【真心のお供え】 |
|
7「真心の御供」。
中山家が、谷底を通っておられた頃のこと。ある年の暮れに、一人の信者が立派な重箱に綺麗な小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい」と言って持って来たので、こかんは、早速それを教祖のお目にかけた。すると、教祖は、いつになく、「ああ、そうかえ」と、仰せられただけで、一向御満足の様子はなかった。それから二、三日して、又、一人の信者がやって来た。そして、粗末な風呂敷包みを出して、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます」と言って渡した。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていた。例によって、こかんが教祖のお目にかけると、教祖は、「直ぐに、親神様にお供えしておくれ」と、非常に御満足の体であらせられた。これは、後になって分かったのであるが、先の人は相当な家の人で、正月の餅を搗いて余ったので、とにかくお屋敷にお上げしようと言うて持参したのであった。後の人は、貧しい家の人であったが、やっとのことで正月の餅を搗くことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を。」というので、その搗き立てのところを取って、持って来たのであった。
教祖には、二人の人の心が、それぞれちゃんとお分かりになっていたのである。こういう例は沢山あって、その後、多くの信者の人々が時々の珍しいものを、教祖に召し上がって頂きたい、と言うて持って詣るようになったが、教祖は、その品物よりも、その人の真心をお喜び下さるのが常であった。そして、中に高慢心で持って来たようなものがあると、側の者にすすめられて、たといそれをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない」と、仰せられた。
|
|
60「金米糖の御供」。
教祖は、金米糖の御供をお渡し下さる時、「ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのやで」と、お説き聞かせ下された。又、「一ぷくは、一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふくは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふくは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七ふくは、何んにも言うことない理。三、七、二十一となるから、たっぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七となるから、たっぷり何んにも言うことない理」と、お聞かせ下された。 |
|
89「食べ残しの甘酒」。
教祖にお食事を差し上げる前に、誰かがコッソリと摘まみ喰いでもして置こうものなら、いくら教祖が召し上がろうとなされても、どうしても、箸をお持ちになったお手が上がらないのであった。明治十四年のこと。ある日、お屋敷の前へ甘酒屋がやって来た。この甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであったが、その日、当時未だ五才のたまへが、それを見て、付添いの村田イヱに、「あの甘酒を買うて、お祖母さんに上げよう。」 と、言ったので、イヱは、早速、それを買い求めて、教祖におすすめした。教祖は、孫娘のやさしい心をお喜びになって、甘酒の茶碗をお取り上げになった。ところが、教祖が、茶碗を口の方へ持って行かれると、教祖のお手は、そのまま茶碗と共に上の方へ差し上げられて、どうしても、お飲みになる事は出来なかった。イヱは、それを見て、「いと、これは、教祖にお上げしてはいけません」と言って、茶碗をお返し願った。考えてみると、その甘酒は、あちこちで商売して、お屋敷の前へ来た時は、食べ残し同然であったのである。 |
|
140「おおきに」。
紺谷久平は、失明をお救け頂いて、そのお礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂き、明治十七年二月十六日(陰暦正月二十日)朝、村田幸右衞門に連れられて、妻のたけと共に、初めて、教祖にお目通りさせて頂いた。その時、たけが、お供を紙ひねりにして、教祖に差し上げると、教祖は、「播州のおたけさんかえ」と、仰せになり、そのお供を頂くようになされて、「おおきに」と、礼を言うて下された。後年、たけが人に語ったのに、「その時、あんなに喜んで下されるのなら、もっと沢山包ませて頂いて置けばよかったのに、と思った」という。 |
|
180「惜しみの餅」。
ある人が、お餅を供える時、「二升にして置け」、「いや三升にしよう」と、家の中で言い争いをしてから、「惜しいけど、上げよう」と、言って、餅を供えたところ、教祖が、箸を持って、召し上がろうとなさると、箸は、激しく跳び上がって、どうしても、召し上がる事ができなかった、という。 |
|