【教祖の匂いがけ論】 |
お道教義では、お助けの初等として「元の理」を伝えていく「匂いがけ」(「匂いを掛ける」という意味)が要請されている。花がよい香りを放てば虫が寄ってくるように信仰に誘うことを指すと解釈されている。「匂い」と云う用語が独特で味わい深い表現である。
御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
一言話(ひとこと話し)は ひのきしん
匂いばかりを 掛けておく |
七下り目一ッ |
教祖は次のようにお諭しなされている。
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「教祖はいつも相手より先に声をお掛けになっていると仰せられている。よって、先に声をかけることが教祖のひながたを辿ることになる。それは一言のにをいがけにつながる。朝の“”おはようございます“”の一言の挨拶も教祖のおひながたを通ることになる。『声は肥』とも聞かせていただく。教祖は、良き運命の肥となる言葉づかいを一つ一つ生活の中からお教え下さりました」。 |
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「自分が救かって結構やったら、救かったことを、人さんに真剣に話させて頂くのやで」(逸話編) |
逸話編13「種を蒔くのやで」。
摂津国安立村に、「種市」という屋号で花の種を売って歩く前田藤助、タツという夫婦があった。二人の間には、次々と子供が出来た。もう、これぐらいで結構と思っていると、慶応元年、また子供が生まれることになった。それで、タツは、大和国に、願うと子供をおろして下さる神様があると聞いて、大和へ来た。しかし、そこへは行かず、不思議なお導きで、庄屋敷村へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、「あんたは、種市さんや。あんたは、種を蒔くのやで」と、仰せになった。タツは、「種を蒔くとは、どうするのですか」と、尋ねた。すると、教祖は、「種を蒔くというのは、あちこち歩いて、天理王の話をして廻わるのやで」と、お教えになった。更に、お腹の子供について、「子供はおろしてはならんで。今年生まれる子は、男や。あんたの家の後取りや」と、仰せられた。このお言葉が胸にこたえて、タツは、子供をおろすことは思いとどまった。のみならず、夫の藤助にも話をして、それからは、夫婦ともおぢばへ帰り、教祖から度々お仕込み頂いた。子供は、その年六月十八日安産させて頂き、藤次郎と名付けた。こうして、二人は、花の種を売りながら、天理王命の神名を人々の胸に伝えて廻わった。そして、病人があると、二人のうち一人が、おぢばへ帰ってお願いした。すると、どんな病人でも次々と救かった。 |
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逸話編42「人を救けたら」。
明治八年四月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、「庄屋敷村には生神様がござる」 と聞き、早速、三輪を経て庄屋敷に到り、お屋敷を訪れ、取次に頼んで、教祖にお目通りした。すると、教祖は、「心配は要らん要らん。家に災難が出ているから、早ようおかえり。かえったら、村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるのやで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻わるのやで。人を救けたら我が身が救かるのや」と、お言葉を下された。栄治郎は、心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て、菅浜に着いたのは、四月二十三日であった。娘は、ひどく狂うていた。しかし、両手を合わせて、なむてんりわうのみことと、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かになって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中ににをいがけをして廻わり、病人の居る家は重ねて何度も廻わって、四十二人の平癒を拝み続けた。すると、不思議にも、娘はすっかり全快の御守護を頂いた。方々の家からもお礼に来た。全快した娘には養子をもろうた。栄治郎と娘夫婦の三人は、救けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておられ、綺麗な上品なお姿であられた、という。 |
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逸話編62「これより東」。
明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで」と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。
又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで」と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ」と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。
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逸話編91「踊って去ぬのやで」。
明治十四年頃、岡本シナが、お屋敷へ帰らせて頂いていると、教祖が、「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ」と、仰せられて、一しょにお風呂へ入れて頂いた。勿体ないやら、有難いやら、それは、忘れられない感激であった。その後、幾日か経って、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「よう、お詣りなされたなあ。さあ/\帯を解いて、着物をお脱ぎ」と、仰せになるので、何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣のお襦袢を、教祖の温みそのまま、背後からサッと着せて下された。その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事の出来ない感激であった。シナが、そのお襦袢を脱いで、丁寧にたたみ、教祖の御前に置くと、教祖は、「着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれ着て、踊って去ぬのやで」と、仰せられた。シナは、一瞬、驚いた。そして、嬉しさは遠のいて心配が先に立った。 「そんなことをすれば、町の人のよい笑いものになる」 また、おぢばに参拝したと言うては警察へ引っ張られた当時の事とて、「今日は、家へは去ぬことが出来ぬかも知れん」 と、思った。ようやく、覚悟を決めて、「先はどうなってもよし。今日は、たとい家へ去ぬことが出来なくてもよい」 と、教祖から頂いた赤衣の襦袢を着物の上から羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりをしながらかえった。気がついてみると、町外れへ出ていたが、思いの外、何事も起こらなかった。シナはホッと安心した。そして、赤衣を頂戴した嬉しさと、御命を果たした喜びが一つとなって、二重の強い感激に打たれ、シナは心から御礼申し上げながら、赤衣を押し頂いたのであった。 |
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逸話編100「人を救けるのやで」。
大和国神戸村の小西定吉は、人の倍も仕事をする程の働き者であったが、ふとした事から胸を病み、医者にも不治と宣告され、世をはかなみながら日を過ごしていた。又、妻イヱも、お産の重い方であったが、その頃二人目の子を妊娠中であった。そこへ同村の森本治良平からにをいがかかった。明治十五年三月頃のことである。それで、病身を押して、夫婦揃うておぢばへ帰らせて頂き、妻のイヱがをびや許しを頂いた時、定吉が、「この神様は、をびやだけの神様でございますか。」 と、教祖にお伺いした。すると、教祖は、「そうやない。万病救ける神やで」と、仰せられた。それで、定吉は、「実は、私は胸を病んでいる者でございますが、救けて頂けますか」と、お尋ねした。すると、教祖は、「心配要らんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ」と、親心溢れるお言葉を頂いた。このお言葉が強く胸に喰い込んで、定吉は、心の中で堅く決意した。家にもどると早速、手許にある限りの現金をまとめて、全部を妻に渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に「天理王尊」と書いて床の間に張り、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、一心に神名を唱えてお願いした。部屋の外へ出るのは、便所ヘ行く時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いした。すると不思議にも、日ならずして顔色もよくなり、咳も止まり、長い間苦しんでいた病苦から、すっかりお救け頂いた。又、妻のイヱも、楽々と男児を安産させて頂いた。早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖に心からお礼申し上げると、教祖は、「心一条に成ったので、救かったのや。」と、仰せられ、大層喜んで下さった。定吉は、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか。」 と、伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と、仰せられた。それで、「どうしたら、人さんが救かりますか」 と、お尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と、仰せられ、コバシ(註、ハッタイ粉に同じ)を二、三合下された。そして、 「これは、御供やから、これを、供えたお水で人に飲ますのや」と、仰せられた。そこで、これを頂いて、喜んで家へもどってみると、あちらもこちらも病人だらけである。そこへ、教祖にお教え頂いた通り、御供を持っておたすけに行くと、次から次へと皆救かって、信心する人がふえて来た。 |
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逸話編115「おたすけを一条に」。
真明組周旋方の立花善吉は、明治十三年四、五月頃(陰暦三月)自分のソコヒを、つづいて父の疝気をお救け頂いて入信。以来数年間、熱心に東奔西走しておたすけに精を出していたが、不思議なことに、おたすけにさえ出ていれば、自分の身体も至って健康であるが、出ないでいると、何となく気分がすぐれない。ある時、このことを教祖に申し上げて、「何故でございましょうか」と、伺うと、教祖は、「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労やで」と、お聞かせ下された。善吉は、このお言葉を自分の生命として寸時も忘れず、一層たすけ一条に奔走させて頂いたのである。 |
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逸話編142「狭いのが楽しみ」。
深谷源次郎が、なんでもどうでもこの結構な教を弘めさせて頂かねば、と、ますます勇んであちらこちらとにをいがけにおたすけにと歩かせて頂いていた頃の話。当時、源次郎は、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、という中を、心を倒しもせずに運ばして頂いていると、教祖はいつも、「狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから理が積もって大きいなるのや。松の木でも、小さい時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで」と、仰せ下された。 |
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逸話編155「自分が救かって」。
明治十七年頃のこと。大和国海知村の森口又四郎、せきの長男鶴松、三十才頃の話。背中にヨウが出来て痛みが激しく、膿んで来て、医者に診てもらうと、「この人の寿命は、これまでやから、好きなものでも食べさせてやりなされ」と言われ、全く見離されてしまった。それで、かねてからお詣りしていた庄屋敷へ帰って、教祖に直き直きおたすけをして頂いた。それから二、三日後のこと。鶴松が、寝床から、「一寸見てくれんか。寝床が身体にひっ付いて布団が離れへんわよう」と叫ぶので、家族の者が行って見ると、ヨウの口があいて、布団が、ベタベタになっていた。それから、教祖に頂いたお息紙を、貼り替え貼り替えしているうちに、すっかり御守護を頂いた。それで、お屋敷へお礼詣りに帰り、教祖にお目通りさせて頂くと、「そうかえ。命のないとこ救けてもろうて、結構やったな。自分が救かって結構やったら、人さん救けさしてもらいや」と、お言葉を下された。鶴松は、この御一言を胆に銘じて、以後にをいがけ・おたすけに奔走させて頂いた。 |
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逸話編177「人一人なりと」。
教祖は、いつも、「一日でも、人一人なりと救けねば、その日は越せぬ」と、仰せになっていた。 |
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198「どんな花でもな」。
ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。 |
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