心遣いの理

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

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 更新日/2016.02.29日 れんだいこ拝


【心遣いの理】
 お道教義では、神の思惑に叶う心遣い、行いを為すことに因り神のご守護が働きになられ、これが「助かりの理」となると教えられている。

 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。
 日々に 心尽した 物だねを
 神が確かに 受け取りている
お筆先号外
 真実に 神の受け取り 物だねは
 何時になりても くさる目はなし
お筆先号外
 段々と この物だねが 生えたなら
 これ末代の こふきなるぞや
お筆先号外
 こんものに むりにこいとハ ゆうでなし
 つきくるならば いつまでもよし 
三号6

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 「ああもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ。その心を供えるのや。親の言うなりするなりにしてもらう心、それを素直という。何でもつとめるという心、低いという。何でもハイという心、優しいという。この三つ誠真実やで。誠真実なら何でも自由という」。
 「神様のお話は守らしてもらわにゃいかん。守らんよってご守護が頂けないのや。神様のお話を守らしてもらうから身が守られるのやで」。
 「心の守りが身の守りになるのやで」。
 「神様のお話は難しいことないのやから、すぐにでもさせてもらわにゃいかん。守るから守られるのやで。忘れたらいかんで」。
 「守るということは、聞かしてもろうた事だけでなく、自分が定めた事も守らしてもらわにゃいかん。定めた事守らんようやったら、守って頂けなくなるだけのことや。守って頂けなくなるということは、身上を守ってもらえないことや」。
 「人間同士の間でも、守るからお互い守られるのや。約束したら守らにゃいかん。人の真実を無にするようなことしたらいかん。人を待たせるようなことしたら埃やで。待たせるということは人を縛ることと同じやで。人を縛ることは物を取るより悪い。何でもないように思うているかも知れないが、人の真実を無にしたら自分が守ってもらえんようになるで」
 「人を縛ることは、人の自由を妨げるもの、御守護の理を止めることにもなるで。ここのところをよう思案してくれ。どんな事になるやらしれんで」
 「時は大切にしなけりゃいかん。時は守ることによって生かされる。守らない時ならいらないやろ」、「守るということは人の真実やで」。

 「日々は喜んで通らしてもらうのやで」。
 「喜べないような日もあろう、喜びにかえて通らしてもらうのやで」。
 「真実の心で通らしてもらえれば喜べるのや。誠の心で通ってくれ」。
 「日々通らしてもらう心の使い方、持ち方、よう思案してくれ」。
 「心の使い方というても、我が身思案からの通り方、人に助かってもらう、喜んでもらう通り方があるのや。ちり一つ拾うても誠、大きな木を取り片づけても真実といえん場合もあるで。日々よう思案してくれ。誰でも通れることやで。心の持ち方、思い方が大事やで。心の思い方というても、人間はあざないものであるから、都合のいいように考え、または思い、我が身に都合の悪いことはそうはでけんと言うてしまう。そんなことでは道はつくはずがない。都合のいいことも悪いことも心一つに治めて通ってくれ。神様がきっと連れて通って下さるで、一つも心配いらんのやで」。
 「日々通る中にどんな中もあろう。難儀な中、難しい中、その成らん中を喜びにかえて通ってくれ。その中にご守護が頂けるのや。無理と思うてはいかんで。無理と思うのやないで。無理と思えば無理になってしまうで。心通りの御守護下さるのやから、さらさら思うやないで」。
 「喜びにかえて通っていく中に、ああ結構やった、有難かったと思える日が必ずあるのやで。その日を楽しみに通ってくれ。今の苦しみは先の楽しみやで。日々を喜んで通らしてもらいなはれや」。
 「日々通らしてもろうていても、いろいろ人の通る道はある。その中で神様によろこんでもらう道を通るのやで。神様によろこんでもらう道は真実だけや。真実というても、自分だけが真実やと思うていても何にもならん。真実とは、低い、優しい、素直な心をいうのや。自分で低いと思うているうちは低くはないで。優しいというても、素直というても同じこと、人にあの人は真実の人やといわれるまでの道を通るのやで」。
 「素直というてもなあ、人の心をひくような素直は何にもならん。神様によろこんでもらえるような素直というは、親の言うなりするなりにしてもらう心にならなけりゃいかんで。やさしいというても、口だけでは何にもならん。ハイと言うたらすぐ行ってこそ優しいのやで。そうして何でもつとめさしてもらう心を低いと言うのやから、その心で日々通らにゃいかんで。口だけの真実やったら神様はなあ、よろこんで下さらんのやで」。
 「神様のお話をよく聞かしてもらうのやで。神様のお話とは親の声や。親の声というていい加減に聞いていてはならん。しっかり心に治めなはれや」。
 「真実の心というても、昨日も話をしておったのや、まるごとでなきゃいかんで。まるごととは全部や。一切を引き受けさせて頂きますという心や。庭の掃除一つさせて頂くのも自分我が身一人ひとりがさせてもらうのや。多数の人でやったら自分の徳にはならんで。だがなあ、徳を積ましてもらうという心はいかん。これは我が身のためやからなあ。何でも人のため、我が心は人のよろこぶよう、人のたすかるような道を通ればよいのやで。我が身のことは何にも考えんでもよいのや。これがまるごとの真実やで」。
 「人に腹を立てさせて下さるな」。
 「親の心に添うと言うても、形だけやったらいかん、心を添わして頂くのやで。どんなに離れていても、心は親に通じるものやで。心を添わしてもらいなはれや」。
 「親々の心に添わしてもろうて日々通っていたら、身上事情で苦しむような事はないで。だが、因縁なら通らにゃならん道もあろう。しかし親の心に添って通らしてもろうているのなら、何にも身上や事情やというて案じる事はないで。心倒さんように通りなはれや」。
 
 「真実の心で日々通らしてもらわにゃいかん。真実やったら神様は必ず守って下さるで。神様に守ってもらっておれば日々は安心やで。なんでも守らしてもらう心になんなはれや。神様はきっと守って下さるで」。
 「真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすことむずかしい、なれど真実なら神がうごかすで」。 
 「人を助けるのも真実、その真実に神が働くのや」。 
 「人が人を助けるのはむずかしい。なれど真実なれば神が助けさす」。
 「真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心と言うても、その心にならなけりゃ何にもならんで」。
 「日々通っている中に、我が身はまことやまことやと思うて通っていても、まことの中のほこりという道もあるで。よう思案して通らしてもらうのやで」。
 「日々真実の心で通らしてもらえたなら、家々むつまじゅう暮らさせて頂くことができるのやで」。
 「銘々我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や真実やと言うて通っていても、心に真実なくば何にもならん。目にも見えん、形にも現れんもの、心にその理なくば何にもならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで」。
 概要「ひくい、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えるというは、人に喜んでもらう、人に助かってもらう道を通ることやで。この心で日々通れたら、どんな中でも連れて通るほどに」。
 「人間はあざないものであるから、日々その心で通らしてもらわにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心遣いから、我が身さえ、我が身さえと思い、我が身さえよければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護頂けるはずはないで」。
 「我が身どうなってもという心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てて、人の喜ぶよう、人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けてもらうことできるのやで」。
 「親の言う通りせんで御守護頂けないと言うて日々通っている、そんなことで人に喜んでもらう、人にたすかってもらう道が通れるか、よう思案してみい。申し訳ないと思うたら、すぐに心入れ替えてつとめなはれや、御守護下さるで」。
 概要「日々通る身上についての心の持ち方はなあ、人間は、いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由用の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで」。
 「親の声聞いたら、そのまま受ける心に神が働くのや。親の声聞いて、頼りないと思うたら、頼りなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに」。
 「借りものという事は、神様からこんな結構な身体を借りているという事をよく心に治めることやで。これが分かれば、それでよいのや。よく心に治まれば、どうしてお礼をさせて頂こうかと思えてくるで。その思えてきた事を供えさせてもらうのや」。
 「日々通る心の持ち方は、自分勝手な心遣い、気随気ままな心遣い、そんな心遣いでは御守護は頂けないで」、「気随気ままな心遣いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない。こんな事は分かっているやろ。ここのところ、よく思案してくれ」。
 「日々に埃の心遣うて通るから御守護が頂けないのやで。人の心に嫌な思いをさせるのは何でもないように思うて通っているやろうが、それは人の心を殺して通っているのと同じこと、目に見えない埃を日々に積んでいったら、身上にもなろう、事情にもあらわれてこよう、みな我が身が苦しむことになるのやで」。
 「日々通らしてもらうには、難しい事は何にもない。ただ真実の心で、借りものという理をしっかり心に治めて、ありがたい、結構やと言うて、思うて、明るい心で通ってくれ、神様が必ず御守護下さるで」。
  「日々に、朝起き、正直、働き、この三つを心に置いて通らしてもらうのやで。結構な日々が通れるで。借りものという事分からねば、この道は通れないで」。
 「神のこしらえた世界、人間である。神一条の道を通させたさ、陽気遊山を見たいゆえーー人間心で通る人間もあるーーー神の残念、親の心は助けたい一条やで。人間思案を捨てて、指図一つの理をもって通りたなら、身上事情で苦しむようなことはない」。
 「親の心に添うて通る者、火の中水の中でも連れて通るほどに。人間心出すやない。もたれる心に神がはたらくのや、案じない」
 明治17年10月11日、宮森与三郎。(願いの筋なし)。
 あゝもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ。その心を供えるのや。親のいうなり、するなりにして貰う心、それを素直という。何でもつとめると、いう心ひくいという。なんでもはいとうける心やさしいという。この三つ誠真実やで、誠真実なら何でも自由用という」。
 逸話篇79「帰って来る子供」。
 「教祖が、ある時、喜多治郎吉に、『多く寄り来る、帰って来る子供のその中に、荷作りして車に積んで持って行くような者もあるで。又、風呂敷包みにして背負って行く人もあるで。又、破れ風呂敷に一杯入れて提げて行く人もある。うちへかえるまでには、何にもなくなってしまう輩もあるで』、とお聞かせ下された」。
 昭和8年11.5日号みちのとも「おやさまのことども」の柏木庫治「教祖と筋芋」より。
 「或る日の事である。ざるにいっぱい盛られた蒸し芋が、おやつとして出された。お弟子たちの集まりは至極和やかである。芋ざるを中にして四方山の話を交しながら、一つ一つの芋は平らげられていった。途中から教祖様も一座の中に見えられた。談笑の中に、芋はざるの中から姿を消した。ところが小指のような細いヒョロ長い筋芋が二三本ざるの底に残されたあった。おや様は、その一つをお摘まみになってお弟子の前に御示しになり、『皆さん、筋芋は結局残されました。誰からも食べて貰えないのであります。正味のない筋だけでは、食べようにも食べられぬのであります。人間の筋言い、即ち理屈ばかりを言うて、正味のない‥、誠の少ない者は世の中から取り残されます。人が用いてくれません。あれでもない、これでもないと、筋ばかり言う者には正味がありません。お互いは筋芋にならない様に気をつけねばなりません』、とお諭しになった」。
 諸井政一著「正文遺韻抄」(道友社発行)250-251p「子の出て来るのを」。
 「教祖様がな、『この屋敷へ出て来る者は、無理に去(い)ねとは云わへんほどに。何事でも、我が家の事と思うてつとめたら、我が家の事になるで』、と仰った。又、『使い良い道具は、さいしき(彩色。美しく彩ること)に、さいしきをして、どうしてなりとも使うで。なれど、使い勝手の悪いものは、更(さら。手の加わっていないこと。未使用で新しいこと。また、そのもの)でも使えんで。どう仕様もない』、と聞かせられる。『何でも素直な心もって、神様の云う通りの道を守って神妙につとめにゃならん。親が尽くしておいたら、子の出て来るのを神が待っている。道に背いたら、親は子が出て来ても横向いている』、と仰る。よって、尽くした理は一代ぎりやない。子孫に伝えて末代の理や。よって、何でも真実を尽くさにゃならん」。

 26「麻と絹と木綿の話」。
 明治五年、教祖が、松尾の家に御滞在中のことである。お居間へ朝の御挨拶に伺うた市兵衞、ハルの夫婦に、教祖は、「あんた達二人とも、わしの前へ来る時は、いつも羽織を着ているが、今日からは、普段着のままにしなされ。その方が、あんた達も気楽でええやろ」と、仰せになり、二人が恐縮して頭を下げると、「今日は、麻と絹と木綿の話をしよう」と、仰せになって、「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけのものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれまでや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反故と一しょや。絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもならん。そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりのものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おしめにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところまで使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みになっているのやで」と、お仕込み下された。以後、市兵衞夫婦は、心に木綿の二字を刻み込み、生涯、木綿以外のものは身につけなかった、という。
 29「三つの宝」。
 ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、「伊蔵さん、掌を拡げてごらん」と、仰せられた。伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで」と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで」と、仰せられた。伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。
 31「天の定規」。
 教祖は、ある日飯降伊蔵に、「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され」と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され」と、仰せられ、更に続いて、「隙がありませんか」と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます」とお答えすると、教祖は、「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」と、お教え下された。
 45「心の皺を」。
 教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの紙なども、丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて、御用にお使いなされた。お話に、「皺だらけになった紙を、そのまま置けば、落とし紙か鼻紙にするより仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら、何んなりとも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げることは出来ぬやろ。人のたすけもこの理やで。心の皺を、話の理で伸ばしてやるのやで。心も、皺だらけになったら、落とし紙のようなものやろ。そこを、落とさずに救けるが、この道の理やで」と、お聞かせ下された。ある時、増井りんが、お側に来て、「お手許のおふでさきを写さして頂きたい」とお願いすると、「紙があるかえ」と、お尋ね下されたので、「丹波市へ行て買うて参ります」と申し上げたところ、「そんな事していては遅うなるから、わしが括ってあげよう」と、仰せられ、座布団の下から紙を出し、大きい小さいを構わず、墨のつかぬ紙をよりぬき、御自身でお綴じ下されて、「さあ、わしが読んでやるから、これへお書きよ」とて、お読み下された。りんは、筆を執って書かせて頂いたが、これは、おふでさき第五号で、今も大小不揃いの紙でお綴じ下されたまま保存させて頂いている、という。
 49「素直な心」。
 明治九年か十年頃、林芳松が五、六才頃のことである。右手を脱臼したので、祖母に連れられてお屋敷へ帰って来た。すると、教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と、仰っしゃって、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、「その茶碗を持って来ておくれ」と、仰せられた。芳松は、右手が痛いから左手で持とうとすると、教祖は、「ぼん、こちらこちら」と、御自身の右手をお上げになった。威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛む右手で茶碗を持とうとしたら、持てた。茶碗を持った右手は、いつしか御守護を頂いて、治っていたのである。
 64「やんわり伸ばしたら」。
 ある日、泉田藤吉(註、通称熊吉)が、おぢば恋しくなって、帰らせて頂いたところ、教祖は、膝の上で小さな皺紙を伸ばしておられた。そして、お聞かせ下されたのには、「こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたら、綺麗になって、又使えるのや。何一つ要らんというものはない」と。お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層熱心におたすけに廻わった。しかし、道は容易につかない。心が倒れかかると、泉田は、我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀川に出て一っ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手拭を使っては功能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。水に浸かっている間は左程でもないが、水から出て寒い北風に吹かれて身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して三十日間程これを続けた。又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに廻わらせて頂いた。こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂くと、教祖は、「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで」と、お言葉を下された。親心溢れるお言葉に、泉田は、かりものの身上の貴さを、身に沁みて納得させて頂いた。

 註 一っ刻は、約二時間。
 77「栗の節句」。
 教祖は、ある時、増井りんに、「九月九日は、栗の節句と言うているが、栗の節句とは、苦がなくなるということである。栗はイガの剛いものである。そのイガをとれば、中に皮があり、又、渋がある。その皮なり渋をとれば、まことに味のよい実が出て来るで。人間も、理を聞いて、イガや渋をとったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで」と、お聞かせ下された。
 87「人が好くから」。
 教祖は、かねてから飯降伊蔵に、早くお屋敷へ帰るよう仰せ下されていたが、当時子供が三人ある上、将来の事を思うと、いろいろ案じられるので、なかなか踏み切れずにいた。ところが、やがて二女のマサヱは眼病、一人息子の政甚は俄かに口がきけなくなるというお障りを頂いたので、母親のおさとが教祖にお目にかからせて頂き、「一日も早く帰らせて頂きたいのでございますが、何分櫟本の人達が親切にして下さいますので、それを振り切るわけにもいかず、お言葉を心にかけながらも、一日送りに日を過しているような始末でございます」と、申し上げると、教祖は、「人が好くから神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。人の好く間は神も楽しみや」と、仰せ下された。おさとは重ねて、「何分子供も小そうございますから、大きくなるまでお待ち下さいませ。」 と、申し上げると、教祖は、「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早よう帰って来いや」と、仰せ下されたので、おさとは、「きっと帰らせていただきます」とお誓いして帰宅すると、二人の子供は、鮮やかに御守護を頂いていた。かくて、おさとは、夫の伊蔵に先立ち、お救け頂いた二人の子供を連れて、明治十四年九月からお屋敷に住まわせて頂く事となった。
 お指図は次の通り。
 「人間というものは、皆な神の貸し物。如何なる理も聞かすから、聞き分け。心の誠意、自由自在と。自由自在どこにもあらせん。誠の心にあるのや。身は神の貸し物、心は我がもの。心次第に貸しものの理を聞き分け」(明治21.2.15日)。
 「一つ誠という理を聞かそう。誠ほど強いものはない。誠は天の理である。誠であれば、それ世界成る程と云う」(21.6.2日)
 「自由自在は何処にあると思うな。面々の心、常々に誠あるのが、自由自在という」(明治21.12.7日)
 「人間というものは、身は借り物、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在(じゆうようじざい)という理を聞き分け」(明治22.2.14日)。
 「人間というは、身体は借り物、心一つが我がの理」(明治22.6.1)。
 「長らえての処、分からん処より段々通り来たる処、誠真実一つの理はどのように潰そうと思うても、どないにも出けるものやない。よう悟りておけ。真実誠天の理、天の理が潰れたというような事はない。何ぼ潰しに掛かりても潰れるものやない」(23.5.26日)
 「命でも危うき処(ところ)でも心という。これだけの事が分からねば〈、〉どうもならん」(明治23.6.20午後4時)。

 注釈/「人命に関わるような危険な状況においても〝心一つ〟である。この〝心次第に心通りの守護〟という、これだけのことすら解らなければ、どうもならんぞ」。 命の繋ぎは、お金ではなく「心」だと宣べている。

 「堪忍というは誠一つの理、天の理と諭しおく。堪忍という理を定めるなら、広く大きい理である」(26.7.12日)
 「長くの楽しみという、こうのうの理と云う。こうのうの理というは常に誠一つの理ぃと云う」(補21.)
 昭和11年第6回教義講習会講義録「心の普請と理の成人」の板倉槌三郎「一円のものを」 より。
  「本席様が御教祖のおはなしを下さる時には、常に涙でした。よく仰せになりましたが「一円のものをよい所に使えば一年寿命が延び、悪い所、無益の所に使えば一年寿命が縮まる。板倉さん、よく聞いておけよ」と申されたのであります。私は今でもこのことは忘れられない」。

心一つが我がの
 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。
 親子でも 夫婦の仲も 兄弟も
 皆なめへ/\に 心違うで
五号8
 心さい すきやかすんた 事ならば
 どんな事ても 楽しみばかり
十四号50

 明治10年3月21日、辻忠作、山澤良治郎、村田幸右衛門。(願いの筋なし)。教祖の次のような御言葉があった。(「おやさまのおことば」/ 目次topへ
 日々通らして貰うに、先ず口のきゝ方、ものゝ言い方に気を付けにゃいかんで。それからなあ、することなすことに心を使うことやで。不足の心で通っていたらなんにもならんで。神様の人間をおつくり下されたお心をよう思案しなはれや。これで日々通っている心使いが違っていないかどうか、よう思案するのやで」。
 明治10年9月17日、山澤良治郎、辻忠作、桝井伊三郎。(願いの筋なし)。教祖の次のような御言葉があった。(「おやさまのおことば」/ 目次topへ
 恩返しをさせて頂くには、先ず心をしっかりと定めて、借りものと言う理を治めて助けさせて頂くのやで。人を助けさせて貰うということは、恩返しになり徳を積むことにもなる。前生からの悪い因縁も切って下さるのやから、どれだけ結構にさせて頂ける事やらわからんで。精出して助けさせてもらいなはれや。お助けをさせて頂くときの心間違わぬようしなけりゃいかんで。お話するにも、借りものと言うことだけお話させてもらえりゃ結構なのやから、誰にもできる話やで。自分我が身がその心にならにゃいかんで。よう思案させて貰うて日々を通らせて貰いなはれや」。
 お指図は次の通り。
 「さあさぁ小人(こども)/\は 十五才までは 親の心通りの守護と聞かし、十五才以上は皆銘々の心通りや。さあさぁよく聞き分け」(明治21.8.30日)。
 「命でも危うき処(ところ)でも心という。これだけの事が分からねば、どうもならん」(明治23.6.20日午後4時)。
 「皆な揃(そろ)うて出て来る。結構な理がある、面々の理がある。結構の理が分からん。勝手言う理があるからどうもならん。もう変わる変わらんやない。幾年何年経って分からんやならん。一名一人(いちめいいちにん)の理がある。明らかな道を通りて、やれ/\面々(銘々)勝手あるからどうもならん。こゝらの理を よく聞き分けてくれ」。(明治23.8.19日午前2時30分)
 「銘々の勝手というが、何遍諭(なんべんさと)せども一寸(ちょっと)も治まらん。もうもぅ十分/\。何も彼 (か)も治めてある。なれど勝手がある。勝手はどうもならん。親の事情 親の理 聞き分け。身のところにて不足あれば どうもならん。勝手がどうもならん。親々の間に何の差さありもない。親々の理を聞き分け」。(明治23.11.28日)

【人間思案、我が身思案論】
 お道教義では、「元の理」を知らない自由気まま、あるいは偏屈偏狭な、あるいは世上の欲得打算的な、あるいは自分勝手な我が身さえ良ければ等々の考え方、思い方、行い方を間違いであると指摘し、本来通りの神の喜ぶような思案に立ち戻るよう切り替えるようお諭しされている。

 御神楽歌では次のようにお記しされている。

 お筆先では次のようにお記しされている。 
 銘々に 今さえ良くば 良きことと 
 思う心は 皆な違うでな
三号33
 日々に 神の心は 急き込めど
 子供の心 分かりないので
四号86
 子供でも 一寸の人では ないからに
 多くの胸が 更に分からん
四号87
 銘々に 我が身思案は 要らんもの 
 神がそれぞれ 見分けするぞや
五号4
 一屋敷 同じ暮らし しているうちに 
 神も仏も あると思えよ
五号5
 思案して 心定めて ついてこい
 末は頼もし 道があるぞや
五号24
 この掃除 すきやかにしたて せんことに 
 胸の真実 分かりないから
五号28

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 概要「親の心に添わしてもらうには、我が身思案を捨てにゃいかんで。我が身どうなってもという心で親に添い切るのや。我が身思案から、ああもこうもと心を使う。人間心で聞いて、あれやこれやと思案する。なんぼ聞いても同じことやで。そんな心やったら親の心に添うことできん」。
 「親の心殺して通る者、人間心で通る者、勝手な道を歩む者、なれど一度はゆるす、二度はたすける、三度はゆるさん」。
 明治18年5月3日、辻忠作、前川喜三郎、村田長平、橋本。(願いの筋なし)「身上事情を病いと言うやない。病いというは日々の心のあらわれ。身上事情は前生もあるのや。病と云うてさらにない。心の埃だけや。心を倒すのが病い、倒さんのが身上というて花や。人間思案で通るから倒れるのや。人間思案出すやない。人間思案を捨てたらそのまゝ通れる。人間思案を捨てるには、親の声だけが頼りやで。親の声を何でも聞かしてもらわにゃいかんで。無理と思うな/\きっとつれて通る程に。身上事情の中、勇んで通るから神が守るのや。もうあかんと思うのが人間心やで。人間心捨てにゃ身上事情の中は通れんのや」。
 明治18年6月8日、高井直吉。(願いの筋なし)「人間心捨てたら理は立つのや。人のような心遣うて通りたがる、それで理のたつ筈がない。情をつぶして、殺して、親の心に添いきるのや。それで情のつぶれるようなことはない。案じ心がいかんのや。よう思案して通れ」。
 明治18年7月20日、辻忠作、桝井伊三郎、村田長平。(願いの筋なし)「身上事情の中、勇んで通るから神が守るのや。もうあかんと思うのが人間心やで。人間心すてにゃ身上事情の中は通れんのや。身上事情の中は通りにくいやろ。その中を通るのや。通れんと言うやろ、もたれる心あったら通れるのや」。
 お指図は次の通り。
 「人間の理と云うは明日の理がない」(明治22.8.4日)
 「人間心はどうもならん。人間の思う心では何にもならん」(明治24.1.23日)

【聞き分けの理】
 お指図は次の通り。
 「雨風や/\。あちらこちら津波や、地震やと言うても、遠い所は怖わいようで、聞いて真の心になくばついつい忘れて了う(しまう)。よう聞き分ける者だけ聞き分けてくれ。聞き分けでけん(出来ん)者はどうもならん」(明治29.10.10日)。

【業果たし論】
 昭和7年10月発行「三才特別号、教祖を思ふ」新第四巻第四号「御教祖様の逸話十題」の山澤為次「業果たし」 より。
 「龍田の下に小林という村がある。その小林村にお松さんという人がいて、若い時西京に嫁入りしたが、子が一人できた頃、全身にライ病の徴候が表われて来た。離縁になって帰郷したお松さんは、神様のお話を聞いて、早速おぢばに百日の御参りを思い立った。しかし、道中で人々に見苦しい自分の顔を見られるのが恥しさ辛さに始終頭に頬かむりをしていた。或る時、御教祖様は彼女を御覧になって、『ライ病は業病である。見苦しい顔姿を人々に見られて業果たしをせねばいかんで』、とお諭しになった。それからお松さんは素直に、御教祖様の仰せ下された通り頬被りを取去って日々恥しい辛い思いを忍んで、おぢばへの百日の御参りを続行した。すると不思議なことには今までの病状は一掃して、元の美しい身体となることができた。人々は、あの女はライ病やなくてヒエ(梅毒)やったんかいな、と噂をする様になった。そして彼女は、再び西京の家に帰ったという」。
 「業果たし(その二)」。
 「若い婦人がしげしげと教祖のところへお参りして居りました。手拭で深く顔をつつみ、人目を憚るように、コソコソと歩いている姿には、どことなくうしろ暗いところがあるようでありました。或る日のこと、教祖は、お傍の人に仰言いました。『可哀想に。あの人は難病を患っています。しかし、あのように人目をさけて面を包んでいては果たされません。たとえ醜くとも人に見られて業が果たされるのです』と。これは教祖の逸話として話される難病婦人の話であります。ほんとにあった話しかどうかは知りません。今日ではむしろ作り話のような気もするのですが、難病者だといって、放置されていたその頃のことですから、或いは本当の話しかも知れません。難病のことですから、面を包んで歩いていたのでしょう。情として当然のことでしょうが、その婦人に対するお諭しであったようです。本当にあった話しかどうかは私には大した興味ではないのです。私にはこのお諭しになったお言葉と、人々の心づかいとについて考えてみたいのです。一体教祖は、この婦人に何をお諭しになったのでしょうか。婦人としては、人に見られて恥かしいと思ったには違いないでしょうが、人目から自分の恥かしさを隠そうとしたのでしょうか。それとも他人様に不快をあたえることを避けようとしたのでありましょうか。おそらく両方共の気持ちが、その婦人をして面をかくさせたのでしょうが、或いは、他人様に語れば、”不快な思いを他人様にさせたくないので”等と口を利いたかも知れません。又、教祖が、”包んでいてはたすからん”と仰言ったのは、何と悟ればよいのでしょうか。難病だから、他人から冷笑されて、因縁が果たせる等との、簡単な人間思案で解釈してよいのでありましょうか。人間の感情による恥をかかせるか否かによって”果せる”と、お教えになったのでありましょうか。私には、そんな悟りでは、このお話は割りきれないと思うのであります。単に人間思案同士の感情問題で話がすむとは思わないのであります。私はむしろ、”包んでおく””かくしておく”ということ、つまり、臭いものに蓋をするといったような、人間思案をたしなめられたのではないかと思うのです。成って来た現実の姿を、良いにしろ、悪いにしろ、正直に表に現わせ、常に素直で正直であれと教えていられると思うのであります」。
 昭和28年、業果たし(その三)」。
 「『おなご』というは業が深いものや、と母(註・中山玉恵さん、御母堂様)は時々申していました。『ご』と濁る点を強調しての話しでありますが、必ずしも女でなくとも男でも業の深さにかけては女におとらないものでしょう。私達は本能的に他人の批判から己を守ろうとする習性があるのではないでしょうか。何か齟齬(そご)を来たすと、その皺寄せは自分ではなくて他人の所為(せい)にしたくなるものです。『あの人がかくかくした』、『私はするだけのことはしました』等と言い訳するのが常であります。つまり、自分を守る上から、いけない所は、他にあったように、皺寄せをし勝ちなのであります。それでいて、その反面、他人様の思惑を気にするものであります。『そんな恰好では人前に出られない』とか、『そんなことをすれば他人様に笑われる』とかいう口実(?)や気苦労が如何にも人間社会の躾であるかのように考えられています。不都合の皺寄せを他人にきせたり、他人の思惑を慮(おもんばか)って行動したりすることが、人間の善良な躾でありましょうか。この点を、もう一度冷静に教理的に反省してみたいのであります。先にあげました難病婦人の場合、病んでいる姿をみるのは不愉快でありますし、見せるも不都合でありましょう。しかし、病いとて特別なものではなく手引きであり、不心得のお知らせであると教えられる教祖には、難病だから特にどうのというようなお考えはある筈がありません。仮にこの婦人のような例が本当にあり、教祖のお諭しも本当であったとしましても、それは難病という深い例を持って来て、一般の場合をお諭しになったに違いありません。他人に喜ばれる病いはありますまい。臭いものに蓋をしたいのが人間思案でありましょう。そんなことを考え、このお話しを耳にしますと、かかる例が本当にあったかどうかの穿鑿(せんさく。根掘り葉掘りほじくるように、さぐり調べること)よりも、常識じゃ、躾じゃなど申しています私達の習性も、もう一度教理的に反省してみたくなるのであります。
 ▽石灯籠の上に生えた苔のような信仰を

 「内々の処にて気に掛かる処よう思やんせよ。病んで果たす事情もある。火難盗難事情で果たすものもある」(明治24年3.4日)。
 「危ない事、微かな理で救かるは日々の理という」(明治26年4.29日)。

一名一人の理




(私論.私見)