神の力、神の自由自在のお働きの理

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2)年.11.21日

(れんだいこのショートメッセージ)
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 2016.02.29日 れんだいこ拝


【神の力、神の自由自在のお働きの理】
 お道教義では、お助け人が神の思惑に叶う心遣い、行いを為すことにより神の自由自在のご守護が働き、願いが叶う、これが「助かりの理」となるとの諭しを為されている。「自由自在とは」、思うことが何でも実現するというようなものではなく、「成ってくる理」を喜び、それを楽しむ心、及びそれに伴う所作を云う。「誠」に立地することが自由自在の道である。「誠」は、「たんのう」で「成ってくる理」を楽しむことである。更に、「医者の手あまり」でも、誠真実の信仰への切り替えにより、「不思議が神の不思議な助け」により助けられる、「神の自由(じゅうよう)な働き」によって助けられる、と諭されている。

 御神楽歌、お筆先に次のように記されている。
 ようようここまで ついてきた 
 じつのたすけハ これからや
三下り目四ッ
 いつも笑われ そしられて
 珍し助けを するほどに
三下り目五ッ
 真実に 助け一条の 心なら
 何云わいでも しかと受け取る
三号38
 ほこりさい すきやかはろた 事ならば
 あとハめづらし 助けするぞや
三号98
 段々と 神の心と ゆうものわ
 不思議あらハし 助けせきこむ
三号104
 この道が 上へ通りた ことならば
 神の自由用 直ぐに現わす
四号115
 真実の 心を神が 受け取れば
 如何な自由(じゅうよぅ) してみせるでな
五号14
 月日より 自由自在を 真実に
 早く見せたい これが一条
七号50
 上たるの 心速やか 分かりたら
 月日自由よう 早くするのに
七号63
 どのような 助けするのも 真実の
 親がいるから 皆な引き受ける
七号101
 どのような 事をするのも 月日には
 助けたいとの 一条ばかりで
十二号78
 今までは 世界中は 一列に
 銘々(めいめい)思案を していれども
十二号89
 情けない どのように思案 したとても
 人を助ける 心ないので
十二号90
 これからは 月日頼みや 一列は
 心しっかり 入れ替えてくれ
十二号91
 この心 どういう事で あるならば
 世界助ける 一条ばかりを
十二号92
 この先は 世界中は 一列に
 よろづ互いに 助けするなら
十二号93
 月日には その心をば 受け取りて
 どんな助けも すると思えよ
十二号94

 教祖は次のようにお諭し為されている。
 「どうでも、人を助けたい、助かってもらいたい、という一心に取り直すなら、身上は鮮やかやで」。
 「親となれば、子供が可愛い。何でもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん」。
 「子供が、親の為に運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」。
 「直ぐに助けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて助けて下さるで」。
 「どんな辛いことや嫌なことでも、結構と思うてすれば、天に届く理。神様受け取りくださる理は、結構に代えてくださる」。
 「親に孝行は、銭金(ぜにかね)要らん。とかく按摩(あんま)で堪能させ」。
 「日々は喜んで通らしてもらうのやで」。
 「喜べないような日もあろう、喜びにかえて通らしてもらうのやで」。
 「真実の心で通らしてもらえれば喜べるのや。誠の心で通ってくれ」。
 「日々通らしてもらう心の使い方、持ち方、よう思案してくれ」。
 「この所八方の神が治まる所、天理王命という。ひだるい所へ飯(まま)食べたようにはいかんなれど、日日薄やいでくるほどに」。(教祖伝45p)
 「あんたあっちこっちとえらい遠廻りをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへおいでたら、みんなおいでになるのに」。(逸話篇10)
 「さあさあ待っていた待っていた。救けてやろ、救けてやるけれども、天理王命という神は初めての事なれば、誠にすることむつかしかろ」。()
 「神様は救けてやると仰るにつき案じてはいかん」。(教祖伝49p)
 「親は苦労の中、苦労とせず通ってきた、この理よく思案してくれ」
 (「教祖口伝」、明治19年12月20日、明治8年から約10年間の、側な者に対する教祖直々のお諭し)。
 「人に腹を立てさせて下さるな」。
 「心の使い方というても、我が身思案からの通り方、人に助かってもらう、喜んでもらう通り方があるのや。ちり一つ拾うても誠、大きな木を取り片づけても真実といえん場合もあるで。日々よう思案してくれ。誰でも通れることやで。心の持ち方、思い方が大事やで。心の思い方というても、人間はあざないものであるから、都合のいいように考え、または思い、我が身に都合の悪いことはそうはでけんと言うてしまう。そんなことでは道はつくはずがない。都合のいいことも悪いことも心一つに治めて通ってくれ。神様がきっと連れて通って下さるで、一つも心配いらんのやで」。
 「日々通る中にどんな中もあろう。難儀な中、難しい中、その成らん中を喜びにかえて通ってくれ。その中にご守護が頂けるのや。無理と思うてはいかんで。無理と思うのやないで。無理と思えば無理になってしまうで。心通りの御守護下さるのやから、さらさら思うやないで」。
 「喜びにかえて通っていく中に、ああ結構やった、有難かったと思える日が必ずあるのやで。その日を楽しみに通ってくれ。今の苦しみは先の楽しみやで。日々を喜んで通らしてもらいなはれや」。
 「日々通らしてもろうていても、いろいろ人の通る道はある。その中で神様によろこんでもらう道を通るのやで。神様によろこんでもらう道は真実だけや。真実というても、自分だけが真実やと思うていても何にもならん。真実とは、ひくい、やさしい、すなおな心をいうのや。自分でひくいと思うているうちはひくくはないで。やさしいというても、すなおというても同じこと、人にあの人は真実の人やといわれるまでの道を通るのやで」。
 「素直というてもなあ、人の心をひくような素直は何にもならん。神様によろこんでもらえるような素直というは、親の言うなりするなりにしてもらう心にならなけりゃいかんで。やさしいというても、口だけでは何にもならん。ハイと言うたらすぐ行ってこそやさしいのやで。そうして何でもつとめさしてもらう心をひくいと言うのやから、その心で日々通らにゃいかんで。口だけの真実やったら神様はなあ、よろこんで下さらんのやで」。
 「神様のお話をよく聞かしてもらうのやで。神様のお話とは親の声や。親の声というていい加減に聞いていてはならん。しっかり心に治めなはれや」。
 「真実の心というても、昨日も話をしておったのや、まるごとでなきゃいかんで。まるごととは全部や。一切を引き受けさせて頂きますという心や。庭の掃除一つさせて頂くのも自分我が身一人ひとりがさせてもらうのや。多数の人でやったら自分の徳にはならんで。だがなあ、徳を積ましてもらうという心はいかん。これは我が身のためやからなあ。何でも人のため、我が心は人のよろこぶよう、人のたすかるような道を通ればよいのやで。我が身のことは何にも考えんでもよいのや。これがまるごとの真実やで」。
 「親の心に添うと言うても、形だけやったらいかん、心を添わして頂くのやで。どんなに離れていても、心は親に通じるものやで。心を添わしてもらいなはれや」、「親々の心に添わしてもろうて日々通っていたら、身上事情で苦しむような事はないで。だが、いんねんなら通らにゃならん道もあろう。しかし親の心に添って通らしてもろうているのなら、何にも身上や事情やというて案じる事はないで。心倒さんように通りなはれや」。
 「親の声を聞いて、そのまま受ける心に神が働くのや。人間心で聞いて、あれやこれやと思案をする、なんぼ聞いても同じことやで。実を以て聞かにゃならん。親の声を聞いて、頼りないと思うたら頼りなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに」
 (「教祖口伝」、明治18年11月14日、明治8年から約10年間の、側な者に対する教祖直々のお諭し)。
 「真実の心で日々通らしてもらわにゃいかん。真実やったら神様は必ず守って下さるで。神様に守ってもらっておれば日々は安心やで。なんでも守らしてもらう心になんなはれや。神様はきっと守って下さるで」。
 「真実とは弱いもののように思うけれど、真実ほど強いものはないで。人が人を動かすことむずかしい、なれど真実なら神がうごかすで」。「人を助けるのも真実、その真実には神がはたらくのや」、「人が人を助けるのはむずかしい。なれど真実なれば神が助けさす」。 
 「真実の心とは、ひくい、やさしい、すなおな心を言うのやで。口でなんぼひくい、やさしい、すなおな心と言うても、その心にならなけりゃ何にもならんで」。「日々通っている中に、我が身はまことやまことやと思うて通っていても、まことの中のほこりという道もあるで。よう思案して通らしてもらうのやで」。「日々真実の心で通らしてもらえたなら、家々むつまじゅう暮らさせて頂くことが出来るのやで」。
 「銘々我が身一人がその心にならせてもらいなはれ。なんぼ真実や真実やと言うて通っていても、心に真実なくば何にもならん。目にも見えん、形にも現れんもの、心にその理なくば何にもならん。人の心にある真実は神が受け取って下さるのやで」。
 「ひくい、やさしい、素直な心、いくら自分がその心やと言うても、人に与えなけりゃわからん。人に与えるというは、人に喜んでもらう、人に助かってもらう道を通ることやで」、「この心で日々通れたら、どんな中でも連れて通るほどに」。
 「人間はあざないものであるから、日々その心で通らしてもらわにゃいかんと思いながらも、身びいき、身勝手な心遣いから、我が身さえ、我が身さえと思い、我が身さえよければ人はどうなってもというような日々を通ってしまう。それでは守護頂けるはずはないで」。
 「我が身どうなってもという心にならなけりゃ真実の心は生まれてこんのや。案じ心を捨てて、人の喜ぶよう、人の助かるような道を通りなはれや。人助けたら我が身助けてもらうことできるのやで」。
 「親の言う通りせんで御守護頂けないと言うて日々通っている、そんなことで人に喜んでもらう、人にたすかってもらう道が通れるか、よう思案してみい。申し訳ないと思うたら、すぐに心入れ替えてつとめなはれや、御守護下さるで」。
 「日々通る身上についての心の持ち方はなあ、人間は、いやなものを見ると、すぐにいややなあと思い、いやな事を聞くと、すぐにいややなあと思う。その心がいかんのやで。その時の心の使い方が大切なのやで」、「いやなものを見、いやなものを見せられた時、いややなあと思う前に、ああ見えてよかった、目が不自由でのうてよかった、ありがたい結構やと思うて通らしてもらうのやで」、「いやなこと聞いた時でも同じこと、何時の日、何時の時でもそういう心で通りなはれや」、「その心遣いが自由用の守護が頂ける道になるのやで、むずかしいことないで」。
 「親の声聞いたら、そのまま受ける心に神がはたらくのや。親の声聞いて、頼りないと思うたら、頼りなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう、神が連れて通るほどに」。
 「借りものという事は、神様からこんな結構な身体を借りているという事をよく心に治めることやで。これが分かれば、それでよいのや。よく心に治まれば、どうしてお礼をさせて頂こうかと思えてくるで。その思えてきた事を供えさせてもらうのや」。
 「日々通る心の持ち方は、自分勝手な心遣い、気随気ままな心遣い、そんな心遣いでは御守護は頂けないで」、「気随気ままな心遣いで日々通っていると、頂ける御守護も頂けない。こんな事は分かっているやろ。ここのところ、よく思案してくれ」。
 「日々に埃の心遣うて通るから御守護が頂けないのやで。人の心に嫌な思いをさせるのは何でもないように思うて通っているやろうが、それは人の心を殺して通っているのと同じこと、目に見えない埃を日々に積んでいったら、身上にもなろう、事情にもあらわれてこよう、みな我が身が苦しむことになるのやで」。
 「日々通らしてもらうには、難しい事は何にもない。ただ真実の心で、借りものという理をしっかり心に治めて、ありがたい、結構やと言うて、思うて、明るい心で通ってくれ、神様が必ず御守護下さるで」。
 「日々に、朝起き、正直、働き、この三つを心に置いて通らしてもらうのやで。結構な日々が通れるで。借りものという事分からねば、この道は通れないで」。
 「神のこしらえた世界、人間である。神一条の道を通させたさ、陽気遊山を見たいゆえーー人間心で通る人間もあるーーー神の残念、親の心は助けたい一条やで。人間思案を捨てて、指図一つの理をもって通りたなら、身上事情で苦しむようなことはない」。
 「親の心に添うて通る者、火の中水の中でも連れて通るほどに。人間心出すやない。もたれる心に神がはたらくのや、案じない」。
 「ある時、熊吉がおぢばへお詣りしたところ、教祖が孫の”たまへ”さまを背負うて、飯降伊蔵さんにお話しをしておられましたそうです。その話しというのは次のようなお話しであったと聞いています。『心あがれば心にごる。心にごれば神のはたらきがうすくなる。我より下はなきものと心定めてみよ』。俺は偉いと心を高うしてはいけません。人間が偉いのでなく、神様が後ろから力を添えて下さるから偉いのです。俺は偉いと思うと神さまのおはたらきがうすくなります。心は下へおかねばなりません。本席さまは、いつも心を下へおかれ、困っている人のことを考えて下されました。困っている人があると、自分の日々のものを”しまつ”して、それを包んで、困っている人の家へ、誰にも分らぬようにして運んで下されたのです。私の一家が豊田山の下にいたとき、いつも運んで下さいました」
 (「奥野道三郎氏の話(その三)、心あがれば」。元天理大学名誉教授の高野友治さんが個人的に発行していた「創象」第十号(昭和56.7発行・天理時報社)「先人の咄ー奥野道三郎氏から聞くー」より)。
 「私(永尾芳枝)が子供の頃、御教祖様(おやさま)は親しく次のようなお話を聞かせて下さったことがございます。『我が身のことは一切(いっせつ)思うな。我が身どうなっても構わぬ、人に喜ばすよう、人を大切にするような心にならなければいかんで。着物は箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)へ、一枚でも余計に入れておくようなことではいかんで。旬々のものさえあればそれでよい。旬々に着るもの無ければ、袷(あわせ)を単衣物(ひとえもの)、単衣物を袷にして通るような心にならなければいかんで』と仰せ下さいました」。
 (「我が身どうなっても 」、昭和6年2月「よのもと」第2号、永尾(飯降)芳枝「聞かせて頂いたまゝに」より)
 明治17年12月3日、山澤良治郎。(願いの筋なし)「親の心にそうて通るもの、火の中水の中でもつれて通る程に。人間心だすやない。もたれる心に神が働くのや。案じない」。
 明治18年2月4日、桝井伊三郎。(願いの筋なし)「自分の身どうなってもという心で親に添いきる心。この心で通りたなら十分の理、十分の理とは結構づくめやで」。
 「今日、米蒔いても今穫れぬ。後で穫れるのや。倒れてから突っ張りは要らぬ。『悪うなったら信仰する、かなわん時の神頼みや』などと言うが、倒れてから突っ張りは要らぬ。日頃、誠を尽すから大難は小難、小難ならば無難で通らせて頂けるのや。神様は、 『日頃の誠を受け取り、さあ、という時に踏ん張る』と仰る」。(「」)
  「借物(かりもの/身体)返す時には、息の根を切って(ひきとって)下さる。『家ならば、古くなったら再式(改装)。再式するより古くなる方が早いとなれば出直し(新築)さす。決して死なんで、出直しをさす』と仰る。『人は外出(そとで)へ行く時に、古い着物を脱いで、新しい着物と着替えて行くように、それと同じ事やで。年取った古い着物を返して、今度は生まれ子となって、新しい借物を借りて、またこの世へ出てくるのやで。なれど、恩に恩を着たら、堕ちるで』と仰る。『堕ちたら、容易に人間界へ出られん(戻れん)。これを「死んだ」と言うのや。恩に恩をきて、人間の道を切るから、道が切れて死ぬのや、堕ちるのや。神様は、それがいぢらしいから「理を聞き分けて、堕ちぬようにせよ」と仰る』。してみれば人間、生きている間だけが神の守護やない。死んでも生きても、神の守護に与(あずか)っているのや」。(「」、みちのとも大正7年4月号「高井先生お話の一節」高井猶吉)。
 「助けてやるけれども、天理王命と云う神は、初めてのことなれば、誠にする事むつかしやろ。神さんの仰る通りにさしてもろたら、きっと助けて下さるで。神さんのお供さしてもろうて、人助けに歩きなされ」。
 「世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の自由(じゅうよう)で、どんなにでも神が働く。案じる事は要らんで」。
 「助けて欲しいと願う人を助けに行く事が、一番のご恩返しやから、しっかりお助けをするように。あんたの助かったことを、人さんに真剣に話させていただくのやで」。
 「日々に人を助けさせて頂くことやで。口で人を助けると言うが、人を助けさせて頂くことは難しいことやで。はじめは人を助けさせて頂くのやと思うていても、日がたつにつれ守護が見えてくると、自分が助けてやるのだという心になってしまう。その心がいかんのや。自分が助けるのではない、神様が助けて下さるのやで。神様が助けて下さるというても、神様はなあ、助けさせてもらう者の心にお働き下さるのやで。助ける者は助けさせてもらう喜びを持つのや。これが恩返しになるのやで。人を助けさせてもらうことは神様への御礼にもなるで」。
 「お助けさせて頂くのに、常に神様のお供をさせて頂く心でなけりゃいかんで。自分が助けるのやないで、神様が助けて下さるのやから、その心忘れんようにしなはれや」、「人を助けさせてもらうには、我が身どうなってもという心にならにゃいかんで。我が身どうなってもという心が恩返しになるのやで。これは自分一人の道ではないで。末代までの道、末代に残す道をつけてくれ」。
 「人を助けさせて頂くというは、恩を返すことになるのやから、いつの日にも、いつの時にも、その心で通らにゃいかんで」、「親の声を聞かせてもろうて、その通りにつとめさせて頂くところに恩が返せていくのやで」
 「親の声をたよりないと思うていたら、神様はおはたらき下さらんで。神様がはたらいて下さらなかったら、日々は通れないのやで。案じ心を捨てて通りなはれや」
 「親の声きいて通っていたら、どんな中でも連れて通って下さるのや。こわいあぶない道はないで。神様が連れて通って下さるのやからなあ」。
 「人間心を捨てて我が身どうなってもという心で日々通らしてもらうことができるなら、どんな助けもして下さるで。それが真実のあらわれや、結構や」。
 「恩返しになる道、日々通らせてもろうてこそ結構にさせてもらうこと出来るのやで。いさんで通らにゃいかん」
 「人を助けさせて頂くには、真実の心になって、常にひくい、やさしい、すなおな心でお話をさせてもらうのやで。相手の心を助けさせてもらうのやで。かりものという理、こころに治まれば、治まっただけご守護頂けるのや。かりものという理、しっかり心に治めにゃいかんで」。
 「人をたすけさせて頂くには、日々の心遣いが大事やで。日々の心遣いによっては、たすけさせて頂くことが出来るような時にでも、たすけさせて頂くこと出来ないで。この理よう思案してくれ」、「たすけて頂く者も真実の心になって、お話を聞かせて頂いて、借りものという理をよく悟らせて頂くことやで。借りものという理、心に治まったら治まっただけ、御守護頂けるのやから、何も心配いらん」。
 「日々通らしてもらうには、人のあしきを言わぬよう、人のあしきを思わぬよう、人にあしきを思わせぬよう、この三つの心がけ大事やで。この心がけ一日に一回遣うても、三日の間さづけの理は止まるで」。
 「自分の身どうなってもという心で親に添い切る心、この心で通りたなら十分の理、十分の理とは結構づくめやで」。
 「取次に、理が分かりて、十が十ながら、神の心に叶うようになったなら、取次ぎに、みな何事も任せよう。そこで、やまいでも、なおる、なおらん、取次ぎの言うとおりに、守護する。そこで、世界から、話し医者と言うようになるで」。
 明治18年9月24日、(氏名なし)(願いの筋なし)。「親という理いたゞくなら、なによのことも受取るで。受け取る中に自由用と言う理があるのや」。
 明治18年11月14日、(氏名なし)(願いの筋なし)「親の声を聞いて、そのまゝ受ける心に神が働くのや。人間心で聞いてあれやこれやと思案する。なんぼ聞いても同じ事やで。実をもって聞かにゃならん。親の声を聞いてたよりないと思うたらたよりなくなる。親の声も神の声も同じことやで。案じなきよう神が連れて通る程に」。
 明治19年12月20日、(氏名なし)(願いの筋なし)「親は苦労の中、苦労とせずに通って来た。この理よく思案してくれ」。 
 20「女児出産」。
 慶応四年三月初旬、山中忠七がお屋敷で泊めて頂いて、その翌朝、教祖に朝の御挨拶を申し上げに出ると、教祖は、「忠七さん、昨晩あんたの宅で女の児が出産て、皆、あんたのかえりを待っているから、早よう去んでおやり」と、仰せになった。忠七は、未だそんなに早く生まれるとは思っていなかったので、昨夜もお屋敷で泊めてもらった程であったが、このお言葉を頂いて、「さようでございますか」と、申し上げたものの、半信半疑でいた。が、出産の知らせに来た息子の彦七に会うて、初めてその真実なることを知ると共に、尚その産児が女子であったので、今更の如く教祖のお言葉に恐れ入った。
 25「七十五日の断食」。
 明治五年、教祖七十五才の時、七十五日の断食の最中に、竜田の北にある東若井村の松尾市兵衞の宅へ、おたすけに赴かれた時のこと。教祖はお屋敷を御出発の時に、小さい盃に三杯の味醂と、生の茄子の輪切り三箇を、召し上がってから、「参りましょう」と、仰せられた。その時、「駕篭でお越し願います」と、申し上げると、「ためしやで」と、仰せられ、いとも足取り軽く歩まれた。かくて、松尾の家へ到着されると、涙を流さんばかりに喜んだ市兵衞夫婦は、断食中四里の道のりを歩いてお越し下された教祖のお疲れを思い、心からなる御馳走を拵えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、「えらい御馳走やな。おおきに。その心だけ食べて置くで。もう、これで満腹や。さあ、早ようこれをお下げ下され。その代わり、水と塩を持って来て置いて下され」と、仰せになった。市兵衞の妻ハルが、御馳走が気に入らないので仰せになるのか、と思って、お尋ねすると、「どれもこれも、わしの好きなものばかりや。とても、おいしそうに出来ている」と、仰せになった。それで、ハルは、「何一つ、手も付けて頂けず、水と塩とだけ出せ、と仰せられても、出来ません」と申し上げると、「わしは、今、神様の思召しによって、食を断っているのや。お腹は、いつも一杯や。お気持は、よう分かる。そしたら、どうや。あんたが箸を持って、わしに食べさしてくれんか」と、仰せられた。それで、ハルは、喜んでお膳を前に進め、お茶碗に御飯を入れ、「それでは、お上がり下さいませ。」 と、申し上げてから、箸に御飯を載せて、待っておられる教祖の方へ差し出そうとしたところ、どうした事か、膝がガクガクと揺れて、箸の上の御飯と茶碗を、一の膳の上に落としてしまった。ハルは、平身低頭お詫び申し上げて、ニコニコと微笑をたたえて見ておられる教祖の御前から、膳部を引き下げ、再び調えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、「御苦労さんな事や。また食べさせてくれはるのかいな」と、仰せになって、口をお開けになった。そこで、ハルが、再び茶碗を持ち、箸に御飯を載せて、お口の方へ持って行こうとしたところ、右手の、親指と人差指が、痛いような痙攣を起こして、箸と御飯を、教祖のお膝の上に落としてしまった。ハルは、全く身の縮む思いで、重ねての粗相をお詫び申し上げると、教祖は、「あんたのお心は有難いが、何遍しても同じ事や。神様が、お止めになったのや。さあ/\早く、膳部を皆お下げ下され」と、いたわりのお言葉を下された。

 こうして御滞在がつづいたが、この様子が伝わって、五日目頃、お屋敷から、こかん、飯降、櫟枝の与平の三人が迎えに来た。その時さらに、こかんから、食事を召し上がるようすすめると、教祖は、「おまえら、わしが勝手に食べぬように思うけれど、そうやないで。食べられぬのやで。そんなら、おまえ食べさせて見なされ」と、仰せられたので、こかんが、食べて頂こうとすると、箸が、跳んで行くように上へつり上がってしまったので、皆々成る程と感じ入った。こうして、断食は、ついにお帰りの日までつづいた。お帰りの時には、秀司が迎えに来て、市兵衞もお伴して、平等寺村の小東の家から、駕篭を借りて来て竜田までお召し願うたが、その時、「目眩いがする」と、仰せられたので、それからは、仰せのままにお歩き頂いた。「親神様が『駕篭に乗るのやないで。歩け』と、仰せになった」と、お聞かせ下された。
 61「廊下の下を」。
 明治十一年、上田民蔵十八才の時、母いそと共に、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。教祖が、「民蔵さん、私とおまはんと、どちらの力強いか、力比べしよう」と、仰せになり、教祖は、北の上段にお上がりになり、民蔵は、その下から、一、二、三のかけ声で、お手を握って、引っ張り合いをした。力一杯引っ張ったが、教祖は、ビクともなさらない。民蔵は、そのお力の強いのに、全く驚歎した。又、ある時、民蔵がお側へ伺うと、教祖が、「民蔵さん、あんた、今は大西から帰って来るが、先になったら、おなかはんも一しょに、この屋敷へ来ることになるのやで」と、お言葉を下された。民蔵は、「わしは百姓をしているし、子供もあるし、そんな事出来そうにもない」と思うたが、その後子供の身上から、家族揃うてお屋敷へお引き寄せ頂いた。又、ある時、母いそと共にお屋敷へ帰らせて頂いた時、教祖は、「民蔵はん、この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き来するようになるのやで」と、仰せられた。後年、お言葉が、次々と実現して来るのに、民蔵は、心から感じ入った、という。
 68「先は永いで」。
 堺の平野辰次郎は、明治七年、十九才の頃から病弱となり、六年間、麩を常食として暮らしていた。ところが、明治十二年、二十四才の時、山本多三郎からにをいがかかり、神様のお話を聞かして頂いたその日から、麩の常食をやめて、一時に鰯を三十匹も食べられる、という不思議な御守護を頂いた。その喜びにおぢばへ帰り、蒸風呂にも入れて頂き、取次からお話を聞かせて頂き、家にかえってからは、早速、神様を祀らせて頂いて、熱心ににをいがけ・おたすけに励むようになった。こうして、度々おぢばへ帰らせて頂いているうちに、ある日、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖が、「堺の平野辰次郎というのは、おまえかえ」と、仰せになって、自分の手を差し出して、「私の手を握ってみなされ」と、仰せになるので、恐る恐る御手を握ると、「それだけの力かえ。もっと力を入れてみなされ」と、仰せになった。それで、力一杯握ったが、教祖が、それ以上の力で握り返されるので、全く恐れ入って、教祖の偉大さをしみじみと感銘した。その時、教祖は、「年はいくつか。ようついて来たなあ。先は永いで。どんな事があっても、愛想つかさず信心しなされ。先は結構やで」と、お言葉を下された。
 70「麦かち」。
 お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、教祖がお出ましになって、「私も手伝いましょう」と、仰せになって、よくお手伝い下された。麦かちの時に使う麦の穂を打つ柄棹には、大小二種類の道具があり、大きい方は「柄ガチ」と言って、打つ方と柄の長さがほぼ同じで、これは大きくて重いので、余程力がないと使えない。が、教祖は、高齢になられても、この「柄ガチ」を持って、若い者と同じように、達者にお仕事をして下された。明治十二、三年頃の初夏のこと。ある日、カンカンと照りつけるお日様の下で、高井や宮森などが、汗ばみながら麦かちをしていると、教祖も出て来られて、手拭を姉さん冠りにして、皆と一しょに麦かちをなされた。ところが、どうしても八十を越えられたとは思えぬ元気さで仕事をなさるので、皆の者は、若い者と少しも変わらぬお仕事振りに、感歎の思いをこめて拝見した、という。
 75「これが天理や」。
 明治十二年秋、大阪の本田に住む中川文吉が、突然眼病にかかり、失明せんばかりの重態となった。隣家に住む井筒梅治郎は、早速おたすけにかかり、三日三夜のうちに、鮮やかな御守護を頂いた。翌十三年のある日、中川文吉は、お礼詣りにお屋敷へ帰らせて頂いた。教祖は、中川にお会いになって、「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べをしましょう」と、仰せになった。日頃力自慢で、素人相撲の一つもやっていた中川は、このお言葉に一寸苦笑を禁じ得なかったが、拒む訳にもいかず、逞ましい両腕を差し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中川の右手で、御自身の左手首を力限り握り締めるように、と仰せられた。そこで、中川は、仰せ通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、不思議な事には、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛さを感じたので、思わず、「堪忍して下さい」と、叫んだ。この時、教祖は、「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか」と、仰せられた。
 76「牡丹の花盛り」。
 井筒たねが父から聞いた話。井筒梅治郎は、教祖が、いつも台の上に、ジッとお坐りになっているので、御退屈ではあろうまいか、とお察し申し、どこかへ御案内しようと思って、「さぞ御退屈でございましょう」と、申し上げると、教祖は、「ここへ、一寸顔をつけてごらん」と、仰せになって、御自分の片袖を差し出された。それで、梅治郎がその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りであった。ちょうど、それは牡丹の花の季節であったので、梅治郎は、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と思って、恐れ入った。
 80「あんた方二人で」。
 明治十三、四年、山沢為造が二十四、五才の頃。兄の良蔵と二人で、お屋敷へ帰って来ると、当時、つとめ場所の上段の間にお坐りになっていた教祖は、「わしは下へ落ちてもよいから、あんた方二人で、わしを引っ張り下ろしてごらん」と、仰せになって、両手を差し出された。そこで、二人は、畏れ多く思いながらも、仰せのまにまに、右と左から片方ずつ教祖のお手を引っ張った。しかし、教祖は、キチンとお坐りになったまま、ビクともなさらない。それどころか、強く引っ張れば引っ張る程、二人の手が、教祖の方へ引き寄せられた。二人は、今更のように、「人間業ではないなあ。成る程、教祖は神のやしろに坐します」と、心に深く感銘した。
 81「さあお上がり」。
 上原佐助は、伯父佐吉夫婦、妹イシと共に、明治十四年五月十四日(陰暦四月十七日)おぢば帰りをして、幸いにも教祖にお目通りさせて頂いた。教祖は、大層お喜び下され、筍と小芋と牛蒡のお煮しめを、御手ずから小皿に盛り分けて下され、更に、月日に雲を描いたお盃に、お神酒を注いで下され、「さあ、お上がり」と、おすすめ下された。この時、佐助は、三十代の血気盛りであった。教祖は、いろいろとお話し下されて後、スッとお手を差し伸べられ、佐助の両手首をお握りになって、「振りほどくように」と、仰せられたが、佐助は、全身がしびれるような思いがして、ただ、「恐れ入りました」と、平伏するばかりであった。妹のイシ(註、後に辻川イシ)が、後年の思い出話に、「その厳かな有様は、とても口には言えません。ハッとして、思わず頭が下がりました」と、語っている。この時、教祖の温かい親心とお力を、ありありとお見せ頂いて、佐助は、いよいよたすけ一条に進ませて頂こうとの、確固たる信仰を抱くようになった。
 82「ヨイショ」。
 明治十四年、おぢばの東、滝本の村から、かんろだいの石出しが行われた。この石出しは、山から山の麓までは、真明組の井筒梅治郎、山の麓からお屋敷までは、明心組の梅谷四郎兵衞が、御命を頂いていたというが、その時、ちょうど、お屋敷に滞在中の兵庫真明組の上田藤吉以下十数名の一行は、布留からお屋敷までの石引きに参加させて頂いた。その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖が、お居間からお出ましになって、「ヨイショ」と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーッと入ってしまった。一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激した、という。
 93「八町四方」。
 ある時、教祖は、中南の門屋にあったお居間の南の窓から、竹薮や田圃ばかりの続く外の景色を眺めておられたが、ふと、側の人々に向かい、「今に、ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで。奈良、初瀬七里の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に。屋敷の中は、八町四方と成るのやで」と、仰せられた。

 註 「おさしづ」に、
 小さい事思てはならん。年限だん/\重なれば、八町四方に成る事分からん。      (明治二七・一一・一七)
 年限々々、これまで存命の間経ち来たと言う。一里四方宿屋もせにゃならんと言う。一里四方も未だ狭いなあ、とも言うてある。
       (明治二六・二・六 刻限)
 97「 煙草畑」。
 ある時、教祖は、和泉国の村上幸三郎に、「幻を見せてやろう」と、仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が、見えるようになされた。幸三郎が、仰せ通り、袖の内側をのぞくと、そこには、我が家の煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えた。それで幸三郎は、お屋敷から自分の村へもどると、早速煙草畑へ行ってみた。すると、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていた。それを見て、幸三郎は、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏した。というのは、おたすけに専念する余り、田畑の仕事は、作男にまかせきりだった。まかされた作男は、精一杯煙草作りに励み、その、よく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたが、おたすけに精進する余り、一度も見に行く暇とてはなかった。が、気にかからない筈はなく、いつも心の片隅に、煙草畑が気がかりになっていた。そういう中からおぢばへ帰らせて頂いた時のことだったのである。幸三郎は、親神様の自由自在の御働きと、子供をおいたわり下さる親心に、今更のように深く感激した。
 お指図は次の通り。
 「たんのうが誠。心に誠さい定めば、自由自在と言うておこう」(明治21年5月、補遺)。
 「自由自在は、何処にあると思うな。めんめんの心、常々に誠あるのが、自由自在という」(明治21.12.7日)。
 「人間心の事情要らん。すっきり人間心要らん。これから先は人間心すっきり要らん。もうこれから神一条という道を立てにゃならん。立てさせにゃならん。立てさして見せる。成るも一つの理、成らんも一つの理と云うは前々に諭してある。指図通りに通るなら働き掛ける。どんな事も指図一つの理を以ってするなら、どんな事も神一条の道を通るなら、通してみせる」(明治22.10.23日)
 「精神の理によって働かそう。精神一つの理によつて、一人万人に向か う。神は心に乗りて働く。心さえしつかりすれば、神が自由自在に心に 乗りて働く程に」。(明治31.10.2)
 「我が身捨てゝも構わん。身を捨てゝもという精神持って働くなら、神が働く、という理を、精神一つの理に授けよう」。(明治32.11.3) 
 「 我が身捨てゝも構わん。身を捨てゝもという精神持って働くなら、神が働く、という理を、精神一つの理に授けよう」(明治32.11.3日)。
 「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という」(おかきさげ)。
 「これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、面々事情の理に治め」(おかきさげ)。
 「自分に由って、自分に在る」(随処に主となれば立処皆真なり、臨済録)。

【真実の心さえ持っていたら与えは神の自由で、どんなにでも神が働く】
 大和国永原村の岡本重治郎の長男善六と、その妻シナとの間には、7人の子供が授かったが、無事成人させて頂いたのは、長男榮太郎と末女カンの二人で、その間の5人は、あるいは夭折したり流産したりであった。明治12年に、長男榮太郎の熱病をお救け頂いて、善六夫婦の信心は大きく成人したのであったが、同14年8月ごろになってシナにとって一つの難問が出て来た。それは、永原村から約1里ある小路村で6町歩の田地を持つ農家、今田太郎兵衛の家から使いが来て、「長男が生まれましたが、乳が少しも出ないので困っています。何とか預かって世話してもらえますまいか。無理な願いではございますが、まげて承知して頂きたい」との口上である。その頃、あいにくシナの乳は出なくなっていたので、早速引き受けるわけにもゆかず、「お気の毒ですが引き受けるわけには参りません」と断った。しかし、「そこをどうしても」と言うので、思案に余ったシナは、「それなら教祖にお伺いしてから」と返事して、直ぐ様お屋敷へ向かった。

 そして、教祖にお目にかかって、お伺いすると、「金が何んぼあっても、又、米倉に米を何んぼ積み上げていても直ぐには子供に与えられん。人の子を預かって育ててやる程の大きな助けはない」と仰せになった。この時、シナは、「よく分かりました。けれども私はもう乳が出ないようになっておりますが、それでもお世話できましょうか」と押して伺うと、教祖は、「世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の自由で、どんなにでも神が働く。案じることは要らんで」とのお言葉であった。これを承って、シナは、神様におもたれする心を定め、「お世話さして頂く」と先方へ返事した。 

 すると早速、小路村から子供を連れて来たが、その子を見て驚いた。8ヶ月の月足らずで生まれて、それまで、重湯や砂糖水でようやく育てられていたためか、生まれて百日余りにもなるというのに、やせ衰えて泣く力もなく、かすかにヒイヒイと声を出していた。シナが抱き取って、乳を飲まそうとするが、乳は急に出るものではない。子供は癇を立てて乳首をかむというような事で、この先どうなる事かと、一時は心配した。が、そうしているうちに、2、3日経つと、不思議と乳が出るようになって来た。そのお蔭で、預かり児は、見る見るうちに元気になり、引き続いて順調に育った。その後、シナが、丸々と太った預かり児を連れて、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、その児をお抱き上げ下されて、「シナはん、善い事をしなはったなあ」とおねぎらい下された。シナは、教祖のお言葉にしたがって通るところに、親神様様の自由自在をお見せ頂けるのだ、ということを、身に沁みて体験した。シナ26才の時のことである。

【神の自由(じゅうよう)、願えば叶うように神が働く】
 「人の子を預かって育ててやるほどの大きな助けはない。世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の自由(じゅうよう)で、どんなにでも神が働く」。

【真実なら神が受け取る】
 桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は、夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、50町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖にお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお救けくださいませ。」と、お願いすると、教祖は、「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救からんで」と仰せになった。

 これを承って、他ならぬ教祖の仰せであるから、伊三郎は、「さようでございますか。」と言って、そのまま御前を引き下がって、家へ帰ってきた。が、家へついて、目の前に、病気で苦しんでいる母親の姿を見ていると、心が変わって来て、「ああ、どうでも救けてもらいたいなあ。」という気持ちで一杯になって来た。それで、再びお屋敷へ帰って、「どうかお願いです。ならん中を救けて頂きとうございます。」と願うと、教祖は、重ねて、「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん」と、仰せになった。

 教祖に、こう仰せ頂くと、伊三郎は、「ああやむをえない」と、その時は得心した。が、家にもどって、苦しみ悩んでいる母親の姿を見た時、子供としてジッとしていられなくなった。又、トボトボと50町の道のりを歩いて、お屋敷へ着いた時には、もう夜になっていた。教祖は、もう、お寝みになった、と、聞いたのに、更にお願いした。「ならん中でございましょうが、何とか、お救け頂きとうございます。」と。

 すると、教祖は、「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る」と、仰せ下された。この有り難いお言葉を頂戴して、キクは、救からん命を救けて頂き、88才まで長命させて頂いた。

【天に届く理】
 教祖は明治17.3.24日から4.5日まで奈良監獄所へご苦労下された。その間忠三郎は獄吏から便所掃除を命ぜられた。忠三郎が掃除を終えて教祖の御前に戻ると教祖は、「鴻田はん、こんな所へ連れてきて便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ」とお尋ね下されたので、「何をさせて頂いても神様の御用向きを勤めさせていただくと思えば、実に結構でございます」と申し上げると、教祖は次のように仰せられた。
 「そうそう、どんな辛いことや嫌な事でも結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれどもえらい仕事、しんどい仕事をなんぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足不足でしては、天にとどく理は不足になるのやで」。

【神の働き】
 「奥野道三郎氏の話(その七)、恩を忘れぬのも」。
 「『喧嘩の腰押し、神はきらい』。人と人とが喧嘩をしないようにつとめることが第一」。
 祖父の伊平が、巡査が、教祖を荒々しく扱うているのを見て、教祖の御苦労を少なくさしてもらうために、巡査と戦ってやろうかと思ったこともあったといいます。その後で、教祖にお会いしたとき、教祖は『時の天下に、日の奉行やで』と仰せられたと聞かしてもらいます。
 『神は土地処の”しん”に乗ってはたらく』。
 『神がこわいので、この世がおさまる』。
 あるとき、奥野氏の話に、「十年で化ける人もあり、二十年で化ける人もある。”とめ”を知らんからや」と言った。それで私(高野)が、「”とめ”とは何ですか」と訊くと、「教祖おおせには、弟が兄に無理をいうたら言わしておけ、神がゆるさん、とおっしゃった。だが、兄だから弟に無理をしてよいのではない。兄が兄だといって、弟をいじめたら神さんがゆるさん、とおっしゃった。それが”とめ”や」と言った。






(私論.私見)