おぢばのり論、元の屋敷論、鏡屋敷論

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年11.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、お道教理としての「おぢばの理論、元の屋敷論、鏡屋敷論」教理を確認しておく。「ぢば定め、かんろだい建設」参照。

 2003.8.29日 れんだいこ拝


【おぢば論】
 「おぢば」につき、次のように諭されている。
 「今、中山氏の屋敷の内に、甘露台を据える所の地場を、世界中の人間のおやさとなると云うのは、元泥海中より月日二神現れまして、いざなぎ、いざなみを引き寄せ、くにさづち、月よみ、くもよみ、かしこね、たいしょく天、をふとのべ、合わせて八つの道具雛形をはかり集めて、また、九億九万九千九百九十九人の三寸なるどじょうを魂と定め、初めて夫婦を交合して、この人数を三度まで宿し仕込み給う所ゆえ、三千世界の人間は、皆なこの地場が親里なり」。
 おぢばは、珍しい所である。どう珍しいのかと云うと、人間宿し込みの地点であり、これにより人類のふるさとになっている、ということにある。よって、神楽勤めはこのところ以外では勤められないことになっている。さらに、親神天理王命の鎮まられるところゆえ、信仰の原点になっている。教祖がおわしまし、今なお存命同様にお働き下さっている守護の源でもある。それゆえに、授けの理、おびや許し、証拠まもりなどはすべてこのぢばから出される。人間からの願い出、例えば教会の設置、臨時祭典などの執行、教会神殿の改築などなど、一つ一つぢばで理の許しを得なければ進められないことになっている。
 おぢばに身を置くことで、神様の存在を肌身に感じる、人生を変えるような不思議な出来事が起こります。

【元の屋敷の理】
 みかぐら歌五下り目で、次のように詠われている。
 広い世界の 内なれバ 
 助けるところが ままあろう
 ここはこの世の 元のぢば
 めづらしところが あらはれた
 お筆先では次のようにお記しされている。
 かんろたい すへるところを しいかりと
 ぢばのところを 心づもりを 
九号19
 そのとこで せかいぢううの にんけんわ
 みなそのぢばで はじめかけたで 
十七号7
 教祖の次のようなお言葉が遺されている。
 「今に、ここら辺り一面に、家が建て込むのやで。この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで」。
 「ここは、人間はじめだしたるもとの屋敷である。このり屋敷はな、神一条の話しよりほかには何も要らんと、神様が仰せになりますで」。
 「よう帰って来たな。待っていたで。この屋敷は、人間始め出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな病でも助からんことはない」。
 「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人も帰されん」。
 78「長者屋敷」。
 教祖が、桝井キクにお聞かせ下されたお話に、「お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで」と。
 79「帰って来る子供」。
 教祖が、ある時、喜多治郎吉に、「多く寄り来る、帰って来る子供のその中に、荷作りして車に積んで持って行くような者もあるで。又、風呂敷包みにして背負って行く人もあるで。又、破れ風呂敷に一杯入れて提げて行く人もある。うちへかえるまでには、何んにもなくなってしまう輩もあるで」と、お聞かせ下された。
 182「元の屋敷」。
 大和国笠間村の大浦伝七妻なかは、急に人差指に激しい痛みを感じ、その痛みがなかなか治まらないので、近所の加見兵四郎に願うてもろうたところ、痛みは止まった。が、しばらくすると、又痛み出し、お願いしてもらうと、止まった。こういう事を、三、四度も繰り返した後、加見が、「おぢばへ帰って、教祖にお願い致しましょう」と言うたので、同道して、お屋敷へ帰り、教祖にお目通りして、お願いしたところ、教祖は、その指に三度息をおかけ下された。すると、激しい痛みは、即座に止まった。この鮮やかな御守護に、なかは、「不思議な神様やなあ」と心から感激した。その時、教祖は、「ここは、人間はじめ出したる元の屋敷である。先になったら、世界中の人が、故郷、親里やと言うて集まって来て、うちの門口出たら、何ないという事のない繁華な町になるのや」と、お聞かせ下された。

 註 これは、明治十八、九年頃のことと言い伝えられている。
 187「ぢば一つに」。
 明治十九年六月、諸井国三郎は、四女秀が三才で出直した時、余り悲しかったので、おぢばへ帰って、「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい」とお願いしたところ、教祖は、「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れても二方残る。太い芽が出るで」と、お言葉を下された。
 高野友治著「創象37」の「この屋敷に」(昭和61年9月発行、天理時報社印刷8p)
 「教祖はおっしゃったそうな。『この屋敷には、喜びをおいていって下されや。喜んで暮してくれるなら、神はいねといわん、いつまでいても結講、つらい、悲しいといって暮すなら、いようと思ってもいられなくなる』。この屋敷というのは、第一義的には、神の屋敷、御本部での暮し、そして広義的には、人間の世界、この世を意味するものとおもう。『この屋敷に悲しみをおいてもらったら、世界たすけの邪魔になる』、ともおっしゃったという」。

 お指図は次の通り。
 「元という、ぢばというは、世界もう一つと無いもの、思えば思う程深き理」(明治28年11月11日)
 明治30年1月11日、山沢為信身上障り願い
 「このやしき四方やしき鏡やしきという。よう聞き分け。草生えの中から一段越し、二段越し、三段どうも越し難くい。難しい身上一つ、ほんによいなあという楽しみを見て、又一時迫る。末はどうなろうと思う。尋ねる処一軒に掛かる。二軒に掛かる。三軒に掛かる/\という。大きい所に掛かれば、ころりと初めから改めんならん。これまでさしづ/\で年限経ち来たる。俺の思うようや/\。これではどうもなろうまい。身上に掛かれば、どうもなろうまい。人の身なら、めん/\は何とも無い。長きの事情、道の理から話さにゃならん。身の切なみの中にどういうものと思う。解きほどき出けんようになれば、どうもならん。刻限々々話し合いが肝心、これは前々以て幾度の事情に知らしたる。よう聞き分け。人の事やから、どうなったとて何ぞ、という心の理がとんと曇り。あちら小人こちら小人と言うて居る間は未だよい。なれど、銘々に掛かりて来れば、どうもなろうまい」。

 この身上さとしは、本部の重鎮であった山沢先生の伺いさしづですが、太字の部分に注意して頂けば、やしき内の家族の身上が決して個人レベルの問題ではないことが分かります。「掛かる」というのは身上に知らされることであり、「大きい所」とは真柱を指しています。

【鏡屋敷論】
 みちのとも昭和28年4月号、神一条の道 〜梅谷四郎兵衛〜上田とみゑ氏(四郎兵衛氏三女)のお話「心が澄んだら」。
 「教祖が、『自分の心が澄んだら、誰の顔見ても、よい顔に見えるようになるで』、と言われ 、『人が悪う見えるのは、自分の心が悪いからやで』、ということを、よく説き聞かされたそうです」。

【伏せこみの理】
 「案じることはない。この屋敷に生涯伏せこむなら必ず助かるのや」
 (逸話篇33)。
 「この屋敷に住まっている者は、兄弟の中の兄弟やで」。
 「この屋敷には、働く手は幾らでも欲しい。働かん手は一人も要らん」。
 「良いもの食べたい、良いもの着たい、良い家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで」。





(私論.私見)