「今に、ここら辺り一面に、家が建て込むのやで。この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで」。 |
「ここは、人間はじめだしたるもとの屋敷である。このり屋敷はな、神一条の話しよりほかには何も要らんと、神様が仰せになりますで」。 |
「よう帰って来たな。待っていたで。この屋敷は、人間始め出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも助からんことはない」。 |
「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人も帰されん」。 |
78「長者屋敷」。
教祖が、桝井キクにお聞かせ下されたお話に、「お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで」と。 |
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79「帰って来る子供」。
教祖が、ある時、喜多治郎吉に、「多く寄り来る、帰って来る子供のその中に、荷作りして車に積んで持って行くような者もあるで。又、風呂敷包みにして背負って行く人もあるで。又、破れ風呂敷に一杯入れて提げて行く人もある。うちへかえるまでには、何んにもなくなってしまう輩もあるで」と、お聞かせ下された。 |
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182「元の屋敷」。
大和国笠間村の大浦伝七妻なかは、急に人差指に激しい痛みを感じ、その痛みがなかなか治まらないので、近所の加見兵四郎に願うてもろうたところ、痛みは止まった。が、しばらくすると、又痛み出し、お願いしてもらうと、止まった。こういう事を、三、四度も繰り返した後、加見が、「おぢばへ帰って、教祖にお願い致しましょう」と言うたので、同道して、お屋敷へ帰り、教祖にお目通りして、お願いしたところ、教祖は、その指に三度息をおかけ下された。すると、激しい痛みは、即座に止まった。この鮮やかな御守護に、なかは、「不思議な神様やなあ」と心から感激した。その時、教祖は、「ここは、人間はじめ出したる元の屋敷である。先になったら、世界中の人が、故郷、親里やと言うて集まって来て、うちの門口出たら、何ないという事のない繁華な町になるのや」と、お聞かせ下された。
註 これは、明治十八、九年頃のことと言い伝えられている。 |
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187「ぢば一つに」。
明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい」とお願いしたところ、教祖は、「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで」と、お言葉を下された。 |
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高野友治著「創象37」の「この屋敷に」(昭和61年9月発行、天理時報社印刷8p)
「教祖はおっしゃったそうな。『この屋敷には、喜びをおいていって下されや。喜んで暮してくれるなら、神はいねといわん、いつまでいても結講、つらい、悲しいといって暮すなら、いようと思ってもいられなくなる』。この屋敷というのは、第一義的には、神の屋敷、御本部での暮し、そして広義的には、人間の世界、この世を意味するものとおもう。『この屋敷に悲しみをおいてもらったら、世界たすけの邪魔になる』、ともおっしゃったという」。 |
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