「真実の心で日々通らしてもらわにゃいかん。真実やったら神様は必ず守って下さるで。神様に守ってもらっておれば日々は安心やで。なんでも守らしてもらう心になんなはれや。神様はきっと守って下さるで」。 |
「真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすことむずかしい、なれど真実なら神がうごかすで」。 |
「人を助けるのも真実、その真実に神が働くのや」。 |
「人が人を助けるのはむずかしい。なれど真実なれば神が助けさす」。 |
「真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心と言うても、その心にならなけりゃ何にもならんで」。 |
「日々通っている中に、我が身はまことやまことやと思うて通っていても、まことの中のほこりという道もあるで。よう思案して通らしてもらうのやで」。 |
「日々真実の心で通らしてもらえたなら、家々むつまじゅう暮らさせて頂くことができるのやで」。 |
「銘々我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や真実やと言うて通っていても、心に真実なくば何にもならん。目にも見えん、形にも現れんもの、心にその理なくば何にもならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで」。 |
概要「ひくい、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えるというは、人に喜んでもらう、人に助かってもらう道を通ることやで。この心で日々通れたら、どんな中でも連れて通るほどに」。 |
「人間はあざないものであるから、日々その心で通らしてもらわにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心遣いから、我が身さえ、我が身さえと思い、我が身さえよければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護頂けるはずはないで」。 |
「我が身どうなってもという心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てて、人の喜ぶよう、人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けてもらうことできるのやで」。 |
「親の言う通りせんで御守護頂けないと言うて日々通っている、そんなことで人に喜んでもらう、人にたすかってもらう道が通れるか、よう思案してみい。申し訳ないと思うたら、すぐに心入れ替えてつとめなはれや、御守護下さるで」。 |
概要「日々通る身上についての心の持ち方はなあ、人間は、いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで。いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで。いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや。その心遣いが自由用の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで」。 |
「親の声聞いたら、そのまま受ける心に神が働くのや。親の声聞いて、頼りないと思うたら、頼りなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに」。 |
「借りものという事は、神様からこんな結構な身体を借りているという事をよく心に治めることやで。これが分かれば、それでよいのや。よく心に治まれば、どうしてお礼をさせて頂こうかと思えてくるで。その思えてきた事を供えさせてもらうのや」。 |
「日々通る心の持ち方は、自分勝手な心遣い、気随気ままな心遣い、そんな心遣いでは御守護は頂けないで」、「気随気ままな心遣いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない。こんな事は分かっているやろ。ここのところ、よく思案してくれ」。 |
「日々に埃の心遣うて通るから御守護が頂けないのやで。人の心に嫌な思いをさせるのは何でもないように思うて通っているやろうが、それは人の心を殺して通っているのと同じこと、目に見えない埃を日々に積んでいったら、身上にもなろう、事情にもあらわれてこよう、みな我が身が苦しむことになるのやで」。 |
「日々通らしてもらうには、難しい事は何にもない。ただ真実の心で、借りものという理をしっかり心に治めて、ありがたい、結構やと言うて、思うて、明るい心で通ってくれ、神様が必ず御守護下さるで」。 |
「日々に、朝起き、正直、働き、この三つを心に置いて通らしてもらうのやで。結構な日々が通れるで。借りものという事分からねば、この道は通れないで」。 |
「神のこしらえた世界、人間である。神一条の道を通させたさ、陽気遊山を見たいゆえーー人間心で通る人間もあるーーー神の残念、親の心は助けたい一条やで。人間思案を捨てて、指図一つの理をもって通りたなら、身上事情で苦しむようなことはない」。 |
「親の心に添うて通る者、火の中水の中でも連れて通るほどに。人間心出すやない。もたれる心に神がはたらくのや、案じない」 |
明治17年10月11日、宮森与三郎。(願いの筋なし)。
「あゝもしたい、こうもしたいと思う心もあるやろ。その心を供えるのや。親のいうなり、するなりにして貰う心、それを素直という。何でもつとめると、いう心ひくいという。なんでもはいとうける心やさしいという。この三つ誠真実やで、誠真実なら何でも自由用という」。 |
|
逸話篇79「帰って来る子供」。
「教祖が、ある時、喜多治郎吉に、『多く寄り来る、帰って来る子供のその中に、荷作りして車に積んで持って行くような者もあるで。又、風呂敷包みにして背負って行く人もあるで。又、破れ風呂敷に一杯入れて提げて行く人もある。うちへかえるまでには、何にもなくなってしまう輩もあるで』、とお聞かせ下された」。 |
|
昭和8年11.5日号みちのとも「おやさまのことども」の柏木庫治「教祖と筋芋」より。
「或る日の事である。ざるにいっぱい盛られた蒸し芋が、おやつとして出された。お弟子たちの集まりは至極和やかである。芋ざるを中にして四方山の話を交しながら、一つ一つの芋は平らげられていった。途中から教祖様も一座の中に見えられた。談笑の中に、芋はざるの中から姿を消した。ところが小指のような細いヒョロ長い筋芋が二三本ざるの底に残されたあった。おや様は、その一つをお摘まみになってお弟子の前に御示しになり、『皆さん、筋芋は結局残されました。誰からも食べて貰えないのであります。正味のない筋だけでは、食べようにも食べられぬのであります。人間の筋言い、即ち理屈ばかりを言うて、正味のない‥、誠の少ない者は世の中から取り残されます。人が用いてくれません。あれでもない、これでもないと、筋ばかり言う者には正味がありません。お互いは筋芋にならない様に気をつけねばなりません』、とお諭しになった」。 |
|
諸井政一著「正文遺韻抄」(道友社発行)250-251p「子の出て来るのを」。
「教祖様がな、『この屋敷へ出て来る者は、無理に去(い)ねとは云わへんほどに。何事でも、我が家の事と思うてつとめたら、我が家の事になるで』、と仰った。又、『使い良い道具は、さいしき(彩色。美しく彩ること)に、さいしきをして、どうしてなりとも使うで。なれど、使い勝手の悪いものは、更(さら。手の加わっていないこと。未使用で新しいこと。また、そのもの)でも使えんで。どう仕様もない』、と聞かせられる。『何でも素直な心もって、神様の云う通りの道を守って神妙につとめにゃならん。親が尽くしておいたら、子の出て来るのを神が待っている。道に背いたら、親は子が出て来ても横向いている』、と仰る。よって、尽くした理は一代ぎりやない。子孫に伝えて末代の理や。よって、何でも真実を尽くさにゃならん」。 |
|