教祖は、当時の社会を規制していた女性特有の性としての月経、出産の「忌むべき血の穢れ思想」に対して、これを忌むことなく自然現象、本能的摂理的なものとして受容させんとし、「血の穢れ思想に基づく諸習慣」に対する否定改良的方法を次のように指針させていた。お道教義ではこれを「おびや許し」と云う。
みかぐらうた、お筆先の教理は次の通り。
胎内へ 宿し込むのも 月日なり
生まれ出るのも 月日世話取り |
六号131 |
教祖のお諭しは次の通り。
「神の云う事疑ごうて、嘘と思えば嘘になる。真実に、親に許して貰うたと思うて、神のいう通りにする事なら、常の心の善し悪しを云うのやない。常の悪しきは別に現れる」。 |
「産については疑いの心さえなくして、神の教え通りにすれば、速やかに安産さす。常の心に違いなくとも、疑って案じた事なら、『案じの理』がまわる」。 |
明治10年10.28日、「教祖口伝」。
「人間元はじまりの話し(を)よう心に治めねば子を育てることできようまい。子を育てることできぬようでは親の恩は返せまい。子を育ててこそ親の恩は返せるのやで。お産は病ではない。だが、お産から色々と病を引き起こすような事がもしもあったなら、女として女の道が立ってないからや」。 |
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34「月日許した」。
明治六年春、加見兵四郎は妻つねを娶った。その後、つねが懐妊した時、兵四郎は、をびや許しを頂きにおぢばへ帰って来た。教祖は、「このお洗米を、自分の思う程持っておかえり」と、仰せになり、つづいて、直き直きお諭し下された。「さあ/\それはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへかえりたら、その一つ分を家内に頂かし、産気ついたら、又その一つ分を頂かし、産み下ろしたら、残りの一つ分を頂かすのやで。そうしたなら、これまでのようにもたれ物要らず、毒いみ要らず、腹帯要らず、低い枕で、常の通りでよいのやで。すこしも心配するやないで。心配したらいかんで。疑うてはならんで。ここはなあ、人間はじめた屋敷やで。親里やで。必ず、疑うやないで。月日許したと言うたら、許したのやで」と。 |
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66「安産」。
前川喜三郎の妻たけが、長女きみを妊娠した時、をびや許しを頂きに、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、教祖は、「よう帰って来た」と、仰せられ、更に、「出産の時は、人の世話になること要らぬ」と、お言葉を下された。たけは、産気づいた時、家には誰も居なかったので、教祖の仰せ通り、自分で湯を沸かし、盥も用意し、自分で臍の緒を切り、後産の始末もし、赤児には産湯をつかわせ、着物も着せ、全く人の世話にならずに、親神様の自由自在の御守護によって、安産させて頂いた。
註 前川きみの出生は、明治十三年一月二十五日である。よってをびや許しを頂いたのは、その前年明治十二年と推定される。 |
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101「道寄りせずに」。
明治十五年春のこと。出産も近い山田こいそが、おぢばへ帰って来た時、教祖は、「今度はためしやから、お産しておぢばへ帰る時は、大豆越(註、こいその生家山中宅のこと)へもどこへも、道寄りせずに、ここへ直ぐ来るのや。ここがほんとの親里やで」と、お聞かせ下された。それから程なく、五月十日(陰暦三月二十三日)午前八時、家の人達が田圃に出た留守中、山田こいそは、急に産気づいて、どうする暇もなく、自分の前掛けを取り外して畳の上に敷いて、お産をした。ところが、丸々とした女の子と、胎盤、俗にえなというもののみで、何一つよごれものはなく、不思議と綺麗な安産で、昼食に家人が帰宅した時には、綺麗な産着を着せて寝かせてあった。お言葉通り、山田夫婦は、出産の翌々日真っ直ぐおぢばへ帰らせて頂いた。この日は、前日に大雨が降って、道はぬかるんでいたので、子供は伊八郎が抱き、こいそは高下駄をはいて、大豆越の近くを通ったが、山中宅へも寄らず、三里余りを歩かして頂いたが、下りもの一つなく、身体には障らず、常のままの不思議なおぢば帰りだった。教祖は、「もう、こいそはん来る時分やなあ」と、お待ち下されていて、大層お喜びになり、赤児をみずからお抱きになった。そして、「名をつけてあげよ」と、仰せられ、「この子の成人するにつれて、道も結構になるばかりや。栄えるばかりやで。それで、いくすえ栄えるというので、いくゑと名付けておくで」と、御命名下された。 |
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151「をびや許し」。
明治十七年秋の頃、諸井国三郎が、四人目の子供が生まれる時、をびや許しを頂きたいと、願うて出た。その時、教祖が、御手ずから御供を包んで下さろうとすると、側に居た高井直吉が、「それは、私が包ませて頂きましょう」と言って、紙を切って折ったが、その紙は曲がっていた。教祖は、高井の折るのをジッとごらんになっていたが、良いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出して、「鋏を出しておくれ」と、仰せになった。側の者が鋏を出すと、それを持って、キチンと紙を切って、その上へ四半斤ばかりの金米糖を出して、三粒ずつ三包み包んで、「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよいで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで」と、仰せになり、残った袋の金米糖を、「これは、常の御供やで。三つずつ包み、誰にやってもよいで」と、仰せられて、お下げ下された。
註 これは、産後の腹帯のこと、岩田帯とは別のもの。 |
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「必ず、疑うやないで。月日許したと云うたら、許したのやで。これまでのようにもたれ物要らず、毒忌み要らず、腹帯要らず、低い枕で、常の通りで良いのやで」。 |
つまり、お産に当たっては、別段深い理をお聞かせになる訳でもなく、又おわび、さんげや精神定めを求められる訳でもない。人間の身上はもとより、人生百般の事は凡て親神様の自由のお働きによるもので、そのご守護を頂くならば如何なる中にもいささかの不安もない。親を信じ、親にもたれ切ることが肝要であるとお諭しされていた。この当時、お産にまつわる様々な病に苦しむ女達が大勢居り、みきの「をびや許し」は大いなる福音となあった。
「をびや許し」にあたって、種々お諭しが為されていることはもっと着目されて良い。みきは、単に霊能力的威力でもって「病治し」しようとしたのではない。「親神様の守護の理、自由自在の働きの理」にもたれることによって安産が約束されていると説き、「案じの心」から「親神様の働きを信じる心」への「心の入れ替え」を促し、神の御心に叶う「生まれ直し」によって「神の御働きを引き出し」、「よろずの守護を頂く」、と言う手法を採用していることが判明する。
助けでも 拝み祈祷で いくでなし
伺い立てて いくでなけれど |
三号45 |
このところ よろずの事を 説き明かす
神一条で 胸のうちより |
三号46 |
分かるよう 胸のうちより 思案せよ
人助けたら わが身助かる |
三号47 |
この時のお諭しの内容が以上の外は伝わっていない。以下推測となるが重要な内容である。この時、教祖は、始めはかぼちゃのめしべと花粉を例に使って性事を理解させようとしていた。生物は皆な交配によって生命を生む。動物の場合には精子を女性の胎内に送り込む。こうして新しい生命が宿しこまれ生まれる。男種、女種が五分五分に結合してはじめて、男親とも女親とも異なる新たなる生命が生まれる。この生命は神のご守護により妊娠し育まれる。こうした生命のメカニズムを説き聞かせ、物の怪や迷信の類に脅かされる必要はない、何ら案ずるに及ばないことを福音していたようである。これは、当時の人々が様々な俗説、仏教的因縁教説によって「お産」を畏怖させられ、不安を増幅されていたことに対する批判的啓蒙でもあったと思われる。「祟(たた)りはない、前世の業、因縁などはない。怖れることはない」と説いたのではないのか。
このみきの時代を飛び越えた合理性は、当時の女性が置かれていた習俗に伴う蔑視観からの解放を企図していたことが着目されるに値する。今日的な合理観として通用する男女平等思想に根ざす「お諭し」として精彩を放っているやに見受けられる。何はともあれ、こうしてみきの「お助け」は、女性の封建的習俗からの解放として世に飛び出すこととなった。当時、不浄のもの、けがれたものとタブー視されていた女性の生理現象に関して、次のお話が伝えられている。
「南瓜(カボチャ)や茄子(ナス)を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは、花 が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で云うけれども、何も、不浄なことはありゃせんで。男も女も、寸分違わ
ぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りが あるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。よう悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。
無駄花というものは、何にでもあるけれどな。花無しに実ののるという事はないで。よう思案してみいや。何も不浄やないで」。 |
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