが、夫の死後は色々と堪え難い苦労が重なりまして、その五年祭さえ済んだら親子三人連れ立って何処かへ行って了(し)まおうかと考えた事も御座いました。しかしそんな事をしては第一神様に対して申し訳が立たず、又父上様に対しても誠に済まないと思い返しては、どうにかこうにかその日/\を過して居りました。その中明治36年の冬戦争があるので満州へ軍隊を繰り出すと言う事をひそかに耳に致しました。それが年明けますと愈々戦争となりましたので私は考え直しました。「夫は僅かの病でも皆に介抱されて満足して亡くなった。それに引き変え戦争に行く人は親兄弟や妻子があってもいざと言う時の間には合わない。その事を思えば夫が畳の上で亡くなったのはいくら喜んでも足りない‥‥」とこう考え直しますと仲々じっとしては居られません。それに父は又父で申します。「戦争と言えば国と国との事件で皆可愛い子を国の為に出すのだ。その事を思えば戦争に行かない者も国家の為大いに働かねばならぬ。金が入れば幾らでも出してやるから‥‥」と。その中戦争が終っていよ/\凱旋となりました。私は自分のものは着物一枚ない様になってもかまわぬ、御国の為に尽して下さる軍人様に幾分でも御心の休まるようにとさせて頂いた事が、却って畏れ多くも明治42年の1月26日、陛下より金盃を下賜頂く結果となりました」。

【子供論】
  御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 人間も 一列子供 可愛いかろ
 神の残念 これ思うてくれ
十三号27
 人間も 子供可愛いいで あろをがな
 それ思うて 思案してくれ
十四号34

 「天理教の教祖は、『この世は、子の世』といわれたという」。(「この世は」、昭和六十一年三月発行、高野友治著「創象34」(天理時報社印刷)8pより)

 「2011年6月月次祭神殿講話」(教科育成部研修課長 永尾洋夫) その他参照。

 15歳までは親の責任。15歳までは子供の病気は親の心が映った姿である。親のさんげと心定めでたすけていただける。

 親から見た親子の絆の逸話。

 「10歳の子供の病気で、母親やおばあさんがその子を連れてお詣りしても御守護いただけなかったが、『男の子は父親付きで』との教祖のお言葉に従い、父親が連れてお詣りしたところ全快した(教祖逸話57「男の子は父親付きで」)。 
 「梅谷四郎兵衞先生が、当時五、六才の子供の梅次郎さんを連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、梅次郎さんは、赤衣を召された教祖にお目にかかって、当時煙草屋の看板に描いていた姫達摩を思い出したものか、「達摩はん、達摩はん」と言った。それに恐縮した四郎兵衞先生は、次にお屋敷へ帰らせて頂く時、梅次郎さんを同伴しなかったところ、教祖は、「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで」と、仰せられた。 このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた」。
 (教祖逸話117「父母に連れられて 」)。
 「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで」。
 (教祖逸話90「一代より二代」)

 教祖が、親から子へ信仰が伝わるように丹精されている、縦の伝道の大切さがひしひしと伝わってくる逸話である。


 人間々々元が分かろまい。世界中皆な神の子供。難儀さそう、困らそうという親はあるまい。親あって子がある。この理を聞け。憎い可愛(かわいい)の隔てない。 (おさしづ 明治20.12.9 補遺 )
 「大きい心を持って通れば大きい成る、小さい心を持って通れば小そうなる。親が怒って子供はどうして育つ。皆、をやの代りをするのや。満足さして連れて通るが親の役や」。
 (明治21年7月7日)
 「(子供の病気、身上は、)さあさあ小人(しょうにん/こども)々々は十五才までは親の心通りの守護と聞かし、十五才以上は皆な面々の心通りや。さあさぁよく聞き分け」。
 (明治21年8月30日(陰暦7月23日)夜)
 「さあ/\神さんと思うやろう。神は何にも身を痛めはせんで。さあ/\めん/\心から痛むのやで。面々の親の心に背けば、幽冥の神を背き/\て、まる背きとなってあるのやで」。
 (明治21.9.18日)
 【註】幽冥の神   現身(うつしみ)をお隠しになられた教祖を指して仰る。
 これまでにも諭したる處(ところ)、子の夜泣きは、親の心からという事は分かりあろう。さあ/\めん/\内々には、尋ねるまでやあろうまい。小人の處、何遍(なんべん)知らせども同じ事、どうせいこうせいは言わん。世界から日々出て来る事情を眺め。不自由するのも、これその理はあろうまい。この理を早く聞き取れ。(おさしづ 明治21.12.31)
 さあ/\小人々々、小人というは心あれども、何しても仕様(しよう)の無きもの。‥ さあ、この子は夜泣きすると思う。一夜の事ならよけれど、未だ(まだ)いかん。‥ めん/\急いてはいかん。長くの心を持ちて、だん/\互いの心持ちて行けば、何一つのほこりも無い。この道 天然自然の道やと思え。‥めん/\どうしてこうしてと、心に思わぬよう。天然自然の道やと思うて心に治めば、小人身の處もすっきり治まる。(おさしづ 明治21年)
 「小人のところ、前生一人一人持ち越しという理がある」
 (明治22年1月11日)
 親に孝心、夫に貞女(ていじょ)、世界の事情、どうでもこれを分けねばならん。
 (明治22年1.13日)
 「子供の成人楽しみに、日々に功(こう)を積んで居る。皆なその通り、いつもいつまでも親の厄介になる者はどんならん」。(明治22.1.24日午前9時)
 さあ/\夜泣き、子が泣く、どんな事情も諭してある。よう聞き分け。何にも彼も神口説き、皆ふでさき(おふでさき)にも知らしてある。読んで分からん。どんなであろう。夜泣きする、夜泣きする。どういう事を口説く。一日の日雨降る、風吹く、春の日は のどか。一年中はどんな日もある。何であったな。一時なる思うなら、どういうものであろう。見えようまい、分かろまい。よう聞き分け。(おさしづ 明治22.5.7)
 家内親々一つの事情、一代又二代、心の理があって一つ十分に治めある。
 (明治22年6.10日)
 喜多治郎吉、身上に付き願い。

 「さあさぁ尋ねる。尋ねるから 一つの理も聞き分けおかねばならん。身の障り、さあさぁ一寸(ちょっと)身の障り、一つ/\直ぐ/\何か障る身のところ、小児いんねん(因縁)の處、ようよう小児一人与えたる處、身の處、一つ/\二つ三つ、さあさぁ妊娠、さあ出産、さあさぁ三才で物分かり掛け。よう聞き分け。さあこれもあたゑ(与え)一つの理という。又いんねん一つの理。この理をよう聞き分けば、身は速やかという。さあさぁ小児因縁、あたゑ/\という」。

 「(只今の「小児因縁あたゑ」と仰せ下さるは、いかなる理で御座(ござ)りますか、押して願い」。

 「さあさぁ与えたるは小児は、親々の親という。親々の親を与えたるという」。
 (明治22.6.16)

 (註/喜多家に養子に迎えた梅谷四郎兵衛先生の四男「秀太郎」氏は、『治郎吉先生の「親々の親」、つまり「祖父の魂のいんねんの方」を与えたのや』と仰っている)
 十分(じゅうぶん)子が成人する。親々の理、子にある。子に真実誠あれば理がある。古い者は親ともいう。
 おさしづ 明治24.1.8 (4件目)
 「遠慮気兼は要らん。すっきり要らん。遠慮気兼あってはどうもならん。遠慮気兼あっては真の兄弟と言えるか」。(明治24.11.15)
 「小人の障り、親の心案じある故、映る事なり」、「(子供の病気は)小人十五才まで親の理で治まる。この理取り直し鮮やか」。(明治28.3.12日)
 「もう道というは、小さい時から心写さにゃならん。そこえ/\年取れてからどうもならん。世上へ心写し世上からどう渡りたら、この道つき難くい」。(明治33.11.16日)
 「親子の理、因縁理聞き分け、善い子持つも悪い子持つもいんねん。これ聞き分けにゃならん」。
 (明治34.3.11日)
 「子供、親の育てようにある。良い花咲かす、咲かさん。良い花咲けば楽しむ。面々一名一人の心に掛かり来たる」。(明治34.11.17日)
 「始めた事情治めた事情、同じ理治まる/\。事情は十分治まりてある。掛かり/\役々一つ事情、何でも親という理戴くなら、いつも同じ晴天と諭しおこう」。(明治28.10.24日)。
 「同じ五本指の如く、兄弟の中なら、どの指噛んでも身に応えるやろ。あちら起こしてこちらを倒そうという理あろまい」。(明治32.12.27)
 「・・・子供、親の育てようにある。良い花咲かす、咲かさん。良い花咲けば楽しむ。面々一名一人の心に掛かり来たる」。(明治34.11.17日)
 「親と成り子と成るは、因縁事情から成りたもの。親を孝行せず、親という理忘れ、親に不孝すれば、今度の世は何になるとも分かり難ない/\」。(明治40.4.9日、陰暦2.27日午前1時)。
 「教祖に『救からん』といわれる中、親を思う一筋で三度もおぢばに運ばれた真実に対し、教祖が、『救からんものを、なんでもと言うて、子供が親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る』とお受け取りになった」。(桝井伊三郎先生の話し「子供が親のために(16)」)。

 お授けの理拝戴の時に頂戴する「おかきさげ」に、30歳までの若い人だけに、次のようなお言葉があります。
 「又一つ、第一の理を諭そう。第一には、所々に手本雛形。諭す事情の理の台には、日々という、日々には家業という、これが第一。又一つ、内々互いく孝心の道、これが第一。二つ一つが天の理と諭しおこう」。

 若い人に対して、家業第一と親孝心を特に諭されている。子供として家業を第一に考え、精を出して勤めることは、即ち親孝心となる。家業第一と親孝心が二つ一つになる。その姿が、国々所々の手本雛型となり、にをいがけになる。「世上から見ては、あれでこそ成程の人や、成程の者やなあという心を持って、神一条の道を運ぶなら、何彼の処鮮やかと守護しよう。」と教えて頂きます。「成程の人」を目指して、人間創造の目的である陽気ぐらしの心で働くことが大切なんです。


【兄弟論】
  御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 「世界中 一れつは皆 きょうだい(兄弟姉妹)や  他人というは 更にないぞや」。
 (おふでさき13、43)   

 163「兄弟の中の兄弟」が次のように伝えている。
 教祖は、ある時、「この屋敷に住まっている者は、兄弟の中の兄弟やで。兄弟ならば、誰かが今日どこそこへ行く。そこに居合わせた者、互いに見合わせて、着ている着物、誰のが一番によい。一番によいならば、さあ、これを着ておいでや。又、たとい一銭二銭でも、持ち合わせている者が、互いに出し合って、これを小遣いに持って、さあ行っておいでや。と言うて、出してやってこそ、兄弟やで」と、お諭し下された。
 お指図は次の通り。
 「他人が他人やない。身が身やない。これ一つ聞き分けたら、何かの事情も皆な分かる」。(明治27.1.22 )
 「神が表へ出て珍しいたすけをする。皆(みな)他人と言う。他人を寄せて兄弟一つの理。神が日々使うて居る。神が支配をして居るやこそ治まってある」。(明治27.3.5 )
 「同じ兄弟の中に、合うの合わんのと言うようでは、道を捨てゝ(捨てて)ほかして了(しも)うたも同じ事やで」。
 (明治32.5.14 )
 「同じ五本指の如(ごと)く、兄弟の中なら、どの指噛んでも身に応えるやろ。あちら起こして こちらを倒そうという理あろまい」。
 (明治32.12.27 )

 「親が子を殺し、子が親を殺し、いぢらしくて見て居られぬ」の参考




(私論.私見)