匂いがけ論

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.10日

(れんだいこのショートメッセージ)
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 2016.02.29日 れんだいこ拝


【教祖の匂いがけ論】
 お道教義では、お助けの初等として「元の理」を伝えていく「匂いがけ」(「匂いを掛ける」という意味)が要請されている。花がよい香りを放てば虫が寄ってくるように信仰に誘うことを指すと解釈されている。「匂い」と云う用語が独特で味わい深い表現である。

 御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 一言話(ひとこと話し)は ひのきしん
 匂いばかりを 掛けておく
七下り目一ッ

 教祖は次のようにお諭しなされている。
 「教祖はいつも相手より先に声をお掛けになっていると仰せられている。よって、先に声をかけることが教祖のひながたを辿ることになる。それは一言のにをいがけにつながる。朝の“”おはようございます“”の一言の挨拶も教祖のおひながたを通ることになる。『声は肥』とも聞かせていただく。教祖は、良き運命の肥となる言葉づかいを一つ一つ生活の中からお教え下さりました」。
 「自分が救かって結構やったら、救かったことを、人さんに真剣に話させて頂くのやで」(逸話編)
 逸話編13「種を蒔くのやで」。
 摂津国安立村に、「種市」という屋号で花の種を売って歩く前田藤助、タツという夫婦があった。二人の間には、次々と子供が出来た。もう、これぐらいで結構と思っていると、慶応元年、また子供が生まれることになった。それで、タツは、大和国に、願うと子供をおろして下さる神様があると聞いて、大和へ来た。しかし、そこへは行かず、不思議なお導きで、庄屋敷村へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、「あんたは、種市さんや。あんたは、種を蒔くのやで」と、仰せになった。タツは、「種を蒔くとは、どうするのですか」と、尋ねた。すると、教祖は、「種を蒔くというのは、あちこち歩いて、天理王の話をして廻わるのやで」と、お教えになった。更に、お腹の子供について、「子供はおろしてはならんで。今年生まれる子は、男や。あんたの家の後取りや」と、仰せられた。このお言葉が胸にこたえて、タツは、子供をおろすことは思いとどまった。のみならず、夫の藤助にも話をして、それからは、夫婦ともおぢばへ帰り、教祖から度々お仕込み頂いた。子供は、その年六月十八日安産させて頂き、藤次郎と名付けた。こうして、二人は、花の種を売りながら、天理王命の神名を人々の胸に伝えて廻わった。そして、病人があると、二人のうち一人が、おぢばへ帰ってお願いした。すると、どんな病人でも次々と救かった。
 逸話編42「人を救けたら」。
 明治八年四月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣ったところ、茶店の老婆から、「庄屋敷村には生神様がござる」 と聞き、早速、三輪を経て庄屋敷に到り、お屋敷を訪れ、取次に頼んで、教祖にお目通りした。すると、教祖は、「心配は要らん要らん。家に災難が出ているから、早ようおかえり。かえったら、村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるのやで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんをしっかり拝んで廻わるのやで。人を救けたら我が身が救かるのや」と、お言葉を下された。栄治郎は、心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津を経て、菅浜に着いたのは、四月二十三日であった。娘は、ひどく狂うていた。しかし、両手を合わせて、なむてんりわうのみことと、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かになって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中ににをいがけをして廻わり、病人の居る家は重ねて何度も廻わって、四十二人の平癒を拝み続けた。すると、不思議にも、娘はすっかり全快の御守護を頂いた。方々の家からもお礼に来た。全快した娘には養子をもろうた。栄治郎と娘夫婦の三人は、救けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておられ、綺麗な上品なお姿であられた、という。
 逸話編62「これより東」。
 明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで」と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。

 又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで」と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ」と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。

 逸話編91「踊って去ぬのやで」。
 明治十四年頃、岡本シナが、お屋敷へ帰らせて頂いていると、教祖が、「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ」と、仰せられて、一しょにお風呂へ入れて頂いた。勿体ないやら、有難いやら、それは、忘れられない感激であった。その後、幾日か経って、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、「よう、お詣りなされたなあ。さあ/\帯を解いて、着物をお脱ぎ」と、仰せになるので、何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣のお襦袢を、教祖の温みそのまま、背後からサッと着せて下された。その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事の出来ない感激であった。シナが、そのお襦袢を脱いで、丁寧にたたみ、教祖の御前に置くと、教祖は、「着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれ着て、踊って去ぬのやで」と、仰せられた。シナは、一瞬、驚いた。そして、嬉しさは遠のいて心配が先に立った。 「そんなことをすれば、町の人のよい笑いものになる」 また、おぢばに参拝したと言うては警察へ引っ張られた当時の事とて、「今日は、家へは去ぬことが出来ぬかも知れん」 と、思った。ようやく、覚悟を決めて、「先はどうなってもよし。今日は、たとい家へ去ぬことが出来なくてもよい」 と、教祖から頂いた赤衣の襦袢を着物の上から羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりをしながらかえった。気がついてみると、町外れへ出ていたが、思いの外、何事も起こらなかった。シナはホッと安心した。そして、赤衣を頂戴した嬉しさと、御命を果たした喜びが一つとなって、二重の強い感激に打たれ、シナは心から御礼申し上げながら、赤衣を押し頂いたのであった。
 逸話編100「人を救けるのやで」。
 大和国神戸村の小西定吉は、人の倍も仕事をする程の働き者であったが、ふとした事から胸を病み、医者にも不治と宣告され、世をはかなみながら日を過ごしていた。又、妻イヱも、お産の重い方であったが、その頃二人目の子を妊娠中であった。そこへ同村の森本治良平からにをいがかかった。明治十五年三月頃のことである。それで、病身を押して、夫婦揃うておぢばへ帰らせて頂き、妻のイヱがをびや許しを頂いた時、定吉が、「この神様は、をびやだけの神様でございますか。」 と、教祖にお伺いした。すると、教祖は、「そうやない。万病救ける神やで」と、仰せられた。それで、定吉は、「実は、私は胸を病んでいる者でございますが、救けて頂けますか」と、お尋ねした。すると、教祖は、「心配要らんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ」と、親心溢れるお言葉を頂いた。このお言葉が強く胸に喰い込んで、定吉は、心の中で堅く決意した。家にもどると早速、手許にある限りの現金をまとめて、全部を妻に渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に「天理王尊」と書いて床の間に張り、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、一心に神名を唱えてお願いした。部屋の外へ出るのは、便所ヘ行く時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いした。すると不思議にも、日ならずして顔色もよくなり、咳も止まり、長い間苦しんでいた病苦から、すっかりお救け頂いた。又、妻のイヱも、楽々と男児を安産させて頂いた。早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖に心からお礼申し上げると、教祖は、「心一条に成ったので、救かったのや。」と、仰せられ、大層喜んで下さった。定吉は、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか。」 と、伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と、仰せられた。それで、「どうしたら、人さんが救かりますか」 と、お尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と、仰せられ、コバシ(註、ハッタイ粉に同じ)を二、三合下された。そして、 「これは、御供やから、これを、供えたお水で人に飲ますのや」と、仰せられた。そこで、これを頂いて、喜んで家へもどってみると、あちらもこちらも病人だらけである。そこへ、教祖にお教え頂いた通り、御供を持っておたすけに行くと、次から次へと皆救かって、信心する人がふえて来た。
 逸話編115「おたすけを一条に」。
 真明組周旋方の立花善吉は、明治十三年四、五月頃(陰暦三月)自分のソコヒを、つづいて父の疝気をお救け頂いて入信。以来数年間、熱心に東奔西走しておたすけに精を出していたが、不思議なことに、おたすけにさえ出ていれば、自分の身体も至って健康であるが、出ないでいると、何となく気分がすぐれない。ある時、このことを教祖に申し上げて、「何故でございましょうか」と、伺うと、教祖は、「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。世界の事は何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労やで」と、お聞かせ下された。善吉は、このお言葉を自分の生命として寸時も忘れず、一層たすけ一条に奔走させて頂いたのである。
 逸話編142「狭いのが楽しみ」。
 深谷源次郎が、なんでもどうでもこの結構な教を弘めさせて頂かねば、と、ますます勇んであちらこちらとにをいがけにおたすけにと歩かせて頂いていた頃の話。当時、源次郎は、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、という中を、心を倒しもせずに運ばして頂いていると、教祖はいつも、「狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから理が積もって大きいなるのや。松の木でも、小さい時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで」と、仰せ下された。
 逸話編155「自分が救かって」。
 明治十七年頃のこと。大和国海知村の森口又四郎、せきの長男鶴松、三十才頃の話。背中にヨウが出来て痛みが激しく、膿んで来て、医者に診てもらうと、「この人の寿命は、これまでやから、好きなものでも食べさせてやりなされ」と言われ、全く見離されてしまった。それで、かねてからお詣りしていた庄屋敷へ帰って、教祖に直き直きおたすけをして頂いた。それから二、三日後のこと。鶴松が、寝床から、「一寸見てくれんか。寝床が身体にひっ付いて布団が離れへんわよう」と叫ぶので、家族の者が行って見ると、ヨウの口があいて、布団が、ベタベタになっていた。それから、教祖に頂いたお息紙を、貼り替え貼り替えしているうちに、すっかり御守護を頂いた。それで、お屋敷へお礼詣りに帰り、教祖にお目通りさせて頂くと、「そうかえ。命のないとこ救けてもろうて、結構やったな。自分が救かって結構やったら、人さん救けさしてもらいや」と、お言葉を下された。鶴松は、この御一言を胆に銘じて、以後にをいがけ・おたすけに奔走させて頂いた。
 逸話編177「人一人なりと」。
 教祖は、いつも、「一日でも、人一人なりと救けねば、その日は越せぬ」と、仰せになっていた。
 198「どんな花でもな」。
 ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで」と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。

【お指図の匂いがけ論】
 お指図には次のような御言葉がある。
 「わしがにをい掛けた、これは俺が弘めたのや、と言う。これも一つの理なれど、待って居るから一つの理も伝わる。(明治25・6・4)」
 「どんな所にをい掛かるも神が働くから掛かる。(中略)何処其処へにをい掛かりたというは皆な神の守護」。(明治26・7・12)
 「にをいの事早いほうがよいで。急いでやってくれ。急いでやってくれにゃならん。急いでやっても良い加減になる。残らず残らず遠い所、ゆっくりして居ては遅れる。この人ににをいかけんならんと思えば、道の辻で会うても掛けてくれ。これからこれが仕事や」。(明治40年4.7日)

 2005年、住原則也(Noriya SUMIHARA)天理大学「共通論題:『企業家の特異条件― 狂気・異形・才覚』報告2、信仰者としての経営者像」。
 中牧氏の冒頭文を受けて、この小論ではある特定の宗教の教えを生活の上ばかりでなく,企業経営の上でも常に指針としてきた一人の企業家をとりあげたい。フレッシュクリーム「スジャータ」で知られる「めいらくグループ」(名古屋製酪株式会社など7社から成るグループ)の代表兼CEOの日比孝氏(1928年生まれ)である。「めいらくグループ」は,平成16年3月現在で年商1000億円を超え、従業員約3000人の大手企業であるが、日比孝氏が一家8人の生活を成り立たせるために、終戦後間もなく自転車でゴムひもや文房具を積んで農家をまわって行商したところから始まっている。行商、露天商、アイスクリーム屋、そして後に大きな飛躍となるフレッシュクリームを手がけた。ガラスの牛乳ビンから今では当たり前の紙パックへの切り替えをいち早くおこなったり、乳業界では20世紀の傑作とされる、防腐剤など使わずに乳製品を長持ちさせるロングライフ技術に注目し、他社に先んじて1975年にロングライフ工場なるものを完成させている。よく知られている「スジャータ」の生産量は世界一を誇っている。乳製品に限らずレトルトパック食品、「きくのIFCコーヒー」(世界初の急速冷凍製法に基づくコーヒーで国内外の特許を取得。これにより文部科学大臣賞なども受賞している)。有機豆乳など多方面の新商品開発を行ってきている。日比氏は地元愛知県では「名古屋の松下幸之助」とも称されているとか。その日比孝氏が熱心な天理教の信者であり、天理教的価値観に基づいて経営が行われていることをもって、「狂気」とか「異形」という形容がなされるとすれば、ご当人にとっては違和感を覚えることであろう。実際筆者自身一度一人で面会し、2時間余りにわたってお話を伺ったことがあるが、「異形」などとは程遠いごく一般的なダークスーツ姿で穏やかに誠実に受け答えしていただいた記憶がある。身体は小柄に感じられ、エネルギッシュにして破天荒などという印象からもほど遠い。従業員を前にして宗教的指導者のようなカリスマ性や放とうというような特別なしぐさも見受けられない。あえて言えば、筆者が訪ねた本社のある名古屋市天白区中砂町の社長室が、これほど成長した企業とは思われないほどみすぼらしいものであったことである。元々工場であったバラックのような古い建物がそのままトップの執務室であった。牽強付会に言えばそのアンバランスさこそ「異形」なのかもしれない。また一方で、周囲に立つ工場も決して新しい建物とは見えないが、毎朝従業員が全員でこまめに清掃を行い、文字通り工場内外でも路上でもチリひとつ見かけなかった。何十年も変わることなく守られてきた「重点実施事項」とは「清掃」であり、「清掃は心に徳をつくるため」と記されている。これもまた「異形」と言えるかもしれないが、工場周辺の凛とした清潔感が印象深い。このめいらくグループでは、従業員が天理教への信仰や改宗などが強制されるわけではないものの、経営方針の精神的基盤が天理教の教えであること、たとえば新規採用人事の時点から応募者に対してすら周知されている。企業の創業者や経営者が、ある特定の宗教の熱心な信者であることは珍しいことではない。経営上の判断に、信仰信念が影響を及ぼすということもよくあることと思われる。しかし、日比氏ほど、天理教信者であることを雑誌取材時なども含めて一貫して公言し、その教えを企業運営の上に実践しようとしてきた人は少ないと思われる。教団から依頼されてそうしているわけではない。公言することがビジネスにとれば有利と言えるものではない。信仰の見返りとして成功が保証されているわけでもない。また企業内部的にも、従業員全員を信者にして一つの神の下に心を一つにさせ連帯感を増大させるような明確な方向性や、職場の日常において宗教的儀礼が行われているわけでもない。内部的にも外部向けにも、天理教を標榜することによって得られる実利的な意味での合理性を見出すことはできない。

 筆者は、この小論の中で、宗教と企業経営の関係というテーマ一般を扱う意図などはない。日比孝氏という一企業家に焦点を当てたとしても、活字になっている一部の文献やわずかなインタビュー体験程度から、氏の内面の奥深い主観とその経営行為や成果を因果律でもって理路整然と結びつけることなどできない。しかし日比氏と天理教との結びつきの個人的ないきさつ(注1)は別にしても、氏が天理教の信仰者であったがゆえに下された重要な企業経営上の決断についてはある程度語ることは可能であると思われる。天理教の現世的指向性と企業観。天理教の教えがどうして企業の経営上の判断にも結びつきうるかを説明するには、やはり、その教えの基本的な側面を多少とも知らざるを得ない。教祖中山みきを通じて教えられたという親神(注2)が人間とこの世を創造した意図とは、人間たちが互いに自主的にたすけあい幸福を分かち合う「陽気ぐらし」を見るためであるという。あの世での救済ではなく、現世においての理想郷を目指す指向を持っている。したがって信仰者とは、出家して俗世を離れたり、深い山中で修行を行う存在ではなく、日常生活の中で「陽気ぐらし」を目指す者であり、そのことを教祖は「里の仙人となれ」とも表現した。そのような日常生活の心がけの基本として「朝起き、正直、はたらき」が教えられている。特に、はたらく(働く)とは「はたはた」(傍々=側の人)にらく(楽)してもらうよう動くからはたらくというのや、といった教祖の言葉が信者の中で広く知られている。つまり日常の行為そのものが、他者との相互貢献を指向していることになる。また「家業第一」ということばも残されており、自らの職業を遂行する上での「陽気ぐらし」へのビジョンが見られる。このような基本的な教理上の指向からすれば、日比孝氏が、「企業も人のためになるようやるのが目的で、仕事は手段である」という考え方を述べていることも容易に理解できる。経営上の重要局面における判断基準としての教理また日比氏と信仰の関係は、神頼みや厄払いといった拝み行為ではない。信仰とは自らの考えや行為が「天の理」にかなっているかどうかの自己チェックの過程である。その姿勢は、たとえば熱心なキリスト教者であった米国大統領アブラハム・リンカーンが、南北戦争のおり、苦しい戦いの山場を越えてようやく北軍の勝利が見えかけたとき、側近が「神は我々の方についている」と歓喜して言ったことに対し、「神がついているか否かではなく、自らが神の側にいるかどうかを問うべきである」と返答したという逸話があるが、日比氏の意識もこれと同質のものであると考えられる。日ごろから神の側につく意識を持ち努力を重ねていても、不幸な出来事や会社の危機的な局面にも出くわすが、日比氏は「逆境こそ天の配剤」であると悟る生き方をこころがけてきたという。日比氏が、企業を運営するにあたり特に重要な局面において、信仰信念に基づきどのような決定を下してきたかについて多くの事例の中から紙面の許す限りであげてみよう。

 ・牛乳ビンから紙パックへの転換

 1970年ごろ、欧米ではすでに、重くて回収が必要なガラス製の牛乳ビンに換えて、ドイツやアメリカで発明された紙パックが使われていたという。当時日本の通産省も奨励したが大手メーカーすら手を出さなかった。コストが高くついたからようである。つまり、牛乳ビンなら年間300万円で済むところを,紙パックの中でもドイツで開発されたツーパックなら600万円、アメリカのピュアパックだと2000万円かかった。日比氏はリスクもありどうするか迷っていたところ、日ごろ天理教の教えを請うていた先生に聞いてみると、「損をするのはあなたでしょう。お客様に喜んでもらうことが一番でしょう。」と言われ、結局一番優れているピュアパックの方を、中京地域で最も先んじて導入したそうである。安価でも使い勝手や素材の劣るツーパックを導入したメーカーは結果として淘汰されていったという。教祖中山みきの逸話の中にも、商売人の信者に対して,「商売人は,高う買うて,安く売る」ように言っていたことが知られている。理解しがたいが、意味するところはつまり、生産者など川上からはできるだけ高く買ってやって喜ばせ、川下の消費者にはできるだけ安く売ってやり、自らは薄い利益で喜んではたらきなさい、という意味合いである。商業活動を通じた「陽気ぐらし」の実践のありかたということであろう。

 ・無臭ニンニクのカプセル「蓬莱」の無料配布

 さまざまの社会貢献活動の中でも,めいらくグループは、15年ほど前から「蓬莱」と命名したカプセル状の無臭ニンニク200粒入りを隔月毎に、50歳以上の希望者に無料配布してきている。当初の目標10万人達成後現在ではすでに25万人に配布しており、今では100万人を目指しているという。この事業のためにテレビCMなどは一切やめてその経費にあてている。ニンニクは古来健康に良いものとされてきたが、ニンニクの中のアホエンという成分が特に効果が高いことが知られているという。めいらくでは、名古屋製酪中央研究所バイオ研究室で研究を重ね、アホエンを加工過程で逃さない独自の製法を開発するとともに、その効用についても知識を深めている。たとえばピロリ菌の撃退効果、脳卒中予防、通風予防、心臓機能の強化、コレステロールの低下、がん予防、といった研究結果を発表している。

 このような社会貢献のあり方の背景には、健康食品ブームということもあるだろうが、天理教教祖は、かつて「人間は病まず弱らず115歳定命(じょうみょう)、それ以上は心次第にいつまでもいよ」と言っていたこともよく知られている。つまり、人間の体は本来病気もせずに115歳までは生きられるよう神に造られているという。実際はたいていそのようでないのは、自由な意思が与えられている人間の心がけ次第であるとされている(注3)。そのような天理教の理想郷に近づくための一助として無料配布を行っていることは明らかである。

 おわりに

 日比孝氏の姿や生き方から「狂気」や「異形」というイメージは受けない。「才覚」は秀でているに相違ない。しかしその商業行為上の才覚の発露には、天理教の教えに誠実であろうとする静かで強い信念が一貫していると思われる。天理教の教えには「日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものはない。」といった言葉もあるが、日比氏からはそのような印象を受ける。ロシアの生んだ世界的な演出家スタニスラフスキーが、「演出の底辺は愛である」とよく語っていたそうであるが、経営の底辺に「真の誠」が潜んでいることが経営に魂を入れることになってはいないだろうか。この共通論題である起業家の「狂気」というのは、表現的には非常識で破天荒とも見える経営行為の底辺に実は人間への「誠」が潜んでいればこその狂気と思われる。

 【注】
 (注1) この点、個人としての起業家に焦点を当てるという意味では重要なポイントであろうが、プライベートなことでもあり詳しい調査はできていない。ただ日比氏が若いころより直接接する機会のあった故関根豊松という天理教の歴史の中でも傑出した人物からの影響は少なくなかったと思われる。関根豊松については天理教の中の屈指の霊能者として豊島泰国が書き記している。
(注2) 天理教では、神が特別の意図を持って人間とこの世を創った親という意味で、神を親しみを込めて「親神」と呼び、親神の名前は「天理王命(てんりおうのみこと)」とされている。
(注3) 天理教では「心どおりの守護」ということばがある。拝み願うことにより守護されるのではなく、日ごろの心通りに神の守護があるのだという。

 【引用文献】
 「わが身を支える人こそを大切にする経営の意味」
 『長野商工会議所だより』2004年7月号No.672 pp.1‐5
 『実践本物の経営』船井幸雄著2004年ダイヤモンド社
 『天理の霊能者-中山みきと神人群像』豊嶋泰国著1999年Psy-ence book
 『天理教教祖逸話篇』天理教教会本部1976年道友社
(私論.私見) 「スジャータ」経営者天理教考
 「スジャータ」経営者が天理教信仰者とは驚いた。個人的に知る「スジャータ」製アイスクリームは私の最も忌避するレベルのものであり、それが天理教信仰とどう関わっているのか、ここに拘りたい。

 2019.10.23日 れんだいこ拝





(私論.私見)