誠真実の理

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

(れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「誠真実の理」教理を確認する。「天理教教理随想」の「No.92教理随想(43)、自由自在について」 その他を参照しながら私流に再推敲しておく。

 更新日/2016.02.29日 れんだいこ拝


【誠真実の理、まことの宝】
 44「雪の日」。
 明治八、九年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの最中のことであった。正月十日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。この橋は、当時は幅三尺程の欄干のない橋であったので、これは危ないと思い、雪の降り積もっている橋の上を、跣足になって這うて進んだ。そして、ようやくにして、橋の中程まで進んだ時、吹雪が一時にドッと来たので、身体が揺れて、川の中へ落ちそうになった。こんなことが何回もあったが、その度に、蟻のようにペタリと雪の上に這いつくばって、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、一生懸命にお願いしつつ、やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂に入り、二階堂を経て、午後四時頃お屋敷へたどりついた、そして、つとめ場所の、障子を開けて、中へ入ると、村田イヱが、「ああ、今、教祖が、窓から外をお眺めになって、『まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ、難儀やろうな』と、仰せられていたところでした」と、言った。

 りんは、お屋敷へ無事帰らせて頂けた事を、「ああ、結構やなあ」と、ただただ喜ばせて頂くばかりであった。しかし、河内からお屋敷まで七里半の道を、吹雪に吹きまくられながら帰らせて頂いたので、手も足も凍えてしまって自由を失っていた。それで、そこに居合わせた人々が、紐を解き、手を取って、種々と世話をし、火鉢の三つも寄せて温めてくれ、身体もようやく温まって来たので、早速と教祖へ御挨拶に上がると、教祖は、「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ、その中にて喜んでいたなあ。さあ/\親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ」と、仰せられて、りんの冷え切った手を、両方のお手で、しっかりとお握り下された。それは、ちょうど火鉢の上に手をあてたと言うか、何んとも言いあらわしようのない温かみを感じて、勿体ないやら有難いやらで、りんは胸が一杯になった。
 46「何から何まで」。
 ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司が、増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おりんさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理しておくれ」と言った。出刃はなかったのである。りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へもどった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八尾へ出かけて、出刃包丁と薄い刺身包丁と鋏など、一揃い買うて来て、お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで」と促した。教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、教祖は、それをお頂きになって、「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難いなあ」と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳に額をすり付けて、むせび泣いた、という。

 註 八尾のお逮夜 毎月二回、十一日と二十七日に、八尾の寺と久宝寺の寺との間に出た昼店。
 86「大きなたすけ」。
 大和国永原村の岡本重治郎の長男善六と、その妻シナとの間には、七人の子供を授かったが、無事成人させて頂いたのは、長男の栄太郎と、末女のカン(註、後の加見ゆき)の二人で、その間の五人は、あるいは夭折したり流産したりであった。明治十二年に、長男栄太郎の熱病をお救け頂いて、善六夫婦の信心は、大きく成人したのであったが、同十四年八月の頃になって、シナにとって一つの難問が出て来た。それは、永原村から約一里ある小路村で六町歩の田地を持つ農家、今田太郎兵衞の家から使いが来て、「長男が生まれましたが、乳が少しも出ないので困っています。何んとか、預かって世話してもらえますまいか。無理な願いではございますが、まげて承知して頂きたい」との口上である。その頃、あいにくシナの乳は出なくなっていたので、早速引き受けるわけにもゆかず、「お気の毒ですが、引き受けるわけには参りません」と、断った。しかし、「そこをどうしても」と言うので、思案に余ったシナは、「それなら、教祖にお伺いしてから」と返事して、直ぐ様お屋敷へ向かった。そして、教祖にお目にかかって、お伺いすると、「金が何んぼあっても、又、米倉に米を何んぼ積み上げていても、直ぐには子供に与えられん。人の子を預かって育ててやる程の大きなたすけはない」と、仰せになった。この時、シナは、「よく分かりました。けれども、私は、もう乳が出ないようになっておりますが、それでもお世話出来ましょうか。」 と、押して伺うと、教祖は、「世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の自由で、どんなにでも神が働く。案じることは要らんで」とのお言葉である。これを承って、シナは、神様におもたれする心を定め、「お世話さして頂く。」と先方へ返事した。すると早速、小路村から子供を連れて来たが、その子を見て驚いた。八ヵ月の月足らずで生まれて、それまで、重湯や砂糖水でようやく育てられていたためか、生まれて百日余りにもなるというのに、やせ衰えて泣く力もなく、かすかにヒイヒイと声を出していた。シナが抱き取って、乳を飲まそうとするが、乳は急に出るものではない。子供は癇を立てて乳首をかむというような事で、この先どうなる事か、と、一時は心配した。が、そうしているうちに、二、三日経つと、不思議と乳が出るようになって来た。そのお蔭で、預かり児は、見る見るうちに元気になり、ひきつづいて順調に育った。その後、シナが、丸々と太った預かり児を連れて、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、その児をお抱き上げ下されて、「シナはん、善い事をしなはったなあ」と、おねぎらい下された。シナは、教祖のお言葉にしたがって通るところに、親神様の自由自在をお見せ頂けるのだ、ということを、身に沁みて体験した。シナ二十六才の時のことである。
 106「蔭膳」。
 明治十五年十月二十九日(陰暦九月十八日)から十二日間、教祖は奈良監獄署に御苦労下された。教祖が、奈良監獄署に御苦労下されている間、梅谷四郎兵衞は、お屋敷に滞在させて頂き、初代真柱をはじめ、先輩の人々と、朝暗いうちから起きて、三里の道を差入れのために奈良へ通っていた。奈良に着く頃に、ようやく空が白みはじめ、九時頃には差入物をお届けして、お屋敷に帰らせてもらう毎日であった。ある時は、監獄署の門内へ黙って入ろうとすると、「挨拶せずに通ったから、かえる事ならん。」 と言うて威かされ、同行の三人は、泥の中へ手をついて詫びて、ようやく帰らせてもらった事もあった。お屋敷の入口では、張番の警官から咎められ、一晩に三遍も警官が替わって取り調べ、毎晩二時間ぐらいより寝る間がない、という有様であった。十一月九日(陰暦九月二十九日)、大勢の人々に迎えられ、お元気でお屋敷へお帰りになった教祖は、梅谷をお呼びになり、「四郎兵衞さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅうなかったで」と、仰せられた。監獄署では、差入物をお届けするだけで、直き直き教祖には一度もお目にかかれなかった。又、誰も自分のことを申し上げているはずはないのに、と、不思議に思えた。あたかもその頃、大阪で留守をしていた妻のタネは、教祖の御苦労をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をさせて頂いていたのであった。そして、その翌十日から、教祖直き直きにお伺いをしてもよい、というお許しを頂いた。
 122「理さえあるならば」。
 明治十六年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手伝いをしていた。すると、家から使いが来て、「村では、田の水かいで忙しいことや。村中一人残らず出ているのに、伊三郎さんは、一寸も見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て、顔を見せてもらいたい」と言うて、呼びに来た。伊三郎は、かねてから、「我が田は、どうなっても構わん」と覚悟していたので、「せっかくやが、かえられん」と、アッサリ返事して、使いの者をかえした。が、その後で、思案した。「この大旱魃に、お屋敷へたとい一杯の水でも入れさせてもらえば、こんな結構なことはない、と、自分は満足している。しかし、そのために隣近所の者に不足さしていては、申し訳ない。」と。そこで、「ああ言うて返事はしたが、一度顔を見せて来よう。」と思い定め、教祖の御前へ御挨拶のために参上した。すると、教祖は、「上から雨が降らいでも、理さえあるならば、下からでも水気を上げてやろう」と、お言葉を下された。

 こうして、村へもどってみると、村中は、野井戸の水かいで、昼夜兼行の大騒動である。伊三郎は、女房のおさめと共に田へ出て、夜おそくまで水かいをした。しかし、その水は、一滴も我が田へは入れず、人様の田ばかりへ入れた。そしておさめは、かんろだいの近くの水溜まりから、水を頂いて、それに我が家の水をまぜて、朝夕一度ずつ、日に二度、藁しべで我が田の周囲へ置いて廻わった。こうして数日後、夜の明け切らぬうちに、おさめが、我が田は、どうなっているかと、見廻わりに行くと、不思議なことには、水一杯入れた覚えのない我が田一面に、地中から水気が浮き上がっていた。おさめは、改めて、教祖のお言葉を思い出し、成る程仰せ通り間違いはない、と、深く心に感銘した。その年の秋は、村中は不作であったのに、桝井の家では、段に一石六斗という収穫をお与え頂いたのである。

 お指図は次の通り。
 「誠というのは天の理である。誠より外に受け取るところなし」。(明治20.9.18日)
 「誠ほど強いものはない。誠は天の理である。誠であれば、それ世界成る程と云う」。(明治21.6.2)
 「助け一条の理を聞き分けるのが一つの理である。(中略)心一つの理によって、互いへの誠の心が助けのこうのうの理である」。(明治21.8.9日)
 「誠の心の理が成る程という理である。常に誠という心あれば、その場で、天の理が直ぐに受け取る。直ぐに返す返す」。(明治21.11.11日)
 「常々真の誠あれば、自由自在である」。(明治21.12.25日)
 「誠あれば、うちうち睦まじいという理になる」。(明治21年)
 「誠一つは自由自在」。(明治22.6.1日)
 「さあさぁ段々の席返し/\の席をして、一日の日は生涯心一つの理を以て一つ席。席順序一つの理はよく聞き分け。生涯の理を諭そ。生涯の理を諭するには難しい事は一つも言わん。どうせこうせはこれは言わん、言えんの理を聞き分けるなら、何彼の理も鮮やかという。それ人間という身の内という皆な神の貸し物借り物、心一つが我がの理。心の理というは、日々常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理でも、日々に皆んな受け取る。日々に皆んな受け取る中に、たゞ一つ自由という一つの理、自由という理は、何処にあるとは思うなよ。たゞ銘々精神一つの理にある。日々常に誠一つ、誠の心と言えば一寸には皆な弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものはない。誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治まる。そら世界という成る程という成る程の者成る程の人というが、常に誠一つの理で自由。よく聞き分け。又一つ、これまで運ぶ尽す中に互い扶け合いというは諭する理。人を助ける心というは真の誠一つの理で自由。よく聞き分け。又一つこれまで運ぶ尽す一つの理は内々銘々事情理に治め」。(明治23.1.10日)
 「誠一つの理は天の理。天の理なれば直ぐと受け取る。直ぐと返すが一つの理」。(明治23.4.17)
 「どうでも運び掛けたら運ばにゃならん。切れんように運ばにゃならん。切れやせんで。あらかた(粗方)了(しも)たら切れるか、と思う。切れやせん。一つ手を繋ぐ模様。一つ/\治めにゃならん。 一つ手が(を)繋がにゃならん。切れた事なら切れた処(所)から火が入る、風が入る、水が入る。怖わい恐ろしい〈ことになる〉。〈しかし〉誠続く理があれば、どんな中でも怖わいことはない」(明治24.12.19日夜)。
 「銘々の心に誠さえあれば踏み損ないはない」。(明治30.12.23日)

【天佑會「まことたから」】
 「My Library Home 」の天佑會「まことたから(上巻)」。
 「気は長く、心は広く、勤めは堅くと云うは堪忍を旨とし、何事にも癇癪を出さず、又何事に懸かりても捲まざるを云う。心広くと云うは、何事にも心を動せず、先を案じざるを云う。勤めと云うは言行一致のことなり。正直から情けが出る。正直、慈悲、堪忍の三つが誠(真事)なり。誠は神也。誠より尊き心なし。水火風、これより上の宝はない。これが人間万物の命なり。人間の肉体を始めとし一切動物の肉体、宇宙の万体は、悉く水土温熱風にて産み出され、この世に生命を有し活動をなす。神が命なり、故に神様を尊、命と云う。

 神言「身上あって楽しみ、身上あっての道である。これよう聞分けてくれ」と仰せ下さる。

 ばっと腹立ちたのをそのまま風に出さずに堪忍して、どん事でも分かる様に説いて聞かす。人の満足の行くように聞かす。人に満足与える、善き方/\と優しく物の治まる様の風を吹かす言葉が堪忍の風、かしこねの命の智恵なり。かしこねの命の言葉、口弁舌、賢いという。人は心中道理の見分け、噛み分けのよくできる者、即ち切り分け故にかしこねの命の裏は大食天命(丑寅と未申)。見分け聞分けの神、交際義理の神様、かしこねの命誠が現れ、慈悲心気を長くして、人に満足与える風が智恵。

 しかして言葉は心は現れるもの故、物が惜しいや欲しいで欲が深いようでは人の助かる人に満足与える真実の言葉が出ん。木の葉も根より水気入り込み、温味が入りて芽が出る。芽は葉なり。言葉も同一の理なり。現れるなり。誠は、情けと思い切りの理、例えば人を助けるにも人様に志し心尽くすにも情けを施すにも思い切らねばできぬ如く我が家我が身欲を思い切れぬようでは社会の為に働けぬが如し。

 その真実が誠がなくては出んなり。誠の心陽に現われ或いは人を助ける食物与えるとか世話をするとか金銭物を施すとか実行して、その誠の現われたものを実と云う。真実なり、心に誠あっても行なわざれば見えん。行なうたものが即ち実、例えば人間夫婦の間に子の生まれたのが実、柿の木は甘き柿の実を結ぶ。渋柿は渋い味の実が現れる。甘き木の誠が現れて甘柿となる如し。木の実も実も同じ。親神様の誠が宇宙万物に現れて衣食住その他総ての物を身に受け見聞して陽気に暮らす。皆な親様の実を頂いて活きて居る人間也。これが神様の真実誠。人間も同じ。助けよと思う心は誠。誠は無形現れて実、欲のなきものが誠。親が我が子を思う、我を忘れ欲を忘れ、真心尽くして育てる慈悲、この心が真実誠也。

 堪忍と素直は同じ理となる。素直は神の心、水の心。人間誠というは足納が第一。足納はこの世の大王とも足納大き木とも仰せられてある。心澄む心の掃除するには足納。足納はこの世の治まる理。水の心なり。八方の神様の御心が一つにまとまり下されたものが即ち誠、月日の御心なり。優しき心と云うは誠にて、この世は八方八柱の神。この八柱神の心にかなう心に定めるが世界の式なり。この心を優しいと云うなり。

 正直、慈悲、堪忍、この三つは人間暖み水気息一日もなくては立たぬと同じく、これより宝はない。堪忍は物のよく分かりた賢い人から堪忍をする。寛仁、大度、慈悲心を以って敵を味方にする如き古今の例話もある如く、誠ほど尊きものはなく、誠ほど人の感化するものはない。誠には刃も立たず、矢も立たず、水に溺れず、火に焼けずという。宇宙間は悉く神の誠の現われ故、本書中だん/\逑ぶる所は借り物の理を了解せんとするもの皆な誠の一つに止まる故、この誠と云う理は何程にても話し尽くせぬものなり。

 『誠という理の働きさえあれば天の親よりも実があるで。実と云うは分かろうまい、火水風という。この恩理が分かれば一切の恩理が知れる。これ知れば衣食住の三点は火水風の賜物という理が知れる。この理が分かれば神の守護という理が知れる。この理が治まれば神の誠という理が明らか知れる。なれど、教えの理を取り違えるというは、これまでの心の理が忘れられんから、目に見えたものに惜しみをかけて身上の大敵という事を知らず。欲しい惜しいの心の理が離れられんから、真実という理が治まらん。早く思案をしてくれ。世上の難はどういう所から身に受けるは八つのヶ条は何と思うてしている。

 又神の守護という理が心に分かりたことなれば、道のりは容易ならぬ重い理なれど、深い楽しみの理を与うるには日々銘々の心の勤め方の理によって与うる理と与えられん理とあるから、取り違いのなきように勤めにゃならん。我が身の助かると云うは、人の為なら我が身捨ててもと云う精神を以って人を助けにゃならん。人に喜んで貰わにゃならん、と云う心で日心勤めて人の心を助け、自分も喜び、日々勤むる理であると仰せ、又御道は話一條で助け下さるその話は月日の真実。これを取次ぐ者は月日の代理である。神様の御言葉は人間が考えたり作った事でないから、正直に取次がねばならん。我々人間が智恵高慢を交ぜて我が身欲から我が身の用害や身引、例えはこの話をしては人か如何に感ずるから気に入らぬからと云う風にて取次ぐにひかえるとか上手口とか遠慮気兼ねして居ては人が助からぬ故、神に対して高慢となる。神の御言葉は正直に取次ぐ。神に素直になくては誠とは云えぬ我が身をだくは欲。

 又人間の俗に云う硬いと云う心は一時強いようなれども欲というものがために決断力が乏しく心が変わる崩れる。硬いものがやわらかい中途で挫ける。真実定めた心は立ち抜く挫けぬ変わらん迷わんくるわんと云うのが誠。真実の定まった心なり、日本魂とも云う、たとえば弾丸は出かけは強いが先に行くと布に包まれる。矢は出かけは弱い手の効いた者はつかむという。先の行く程激しく強くなると云うたとえの如し』。

 『自由用と云う理は何所にあると思うなよ、只銘々精神一つの理にある日々と云う常と云う、日々常に誠一つという、誠の心と云えは一寸には弱いように皆な思うなれど誠より堅き長きものはない誠一つが天の理、又人を助ける心は真の誠と仰せ下さる』」。


【黒住教の誠教理】
 黒住教の誠教理を詠う「吉備楽」は次の通リ。
 誠には剣(つるぎ)も立たず矢も立たず
 火にさえ焼けず水に溺(おぼ)れず
 (黒住教教祖 黒住宗忠詠)
 かく詠み給いしその故は
 天(あま)てる神の活(い)き物の
 活(いか)し給はるその誠
 誠一つになりぬれは
 神の御心(みこころ)人心(ひとこころ)
 二つなければ生き通し
 活かし通しの道なれば
 取りな外しそ人々よ 




(私論.私見)